「これは『顔文字』なのか? 『誤植』なのか?」
今から150年ほど前(1862)、ニューヨーク・タイムズ紙が掲載した「リンカーンのスピーチの写し」には、「;)」が含まれていた。
顔を横に傾けて見ると、その誤植ともとれる記号は「ウインクして笑っている」ように見えた。
この頃、コンピューターはまだ登場以前、「タイプライターの時代」であった。
それから50年後(1921)、アメリカの作家「アンブローズ・ビアス」は、高笑いとの記号として「 \___/! "」を提唱(これは「笑っている口」を表している)。
そして今から30年前(1982)、アメリカIBM社の「スコット・ファールマン」教授は、「 :-) 」という文字列を「冗談の印(笑い)」として記した。また、「 :-(」は「怒り」を表していた。
ところ変わり日本では、最古の顔文字として「(^_^)」が若林泰志氏により投稿されている(1986)。
なるほど、コンピューターの黎明期(もしくはタイプライタの時代)から、人はすでに文字を「絵」として扱っている。
そして、それはすでに日米の文化的違いをも端的に表している。具体的には、アメリカの顔文字が「口の形」で感情を表しているのに対して、日本人は「目の形」でそうすることを好む。
社会心理学者・結城雅樹(北海道大学)氏の日米で行った実験によれば、「他者の感情を表情から判断するとき、アメリカ人は『口の形』を、日本人は他者の『目の形』を主な手がかりとすること」が実証されている。
◎顔文字
欧米型の顔文字は「スマイリー(smily)」または「エモーティコン(emoticon)」と呼ばれる(エモーティコンというのは「emotion(感情)」と「icon(記号)」の混成語)。
そして、それはなぜか「横倒し」になっている。
笑顔 :-)
悲しみ :-(
冗談(舌を出している) :-P
驚き :-O
欧米の場合、アルファベットや記号などの「1バイト文字」しか使えないが、日本の場合は、ひらがなや漢字といった「全角文字(2バイト)」も使えるため、そのバリエーションは豊富で感情豊かである。
笑い (^▽^)
喜び ヽ(´▽`)ノ♪
怒り (#`Д´)
泣き (T_T)
落胆 _| ̄|○
驚き Σ(@Д@)
謝罪 m(_ _)m
別れ (*・ω・)ノ~~~
確かに欧米型の目がいつも「:」なのに対して、日本型の目はクルクルと変化している。しかも「横倒し」ではない。
さらには、文字も効果的に付与される。
笑い (・∀・)ニヤニヤ
喜び キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!
怯え (((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
余裕 ( ´_ゝ`)フーン
◎アスキー・アート
そして顔文字が「複数行」に幅を広げると、「アート」になった。
ギコ猫
∧ ∧
(,,゚Д゚)
モナー
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< オマエモナー
( ) \_____
│ │ │
(__)_)
みかん箱
____ ∧ ∧
|\ /(´〜`)\
| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| |=みかん=|
\|_____|
これらは「アスキー(ASCII)」という文字コードを用いて始められたことから「アスキー・アート(AA)」とも呼ばれる。
だがもちろん、日本人はそれら半角文字(1バイト)ばかりでなく、得意の「全角文字(2バイト)」を使うことにも長けている。
◎スタンプ
絵文字の感情表現からはじまりイラストまで、日本型の文化は、どうしても「感情」を表現せずにはいられないようである。
おそらくそうした素地が「スタンプ」を日本が大流行させたのであろう。その立役者となったのは、韓国のネット大手NHNが開発した「LINE(ライン)」というスマホ向けのアプリ。
「スタンプ」というのは、漫画のようなキャラクター画像である。
マンガやキャラクターの文化は日本に根深いことから、アプリLINEの「スタンプ」にはお馴染みの顔がズラリと並ぶ。ドラえもんやキティちゃん、アンパンマンはもちろん、リラックマやくまモンなども。
こうしたスタンプの表情豊かなキャラたちが、言葉にできない感情までをも文字メッセージに添えてくれる。
先日の「ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)」には、アメリカでこれらスタンプが「人気拡大」とあった。
「学生のターニャ・シチンスキーさん(19歳)は、『疲れている』と友人に伝えたい時は、もうテキスト(文字)を使わない。『ニコニコしながらマグカップを持っているネコ』のイラスト画像をスマホから送る(WSJ)」
「子供もち、在宅で仕事をするキリン・ブラウンさん(23歳)は、夕食作りに失敗すると、スマホで『炎の上がったオーブンから逃げる女の子』のイラスト画像を母親に送る(WSJ)」
「現代においては、テキスト(文字)メッセージだけでは、『考えや感情』を伝えるには十分でないようだ(WSJ)」
「今や『複雑な感情』を伝えるのに、文章を書く必要はない。『あどけない目をした子犬』や、『満足気な顔をしたウサギ』などの小さなイラスト画像で表現すれば済む(WSJ)」
アプリ「LINE(ライン)」の処理するスタンプは、いまや7億を超えており、先月(4月)の2億5,000万から急増中だという(約3倍増)。
◎数千の言葉
「一つのスタンプは『数千の言葉』に値する」
交流サイト「Path(パス)のCEOデーブ・モリン氏は、そう語る。
Facebook(フェイスブック)も、昨今のトレンドにならって「独自のスタンプ」を開発しているという。ちなみに、CEOマーク・ザッカーバーグ氏は「親指を上に向けたイラスト」、すなわち「いいね!マーク」の大きくしたアイコンを「プロジェクト承認」の合図にしているという。
Facebookのスタンプ開発を手助けした心理学のダッチャー・ケルトナー教授(米カリフォルニア大学)は、
「スタンプは人間の『記号好きな心理』をついている」と指摘する。
「われわれは『超記号的な種族』である。テキスト(文字)的なコミュニケーションは『直列』だが、人間的なコミュニケーションは『並列』だ」とケルトナー教授は語る。
ケルトナー教授の言う通り、文字は「順序よく」並べないと意味をなさない、もしくは誤解を生んでしまう、いわば「直列的」である。
それに対して、スタンプなどの画像は順序よく並んでいなくとも、それなりの意味は生まれてくる。いわゆる「百聞は一見にしかず」といったものであろう。
「大衆文化は『視覚化』しているので、スタンプなどを使用することで、より視覚的になっていることは意外ではない」
言語学のナオミ・バロン教授(アメリカン大学)は、そう言う。
「われわれは以前よりも、はるかに『図形文化的』になっている」
絵文字やスタンプに慣れた世代は、「テキスト(文字)ばかり」の味気ないメッセージを「退屈だ」と感じるようである。
人によっては文字だけだと「冷たい」とも感じるようで、そこに「絵」を加えることで「暖かみ」を添えるのである(^ω^;)。
「人はよくテキスト(文字)を読み誤る。でも、『ハートを持ったかわいらしいウサギ』なら、誤解を招く余地はほとんどない」と、スタンプ愛用者のブラウンさんは話す。
◎オノマトペ
日本語には「オノマトペ(擬音語)」と呼ばれる言葉がある。
これは「絵」ではないが、マンガなどでもよく見られる「ぐぉーっ」や「べちゃ」、「ドッカ〜ン」など、文字による「絵的な表現」だ(日本語には約5,000語があると言われている)。
そのオノマトペが、今の日本で「急増」しているという。
たとえば、コンビニの商品に「もちもち」というオノマトペをくっつけると、売り上げが「5倍に増える」というデータがあるそうだ。その結果、コンビニの棚には「もちもち」であふれかえっている。
大手コンビニチェーンの担当者いわく、「ふんわりとか、サクッとしていない商品は、たいてい『もちもち』ですね」。
こうした「美味しさ」を表す言葉は、時代によって変遷するようで、かつて人気を博した「コシのある」や「舌ざわりのよい」という言葉の人気は急落。
いまは「もちもち」「もっちり」の時代だそうだ(BMFT「おいしいを感じる言葉2012」)。
「スポーツ」の世界でも、オノマトペが脚光を浴びているという。
「『ずいずい』行くなよ、『ぐいっ』とだ!」
そう指導するのは、福島大学の陸上部、川上和久監督。
「なんか『ぽんぽん』跳んでるじゃん。『ぐいぐい』だよ、もっと『ぐいっ』と!」
もし「ぐい」という言葉を使わずに、同じイメージを説明するとしたら
「足首を曲げて、ヒザを下に向けて、そして今度は自分の重心を前にやった時に逆のヒザを引き上げて、それを地面と水平になるように…」
と、長たらしくなって、結局イメージは伝わらなくなってしまう、と川上監督は言う。
陸上の「理論」はこの10年で「頭がくらくらする」ほどに複雑化してしまっているそうだ。
その結果、監督がチェックしなければならない動きのポイントが「30倍」まで増えてしまい、もはや「普通の言葉」では選手にそれが伝わらなくなってしまった、と川上監督は言う。
そして至った言葉が、「ぐいっ」といった「オノマトペ(擬音語)」だったという。つまり、川上監督は複雑怪奇な理論をグルっと一周して、じつにシンプルな表現に落ち着いたのであった。
だが問題はあった。
監督の言う「ぐい」と、選手の感じる「ぐい」のイメージ(感覚)が同じとは限らない。
その食い違う両者のイメージを近づけるため、選手は自分の「ぐい」と監督の言う「ぐい」のイメージを擦り合わせる必要がある。つまり「イメージの共有化」を図らなければならない。
ただ、それが出来たときには、数千の言葉に優る「ぐい」にもなるのであった。
◎言葉とイメージ
絵文字やスタンプは、その「形やイラスト」に自身の感情を託す。
そしてオノマトペ(擬音語)は、脳裏に浮かぶイメージ、または感情を「言葉」に還元しようとする。
「たとえば、『ズンズン』と言えば、単に急いでいるだけではなく、かなり気持ちが高ぶっているような『大胆なイメージ』になる」と、慶応大学の今井むつみ教授は言う。
「すたすた」とも違うイメージが確かに「ズンズン」にはある。ともに歩く行為を言葉にしているのだが、それぞれの喚起するイメージは明らかに異なる。
人の感情は時として言葉にならない。そして、それを無理に言葉にしようとすると、人それぞれに表現が異なってしまう。
たとえば、ある女性は「それまで漠然と感じていた言葉にできない不安」を「むにょむにょ」と表現した。
「頭の中が『むにょむにょ』するときがあって…」
そうした患者の話を聞く田中恒彦さん(滋賀医科大学附属病院)は、こう話す。
「『ザザッ』ていう不安と『もわーん』という不安もあれば、『ゾゾッ』という不安もあります」
一人でいると孤独感が募るという男性は、その時「シャワーを浴びたように、頭の中が『ワーッ』となる、と表現したという。
社会が複雑さを増せば、人々が心に感じる不安や感情も、ますます複雑にならざるを得ないようである。
ただ、それを「適切な言葉」で表現できた時、人は楽になれるのだ、と医師・田中さんは言う。
言葉にならなかった不安を「むにょむにょ」という言葉にした女性は、その表現のおかげで、そのむにょむにょな不安をコントロールできるようになったと話す。
「『むにょむにょ』した感覚の中に入っていって、そこでじーっとしていたら、だんだん『むにょむにょ』が消えていったんです」
◎情の言葉
人の脳は、イメージを感じた時に、その働きが「総動員」されるという。それは絵文字やスタンプ然り、オノマトペ(擬音語)然りである。
すなわち、それらイメージにはそれだけの「膨大な情報量」が含まれている、ということである。まさに、スタンプ一個が、擬音語一つが「数千の言葉」に匹敵するのである。
だが、そこに「誤解」がないわけではない。
「ぐい」一つにも、多様なイメージが喚起され、「むにょむにょ」一つにしろ、肯定的から否定的なイメージまでが含まれるのである。
「感情の世界」はかくも広大無辺であり、多種多様である。逆に、その世界が「言葉だけ」に収まると考える方が不自然である。
この点、絵文字もスタンプもオノマトペも、絶対的に不足する「言葉」の世界を拡張してくれるものであろう。
論理的な言葉が「知」の分野を担当するとすれば、絵的イメージ的な表現は「情の言葉」である。
「日本民族は『知』が不得手である。その代わりに『情』を大切にせよ。日本民族は人類の中でもとりわけ『情の民族』だ」
そう言ったのは、偉大な数学者「岡潔(おか・きよし)」氏である。
数学という「知」の世界の最前線、岡氏はフランスで「幾何・代数・解析が三位一体となった『美しい理論』」を見事に展開してみせた。
その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の世界ではそれが「たった一人の数学者」によるものだとは到底信じられず、長らく「岡潔」というのは有能な数学者集団のペンネームかと思われていたそうだ。
岡氏に言わせれば、理論の「美しさ」は「情」である。
「真善美」において、真は「知」に、善は「意」、美には「情」が対応すると岡氏は考えていた。
数学者としての岡潔は、まさにその「情」をもって数学的「知の世界」を説明してみせたのであった。
◎無分別の「情」
「純粋な日本人」ともいわれる岡潔氏。
「知」が分別、すなわち分離を促すとすれば、「情」は無分別、すなわち統合をもたらすと彼は言っている。
仏教的な考え方でいえば、自分と他人を隔てる分別が「無明」、すなわち苦しみを生みだす元となる。
仏教者でもあった岡氏は、西欧の分離的な「合理主義・物質主義」によって、「情の民族」であった日本人が「無明」に位置してしまった、と嘆いている。
論理的な言葉は一見わかりやすいものの、その鋭さによって物事のイメージは切り裂かれてしまっている。
一方、情の言葉は「説明をしたがらない」。
「落語家が説明してたら、おしめぇだ」と3代目三遊亭圓歌氏は自嘲する。
ノーベル賞文学賞の大江健三郎氏は、「芸術家がやってはならないこと。それは説明です」と言っている。
彼ら芸術家たちは、感情を表現しようとする人々。
その彼らは言葉を用いながらも、説明的な「知の要素」は極力抑えようとしているのである。
そして、日本人の得手とする「情」を全面に押し出そうと努めているのであった。
◎知と情
「コンピューターという世界」は、まったく論理的な世界であり、それは「言葉の世界」も同様である。
コンピューターの言葉は、一文字の間違いも許さない。すぐに「誤解」してエラーを表示する。よりルーズな人間の言葉でさえ、ケルトナー教授の言う通り「直列」であり、その順序がなによりも重んじられる。
そんな「知の世界」に割り入ってきた絵文字、そしてスタンプ。
それらはまさに「情」。日本人が世界に先駆けて、それらを好んで用い始めたのは、日本人が岡潔氏の言う通り「情の民族」だからであろうか。
そして今や、欧米社会もそれを盛んに取り入れているのである。「分別」を何より好む彼らまでが。
だが面白いことに、絵文字「 :-) 」の生みの親ともされるスコット・ファールマン氏は、こうした状況に肯定的ではない。
「ときどき自分が『フランケンシュタイン博士』のように感じる」
「自分が生み出した生き物は、当初は害のないものだった。だが今や、自分が許可していないところにまで行ってしまった」と。
自ら生み出した「エモーティコン(感情記号)」に感情的になっているファールマン氏。今の彼は、首をかしげた「 :-(」である。
彼は世界的に大流行するスタンプを「醜い絵文字の大型版だ」とまで蔑む。
どうやら、典型的な欧米人「知の人」であるファールマン氏にとって、あまりに感情的になりすぎた世界は、どこか住みづらさがあるようだ。
◎統合と分離
一方、潜在的に「統合思考」のある東洋の島国に、そうした懸念は一切ない。
ネットで「もふもふ」と言われる言葉は、ただの「ふわふわ」とは異なり、より暖かみと厚みを感じさせる。こうした言葉は、日本語のシステムから無限に生み出すことができる。
「やっぱり日本語っていのが、『情感』を尊ぶ言葉であるということなんじゃないでしょうか」と、明治大学の小野正弘教授は話す。
「伝統的な美意識を表す『あわれ』に『おかし』、『わび』『さび』、全部が情感的な言葉なんです」
ただやはり、「情」ばかりでは言葉が成り立たない。情ばかりでは「意味」から遠ざかってしまうこともある。
「やっぱりバランスを考えて、『論理の言葉』と『情の言葉』を車の両輪のようにして表現力を高めていくのがいいんじゃないかと思っています」と小野教授は語る。
確かに、スタンプ一個だけ相手に送るのは、「送り主が文字を入力したり、話したり、はっきり言うのを面倒くさがっている」ようにも感じさせる(WSJ)。
説明する言葉が、論理的かつ分離的であるとしたら、スタンプや絵文字ら「図形的な言葉」は、感情的かつ統合的である。
かつて「論理一辺倒」だったコンピューターの世界は、それを理解できる「1%の人々」の所有物だった。そしてその狭かった世界を「残り99%の人々(rest of us)」に解放したのは、「より直感的な」アップル社だった。ご存知、iPhoneとiPadの生みの親である。
そして、直感的・感情的な人々に解放されたその世界は、その人らの手によって絵文字やスタンプの爆発的な普及につながった。
「知」から「情」へ。
分離から統合へ、その世界は確実に動いている。
その立役者が日本人というのも、いと「をかし」。
(了)
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出典:
The Wall Street Journal
「感情を絵で表すスマホの『スタンプ』、米国でも人気拡大」
NHKクローズアップ現代
「”ぱみゅぱみゅ””じぇじぇじぇ” 『オノマトペ』大増殖の謎」