2013年03月26日

「マグネシウム電池」のある未来


「えーっ、パワー10倍って!?」

たとえば、今の電池(バッテリー)が10倍も保つようになったら、スマホの充電は10日に一回で済んでしまうかもしれない。

「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! って感じでしょ」

電気自動車も、ガソリン車並みの航続距離が夢ではなくなる。



そんな夢の電池、その期待が持たれるのが「マグネシウム電池」。

この未来型の電池には、石油やウランなどが築いていしまった持続不可能な社会を、いま改めて「持続可能」にするポテンシャルも秘められている。

今回はそんな話である。




◎ボルタ


電池の歴史は、そのパワーアップの歴史である。

その歴史は、今からおよそ200年前、イタリアのボルタ(Volta)という物理学者がその発端となっている。



「ボルタの法則」と呼ばれるのは、2つの異なる金属の間には電流が生じるというものである(2つの金属の電位差による)。それは当時、カエルの脚に2種類の金属を接触させることで、その脚がピクピク動くという「動物電気」して知られていた現象でもあった。

ボルタによれば、電気を流すために最も効率が良い2種類の金属は「亜鉛と銅」であった(ちなみに電気を流すのは、カエルの脚の代わりに食塩水が用いられた)。

それゆえ「世界初の電池」というのは、亜鉛と銅という2種類の金属を電極(プラスとマイナス)として作られたものであった。



ちなみに、現在の「ボルト(V)」という単位は、この人物の名前に由来する。

そして、この電気が流れる原理もまた、200年間ずっと変わることがない。



◎リチウム


少し詳しく見てみると、マイナス極となる亜鉛は、薄い硫酸に浸されて溶け出している。この溶ける時に、亜鉛から「電子」が飛び出す。それが電流となる。

つまり、電池の原理は「金属が溶けることで電気が起こる」ということである。



電池の開発は、電極(プラスとマイナス)として用いる金属を試行錯誤してきた歴史でもある。

どんな金属が電池に用いられているかは、その名称が示してる。ニッケル・カドミウム(ニッカド)、マンガン、リチウム…。



電気の生み易さは、金属によって異なる。亜鉛よりもマンガン、マンガンよりもリチウムは、それぞれ電気を生じやすい。

ただ、ここには問題もある。電池を生み易いということはそのまま「反応が激しい」ということにもつながってしまう。たとえばリチウム(Li)を水中に放り込むと、あっという間にシャワシャワと溶けてしまうのだ。



こうした反応の激しい物質を電池にするのは至難の技である。リチウムは空気に直接触れないようにしたり、保護材を塗るなどの工夫が必要とされる。

現在のノートPCやスマホ等に用いられているのは、このリチウム電池だが、時々「発火」する事件も起きている。また、夢の飛行機「ドリームライナー787」から煙を出させたのも、このリチウム電池であった。



リチウムは金属中でもトップの実力を持つほど、電気を生み易い。だがしかし、それは余程のジャジャ馬でもあったのだ。

ちなみに、同じ重さの鉛電池に比べれば、リチウム電池の容量は3〜5倍。ニッケル水素電池と比較しても2倍と格段に大きく、寿命も長い。

ゆえに、90年代の登場以来、あらゆる電子機器に搭載されることとなったのである(最新の電気自動車の電池も、そのほとんどがリチウム電池である)。



◎マグネシウムの皮膜


さて、そんなリチウム電池の牙城を突き崩す勢力の一角、それが今回の「マグネシウム電池」ということになる。

マグネシウム(Mg)という金属は、リチウム(Li)ほどではないが、電気をよく生み出す金属であることは確かである。



しかし、マグネシウムには致命的な欠点があった。

マグネシウム金属が水溶液中に溶け出るとすぐ、表面には「皮膜」が張られてしまい、それ以上溶け出すことができなくなってしまう。つまり、電流の流れがすぐにストップしてしまうのだ。

それは、溶け出したマグネシウムが水溶液中のOH基とすぐに結びついてしまうという、好ましからざる結果であった。



「とても電池としては使えない…」

誰もがマグネシウムには諦めていた。

ところが、この落ちこぼれには「ひょん」なことから次の道が拓かれる。



◎瓢箪からコマ


その「ひょん」は、九州宮崎の海岸、日向灘から飛び出した。

そこは、電池の開発とはまったく無関係。エアロトレインの実験施設であった(東北大学日向灘実験施設)。エアロトレインとは、地面すれすれを飛行機のように飛ぶ乗り物である。

その開発者「小濱泰昭(おはま・やすあき)」さんも当然、電池の専門家ではない。エアロトレインの専門家である。



省エネのために徹底した軽さを求められたエアロトレインは、その機体の材料として「マグネシウム」が用いられていた。そして、その実験室には「余った機体の材料」が転がっていた。

ふと「電気が起こせるのでは…」と思い立った小濱さん。さっそく、目の前の日向灘に海水を汲みに行った。

「電解液として一番すぐに使えるのは海水なんですよ」と小濱さん。



ささっと、ペットボトルの容器と余っていたマグネシウムで簡易電池をつくった小濱さん。そこに海水を注ぎ入れる。予想通り、電気を得たモーターは回り始めた。

「でも、すぐに止まるだろう」

小濱さんはそう思っていた。マグネシウムの表面に皮膜ができてしまえば、それでオシマイだ。



ところが、なぜかモーターは止まらない。

一日たっても、二日たっても、三日たっても止まらない。

結局、なんと3週間もモーターは止まらなかった。モーターがようやく止まったのは、マグネシウムに皮膜ができたからではなく、マグネシウムが溶けてなくなったからであった…!



「われわれもビックリだったんですよ」と小濱さんは言う。

あの程度の電池であれば、普通4〜5時間も保たない。それが常識であった。ところが、3週間以上も回り続けたのだ。もはや理解不能である。

「瓢箪から駒」という故事は、ヒョウタンのような小さな口から、馬(駒)のような大きなものが飛び出すことを言うのだが、まさにそれ。実験室に転がっていた材料から、未来の社会を一変させるかもしれない電池の芽が萌芽したのであった…!



◎ヤンチャ者同士


ところでなぜ、エアロトレインの構造材だったマグネシウムは「皮膜」を作らなかったのか?

それは、その材料が純粋なマグネシウムではなく、「難燃性マグネシウム」という「カルシウム」を混ぜ込まれたモノだったからだ、と考えられている。



マグネシウムという金属は、昔のカメラのフラッシュに用いられたほど燃えやすい。エアロトレインにとって、その軽さは美点であったが、その燃えやすさは欠点であった。乗り物を形作るには溶接が不可欠であり、高熱に耐えなければならない。

そこで混ぜ込まれた「カルシウム」。それが期せずして、電池の道を拓くことにもなったのだ。



ここで、金屬の性質を知る人ならば、首をかしげるであろう。

「カルシウムだって、マグネシウムと同じく他の物質と反応しやすく、火にも燃えるではないか」

確かに、カルシウムを水に入れれば激しく泡立ち、またたく間に消石灰になってしまう。火をつければ、赤々とどんどん燃えてしまう。

そのため、常識的にはマグネシウムとカルシウムのコンビなど論外であった。ましてや電池などには成り得ようがなかった。



しかし、論より証拠。

不思議なことに、ヤンチャ者同士のマグネシウムとカルシウムを混ぜられた物質は、すっかり大人しくなってしまうのである。

それは電池としての好結果をもたらした。ヤンチャ者同士が金属の表面でOH基の奪い合い、つまりケンカを始めることによって、その表面には皮膜ができにくくなっていたのである。

この決着のつかないケンカは、マグネシウムが溶けてなくなるまで続いていた。そしてその間、都合の良いことに電気が流れ続けていたというわけだ。



◎使わぬ手はない


「このマグネシウムが1.5kgあれば、日本の平均的な家庭の一日分の電気は使えます」

すっかりマグネシウム電池の開発者となった小濱さんは、そう言う。



ところでマグネシウムというは、十分に存在する物質なのだろうか?

「ほぼ無尽蔵です」と小濱さんは答える。

海水1トンの中には、マグネシウムが1.3kg入っている。それもわざわざ取る必要もない。なぜなら、それは豆腐を作るときの材料の一つニガリ(塩化マグネシウム)でもあるが、世界の塩田では使い途がなくて大量に余っているのだという。

「ちなみに、マグネシウムは地球上で3番目に多い元素なんですよ」



通常、2種類の金属が必要とされる電池であるが、このマグネシウム電池の場合、プラス極を「空気」で代用することが出来る。つまり、限られた電池内のスペースすべてにマイナス極であるマグネシウムを突っ込むことができる。

しかも、あとは塩気がある水さえあれば、電気が起こる。それは海水でも良ければ、家畜の糞尿でも良い。

「たとえば発展途上国、アフリカのケニアの奥地なんかでは水もありません。でも家畜のオシッコはあるわけですよ。家畜のオシッコから電気を取り出せる可能性もあるんです」と小濱さんは希望を語る。







◎リサイクル社会


従来のエネルギーとの比較でいえば、マグネシウム電池の魅力は「再生可能」という点にある。

使用済みとなったマグネシム電池の中身は「水酸化マグネシウム」であり、この物質自体の充電再生は不可能である。しかし、それを1,200℃の高温で熱すれば、蒸気とともに純粋なマグネシウムが再び得られる。

小濱さんの描く未来図によれば、虫眼鏡の焦点が太陽光を集めるように、太陽光によって使用済みマグネシウムを再生させる計画がある。



たとえば、こんな未来都市も夢想できる。

マグネシウム製造工場から、各家庭にトラックでマグネシウム電池が宅配される。まるでプロパンガスのように。

家庭での使用が終わると、使用済みマグネシウムは回収され、それらは太陽炉による精錬所に運ばれる。そこで、太陽熱によってマグネシウムがふたたび再生されるという流れである。



海から生まれたマグネシウムは、海水によって電気が取り出され、太陽光を用いて再生されることになる。それは自然エネルギーが存分に活用されたリサイクル社会。

それは、石油や石炭、ウラン(原子力)などでは到底なしえなかった持続可能な社会の姿でもある。







◎3.11の教訓


小濱さんは、東日本大震災で悔しい思いをしていた。

「もしあの時、電気さえあれば…」

3.11の大地震の直後、東日本ではほぼ全域で電気が止まってしまった。それは、その後に津波に襲われる太平洋沿岸地域にとっては致命傷であった。



「テレビも見れない。あらゆる情報から絶たれてしまった…」

もしあの時、家庭に非常用の電源があって、大津波警報が沿岸地域の人々に正確に伝わっていれば…、より多くの人が逃げおおせたかもしれない。



マグネシウム電池というのは、非常用の電源には最適である。

マグネシウム電池は50年でも100年でも持つ。放電とは無縁であり、劣化することがほとんどないという。



◎切り札


再生可能エネルギーの「切り札」。

そのマグネシウム電池は今、実用化に向けて大手メーカーも名乗りを上げている。



小濱さんは自らが運転手となり、マグネシウム電池を搭載した自動車の実証実験に乗り出した。スタートは福島いわき市。ゴールは仙台。およそ100kmを走破する計画である。

早朝6時にスタートした小濱さん。時速60kmほどで仙台を目指し北上していく。途中で一旦停車した小濱さん。ここで補給するのはガソリンではなく「塩水」だ。

そしてゴール。「世界で初めて、マグネシウム電池で100kmを走り抜く」という快挙であった。



満足感に浸りながら小濱さんは、こう語る。

「いずれ、石油も石炭もウランもなくなってしまうんです。有限ですから。本当の意味では、持続不可能な社会をわれわれは築いてきてしまったんです」

おそらく、現在主力のエネルギー源が枯渇してしまっても、われわれ人類は生きていかなければならないだろう。



孫が5人いるという小濱さんは、子どもたちの未来を想わずにはいられない。

「私たちの子孫のことも考えると、燃料は自分の手で作るしかありません。絶対にこれ(マグネシウム電池)を実現しなければならないと思っています」



「ひょん」なことから芽吹いたマグネシウム電池。

その電気は、子どもたちの未来を照らし出せるのであろうか。







(了)



関連記事:

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出典:NHK サイエンスZERO
「パワー10倍! マグネシウム電池開発中」

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2012年12月05日

「あって災い」か? アメリカのシェールガス


幸いにも、アメリカはここ数年の間に「シェールガス」を岩石から採取する方法を極めて進化させた。

「わずか5年前には、高圧の液体を吹きつけて岩を砕きガスを放出させる『水圧破砕法(フラッキング)』という特殊技術をもつガス会社しか、シェールガスを採取することができなかった。ところが現在、エネルギー関連会社がこぞってこうした新しい分野の開発に取り組むようになった。

その結果、アメリカでは「天然ガスが大量に生産されることになった」。採掘の限られていた5年前に比べると、アメリカの今のガス価格は70%も下がっている。それだけの驚異的な増産に成功したということである。



今では信じ難いこととなってしまったが、「ほんの数年前まで、アメリカは必死になって外国産のガスを『輸入』しようとしていた」。国内のガス需要の高まりによって、その価格は高騰する一方だったのだ。

ところが現在、その時に何十億ドルも費やしてつくられた輸入用のターミナルは無価値となった。シェールガスの大成功により、もはや外国産ガスの輸入は不要。むしろ、完成したばかりの輸入ターミナルは逆に「輸出用」の設備に転換されようとしている。



石油とて同様。

かつてのアメリカは好むと好まざるとにかかわらず、彼らが「最も憎んでいる国々」から原油を購入するしかなかった。石油に関する限り、アメリカは中東湾岸諸国への依存を余儀なくされていたのであり、それが「悩みのタネ」でもあった。

ところが現在、「この数十年で初めて、アメリカでは石油の純輸入量が減ってきている」。



というのは、シェールガス採掘の技術革新が、アメリカ国内の石油生産量をも増大させたからだ(沖合の海底深くやシェール岩盤)。さらに南北の近隣諸国、カナダやブラジルもやはり技術革新のおかげで石油は増産(オイルサンド・タールサンド)。

「近い将来、アメリカもいよいよ中東への石油依存をやめることができるようになるだろう」

アメリカ国内の石油需要は、国内もしくは南北アメリカ大陸の生産でまかなえる見込みも立ってきたのである。



なるほど、アメリカにおける石油や天然ガスの増産は、同国にとってまさに「救世主」のように見える。しかし、表があれば裏もある。シェールガス革命には思わぬ落とし穴も潜んでいる。それは今後数十年にわたるアメリカ衰退への序曲とも言うのだが…。

時はさかのぼり、第二次世界大戦後の1950年代、「アメリカはエネルギーの使い方を間違っていた」。戦勝に沸くアメリカはこの世の春を謳歌し、「国民は燃料がたくさん必要な大型のクルマに乗り、電気をより多く消費する広い家で生活をしていた」。

そんな浪費的だったアメリカ国民も、2000年以降はずっと控え目になっていた。気候変動への危機感や燃料価格の高騰などが相まって、近頃は「エネルギーを節約することが必要だ」と実感するようになっていたのである。

そして、「次世代エネルギー」と呼ばれる「風力・太陽光・原子力」などにアメリカは力を入れるようになっていた。



ところが…!

ここに来て、アメリカはふたたび「謙虚さ」を忘れた。なにせ、天然ガスが国内の地下から無尽蔵に湧き出てくることを知ってしまったのだ。もうエネルギーの節約に頭を悩ますこともないではないか!

「アメリカでは、再生可能エネルギーを開発しようという気運が急速に衰えている」

ガスの値段が信じられないほど安くなってしまった今、石炭や原子力、太陽光などの電力市場における競争力は一気に弱体化することになった。発電にかかる費用は天然ガスが群を抜いて安くなったのだ。

「石炭は市場から締め出され、原子力開発は停滞、風力や太陽光を使う施設の計画は次々と中止されている」。



また、自動車産業のセンチメントも確実に変化した。

「自動車メーカーは、より燃料効率の良いクルマをつくらなければならないという気持ちに駆られることがなくなった」

新たな石油と天然ガスが豊富に湧き出てきた今、ハイブリッドや電気自動車などの次世代カーの開発が次々と暗礁に乗り上げてしまっている。運輸産業では「天然ガス車の使用が支配的になってきている」。国際貨物会社のUPSはすでに、液化天然ガスで動くトラック網を全米に作り上げている。



アメリカ連邦政府が燃費基準を引き上げたところで、それに対する意欲は薄い。アメリカの自動車業界が次世代型の電気自動車についてマーケティングしたところ、購入者も補助金を提供する政治家も一様に「燃費についてはあまり気にしなくなっていた」という。

クルマばかりではなく、航空機、船舶、それに鉄道なども同じように「急いで燃費を良くしなければならないとアセリを感じることも少なくなった」。



さて、今後のアメリカはどこへ向かおうとしているのか?

この記事のライター(ピーター・シュワルツ)は「最終的なツケを払わされるのはアメリカ国民だ」と断言している。

今のアメリカは、数十年前のエネルギー浪費大国に逆戻りしようとしているのだろうか。シェールガス革命という革新の上にアグラをかいて、再生可能エネルギーによる発電や次世代カーなどの競争から遠ざかるつもりなのだろうか。

「新しい石油やガスが支配権を握ったこれからのエネルギー市場では、再生可能エネルギーやエネルギー効率の良いクルマや飛行機、ビルをつくる取り組みは社会的な価値を認められなくなってしまうだろう」

その意志はどうあれ、センチメントは確実にその意欲を失わせる方向に働いている。化石燃料が有限であることは、もうしばらくは忘れていられそうなのだから。



今思えば、長らく中東依存を続けた頃のアメリカは逆に幸いだったのかもしれない。中東情勢という地政学的な不安定さが、アメリカの気付け薬ともなっていた。言ってみれば、その切迫感がアメリカにシェールガスという革新を起こさせたのでもあった。

「そのうち、中東の湾岸地域にいたアメリカの軍艦が、中国の軍艦に場所を明け渡す日が来るのかもしれない」

アメリカにとっての中東の重要性が低下すれば、アメリカに代わって中国が中東との結びつきを強める可能性もある。アメリカの敵は常に中国の友である。結局、アメリカの影響力が低下しようが、中東からキナ臭さは消えないのだろう。



アメリカのエネルギーを、そして世界の力学バランスをも変えてしまいそうなシェールガス革命。

その革命を支えた柱は技術革新のほかに、「原油価格の高止まり」という要素があったことも忘れてはならない。「2008年以来の石油価格の高騰で、以前よりも費用をかけて石油を採取することが許される状況になった」のである。

現在のアメリカやカナダなどで採掘される新しいタイプの石油のほとんどは、1バレル80ドルが「底値」に設定されている。つまり、これより安くなってしまうと、アメリカの新しいエネルギーモデルはあえなく崩壊してしまう危険性もある。



最近の国際的な石油価格の高騰は、「中東やアフリカなど広い地域での政治的不安定が原因」である。内戦状態にあるリビア、シリア、イエメン、スーダンは少量の石油しか生産できず、アメリカの主導するイランへの経済制裁により、イランの石油輸出量は激減している。

多少の穿った見方をすれば、アメリカがイランへ経済制裁を課すのは、なにも原子力の秘密開発を責めることばかりがその真意ではないのかもしれない。アメリカには原油価格を高止まりさせるための強い動機も存在しているのである。

もっと穿った見方をすれば、アメリカには再生可能エネルギーや自動車業界の革新の足を引っ張る動機も存在するということにもなる。



なにはともあれ、現在のアメリカからエネルギーへの危機感が和らいだことは確かだ。シェールガス革命のおかげで、その環境は一気にぬるま湯と化し、しばらくはノホホンとしていられるようになったのだから。

一方、少資源国の日本におけるエネルギーへの切迫感は高まるばかりである。原子力という道も実質的に閉ざされてしまった今、外国産の石油やガスの大量購入を余儀なくされ、日本政府の経常収支はまさかの(予想通りの?)赤字転落である。



それでも、こうした慢性的なエネルギー不足は、日本ではお馴染みの光景だ。日本は逆立ちしてもエネルギー輸出国にはなれそうにない。

しかし、だからこそ日本では省エネ技術が発達するのであり、国民は謙虚でいられるとも考えられる。抜群にハイブリッドカーへの意識も高いのだ。それは国土自体が島という限られた環境に置かれていることとも無縁ではないだろう。

「なくて幸い」。それが今までの日本の強さの源泉ともなってきた。「ある」のならば浪費的になったとしても、「ない」のだから我慢するしかない。お金持ちは美食を我慢できないから太るのであろう。



さてさて、アメリカと日本のおかれたエネルギー環境には、今も昔も雲泥ほどの違いがある。

しかし、持てる国であるアメリカを羨ましがる必要はそれほどないようにも思える。むしろ「あって災い」となりそうな要素も幾多と散見されるのである。資源の宝箱であるシェール岩石の上に鎮座するアメリカは、新しい時代への変化を嫌うようになってしまうかもしれない。

一方の日本は、新しい時代へ移行せざるを得ない。再生可能エネルギーの開発も急務である。日本国民が新しいクルマに求めのは燃費の良さだ。



はたして、「あって幸い」となるのか、「なくて幸い」となるのか。

世界のエネルギー情勢は新たな分水嶺に差し掛かっている。

幸か不幸か、日本は「なくて幸い」とする道しか残されていないようであるが…。







関連記事:
アメリカの切り札「シェール・オイル」。そのブラック・ボックスの中には…?

「火のつく水」は、シェールガス汚染の象徴。アメリカの飲料水を汚染する資源開発。

石油になり損ねた資源たち。二酸化炭素と生物による堂々巡りの物語。



出典:WIRED VOL.6 GQ JAPAN.2012年12月号増刊
「ガス再考! 『次世代エネルギーは終わった』とアメリカは言う」

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2012年02月11日

植物か?動物か? 人類の悪行を精算しうる「ミドリムシ」の秘めたる可能性。


1675年に発見されたその単細胞生物は、美しい眼を持っていた。

それゆえに、「美しい眼」を意味するラテン語、「ユーグレナ」がその名となった。

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日本での通り名は「ミドリムシ」。

田んぼや池など、水のある大抵の場所に生育している生物である。

ラテン語の詩的な「ユーグレナ」という名前に比べて、日本名の「ミドリムシ」というのは、どこか無粋な感じがするものの、「ミドリムシ」という名前の方が、この生物の特性を明確に言い表している。



緑色をしているから「ミドリムシ」なわけであるが、この緑色は「光合成」をする葉っぱ(植物)の緑色と同じ成分でできている。

その緑成分(色素)は「葉緑素」であり、ミドリムシは光合成をできる唯一の動物である。

動物的要素は、「ムシ(虫)」という部分で表現されている。シッポ(鞭毛)をフリフリして泳ぎ回る様は、まさに虫(動物)である。

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「植物でもあり、動物でもある」ミドリムシ。地球上にはこんな生物もいるのである。

そして、この「ボーダーレスな感じ」が、ミドリムシを理解する上での最大のキーワードともなる。



「生産」という言葉は植物的であり、それに対して「消費」というのは動物的である。

植物は光合成によってエネルギーを「生産」し、動物は他の動植物を「消費」して生きてゆく。



そうした観点に立てば、ミドリムシは元々動物的(消費的)であったと考えられている。そんな動物的なミドリムシの食べる物の中には植物もあった。

普通の動物は食べたものを全て消化してしまうものなのだが、なぜかミドリムシは緑色の葉緑素を消化しようとはせずに、体内に貯めこむことにした。そして、その貯め込んだ葉緑素の産するエネルギーを使うようになった。

この方法であれば、外部から食物を取り入れる必要もなければ、消化するエネルギーも必要ない。ただ居ながらにして生存に必要な栄養が自然に体内から湧いて出るのであるから。



昔々の人類は「狩猟採集」という方法で食を得ていたが、いつの頃からか「畑」を作って、自ら食糧を生産する術を学んだ。

それと同様、ミドリムシも体内に畑(葉緑素)を持ち、そこでエネルギーを生産するようになったのである。

また、現代社会には貯め込んだ貯金の「利子」だけで生活する人々もいるが、ミドリムシにとっての貯金は「葉緑素」であり、その葉緑素はエネルギーという無限の利子を提供してくれるのである。



獲得した食物(葉緑素)を全部消化せずに取っておいたミドリムシは賢明であった。

その貯蓄が畑となり、自分では働かなくとも食に困ることがなくなったのだから。

月々の給料を使い切らずに、少なからずも貯蓄に回せば、後々の生活はミドリムシのように安楽なものとなるのかもしれない。しかし、動物的性質を色濃く持つ人間にとっての「消費」は、宿命のようなものなのであろう。



ミドリムシは「シッポの生えた葉っぱ」のようなもので、ラテン語「ユーグレナ(美しい眼)」が示す通り、その眼で光の強弱を感じ取り、シッポ(鞭毛)を使って明るい方へ明るいほうへと移動していける。

この移動できるという動物的要素は、光合成をより効率的なものとする。日陰になってしまった時でも、日向へと泳いでいけるのだ。

またまた資産的な発想に結びつけると、動き回れる資産というのは流動性が高いということになる。ある国の株式のパフォーマンス(リターン)が悪くなった時は、好調な新興国などへと資産を移動させて、より高いリターンを得ることもできるのだ。



動物であったミドリムシが、葉緑素を獲得したということは、人間が流動性の高い大いなる資産を獲得したようなものであり、それは極めて革命的な出来事である。

いまだかつて、この革命を成し遂げた生物はミドリムシ以外、地球上には存在しない。



ミドリムシがこの革命を起こしたのは、およそ5億年以上前の話。生命の起源を40億年前と考えれば、5億年というのはそれほど古い話でもない。

それを人間の歴史に無理やり換算するならば、ミドリムシの生物的革命は、イギリスの産業革命(18世紀)ほどの頃合いとなろうか。



「動き回る葉っぱ」という動植物の「ハイブリッド」と化したミドリムシは、体内に持つ「栄養素」までもが、動物であり植物である。

ミドリムシは動物のみが持つ栄養素「脂肪酸(DHA、EPA、オレイン酸、リノール酸)」、ならびに植物のみが持つ「アミノ酸9種類」を併せ持つ。



近年、ミドリムシはサプリメント(栄養補助食品)としても重宝されるようになっているが、その理由は、ミドリムシが動物・植物双方の栄養素をバランス良く含んだ完全栄養食品だからでもある。

ミドリムシのサプリメントを取れば、それは栄養素的に「野菜と魚」を同時に食したのと同じことになる。加えて、微量元素であるミネラルなども豊富に含む(亜鉛はクロレラの数倍)。




さらには、ミドリムシに「細胞壁」がないことで、人間の消化器官が簡単にミドリムシの栄養素を吸収することが可能になる。

普通の植物であれば、動けないというデメリットを補うために、自らの身を守る鎧のような「細胞壁」で細胞の周りを固く固めている。そして、残念ながら人間にはその固い守りを打ち崩せる酵素「セルラーゼ」が備わっていない。

ところが、動き回れ、逃げ回れるミドリムシには、植物ほどに防御を固める必要性がなく、ミドリムシを覆うのは「細胞膜」という柔らかい素材である。この柔らかい細胞膜ならば、人間の消化器官でも十分に分解が可能なのである。



ミドリムシは人間にとって貴重な食材ともなりうるということで、現在では盛んに「養殖(人口培養)」が行われている。

ミドリムシの繁殖スピードは恐ろしく速い。一日で倍になる。2日で4倍、3日で16倍、4日で256倍、5日で6万5千倍…。ネズミもびっくりである。

最初は透明に近い薄い緑色の培養液も、一週間もたつと、抹茶のように濃厚な緑色の液体となる。



光と酸素さえあれば、ミドリムシの無限増殖は可能である。

しかし、大型培養するには問題点もあった。その問題点は、「細胞壁がない」というミドリムシの脆弱性にあった。

守りが薄いため、他の生物に駆逐されやすく、自然環境下ではミドリムシだけの純粋培養ができなかったのだ。



この問題点を解消したのは、ミドリムシの類マレな「二酸化炭素に対する耐性」であった。

水中の二酸化炭素を40%の割合まで高めても、ミドリムシは生き続けることができる。

いやむしろ、二酸化炭素をエネルギーに変えることができるミドリムシは、その高CO2下においては、ただでさえ速い増殖スピードを20倍にまで高めるのである。



二酸化炭素濃度40%という異常な環境で生育できる生物は、ミドリムシ以外には存在しない。

普通の生物にとって、この異常な環境は「CO2地獄」であり、生存はおおよそ不可能なのである(極度に酸性化する)。



賢明なる読者諸氏は、ここで名案を思いついたかもしれない。

「ミドリムシをCO2削減の切り札とできはしまいか?」、と。



現在の大気中の二酸化炭素濃度は、地球の歴史上、異常な数値にまで跳ね上がっている。

その急上昇のキッカケとなったのは、イギリスにおける産業革命(18世紀)である。この革命は、世界の人々の生活を一変させただけでなく、二酸化炭素の濃度をも一変させたのである。

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この急激な二酸化炭素濃度の変化は、人類にとって好ましいことではない。

それが温暖化につながるかどうかは議論の紛糾するところでもあるが、生物的な進化の異様に遅い人類にとって、外部環境の急激な変化はいかなるものであれ「害悪」である。



増殖スピードが異常に速く、とんでもない量の二酸化炭素を食らうことができるミドリムシは、工場から排出される二酸化炭素をも果敢に酸素と水に変えてくれる。

火力発電所の排出ガス(CO2)を、ミドリムシの水槽に通すことで、大気中に放出するCO2の量を愕然と減らすことも実証されている。



18世紀の産業革命以降の300年程度で、人類は盛んに化石燃料を焚き続け、地球が何億年とかかって地中に固定していた二酸化炭素を、一気に大気中へと放出してしまった。

ところが幸運なことに、ミドリムシの恐るべき増殖能力とCO2吸収能力は、人類数百年間の悪行をも「清算しうる可能性」を秘めている。



現在、年間32億トンもの二酸化炭素が、「赤字」となって大気中に蓄積され続けているというが、それを黒字決済に変えるには、単純計算で日本の国土の1.3倍のミトコンドリアの水槽(深さ1m)があればよいのだという。

果たしてその面積をデカすぎると感じるのか、それとも思ったよりも小さいと感じるのかは人それぞれであろうが、世界が協力し合うのであれば、それほどのものとも思えない。

少なくとも、同じだけ二酸化炭素を吸収できる「森」を作るよりは、よほどに容易なことである。ミトコンドリアの単位面積当たりの二酸化炭素吸収量は、熱帯雨林の何十倍にも上るのである。

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最後に、ダメ押しの朗報までもがある。

ミトコンドリアは何と「燃料」にもなるのである。



光と酸素を遮断されたミトコンドリアは、光合成の道を絶たれるために意気消沈してか、「真っ白」に燃え尽きてしまう。

自慢の緑色の面影をなくした真っ白のミトコンドリアは、じつは死んではいない。

葉緑素を「油」に変えることで、エネルギーを創出して生き続けているのだ。その真っ白い姿は、油と化して生き続けているミトコンドリアの別の顔なのである。

そして、その油は化石燃料(石油など)の代わりとなり得るものでもある。

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産業革命以降の文明は、化石燃料に極度に依存しすぎたゆえに、そのバランスを著しく欠くものとなってしまった。

それは地球環境のバランスを崩し、世界の利権構造のバランスをも崩した。そして、今や崩壊寸前にまで傾き切っている。



もし、そのバランスを崩した巨人を、小さな小さな単細胞生物(ミドリムシ)が救うとしたら?

それはそれは痛快な物語ともなり得よう。柔よく剛を制す、ストーリー性に満ちた希望が溢れている。



そして、ミドリムシにはその能力が備わっている。

二酸化炭素をバクバク食らえもすれば、自らを燃料に変化(へんげ)させることも可能である。

残された問題はと言えば、バランスを崩した巨人たちの意志ということにもなるのであろう。



ミドリムシの「美しい眼」に映るのは、どんな未来なのであろうか?







出典:いのちドラマチック
「ミドリムシ 植物と動物のあいだ」



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2012年02月06日

革命的な風力発電「風レンズ」。日本の広大な海を活かす新たな一手。


「風レンズ」というのは、未来の「風力発電」なのだという。

「風レンズ」とは、プロペラの周りを覆う「輪っか」のこと。その様は、扇風機のごとし。

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この「輪っか(風レンズ)」があるとないとでは、大違い。

輪っか(風レンズ)のある方が、発電力が「3倍」になるのだという。

というのも、この輪っかが風速を最大1.5倍にまでアップさせるからである(発電量は風速の3乗に比例する)。



なぜ、風力がアップするのか?

それは、「入口が狭く、出口が広い」輪っかを風が通り抜ける際、風が出口で「渦(うず)」を巻くからである。

渦(うず)が流れを加速させるのは、お風呂の水を抜いた時、水が渦を巻いて勢いよく引きこまれていく様を思い浮かべれば、容易に想像できる。



風の渦でよく知られるのは、「台風」であろう。台風というのは、風が渦を巻いて「気圧が下がった状態」である。

それと同様に、風が輪っか(風レンズ)を吹き抜けた後にできる多数の渦は、風下の気圧を下げる。そして、その結果できる低気圧が、風上の風を強烈に吸い込むのである。

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じつは、「風の渦」は建造物にとっては「厄介者」だった。

風が渦を巻けば、その風力が増すために、想定以上の負荷が建造物にかかってしまうからである。

そのため、「いかに、風の渦を作らないように設計するか」というのが重要な課題であり、それは「渦との戦い」なのである。



ところが、未来の風力発電ともいわれる「風レンズ」は、敵であった風の渦をスッカリ「味方」に変えてしまった。

従来とは全く逆の発想で、「いかに、風の渦を作るか」が大きな焦点となったのである。

試行錯誤の末、風上を狭く、風下を広く、そして、風下側には「つば」が取り付けられた。その成果が、風力を1.5倍に増幅させるという「風レンズ」なのである。



この風レンズは風力をアップさせると同時に、様々な好ましい波及効果をも生んだ。

何よりも「音が静かになった」。



従来の風力発電はといえば、耳障りな「風切り音」が周辺住民を悩ませていた。この風切り音の正体は、プロペラの先端部分にできる「風の渦」である(この渦は敵)。

ところが、プロペラの周囲に風レンズを取り付けたら、プロペラの先端にできるはずの渦がキレイに消えてしまったのだ。

その結果、風レンズで覆われたプロペラの騒音(風切り音)は極端に静かになった(むしろ自動車の騒音のほうが大きく聞こえるぐらいである)。



また、鳥たちにも優しくなった。

従来の「むき出しのプロペラ」は、空を飛ぶ鳥たちにとっては殺人(殺鳥)マシーンであった(これまで如何ほどの命が奪われてきたことか…)。

風レンズの取り付けられたプロペラは、視認性が高い。そのお陰で、鳥たちが誤ってプロペラに突っ込んだという不幸な例(バード・ストライク)は、まだ報告されていないという。

風レンズ風車は鳥を殺すものではなく、むしろ止まり木として、「休息の場」を与えているのである。



鳥たちだけではなく、人間たちにも風レンズは安心感を与えてくれる。

輪っかで覆われたプロペラは、どことなく安全な感じがするので、子供の遊ぶ公園などに設置されていたとしても、いらぬ不安を抱くことがない。



静か、そして安全。さらに小型化も可能ということで、住宅街への設置事例も増えているのだという。

風レンズ風車の高さは13m程度であるため、建築基準法の「適用外」であり、その低さから強風時の被害も受けにくいとされている。



肝心の発電能力はどうだろう?

プロペラが回り出す風速は「3m/秒」から。風速3mという風は「軟風(Gentle Breeze)」と呼ばれる風で、木ノ葉や小枝が揺れ動く程度の風である。

その軟風でさえ、風レンズ風車一基あたり年間1,260kWの発電量が見込める。

ちなみに、1世帯あたりの年間電力使用量(平均)は、およそ3,400kW。弱い風であれ、風レンズ風車が3基もあれば賄える計算になる。



風レンズ風車は家庭用の独立電源として期待される一方、日本全土の発電を一手に担えるほどの可能性をも秘めている。

海に浮かぶ島である日本列島は「風の宝庫」であり、もし日本上空の全ての風を電力に変えることができれば、その発電量は19億kWとも言われている。

現在の日本が発電している発電量が2.8億kWということを考えれば、日本の風の6分の1を電力に変えるだけで、日本全土の電力を風力で賄うということが可能となる。



特に期待されているのは「海の風」である。

陸から離れて少し沖合いに出れば、その風は1〜2mは強くなる。この1〜2mの差は、年間を通すと、発電量に倍ほどの違いをもたらすとのことだ。

洋上に浮かべられた風レンズ風車は、現在着々とデータを蓄積しており、今後の大規模な実用化へ向けた地歩を固めつつある。

六角形をした風レンズ風車の土台は、お互いに連結が可能であり、大規模化・大量生産に最も適した形なのだという(三国志風に言えば、連環の計といったところか)。

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海上での計画を進めることには、大きな意味がある。

なぜなら、日本は世界第6位という巨大な海(排他的経済水域・EEZ)を持つのである。

日本の海(排他的経済水域)の面積は447万平方kmもあり、国土(陸地)の12倍もの広大さだ(海の面積だけならば、大国・中国の5倍以上)。



現在の日本は、尖閣諸島や竹島、北方領土などで、周辺諸国との国境問題を抱えているわけだが、かつての日本は、今以上に「したたか」であった。

アジア諸国でいち早く文明開化を迎えた日本は、周辺諸国が国際法に暗かった時代に、「無人島を探しては、自国の旗を立てていった」のである。

西は台湾のすぐ横、南はフィリピンの目前、東は太平洋の遥か沖合までといった具合だ。




最東端の「南鳥島」の面積は、「大きめのサッカー競技場」ほどしかないにも関わらず、その小島を中心とした排他的経済水域は膨大である。

この島は東京から1,800kmも離れていながらも「東京都」であり、南鳥島は日本の首都とされているほどに重要視されているのである。



最南端の「沖ノ鳥島」は、「ダブルベッド」ほどの面積しかなく、海上に顔を出す部分はわずか15cm程度。「岩」となれば領土と認められないが、日本は断固、「島」であると頑なである。

日本がそう頑迷になるのは、やはり、沖ノ鳥島の抱える排他的経済水域(EEZ)が異常に広いからに他ならない(沖ノ鳥島のEEZは40万平方kmであり、これだけで日本の国土面積を上回る)。

この岩のような島が水没せぬように、300億円の防波堤とチタニウムの金網が頑強に守りを固めているのである(やはり、この島も東京都)。



明治以降、日本はこうした海がらみの領土争いを完全に制したとも考えられる(現在残されている領土問題は、過去の大勝利から比べれば、さほどの大きさではないとも言える)。

日本にとっての海とは、他国がヨダレを垂らすほどに羨ましいものであり、彼らは皮肉を込めて、日本を「海の大富豪」と呼ぶのである。

そして、その大富豪が小さな小島(尖閣や竹島)にこだわることを猛烈に非難するのである。




話がそれたが、海を活用することは、日本の最大の長所を活かすことにもつながる。

そして、その一端を担うと期待されているのが、洋上の風レンズ風車による大規模発電構想なのである。

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日本は資源を持たない国家とされているが、それは鉱物資源などの話である。

日本を取り巻く大自然に目を向ければ、その状況は一変。日本は「見えない自然エネルギー」の宝庫なのである。

日本がその膨大な「見えないエネルギー」を実用化していく時、名実ともに世界の大国とも成り得るのであろうし、化石燃料を中心とした世界の権力構造に大きな脅威を与えることになるのでもあろう。





出典:サイエンスZERO
「海の風を集めろ!実用化目指す新型風車」



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2011年11月22日

「小型化」が進む発電技術。現在注目の「小水力発電」



不況、不況の世の中においても、「活況」を呈している所はあるものだ。

その一つが「水力発電」だという。



「(受注数は)見込みと比べて、数10倍です」

そう語るのは、「角野(すみの)製作所」の社員。

角野製作所(岐阜)は、もともと自動車や航空機の「精密機器」を手がけていたのだが、その高く精緻な技術力を生かして、水力発電用の「発電機」を製造するようになった会社である。



しかし、3月11日の大震災以前は、「ほとんど受注がなかった」という。

ところが、あの大震災の後、需要は急上昇。製造が追いつかずに、急遽、新工場を増設しなければならないほどになった。



とりわけ需要が多いのが、「超小型」水力発電機。

最も小型のものであれば、水位が「たったの3cm」でも発電が可能となる(電力量は約5W)。

道路脇の側溝にスッポリと収まるサイズで、街灯などを灯すことができる。

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内部にラセン状の羽があり、その羽が水の流れを受けて回る仕組みである。

直径が少し大きなもの(約90cm)を使えば、約600Wの発電も可能となり、小さな事務所ならばその電力だけで運営することができるという。

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さらに、昔話の民家に見られるような「水車」タイプもある。

外観はローテクであるが、中身はハイテクな水車である。

最大出力は2,200W。農産物の加工場などで実用化されている。

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こうした自給自足的な「水力発電」に積極的に取り組んでいる地域がある。

岐阜県郡上市の「石徹白(いとしろ)」地区がその一つだ。



この地区の人口は約300人。

上記のような建物単位の発電機だけでなく、少し大きめの「小水力発電機」がすでに3機設置されている。

近い将来、一機50kWの小水力発電機を2機つくって、地区全域の電力を自給する予定である。

わずか4年という短い期間で、電力自給への道が明確に示されるまでになった。



原発の是非もあるが、大きな発電所はメリットばかりではない。

水力発電に積極的に取組む「石徹白(いとしろ)地区」の想いは、「災害時」にも電力を安定供給することにある。

東北地方の太平洋沿岸は、震災後も久しく電力が供給されなかった地域も多かった。



「もし、発電できたら…」、その想いは、不自由を味わった人ほど強く抱いた想いであったであろう。

発電機器を製造する角野製作所が受注に追われているのは、他者への電力依存の危険性を皆が痛感したことの現れでもある。



発電を個人、もしくは地区単位で行うことは、すでに技術的に可能である。

「費用」という問題もあるが、山梨県の都留市では「市民債」という手法で、その問題を解決している。

市民債を発行することによって、水力発電にかかる費用を住民に借りたのである。市民の協力のおかげで、総工費1億円のうちの4,000万円を市民債によってまかなえたという。

世界に誇る日本人の個人資産が有効活用された好例である。志に共鳴すれば、喜んでお金を出してくれる人々も多いようだ。



じつは、費用よりも大きな問題が別にある。

「水利権(水を利用する権利)」だ。

その権利は国(国土交通省)や都道府県、河川の大きさに応じて市町村などが持っている。

さらには、漁業権や水利組合なども絡んでくることもある。



この水利権の「許可申請」がクセモノである。

必要書類を手元にそろえるだけでも、一年以上かかることもあるのだとか。

オンラインからPDF書類を簡単にダウンロードするようにはいかないのである。



審査基準も厳しい。

巨大なダムの発電だろうが、超小型の発電だろうが、すべて同じ基準。

この水利権が得られずに、水力発電を「断念」する市町村もあるという。



逆に、すでに水利権を持っている業者は強い。

たとえば、「浄水場」などはすでに水利権を持っている。浄水場内での水の流れを利用するだけで、かなりの電気を生み出すことができる。

実際に、神奈川県横浜市の川井浄水場では、施設内に小水力発電機を備えている。

全国では、この他に13ヶ所の施設でこうした「水道管取り付け式」の発電機が利用されているという。

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こうした小さな水力発電の実例を知るにつけ、この方法は日本に向いているのではないかと思えてきた。

太陽や風力は、広い土地を必要とする。日本の国土を考えるに、充分な発電量を得ようとするのは非現実的な側面がある。

水力といえども、従来の大型ダム方式では手詰まり感があった。巨大なダムを造る場所は、日本に限られている。



しかし、小さな水力発電となると、その設置場所は無限にあるように思える。

幅が20〜30cmあれば発電機が設置でき、水かさは3cm程度でも電気を作れるのである。

道路脇の側溝でもよければ、水道管の中でもよい。捨てるだけだった「下水」から、新たなエネルギーが生まれると考えるだけでも大きな希望がある。



技術が進めば、もっと利用幅が広がるかもしれない。

下水だけでなく、上水、つまり水道の蛇口から水を出すエネルギーも、電力に変えられるかもしれない。

蛇口をひねれば電気がつく、というのも面白い。



日本はそこかしこに水が流れている。

そして、あらゆる水の流れは電力となりうる。



福島第一の事故で日本人が痛感したのは、原発の危険性だけではないだろう。

電力を「他人の手に委ねすぎる危険性」も痛感したはずである。

どこか遠くの巨大な設備で電力を作るという手法は、「効率的」ではあるかもしれないが、「リスク」も高い。そこがやられたら終わりである。



すなわち、原発だろうが、グリーンエネルギー(太陽・風力)だろうが、「大規模」に発電する手法には、限界と危険性が同様に潜んでいるのである。

新たな道をつけるのであれば、「小型化」という道をつける必要がある。

発電を小型化し、分散することで、大規模発電を補うこともできれば、災害にも強くなる。



現在の世論では、原発と自然エネルギーを対置させる議論が多いが、そこに「大型発電」と「小型発電」を対比させてみるのも面白いだろう。

小型化を模索していけば、必然的に自然エネルギーという選択肢しか残らない(小型原発が開発されれば、話は別だが…)。



つまり、小型化を提唱することは、そのまま自然エネルギーの支持となり、間接的な原発反対のスタンスとなるのである。

真っ向から原発反対を叫ぶよりは、よっぼど現実的である。

デモには山のごとく動じない大企業でも、電力を使われなくなったら、浮き足立つであろう。



そして、その小型化というのは、大企業や国・都道府県への依存からの脱却にもつながる。

個人や市町村という小さな単位が、より大きな力を持ち、「独立性」を強めることができるのである。

実際、先述の「石徹白(いとしろ)地区」で小水力発電をまかされている人物は、「地域の独立」という言葉を口にしていた。



エネルギーを、そして社会を変えたいのであれば、これほど有力な選択肢もないであろう。

これは、今すぐに、誰にでも着手できる改革の一つである。

今、喜んで一塵のチリとなれば、それはいずれ誰にも動かせない巨大な山となりうるかもしれない。



前世紀にひたすら大規模化を目指したパラダイムは、ここらで少し、小規模化のほうへシフトさせるのも悪くはない。

選択肢を狭め続けた時代は、新世紀に入り、新たな選択肢を必要としているかのようである。



「何かに反対する」というスタンスも、ある意味つまらない。また、選択肢が限定される方向へ向かってしまう。

原発もあって良し、自然エネルギーもあって良し。大企業が発電しても良し。個人が発電しても良し。



鍋には色々な具材が入っている方が、楽しみが増えるというものである。

好き嫌いがある人は、好きなものだけを食えば良いし、好奇心のある人は、新たな食材にチャレンジしてみれば良いだろう。

「小水力発電」というのは、じつに美味しそうな具材である。





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出典:WBS特集「電力の地産地消に“小水力”」


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