もし、学校の校長先生が、エベレストの登山家だったら?
そんな学校が北海道にある。クラーク記念国際高等学校、全国で一万人の生徒が通う、通信制・単位制の高校である。
その名物校長の名は「三浦雄一郎」。
プロスキーヤーであり、70歳をすぎてからエベレストに登ってしまったという、根っからの冒険家でもある。
◎背中で教える校長先生
その三浦校長の講義をのぞいてみると…、
「片方の鼻で呼吸をするんだ。ちょっとやってみよう。口を塞いで、片っぽの鼻の穴を塞いでみて。そのまま、深呼吸を一回」
これは自らが毎日行っているという「片鼻呼吸」という健康法だ。
「鼻水が出たりなんかしたら、鼻水を吹き飛ばして下さいね〜」。生徒たちは笑いながら、三浦校長の真似をする。「はい、次は口を開けてべー」。こちらは「舌出し体操」という、これも彼得意の健康法の一つである。
この高校の校長になって20年にもなるという三浦雄一郎氏。学校の理事からは「校長室にいる必要はない」と言われているという。「あなたがこれからやろうとしていること、その後ろ姿を生徒たちに見せてやって下さい」と言われているのである。
「背中で教える校長先生」。それが三浦校長だ。
「なるほど、校長先生がこんなにやっているんだったら、オレたちにもやれるんだ、やってみようか」。生徒たちをそういう気持ちにさせること、それを伝えていくことが彼の校長としての役割なのである。
◎自然に飛び込め
この高校に通う生徒たちは、かつて「不登校」だったり、「いじめ」にあっていたりする子供たちが多くいるという。
三浦校長いわく、「友人関係がうまくいかず、いじめがひどいなら、学校を休んじゃおう。一学期でも、一年でも休むといい。それでダメなら転校だってできる」
三浦校長の学校には、一日しか中学に通わなかったという子もいる。それでも、この高校には同じような経験をした子が他にもいたりするので、中には「無遅刻・無欠席」になってしまう子も。
「人生をトータルに考えれば、学校を休むくらい大したことじゃない。君の居場所は必ずある」と三浦校長は励ます。
「自然に飛び込め、自然が『何か』を教えてくれる」
「人生訓話は必要ない」と言い切る三浦校長は、生徒たちを積極的に自然の中へと連れ出す。ある時は冬山でのスキー合宿、ある時は富士山山頂、またある時はヒマラヤ山脈…。
2002年の富士登山には、車椅子の生徒も連れ出した。交代で支え合う仲間たち。お互いが助け合いながら、一泊二日の末、ついに63人全員が山頂まで登りきった。
ヒマラヤ山脈には、希望する生徒を募って旅立った。
「ヒマラヤ歩いていると、こっちも生徒も苦しくなってくるわけですよ。それでもフウフウ言いながら歩くんです。同じシェルパの爺さんの小屋でメシ食ってね」
「やっぱり中にはついて来れなくなる子供もいます。じゃあ、その子の面倒をみんなでみようとなって、全員で登ろうという気持ちが湧いてくるんですよね」
◎ヒマラヤ
そのヒマラヤ登山に加わっていた生徒の一人、大矢洋さんは当時の様子を振り返る。
「ヒマラヤの氷河を目の前にして、すごく不安になりました。こんなとこ登れるのかなぁって。テレビでしか見たことのなかった風景を…」
そんな生徒たちの不安を知ってか知らずか、三浦校長はひょうひょうとしたままだった。「冗談なんか言いながら、『よ〜し、いくぞ〜』みたいな軽いノリで…」。そんな校長を見ていて、大矢さんは何だか楽な気持ちにもなっていったという。
ところが、ベースキャンプを出たなり、大矢さんはすぐに激しい頭痛に襲われる。高山病だ。「マジしんどい…」。
それでもひょうひょうとしている三浦校長。「これがよく効くんだ」といって大矢さんに差し出してきたのは、一杯の抹茶。そしてそれは、不思議とよく効いた。身体にも心にも…。「すごく励まされました」と大矢さん。
その同時刻、「もしもし、元気〜?」。生徒たちのヒマラヤ登山隊は、リアルタイムのパソコンや衛星電話で、日本の学校とつながっていた。
そんな日本からの声援にも励まされ、ついに5000m峰のゴーキョピークに登頂成功。大矢さんは、その翌年に6000m級のメラピークへの挑戦も成功させ、日本人最年少(17歳)での登頂成功という大記録を樹立した。
今の大矢さんは、特別養護老人ホームでヘルパーとして働いている。「あれ(ヒマラヤ)があったから、もう何でもできるかなと(笑)」
◎変わる人生
「大矢くんって、ほんとにか細い子なんですよ」と高校の理事は話しはじめる。「三浦校長はその子をヒマラヤに連れて行って成功させてしまった。このリーダー性というか、モチベーションをずっと持続させる凄さっていうのは、並の教育者にはできないことですね」
ヒマラヤ登山隊に加わっていた別の生徒、門谷優さんもヒマラヤに人生を変えられた一人だ。当時いじめに苦しんでいたという彼は、ヒマラヤの話に真っ先に飛びついたという。
「ヒマラヤを登っていて、ホントにしんどい時なんかに、三浦先生はよく、『その次の岩まで、その次の木まで』と言って、着実に一歩一歩距離を伸ばしていくことを教えて下さいました。それは今でも本当にその通りだと思っています。あの言葉は今の自分の中でも『生きている言葉』なんです」
ヒマラヤに魅せられた門谷さんの心には、「ネパールで仕事をしたい」という気持ちが湧いてきたという。その新たな目標のために、門谷さんは4年間留学して英語をマスターし、念願のネパールの東大、トリプトファン大学に入学。ここでネパール語もマスター。
今は国際的な報道山岳カメラマンとして、同地で活躍。ヒマラヤの雄大な大自然の魅力を伝えると同時に、児童労働問題など、門谷さんのとらえたネパールを世界に発信し続けている。
「三浦先生にヒマラヤに連れて行っていただいて、ヒマラヤの雄大さにはホント感動しましたし、世界最貧国としてのネパールの現状にすごくショックを受けました。子供たちが当然のように働かされている、学校にも行けない貧しさに…」
◎75歳のエベレスト
三浦校長が75歳でエベレスト2回目のチャレンジに旅立つ目前、生徒たちはサプライズ激励会を用意していた。「ハッピー、バースデー!!」。エベレストをかたどったケーキは生徒たちのアイディアだ。
2008年、日本の生徒たちが衛星通信で見守る中、三浦校長は見事に登頂成功。初めての挑戦の時は山頂からまわりが何も見えなかったというが、今回の2回目は「抜けるような青空」。まるで「地球を見渡すような景観」だった。
「涙が出るほど、辛くて、厳しくて、嬉しい…」
「三浦校長、お帰りなさーいっ!」
帰国する校長を成田空港で待ちかまえていた生徒たち。朝5時という早朝の到着だったにも関わらず。
「ぼくたちの校長は、年齢とか関係なく、夢に向かって何度でも挑戦していく、すごい志をもった校長先生なんです。すごく誇りの校長先生です!」と生徒たちは自慢げに語っていた。
その校長先生の背中に、生徒たちは大いに感動したのである。
「生徒たちは、全然変わるんです」と三浦校長は言う。
◎ひ弱
「ぼくはね、引きこもりの元祖なんですよ」と三浦雄一郎氏は、自分の子供時代を語り始めた。
じつは、三浦氏は幼稚園も中退している。当時「ひ弱」だったという三浦氏は、人力車で幼稚園まで通わされるのがイヤでイヤで、逃げ回っていた末のことだったとか。「海にまで逃げていったら、家族もあきらめました。一年くらいは通ったかな?」と三浦氏。
小学校時代もまったく順調ではない。父親が公務員だったこともあり、転校転校の連続。田舎の青森から仙台に転校した時、その都会の学校のレベルの高さから「落ちこぼれ」に。
先生からは「何でこんなにできないんだ!」と怒られ、ますます落ち込み、ついにはストレスから病気が悪化。結核で患った肋膜炎から、4年生の半分は学校にも通えなくなってしまった。
すると、父親が病床に現れて、こう言った。「病院から退院できたら、蔵王へスキーに連れてってやる」と。それを聞いた途端、雄一郎少年の病気はいっぺんに治ってしまう。「こんな病院なんかにいる場合じゃない!」と。
冬になると弘前城の急な石垣を登っては、凍ったお堀へのスキー滑降を繰り返していた雄一郎少年。スキーとなると、もう大夢中なのだった。ましてや、あの蔵王に行けるというのだから!
◎蔵王
父親の荒治療は、小学4年生の雄一郎少年を、大学生の冬山合宿に参加させるというものだった。小さな少年は食料から何からを背負わせられて、20kmもの山道を歩かせられる。ほうほうの体で着いた温泉宿。
ほっとしたのも束の間、そこからまた4時間もかかるドッコ沼の山小屋まで行くのだという。折り悪く、山は吹雪だ。「親父の背中を見失ったら死ぬ」という過酷な条件の中、やっとのことで山小屋までたどり着く。もうすっかり夜中になっていた。
山小屋にいた大学生は、着いた雄一郎少年を見てビックリ。「こんなちっちゃい子が、この吹雪の中を越えて来たのか! 小学4年生?!」。
ぐったりしていた雄一郎少年は、驚く大学生を見て、急にシャンとした。急に誇り高い気分になったのだ。それから10日間、山を登ってはスキーで滑り降りるということを、その大学生たちと一緒に繰り返した。
そして、山から帰ってきた雄一郎少年。不思議と学校の教室や生徒たちが「ちっちゃく見えた」。今までは全然ついていけなかった学校が、急にちっちゃく感じるようになってしまったのだ。
◎挫折続き
小学校を卒業した雄一郎少年、残念ながら中学受験に失敗する。身体検査で病気のことを聞かれた時の「イヤな予感」が的中してしまったのだ。
失意の雄一郎少年、「押し入れの中にもぐり込んで、引きこもっていました。中に電気スタンドなんか持ち込んでね。お腹が空くと、その押し入れから出て来て、メシを食べて、また押し入れに戻る。引きこもりの元祖ですね」
そんな雄一郎少年を冷やかす母親。「なにさ、中学校一回二回落ちたって。エジソンでも誰でもね、みんな落ちこぼれたり落第したり、学校でバカにされてりしてんのよ」と。
「えっ?」と雄一郎少年。「世界の大物はそっから発奮したんだから、大物になるには、落第しなきゃダメなんだよ!」と肝っ玉母ちゃんは言った。
一方で、母親はこうも言う。「そんなにクヨクヨ勉強ばかりしてどうすんだい? 歌手でも俳優でもなればいいじゃないか。勉強だけが人生じゃないんだから」と。
そう言われて考えた。「でも、歌は音痴だし、こんなに短い足ではオレは俳優にもなれまい」。じゃあ、やっぱり勉強するか。とりあえず、そうなった。
後年、雄一郎氏は娘にも同じことを言ったらしい。すると、彼女はやっぱり勉強する気になって、隠れて勉強していたとのことだ。
◎父親の背中
三浦雄一郎氏は、33歳の時に富士山山頂からスキー直滑降をしてみせて、世間をあっと言わせた。その猛スピードを止めたのは、パラシュートという斬新なアイディアだった。
ちなみに、イタリアで出した時速172kmという滑走スピードは、当時の世界最速だった。そして、その恐怖のスピードで彼は転倒。それでもケガはなかった。「世界で最も速いスピードで転倒して無傷で生還」。そんな珍記録ももっている。
37歳の時には、世界最高峰のエベレストを大滑降。これはスキー最高地点である。その後、20年かけて、世界七大陸すべての最高峰からのスキー滑降を達成する(54歳)。
三浦氏がスキーにのめり込むようになったのはやはり、子供時代に父親からスキーに連れて行ってもらったことが大きい。
しかし、その父は何も教えようとしなかったという。
誰も滑ったことのない急斜面を探しては登っていく。すると、雪質を調べるためか、ストックで2、3度雪面をつついたあと、父親は「忍者のようにサーッと滑り降りていってしまう」。はるか下で止まる父。早く降りてこいとばかりに、下でストックを振っているだけ。
深い雪にスキーをとられて、転がりながら降りていく雄一郎少年。ようやく下まで着くと、また「えっさえっさ」と登る。そしてまた…。
父はその背中でしか、スキーを教えようとしなかったとのことである。
◎窮屈な競技
中学、高校と競技スキーを行った雄一郎氏は、大会などで数々の大会を手にしていく。
しかし、その競技スキーはどこか「性に合わない」。「何人もの選手がコースに押し合いへし合い」。自由で楽しいはずのスキーが、競技となると「人を押しのけ、突き倒して、あわてふためく」。
たとえば、オリンピックで銀メダルをとった猪谷千春というスキー選手がいるが、彼は子供時代に父親から厳しくスキーを仕込まれたがゆえに、メダルを取ったら、もうスキーを見るのもイヤだと、スキーを投げ出してしまったらしい。
一方の三浦雄一郎氏は、そんな窮屈な競技スキーに反発し、全日本のスキー連盟と激しく対立。結局は、アマチュアスキーから「永久追放」という憂き目に遭わされる。
期せずして自由になった三浦氏。プロスキーヤーとして新天地を求め、一時は世界ランクの8位に名を連ねる。
そして、さらなる自由と可能性を求めた三浦氏は、富士山、エベレスト、そして世界の山々へと、その羽を広げていくのであった。
「ぼくは猪谷さんとは正反対。雪もスキーも大好きで、まだまだ挑戦したいんです」
◎迷走
しかし、世界七大陸の最高峰をスキー制覇すると、三浦氏は迷走を始める。不摂生な生活がたたり、メタボに高血圧、そして不整脈。不健康の極みである。地元の小さな藻岩山(標高531m)の登山ですら「息切れするという体たらく」。
その一方、父(三浦敬三)は99歳にしてモンブランの氷河をスキー滑降。またしても、その背中に教えらた雄一郎氏は、一転改心。ついでに、息子(三浦豪太)までがオリンピック出場を果たすのを見て、自らの目標も新たにした。
その新たな目標となったのが、70歳でのエベレスト挑戦という大目標であった。その時、三浦雄一郎氏65歳。目標まであと5年…。
両足に10kg近い重り、背中には20kg以上のリュック。それで東京の街を歩きまくった。時には何時間も。
そして迎えた2003年、70歳でエベレストの登頂を果たした三浦雄一郎氏は、世界最高齢の登頂者としてギネスにその名を記載されることになる。
◎待っていた世界
三浦雄一郎氏の足跡を振り返ると、まったく順風満帆ではない。落胆があり、挫折があり、障害がゴロゴロしている。
「考えてみると、僕の人生は挫折の繰り返し。夢をつかみかけては、シャボン玉のように消えていったんです」
それでも、彼は前を向いて歩き続けたのだろう。時には「クヨクヨするな」と肝っ玉母ちゃんに笑われながら。そして、うるさく言わぬ父親の背中に何かを感じながら…。
「失敗しても、どこかで世界が自分を待っているように感じていました」
そして実際、世界は三浦雄一郎を待っていた。
彼が校長として生徒たちに伝えたいのは、そういう想いなのかもしれない。
現代社会に疑問を感じていた生徒たちも、富士山で、エベレストで三浦校長の「背中」を見るにつけ、確かに「何か」を感じずにはいられなかった。
75歳で2度目のエベレスト登頂を果たした校長に、生徒たちは惜しみない拍手を送り、そしてその偉業はみんなの誇りとなった。
◎人類のフロントランナー
そしてさらに、80歳になろうとする校長は、80歳で3度目のエベレストにチャレンジするんだと、日夜重りを背負って歩き続けている。
「これはホントに、子供たちがやりたいこと、夢中になりたいことを見つけてあげたら、子供のエネルギーってモノ凄く出てくるんですよ」
そう目を輝かせる79歳の三浦校長こそが、人生に夢中になり続けている張本人だ。
自らを「人類のフロントランナー」と自負する三浦氏は、80歳でエベレストに挑戦することによって、「高齢化社会」の新しい可能性を世界に示そうとしている。
成功しても、失敗しても、無我夢中でガムシャラに挑戦し続ける80歳、三浦雄一郎。
その背中を、生徒たちも、高齢者も、みんなでしっかり見届けようとしている。
そしていずれ、自らがその背中になっていくのだろう。彼らも私たちも…。
かつて、森信三氏は「お互いの背中は見えないもんですなぁ…」と言っていたが、自分の背中とは、いったいどんな風に見えているものなのだろうか?
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NHK 仕事学のすすめ「三浦雄一郎 冒険(ベンチャー)スピリットが扉を開く」
北海道新聞 最高齢エベレスト登頂者 三浦雄一郎