2012年02月14日

歴史のスレスレを生き抜いてきた「白川郷」。合掌造りを生んだ波乱の歴史。


「飛山濃水(ひざん・のうすい)」とは、現在の「岐阜県」の特性を如実に言い表した言葉である。

かつては、「飛騨」と「美濃」という2つの国であった岐阜県。「飛山(ひざん)」の意味するところは「飛騨の山岳地帯」であり、「濃水(のうすい)」とは「美濃の水郷地帯」を指す。



美濃の大地を潤す複数の河川は、その多くを飛騨の深い山並みに端を発する。

「飛騨山脈」ほど急峻な渓谷を多数抱える山脈も珍しい。それは、長い年月の間に大量の雨水や雪解け水が、積極的に谷を削り取っていった痕跡でもあろう。



そんな深い谷々で分断された飛騨の国の奥にある「白川郷」は、まさに「陸の孤島」であり、その地に人々が生を営み続けたこと自体が、驚愕の事実ですらあるようにも思える(かつては罪人の流刑地ともされていたこともある)。

いかにして、かつての人々が白川郷に住むようになったのかを探っていくと、その歴史は薄ボンヤリとしており、まったく定かでない。

源平合戦の初期に、木曾義仲という源氏方の武将が、倶利伽羅(くりから)峠で華々しく平氏方を打ち破る戦(1180)を展開したが、その時の平氏の落ち武者が白川郷に住み着いたとも言われている(しかし、この話が伝説の域を出ることはない)。




より確かな歴史が見えてくるのは、この地に「浄土真宗」が伝わってからである。

もともと、白山信仰の根強い土地柄であった白川郷であるが、美濃国から追われてきた僧・善俊(親鸞の弟子・後鳥羽上皇の息子)の熱心さによって、白川郷はのちに北陸の一向一揆衆とも結託するほど熱烈な浄土真宗の信仰地となってゆく(「岷江記(びんこうき)」)。

白川郷自体で一向一揆が起こったという記録はないが、他国の戦いにおいて、その都度出陣を要請されており、京の真宗本願寺派と北陸の一向衆徒を結ぶ街道拠点として重要な役割を果たしたのだと言われている。



司馬遼太郎に言わせれば、こういうことになる。

「飛騨国白川谷という秘境の渓谷に住む人々のすべてが、室町末期に浄土真宗の門徒になり、この宗門の法儀によって統一された単一の秘境文明をつくった(街道をゆく四 白川谷の村々)」




急勾配の山々に両脇を圧迫されたような白川郷にあって、その地の人々が阿弥陀如来に救いを求めたことは、じつに自然な成り行きのように思える。

その細長い渓谷には、民家を並べるのがやっとやっとで、とてもではないが十分な糧食を生産できるような土地を確保することができなかった。

そのため、村民が無闇に増えることを恐れた村人たちは、長男以外の結婚を正式に認めなかった(分家を増やさなかった)のだという。

加えて、日本有数の豪雪地帯ともなれば、人々がこの地に住み続けたこと自体がむしろ奇跡的である。



白川郷の「合掌造り」の家屋は、その生活の厳しさを雄弁に物語ってくれる。

常の合掌造りよりも急勾配の屋根の傾斜(60°)は、豪雪を重力により振り落とす役割を果たすと同時に、広い「屋根裏」を確保する意味もあった。

稲作の土地が確保できない白川郷では、家屋の屋根裏を利用した「養蚕(ようさん)」が盛んに行われていたのである。

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地域によって、養蚕は住居とは別棟で行われることもあるが、農地の限られた白川郷においては、少しでも農地を確保するために、養蚕は住居の「屋根裏」で行う必要があった。

幸いにも、住居には人々の温もりがあるので、春の遅い白川郷では、屋根裏がハウスのように暖かく、その点においても屋根裏養蚕は効率的であった。



南北に細長い白川郷の渓谷には、谷筋に沿って南北の「風」が吹き抜ける。

白川郷の合掌造りの屋根が南北に平行に造られているのは、その吹き拔ける風を屋根裏に通すためでもある。

その構造のおかげで、屋根裏の窓を開放すれば、夏場の蒸し暑い屋根裏がカラリと涼しくなり、蚕(かいこ)が蒸し暑さでやられることを防げたのだという。




そして、その構造は屋根の面を「東西」に向けることになった。

屋根が東西を向くことで、一日中屋根に太陽が当たるようになり、屋根に厚く積もった雪は溶け易く、濡れた屋根も乾き易くなった。



「茅(かや)」で葺(ふ)かれた屋根は、ジメジメと湿りやすい。なぜなら、茅という素材はあまり「水を弾かない」からである(逆に、水を吸着する性質がある)。

屋根の素材が水を吸うとなると、いかにも雨漏りしそうな感じがするが、じつは水を弾く撥水素材の方が雨漏りしてしまうのだという。



水をタップリ含む茅(かや)は、表面20cmほどはグッショリであるものの、それより下には水を通さない。というのは、吸い取った水は屋根の急傾斜によって、すかさず軒へと排水されるからである。

もし、茅(かや)が水を弾くのであれば、幾重にも積み重ねられた茅が盛んに水を弾き合い、軒先に流れ落ちるスピードよりも速く家屋内部へ水を落としてしまうのだという。



白川郷の茅葺屋根の厚さは1mにも及ぶ。

この厚さがあれば、表面20cm程度に水が浸透しようとも、決して屋内に及ぶことはない。

雨水を防ぐべき屋根なのに、逆に雨水を屋根に吸収させるというのは、発想の逆転であり、土地に生えるものを有効に活用しようとした先人たちの苦肉の策でもあったのだろう。



また、三角の屋根組みには、釘が一本も使われていない。

巨大な屋根を固定しているのは、柔らかい縄やネソと呼ばれる樹木(マンサク)の繊維である。

柔らかい素材で結び付けられた大屋根には、適度な弾性があり、その弾性は雪の重さや、風の風圧に対する柔軟性を生むこととなった。

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マンサクの木から取られた「ネソ」という素材は、マンサクの枝を捻(ねじ)って使い易くしたものである。

屋根組みを結び付ける時の「ネソ」には、まだ水分が残った状態であるが、その水分は年月とともに囲炉裏の煙で次第に乾燥してゆく。すると、水分を失うにつれてネソは少しづつ縮んでいき、より硬く締まっていくことになる。

その結果として高まる強度は、鋼鉄並みとも言われている。



豪雪地帯の家屋に降り積もる「雪の重さ」は、想像を超える重量になることもある。

今年ほどの積雪(2m以上)となると、茅葺きの屋根に積もった雪の重さは、およそ150トン強。軽自動車15台分であり、小さなジェット飛行機一機分でもある。

100年以上、家屋によっては250年以上も豪雪に耐え抜いてきた白川郷の合掌造りの強度には、恐るべきものがあるとも言えよう。

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ところで、極端に高い強度を求められる屋根組みの結束材とされた「ネソ」とは、それほどに強力なものなのであろうか?

じつは、ネソの原料となるマンサクの枝は、決して扱いやすいものではない。その枝を強く曲げ過ぎるとポキリと折れてしまう程度の弾性しか持たず、樹皮に至っては簡単にちぎれてしまう。

そのマンサクの枝を、丁寧にねじって曲げほぐすのは大変な重労働であり、高い技術も要求された。それは成年男子が身に付けるべき必須の技術でもあったのだという。



おそらく、屋根の結束材としては、マンサク以上に適した自然素材は他にもあるのであろう。しかし、過去の人々が利用できる資源というのは、その郷のモノに限られていたはずである。

きっと、白川郷の合掌造りを屋根裏で支えるマンサクは、より身近に入手できる素材であったのであろうし、先人たちはその活用方法を試行錯誤の中で模索していったのであろう。

現在の補修においても扱いにくいマンサクが依然として使われているのは、伝統を重んじるためだとも言われている。



さて、白川郷の歴史において、もう一つ重要な要素がある。

それは、「煙硝(えんしょう)づくり」である。煙硝というのは、鉄砲火薬の原料となるものであり、硝酸カリウム(KNO3)の俗称である。

白川郷は「加賀藩の火薬庫」とも呼ばれ、その深い山あいが軍事機密を保つためには格好の場と考えられたのである。




意外なことに、養蚕と煙硝づくりはつながり合っている。

煙硝を作るためには、蚕(かいこ)の「クソ」が大量に必要とされたのである。



硝酸の大元は「アンモニア」である。

蚕のクソには大量の尿素が含まれており、その尿素は土壌微生物の分解によりアンモニアに変化する。

そのアンモニアを硝化細菌(ニトロソバクターとニトロバクター)が酸化することで「硝酸」が生まれ、その硝酸は土壌中のカルシウムイオンと自動的に反応して、硝酸カルシウムが形成される。

最後に灰汁(あく)を加えれて煮詰めれば、硝酸カルシウムが硝酸カリウムと変わり、お望みの「煙硝」が出来上がることになる。



他言無用の緘口令が敷かれた村内。合掌造りの家屋の内部は、煙硝づくりの化学工場と化していたのだという。

囲炉裏の両脇には、煙硝生産のための秘密の穴が掘られ、その底にヒエ殻、次に蚕のクソ、その上をヨモギや麻で覆い、最後に土で埋め戻された。



下拵えが完了すると、その囲炉裏端は何気ない生活の場へと装われ、5〜6年かけて放置発酵させることになる。

発酵が完了した煙硝土は、水に浸した後に釜で灰汁(あく)とともに煮詰められ、濃厚になった液体を自然乾燥させて、ようやく煙硝の完成をみる。



なんと複雑で、高い技術を要することだろう。

当然、煙硝づくりの技術は自然発生的に白川郷に起こったわけではない。

確実に他所から伝えられた技術である。



その秘密は、白川郷が浄土真宗の信仰の地であったことと深く関わっている。

織田信長と抗争を続けていた石山本願寺(浄土真宗)は、信長の鉄砲部隊の無比の強力さによって、押しに押されていた。

そこで一計を案じた石山本願寺、信長の鉄砲に対抗するため、密かに火薬の製造を開始する。そして、その格好の地として選ばれたのが、人跡の薄い白川郷であったのだ。



煙硝が「塩硝」と呼ばれたのは、煙硝を「塩」と偽って輸送していた頃の名残りであり、煙硝を運び出す街道は、決して地図に記されることはなかったのだという。

江戸期に入っても軍事秘密基地とされた白川郷には、他の地に例を見ないほどの特権も付与される。米による年貢が免除されることとなったのだ。



もともと米の生産には極端に不向きだった白川郷にとって、年貢米の免除ほど有り難い話はないはずだ。

こうして、人が住むことが全く適さない白川郷は小さなユートピアとなり、その歴史が廃れることなくしばらくは続いていくのである。

為政者により保護されたとはいえ、それでも自然環境の厳しさが和らぐわけではない。この地に無理矢理にでも住み続けるために、先人たちは煙硝のみならず、先述の通り、合掌造りという知恵の結晶をもこの地に生み出すことになったのである。




白川郷の衰退は、煙硝づくりの終焉とともに始まってゆく。

江戸幕府が倒れ、鎖国が解除されると、太平洋の対岸であるチリから大量に硝石が輸入されることになる。そうなるともはや、手間のかかる白川郷での煙硝づくりは必要とされなくなった。

残された産業である養蚕も芳(かんば)しくない。男たちは鉱山へと足を運び、女たちは製糸工場への出稼ぎを余儀なくされるようになる。




終戦後に造られた「御母衣(みぼろ)ダム(1961)」は、白川郷周辺地域の多くの集落を湖底に沈めることとなった。

高度経済成長とともに、村人たちは次々と山深い飛騨の地を後にし、過疎化した村々では茅葺屋根の葺き替えすらままなくなり、ポツリポツリと合掌造りの家屋は消えていった…。

※茅葺きの葺き替えには3千万円以上の金額がかかると言われている。30年に一度くらいは葺き替えが必要とされるのだが、かつては村民たちが総出・一丸となる「結(ゆい)」と呼ばれる共同作業により葺き替えが行われていた。

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周囲の集落がダムに沈む中、なぜか白川郷だけは取り残される形となった。

ダムの補償金の対象ともならなかったため、他の集落のように補償金を使って便利な現代建築に建て替えることも出来なかった。

白川郷に残る合掌造りの家々は、幸か不幸か、こうした消極的な理由で温存されることになる。



時代にすっかり取り残されてしまった白川郷であったが、奇跡的に残されていた前時代の貴重な景観は、新しい時代に再評価されることになった。

かつて白川郷を訪れていたドイツ人建築家「ブルーノ・タウト」は、合掌造りの合理性・論理性を大いに賞賛し、白川郷が世界に知られるキッカケともなった。



あれよあれよと進んだ「世界遺産」登録の話。

めでたく1995年に正式登録されることとなる。



現在、白川郷を訪れる観光客は、100万人とも150万人とも。

意外な形で息を吹き返した白川郷は、一大観光地と化しているのである。



歴史というフィルターを通して白川郷の合掌造りを見た時、その様は歪みながらもギリギリのところを生き抜いてきたことが理解できる。

平家の落人伝説にはじまる白川郷の歴史は、信仰の一大地へと発展したがゆえに火薬(煙硝)と出会い、軍事機密を守る秘境の谷となった。

そして、その軍事基地を支えていたのは、意外にも小さな虫たち(蚕)のクソであったのだ。



おそらく、養蚕だけを細々とやっていたのでは、白川郷の存続は覚束なかったであろう。国家権力と密着した軍事要素があったからこそ、その存続は図れたとも言えよう。

それゆえに、人々は不便な土地であった白川郷にしがみつくようにして住み続ける道を選んだ。そして、そのために合掌造りの技術を高めていったのだろう。



かつての合掌造りは、幾多となく豪雪の重みで潰されたのではなかろうか。

現在にまで生き抜いた合掌造りの家屋は、先人たちが試行錯誤してようやく編み出した結晶なのでもあろう。



その屋根の勾配は60°という崖のような急傾斜であり、地場の茅(かや)やマンサクを何としてでも活用しようとした先人たちの苦闘の痕跡も見られる。

屋根に向きそうもない水を吸いやすい茅(かや)を1mにも積み重ねることによって、撥水素材以上の防水効果を実現し、折れやすいマンサクの枝を丹念に揉みほぐすことにより、鉄鋼並みの強度を持たせることに成功した。



いつ無くなってしまっても不思議はなかった白川郷。

それでも、現在まで生きている。

歴史に残されるものには、それ相応の意味があろう。そして、それが奇跡的に存続しているとなれば、その意味はより重いものとも考えられる。



今冬、日本列島は未曾有の豪雪に襲われている。

30何年振りとも言われる豪雪とて、長い長い歴史を持つ白川郷にとっては、如何ほどのものか。この地は、それ以上の苦難を生き抜いてきたのであろう。




一時期は国家権力に守られたとはいえ、この地を支え続けたのは、白川郷に住み続けた人々に他ならない。

彼らは「結(ゆい)」という協力精神によって、脅威的な大自然の中を生き抜いてきたのである。そして、その結束はマンサクの枝以上に強固なものであったのであろう。



世界遺産ともなった今、その結束は世界に広がったとも考えられる。

波乱万丈続きの白川郷の歴史は、これからも予想を超えた展開を見せていくのかもしれない。

マンサクの花咲く中を…。






出典:アインシュタインの眼
「白川郷〜合掌造りの知恵を解き明かす


posted by 四代目 at 08:31| Comment(1) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月10日

「切腹」にみる責任と犠牲。生死と自他の境に想う。


時は江戸時代。

ある大名屋敷の門前での出来事。

とある浪人が「切腹のために、庭先をお借りしたい」と申し出る。



その屋敷の家老は、苦々しい顔をその浪人に向ける。というのは、当時、「切腹」すると称して、大名屋敷に「たかりに来る」浪人たちが少なからずいたからだ。

庭先を血で汚されたくない屋敷側は、幾ばくかの金を浪人に渡すことも多かったのだ。



そうした浪人たちに辟易していたその大名屋敷では、「見せしめ」のために本当にその浪人に切腹させることにした。

するとその浪人は「真っ青」になり、「もう一両日待ってくれ」と懇願する。しかし、その屋敷の家老は頑として許さない。



否応なく切腹の場が整えられ、その浪人は腹を切らざるを得なくなる。

ところが、この浪人の刀は「竹光(竹でできたニセモノの刀)」であり、これでは腹が切れない。

周りを取り囲む武士たちは、ニヤニヤと嘲笑っている。



「何糞!」と、その浪人は竹光を腹に突き立てる。しかし当然、刺さらない。

大いに恥をかかされた浪人は、ついには舌を噛み切って果てる…。



これは映画「切腹」に描かれるエピソードの一つである。

この話には後日談があるのだが、それはまた後ほど。



「ハラキリ」が世界に知られたのは、モンタヌスの「日本誌」によるものが最初だとされている(17世紀)。

欧米などのキリスト教社会では、「自殺」は最大の罪と考えられていることもあり、当時のヨーロパの人々は、日本のハラキリを「なんと野蛮なことを…」と呆れ果てたともいう。

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しかし、当の武士たちにとって、切腹は「名誉」である。

切腹が名誉ある行為となったのは、戦国時代の「清水宗治」の切腹があまりにも見事であったためとも言われている。

豊臣秀吉に城を包囲された高松城主・清水宗治は、城内の民の命を助けるために、自らの腹を切る。その態度や様はじつに堂々たるもので、腹を切らせた秀吉も大いに感服したと伝わる。



また、切腹して果てた「大石内蔵助(赤穂四十七士)」の辞世の句には、こうある。

「あら楽し、思いは晴るる、身は捨つる、浮世の月にかかる雲なし」



自らが腹を切ることで、周りの人々が助かる。それが家や名誉を守ることにもつながる。

大石内蔵助の辞世の句には、そうした思いが成就したという心地良さすら感じられる。

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しかし、一方で切腹は「安易な責任の取り方」と批判されることも少なからずあった。

ささいな理由から切腹してしまうという例も多く、新渡戸稲造は著書・武士道で、こう嘆いている。

「命は廉価だった。それは世間の名誉の基準で測っても、安いものだった」



冒頭でご紹介した浪人の話は、その一例でもある。

切腹を盾にして、お金をたかるという浪人も実際にいたのである。

しかし、この話の裏には悲しい事情があった。



大名屋敷の家老は、安易に切腹という言葉を口にする風潮を、「武士の風上にも置けない」と憤っていた。浪人に腹を切らせたのは、その軽々しい風潮を戒めるための「見せしめ」だったのである。

後日、またしてもその大名屋敷に、フラリと別の浪人「半四郎」が訪れる。その浪人は、やはり「腹を切りたい」と家老に願い出る。

「またか」と家老は呆れ果てる。



それでも、家老は切腹の場の用意にかかる。

家老が異変に気付くのは、介錯人を呼ぼうとした時だ。

切腹には「介錯人」という首を落とす役割の武士が必要であるが、なぜかその屋敷には介錯人となれる腕の立つ武士たちが、みな病欠で休んでいた。



切腹した者の首を一刀のもとに斬り落とすには、相当の剣術の心得が必要であり、優秀な介錯人が屋敷にいることは、その家の「誇り」でもあった。

だが逆に、そうした優秀な介錯人がいないことは、家の「恥」ともなった。

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家老は狼狽する。

浪人に切腹を申し付けたはいいが、然るべき介錯人が屋敷に不在なのである。これほどの不名誉は大名家にとってあるまじきことである。

じつは、切腹を申し出た浪人「半四郎」が、その家の介錯人たちを討ち果たしていたのであるが…。



先に詰め腹を切らされた浪人は、半四郎の娘婿であり、半四郎はいわば「仇討ち」という形で、その大名屋敷に乗り込んで来ていたのである。

生活に困窮していた半四郎の娘婿は妻の病気を医者に見せることもできず、まさに決死の思いで大名家に「無心」を願い出ていたのである。しかし、無情にも本当に腹を切らされてしまったのだ。



家老に面と向かった半四郎は、家老に詰(なじ)り寄る。

「一両日待ってくれと懇願する娘婿に、なぜに最後の情けをかけてやれなかったのか」と。

「よくも金に困った若者をなぶり殺しにできたものよ」と半四郎が嘲笑した時、周りの武士たちが一斉に半四郎に襲いかかり、大乱闘の末、半四郎は切腹して果てる…。




武士たちの切腹は、「自己犠牲」の現れでもある。

切腹という風習は明治時代以降にほとんど見られなくなるものの、この「自己犠牲」の精神ばかりは日本人の心の奥底に深く根づき続けるものともなった。

第二次世界大戦を「お国のため」に戦った日本人たちの心にも、その自己犠牲は明らかにあったであろうし、高度経済成長の日本にあって、「会社のため」に家族を犠牲にした人々の気持ちの根底にも、やはりあったであろう。



一方、切腹の負の側面である「安易な責任の取り方」も、長らく日本に根づくことともなった。

誰かを「辞任」させることで、本当の責任の所在を不明瞭にしてしまうという悪しき風習も、現代社会には色濃く残っている。



新渡戸稲造は、こうも言っている。

「死を軽んずるのは勇気の行為である。

しかし、敢えて生きることこそが真の勇気であることもある」




何を「正義」とし、何を「名誉」とするのだろう?

潔く死ぬことであろうか?

それとも、泥臭く生きることであろうか?



死ぬ者(自)がいれば残される者(他)もいるということは、軽視されがちな事実である。

「明良洪範(1684)」という書によれば、子孫の加増や栄達を求めて切腹することを、「商腹(あきないばら)」としている。

しかし、残された者たちが加増されたり栄達したりしたケースは「皆無」であったともいう。



自己犠牲を悪く言えば、「自己満足」ともなってしまう。

お国のために戦った日本人たちは光栄であったであろう。そして、会社のために戦う日本人もまた然り。

しかし、ここに残されているのは、「本当に犠牲になったものは何なのか?」という問いである。犠牲になったのは自分ばかりであったのか、それとも…。




出典:100分de名著 新渡戸稲造“武士道”
 第2回「名誉・日本人の責任の取り方」

posted by 四代目 at 06:19| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月31日

弱いからこそ生き残れた我々ホモ・サピエンス。他人の目を気にする理由とは?


「コーヒー、一杯50円です」

そう書かれてはいる。しかし、箱にお金を入れずとも、コーヒーメーカーからは自由にコーヒーを飲むことができる。

さて、あなたは50円を払うかどうか?

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イギリスのある実験によれば、この状況下でお金を払う人は「一割(10人に1人)にも満たない」という結果が出た。

ところが、「一杯50円」と書かれた紙に「ある写真」を添えたところ、お金を支払った人の数は実に7倍の「7割(10人に7人)」にまで急上昇したという。

さて、その「ある写真」とは?



それは、「人の眼」である。

「見られている」と思うことで、多くの人がお金を支払うようになったのである。

この実験結果の示唆するところは、「人間は『他人の監視』に敏感である」ということだ。

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このような「人の目を気にする」という性向は、人類発展のカギでもあったという。

なぜなら、他人の目を気にしながら、他人に配慮して生活することで、「より大きな集団」を形成することが可能になったからである。



もし、他人構わず自分勝手に振る舞うのであれば? その集団の数は「大脳新皮質」の量に相関するのだという。

「大脳新皮質」というのは、脳ミソの表面を覆う膜のような組織で、動物が進化するほどに、その厚みを増すものと考えられている。



テナガザルの一集団の頭数は、およそ「15匹」。ゴリラであれば「35匹」。チンパンジーであれば「65匹」。

そして、脳ミソに対する「大脳新皮質」の割合は、テナガザル「2.08%」、ゴリラ「2.65%」、チンパンジー「3.2%」となり、大脳新皮質の割合が大きければ大きいほど、大きな集団を作っていることが判る。



他の動物よりも進化したとされる「人間」の大脳新皮質の割合は「4.1%(テナガザルの2倍、チンパンジーの1.3倍)」。

当然、一集団の数も人間の方が断然多い。その数、およそ150人(テナガザルの10倍、チンパンジーの2.3倍)。人間の一集団の数「150人」というのは、地球上で原始的に暮らす人々の平均的な数を基準にしている。

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なぜ、一集団の数が限定されるかといえば、まとまって暮らすには、それなりの知性が必要でもあるからだ。知性によって、ある種の集団ルールを守れなければ、一緒に暮らすことはできない。

そして、その知性を測る指標の一つが、大脳新皮質の割合ということになる。知性があることで、「他人の目」を気にすることもできるようになるのだ。

もし、その知性を超えた数の集団を形成しようとすれば、いずれ喧嘩別れすることにもなる。他人の目による「抑止効果」にも限界があるのである。



ところが、人類の知性は、他人の目以上に「抑止効果」をもつモノを発明した。

それは「武器」である。

集団のルールを破った者を、武器で懲らしめたり、武器をチラつかせることで、強制的に集団内の規律を保つ方法を人類は進化させてきた。



オーストラリアの原住民である「アボリジニ」は、ルールを破った者をヤリで刺して、見せしめにしたという。

一度目は踵(かかと)。これは致命傷にはならない。二度ルールを破れば、太モモ(まだ、死なない)。三度も破れば、胸(即死)、といった具合である。

少々残酷な感もあるが、こうでもして集団の規律を維持しなければ、肉体的に「非力」な人類が生存することは不可能だったのである。一人一人は非力でも、大きな集団を作れば、大きな力となったのだから。



大きな集団を作れるようになったことで、現代の人類「ホモ・サピエンス」は生命をつなぐことができた。

実は、我々「ホモ・サピエンス」には、過去に強力なライバルがいたのである。そのライバルとは「ネアンデルタール人」。

ネアンデルタール人は我々とほとんど同じような人類であったという。ただ、彼らの「力」はケタ外れに強かった。骨肉隆々、オリンピックで競い合えば、ネアンデルタール人たちがメダルを独占するのは必至だったであろうと言われるほど、肉体的に優れていた人類である。

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それほど強かったネアンデルタール人であるが、結局は現人類である我々「ホモ・サピエンス」に勢力図を奪われることになった。

ネアンデルタール人は膂力(りょりょく)に長けていても、頭が弱かったのか? いや、そうとも言い切れない。脳ミソの大きさは変わらず、両者ともに同じような「石器」を使っていたのである。

では、何が勝敗を分けたのか? 



それはホモ・サピエンスの「非力さ」だったという。

弱っちいホモ・サピエンスは、集団としてまとまらなければ、強力なネアンデルタール人には対抗できなかった。

それゆえ、ホモ・サピエンスは人一倍「他人の目」を気にする性質を身につけ、より大きな集団を作るようになったのだという。



さらに、弱いホモ・サピエンスが「小さな獲物」しか獲れないことも幸いした。

強いネアンデルタール人は、大きな獲物をバカスカ獲っていたというが、地球が「氷期」を迎えるや巨大動物は激減。小さな動物を取るのが苦手なネアンデルタール人たちは、次第に食糧不足となっていった…。



小さな動物を狩るには、「飛び道具」が必要だったのである。

ヤリを遠くへ飛ばすのを補助する道具に、「投擲(とうてき)具」というものがあるが、この道具を使えたのは「ホモ・サピエンス」だけであったのだという。

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自らの非力さをカバーするために、ホモ・サピエンスは「集団形成の知恵」を育み、「飛び道具」を駆使するようになった。

そして、その結果、強者ネアンデルタール人の勢いを凌ぐようにもなり、ネアンデルタール人に代わり、世界を席巻することとなったのである。そして、その子孫こそが現在の我々ということになる。



もともとは小動物を狩るための「飛び道具」であったが、その刃はホモ・サピエンス本人にも向けられるようにもなった。

先に記した通り、巨大化した集団を維持するための「抑止力」として、「武器」が使われるようになったからである。



武器が進化し、その飛距離や破壊力を増せば増すほど、人類は大人数でまとまることもできるようになった。

ヤリは弓矢となり、鉄砲となり、大砲ともなった。そして、核兵器ともなった。

現在70億人を超える人類「ホモ・サピエンス」は、こうした強力な武器により、お互いを監視し合い、ルールを破るものあらば、「制裁」という手段で懲らしめるのである。



大脳新皮質の割合だけに従えば、人類の集団は150人程度がせいぜい。

ところが、現在の国家の人口はそれよりもズッと多い。日本であれば1億人以上、アメリカは3億人以上、中国ともなれば10億人を超えるのである。

これほどの大集団を維持するには、その数に見合った強力な武器を欠かすことができない。しかし、その強力な武器が「争い」をも助長する。これが現在のホモ・サピエンスが抱えるジレンマでもある。



集団内の数が増すほどに、お互いが「争うリスク」も増大する。

争うリスクが増すほどに、他を凌ぐ強力な武器が必要になる。そのイタチごっこは、核兵器という武器に至り、ニラメッコのまま膠着状態に入っている。

ひとたび事が起こらば、ホモ・サピエンスは絶滅しかねないという危機感の中に、我々は生かされていることにもなる。



なぜ、ホモ・サピエンスは自らの首を絞めるほどに、お互いを厳しく監視し合うのであろうか?

その起源を遡れば、それはネアンデルタール人との抗争にまでたどり着く。ホモ・サピエンスは集団を大きくすることで、強大なネアンデルタール人を凌いだのである。

一方、個人の力が強かったネアンデルタール人は、弱いホモ・サピエンスのように群れることはしなかった。そのため、強きネアンデルタール人たちは、群れたホモ・サピエンスに追われてゆくことになったのでもある。



こうして、ホモ・サピエンスにとっては、集団化するということが、強力な「成功体験」になった。そして、その成功を支えたのが、集団のルールを維持するための「相互監視」だったのだ。

それゆえに、我々は「他人の目」を気にし、「武器」の前に萎縮するのである。



個人よりも集団を優先させてきたホモ・サピエンスは、集団ルールを破った者を「罰する」ということをも受け入れた。

むしろ、ホモ・サピエンスは「罰する」という言葉に、甘美さをも感じるのだともいう。

「罰する」という言葉を聞いた時、ホモ・サピエンスの脳は「側坐核」という部位の活動が活発化する。これは「快感」を感じている証(あかし)でもある。



つまり、我々ホモ・サピエンスは、社会のルールを破った者を「罰する」ことに「酔い痴れる」ことができるのである。

「正義」という言葉が尊重され、悪さをした者は「罰せられて当然」と我々は考える。勧善懲悪、信賞必罰。これらこそがホモ・サピエンスの集団に特徴的に見られる傾向である。



しかし、ここで我々は少々冷静にならなければならない。

何のために他人を罰するのか? 何のために正義を行使するのか?



勧善懲悪とは言えども、善とは集団にとっての善であり、悪とは集団にとっての悪である。つまり、善悪の基準はその集団によって異なることにもなる。

それは宗教の示す善悪とて同じことで、全人類にとっての絶対的な善悪という規定は極めて難しい。その基準を強いて求めるのならば、それは「生き残ったか否か」という「結果論」を待たなくてはならない。

それは結果論なだけに、事前に知ることは困難であると同時に、その結果が将来にかけて通用するかどうかも定かではない。



集団化して生き残ったホモ・サピエンスの成功体験が、今後、新たな成功をもたらすのか?というと、それは疑問の多いところである。

現に我々は、強力すぎる武器に監視されたまま、身動きが取れなくなってしまっているのではなかったのか?

我々ホモ・サピエンスは、そろそろネアンデルタール人に対する成功体験を忘れてもいい頃なのかもしれない。昔の成功体験は、時として新たな行動への重い足カセにもなってしまうのだから…。



幸いにも、ホモ・サピエンスの「本能」は、「罰する」という感覚を是認しない。逆に、「他人の痛み」にはことさらに敏感なのである。

他人が痛みを感じているシーンを目にした時には、脳の「島皮質」という部位が活性化する。島皮質が働くということは、「不快」に感じているということである。

つまり、ホモ・サピエンスの脳は、本来、他人の痛みを嫌がるようにできているのである。



ところが、他人の痛みが「罰である」と認識すると、脳の反応は激変する。

先にも記したように、「不快」を感じる島皮質の代わりに、「快楽」を感じる側坐核が反応するのようになるのである。

すなわち、「罰する」ことへの快楽は、「作られた感覚」なのである。それは、ホモ・サピエンスが生きぬくために作られた感覚なのである。



こうして人類の足跡を辿ってくると、我々が未来へ進むべき道も、おぼろげながらに見えてくる。

我々が過去において、何を必要としてきたのか?

そして、それは今も必要なのか?



現代の我々はどれほどの武器を必要とするのか?

武器がなければ、集団としての規律は保てないのか?



他人の目を気にし、他人の痛みに敏感である我々ホモ・サピエンス。

その純粋さこそが、今必要とされているのかもしれない。



そして、ホモ・サピエンスの最大の武器が「弱さ」にあったことも、忘れてはならない。

もし、「強さ」だけが生存を可能にするのであれば、ここにいるのはホモ・サピエンスではなく、ネアンデルタール人であったであろう…。



そう言えば、現代の若者たちは「飛び道具」であるスマートフォンなどを駆使し、ソーシャル・ネットワークと呼ばれる「群れる」仕組みを活発化させている。

これこそ、ホモ・サピエンスとしての真骨頂か?




出典:NHKスペシャル ヒューマン
 なぜ人間になれたのか 第2集 グレートジャーニーの果てに


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2012年01月30日

栄光と悲劇に生きた「源義経」。偶像化した義経の示すもの。


「源義経」という響きは、我々日本人に様々な「感情」を想起させる。

不世出の英雄でありながら、非業の死に終わったその生涯は、一度聞いたら忘れ得ぬほどの鮮烈さで彩られている。



彼の名が我々の感情を激しく揺さぶるのは、彼自身が大いに感情的だったからであろう。彼の肉声として唯一現存する「腰越状」という書状は、とりわけ感傷的である。

「…空しく血の涙にくれております…」

「…今や嘆きは深く切なく、仏神のお助けの外は、どうして切なる嘆きの訴えを成し遂げられるでしょうか…」

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兄・源頼朝に拒絶された義経の嘆きが、ここにある。義経が歴史に名を記しているのは、わずか9年間。このたった9年間に、何が起き、義経の名が不朽のものとなったのか?



義経が父親・源義朝を戦(平治の乱)に失うのは、彼がわずか2歳の時。

義経の生母・常盤御前は、都の美女千人のうち一番の美女であったとも伝わるが、その母親の助命懇願の末、謀反人の子とされていた義経は辛くも一命を取り留める。



以後、潜伏すること20年。22歳にして兄・源頼朝の挙兵に参じるまでは、全くの空白期間が続く。この間、鞍馬天狗や弁慶などが彩る「牛若丸伝説」が後世に伝えられている。

フラリと歴史の最前線に立った義経。入京から2年とかからず、アッサリと「平氏」を打ち負かしてしまう。

この痛快な快挙には、断崖からの奇襲(一の谷)、大嵐の中の奇襲(屋島)などなど、ウソかマコトか、天才的な武勇伝が引きも切らない(義経・26〜27歳)。




しかし、ここで一転、天下の英傑は兄・源頼朝の疑心に遭ってしまう。

先の「腰越状」には、兄の誤解を解かんと苦悩する弟・義経の姿が映されているのである。



追われ追われて、逃げる義経。

九州へ逃れんとするも暴風に押し戻され、吉野の山中に彷徨うハメに…。この山中での悲劇は、妻・静御前との別れである。静御前は捕らえられ鎌倉へと護送されてしまう。

憎き頼朝の前で舞わされる静御前。その緊迫した決死の場面で、彼女は夫・義経を慕う歌を堂々と歌う…。「頼朝の世である今を、義経が栄えていた昔に戻せたらなあ…(…昔を今になすよしもがな…)」

激怒する義朝。その腹いせからか、静御前が身ごもっていた義経の子供が生まれるや、その赤子を海中へと沈めてしまう…。



一方、京から北陸、東北へと逃れた義経。終焉の地となる奥州平泉へと辿り着く。

運命の日、わずか10数騎の義経主従の館(衣川)に、500騎を超える軍勢が差し向けられる。義経の忠実なる郎党どもは勇敢に奮戦するも、みな討ち死に…。

その間、義経は一切戦うことをせず、持仏堂に篭っていたという。正妻・郷御前(22歳)と愛娘(4歳)を刃にかけた義経は、その後に自害して短き生涯を閉じる…(義経・31歳)。



義経の首級は鎌倉へと送られる。

その首実検にあたったのは「梶原景時」。義経を讒言(ざんげん)して、失脚させたとも伝わる人物である。

そして、その場所は「腰越」。かの腰越状の書かれた場所でもあり、生前の義経が鎌倉入りを許されず留まった因縁の地でもある。またしても、義経の首級はここに留め置かれ、鎌倉入りを許されなかったのだ…。



首実検の口火を切った、その口上…。

「天下の大悪人・義経…、実兄・源頼朝に謀反の情を抱き、鎌倉追討の院宣を強奪し…、その罪状明白なり」

右の額にあったという幼少の頃の傷跡、右の耳の小さなホクロ。これらが義経としての決定的な証拠とされた。その後、首は海へ捨てられたとも…。



そんな義経が歴史に記した9年間は、後世の人々が忘れられるものでは決してなかった。

鎌倉幕府の正史ともされる「吾妻鑑」、室町時代に書かれたという「義経記」などを元に、義経の物語は大きく膨らんでゆく。




義経の生きた時代に、五条大橋などはなかったのだが、牛若丸(義経)と弁慶はそこで闘ったことになった(橋は異界への入り口であり、義経の登場には相応しい場面であった)。

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一の谷の断崖を馬で駆け下りたのは「多田行綱」という説もあるが(玉葉)、そこはやはり義経に降ってもらいたいところである。

義経という偶像は、「英雄とは?」という時代の声に応えるものとして、時代を経るごとに大きく偉大なものとなっていくのである。

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義経は、とりわけ「庶民」に愛された。

歴史書(玉葉)に初めて義経が登場するのは、「頼朝の弟九郎(実名知らず)」という記述である。そんな無名の男が、2年後に天下の平氏を討つのである。

これほどに痛快な歴史も、そうそうなかろう。



しかし、義経の「非」を探せば、それは山と出てくる。

武士としての教育を受けていない義経は、良く言えば「型破り」、悪く言えば「世間知らず」であった。

「奇襲づくめ」の義経の戦略は、武士としての弓馬の道ではなく、「鬼道」と蔑(さげす)まれた。舟を漕ぐ非戦闘員である水夫(かこ)に弓を射るのも禁じ手である。

また、土地を介した御恩と奉公という「主従関係」を無視し、兄・頼朝に対して、「主」というよりも「兄弟」という価値観を優先していたことも、当時は常識はずれであった。

さらに、失脚の主因ともされるのは、朝廷から勝手に任官を受けてしまったことでもある。



義経を快く思わぬ人々が、彼の揚げ足をとるのは容易なことだった。

義経を讒言(ざんげん)したという梶原景時、義経の討伐を命じた源頼朝…、彼らの行いは当然のように正当化されることとなる。当時の規範を外れていたのは、他ならぬ義経の方なのであるのだから。



兄・頼朝、弟・義経は、結果的に争い、最終的には両者とも滅ぶこととなった。弟・義経は兄・頼朝に、その兄・頼朝は北条氏によって間接的に葬られることとなる。

こうした歴史の帰結を見れば、最後の勝者が見えてくる。それは源家に代わって鎌倉幕府の実権を握ることになる「北条氏」である。



鎌倉幕府の正史ともされる「吾妻鑑」は、その黒幕・北条氏による記録なのである。

「吾妻鑑」に描かれる頼朝・義経兄弟は、理性的で冷酷な兄・頼朝、情に深く感情的な弟・義経。このような現代の我々が知る兄弟像は、この書が元になっているのである。

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「吾妻鏡」による論理展開は、こうなる。

冷酷な源頼朝は肉親に厳しく当たり過ぎたが故に、家族関係が大きく損なわれた。そのため、家の没落を早めることになったのだ。

すなわち、源家がたった3代(およそ30年足らず)で終ってしまったのは自業自得であり、我々北条氏が滅ぼしたわけではない、と吾妻鏡は言うのである。



源頼朝の死後(1199)、跡を継いだ2代目・頼家は18歳。頼家は北条氏に幽閉され、のちに死亡(1204)。3代目・実朝は暗殺(この暗殺の影には、当然北条氏の姿がチラついている)。こうして、源頼朝の直系は断絶するのである(1219)。

一連の北条氏による粛清の波によって、義経を讒言したという梶原景時も葬られている(1200)。



歴史は創られるのが常である。

北条氏(吾妻鏡)の創った源頼朝は、非情であるがゆえに、後世の人々の共感を得るところが少ない。彼の死後、たった20年で源家の直系が途絶えようとも、それほどの感慨が湧くわけではない。

その反面、北条氏(吾妻鑑)の創った義経は情感に満ちている。そして、悲劇性に満ちている。そして、その人間らしさと悲哀によって、義経は最も愛される時代の人となった。



義経の筆とされる「腰越状」までも、北条氏の創作であるとする人々も多い(この腰越状では、不遇なる弟・義経の姿が強調され、非情なる兄・頼朝が糾弾されている)。

「…我が国は神国であります。神は非礼をお受けになりません…。…私(義経)に誤りがないことをお認め頂ければ、その善行があなた(頼朝)の家門を栄えさせ、栄華は長く子孫へと伝えられるでしょう…」

この部分を逆読みすれば、兄・頼朝が弟・義経を許さなかったから、家門が栄えず、栄華が長続きしなかったとも言っているように聞こえる。



愛すべき義経を、兄・頼朝は非情にも討った。

だからこそ、源家への情熱は義経に集中するのであり、その陰となった頼朝の悲劇には、誰も涙しないのである。

頼朝、そして梶原景時などは、吾妻鏡によって、体よく悪人役を押し付けられたとも言える。のちのち、排斥しやすいように…。その点、北条氏の狙いは巧妙にも的中したと言わざるを得ない。



しかし、北条氏が予期せぬこともあった。それが義経の「神格化」である。

義経を英雄として持ち上げすぎたが故に、そして悲劇的に描きすぎたが故に、義経は北条氏の小細工の箱から、勢いよく飛び出して行ってしまった。



架空の義経は奥州で死なず、その後に青森まで落ちてゆき、その海岸で暴風雨の中、三日三晩、一心に祈りを捧げる。

その満願の日、白髪の翁は「3頭の龍馬」を義経に与え、それに跨った義経主従は遠く蝦夷の地(北海道)へと飛んでゆく。




さらには、満州、モンゴルへ…。



後世の人々は、義経に思いの全てを託したのだ。

その思いは「希望」でもあり、「夢」でもあった。



義経は今でも日本人にとっての希望である。

義経ある限り、我々は夢を見続けることができるのだ。

そういう意味において、北条氏の創った歴史は大いなる価値があったとも言えるであろう(なんと歴史の奇縁なことか…)。






出典:BS歴史館 シリーズ英雄伝説(1)
 源義経 悲劇のヒーローはこうして生まれた
posted by 四代目 at 07:53| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月27日

「木の民」とも呼ばれるトン族(中国)。日本民族との意外な共通点。


「杉」の葉っぱをムシャムシャと食らう男。

「一ヶ月に一度くらい食べると良い。血圧が下がるんだ」

そう言うのは中国南部の少数民族「トン族」の医者である。トン族は別名「木の民」とも呼ばれるほどに、木造建築の技法に長けており、長年、「杉の森」と共に暮らしてきたのだ。

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トン族の村を「壺中天」のようだと表現する人もいる。「壺中天(こちゅうてん)」とは、俗世間から離れた別天地を意味する。

昔々、薬売りの老人が店先の壺の中にスッと消え入ってしまう。それを見たある男は、その老人を仙人だと思い、一緒に壺の中に入れて欲しいと頼み込む。そして、その男が壺の中で見たものとは…、美しい山川、金殿玉楼であった(後漢書)。



トン族の村に入るには、「風雨橋」という屋根つきの壮麗な木造橋を渡っていく。彼らが住まうのは深い森の中であるのだが、その橋の先には、「鼓楼」と呼ばれる巨大な木造の塔を中心とした集落が広がることになる。

橋を渡って入村する様は、まさに壺中に入るようなものであり、そして、その壺の中には美しい村が燦然と存在しているのである。

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村に入る風雨橋を「三途の川にかかる橋」、つまりコノ世とアノ世の境に喩える人もいる。

日本では、生死の境を三途の川と表現するが、中国では「陰陽河」と言うそうだ。川の名前は違えども、「水」を隔ててあの世へ行くという思想は同一であり、同根でもあるのかもしれない。

トン族の風雨橋は死者の魂を送り出すばかりではなく、新しい生命が送られてくる場所でもあると考えられている。



トン族の村の象徴でもある「鼓楼(ころう)」は、「崑崙(こんろん)山」にも通じる。「崑崙山」とは、黄河の源ともされる伝説上の山であり、そこには仙女・西王母が住んでいるという聖なる山である。

また、鼓楼(ころう)は葫蘆(ころ・ひょうたん)にも通じ、そのヒョウタンは「吉祥水」という聖なる水を吐くともされている。つまり、トン族の鼓楼の象徴するものは、魂の源ともされる霊山であり、聖水をもたらす泉でもあるのである。

聖なる鼓楼から噴出する吉祥水は、村に福をもたらし、風雨橋はその福が村外に流出するのを防ぐことになる。そうして、鼓楼の福気は村に充満する。

福に満たされた壺、それがトン族の村である。

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村民たちが一丸となって造営する「鼓楼」は、高さ20mを超える高層建築でありながら、金属は釘一本さえも使われていない。木に穴を穿って、その穴に木を通したり、ホゾを組んだりして造りあげていくのだ。

杉を模したという鼓楼は、10数層(奇数層が多い)の屋根を持ち、その形状は六角形や八角形(偶数形が多い)である。



これほど複雑な建築物でありながら、鼓楼には「設計図」がない。意匠のすべては棟梁の「頭の中」にあり、彼一人が木材に墨を引き、あらゆる作業を指示してゆく。

もともと、トン族は「文字」を持たず、その伝承は「口伝」のみ。そうして受け継がれてきたトン族の鼓楼は、民族の誇りでもあり、信仰の中心でもある。そして、この場は長老たちの会議が催される場所でもある。



そんな大切な鼓楼がすべて打ち壊されるという悲劇の時代もあった。それは、毛沢東による文化大革命(1966〜1978)の時代である。

この時代、少数民族の貴重な文化が全否定され、建造物などが徹底して破壊されたのである。多くの人命も失われ、その犠牲者は数百万から1,000万人とも言われている。

当然、トン族もその例外ではありえず、鼓楼のみならず、多くの犠牲者を出すことともなった…。壺中天は、不幸にも袋叩きにされたのである…。



そんな不幸の中にあって、鼓楼が設計図を持たないことは幸いした。

設計図に頼った建造物であれば、設計図がなければ再建は難しかったであろう。鼓楼ほどに複雑な造形物であれば尚更である。ところが、トン族の鼓楼の設計図は、棟梁の頭の中にシッカリと残されていたのである。

文化大革命の大嵐が収まるや、トン族はすかさず鼓楼の再建を果たすことができた。

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トン族が文字を持たず、口伝に頼っていたのは偶然ではないかもしれない。

なぜなら、この民族は長い歴史の中で迫害を受け続け、追われ追われて現在の山中に暮らすようになったと考えられているからだ。

文字に頼れば、それは迫害とともに失われるリスクも伴うであろう。しかし、口伝であれば、誰か彼かの頭の中に入っているのであるから、何かしらかの形で伝承を続けられる可能性も出てくる。



トン族は、漢民族から「洞人」「洞蛮」などの蔑称で呼ばれていた時代もあった。それは、トン族が洞(ほら)などの狭い空間に逃げ隠れして住んでいたからだとも言われている。

現在、トン族が暮らす森も、その広さが北海道の面積にも匹敵するという、とんでもなく深い山奥なのである。



もっと時代を下ると、トン族は「百越(越族)」と呼ばれた民の一派だったともいう。

百越とは、長江よりも南に住んでいた雑多な民族の総称である。彼ら越族の一部は、春秋時代に「呉」や「越」の国々を形成したが、秦により滅ぼされることになる。



トン族のルーツともされる「越族」。ここに日本民族との奇縁を見出す人々もいる。追われ追われた越族の一部が、海を渡って日本にまで流れ着いたという説もあるのだ。

山陰地方には、「越」のつく地名が多い(越浜など)。さらに、北陸地方は昔「越前」「越中」「越後」と呼ばれていた。



「呉越同舟」という言葉は、呉と越の国の仲の悪さを示すものであるが、じつは両者は同根の民族(百越)である。そして、両者ともに日本にやって来たとも考えられている。

「越」の呼称が残る日本海側は、もちろん越の国の人々。そして、「呉」の地名が残る九州・瀬戸内には呉の人々が住み着いたというのだ(例:広島県呉市)。

越人は朝鮮半島を経由して、呉人は東シナ海を直接日本まで渡ってきたとも言われている。



そう主張する人々の根拠は、越人が「稲作」という文化を持っていたということである。

もともとの日本列島に稲作はなく、そこには縄文人が暮らしていたと考えられている。日本に稲作がもたらされるのは弥生時代。そして、その稲作をもたらしたのは…、中国、もしくは朝鮮半島からやって来た百越(越族)の民ではないかというのである。

また、遺伝子分布統計によれば、Y染色体FR-02bという共通性も見つかっている(さらに細かく分類すれば、朝鮮民族と日本民族は異なる染色体を持つ)。



現在は単一民族とされる日本民族も、悠久の歴史の中では、多種の民族が混在していた時代があったのかもしれない。そして、その一部がトン族とつながる可能性があるというのも、また面白い。

歴史を紐解かなければ、そうした可能性に気付くことすらないかもしれないが、アジアの民というのは意外と共通した文化を持っていたりもする。

歴史は書き換えることができても、民族に深く根付いた文化までは抹殺することができない。

それゆえ、文化の共通性を探ることは、思わぬつながりに気付くことにもなる。

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桃源郷のように隔絶されたトン族の村だからこそ、古くからの文化は残されていたのであろう。

そして、宮大工の仕事のようなトン族の鼓楼に、我々日本人はどことなく懐かしさを覚えるのである。




関連記事:
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神様のお米と日本人。その長い長い歴史に想う。

支配層の都合により民族は分断され、「20世紀最大の大虐殺」は引き起こされた。美しき国「ルワンダ」。



出典:地球イチバン
「イチバン広い杉の森とふしぎな暮らし〜中国・貴州省 トン族」


posted by 四代目 at 06:48| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする