2012年03月28日

歴史に再評価され始めた「平清盛」。各地に根強く残っていた清盛伝説。


「清盛さん、清盛さん」と、その町の住人たちは「平清盛」に親しげだ。

この町にある「音戸の瀬戸」には、およそ800年以上も前に平清盛が開削したという伝説が残されている。

※「音戸の瀬戸」というのは、広島県呉市と瀬戸内海の島の一つである倉橋島(音戸町)の間の「狭い海峡」のことであり、最も狭いところでは100mも幅がない。

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町の子供たちも「その伝説」に詳しい。

その昔、平清盛は「たった一日」で「音戸の瀬戸」を切り拓いたのだという。

当時、そこに海峡はなく、倉橋島は本州と陸続きであった。しかし、そこに海峡があれば海運が至極便利になるということで、平清盛はここに「海の道」をつけたのである。



子供たちは「一日で音戸の瀬戸ができた」と言うが、より正確に記すならば、この未曾有の大工事は着工から完成までおよそ10ヶ月を要している(1164〜1165)。

子供たちが言うのは、その完成間際の「最後の一日」のことであろう。



その日(7月16日)はちょうど「引き潮」であり、この時をおいて他には「音戸の瀬戸」を完成させるのは難しく、是が非でもこの日に完成させなければならなかった。

平清盛の激励の元、人夫たちは血をにじませながら決死の難作業を敢行していた。



しかし、無情にも太陽は沈み始める…。

夏の長い日中とて、時が来れば日は沈む。



「今ひと時の陽さえあらば…!」と歯噛みした清盛。

すっくと立ち上がるや近場の日迎山へと駆け上り、今や沈まんとする西の太陽にこう叫ぶ。

「返せ!戻せ!」



清盛が手にしていた「金の扇」が太陽を招き返すかのように振られる度に、あら不思議、沈みかけていた「日輪」が舞い戻るではないか!

「それ、まだ陽はあるぞ」と督励する清盛。

世紀の大工事(のべ6万人の動員)は見事その日のうちに完遂し、ついに「音戸の瀬戸」は開かれた。

※清盛が金の扇を振った時に乗っていた大岩(日招き岩)には、その足跡がクッキリと残されている。

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この「音戸の瀬戸」のおかげで、京の都から「厳島神社」への海路詣での距離がグッと縮まった。

※音戸の瀬戸ができる前までは、倉橋島の南端を大きく迂回しなければならなかった。



実利的な側面としては、この音戸の瀬戸のおかげで中国(宋)との「貿易」がよりスムーズにもなった。

清盛以前は「九州(博多)」までしかこなかったという異国の宋船は、清盛の尽力の末、瀬戸内の海をも往来するようになったのである。



音戸の瀬戸を越えてきた宋船は、現在の神戸港である「大輪田泊(おおわだのとまり)」に入港したという。

この「大輪田泊」というのは、日本初の「人工港」とも言われるが、その空前絶後の大工事は、これまた苦難を極めたと伝わる。



もともと地盤が軟弱であったため、いくら石を沈めても港の体(てい)をなさない。

困った清盛は「占い師」に見てもらう。

その占い師の御宣託には、こうあった。「石の一つ一つに『経文』を書いて海に投じるとともに、30人の『人柱(生け贄)』が必要だ」と。

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ところが、清盛は「人柱」を許さない。

しかし、それでは港が完成の日の目を見ることはない。



この窮地を救ったのが、若干17歳の「松王丸」。

「自分を沈めて、30人の人柱を助けて欲しい」と清盛に願い出る。



千人の僧侶が滔々と読経する中を、静かに入水する松王丸。

その功徳があってか、この空前絶後の大工事はほどなく完成することになる。

※今も大輪田にある経島山来迎寺は、松王丸を供養するために清盛が建立したものであるという。



清盛が拓いた「海のシルクロード」は、時代の荒波の中を見事に生き続ける。

現在の「音戸の瀬戸」を往来する船舶は一日700隻以上。「瀬戸内銀座」とも称されるほどに毎日の賑わいを見せている。

かつての「大輪田泊」は「神戸港」。言わずと知れた堂々たる国際貿易港である。



歴史上では「敗者」となってしまったために、長らく歴史の陰に追いやられていた「平氏」ではあるが、今の時代に再評価されつつあるのは、当然の流れなのかもしれない。

平清盛が見た夢は、現代にも見事に通ずるものであったのだから。




「平氏」の起こりは「高望王(桓武天皇のひ孫)」とされ、その子孫たちは主に「関東地方」で勢力を伸ばしていた。

ご存知の通り、その子孫である「平将門」は関東地方で反乱を起こしている。



平清盛の直系となるのは「伊勢平氏」と呼ばれる一族で、平将門の乱の平定に功績のあった一派である。

彼らの根城とした「伊勢(三重県)」は、京都と関東地方とを結ぶ海上交通の要衝でもあったため、伊勢平氏は必然的に「海との関わり」を強めていく。



さらに、都から遥かに離れた関東地方とは違い、伊勢の地は「政権」を獲得できるほど都に近かった。

平清盛の祖父・正盛、そして父・忠盛などが政権獲得への野心を抱くのも、これまた自然な流れでもあったのだろう。



かつては番兵程度に軽くあしらわれていた武士が、清盛の異例の出世により、一躍歴史の表舞台に躍り出る。

清盛は「太政大臣」の位まで登り詰めるが、それは藤原氏以外では初めてであり、もちろん武士としても初めてであった。



都の内側にしか眼を向けようとしなかった貴族たちとは異なり、清盛の眼は「海の向こう」を睨んでいた。

その遠望の前には、音戸の瀬戸や大輪田泊の難事業はモノの数でもない。その向こうに見えている巨利はそれほどに壮大なモノであったのだから。



血縁である「高倉上皇」を船に乗せて瀬戸内海を旅した清盛は、たいそう誇らしかったであろう。

荒れ狂いそうになる瀬戸内の海も、清盛が「一睨み」すれば大人しくなってしまう。「にらみ潮」と言われる伝説によれば、清盛は潮の流れをも変えてしまったのだ。

※途中で立ち寄った「馬島」で高倉上皇が打った柏手(かしわで)が隣りの島まで「こだました」ということで、その島は「柏島」と名付けられた。




海路6日間の終着駅は「厳島神社」。これまた清盛の大傑作である。

海に浮かぶ巨大な鳥居を船で通過した先には、竜宮城のごとき社殿の厳かな佇まいがあった。




ただ無念なことは、清盛ほど遠くを見通せる人物が日本に数少なかったことであろう。

清盛の死後、渾身の「大輪田泊」は打ち捨てられた。その潜在的な価値を評価できる見識を持つ者は清盛以外にはいなかったのだ。



清盛の拓いた海のシルクロードは、皮肉にも源氏に追われた平氏の敗走経路となってしまう。

優雅な海の旅を楽しんだ高倉上皇とは対照的に、その息子である安徳天皇(清盛の孫)は瀬戸内海を追われて、ついには壇ノ浦の海に身を沈める。

こうして、清盛の栄華は「盛者必衰」の教訓とされ、しばらくは「歴史の悪」とされることになってしまうのだ。



島国の住民である日本民族には、どこか「内向き」なところがある。それゆえに、清盛のように外へ外へと向かう人物を正しく評価しないことも珍しくない。

これは現代にも通じる気質であり、日本企業が「ガラパゴス」と世界に揶揄される由縁でもあろう。



時が穏やかなれば、島で安穏としていることも是とされるのかもしれない。

しかし、歴史は時として大きく波打つことがある。平清盛という身分の低い武士が世に出ることができたのは、その波のおかげでもあったであろう。



そうした大波は、明治維新となって日本を一新させたり、太平洋戦争の敗戦となって日本を荒野に変えたりもした。

明治維新の大波は、日本を大国・ロシアに比するほどに強大化させ、敗戦の大波は、幾多の世界企業を日本から巣立たせていった。



そして今、人々が平清盛を再評価するのは何故(なにゆえ)か。

時は何かを必要とし始めているのであろうか。

島の外に眼を向けるべき波が迫って来ているのであろうか?



平氏を破った源氏は、江戸時代を通じて国を閉ざす選択をしていくことになるが、もし清盛の「外への志」が日本に根付いていたとしたら、今の日本はどんな形をしていたのであろう。

清盛が一時的にしろ歴史から邪険に扱われたことには相応の意味があるのであろうし、その彼が再び日の目を見ることにもまた相応の意味があるのであろう。







関連記事:
栄光と悲劇に生きた「源義経」。偶像化した義経の示すもの。

長き争乱の果てにたどり着いた「中尊寺金色堂」。平和の象徴は900年間守られ続けている。



出典:シリーズ平清盛 第4回 瀬戸内に生きる伝説

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2012年03月19日

大きいことは良いことか?ローマ帝国の夢は何を語る?


アメリカの国会議事堂は、なぜあのような形をしているのであろうか。まるで、「ギリシャ」か「ローマ」ではないか。

それもそのはず、その建築様式は「新古典主義」として知られるもので、古き良き古代ギリシャ・ローマ時代を懐かしむものであったからだ。

当時のアメリカは「新しい国家」であり、その範を民主主義の入り口たる古代ギリシャ(アテネ)に求めたのである。

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その新古典主義という思想が世に出るのは、「ポンペイ」という街が発掘されたことに端を発する。

ポンペイという街は、今から2000年近く前に、火山灰の下に埋れてしまった街である。



西暦79年、「ヴェスヴィオ火山」は大噴火を起こす。

火山の吐き出した「火山灰」は、一昼夜にわたってポンペイの頭上に降り注ぎ、人々は我先にと街を逃げ出す。

この時、取るものもとりあえず慌てふためいて逃げ出した人々は幸運であった。なぜなら、その翌日に発生した「火砕流」は、時速100km以上の猛スピードでポンペイの街に到達し、まさに「一瞬」で街を灰の中に閉じ込めてしまったからだ。



逃げ遅れて生き埋めになった人々は、逃げる姿そのままであり、恐怖の表情そのままであった。

※後に発掘された時、遺体部分はすっかり腐ってなくなっていたものの、火山灰の中には「型取り」したような人型の空洞が残されていた。

テーブルに並べられた食事もそのままであり、焼きたてのパンもそのまま火山灰に閉じ込められた。




瞬間凍結したようなポンペイは、そのまま1700年近くの時を過ごすことになる。

その遺跡が発掘されるのは1738年。火山灰の中にあったシリカゲル(乾燥剤)のような成分が湿気を吸収してくれたこともあり、保存状態は極めて良好で、1700年の時の隔たりを感じさせないかのようであったという。

壁画や美術品の色彩は鮮烈であり、「ポンペイ・レッド」とも賞賛されるほどであった。



ポンペイを襲った悲劇は、かつてのローマ帝国が大いに繁栄していた時代をそのままの形で保存していた。

ローマ帝国の領土が最大になるのは、ポンペイが埋まってから100年後のことであり、そのまた100年後になると、下り坂を転がり落ちるように衰退へと向かう。

つまり、ポンペイの街が後世に伝えるのは、ローマ帝国が勢いよく上り坂を駆け上がっていた最高の時代なのである。

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その遺跡からうかがうことができるのは、信じられないほどの「豊かさ」であった。

街の全域には水道菅が張り巡らされ、娯楽施設である円形劇場、大浴場、ローマ市民の別荘も数多い。

「Carpe diem」というラテン語は「今日を楽しめ」という意味だそうだが、ポンペイの人々は、その言葉通りに日々の生活を謳歌していたのである。



ローマの豊かさを示す言葉には、「パンとサーカス(Panem et Circenses)」もよく知られている。

ローマの市民は「パン(正確には小麦粉)」が無料で配布されたため、あくせくと働くことから解放された。

食料に困らなくなった民が次に求めたのは「サーカス(娯楽)」である。その欲望に応えるため、帝国内の至るところに「円形闘技場」などが建造され、民衆たちは剣闘士たちのアクションに熱狂した。

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「人類が最も幸福だった時代」とまで称せられるのが、このローマ時代なのである。

ローマ帝国滅亡後、その豊かさを人類が享受するのは、イギリスの産業革命以降(18世紀)だとまで言われている。ルネサンスもベルサイユ宮殿もローマの豊かさには及ばなかったというのである。

「狩りをして風呂に入り、ゲームをして笑う。それが人生だ」。こんな落書きも残っていた。



ローマ社会は階層構造になっており、トップに「皇帝」。それを支える「元老院(国会議員)」。そして「騎士」。

以下、「市民」、「解放奴隷」、「奴隷」と続く。

奴隷という言葉は否定的に響くものの、その実、現在のサラリーマンや専門職の人々(教師やアーティスト)のような存在である。



金融なども卑しい職業とされていたために、奴隷階級の中には相当に裕福な人々もいたらしく、その中には皇帝をも凌ぐほどの富を抱え込んでいた者までいたようだ。

むしろ支配階級の人々の方が、いろいろと責任が重かったために、自由な市民や奴隷たちの方が、のびのびと生を楽しんでいたようでもある。

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5m以上もの火山灰に埋れたポンペイの街(1世紀)は、そんなローマの豊かさの一端を伝えてくれた。

その豊かさに驚いた18世紀の人々は、先に述べた「新古典主義」という思想のもと、ギリシャ・ローマ時代に恋い焦がれたのである。

アメリカの国会議事堂、ホワイトハウス、フランスの凱旋門などは、その代表的な建築物である。



新古典主義の隆盛する背景には、イギリスの産業革命、フランスの市民革命(1789)、アメリカの独立(1776)がある。

そのには抑圧され続けていた市民階級の怒りがあり、かつて現生を謳歌していた古代ローマへの憧れがあったのである。



ところで、人類が最も豊かだったとまで言われたローマ帝国は、なぜ衰退の道を転がり落ちていったのであろうか?

その衰退の一因には、「領土拡大」政策の限界がある。

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ローマ帝国が富の拠り所としたのは、次々に獲得していく「属州」だった。

新たな属州からもたらされる莫大な富は、ローマ帝国の財政を潤し続け、その恩恵は市民たちに「パンとサーカス」として還元されていたのだ。



しかし、属州を獲得し続けることには明らかな限界があった。そして、その限界が訪れるのには、そう時間はかからなかった。

ローマ帝国の領土が最大となるのは、西暦117年。これ以後、領土が増えることはなくなったのである。



富の源泉を「領土拡大」に求めたことは、拡大をやめれば豊かさを維持できないということでもあった。

さらには、1万2,000km以上にまで拡大してしまった長大な「国境線」を守るには、国家財政の半分以上の支出までが求められた。



その結果、財政は困窮から破綻へ。財政を立て直そうとして「通貨」を発行し過ぎれば、「インフレ(物価高騰)」へ。

現在でもお馴染みのパターンにより、ローマ帝国は終わりへと向かい始めることになる。



ローマ市民たちは、彼らの乗っていた「危うい富の源泉」を知らずに、人生を謳歌していた。

食べ物は食べ切れないほどテーブルに並べられ、食べるために「吐く」ということが普通に行われ、吐くことが健康に良いとまでされていた。

さらには、食べカスを床にポイポイと撒き散らすことは、豊かさの象徴とまで言われていたのである。

こうした生活は特権階級ばかりではなく、奴隷とてその食生活に大差がなかったことが、ポンペイの発掘により明らかとなっている。



実体経済を維持できなくなったローマ帝国が最後に頼ったのは、「宗教」の力であった。

西暦313年、ローマ帝国が「キリスト教」を公認した時、その衰亡は確定したとも言われている。その決断は、まさに「神だのみ」であったのだ。




「パンとサーカス」が無限に提供できなくなったローマ帝国は、「現在」を犠牲にすることを市民たちに強要した。キリスト教の思想を通じて。

もはや、「Carpe diem(今日を楽しめ)」の時代は終わったのだ。

その後のローマ帝国の行方は、歴史の教える通りである。




火山灰の中で奇跡的に保存されていた「ローマの夢」は、人類にまた同じ夢を思い出させることになった。

そして、ローマ帝国の領土拡大による繁栄を、世界は再び繰り返すことになる。



帝国主義が勃興し、植民地は世界に広がり、かつて属州により繁栄したローマ帝国のような国々が、世界中に乱立する。

しかし、この種の富に「限界」があることも、また同じであった。この夢は、2度の世界大戦を引き起こすことにもつながってしまう。



その後、世界は経済のグローバル化という手法で、また再び「あの夢」を見ることになる。

何度も何度も繰り返してはやまない「拡大による富の獲得」。



ギリシャ発のユーロ危機は、その限界を再び示すものであった。

そして、その対策はと言えば、世界三大通貨であるドル・ユーロ・円の度重なる「量的緩和」である。



量的緩和というのは、簡単に言えば「紙幣の増刷」であり、財政破綻したローマ帝国が行った通貨の大量発行と同じことである。

物価高騰を招く量的緩和は、予想通りに世界のエネルギー価格、食糧価格を押し上げ、将来への禍根を残す結果になっている。

さて、次に来るのは…、「神だのみ」であろうか。



時代は変われども、それは看板が掛け替えられるだけようなもので、その実「同じことの繰り返し」に終始していることもままある。

「拡大による富の獲得」を目指す限りにおいて、人類は「ローマ帝国の夢」に憧れ続けるのだろう…。



火山灰に埋没したポンペイの街は、ある意味、幸せであった。帝国の衰退を見ることなく、上り調子のままに永久に時が止まっているのだから。

それに対して、現代に生きる我々の「時」は、残念ながら進み続ける。不幸にも拡大の限界に達していながらも、進み続ける。



不幸中の幸いは、ポンペイがその歴史を残してくれたことにある。そのお陰で、我々には選択するという自由が与えられたのだ。

かつての新古典主義のようにそれに憧れるのも良し、逆に、その教訓を肝に命じるのも、また良しである。

さらに幸いなことには、我々は新古典主義の行方まで知っているではないか。




関連記事:
火山と温泉。イタリア人と日本人は「フロ仲間」?

悩めるギリシャの若き農民。「もはや戦場だ」。そこに現れた不思議な像とは?



出典:BS歴史館
古代都市ポンペイの真実〜新発見!54体の人骨の謎



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2012年03月18日

低く建てられた首里城(沖縄)の意味するものは?平和を求めた水平感覚。

「戦いの気配が感じられない城」

沖縄の「首里(しゅり)城」は、そう呼ばれている。

なぜなら、この城には戦闘を象徴する「天守閣」が存在しないからである。天守にあたる朱塗りの「正殿」は、2層3階という低い建物になっている。

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◎外交により守られていた琉球王国


15世紀の沖縄に王国を打ち立てた「尚氏(しょうし)」は、「武力」ではなく「外交」で国を守ってきたのだという。

中心たる正殿の左手(北側)には、「中国」からの使節を迎える中国風の建築(北殿)があり、右手(南側)には「日本」から来る薩摩の役人が滞在する建物(南殿)がある。



もともとは中国(明)に貢物を納め保護を受けていた琉球王国(沖縄)であったが、日本に江戸幕府が成立して以降は薩摩藩の侵攻を受け(1609)、中国と日本の二重支配下に置かれることになる。

その両大国の狭間にあって、琉球王国は巧みな外交戦略により独自の地位を確立し、人口が17万人にも満たなかったという小さな王国でありながらも、400年以上にわたる繁栄を謳歌することになる(1429〜1879)。

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戦う意思を示さない首里城の正殿。それは、巧みな外交姿勢を如実に表現していたのである。低姿勢でありながらも、その内部は威厳に満ちている。朱塗りの王座はじつに壮麗であり、琉球王家の揺るぎなさを物語っている。



◎信仰の話としての首里城


そして、その王座の奥には「とっておきの部屋」が設(しつら)えてある。「おせんみこちゃ」と呼ばれるその秘された部屋は、現在でも立ち入りが厳しく制限されている場所でもある。その部屋では、神に仕える女性たちが国家と民の安泰を願い、「祈り」を捧げていたのだという。

すなわち、首里城は政治の中心であると同時に、「信仰」の中心でもあったのだ。

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琉球王国の統治形態は「祭政一致」。

表面的には男たちが国をまとめるも、その裏方では女たちが神々とのつながりを保ち続けていた。男たちの仕事が「戦うこと」であるのならば、女たちのそれは「祈ること」だったのである。



沖縄固有の宗教とされるは、「琉球神道」と総称されている。神は一人ではなく、自分たちの祖先が神となる「守護神」と、遠方からやって来たとされる「来訪神」などがいる。偶像は存在せず、自然を聖地とする「御嶽(うたき)」が拝む場所とされていた。

琉球の神話によれば、沖縄を作ったのは太陽神の命を受けた「アマミキヨ」という神であり、アマミキヨは沖縄本島を作ったのち、9つの聖地と7つの森を作ったとされている。その聖地のうちの7つが特に神聖視される「琉球開闢(かいびゃく)七御嶽(うたき)」として語り継がれている。

祭祀を司(つかさど)るのは女性の役割であり、聖地「御嶽(うたき)」は完全に男子禁制とされていた(琉球王国時代)。御嶽(うたき)を管理する女性は、「ノロ」と呼ばれる神人(かみんちゅ)である。



◎権威ある女性たち


日本本土の巫女は、神主の補佐役的なイメージがあるが、琉球のノロは「司祭そのもの」であり、大きな影響力を持っていた。その権威は、時として国王をも凌ぐものであったのだともいう。全国に配されたノロたちは、いうなれば地方大名のような存在でもあり、神聖裁判を行ったという記録も残る。

公的なノロに対して、民間では「ユタ」と呼ばれる女性たちが、神々と人間たちを結びつけた。世襲的なノロとは違い、ユタになる女性は「巫病(ふびょう)」を発症してはじめてユタになるのだという。

巫病(ふびょう)というのは、生死に関わる事故や肉親の不幸などをキッカケにして起こる原因不明の体調不良(カンダーリィ・神倒れ)のことであり、ユタになることを受け入れない限りは、治癒しない病である。そのため、この巫病は「ユタになれという神からの命令」とも言われており、それを拒むのならば、死んでしまうと信じられている。



沖縄には「医者半分、ユタ半分」というコトワザがあると言うが、それはユタが精神的な病を癒すと信じられているからである。そんなこともあり、時代が経るにつれて、ユタの存在は為政者にとって脅威ともなってゆく。

それゆえに、ユタに対する禁止令や弾圧は、歴史上幾多と行われたが、それでも民間のユタに対する信頼は根絶やすことはできなかったという。





◎浄土・ニライカナイ


キリスト教の天国や、仏教の極楽浄土に相当する概念は、琉球神道では「ニライカナイ」となる。東方に位置するとされるニライカナイは、死者の魂が帰る場所である。そして、ニライカナイに帰った魂は、死後7代して親族の守護神になる。




ニライカナイの「ニライ」には「根」という意味もあるらしく、それゆえに日本神話の「根の国」を連想させるという学者もいる。

ニライカナイも根の国も「海の彼方」にあるとされていたが、「根」というニュアンスが「地下」に結びつき、天上に対する負の意味合いが付与された。そのため、根の国は悪霊邪気の根源とされることもあり、それが地獄的なイメージにもつながっていく。

しかし、琉球のニライカナイにはそうした負の連想はなく、むしろ明るいイメージの世界だとされている。「根」は地中にはる植物のそれではなく、生命や富の「根源」という意味合いが強いようである。

為政者たちは物事を上下の階層に組み込みたがるが、ニカラカナイの概念はおおむね「水平的」なものなのである。



◎危うい垂直、安定の水平


物事が「垂直的」になれば、それは崩壊の危険性を増すことになる。それに対して、「水平的」であるならば、それは恒久の平和を示唆することにつながる。

巧みな外交で国を守ろうとした琉球王国は、中国と日本、双方を立てていながらも、どちらか一方を立てすぎることはなかった。中国の使節をもてなす建物(北殿)と日本からの役人が滞在する建物(南殿)とは、同じ高さ・同じ場所にあるのである。



さらに、琉球王国の威厳を示す正殿は、高さはないものの、その中央に厳然と位置している。

方角的には「東」に位置し、それはニカラカナイの存在する方角でもある。祭政一致の琉球王国が建物の方角を意識したことは明らかであり、その威厳を示すのは建物の高さではなく、その方角だったのである。ここに、垂直的ではない、水平的な思想感覚をうかがうことができる。





◎争いを呼ぶ「高さ」


「高さ」は時として他者の警戒心を喚起させ、場合によっては闘争心をも刺激するかもしれない。日本の城郭を見ても、その高さを競い合った歴史があり、戦国最強と言われた大阪城の高さは随一である。

一方、戦国の世を制した徳川家康が建てた二条城に天守閣はない。ただ応接の場が設えてあるのみである。その低さこそが、世の中に平和が訪れた証(あかし)でもあった。

琉球王国には、はなから大国と戦火を交える気はなかったのであろう。中国の巨大さは火を見るよりも明らかである。首里城には海賊除けのための高い城壁は巡らされてはいるものの、大国の使者を迎える場は、はじめから低く低く作られていた。そこには、争いを誘発する垂直性はなく、協調性を示す水平性があったのである。

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◎歴史に踏みにじられてきた沖縄

それでも、沖縄という島は大国の大足に踏みつけられてきた歴史が多い。薩摩藩の侵攻がそうであり、第二次世界大戦のアメリカ軍がそうである。

第二次世界大戦の沖縄戦では、日本軍が首里城の地下を掘って司令部を置いた(陸軍第32総司令部)。そして、アメリカ軍の砲撃は首里城を炎上させた。焼け残った宝物殿の財宝は米軍による略奪の憂き目に遭い、首里城にはアメリカの星条旗が高々と掲げられることになる。

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沖縄が日本に返還された時(1972)、沖縄の人々は首里城の再建を求めたのはなにゆえか?

戦火に苦しんだ人々は、無意識にも平和の象徴であった琉球王国の影を求めたのかもしれない。そこにあるのは、海のように水平な安定であり、決して崩れる宿命をもった権威ではなかろう。



首里城内郭の南部を占める「京の内(けおのうち)」は、聖なる御嶽(うたき)であり、その森こそが首里城発祥の地とされている。それゆえ、この地への参拝は後を絶たなかった。

ところが、首里城が復元されたのち、なぜか無断での立ち入りが禁じられてしまい、それ以来、日常的に見られていた祈りの姿はパタと途絶えた。これを悲しみ、「首里城の建物は復活したが、礼拝所としては破壊された」との声も…。



◎月を示す指


はたして、人々が求めたものは物質的な建物だったのであろうか。

それとも、精神的な拠り所だったのであろうか。



物質的な事柄は、何モノかを示唆する存在に過ぎない。月を指差す指先は、月を指し示しているのであり、その指先を注視することには何の意味もない。

戦いを好んだ男たちは、その「指先」を奪い合っていたのかもしれない。そして、涙にくれる女たちは、密かに「月」を想っていたのかもしれない。



指先に固執する限り、争いは絶えぬのであろう。

それでも月を想う心が失われなければ、いつの日か眼前にニライカナイが現れるのかもしれない。



上へ上へと登って行った先には、いったい何があるのか?

そして、横へ横へと歩き続けた先には、何が待っているのだろう。






出典:新日本風土記 「城 戦の跡 夢の跡」


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2012年03月05日

今なお「バベルの塔」の高くなり続けるような現代文明。何千年も変わることのない人間の欲望が…。


「バベルの塔」というのは、人間の「傲慢(ごうまん)さ」の象徴だというのだが…。

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聖書の記述に従うのならば、世界に「無数の言語」が生まれたのは、この「バベルの塔」が起因となっている。

バベルの塔「以前」、世界中の民は皆「同じ言語」を用いていたとされている。彼らは「ただ一つの民族」でもあったのだ(民は一にして皆一の言語を用ふ)。

ところが、バベルの塔「以後」、世界の民は分裂し、それぞれの言語を話すようになり、互いの言葉が通じ合わなくなったとされている。



それゆえ、「バベル」という単語は、「混乱」を意味するようになったのだという。

※一説によれば、バベルという単語(ヘブライ語)は、もともと「バブバブ(赤ちゃん語)」のように意味のない言葉(喃語)であったとも。バブーの塔?



バベルの塔の建設を始めた民は、「ノアの方舟」によって、辛くも大洪水を生き抜いた末裔たち。

ノアの子孫である「ニムロデ」は、とんでもない大洪水を起こした神様に「復讐」を誓う。ニムロデは大洪水によって一族が滅びかけたことに我慢がならなかったのだ。

「神に従うことは、その奴隷になることに等しい!」と息巻いたニムロデに、多くの民衆は賛同し、神様に対する挑戦として、とんでもなく高い塔の建設を開始する。その塔こそが「バベルの塔」である。



当時の土木技術は、石から「レンガ」、漆喰から「アスファルト」に革新しており、前時代よりもはるかに高い建造物の建設が可能となっていた。

そんな彼らにとって、天をも超える建造物を造り上げることは、単なる夢物語ではなかったのである。



着々と建設が進む工事現場。早くも7層目の建造に着手している。

その様を見た神様は、怒ったのか慌てたのか?

「人間たちが何をやろうとしても、それを妨げることはできない」と諦めを示しながらも、「こんな事態になってしまったのは、人間たちが『一つの民』で、『一つの言葉』を話しているからに他ならない」と結論づける。



そこで一計を案じた神様は、地上に降りて、人間たちの話す言葉を「混乱」させた。

すると、人間たちはお互いの話す言葉が理解できなくなり、協調して作業をすることなど叶わなくなってしまった。

こうして、一致団結していた人間たちはバラバラになり、世界各地へと散り、それぞれがそれぞれの言葉を話すようになったのだという。つまり、世界は混乱(バラル)してしまったのだ。



肝心の「バベルの塔」はというと…、その野心的な計画は、神様の思惑通りに立ち消えとなってしまっていた。

神様に挑戦しようとした「傲慢な人間たち」。

「バベルの塔」の示すものは、その傲慢さへの「戒(いまし)め」と言われている。



「創世記」前半の神話的世界に登場する「バベルの塔」ではあるが、その「実在」も確認されいてる。

「ジッグラート」という螺旋(らせん)型の塔が、バベルの塔のモデルであるとされ、チグリス・ユーフラテス川の周辺では22の遺構が発掘されている。

あるジッグラートは高さ90mの7階建てで、最上階には神殿があったという。

※7つの各階が各曜日の始まりといわれており、1階が土星、2階が木星、3階が火星、4階が太陽、5階が金星、6階が水星、7階が月となる(一週間を7日にしたのも、彼らであるという)。



このチグリス・ユーフラテス両大河に囲まれた地域は、よほどに豊穣な土地であったらしい。

「肥沃な三日月」とも称されるこの地域は、人類文明発祥の地との呼び声も高く、「メソポタミア」という文明が栄えた地であるとも考えられている。

※メソポタミアという言葉の意味は、「川のあいだの地域」。



一般的に知られる古代文明というのは、チグリス・ユーフラテス(メソポタミア)、ナイル(エジプト)、黄河(中国)、インダス(インド)の「世界四大文明」ということになるが、それらの先鞭をつけたが、他ならぬメソポタミアだということだ(紀元前3,500年頃)。

※ある説によれば、メソポタミアで発祥した文明が、およそ500年後にエジプトへ伝わり(紀元前3,000年)、それがまた500年後にインド(紀元前2,500年)、最後に中国に波及した(紀元前1,500年)ともなる。




これら各文明の伝播に関しては異論多きものの、メソポタミア地域が肥沃であったことに異論は少ない。

チグリス・ユーフラテス両大河の流域面積だけでも、日本の国土の2倍以上という広大さでもある。



豊かだったからこそ、人が集い、都市ができた(文明を意味する「cilvilization」は、都市化という意味でもある)。

そして、人の力が集約されたればこそ、「バベルの塔」のように巨大な公共事業も可能となったであろう。

その彼らが一つの民族で、一つの言語を話していたという確証はないものの、都市に巨大建造物を造ろうとする人間の思いは、今も昔も変わらないのかもしれない(先ごろの日本には、世界で2番目に高い塔が完成したばかりだ)。




「バベルの塔」に神様が怒ったのだとすれば、それは暴走しすぎた人間に対する警告なのでもあろう。

都市という富は、人々を豊かにする一方で、人々を争わせもするのだから。



事実、地球上で最も肥沃であったメソポタミア地域ほど争いの多き土地も、世界的に珍しい。

シュメール人が起こしたと言われるメソポタミア文明は、アッカド人に征服され、次いでバビロニア、ヒッタイト、アッシリア…。さらには、ペルシャ、ローマ…。

そうそうたる歴史上の大国が、この地を覇権争いの場所としたのである。



その争いは、今なおやむ気配がない。

現在、この地域を領有するのは、シリアとイラクであり、両国ともに何かとニュースの紛争・戦争ネタに尽きない地域でもある。



そんな人類の歴史を知ってか知らずか、チグリスとユーフラテスの両大河は滔々と流れ続ける。

その源流は、トルコのアナトリア高原に求められ、その富をもたらす源流の地は「エデンの園」ともされている。そのエデンの園から流れ出る一つの河川は、4つに分かれた。そして、その内の2つの河川がチグリスとユーフラテスになるのである。

※エデンの園から湧き出た水が4つの河川となったことを、世界4大文明への波及と重ね合わせる人もいる。



そんな天の恵みが醸成されたメソポタミア文明。

人間たちが天にまで届けと願った「バベルの塔」は、その文明の隆盛を物語るものでもあり、盛者必衰の理(ことわり)を表すものでもある。

富が結集し、人々がそれらを求めて争い、富は再び散っていく。一つの言語が多様な言語に分かれゆく様は、そんな連想をも想起させる。




「バベルの塔」を描いた傑作とされる絵画は、「ブリューゲル」の筆によるものだ。

「農民画家」とも称されたブリューゲルの筆は、じつに皮肉である。




権威ある王が命じる命令に、平身低頭の民衆たち。

ところがその一方で、ゴロゴロと寝そべったり、ケツを向けている民衆たちもいる。



革新技術であったレンガやアスファルトが多用され、バベルの塔は雲を突き抜けるほどに空高い。

しかし、上へいけばいくほどに歪んでいくバベルの塔。そのまま積み上がっていけば、自らの重みで崩壊してしまいそうにも見える。

自然の岩山は無残にも切り崩され、その上にバベルの塔は建設されている。



ブリューゲルが筆を握ったのは、今から450年前の16世紀半ば。

彼の生地は現在の「ベルギー」、海に面したこの国は海外との交易で大いに栄えており、とりわけ、香辛料(コショウなど)は同国にとんでもない富をもたらしていた。

現在、金融取引の中心となる「証券取引所」というアイディアは、この国で生まれ、世界初のそれが莫大な富を何倍にも膨れ上がらせていたのだという(現物なしでも、紙切れがその代用をはたす)。

※ある説によれば、資本主義が始まったのは、この時、この地においてであるともいう。

ブリューゲルの皮肉な筆は、壺に入ったコインと、箱に入ったコインが争う合うシーンをも描き出している。

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おそらく、ブリューゲルの眼には、人間の限りなき欲望が浅ましく映っていたのであろう。

「聖マルティン祭のワイン」という作品に描かれた人々は、聖なるお祭りとは程遠いほどに浅ましい。

我先にと樽をよじ登ってまで、ワインの争奪戦が繰り広げられ、運良くワインにありつけた人々は、泥酔してなお、飲むことをやめようとしない。

この絵画には、「その時の自分さえ良ければ、それで良い」という風刺が込められているのだという。

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また、「十字架を担うキリスト」という作品においては、肝心のキリストの存在が、群衆の喧騒にかき消されており、人々は今この場で何が起こっているのかを、正確に理解していない様が描かれている。

キリストのいない刑場に、人々は嬉々として駆けつけ、キリストでない人を刑場に引っ立てようとまでしている。

この作品には、「重大な事が起きようとしているのに、誰もその重大さに気づいていない」という皮肉が描きこまれているのだという。



「人間は何をやりたいのか?

そして、彼らは一体どこへ行きたいのか?」

当時のブリューゲルならずとも、そんな問いを心に抱く人々は、現代には数多いのかもしれない。



ブリューゲルの静かなる警鐘をよそに、金融、そして資本主義はその後の世界を席巻し、現代の人々はバベルの塔顔負けの巨大建造物を世界各地に林立させている。

かつて、バベルの塔を戒(いまし)めた神様は、力の集中しすぎた言語を様々に分化させることで、その力を弱めた。

現代にもその神様はいるのであろうか? 豊かになった現代社会は、おのずから多様性を求め始めているかのようである。



世界各国に根強く残っていた「独裁」というスタイルは、もはや絶滅寸前である(その内の一つが、かつてのメソポタミアたるシリアに残っているも、これまた皮肉な話であるが…)。

架空のモノを何倍にも取引することで富を増大させる現代の金融システムは、リーマンショック(2008)、ソブリン(国家)問題たるユーロ危機を経て、いまや自らの歪んだ重みに耐えかねている。



「バベルの塔」という大昔の物語は、なんとなんと現代にも相通じるものがあるではないか。

歴史はどれほど繰り返せば、その気が済むのであろう。



繰り返しながらも、少しずつ少しずつ螺旋(らせん)のように上昇しているのだろうか?

その螺旋(らせん)が、ブリューゲルの描いたバベルの塔の螺旋のように、歪んでいないと良いのだが…。







出典:極上美の饗宴
「リアルな幻建築〜ブリューゲル“バベルの塔”」



posted by 四代目 at 09:44| Comment(4) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月18日

「金門島」を巡る中国と台湾の攻防。その陰には、ある日本人の姿が…。根本博とは?

中国と台湾の不可思議な関係を語る時、避けては通れない「ある島」がある。

その島は、「金門島」と呼ばれる島である。



中国大陸に沿うように位置するこの島を台湾と呼ぶことは、まことに不自然だ。

金門島は台湾島から270km以上離れている一方で、中国大陸からは最短で2kmほどの距離しかない。

台湾から見れば、金門島は遠く離れた飛び地であるが、中国から見れば、自分の庭先の小石のような島なのである。



当然、中国側はこの島を我が物にしようと躍起になった。

大軍を送り込んだり、対岸から無数の砲弾を浴びせかけたり…。

ところが、そのたびに中国軍は台湾に撃退され続ける。なぜか、この小さな小さな島一つが獲れなかったのだ。

※金門島の面積は150平方mほど。日本の小豆島(香川)、奥尻島(北海道)、宮古島(沖縄)などの島々とほぼ同じ面積である。



現在、金門島の特産品の一つに「金門包丁」というものがあるが、この包丁こそが金門島がいかに激しい戦場であったかを物語る。

金門包丁の材料とされるのは「砲弾」。

その砲弾は、金門砲戦という戦い(1958)の際に、中国本土から金門島へと撃ち込まれた砲弾だ。



1958年8月23日午後6時、中国軍の金門島へ対する砲撃が開始される。

砲撃開始からわずか2時間で、4万発もの砲弾が小さな島めがけて一斉に打ち込まれた。

開戦初日の一日を通しては、5万7千発の砲弾が金門島を襲った。



翌日、アメリカの第7艦隊が台湾海峡に姿を現し、台湾側への物資の補給、ならびに陸海空3軍の共同軍事演習を始める。

時はアメリカ・ソ連が世界を真っ二つにした冷戦の時代。数年前までは、朝鮮半島を舞台とした米ソ代理戦争が行われていたばかり。

中国と台湾のいがみ合いに顔を出したアメリカを、ソ連が黙って見ているわけはない。中国空軍の戦闘機はソ連製(ミグ17)である。



しかし、アメリカが核兵器を使うことを示唆するや、ソ連は急速に態度を軟化。中国側に「米ソ間の核戦争を刺激しないように」と警告を発する。

中国側が停戦へと動き出すのは、アメリカが台湾に提供した強力な兵器・8インチ榴弾砲が、金門島対岸5kmにあるアモイ(厦門)を壊滅させてからである。



名目上は、開戦からおよそ40日ほど経った頃に停戦は成された。

しかし、金門島への定期的な砲撃は、この後21年間の長きにわたり続くことになる(1979年の米中国交樹立まで)。

毎週、月・水・金と続けられた金門島への砲撃。その目標は無人の山々であり、戦術的な意味合いというよりは、政治色の強いものであった。



最終的には47万発もの砲弾が、中国本土から金門島へと撃ち込まれたと言われている。

その砲弾を材料にした金門包丁を作る職人・呉さんは笑顔で語る。

「冗談で言うんだ。砲弾は天から降ってきたギフトだ、ってね。毛沢東からの贈り物さ。」

形式的に金門島へ撃ち込まれ続けた中国の砲弾は、金門島の包丁職人たちに無料で良質な材料を提供し続けたことになる。



かつては中国から金門島へと飛んできた砲弾。それが今度は、包丁となって中国本土へと帰って行く。

中国本土からの観光客も、あっけらかんとしている。「俺らは砲弾で撃ち込んだものを、また持って帰るわけだ」、と。

ちなみに、金門包丁の値段は、日本円にして1,200円〜1万5,000円程度とのこと。



金門島を巡る中国と台湾の争いの歴史をたどって行くと、その重要な分岐点には、意外にも一人の日本人が現れる。

もし、彼がいなかったら、金門島は簡単に中国のモノとなっていただろうと言う人さえいる。

その日本人の名は、「根本博」。彼の天才的な戦術により、金門島に上陸した圧倒的多数の中国軍が全滅に追い込まれているのである。



時は第二次世界大戦が終結した後。混乱が続く中国国内では、泥沼化した内戦が長い尾をひいていた。

内戦の2大勢力となっていたのは、共産党(毛沢東)と国民党(蒋介石)である。

当初、国民党(蒋介石)が圧倒的な優位に立っていたものの、遼瀋戦役で満洲を失うや、淮海戦役においても大敗。長江以南へと雪崩をうって敗走していく。



追い詰められた国民党(蒋介石)に残されたのは、福建省と台湾のみ。

いよいよという日が近づいていた。



すっかり勢いを失っていた国民党(蒋介石)は、中国本土最後の地・厦門(アモイ)をアッサリと放棄。

そして逃げ込んだ先は、小さな小島「金門島」であった。

誰もが国民党(蒋介石)の敗北を予感した。共産党(毛沢東)は、その小島めがけて2万人もの大軍を投入し、一気に上陸を成功させたのである。



大勝利を目前とした共産党。

ところがっ…、突如として湧いて出た国民党軍は、上陸した共産党軍の船数百隻を一気に焼き払い、陸海双方から共産党軍を挟撃する。

金門島に追い詰めたと共産党軍に思わせたのは、じつは国民党軍の策略であり、共産党軍はまんまとこの小島に誘い込まれていたのである。



完全に浮き足立った共産党軍は、一敗地に塗(まみ)れて壊滅。

世界戦史に残る奇跡の大勝利は、ここに成された。

そして、金門島を巡る中国と台湾の因縁は、ここに端を発することにもなった。



この鮮やかすぎる大勝利に、当時の人々は首をかしげた。

なぜ、連敗連敗で戦意を喪失していたはずの国民党軍が、いきなり息を吹き返したように見事な大戦略を成功させることができたのか?



2年前に出版された「この命、義に捧ぐ」という本が、その秘密に迫っている。この書の主人公は、前掲の「根本博」。

フラリと国民党の前に現れた日本人・根本博が、死に瀕していた国民党に生命を与えたというのである。




根本博は大軍を率いて現れたわけではない。

彼の乗ってきたオンボロのポンポン船に同乗していたのは、たった7人。武器すら携行せず、その代わりに持っているものといえば釣竿ばかりだ。

そのあまりのみすぼらしさに、根本は牢獄へブチ込まれてしまう(根本は処刑をも覚悟したという)。



ところが、初老の日本人が名乗る「根本博」という名を国民党幹部が耳にするや、幹部連中は腰を抜かさんばかりにビックリ仰天。

根本博といえば、モンゴル戦線において最後までソ連軍に徹底抗戦した猛将である。



当時、日本の敗戦により、根本の軍も武装解除を要求された。

しかし、彼の軍が武装を解除することはなく、「ソ連軍を断固撃滅すべし。司令官たるこの根本が一切の責任を負う。」と高らかに宣言した。

なぜなら、いたずらに武装解除してしまった日本軍が各所においてソ連軍に大打撃を受けているという現状を知っていたからである。



武装解除してしまえば、軍のみならず、在留日本人をもソ連軍による殺戮に晒してしまう。

根本にはモンゴルに残された日本軍35万人、さらに在留日本人4万人の生命を如何にしてでも守るという強い決意があったのだ。

根本は胸中に遺書を忍ばせ、敢然とソ連軍に立ち向かっていった。



根本の日本軍を襲ったのはソ連軍ばかりではない。中国からは共産党軍が攻めかけてくる。

凄まじい白兵戦を三日三晩戦い抜いた根本軍。見事に35万の軍と4万人の民間人を無事帰還させることに成功する。

この大成功の陰には、蒋介石(国民党)がいた。彼が救いの手を差し伸べてくれていたのだ。



「その恩義に報いん」として、根本はほぼ単身・丸腰で、恩ある蒋介石の元へと馳せ参じたのである。

国民党幹部が、根本博の名を聞いて腰を抜かすのも無理はない。彼は日本軍きっての猛将であり、エリートでもあったのだ。



感激した蒋介石は、即断で根本を司令官顧問に任命。最も重要な「福健攻防戦」の指揮が、根本に任された。

前線を視察した根本は、本土アモイでの決戦の不利を悟る。むしろ、この地を捨て、金門島での戦いに勝利を期すことを提案する。

しかし、アモイ死守を力説する国民党の将軍との折り合いがつかない。やむなくアモイでの戦闘に突入するが、その乱戦の中、根本は精鋭部隊の救出に奔走し、勇猛な部隊を金門島へと逃れさせてゆく。



金門島に渡った根本は、軍が身を隠すための塹壕を掘る位置を細かく指示。上陸途中の軍を攻撃するのが常道であるところを、あえて完全上陸させて、その後に塹壕各所からの奇襲を行うという作戦に出た。

根本の策はスパスパと当たり、2万人もの大軍の共産党軍は壊滅へと追い込まれていく。



「古寧頭の戦い」と知られる金門島での攻防戦において、根本はまた一つ、彼の義侠心を示している。

古寧村の村人を盾にして最後の抵抗を試みる共産党軍に対して、根本は「村人の生命を守ること」を主張(そんなことを言い出す幕僚は国民党の中には誰もいなかった)。

村人を守るために作戦を大きく変更しながらも、根本は勝利を手中に収める。



生命を救われた古寧村の村人たちは、根本を「戦神」と崇(あが)め、長らく村の語り草としていくことになる。

村の古老たちは感謝を込めて、こう語る。

「根本さんは、私たちと一緒に死のうとしてくれた。

こういう日本人がいたことを、台湾人は忘れてはならないと思います。」



残念ながら、村の語り草以外で根本博が語られることは、ついぞなかった。

それは、のちに起きた国民党内部の政争により、こうした記録が抹消されてしまったためである。



戦神・根本博に光が当たるのは、戦後60年もしてからであった。

2009年、台湾政府は公式に感謝の意を表す。「古寧頭における日本人の協力は、『雪中炭を送る』行為であった」、と。

「雪中炭を送る」という表現は、困っている人に手を差し伸べるという意味である。



密航さながらにオンボロの一隻の船で海の荒波を漕ぎ出した根本博。

その様は、一か八かで海を渡った古来の遣唐使船のようである。

そして、金門島での大勝利は、あたかも三国志演義の一場面のようでもあり、赤壁の戦いのために圧倒的に劣勢な軍に一身を投じた諸葛亮(孔明)をも彷彿とさせる。




金門島が不自然ながらも台湾の領土であることの陰には、こんな日本人もいたのである。

歴史は親切にも、彼の名を再び世の知るところとしてくれた。

台湾と日本の間には、切っても切れないつながりもあるのである。



posted by 四代目 at 06:57| Comment(4) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする