2012年06月19日

孤高の里「祖谷(徳島)」。平家の伝説とともに。


四国のヘソのヘソ、奥の奥と言われる「祖谷(いや)」。

「平家の隠れ里」とも言われるだけあって、その谷の深さはまことに浅からぬものがあるようだ。

2億年もの間、吉野川の激流が削ってきたという「大歩危(おおぼけ)」「小歩危(こぼけ)」という渓谷、その名の由来はそれぞれ、「大股で歩くと危ない」「小股で歩いても危ない」と言い伝えられているほどである。



そうした断崖絶壁に渡されたのは、カズラ(つる)で作られた「かずら橋」という吊り橋のみ。

ひと一人が渡っただけでも、また、よそ風がそよいだだけでも揺れるというカズラ橋。徳島に伝わる民謡には、こう歌われている。「♪祖谷のカズラ橋ゃ〜、蜘蛛の巣の如く〜、♪風も吹かんのにユラユラと〜、♪風も吹かんのにユラユラと〜」

平家の落ち武者も、この吊り橋を切り落としてしまえば、源氏の追っ手を谷の向こうに立ち往生させることができたのだとか。




その深い深い渓谷の向こうの里、祖谷(いや)。

江戸時代の石碑には「祖谷、我阿州之桃源也(祖谷は阿波藩の"桃源郷"である」と記されている。俗世から切り離されたような祖谷に初めて足を踏み入れた人々は、そんな感慨をも抱いたのであろう。

ある人はこの地を「日本のチベット」と呼び、またある人は「日本のマチュピチュ」とまで呼んだ。



そして、アレックス・カー(Alex kerr) は「日本のグランドキャニオン」と呼んだ。

日本をこよなく愛する彼は、その書にこう記す。「祖谷峡は、日本で一番深い峡谷です。川は阿波石のためエメラルド色に染まり、聳え立つ岸壁は玉のよう。そして、谷の向こうの山からは白い滝が、まるで筆で書いたようにまっすぐに流れ落ちていました」

祖谷の地に一発で魅せられた彼は、この平家の落人の里に民家を買って、それを「城」と称して暮らしていた時期があったのだという。

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自然が生み出した険しさにより、祖谷の地は否が応でも人の俗世から隔てられてきた歴史がある。アレックス・カーの言うように、祖谷は「仙人の住処」のようであったのだ。この隔世の地は、平家にとっては格好の「逃げ場」だったのであり、現代人にとっても「失われてしまった何か」を彷彿とさせてくれる不思議な土地なのだという。

何億年も人を拒んできた祖谷に、人の影が見え隠れし始めるのは、およそ1200年前。その開祖と伝わるのは、「恵伊羅御子(えいらみこ)と小野老婆(おののおば)」である。現在、「お山さん」の墓に祀られている両人は、奈良時代の中期に「農耕とハタ織り」の技術をもって、紀州(和歌山)の熊野からこの地へと渡ってきたのだという。



そして時は下り、平安時代の末期、源平の激しい合戦の末、平教経(のりつね)が祖谷の渓谷に落ちのびてきたのだと、土地の人々は口をそろえる。この地に代々伝わる「阿佐家」というのが、その由緒ある末裔なのだという。

祖谷に落ちのびてきたという平教経という人物は、平清盛の異母弟・平教盛の次男であり、「たびたびの合戦で一度の不覚もとったことがない」と言われるほど、平家随一の猛将であった。

彼が平家物語に姿を現すのは、平清盛亡き後、平家が源義仲に都を追われるシーンからである。足利義清に追討される平家を奮い立たせたのは、この平教経。先頭に立って奮戦し、ついには追討軍の大将・足利義清を自害に追い込み、大勝する(水島の戦い・1183)。



また、源氏方のヒーロー・源義経の最大のライバルとされるのも、この平教経(のりつね)である。

源義経によって急襲された「屋島(やしま)」にあって、「王城一の強弓」で名を馳せた平教経は、その自慢の弓に矢をつがえ、源義経の四天王の一人、佐藤継信を射抜いている。

また、源平最後の大戦となる「壇ノ浦の戦い」では、源義経をすんでのところまで追い回し、追い詰められた義経は舟を飛び飛び逃げるよりほかになかったのだという(八艘跳び)。



この剛の者・平教経(のりつね)は、不思議なことに3度死んでいる。

一度目は、一の谷の合戦で討ち死にしており(吾妻鏡)、二度目は、壇ノ浦の戦いで源義経を追いつめ損ねた後、三十人力で知られた敵方の安芸兄弟を両脇に抱えたまま、もろとも海に沈んでいる(26歳・平家物語)。

そして、三度目は祖谷の地に落ち延びた後、20年してからこの地で息を引き取っている。



歴史上には「死ぬはずがない」と信じられ、伝説的な生存説を生み出す武将がいる。源義経がそうであり、そのライバル・平教経もそうなのである。

一の谷でも死なず、壇ノ浦でも死ななかった平教経は、同じく壇ノ浦で入水したはずの「安徳天皇(当時6歳)」をその窮地から救い出し、祖谷の地へと逃れ落ちたと伝説は語る。



平教経は、安徳天皇とは別ルートで四国に落ちのび、両者は「剣山(徳島)」の山頂で落ち合ったのだという。

その剣山の山頂で、安徳天皇がやおら取り出したるは「三種の神器」の一つとされる「宝剣」。そして、その宝剣を山頂の宝蔵岩に埋めて、平家の復興を祈願したと伝わる。この宝剣は、壇ノ浦の合戦の際に海中に没したとされるものであり、源氏方が血眼になって海底をさらっても、一向に出てくる気配のなかったものである。

※標高1955mの剣山(つるぎさん)は、四国地方第2の高峰であり、現在は百名山の一つとされている。この山名の由来が、この安得天皇ゆかりの宝剣にあるという説がある(それ以前の山名は石立山といった)。



祖谷に入った平教経は、その名を初名であった「国盛」と変え、平国盛と称するようになる。

その後、平国盛の長男・氏盛が「阿佐」の姓を名乗り、それが現在の阿佐家につながるのだという。第23代となる現当主の阿佐道彦氏は、家宝として「平家の赤旗(大小二旒)」をはじめ、家系図や宝刀などを代々受け継いできている。



この阿佐集落にある鉾神社は、平国盛が鉾を納めて社を建てたものであると伝えられ、現在、その中には安徳天皇と平国盛の木像が安置されている。

また、境内にそびえる幹回り10m以上の杉の巨木は樹齢800年以上といわれ、その杉はほかならぬ平国盛が植えたものだということから、「国盛杉」と呼ばれている。

他にも、落ちのびた平家一行がこもったという岩窟は「平家の岩窟」と呼ばれていたり、安徳天皇が装束をかけられたという「装束石」、鉾を立てかけたという「鉾立て石」などもある。

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しかし、敗者となった平家は、祖谷の閉ざされた地にあってなお、世を忍んで生きねばならなかった。

平国盛の墓と伝わるのは、「伏せ墓」と呼ばれる森の中の単なる石積みであり、そこに家名はない。それは子孫の永続を願った国盛が「名を消して墓に入れ」と遺言したからなのだという。



平国盛はこの地に隠れ住み、その後の20年を生きたとされるが、まだ子供であった安徳天皇は、不幸にも祖谷に入った翌年に、病気のために崩御されてしまう。時の激流の中、わずか3歳で天皇に即位した安徳天皇。たとえ壇ノ浦を生きのびたとしても、平清盛の孫という血脈は悲しくも薄幸であった。

歴代最年少で崩御された安徳天皇は、「栗枝渡八幡神社」に祀られ、社殿のかたわらの「御火葬場」は聖域とされた。不思議なことに、その聖域の四方にはどんな大雪でさえ降り積もらなかったという。また、村人たちは「その聖域の入ると腹痛が起こる」といって、無闇に近づくことすらできなかった。幼い天皇は、腹痛にでも苦しめられていたのだろうか…。



安徳天皇と平国盛は、祖谷(いや)に籠もったわけだが、平国盛の妻・海御前は夫と離れ放れとなり、九州・福岡へと流れ着いた。そして、その地で「河童」に化身したという言い伝えが残る。ほかの女官たちも河童と化し、従った武将たちは「平家ガニ」と化した。

その河童たちが最も恐れたというのが、ソバの白い花だったという。「白」という色は源氏の象徴であり(平家は赤)、その色に源氏の影を見たのであろうか。




祖谷に逃れた平家の落人たちは、隠れ里に身を潜めながらも、いつの日かの再興を信じて、武芸の鍛錬を怠ることがなかったようである。

剣山の平坦な山頂は「平家の馬場」とも呼ばれ、かつて馬の調練が行われていたことを偲ばせる。また、「百手神事」として伝わるのは、ひたすら矢を射る神事である。百手(ももて)というのは、源平盛衰記にみられる記述で、200本の矢を100回に分けて射ることを意味する(甲乙2本の矢が一手)。

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こうして、平国盛以来の剛の気風は、その子孫にも脈々と受け継がれていく。そして、隔絶した土地柄に加え、平氏 であるという誇りが、彼らの「独立心」をより揺るぎのないものとしてゆく。

南北朝時代には、「阿波山岳武士」と呼ばれる勢力を築き、圧倒的な大勢力の北朝に対して、祖谷のみに孤立してなお、頑強な抵抗を続けている(のちに所領安堵)。



戦国時代には、阿波の三好氏にも、土佐の長宗我部氏にも従わず、豊臣秀吉の四国平定になって、ようやく領地を明け渡している。

祖谷の地に入った蜂須賀家政は、平国盛の末裔とされる阿佐家の守ってきた「平家の赤旗」を「大変貴重なものである」と認め、それを掛け軸にして後世に遺すように命じたのだという。

それが、現在の阿佐家に伝わる門外不出の家宝「平家の赤旗」である(当時は茜染めによる見事な赤色だったというが、現在は黄色く変色してしまっている)。

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江戸時代になっても、祖谷の人々は質実剛健を重んじる独自の気風を守っていたのだそうな。その気風は現代にも残り、「内にあっては協調性を重んじ、外には大変に厳しい」というのが祖谷という土地柄なのだという。

つい最近までは道路もなかったというこの地は、ほとんど「独立した国」であり続けたのだ。



しかし、険しい山々に閉ざされた地で生きていくことは、そうそうに容易なことではない。一人離れ、また一人離れ…、今の祖谷に暮らす人々はそう多くはない。山の恵みは豊かなれども、その恵みは「死なない程度に生かしてくれる」という謙虚なものなのである。

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山の斜面にへばりついたような祖谷の各集落は、平坦な土地に乏しく、土を上へ上へ耕していかねば、土が谷へ谷へと流れ落ちてしまう。幼な子などは、木にでもくくりつけておかなければ、コロコロと川へ転げ落ちてしまうほどである。

この険しさゆえに、「誰も祖谷には手をつけられなかった」のであり、その地は外部の者には「桃源郷」のようにも見えたのであろう。

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祖谷を初めて見たアレックス・カーは、こう言っている。「当時の祖谷は、まるでおとぎ話の世界でした」。しかしそれは、彼が言うように「ギリギリのタイミング」であったのであり、「消えゆく間際」だったのである。

世間から離れすぎた祖谷は、再び人を遠ざけ、雲の上に戻ろうとしている。祖谷を現世につなぐ吊り橋「かずら橋」の材料となるカズラは、十分な太さを持つものが少なくなりつつあり、その架け替えは困難になりつつある。そして、祖谷の集落には子どもがめっきり少なくなった。

諸行無常…、祖谷の地に生きてきた人々の思いは、いかなるものか…。





美しき日本の残像
アレックス・カー




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出典:新日本風土記 「祖谷 大歩危」
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2012年06月10日

ペルシャの遺物「キュロスの円筒印章」。古代の名君が示した超大国の姿とは?。


「世界の人々のほとんどは、『イランの素晴らしさ』を知りません。皆、イスラム革命(1979)後の30年間のイランだけを見て、判断してしまっているのです」

ノーベル平和賞(2003)を受賞しているイラン人弁護士、シリン・エバディ氏は、そう語る。

「核兵器を製造しようとしているテロリスト予備軍」というイランの烙印は、欧米諸国により押されたものであり、それゆえに、そればかりを鵜呑みにしていては、現実を誤認してしまうというのである。

当のイラン人たちは、こう口を揃える。「私たちはアラブ人ではないし、ましてや、テロリストでもない」。イラン人の中には、自分たちが「ペルシャ人の末裔である」と強く意識している人々も少なくないという。



我々が「イラン」という国を少しでも正しく認識しようと思うのであれば、同国の歴史を多少なりとも知る必要がある。

歴史的に、イランは「ペルシャ」であり、イランが正式名称となったのは20世紀に入って以降、つい最近の話である。

この国には、古代のペルシャ帝国から脈々と受け継がれてきた「2500年にも及ぶ長大な歴史」が今も息づいているのだ。



ここに、その全ての歴史を見守り続けていた遺物がある。それは、イランの国宝とも讃えられる「キュロスの円筒印章」である。

ラグビー・ボール大の、この日干し粘土づくりの物体の表面には、びっしりと楔形文字が刻まれており、そこには驚くべき知見が記されている。進化したはずの現代社会においても、実現できていない理想が…。

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この円筒印章が作られたのは、紀元前6世紀ごろ。

それは、アケメネス朝ペルシャの初代国王(諸王の王)「キュロス」が、戦わずしてバビロンに入城した頃であった。



のちに名君となるキュロスも、もともとは小国(アンシャン)の王にすぎなかったわけだが、従属していたメディア王国に反旗を翻した時から、物語は始まった。

キュロスの宗主国であったメディア王国というのは、じつはキュロスの祖父がその王であったが、外交政策における意見の相違から、縁深かった両国は泣く泣く決別したのである。

そして、その戦において、キュロスは祖父を生け捕りにすることになる。



敵味方に分かれたとはいえ、キュロスは祖父を決して手荒には扱わなかった。祖父を王者として手厚く遇してやまなかったのである。

これは、「たとえ肉親でも容赦なく殺害する」のが普通だった紀元前の時代にあっては、稀有のことであった。この時代は、日本でたとえるならば戦国時代のように、親が子を殺し、子が親を殺す殺伐とした世の中だったのである。

こうしたキュロスの「寛大さ」は、周辺諸国にはついぞ見られることのなかったものであり、のちに彼が大帝国を築く礎ともなっていく。



その後、キュロスは「不死身の一万人(不死隊)」と呼ばれた最強軍団を率いて、周辺諸国を席巻してまわり、その最後の仕上げとして、「新バビロニア王国」に兵を向ける。

当時のバビロニア王(ナボニドゥス)は、完全に民衆の信頼を失っており、キュロスがその城下に迫った時、その城門は戦うことなく、自然に開かれたのであった(紀元前539)。

キュロスの軍門に下ったバビロニア王は捕虜とされるも、彼が冷遇されることはなかった。キュロスは「王の礼」をもって彼を遇し、彼が没した際には、盛大な国葬までを行っている。



ペルシャ王国は、世の常である戦いによる征服という手段をとりながらも、その後の統治はじつに「寛大」であった。多民族、多宗教、多文化、それらを排除することなく、すべて飲み込んだのである。

徳高きキュロスの元には、水が自然に流れ込むかのように、人々は集い、王国は力に満ちていく。

その結果、このペルシャ王国は、世界初の巨大帝国を築くことになるのである。その版図は、現在の中東地方全域を足下に収めるほどに広大であった。

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1879年に発掘された「キュロスの円筒印章」というのは、その名君・キュロスを讃えすぎるほどに、讃え上げた文言で埋め尽くされている。

「全宇宙の王、偉大な王、世界四方の王…」

もっとも、こうした誇大な修飾語句にさほどの意味はない。より重要なのは、その内容である。



キュロスの円筒印章には、民族の自由、宗教の自由が明言されており、奴隷は解放され、あらゆる種類の弾圧を禁じている。

その内容は、1700年以上のちのイギリスのマグナカルタ(大憲章)よりも「真の自由」について深く言及しているといわれ、2300年後のアメリカ独立宣言の理想とされたのだという。

実際、アメリカの独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンは、キュロスの熱心な信奉者だった。



2500年後の現代社会においてすら、「民族の自由」や「宗教の自由」は我々の
乗り越えられない大きな課題となっているのに、紀元前に生きたキュロスは、その理想をいち早く掲げていたのである。

アメリカが奴隷を解放できたのは、いつだったか? キュロスが奴隷を解放した2400年後ではなかったか。

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キュロスは単なる理想家ではない。

彼は実際にバビロニア王国に囚われていた人々を解放し、あらゆる民族の習慣を認め、いかなる宗教をも尊重したのである。

その関大さゆえに、彼の築き上げた理想の大帝国は、その後、200年の栄華に浴することになる。



この高徳な王・キュロスは、現代のイラン人の理想であり、彼らがその末裔であることを誇るのは当然のことである。

それは、中華民族が自らを偉大なる「大漢帝国」の末裔であることを自認することと同一のことであろう(漢民族、漢字…)。

本国、日本においてのそれは「大和朝廷」ともなりえようか(大和魂、大和撫子…)。




ところで、かくも大昔のペルシャ帝国・キュロス王の「寛大さ」が世に長く語り継がれてきたのは、冒頭の遺物「キュロスの円筒印章」の功績ではない。

このラグビー・ボールのような遺物が発掘されるのは、ずっと後の世の1879年であり、キュロス王のアケメネス朝ペルシャが滅んで、2200年も後の出来事である。



それでは、誰がそれを語り継いできたのか?

それはユダヤ民族である。



ユダヤの民は、かつてバビロニア王国に征服されて捕らわれの身となったことがあった。これは、かの「バビロン捕囚」と呼ばれる史実である。

この出来事は、歴史上で苦難続きのユダヤ民族にとって、最初の大きな試練であり、バビロニア王国によるその抑圧は70年以上も続いた。



涙なみだのユダヤ人たちが捕らえられていたバビロンに颯爽と姿を現し、その城を無血開城させた人物といえば…、それはペルシャのキュロス大王であった。

寛大なるキュロス王は、ユダヤの民を解放するのみならず、バビロニアによって奪われていたエルサレムの神殿の黄金の器を彼らに持たせ、護衛の兵をつけて祖国まで送り届けた。そして、かつての地に神殿を再建させたのである。

※こうした寛大な措置は、なにもユダヤ民族だけにもたらされた恩恵ではなく、ほかの民族や宗教に対しても同様で、バビロニアが奪った神の像を送り返したりしている。



ユダヤ民族にとって、キュロス王には感謝してもしきれぬ想いがあり、この解放を丁寧に旧約聖書に記し、後世に伝えたのである。

キュロス王は、日本人にとっては馴染みの薄い存在かもしれないが、欧米世界においては、その聖書を通じて「古代の理想的な王」として広く知られているのである。

※ギリシャの歴史家・クセノフォンが記した「キュロスの教育」には、キュロスが偉大な統治者であることが述べられており、それ以降のヨーロッパ文化では、キュロスは「模範的な為政者」ともされるようにもなっている。




そして、「キュロスの円筒印章」の発掘は、聖書の中の伝説と思われていたキュロス王の実在を裏打ちすることともなるのだが、それと同時に論争の的ともなってゆく。

まず、発掘したのが大英博物館の調査隊であったため、このラグビー・ボールのような遺物は、イギリスへと持ち去られた。さながらロング・パスのごとく…。

これはペルシャ帝国の末裔を誇るイラン人にとって、心穏やかな出来事ではない。彼らは「キュロスの円筒印章」の返還を切望し続けたが、その念願が叶うのは、130年以上も後のこととなる。



当時のイギリスは、世界中に植民地を抱える大英帝国として絶大な権力を行使していた。

そして、その傲慢さからか、イギリスは「バルフォア宣言(1917)」という、のちの中東世界に大問題を巻き起こすトンデモ宣言をしてしまう。



その宣言の具体的な内容は、国を失っていたユダヤ人たちに、「イスラエル」の
建国を約束するものである。

ヨーロッパに散り散りになっていたユダヤ人たちは、このバルフォア宣言に狂喜し、時のイギリス王・ジョージ5世を、かつてバビロン捕囚から解放してくれたキュロス王の肖像画と並べて讃えたほどであったという。



このバルフォア宣言が問題となるのは、ユダヤ人にイスラエルの建国を約束したこと自体ではない。

問題となるのは、この約束と同時に、イスラエルと同じ場所を「アラブ人」に与えると約束してしまっていたことである(フセイン・マクマホン宣言)。

要するに二枚舌、ダブル・ブッキングである。現在のイスラエルとパレスチナがドンパチを続ける原因の一つは、ここに求められるのである。




中東地域を巡る情勢は、複雑怪奇にもつれ合っているが、話の流れから単純に割り切れば、「ペルシャ人」「アラブ人」「ユダヤ人」によるイザコザとも言える。

古くから中東地域に生きてきたこの3者は、歴史上(今なお)、土地を取ったり取られたりの争いを繰り広げ続けてきた。



キュロス王のユダヤ人に対する寛大さのおかげで、ユダヤ人とペルシャ人というのは、基本的に良好な関係といえる。

しかし、イスラム教を掲げたアラブ人に対しては、ユダヤ人・ペルシャ人の双方とも、あまり好ましい感情は抱いていない。



イスラエルとパレスチナが「犬猿の仲」なのは、それはユダヤ人とアラブ人の対立という構図である。

また、ペルシャ人の大帝国を征服したのはアラブ人だ。そして、ペルシャ人の末裔たる現在のイランにおいて、1979年のイラン・イスラム革命以降、政権を担っているのは、イスラム系(アラブ)である。

現在のイスラエルとイラン(ペルシャ)が仲違いしたのは、イランがイスラム政権に支配されて以降の話である。




こうした民族や宗教の違いによる二重、三重の対立が、中東地域で起こっていることは、まったく歴史の皮肉である。

なぜなら、古代時代に同地域を支配していたペルシャ帝国は、「キュロスの円筒印章」が語るように、民族や宗教の違いをすべて容認して繁栄した超国家であったのだから。



中東の地が世界に先駆けて繁栄したのも、そして、最も戦禍に苦しみ続けているのも、それはひとえに「豊かすぎた」からなのかもしれない。

メソポタミアという自然風土に恵まれた地域は、食糧の増産が容易であったため、はやくから文明の芽が花開いた。古代においては最高の資源であった「鉄」や「木材」も豊富で、その文明はますます進み、学問も深化してゆく。

現代においても、「石油」という時の資源が足元に眠っていてくれたおかげで、今なおその恩恵の元に国家を運営することが可能になっている。



こうした豊かさは、まさに「両刃の剣」だったのであろう。

富む一方で、それを争ったのだ。

この地域ほど権力者たちの「草刈り場」となった地域も珍しい。かつてはローカルだった争奪戦も、大航海時代以降は、まさにグローバルである。




そんなイランには「タアロフ」と呼ばれる処世術があるという。

タアロフとは、「自分がへりくだることで、相手を讃える」というペルシャ以来の伝統である。それゆえ、イラン人たちは客人を最高にもてなすのだという。彼らは人を喜ばせるのに一生懸命なのだ。



タアロフはとても好ましい慣習ではあるが、うがった見方をすれば、これはイラン人たちの「生き抜く知恵」でもあった。

「誠意を尽くして、相手との波風を立てないように努めるが、自らの本心は決して明かさない」



歴史上、常に危険にさらされ、度重なる侵略を受け続けたイラン人たちは、じつに用心深い側面を内包し、彼らが本当の姿を他人に見せることは、まずないのだという。

陸続きの大陸の大動脈に位置していたペルシャ人たち。彼らにとっては、逃げる場所も隠れる場所もなかった。「国にとどまって、侵略者とうまく共存していくしか道はなかった」のである。



ペルシャ帝国のキュロス王は、もとは小国の王であっただけに、その辺の機微を熟知していたのかもしれない。

それゆえに、民族や宗教を排除する道ではなく、すべてを受け入れる道へと進んだのであろう。

キュロス王は、強いばかりではなく、弱さを知っていただけに、不遇なユダヤ人たちの涙を見過ごすことがなかったのだ。



彼のペルシャ帝国(アケメネス朝)は200年の繁栄ののち、マケドニアの王・アレクサンダーによって灰塵に帰すことになる。

しかし、ペルシャの征服者となったアレクサンダー大王は、ペルシャの先進性を軽んじることができなかった。彼は結局、ペルシャの文化や行政制度を採用することとなるのである(妻もペルシャ人とした)。




ペルシャは滅んだといえど、その魂は歴史にとどまり続けた。

よく言われるように、ペルシャを征服したはずのアレクサンダー大王は、逆に「ペルシャ化」されたのである。



ペルシャ人たちは土地を奪われてなお、侵略者に同化されることはついぞなく、幾多の侵略者たちを「ペルシャ化」してきたのである。

アラブ人に支配されたとはいえ、ペルシャ人たちに言わせれば、「アラブ文化と呼ばれるものは、ペルシャの受け売りだ」となる。



ペルシャ人の魂は、タアロフにより守られ続けたのであろう。表面上は相手に支配されたとしても、その本心が揺らぐことは決してなかったのだ。

ペルシャ人のお気に入りの神話は、フィルドゥシーの「王の書(シャー・ナーメ)」に登場するロスタムという戦士である。

倫理的に正しいのは決まってロスタムである。しかし、かれは無能な支配者に仕えなければならないというジレンマに苦しむのである。



ペルシャ人が守り続けた鉄のように堅い魂は、2500年という時の流れに抗い続けて現存する「キュロスの円筒印章」のイメージと重なってくる。

ペルシャ人の魂は目には見えぬけれども、「キュロスの円筒印章」はそれを実在化させたもののようにも思える。

「イランという国の真の姿を知りたいのなら、『キュロスの円筒印章』を理解することです」とシリン・エバディ氏(冒頭のノーベル平和賞受賞者)が言うのも、ペルシャ(イラン)歴史の一端を垣間見れば、十分に納得のいくところである。

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歴史は手を変え品を変えながら、堂々巡りを繰り返しているのであろうか?

古代のペルシャはバビロニアと敵対したわけだが、それを現在の地図上で見れば、イラン(ペルシャ)とイラク(バビロニア)の戦争とまったく同じ構図である。

言うなれば、イラン・イラク戦争の種は2500年前にまかれていたのである。そして、いまだその帰結は見ていない。



ユダヤ人(イスラエル)はどうか?

バビロニア(イラク)に捕囚されたのは、2600年も昔の話でありながら、いまなおアラブ人(パレスチナ)との折り合いを見つけられずにいる。



それぞれの歴史の転換点には、決まって「キュロスの円筒印章」が現れた。

イラン・イラク戦争において、種々の民族からなるイラン国民を一致団結させるための象徴として選ばれたのは、ほかならぬキュロス王である。

そして、イスラエルがイギリスにより建国を約束されたときも、キュロス王は登場している。



歴史が足踏みを続ける限り、「キュロスの円筒印章」は人類にとって必要とされ続けるのかもしれない。

2500年前を経てなお、「キュロスの円筒印章」に刻まれた言葉は、恒久的には成就していない。この言葉が成就するまで、キュロス王は死んでも死にきれないだろう。

「キュロスの円筒印章」が2500年も生き続けたという奇跡には、それ相応の意味があって然るべしである。

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今、国連には「キュロスの円筒印章」のレプリカが掲げられている。

しばらくは砂漠の下で休息していた「キュロスの円筒印章」は、再びこの世に必要とされている。



この物体は、今の世界を見つめて何を想うのか?

「キュロス王のいた頃は、よかったな…」とでも思うのであろうか…。





物語 イランの歴史
―誇り高きペルシアの系譜




関連記事:
低く建てられた首里城(沖縄)の意味するものは?平和を求めた水平感覚。

今なお「バベルの塔」の高くなり続けるような現代文明。何千年も変わることのない人間の欲望が…。

支配層の都合により民族は分断され、「20世紀最大の大虐殺」は引き起こされた。美しき国「ルワンダ」。

出典・参考:

TED talks
二ール・マクレガー: ある物体 2600年の歴史

National Geographic「追憶のペルシャ」

posted by 四代目 at 06:51| Comment(3) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月18日

独立を志向する「スコットランド」。300年来のイギリス連邦の行方は?


「独立」という甘美な響きは「スコットランド」をホロ酔いにさせているのかもしれない。

スコットランドは「イギリス」から独立して、新たな国家となる道を国民に問おうとしている。



イギリスは「連邦国家(United Kingdom)」、すなわち複数の国々の集まりであり、イギリスを構成するのは「イングランド」「ウェールズ」「スコットランド」「北アイルランド」である。

これら4ヶ国はお互いに争いながら、現在我々の知るイギリスに落ち着いた歴史を持つ。



「イングランド」が「ウェールズ」を合併するのは今から480年ほど前の1536年。そして、「スコットランド」を合併するのは今から300年ほど前の1707年。これら3ヶ国を総称した言葉が「グレートブリテン」である。

グレートブリテン王国となった約100年後(1801)、「北アイルランド」との連合により、現在の「イギリス」が完成する。

※イギリスの正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(United Kingdom and Notrhern Ireland)」。



複数の国家が連合したとはいえ、イギリスの国土は日本の65%ほどしかなく、北海道・東北・北関東に新潟を足したほどの面積しかない。

そのうち、スコットランドの面積は北海道のそれにほぼ等しく、イギリス全土のおよそ30%を占める。さらにスコットランドは「北海油田」という石油・ガス資源をも抱える重要な地域である。



もし、そんなスコットランドがイギリスから独立したら?

イギリスにとっての損失の大きさもさることながら、スコットランドにとっても不利益は大きいのではないのか。

グローバル化した世界で小国の生き残りがどれほど困難かは、近隣の「アイルランド」「アイスランド」の苦境を見ても明らかではないか。



それでもなお独立を求めるというのは、スコットランドの抱えるイングランドへの「感情」なのかもしれない。

両国の争いの歴史による不和は、こんな言葉も生んでいる。

「カラス麦はイングランドでは馬のエサだが、スコットランドでは人間が食べる」



イングランドに揶揄されたスコットランドは、こう言い返す。

「ゆえに、イングランドの馬は優秀で、スコットランドでは人間が優秀なのだ」



その言葉通り、ある時期のスコットランドの優秀さは比類なきものであり、「発展は北にあり」と賞賛されるほどであった。

イギリスを世界帝国に押し上げた「産業革命」は、スコットランド人のジェームズ・ワットが「蒸気機関」を発明しなければ始まらなかったであろうし、現代文明を大きく進展させた電話(グラハム・ベル)、ファックス(アレクサンダー・ベイン)、テレビ(ジョン・ロジー・ベアード)も全てスコットランド人の発明であった。

学問の分野では経済学(アダム・スミス)、医学(ペニシリンの発見、アレクサンダー・フレミング)、社会学(ジョン・ミラー)、物理学(マクスウェル)と枚挙にいとまがない。

その華やかさは「北のアテネ(ギリシャ)」とも呼ばれるほどであった。


スコットランド・ルネッサンスと大英帝国の繁栄


それほど優秀だったスコットランドは、2度の世界大戦によって衰退を余儀なくされてしまう。

スコットランド人はヨーロッパ屈指の勇猛な戦士と謳われたがゆえに、その多くが徴兵されて過疎化が深刻化し、ドイツ空軍の爆撃は2大都市であったエディンバラとグラスゴーを壊滅させた。

イギリスの発展を牽引していたはずのスコットランドは、いつの間にかイギリスの「お荷物」とまで言われるようになってしまうのだ。



スコットランドが再び陽の目を見るようになるには、北海に油田が発見されるのを待たなければならない。その採掘が開始されたのは1960年のことであった。

現代文明における「石油」の比重は重すぎるほどに重い。スコットランド経済は一気に躍進し、栄光は再びその頭上に輝きはじめた。



しかし、「力」を手にすると決まって鎌首をもたげてくるのは、イングランドへの「対抗意識」であった。

「北海油田はスコットランドのモノであるはずなのに、その恩恵をイングランドに横取りされている」との不満の声が高まってくる。

その声に後押しされて勢力を増大させるのが、スコットランド独立を志している「スコットランド国民党(SNP、Scottish National Party)」である。



2007年のスコットランド議会選挙において、スコットランド国民党(SNP)は労働党を僅差で凌ぎ第一党へとのし上がり、その党首「アレックス・サモンド」氏がスコットランド首相に選出されている。

イギリスという統一国家の中に、スコットランド議会、そしてスコットランド首相が存在するのは奇妙な話ではあるのだが、それはスコットランド出身であったトニー・ブレア元イギリス首相のはからいでもあった。

ブレア政権時の国民選挙(1997)により、スコットランド議会は300年ぶりの復活を果たしたのである。

※スコットランド議会は1707年の合併と同時に閉鎖されていた。



300年前、スコットランドがイングランドに降らざるを得なかったのは、主に経済的な理由からであった。

1700年頃のイングランドは、人口でスコットランドの5倍、経済規模では40倍近い巨大な存在だったのである。



スコットランド合併吸収に先立つこと100年ほど前、スコットランドの王がイングランドの王として迎えられるという「同君連合」がなされていたのだが、1688年に起きた名誉革命はスコットランドにとって「勝手に王をすげ替えられた暴挙」であった。

それでもスコットランドはイングランドに立ち向かえる力はなかった。

1651年のイングランド「航海条例」によって、スコットランドはイングランドにとっての同君連合の相手国ながら他国として扱われ、貿易による利益を大きくそがれてしまっていたのである。

徐々に経済の首を絞められていったスコットランドは、泣く泣くイングランドの軍門に降らざるえなかった。そして、王は奪われ、議会は散った…。


とびきり哀しいスコットランド史


力任せのイングランドへの反感は、スコットランドで根強い。

「ジャコバイト運動」と呼ばれるのは、イングランドへの合併以来脈々と続くイングランドからの独立運動である。

300年振りに復活したスコットランド議会において、議員たちの胸に付けられていた「白いバラ」はジャコバイト運動の象徴であった。



そして、議会復活と同時に返還された「スクーンの石」は、スコットランド王室の宝であった。

そのスクーンの石は、700年前(1296)にイングランド王が強奪したものであり、その大切な石がイングランドにあること自体が、長らくスコットランド人の感情を逆なでし続けていたのである。



こうしたイングランドに対する歴史的な感情は、現在のスコットランドを独立へ向かわせようとしている。

しかし、世代が何度も何度も交代した300年という時は、そうした感情を風化させるには十分な長さでもあった。



現代人たちは、感情よりも「経済」を優先している。

ある世論調査によれば、生活が苦しくなっても独立を支持するというスコットランド人は全体の20%ほどに過ぎない。

大半の人々は、「新しいiPadを買えるだけのお金が入るなら独立に賛成票を入れる」という冷静さだ。



スコットランドは潤沢な資金を生み出す北海油田を抱えているとはいえ、独立すればイングランドからの助成金は入らなくなり、たとえ税収が増えたとしても失った助成金を賄えるほどかどうかは疑問視されている。

さらに北海油田に頼りすぎる経済事情も危ういものである。GDPの20%近くを石油に依存することになれば、その国際価格の上下に一喜一憂するロシアの如しである。

もう一つ残念なことには、北海油田の産油量は年率6%ずつ着実に減少しているため、いずれ完全に枯渇することは免れ得ない。



スコットランドの第一党となったスコットランド国民党の目指す新しい国は、北欧流の国家だという。

全ての子供への無償保育、大学の学費ゼロ、老人介護の負担もゼロ、さらには手厚い年金の支給というものだ。

不安視される北海油田の財源で、どこまでこうした夢が実現できるかは未知数であろう。



独立という選択は、スコットランドにとって吉と出るか、凶と出るか?

その真意は今から2年後(2014秋)、スコットランド人たちに問われることとなる。




フィガロ ヴォヤージュ
 スコットランドで手仕事と出会う




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2012年04月16日

吉野の桜、熊野の山々は何をか語らん。


桜が満ちる春の吉野山(奈良)。

山々から溢れ返えらんばかりの桜の木々はおよそ3万本。

これほど多くの桜の木々がこの地に育まれてきたのは、吉野には桜を「御神木」として大切にしてきた歴史があるからなのだという。

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桜の木々に取り囲まれるように佇む「金峰山寺(きんぷせんじ)」には、こんな伝説が残る。

今から1300年以上も前、「役小角(えんのおづぬ)」という修験道の行者は吉野の山中で修行に明け暮れていた時のこと。

役小角の山々への祈りは巨岩から「蔵王権現(ざおうごんげん)」をこの世にいだす。そして、眼前に現れいでた蔵王権現を役小角は「桜の木」で彫り上げたのだそうだ。

それ以来、桜の木は「御神木」とされ伐採を禁じられることとなる。

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蔵王権現を祀る「金峰山寺(きんぷせんじ)」というのは、「修験道」の総本山とされるお寺であり、その修験道の開祖とされるのが「役小角(えんのおづぬ)」である。

修験道とは、日本古来の山岳信仰と外来の仏教が混淆してできた「日本独自の宗教」と言われるもので、山に籠って厳しい修行を行うのがその特徴である。

また、役小角が感得した「蔵王権現(ざおうごんげん)」も、外国(中国・インド)に起源を持たない「日本独自の仏様」ということだ。



役小角の伝説はこんなことも言う。

弟子であった「韓国連広足(からくにのむらじひろたり)」の讒言により、役小角は遠く伊豆へと流罪になった(699)、と。

※韓国連広足は、壬申の乱(672)のおりに天武天皇に味方した人物ともされ、その末裔には楠木正成や明智光秀の名前も上がる。これらの人物たちはみな天皇方に大いなる忠誠を示す人物ばかりである。



その名前に「韓国(からくに)」とあるように、彼には渡来の香りが濃厚であり、その点、日本独自の宗教(修験道)と独自の仏様(蔵王権現)を生み出していく役小角とは全く対照的である。

この両者が敵対するという筋書きは、何か意味深いものがあるのかもしれない。ちなみに、役小角が行者として山深くへ身を投じていくのに対して、韓国連広足は外従五位下まで昇進している。

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現在に残る役小角の像の両脇には、決まって「前鬼」と「後鬼」が控えている。

この二人の夫婦鬼はかつて生駒山中を荒らし回るどうしようもない鬼であり、人間の子供をさらっていくという悪事を繰り返していた。

そこで一計を案じた役小角、5人いたという鬼夫婦の子供のうちの末子を鉄釜の中に隠してしまう。すると、かわいい我が子を見失った夫婦鬼は悲嘆に暮れた。



こうして子供を殺された親の悲しみを痛感した前鬼・後鬼はそれ以来、役小角に心服し、役小角が死ぬまで片時も離れずに付き従うようになったのだという。

役小角の前を行く夫・前鬼が斧を振るって道なき道を開いていけば、後に控える妻・後鬼が水瓶を手にして役小角の食事の世話をする、といった具合いだ。



時が過ぎ、役小角の死が近づくと、前鬼・後鬼も一緒に死にたいと懇願する。しかし、役小角はそれを許さない。生きるだけ生きて、修験の行者たちの世話をしろと役小角は前鬼・後鬼に言い聞かせたのだ。

その言葉に素直に従った前鬼・後鬼。修験道の修行場となっていた「熊野」に、前鬼・後鬼は自分たち5人の子供に修験者たちの世話をさせるため、5つの「宿坊」を開かせる(行者坊・森本坊・中之坊・小仲坊・不動坊)。

そして、その子孫が五鬼継(ごきつぐ)、五鬼熊(ごきくま)、五鬼上(ごきじょう)、五鬼助(ごきじょ)、五鬼童(ごきどう)という五家の祖となったとのことである。



この五家は役小角の言葉をかたくなに守り続け、1300年にわたり立派に宿坊を営んでいたのだが、明治新政府によって出された「修験道禁止令」が痛恨の一撃となってしまう。

一気に衰退した修験道。五家のうちの四家が熊野の地を去り、現在まで残っているのは「五鬼助(ごきじょ)家」の小仲坊のみである(現在、61代目)。

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熊野は修行者のみならず、多くの参詣者を引きつけ続けた。

歴代天皇の御幸も数知れず、後白河上皇などは33回も熊野に詣でている(以下多い順に、後鳥羽上皇29回、鳥羽上皇23回、白河上皇12回)。



何がそれほど人々を熊野に引きつけたのかといえば「蘇(よみがえ)りの伝説」が、その一つの契機となっている。

その伝説に登場する「小栗判官」は戦に敗れて相模国へと落ち延びる。そこで出会うのが運命の人「照手姫」。しかし、それは禁じられた恋であり、小栗判官は照手姫の父親に毒殺されてしまう。



地獄に落ちた小栗判官。幸いにも閻魔大王の恩情により地上界へ戻ることが許される。

ところが、小栗判官が地上界へ戻ったその姿は、癩病にかかった世にも醜い「餓鬼」の姿であり、歩くこともままならない。

それでも閻魔大王は小栗判官を見捨てたわけではなかった。「熊野の湯」に浸かれば元通りの身体に戻ることができるという救いの道を残しておいてくれた。



夢のお告げを受けた遊行上人は、餓鬼姿の小栗判官を車に乗せると、「この車を引く者は供養なるべし」という有り難いお言葉をしたため、それを信じた多くの人々が小栗判官の車を熊野へむけて引いていく。

その熊野への途上、運命の人「照手姫」も小栗判官の車を五日間引くことになるのだが、その姿がかつての小栗判官とは似ても似つかぬために、彼女は彼と知る由もない。

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そうして、多くの人々の好意により小栗判官は「熊野の湯(湯の峰温泉)」へと辿り着く。

その「つぼ湯」に浸かること49日。小栗判官の餓鬼病みは完治し、見事なる「蘇(よみがえ)り」を果たすことになる。

蘇った小栗判官は照手姫を探し出し、晴れて夫婦となることができるのである。



蘇りの伝説は小栗判官ばかりではない。

遠く神話の時代、「神武天皇」も熊野の地で蘇っている。



高千穂(宮崎)から東方を目指した神武天皇は、大阪の地で「長脛彦(ながすねひこ)」の激しい抵抗に遭ってその行く手を阻まれ、やむなくその進路を南方の熊野方面へと向ける。

しかし、兄の五瀬命(いつせのみこと)は長脛彦の矢傷が元で死に、他の兄たちも熊野沖の暴風雨を鎮めるために入水して果てる。

七難八苦の末、ついに神武天皇自身も熊野の大熊の前に倒れてしまう。なんと険しき熊野の道よ。



倒れ伏した神武天皇を天界から眺めていた天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、これは困ったことになったと、助けの手を差し伸べる。

霊剣・布都御霊(ふつのみたま)を天界から下し、熊野の住民であった「高倉下(たかくらじ)」に託す。

倒れていた神武天皇に高倉下(たかくらじ)が霊剣を捧げると、あら不思議。神武天皇は奇跡の「蘇り」を果すのだ。



蘇った神武天皇は険しい熊野を八咫烏(やたがらす)に導かれて吉野へと越え、ついには宿敵・長脛彦(ながすねひこ)を討ち果たす。

ここに日本の建国は成され、神武天皇は初代の日本国天皇となるのである。時は紀元前660年2月11日のことであった(建国記念日)。

※神武天皇が崩御する日が3月11日となっているのは、この日の運命やいかに。



蘇りの地としての「熊野」。

神武天皇を蘇らせた高倉下(たかくらじ)は、現在「神倉神社」に祀られている。

神倉神社は熊野三山の一つ「熊野速玉大社」の奥の院ともされ、「ゴトビキ岩」と呼ばれる巨岩がその御神体である。

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この神倉神社では古くから「御燈祭(おとうまつり)」という火の祭りが続けられている。

神倉は人々の生活を支える「火」を産出してくれる聖地であり、それは年に一度の再生が必要なのである。



御燈祭に参加できるのは男子のみであり、参加者たち(あがりこ)は一週間前から「白いモノ(白米・豆腐・かまぼこなど)」しか食さずに精進潔斎するのだという。祭り当日の装束も白一色であり、その腰には荒縄が巻かれている。

神域で起こされた火は「上り子(あがりこ)」達に下されて、火を頂いた男たちはその火を掲げて急な石段を駆け下りる。そして、その暗闇を流れ落ちるような火の輝きは、「下り竜」とも称される壮観なものである。

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こうした神倉神社に残る「火」と「巨岩」の謂れは、イザナミの伝説をも想起させる。

日本列島を生んだとされる女神・イザナミは、火の神(カグツチ)を生んだ際に亡くなり、この熊野の地に葬られたとされているのである。

そのイザナミを祀るのが「花の窟(いわや)神社」であり、そこには社殿はなく、あるのは御神体とされる巨岩のみである。



日本の古くからの信仰は「自然」を崇拝するものであり、森林や巨岩(磐座)などが神々の宿るカムナビ(神名備)とされてきた。

神々が巨岩に祀られることもあれば、巨岩から生まれることもある。イザナミや高倉下は巨岩に祀られ、役小角の感得した蔵王権現は巨岩から生まれたのである。



役小角の開いたとされる修験道は、そんな古き日本の信仰を受け継ぐものであり、中国や朝鮮半島などの渡来文化とは一線を画するものであった。

伝統的な磐座(いわくら)よりいでた修験の仏・蔵王権現が「桜の木」に彫り込まれたというのも、桜を愛する日本人の願望だったのかもしれない。



当時の日本は百済・白村江(はくすきのえ)にて唐・新羅に大敗し、遣唐使のもたらした渡来文化に押しに押されていた時代であった。

そうした外圧によって強まった国内指向が、日本独自の宗教・修験道、日本独自の仏・蔵王権現を役小角に産ませたのかもしれない。



吉野の山々を埋め尽くす桜花は、そんな時代の忘れ形見でもあり、その華やかさの後ろに鎮座する熊野の深山は古き日本人の心を静かに育み続けてもきたのであろう。

鬼たちの子孫によって1300年間も守り継がれてきた熊野の修行場は、今も多くの人々に日本の価値を再発見させてくれている。



外から押し寄せる大波は、そんな熊野にたびたび打ち寄せる。開国期を迎えた明治時代もそうであった。

明治39年(1906)に発布された「神社合祀令」は、神社を一町村一社に減らすように命じたものであり、その結果、日本全国で7万社が取り壊された。



この法令が破壊したのは寺社ばかりではない。それらの抱えていた鎮守も森までが次々と切り倒されていったのだ。

聖域・熊野とて例外ではありえず、鎮守の森にはチェーンソーの轟音が響き続けた。



この暴行に立ち向かわんとしたのは、和歌山生まれの生物学者「南方熊楠」。彼は真摯に自然を見つめることにより、「命はすべて繋がっている」という境地に達していた。

彼が明治政府に送りつけた抗議文は、なんと8mもの長きにわたるものであったという。

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樹木の伐採は貴重な生態系を台無しにするだけでなく、「水害」をもこの地に招くと熊楠は訴えた。

吉野・熊野地方は日本有数の降水量が豊かな自然を育んできた反面、台風銀座とも呼ばれるほどに台風が通り抜け、水害の絶えない地域でもあったのだ。

※歴史的な水害を被り続けてきた十津川村では、神社合祀令の10年ほど前にも村落が壊滅するほどの水害を受けて168人が死亡している。また、昨年(2011)の台風12号の水害でも大規模な被害を被っている。

熊楠の猛烈な抗議は、明治政府の受け入れるところとなるのだが、その時までに熊野の神社の8割、そして広大な森が失われてしまっていたという。



それからほぼ一世紀。

熊野の森の再生は有志たちの手によって継続されている。森を取り戻すには、あと300年はかかると言われているものの、確実に樹木は繁茂を続けている。



古来より「蘇りの地」とされてきた熊野。

時はかかれども、その鎮守の森は再び蘇ることとなるのであろう。



それは失わつつある日本人の心とて同様なのかもしれない。

吉野の桜を愛でて、熊野の深い山々に想う時、何か心に感じるものがまだ残されているのではなかろうか。



熊野 神と仏



関連記事:
桜の「魔力」。「散る」という一時の死が支える「生」。

日本の森は「オオカミ様」が支えてくれていた。オオカミ信仰を忘れると…。

出典:新日本風土記 「吉野 熊野」

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2012年04月06日

タイタニックは三姉妹。その沈んだものと残ったものとは?


豪華客船「タイタニック」は「ひとりっ子」ではなかった。

上に姉、下に妹をもつ「三姉妹」のうちの一人であった。

今ではタイタニックの名前ばかりが歴史に残ったわけだが、当時はむしろ姉の「オリンピック」の方が目立っており、その妹のタイタニックはむしろ控え目な存在だったのだという。

※オリンピックとタイタニックはほぼ同時に造られており、その見かけは双子のように瓜二つであった。それに対して、末妹の「ブリタニック」だけが建造場所の都合から少し後に造られたため、二人の姉から改良された部分も多かった。

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これら三姉妹には「姉妹」という慎ましやさはなく、「三女神」と呼んだ方がシックリくるほどにいずれも壮麗豪華で巨大な客船であった。

その巨大さは「ニューヨークの摩天楼よりも巨大」であった(全長270m)。

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この三女神の活躍の場所は「大西洋」。

イギリスと新大陸アメリカをつなぐ一大航路である。

三女神が産声をあげた20世紀初頭は、前世紀から続くヨーロッパからアメリカへの大移動が活況を呈していたその真っ最中であった(19世紀半ばからの半世紀の間に、およそ2,000万人以上が海を渡ってアメリカへ上陸したのだという)。



この航路は船舶会社にとっての「ドル箱」であり、いかに速く海を渡れるか、いかに多くの乗客を一度に運べるかで、各社が凌ぎを削り合っていた。

「ブルーリボン賞」というのは、大西洋をいかに速く横断したかを示した「最速の証(あかし)」であった(受賞船舶は細長いブルーリボンをトップマストに係留することが許された)。

この賞が設立された19世紀前半、その平均速度は時速13〜15km(7〜8ノット)程度であったが、タイタニックの時代には時速45km(25ノット)を超えるほどになっていた。



この速度競争に躍起になっていたのは、「ホワイト・スター・ライン社」と「キュナード・ライン社」。

一時はホワイト・スター・ライン社が優勢であったものの、20世紀に入ってからはキュナード・ライン社が圧倒的であった。キュナード・ライン社が送り出した「ルシタニア」と「モーリタニア」の二姉妹が圧倒的な記録を樹立していったのだ。

最新鋭の蒸気タービンエンジンを積んでいたキュナード・ライン社の二姉妹に敵はいなかった。さらに同社は、イギリス政府から巨大な融資を受けるほど優遇されていた。

※のちにドイツの船舶会社が他を圧倒することになる。


速度競争にすっかり置いてけぼりを食ったホワイト・スター・ライン社が、起死回生をはかって世に送り出したのが、冒頭の「オリンピック・タイタニック・ブリタニック」の三女神である。

同社の船舶すべてを抵当に入れてまで、ホワイト・スター・ライン社はこの三女神に全てを賭けたのである。

※キュナード・ライン社の船舶の名前は「-ia(〜イア)」で終わり、ホワイト・スター・ライン社は「-ic(〜イック)」で終わる特徴があった。



ところが、船舶の性能では大きく溝を開けられていたホワイト・スター・ライン社の戦略は、速度競争にはなかった。

新たに「豪華さ」と「巨大さ」という新機軸を打ち出したのである。この新機軸は増大する富裕層の欲望に応えるものであった(片道350万円もの大金をスイートルームに払う大金持ちもいた)。

のちに、この「巨大さ」が同社のクビを締めることになるとは露知らず…。



圧倒的な巨大さでデビューした長女「オリンピック」。ライバル社のルシタニア・モーリタニアを30mも上回るほどに巨大であった。

ホワイト・スター・ライン社はこう謳った。「巨大なほど『安全』である。他の船と衝突しても決して当たり負けしない」と。



しかし、その巨大さは「張りぼて」であった。

「時代遅れの恐竜」と揶揄されたように、その巨大な図体は前世紀の帆船時代の古い設計を「引き延ばしただけ」であり、この巨大さがどんな事象を引き起こすのかは、「実際に動かしてみなければ判らなかった」。

※タイタニック号の4本の煙突のうち一本はまったくの飾りであり、ペットの預かり場所とされていた。最初は3本だった煙突が一本増やされたのは、ライバル船のルシタニア号に見かけで対抗するためだった。



オリンピック号の巨大なスクリューは、早速重大事故を起こす。

その巨大なスクリューの巻き起こした強烈な水流に巡洋艦ホークが巻き込まれて、オリンピック号との衝突事故につながったのだ。

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事故を調査したイギリスの査問委員会は、すべての責任はオリンピック号にあると結論づけた。しかしそれでも、ホワイト・スター・ライン社は、こう言い放った。

「これほどの大事故に遭っても沈没しなかったオリンピック号はやはり『浮沈船』なのだ」と。

※「浮沈船」という言葉は、シップビルダーという雑誌に掲載されていた「実質的に浮沈(practically unsinkable)」という文句からきている。



あわや巨大船の信頼失墜という危機を、ホワイト・スター・ライン社は逆に最大の宣伝に利用した。

というのも、社運をかけた大計画は、もはや後戻りできないところに来ていたのである。



のちの歴史を知る者から見れば、長女オリンピックの大事故は、次に続く次女タイタニックの引き起こす大惨事の序曲であった。

姉の大事故の7ヶ月後、次女タイタニックは運命の処女航海に出るのである(1912年4月)。



タイタニック号の処女航海は、のっけから悪い兆しを見せた。

姉オリンピックと同じ巨大スクリューは、港に停泊中の別の客船を強く引き寄せたのちに、その繋留ケーブルを断ち切り、あわや2隻は大衝突を起こすところであった。

この危機はタイタニック号のタグボートの機転によりギリギリで回避されることになるのだが、逆説的にはここで衝突事故を起こしていた方が後々の大惨事にはつながらなかったのかもしれない。



出鼻をくじかれたタイタニック号であったが、それからの4日間はおよそ平和であった。アメリカまでの航路は5日間、翌日には到着予定であった。

しかし、あの事故はその深夜に起こるのである。

「まっ正面に氷山!(Iceberg rightahead!)」



20mを超える巨大氷山までの距離はわずか400〜500m。発見から衝突までに30秒もかからなかった(一説には10秒)。

必死の舵取りで正面衝突は避けられたものの、ギリギリでかわした氷山は船体の側面を長く斬りつけた。



タイタニックの船体は内部で16の区画に区切られており、その内の4区画が浸水しても沈没を免れるような設計がなされていた。

しかし、不幸にも氷山が斬りつけた長い傷は5区画に及んだ。その結果、沈没は時間の問題となった。



2000人を超えていた乗員・乗客は「救命ボート」に殺到する。

しかし、悲しいかなタイタニック号にはその半数を収容する救命ボートしか搭載されていなかった。豪華な設備の陰で、安全設備が軽視されていたのである。

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それでもタイタニック号の不備ばかりを責められない。

当時の常識では、タイタニック号ほど短い時間(2時間40分)で巨大客船が沈むことは想定されていなかったのだ。

タイタニック号の直前に事故を起こした大型客船「リパブリック号」が沈むのには、衝突から沈没まで38時間もかかっており、救助船が到着するのに充分な時間があった。

そのため、大型客船はそれほど早く沈まず、救命ボートを人数分搭載していなくとも、救助船が助けてくれるのだという儚い安心感が醸成されてしまっていたのである。



4月の大西洋の海は冷たかった(マイナス2度)。

そのため、救命ボートに乗れなかった人々の命が消えるのも早かった…。

海運史上の大惨事と言われたこの事故の犠牲者は1,500人を超える。優雅に船に乗っていた実に7割の人々が、その3時間後には海に消えたのである。


タイタニック
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姉が沈んだ時、末妹のブリタニックは未だ建造途中であった。

姉の教訓は多少は考慮されたものの、その抜本的な構造が変えられることはなかった。

なぜなら、タイタニック号の事故は「不幸な偶然が重なったせいで、再発の可能性は万に一つもない」と断言されたからである。

しかし残念ながら、その万に一つはかわいい末妹をも襲うのである。

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ブリタニック号が就航するのは、姉の悲劇から3年後。

豪華客船として建造されたはずのブリタニック号は、第一次世界大戦の勃発と就航が重なったために、その船出は軍隊の「病院船」としてだった。

船体は純白に塗られ、緑のラインと赤十字が書き加えられることとなった。

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イギリスを出たブリタニック号は、地中海をへてギリシャへと向かう。地中海や中東での戦闘での負傷兵を収容するためである。

しかし、地中海の海底には敵国ドイツの潜水艦Uボートが不気味にうごめいていた。



そのUボートが海底に仕掛けていた機雷(地上でいえば地雷)に、ブリタニック号は接触。その爆発は船底に穴を開けた。

設計上はそれしきの穴で沈むブリタニックではなかった。

タイタニック同様、ブリタニックの船体はいくつもの区画に区切られており、たとえ数区画が浸水しても沈まないようにできていた。タイタニックは不幸にも耐えられる限界の4区画を超えて5区画がやられてしまったので、妹のブリタニックは6区画がやられても沈まないようにできていた。

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しかし、ブリタニックは沈むのである。

しかも、50分という短時間で(タイタニックの3分の1の時間)。



機雷による損傷は、最悪でも2区画。それなのになぜ、それほど早く沈んだのか。

これは最近の調査で明らかにされたことだが、区画間の防水扉が開けっ放しにされており、区画を区切っていたはずの隔壁間を水が自由に行き来できたためであった。

さらに船体の横の窓も開けっ放しであった。大西洋を航海するために建造されたブリタニックの空調は甘く、地中海はあまりにも暑すぎたのだ。窓が開けっ放しにされていたのも無理はない。



幸いにもブリタニックには人数分の救命ボートが搭載されていた。これは姉の悲劇の教訓によるものだ。

しかし、不幸なのはその救命ボートが死を早めたことである。



頭が沈んで巨大なお尻のスクリューを海上に出したブリタニック号。

その巨大スクリューの生み出す渦はハンパない。かつてオリンピックのスクリューが巡洋艦を引き寄せて衝突し、タイタニックのスクリューが客船の繋留ケーブルを断ち切ったのである。



小さな救命ボートなどは、水上に浮かぶ無力な木の葉のように巨大スクリューに吸い込まれていった。そのため、ブリタニック号の犠牲者のほとんどは救命ボートに乗った人々であった。

タイタニックでは救命ボートに乗れなかった人が死に、逆にブリタニックでは救命ボートに乗れた人が死んだのだ。



余談ではあるが、バイオレット・ジェソップという女性は、タイタニックにもブリタニックにも乗っていた不運な女性であり、いずれの沈没の際にも生き残った幸運な女性でもある。

タイタニックの際には救命ボートに乗って難を逃れ、ブリタニックの際には一旦乗った救命ボートから海に飛び込んで九死に一生を得たのだ。

それでもブリタニックの巨大スクリューからは逃れ切れず、頭蓋骨骨折という重症を負ってしまう。


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ああ…、悲劇の三姉妹。

長女オリンピックを残して、二人の妹たちは今も海底に沈んだままである。かたや大西洋、かたや地中海…。



タイタニックが沈んだのは今からちょうど100年前。

当時は造船業が花盛りの時代である。それから100年、時代を象徴する大事故は原子力発電所ということになるのだろうか。

100年の時の差はあれど、その根底にある人間の意識には奇妙な共通性が垣間見られる。



速度や大型化による乗車人員数という「効率」を競い合った大型客船。

その効率化の争いは、現代ではグローバル化という言葉で語られるものである。

そして、その効率化という競争の陰で犠牲になるのが「安全性」となる(広い意味では「格差」という社会問題も含まれるのかもしれない)。



タイタニックの巨体には、しっかりした身が備わっていなかった。巨大な鎧の下は、思ったよりも薄着だったのである。

福島第一原発の非常用発電は、しっかりした鎧にすら身を守られていなかった。

巨大産業の大きな影は、安全性を見えなくするには十分すぎるほど巨大なものである。



さて、タイタニックの悲劇から100年たった今。

大事故を起こした大型客船は世界から消えたのであろうか?

そんなことはない。短期的には生かされなかった教訓も、現代には十分に生かされ、その速度や安全性には当時とは雲泥の違いがある。


タイタニックから飛鳥2へ
―客船からクルーズ船への歴史



あと100年たった時、2011年の原発事故はどう語られるのだろうか?

短期的には生かされにくい教訓も、もっと冷静な目をもった後世の人々はちゃんと生かすかもしれない。



最後に秘話をもう一つ。

三姉妹で唯一生き残った長女オリンピック号は、短命だった妹たちの菩提を弔うかのように、24年にも及ぶ長き天寿を全うし、「頼もしいおばあちゃん(Old Reliable)」という微笑ましい愛称までいただいている。

彼女は妹タイタニックのSOSを受け取った数少ない船の一つでありながら、その位置が遠すぎたために、その救援には間に合わなかった。瓜二つの妹が沈むのを知っていながら苦汁を飲んだのだ。

第一次世界大戦において、オリンピック号はドイツの潜水艦Uボートに体当たりを食らわせて撃沈させるという武勇伝を生んでいる(商船が軍艦を撃沈した唯一の事例)。

戦後に客船に戻ったオリンピック号は、合計500回以上も大西洋を行き来したのだという。



寿命がきたオリンピック号は多くの人々に惜しまれ、その豪華な内装の一部はイギリス夫人に買い取られ、現在ミレニアムという船のレストランとして使用されている。

その名も「オリンピック・レストラン」。オリンピック号そのままの内装には当時の食器類も飾られており、連日の人気を誇っているのだという。



100年という時間は、後世に生きる我々が知るべきことを精査、選別してくれる。

沈むべきことは沈み、残るべきことは残るようにできているのだろうか。



後世の我々はタイタニック号の張りぼての煙突を笑うかもしれない。

そして、その一方でオリンピック号のレストランに感激したりもするのである。



それと同様、現代の我々の所業は後世の人々に笑われもするし、感心されたりもするのだろう。

それはそれで楽しみなような、恐ろしいような…。




NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 2012年 04月号 [雑誌]


出典:BS世界のドキュメンタリー
タイタニック事故 100年 姉妹船の悲運




posted by 四代目 at 13:17| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする