2013年10月17日

中島敦『李陵』を読む(1)



■父・司馬談



「古今を一貫せる通史の編述」

その志なかばにして、司馬談(しばたん)は倒れた。その偉業に取りかかる前段階、単に材料の蒐集のみにてこの世を去った。

”司馬談は己のまた起ちがたきを知るや、遷(せん)を呼びその手を執って、ねんごろに修史の必要を説き、おのれ太史となりながらこのことに着手せず、「賢臣忠臣の事蹟を空しく地下に埋もれしめる不甲斐なさ」を嘆いて泣いた(中島敦『李陵』)”



司馬氏はもと周の史官。のち、晋に入り秦に仕え、漢の代となってから四代目が司馬談。漢の武帝につかえて太史令(たいしれい)をつとめていた。

その息子が、のちに『史記』を記すことになる司馬遷(しばせん)。

”彼(父・談)が息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えてのちに、「海内の大旅行」をさせたことであった。当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史家・司馬遷に資するところのすこぶる大であったことは、いうまでもない(『李陵』)”



父・談は死の床にあって、未完の大業『史記』の編纂を息子・遷にたくした。

「予死せば、なんじ必ず太史とならん。太史とならばわが論著せんと欲するところを忘るるなかれ」

”遷は俯首流涕して、その命に背かざるべきを誓ったのである(『李陵』)”






■述而不作(述べて作らず)



父・談の死から2年、はたして司馬遷は太史令の職を継ぎ、父の蒐集した資料を用いて、すぐにも父子相伝の天職にとりかかった。ときに遷、年40をまたぐ頃である。

「もっと事実が欲しい。教訓より事実が」

当時あった史書『春秋』は、事実よりも道議的批判(いわゆる教訓)に傾くきらいがあり、遷にとって「事実を伝える史書」としては何ともあきたらなかった。



ならば『左伝』や『国語』はどうか?

なるほど事実はある。だが、その事実をつくりあげる一人一人の「人としての探求」がなかった。

”事件の中にある彼らの姿の描出は鮮やかであっても、そうしたことをしでかすまでに至る彼ら一人一人の身許調べの欠けているのが、司馬遷には不服だった(『李陵』)”



いずれにせよ、当代、司馬遷を納得させるような史書は存在しなかった。

なにより、それら従来の史書は「当代の者に既往(過去)を知らしめること」に熱心であり、「未来の者に当代を知らしめるためのもの」ではないように思われた。

司馬遷の腹案としてはやはり、後世(未来)に意味をもつ史書を書き上げたいという想いがあった。かといって、『春秋』のようにあまりにも道義的な断案(教訓)は好ましくない。それは事実を「作る」部類に入るように思われた。



司馬遷のとった方針は「述而不作(述べて作らず)」。

後世の人が事実そのものを知ることを妨げぬよう、さらには、事実の起こった必然を人のなかに求めるものであった。それは史書としてまったく新しい形であり、司馬遷自らが創るよりほか世に現れようがなかった。

”彼自身でも自ら欲するところを書き上げてみてはじめて判然する底のものと思われた(『李陵』)”

司馬遷の胸中には、そんなモヤモヤが鬱積していたのである。






■述べる



漢が天下を定めてからすでに五代・100年。

秦の始皇帝による反文化政策(焚書坑儒ら)によって隠滅しあるいは隠匿されていた書物がようやく陽の目をあび、「文の興らんとする気運」が鬱勃として感じられていた。

”時代が、史の出現を要求しているときであった(中島敦『李陵』)”



司馬遷個人もまた

”父の遺嘱による感激が学殖・観察眼・筆力の充実をともなって、ようやく渾然たるものを生み出すべく発酵しかけていた(『李陵』)”

気持ちよく進む仕事。

『五帝本紀』から『夏殷周秦本紀』と、むしろ快調にすぎるほどだった。事実の正確厳密は固く守られていた。



だが、始皇帝をへて「項羽本紀」に入る頃、「技術家の冷静さ」がだんだんと怪しくなってくる。

”ともすれば項羽が彼に、あるいは彼が項羽に乗り移りかねないのである(『李陵』)”



項王すなわち夜起きて帳中に飲す。

美人あり。名は虞(ぐ)。常に幸せられて従う。駿馬、名は騅(すい)。常にこれに騎す。

ここにおいて項王すなわち悲歌慷概し、自ら詩をつくりて曰く。「力、山を抜き、気、世を蓋う。時、利あらず。騅逝かず、騅逝かず。奈何すべき。虞や虞やなんじを奈何にせん」と。

歌うこと数けつ、美人これに和す。

項王、泣(なみだ)数行下る。

左右皆泣き、よく仰ぎみるものなし…。



「これでいいのか?」

司馬遷は疑う。

「こんな熱に浮かされたような書きっぷりで…」

彼は「作ること」を極度に警戒していた。己の仕事は「述べるのみ」と思い極めている。

”しかし、なんと生気溌剌たる「述べ方」であったか?(『李陵』)”



「作ること」を恐れた彼は、熱に浮かされたままに書いた部分を読み返し、「人物が躍動すると思われる字句」を削った。すると、その人物の「ハツラツたる呼吸」は止まった。

”しかし、これでは項羽が項羽でなくなるではないか。項羽も始皇帝もみな同じ人間になってしまう。(『李陵』)”

「違った人間を同じ人間として記述することが、何が『述べる』だ? 『述べる』とは、違った人間は違った人間として述べることではないのか?」



そう思い至り、やはり司馬遷は削った文字をふたたび元に戻す。そして、なんとか人心地つく。

”いや、彼ばかりではない。そこに書かれた史上の人物が、項羽や樊噲や范増が、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ち着くように思われる(『李陵』)”






■禍



数年の間は、司馬遷にとって「充実した幸福といっていい日々」が続いていた。

”どこまでも陽性で、よく論じよく怒りよく笑い、なかんずく論敵を完膚なきまでに説破することを最も得意としていた(『李陵』)”

しかし突然に「禍(わざわい)」は降る。



「たかが星暦卜祀をつかさどるにすぎぬ太史令の身として、あまりにも不遜な態度」

諸重臣は一同そうした意見で一致し、太史令・司馬遷の刑は「宮(きゅう)」と決まった。宮刑とは「男を男でなくする奇怪な刑罰」である。この刑を腐刑ともいうのは「腐木の実を生ぜざるがごとき男」と成り果てるからだという(その傷痕が腐臭を放つゆえだとも)。



皮肉にも、司馬遷はあまりに「男らしかった」ゆえに、「男でなくする刑」に処されることとなった。

というのは、群臣らが李陵(りりょう)という将軍を「売国奴」と罵るのを、好漢たる司馬遷は座視することができなかったのである。



北方の異民族・匈奴の討伐に出ていた李陵は、戦に敗れて死んだと思われていた。ところが、その戦の翌年、李陵は戦死したのではない。捕らえられて匈奴に降ったのだという確報が都にもたらされた。

漢の武帝は、戦に敗れたと聞いたときには「思いのほか腹を立てなかった」。だが、李陵が敵に膝を屈したと聞いた時、「はじめて赫怒した」。武帝は、漢の絶頂にあたって50余年のあいだ君臨した大皇帝。齢60を超えてなお、気象の烈しさは壮時に超えていた。

そんな武帝の眼下、匈奴に下ったという李陵をかばおうとする者など誰もいない。この大皇帝を取り巻く者どもは、その威におされ「佞臣にあらずんば酷吏」。帝の顔色をうかがい、合法的に法を曲げるのが常であった。

”帝の震怒をおかしてまで李陵のために弁じようとする者はいない(『李陵』)”



佞臣らは口を極めて李陵を讒誣した。変節漢と誹謗した。

司馬遷にとっては、なんとも不愉快な光景であった。李陵が出陣するに際しては盃をあげて行を盛んにした連中が、そして李陵の孤軍奮闘を讃えていた同じ連中が、いまは李陵を口汚く罵るばかり。

たまらず司馬遷ひとりは、李陵をハッキリと褒め上げた。



言う。

陵の平生を見るに、親につかえて孝、士と交わって信。つねに奮って身を顧みず、もって国家の急に殉ずるは誠に国士の風ありというべく。

いま不幸にして事一度やぶれたが、「身を全うし妻子を保んずることをのみただ念願とする君側の佞人ばら」が、この陵の一失を取り上げてこれを誇大歪曲し、もって上の聡明を蔽おうとしているのは遺憾この上もない。

そもそも陵の今回の軍たる、五千にも満たぬ歩卒を率いて深く適地に入り、匈奴数万の師を奔命に疲れしめ、転戦千里、矢尽き道窮まるにいたるも、なお全軍空弩を張り、白刃を冒して死闘している。部下の心を得てこれに死力を尽くさしむること、古の名将といえどもこれには過ぎまい。

軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとはまさに天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして虜に降ったというのも、ひそかにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか…。



”並いる群臣は驚いた。こんなことの言える男が世にいようとは考えなかったからである。彼らはこめかみを顫(ふる)わせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。それから、自分らを「全躯保妻子(くをまっとうし、さいしをたもつ)の臣」と呼んだこの男の待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである(『李陵』)”

そして、司馬遷の「男」は切り取られた。

”後代の我々が「史記の作者」として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令・司馬遷は「眇たる一文筆の吏」にすぎない。頭脳の明晰なことは確かとしても、その頭脳に自信をもちすぎた、人付き合いの悪い男、議論においてけっして他人に負けない男、たかだか強情我慢の偏屈人としてしか知られていなかった。彼が腐刑に遇ったからとて別に驚く者はない(『李陵』)”






■李陵



匈奴にむかった李陵は、一隊の騎馬兵も連れていなかった。騎兵を主力とする匈奴に対しては無謀の極みというほかない。その歩兵ですらわずか5,000。絶えて後援もない。

”いかにも万里孤軍来たるの感が深い(『李陵』)”



李陵の軍がそれほど乏しかったのは、武帝の前で吐いた彼の広言に因があった。

「臣、願わくば少をもって衆を撃たん」

一時は軍旅の輜重隊(運搬係)に回されそうになった李陵。それでは、かつて飛将軍と呼ばれた名将・李広の孫としてあまりに情けない。軍に騎馬はなくとも構わぬと、李陵は武帝に嘆願したのであった。

「臣が辺境に養うところの兵はみな一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討って出たい」

李陵の勇ましい言葉を、派手好きの武帝は大いに欣び、その願いを容れた。時に李陵は40近い血気盛り。「つとに祖父の風ありといわれた騎射の名手」であった。



当時、毎年秋になると決まって漢の北辺は匈奴に侵略されていた。武帝が即位してから30年、欠かすことなくそうした北辺の災いが続いていた。

馬肥ゆる秋、匈奴の騎馬には当たり難い。それでも、李陵が練りに練った軍は強かった。初戦、5,000に満たぬ李陵の兵卒は、3万は優にあった匈奴を圧倒した。

”匈奴の軍は完全に潰えて山上へ逃げ去った。漢軍はこれを追撃して虜首を挙げること数千(『李陵』)”



次に現れた匈奴は8万。快速の騎馬は、李陵の歩軍を前後左右、隙もなく取り囲んだ。だが、前回の失敗に懲りたか、遠巻きにするばかり。

まるで「飢え疲れた旅人のあとをつける広野のオオカミ」のごとく、匈奴は白兵戦を避けながら、李陵の軍を少しずつ少しずつ遠矢によって消耗させていった。

”少しずつ傷つけていった揚句、いつかは最後の止めを刺そうとその機会を窺っているのである(『李陵』)”



いつしか李陵の寡兵は、出陣のときに各人が100本ずつ携えていた50万本の矢をことごとく射尽くしてしまっていた。矢ばかりでなく全軍の刀槍矛戟もしかり。半ばは折れ欠けていた。文字通り「刀折れ矢尽きた」。

「全軍、斬死のほか、途(みち)はないようだな…」

明るい月のもと、李陵は誰に向かってともなく言った。

「今夜のうちに囲みを突いて外に出、各自が鳥獣と散じて走ったならば、あるいは途はあるかもしれぬ」

諸将僚はうなずくと、遮二無二に軍を走らせた。



早い月はすでに落ちた。

全軍の3分の2は、囲みを突破したようだった。しかし、すぐに敵の騎馬兵の追撃に遭った。李陵は敵の追撃を振り切った。がしかし、部下を逃すやまた元の修羅場へと取って返した。

”身には数創を帯び、自らの血と返り血とで戎衣は重く濡れていた。麾下を失い全軍を失って、もはや天子にまみゆべき面目はない。彼は戟(ほこ)を取り直すと、ふたたび乱軍のなかに駆け入った(『李陵』)”



乱闘のうち、李陵の馬はガックリ前にのめった。流れ矢に当たったとみえる。

それとどちらが早かったか、李陵は背後から重量ある打撃をくらった。失神し落馬した李陵の上には、生け捕ろうと匈奴の兵らが十重二十重と折り重なって飛びかかった。



かくして李陵は、「生きて虜囚」とされたのであった。













(つづく)

→ 中島敦『李陵』を読む(2)






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出典:中島敦『李陵
posted by 四代目 at 07:49| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月12日

大悪党にして大忠臣「楠木正成」。その大いなる誤解とは?


「ひと昔前なら、『楠木正成(くすのき・まさしげ)』の名を知らない日本人はいなかった(黒鉄ヒロシ)」

ところが戦後、その楠木正成は「大いなる誤解」によって、日本人の歴史から半ば消されてゆくこととなる。

「その名には紗(しゃ)がかけられ、輪郭は朧気(おぼろげ)となった…」



その大いなる誤解とは、戦前の「軍国教育」である。

楠木正成は軍国の英雄に祭り上げられたという理由から、戦後の日本を支配したアメリカ(GHQ)からたいそう煙たがられてしまったのであった。



◎修身


昭和20年(1945)12月31日、GHQは日本政府に「修身、日本歴史および地理に関する件」という司令を出し、日本の戦後教育から「修身・日本歴史・地理」の授業を停止。それらすべての教科書を回収して、製紙の原料としてしまう。

歴史と地理の授業は、のちにGHQの承認を得て再開されるも、「修身」の授業ばかりはこの時以来、現在に至るまで復活することはなかった(代わりに「道徳」の授業が開始されることになる)。



「修身」の授業とは何か?

戦前教育を受けたある人は、こう答える。「君に忠、親に孝」。

そして、その象徴ともいうべき人物、それが「楠木正成(くすのき・まさしげ)」だと言うのである。



戦前の日本で「国民の鑑(かがみ)」にされたという楠木正成。

しかし、「その楠木正成を、GHQは『教えてはならない人物』の筆頭に挙げ、戦後の日本教育から抹殺しました(松浦光修)」

なぜかといえば、第二次世界大戦における日本国民の「国に尽くして戦う姿勢」があまりにも壮絶であり、それがアメリカを大いに苦しめたためであった。



「ここまで献身的に国に尽くす民族は見たことがない…」。日本と直接戦火を交えたアメリカはそれを痛感し、そして大いに恐れた。

「公に尽くす精神を根絶やしにするためには、どうしたらいいのか?」

戦後の日本が二度とアメリカに刃向かえないようにする対策、その一つが「君に忠、親に孝」を教えていた「修身」の授業の停止であり、その象徴たる「楠木正成」という人物の抹殺であった…。







◎彗星



楠木正成が歴史の表舞台に登場するのは、鎌倉時代末期の1331年(元弘元年)9月。そして、その姿を消すのが、わずか4年半後の1336年(建武三年)5月。

「彗星のように現れ、彗星のように散華した」



700年前の楠木正成は、この極めて短い期間で日本人の心に「忘れえぬ印象」を残し、そして潔く去っていったのである。

「楠木正成は、美しく生きることを教えてくれる。覚悟と潔さをイメージさせてくれる。楠木正成の名と、その行動とを、知ると知らないとでは、男子のその後に差が生じる、のではなかろうか(黒鉄ヒロシ)」



鎌倉幕府は、楠木正成の登場により滅んだといっても過言ではない。倒幕を志した後醍醐天皇と楠木正成が出会うことによって、鎌倉幕府は倒れたのだ。それは全くの劣勢からの大逆転であった。

「小をもって大を制す」

楠木正成は天才的な軍略家であり、何倍、時には何十倍という敵を軽々とあしらってみせたのである。

「まことに賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」



しかし、彼の名を不朽のものとしたのは、その軍略ではない。むしろ、完全な負け戦と分かっていながら「忠」を尽くして死んでみせた、その姿であった。

「楠木正成は見事に生き、見事に死んでみせた」

それが武士道の根底ともなった姿であり、近代以降に讃えられた「楠公(なんこう)精神」であった。




鎌倉の時代を開いた立役者が源義経という英雄であったとすると、楠木正成はその好一対をなす、鎌倉の時代を閉じた人物ということになる。

「源義経と並んで人気随一を誇ったのが、楠木正成」

日本人の愛してやまないこの両英雄は、期せずして鎌倉という時代を挟んだ両端に位置しているのである。そして両雄ともに、運命的な「悲運の死」によって、その生の輝きを一層に増すのであった…。



◎英傑か? 阿呆か?


「よほどの英傑か、さもなくば、よほどの阿呆」

後醍醐天皇は当時圧倒的に優勢だった鎌倉幕府に正面切ってケンカを売った。ろくな供も連れずに京都の内裏を逐電して笠置山に立て籠もったのだ。



当然、そんな至弱の後醍醐天皇に味方するものなど誰もいない。

武家が政権を握って以降、朝廷の権威は下り坂を転がり落ちるばかり。「天皇がいなくて困るというなら、木像でも作っておくか、金属で鋳たものでも安置しておけば充分」。そんなことが公言される時代であった。



ところが楠木正成ばかりは、阿呆か英傑かわからぬ後醍醐天皇の元に馳せ参じた(正成37歳)。

「この時、公然と鎌倉幕府に反旗を翻したのは、天下に楠木正成ただ一人」

圧倒的に強大な幕府軍の重囲に陥っていた後醍醐天皇の籠る笠置山。そこに颯爽と現れた楠木正成。彼はこう言い放った。

「御心やすく、この正成に鎌倉の追討を御命じあれ。必ず勝ちまする。たとえ鎌倉に百戦百敗しようとも、天に隠れ地に潜って、『最後の勝ち』を収めてご覧に入れまする」



◎赤坂城


楠木正成が挙兵したのは「現在その場所も特定しがたいほどの小城」、赤坂城。

この粗末な山城に殺到した幕府軍は嘲笑った。「こんな急ごしらえの城など、片手に乗せて放り投げてしまえるではないか。一日でも持ちこたえくれねば恩賞にも預かれぬ」。



数万を数える幕府軍に対して、正成軍はわずか500。しかもその大半が普段農民の地侍であり、兜もなければ、上半身が裸の者もいる始末。

一方の鎌倉の関東武士たちは重装備の甲冑に身を包み、大弓と大矢を後生大事に抱え込んでいる。しかし、山岳地帯にある正成の赤坂城において、先祖伝来の大鎧は重いばかり。また、大弓と大矢は石つぶてよりも役に立たなかった。そして何より、関東武士得意の馬は、山岳戦において何の用もなさなかった。



楠木正成は「関東の流儀」に従うこともなければ、卑怯をもモノともしない。鎌倉武士の挑む一騎打ちには一切応じず、奇略奇策でもってその返礼としたのだ。

たとえば、鎌倉武士が城の塀をよじ登れば、その塀は脆くも崩れ去り、大軍はその下敷きになってしまう。なんと塀が二重にこしらえてあり、外側の塀があらかじめ崩れるように設計されてあったのだ。

城壁から熱湯を降らすことなど生ぬるい。時には糞尿までが降ってくる。常道や格式にとらわれない正成の戦術は、鎌倉武士が「悪党」と蔑むそれそのままであった。







◎本領


一日も持たぬであろうとバカにされた赤坂城は、なんと1ヶ月の長きにわたり持ちこたえる。

しかし、後醍醐天皇が捕らえられたとの急報が正成のもとにもたらされるや、正成はあっさりと城に火を放ち、その姿をくらましてしまう。それ以後、楠木正成の行方は杳として知れなくなる。

伝統的に物事を考える鎌倉方は、正成は「炎の中で自刃した」と勝手に考えた。関東武士たちの頭には「土くれ一握りに至るまで地頭のもの」という考えがこびりついており、土地や城を失ってしまえば「なすすべもない」としか思えなかったのだ。



ところが地元の有力土豪たる楠木正成の本領は、土地や城に根ざすものではなかった。彼にとって土地は一所懸命(本領の田畑がすべて)ではなく、地域の交易がその本領であった。

辰砂(水銀の原料)を扱っていた楠木家は、もとは修験道の家柄。金剛山をはじめとする葛城山系にあって、山に生きる人々であった。その頭領たる正成は寺社衆徒でもある鉱山師。

その交易による彼の縄張りは、播磨(兵庫)から摂津・和泉・河内(大阪)、紀伊(和歌山)、大和(奈良)に至る広大なものであった。



すなわち、正成にとって赤坂城という小城を失ったことは些事に過ぎぬことであったのである。

「幕府が正成の本当の恐ろしさを知るのは、これからだった」



◎天下に主なし


後世、楠木正成は「忠臣の鑑」とされることになるわけだが、じつは寺社宗徒たる彼らは「天下に主なし」を誇りとする一族であった。彼らにとっての主とは「神仏」に他ならぬのである。

それがなぜ、後醍醐天皇に忠節を誓うことになったのか?



事の起こりにおいて正成が後醍醐天皇の元に馳せ参じたのは、ひとえに鎌倉幕府の横暴に業を煮やしたためであったのだろう。正成らが独占していた地域交易の領分を、鎌倉幕府が徐々に侵し始めていたのである。

一方、なぜ後醍醐天皇が無謀にも鎌倉幕府に反旗を翻したかといえば、自らの血統の正当性が危うくなってきたからであった。鎌倉幕府の推す血統は持明院統であったが、後醍醐天皇はそれとは異なる大覚寺統。いずれは廃される宿命にあった。

すなわち、後醍醐天皇と楠木正成は当初、君臣の絆があったというよりは、お互いの利害が一致していた呉越同舟にすぎないものであった。



「天下に主なし」を旗印とする楠木勢にとっての弱みは、まとまりに欠けることであった。彼らは誰の助けもえられない山中で命を賭けて生きる、強烈な個人主義集団であって、「生きるも死ぬも本人の自由という中世独特の流儀(自力救済)」が身に染みている。

こうした自分の利益しか念頭にないバラバラな集団をまとめるには、「よほど強力で分かりやすい旗印」が正成には必要だった。

そしてそれは鎌倉幕府ではなく、「この日本には天皇しかいない」と正成は考え至ったのであった。



◎ゲリラ戦


もとは「悪党」、それが「忠臣」に転じた楠木正成。

しかし、最期の湊川の戦いに至るまでの彼の戦闘は、どちらかというと悪党というに相応しいゲリラ戦ばかりである。



炎上した赤坂城から姿をくらました正成は、京を中心として神出鬼没な小戦を展開。彼が最も多用したのは「囮(おとり)」を巧みに操る戦法であった。

たとえば摂津の天王寺を占拠した後に、正成は謎の撤退をする。すると幕府軍はもぬけの殻となった天王寺をなんなく占領。

天王寺を出てその郊外に陣取った正成軍は、夜通し無数のかがり火を焚いて幕府軍を威圧する。今にも総攻撃を仕掛けるぞと脅しをかけたのである。しかし、正成は一向に攻めない。この無言の威圧は4日に渡って続けられ、ついに幕府軍は精根の疲れが極みに達して天王寺を撤退してしまう。

じつは無数のかがり火、それは兵によるものではなく、付近の農民5,000人が掲げていたものだった。



また、渡辺橋の戦いでは300の兵を囮(おとり)として用い、京の幕府軍(六波羅軍)5,000を油断させ、無防備のままに橋を渡らせる。

兵法の鉄則によれば「川はできる限り敵と離れたところで渡れ」となるのだが、幕府軍は正成の本隊が潜んでいるとはつゆ知らずに、目先の300が全兵力だと勘違いしてしまったのである。



幕府全軍が渡辺橋を渡りきったところで、ようやく姿を現した正成本隊は、別働隊によってまんまと橋を破壊。大軍を袋のネズミとしてしまう。

退路を絶たれた幕府軍は大いに動揺し、もはや戦闘どころではない。こうして、幕府の大軍は正成の寡勢によって包囲殲滅されてしまうのである。



◎千早城


「河内の悪党が生きていた!」

亡霊のようなゲリラ戦を展開していた楠木正成が堂々と姿を現した千早城。かつて落城した赤坂城にほど近いこの城もやはり「あまりにも粗末」。



それでも赤坂城で痛い目に遭っている幕府軍は、この小城に総勢80万騎という大軍を送り込む(太平記には80万騎とあるが、実数は2万騎ほどではなかったか。それにしても大軍である)。

対する楠木軍は悲しいほどに少ない。「わずか千人足らぬ小勢にて、誰を頼み、いつを待つともなきに…(太平記)」。

後醍醐天皇は隠岐の島に流されたままであり、正成はまさに孤立無援であった。



この千早城に再び、正成の奇略は炸裂する。

鎌倉武士の誇りと伝統である「一番乗り」を目指して城壁に取りついた武士たちは、頭上から降ってきた丸太と岩石によって、面白いように谷間へと転落していく。

「死者の実検をさせたところ、12人の書記が二昼夜ほど筆を休めず書き続けて、ようやく記録に至ったというから、6,000〜7,000人という軍記の記す戦死者数も、あながち誇張とは言えない」



岩石や丸太のみならず、幕府軍の頭上に降り注ぐのは「熱湯や糞尿」。

「なんたる卑怯な! かつて例(ためし)なき恥知らずな戦法ぞ!」

そんな罵詈雑言を浴びても、「河内の悪党」は涼しい顔のまま。逆に鎌倉武士の誇りである「定紋入りの旗と陣幕」を奪って、「恥を知る武士ならば、取り戻しに来たれ」と挑発する。その挑発にのった誇り高き武士たちは、まんまと正成の奇策の餌食となるばかり。



◎囮(おとり)


「何としても千早城は陥ちない」

そうこうするうちに、周辺の野伏や豪族たちが幕府軍の背後を襲い始める。「鎌倉弱し」と見た豪族たちは、いっせいに正成に味方し始めたのであった。



「この戦はわれらの勝ちぞ!」

正成はその涼しい顔をパッと明るくした。近隣の農民たちの助力も得られた正成は、その力を借りて徹底的に幕府軍の糧道(食糧補給路)を断つことに成功。

3ヶ月も経つと、山中の幕府軍は飢餓に陥り、数百人単位で撤退する部隊も続出。戦線は総崩れとなってしまった。



じつはこの戦において、正成の籠る「千早城そのもの」が壮大な囮(おとり)であった。

幕府軍がこの小城も落とせぬことを天下に知らしめることで、「幕府軍、恐るるに足らず」を世に示したのである。



もともと個人の利益で動く各地の豪族たちは、一斉に倒幕の旗を掲げはじめる。

そして、ついには幕府内部からも離反者が現れる。それが京都の六波羅を落とした「足利尊氏」であり、鎌倉を陥とした「新田義貞」であった。

ここに至り、140年続いた鎌倉幕府はついに滅亡したのである。それは、楠木正成が歴史に名を現してから3年も経たぬ出来事であった(正成40歳)。



◎人心


「幕府の滅亡、それは果たして正成の思惑通りであったのか?」

少なくとも、正成の言う「最後の勝ち」ではない。幕府の滅亡はその過程に過ぎない。きっと正成の目は、もっと遠い先を見ていたはずである。



千早城を頑強に守り抜いた正成には、地域の農民のみならず、各地の土豪たちが大いになびいた。ゆえに人心は鎌倉を離れ、新しい時代の到来を歓迎したのである。

しかし残念ながら、後醍醐天皇のもたらした天皇親政という新しい時代は、正成の見る遠い未来とは様相を異にしていた。



まずその恩賞は不平等であり、公家を厚遇し、武家を冷遇するものであった。

「後醍醐天皇による建武の新政は『徳』に欠けていた。朝廷はおろか、武士も庶民もひっくるめた全ての人々を混乱に陥れていた」

そのため人心は天皇を離れ、足利尊氏という人物に集約されていくことになるのである。



それでも楠木正成は京都の地にて、後醍醐天皇に刃向かった足利尊氏の軍勢を見事に追い払う。

ところが、その赫々たる戦果の中、正成の目は悲しい光景を見ていた。九州に落ち延びていく尊氏軍に、天皇方からまで多くの武士がその後を追っていったのであった。

「ここまで尊氏が慕われているとは…」



◎忠


人心の離反を目の当たりにした正成は、戦場から戻ってすぐに朝廷へと向かう。

「どうか、尊氏と和睦して下さい…」

正成は涙ながらに後醍醐天皇に、そう訴える。



悪の元凶である尊氏をようやく攻め落としたというのに、なぜ勝った我々から和睦を申し出なければいけないのか?

後醍醐天皇はじめ公家連中は、正成の悲痛なる言をまったく理解できない。

「不思議なことを申すものよ」と正成は嘲笑されるばかり…。



もし楠木正成が並の悪党に過ぎぬのであれば、この時点で朝廷を見限ったはずである。

当時の武士の間には「降参半分の法」という暗黙の了解があり、自分の所領の半分を放棄すれば、敵方に降伏することも是とされていたのである。

ところが正成は、あくまでも天皇方で戦うことを選んだ。



正成の理想は、足利尊氏と後醍醐天皇が和睦して、武家と公家の調和のとれた国にすることだったのかもしれない。

しかし、その両立はどうやら叶いそうにない。ならば武家を中心とすればよいのか、それとも天皇を中心に据えたらよいのか?

正成は後者(天皇)を選択したのである。



「修身」という概念は、中国古典の「大学」に見られるもので、修身の後には「斉家(せいか)」「治国」「平天下」と続く。

自らの身を修めること(修身)が、家が斉(とと)のうこと(斉家)、そして国が治まること(ちこく)、最終的には天下の平和(平天下)につながるというのである。



正成が天皇を選んだのは、消極的な選択だったのかもしれない。

しかしそれでも、彼はその道が「平天下」につながることを期待していたのであろう。

結果的には天皇に殉ずることとなる楠木正成。だが、忠臣としての彼は「平天下の途上」にあったにすぎない。彼の遠い目の先に見据えていたのは「平天下」。アメリカが「大いなる誤解」をしたのはこの点であったのだろう。



◎守るに難く、攻めるに易い


以後、楠木正成の人生は悲哀に覆われてゆく。

それはまるで、源義経がその後半生を哀しみの中に生きていったように…。



足利尊氏との和睦が叶わぬと悟った正成は、どうしても足利尊氏を叩き潰さなければならなくなった。そしてそれは、軍略の才にあふれた正成にとっては、さほどの難題ではなかった。

たとえば、京という土地は「守るに難く、攻めるに易い」。この京を囮として足利軍を誘い込むことも可能である。「ひとまず朝廷を京から比叡山へと退かせ、尊氏を洛中へと引き込み、糧道を立った上で一挙に殲滅する」。そんな策を正成は練っていた。



これはかつて、足利尊氏を京から追い落とした戦術と似たものであった。

一度は尊氏に奪われた京に猛攻をかけた楠木正成は、足利軍を一気に桂川の西へと潰走させて京の奪回に成功する。しかしその後、正成は勝ちに乗じることなく新田義貞に即時の撤兵を進言し、不気味な撤退を開始。京洛はふたたび足利軍の占拠することとなる。



その翌日、正成は京の市中に虚報をバラまく。新田義貞と楠木正成が討ち死にしたというニセ情報である。これら大将連中が討ち死にしたというのなら、謎の撤退にも説明がつく。足利勢の不安も解消されたというわけだ。

さらに同日夜、正成は京の北の大原・鞍馬方面へ無数のタイマツを囮(おとり)として向かわせ、あたかも夜逃げの集団落去かと見せかける。すると案の定、足利尊氏は「大将を討たれた敵勢が落ちていく」と勘違いして軍を一斉に動かした。

この時である。手薄となった洛中の足利軍を正成が急襲したのは!「密かに進出していた官軍勢は、一斉に京洛に雪崩れ込む。洛中に残る足利軍は周章狼狽、抗戦らしい抗戦もできず、先を争って遁走した」。



新田義貞と楠木正成が死んだという虚報を信じた足利軍。「人相の似た首2つ」を獄門にかけ、「新田義貞」「楠木正成」の名札をつけておいた。ところがその両首の側には、その後、それを皮肉るこんな落書が付け足されていた。

「これは『にた』首なり。『まさしげ』にも書ける虚事(そらごと)かな」

「にた(似た)」は新田、「まさしげ」が正成にかけてあることは言うまでもない。痛烈な諷刺である。



◎覚悟


なるほど、後醍醐天皇から人心は離れたとはいえ、楠木正成の必勝の策はまだまだ尽きたわけではなかった。

しかし、折り目正しい公家連中にとって、悪党たる正成の戦略は「奇策」にしか思えない。そんな姑息な戦略を受け入れるわけにはいかない。王たる者は正々堂々、王道を歩まなければ気が済まないのである。ましてや、後醍醐天皇を一時的にしろ叡山に移すなど、もってのほかである。

「尊氏を京に入れてはならぬ。入る前に討て」

それが楠木正成に与えられた朝廷の命であった。



「それは無理だろう…」

かつて尊氏を京から追い落とした時には、奥州から北畠顕家の大軍が援軍に来ていた。しかし、その絶大な武力は現在、京にいない。また唯一の頼みである新田義貞は、播州で反旗を翻した赤松則村の籠る白旗城に釘付けにされてしまって軍を動かせない。

一方、九州にまで逃げ込んでいた足利尊氏の軍は「膨張に膨張を重ね、あれよという間に肥大していた」。光厳上皇からの院宣(いんぜん)という大義名分を得た尊氏の元には、西国の武士が次々と集まり、今や数万という大軍に膨れ上がっていたのである。



「されば、死ぬよりほかに道はなかろう」

それが、最期の地となる湊川へと向かう正成の結論であった。



◎桜井の別れ


「今、何と申されました?」

父・楠木正成の言葉に、息子の正行(まさつら)は耳を疑った。湊川へと向かう行軍の途上である桜井(さくらい)にて、父・正成は息子・正行に「帰れ」と言ったのである。



「合点がなりませぬ!」

驀進する尊氏を邀撃(ようげき)することに命をかけようとしていた正行(まさつら)、まさかここで帰るわけにはいかない。

「父子ともに、名誉の死を遂げようではありませぬか!」



「ならぬっ! わしが自ら討死におもむくのは、わが死をもって、この度の新政の徳なきことを帝に知らしめ申し上げんためである」

正成は息子・正行に説きはじめる。

「さらにまた、わしが討死すれば、帝の御為(おんため)に命を捨つる者ありと、天下万民の知るところともなろう。これぞ悪党正成、最期の奇策に他ならぬ」



「わかりませぬ! なぜ、それがしに死を許されぬのですか?」

正行(まさつら)は、年端もゆかぬ子のように泣きじゃくる。



「いずれの親が、子に死を無理強いしようか…」

正成はホロリとつぶやく…。

「子は親の生き様、死に様を見つめ、おのが行く末を見極め、さらなる高みを目指さねばならぬ。そなたの行く末は、そなたが考えよ。わしの戦いぶりを見て、そなたが決めよ」



翌朝の五月雨の中、父・正成は湊川へと進発して行った。

そして、息子・正行はその後ろ姿を見送るより他になかった。

正成が引き連れて行った手勢はわずか700。息子・正行には2,000の大軍を残しての死出の旅立ちであった…。



◎湊川の戦い


「最期の戦いの場とするには、またとなき風光明媚さではないか」

湊川で新田義貞と合流した楠木正成は、その光景に素直に感じ入っていた。



しかし、その明媚な光景には続々と不穏の影が姿を現し始める。

海の向こうには、九州や四国から続々と参戦してきた軍船が大海原を埋め尽くす。その最大の水軍を編んでいるのは言わずもがな、足利尊氏その人。陸路には、尊氏の弟・直義(ただよし)の率いる数万の大軍。

新田・楠木の両軍は、陸海からの挟み撃ちに晒されつつあった。



「退くか…」

海から後ろに回ろうとする水軍を認めると、正成はつぶやいた。すると新田義貞は腰を上げて、後方への撤退を開始する。数倍する陸海の大軍を前に、新田義貞の本軍はいとも簡単に退避してしまうこととなる。

その後に残されたのは楠木正成の手勢700ばかり。その小さな軍は、会下山という小さな山(標高80m)に取り残された格好だ。



「上等っ!」

正成はいかにも嬉しそうに嗤った。

そして、後醍醐天皇から賜った菊水をあしらった陣幕を小山に張り巡らせると、「正成、これにあり!」と、眼前の大軍に堂々と威風を示した。

もはや楠木勢は、新田義貞の本隊を逃がすための囮(おとり)となっていたのである。



◎吶喊(とっかん)


「あぁ、足かけ6年…。あまりにも短い月日じゃが、妙にあの頃が懐かしい…」

正成は隣の弟・正季(まさすえ)に、そう話し始める。

「隠岐の島よりお戻りになられた帝をお迎えに参上したのも、この兵庫の津であった。ここで最期の戦いができるというは、なんとも奇縁」



「さて、最期に足利勢を縮み上がらせて見せようか…」

そう独りごちた正成は、やがて吶喊(とっかん)を開始する。

凄まじい…。足利軍を北へ逐い、南へ攘(はら)う楠木軍。敵はクモの子を散らすように逃げ惑う。尊氏の弟・直義の本軍を守っていた赤松則村の手勢は、ものの見事に中央を突破されてしまう。



吶喊に次ぐ吶喊。猛吶喊。

鬼神をも縮み上がらせる正成の吶喊(とっかん)は、じつに16度にも及んだ。この阿修羅のごとき吶喊は、700年ののちまでも兵庫一帯に語り継がれることとなる。



「弟を死なすな!」

新田軍を追おうと上陸していた尊氏の軍勢も反転、700という楠木の小勢に足利全軍3万がかかりっきりにならざるを得ない。

「ついに討たれるか」

2万の大軍に守られていたはずの足利直義(ただよし)も戦慄。死をも覚悟する。それはまるで、圧倒的優勢にあったはずの徳川家康が、大阪の陣において真田幸村の吶喊を受けて背を向けた時のようであった。

しかし幸いにも直義は守られた。最後の最後、薬師寺十郎次郎という武士の活躍により、辛うじて直義を脱出させることに成功したのであった。



◎七生報国


「もはや、これまでか…」

直義の首は冥土のみやげにならなかった。

そして、己の率いる兵力はもはや73騎…。



その屈強なる73騎は、湊川の民家に駒を寄せる。

「思うてみれば、朝に戦(いくさ)が始まり、夕の今となるまで、ただの一度も憩うことがなかった」



民家の中、正成は弟・正季(まさすえ)に、静かにこう語り始める。

「人は、最期の一念により、極楽へ参るか地獄へ参るかが決まるという。十界に別れた世界のうち、人は仏界を除いた残りの九界へと参るそうな」

その九界とは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩。



「おぬしの行きたいところは何処じゃ?」

正成は弟・正季に問う。

「知れたこと。七回生まれ変わっても人間として生まれ、敵を滅ぼしたいと存じまする」と弟・正季。



「罪業深き悪念ぞ…」

正成はやや寂しげに瞳を落とした…。

その後まもなくであった。一族郎党の自決を看取った楠木兄弟が、お互いを刺し違えて斃れ伏すのは…。



◎教えてはならない人物


なぜ、七回生まれ変わって国に尽くすという「七生報国」の逸話が後世に残ったのか?

楠木兄弟とともにいた73騎は皆死んだはず。それでも、この壮絶なまでの忠国精神は「楠公精神」として近代以降、第二次世界大戦までの軍国主義にも連なっていく。

そして、それをアメリカは恐れたのであった。だからこそ、「教えてはならない人物」の筆頭に楠木正成(くすのき・まさしげ)が掲げられたのでもあった。



しかし、楠木正成の生き様、死に様を見つめれば、それは「大いなる誤解」であることは容易に理解できる。

きっと正成の「最後の勝ち」は、足利直義のクビを取ることでもなければ、足利尊氏のクビを取ることでもなかったはずだ。修身、斉家、治国、平天下へと続く和平への道のりだったはずである。

七回生まれ変わったとしても、それは決して復讐のためではなかったはずだ。楠木正成は「最後の勝ち」のために大悪党となることをも厭わなかった人物なのである。




「時に主(あるじ)の名誉を守るため、その命を頂戴することすらある」

平天下のためならば、楠木正成はそれをも成していたかもしれない。

明治期に「武士道」を記した新渡戸稲造は、「忠」よりも「義」を上位とした。主(あるじ)に忠であることは大切なことであるが、それよりも大事なことは「主が道を誤ったときに諌めること」である。それは「義の心」から生まれるものだと新渡戸稲造は言う。



湊川に殉じた楠木正成は、帝が誤った道を歩んでいることを死をもって示した。

いうなれば、正成は帝に殉じたというよりも、己の「義」に殉じたのでもあった。







◎正行(まさつら)と正儀(まさのり)


桜井で分かれた正成の息子・正行(まさつら)。

父の生き様・死に様を見つめた彼は、最期まで帝に命を尽くす道を選ぶ。その様はまるで「楠木正成が蘇ったかのよう」であり、父・正成同様、正行は寡兵をもってよく大軍を破った。



しかし最期は、幕府軍の圧倒的な大軍の前に敗れ去ることとなる。

父の守りきった千早城に籠って抗戦しようとした正行であったが、戦を知らぬ南朝の公家たちはそれを許さなかった。まるで正成が京洛を囮にすることを許されなかったように…。そして、正行が死を覚悟して臨んだ四條畷の戦い、それは正成の湊川の戦いそのものであった…。

力一歩及ばず、悲しくも弟・正時と刺し違えて果てた正行。父・正成がその弟・正季と刺し違えて死んだ姿がそこに重なる…。



小楠公とも呼ばれた正行(まさつら)は徹底的に南朝に尽くし、そして果てた。それが正行の「義」であった。

それとは対照的に、三男の正儀(まさのり)は南北に分かれてしまった朝廷の和平の推進に、己の義を見ていた。正儀は「ただ取っては取られての繰り返し」に無益さを感じていたのである。

正儀の軍略の見事さは、時に父や兄をも上回るのであったとまで言われるのだが、正儀のあえて戦いよりも和平の道を選んだのである。



しかし残念ながら当時、南北和平の機は熟していなかった。北朝との和平交渉はことごとく失敗。戦の無益さ同様、和平の性急さも痛感せざるを得なかった…。

結果的に正儀(まさのり)は南朝とともに朽ち果てることを選び、楠木家は南朝の衰微と命運をともにすることとなる…。



◎遠い先


はたして、楠木正成の見ていた「遠い先」には何があったのか?

天才的な軍略を駆使したのは、何のためであったのか?



息子2人、正行(まさつら)と正儀(まさのり)の出した答えは、それぞれに異なっていた。

徹底抗戦を貫いた正行、そして、和平への道を模索した正儀。



父・正成(まさしげ)は、足利軍との壮絶な戦いの中にあってなお、その和睦をも視野に入れていた。

戦えば勝つ。しかし、勝つことにどれほどの意味があるのか? 勝った先には何があるのか?

最期に正成は「あえて負ける道」を選んだ。そして、それが彼の名を不朽のものとすることにも繋がった。



日本という国家が現在一枚岩でいられるのは、天皇を中心とした体勢が曲がりなりにもうまく機能しているからでもあろう。それは2,000年以上も続く日本の伝統的スタイルでもある。

700年前の正成も、それが最良の道であると思い至り、それに忠であることが彼の見ていた「遠い先」につながるものと信じていた。この点、彼の慧眼に間違いはなかった。

しかしその過程において、やはり戦(いくさ)は避け難きものであり、その後の時代においても戦火が止むことはついぞなかった。



◎楠流兵法


「戦わざれば亡国必至。戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国に委ねるは身も心も民族永遠の亡国である」

「だが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神が残り、われら子孫はかならず、再起三起するであろう」

これは第二次世界大戦時、海軍大将だった永野修身が遺した言葉である。



ややもすると「七生報国」の精神は復讐的、破壊的にも誤解されてしまう。誤解が生まれるのは、この精神に「戦闘を厭わぬ精神」が宿されているためであろう。

しかし、この精神の善たる部分は「平天下」を見ていることである。その途上にある戦いは護るべきものを護る戦いに違いない。



楠木正成が護ろうとしたもの、そして後世に示そうとしたものは、きっとその天才的な軍略ではなかったのだろう。

実際、現在残されている「楠流兵法書(河陽兵庫之記・楠正成一巻之書・南木武経)」には、「戦術をむさぼり習うこと」をその「下(げ)」としている。



「上」とされるのは、「心性を悟り、庶民を親愛すること」。

「智謀・戦術の妙道」を学ぶのは、「正心修身」をしっかり行なってからだと言うのである。



つまり楠木正成にとっての戦闘は、その枝葉末節に過ぎない。

その核たる思想は、人間の「人となり」に置かれているのである。







◎消されてなお…


歴史上、楠木正成は何度も消されようとされてきた。この大悪党はそれほどに誤解を生みやすいのである。しかし、消されても消されても、楠木正成の名が掻き消されることは現在までついぞなかった。

「敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」

楠木正成を葬った室町幕府の側に立った歴史書「梅松論」でさえ、その功を認めざるを得ない。しかし、正統とされた北朝にとって、南朝に殉じた楠木正成は朝敵でしかなかった。



正成が朝敵の赦免を受けるのは、その死後から200年以上も経った頃。正親町天皇の勅免を受けてからである(1559)。

正成が大悪党の朝敵から「大忠臣」とされるのは、江戸時代の水戸学における尊皇の史家たちが歴史を洗い直してのちのこと。その筆頭・水戸光圀は、湊川の正成の墓に「嗚呼、忠臣楠公之墓」と刻んで、正成の忠臣ぶりを世に示す。

ここまで来てようやく、湊川の畑の片隅で荒廃していた正成の墓は、堂々とその忠義を認められることとなるのである。墓碑に「嗚呼」という気持ちを込めた水戸光圀の想いはいかほどであったのだろう。



室町時代の軍記「太平記」は、正成をこう評する。

「命をかけて善道を守るは、古より今に至るまで正成ほどの者は未だいない」

ここに明らにされているように、正成が帝に忠を尽くし、命をかけてお諌め申し上げたのは、その「善道」を護るためであったのだろう。



ゆえに正成は消されても消されても、かならず蘇る。大いなる誤解を受けてなお、蘇る。

七回生まれ変わるどころか、幾十、幾百となく蘇るのだろう。

そして、ついに正成が完全に忘れ去られ、二度と蘇らなくなった時、それはきっと本当に「平天下」の成った時なのかもしれない…。







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出典:
歴史街道2012年10月号「楠木正成」
致知2013年2月号「楠木正成の生き方が教えるもの」
posted by 四代目 at 06:43| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月03日

日本の心を世界に示した「柴五郎」。絶望的な籠城の果てに…。


「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめており、ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じている」

時は1900年、場所は中国・北京。義和団と称する反乱軍は、「扶清滅洋(清をたすけ、外国勢を滅ぼす)」の旗を掲げ、世界各国の公使たちを北京城に追い詰めていた。

20万人以上の大軍を眼前にして、北京城に立て籠もるのは、わずか4000人弱。4000とはいえど、そのほとんどが民間人であったため、兵と呼べる数は500にも満たなかった。

ところが、この絶望的に少数の籠城軍は、およそ2ヶ月間にわたり北京城を守り抜いてしまう。そして、その混沌とした北京城内には、その「小男」の姿が確かにあった。




冒頭の記述は、当時の北京城内でその「小男」とともに戦ったイギリスのシンプソン氏の日記からの抜粋である。

その小男とは、日本人「柴五郎」その人。のちに、「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本兵に帰すべきものである」とイギリス公使に言わしめたほどの男である。





◎静かなる小男


世界各国の公使たちの入り乱れていた北京城内は、大軍を前にして混乱の極みに達していた。イギリス、ロシア、フランス、アメリカ、ドイツ、オーストリア、イタリア、オランダ、ベルギー、スペイン、そして日本。これほど多国籍の人々が入り乱れていては、まとまるものもまとまらぬ。

その喧々諤々の席上にあっても、小男・柴五郎ばかりは静かであった。彼は黙って聞くばかり。そして、時折「セ・シ・ボン(結構ですな)」とボソリ。

柴五郎の心は十分に錬られたものであり、小さな東洋人の発言が欧米列強の反発を招くものだということを、十分に心得ていた。しかしそれでも、会議は柴五郎の思い描く方向へと進んでいった。彼がボソリとつぶやくたびに、世界の列席者たちは、その方向へと引かれていったのだ。彼の発言にはそれほどの理があり、彼の落ち着きはいつしか皆の安心となっていた。

まさにシンプソン氏がいうように、「この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめてしまっていた」。そして、その秩序こそが北京城を最後まで一丸とさせた源でもあった。



◎世界が知る男


小男・柴五郎とは何者ぞ?

多少歴史を知る人でも、彼の名を知らぬ人は多い。世界に高く評価されても、日本国内でさほど知られぬ人というのがたまにいるが、柴五郎はまさにその典型。

ひょっとしたら、イギリス人のほうがよく知っているのかもしれない。彼はのちに日英間で結ばれる日英同盟の見えない礎石をも築いているのである(後述)。タイムズ誌は柴五郎を「軍人中の軍人、コロネル・シバ(柴中佐)」と誉め讃えて世界に報じている。



彼の名が日本史の奥に埋もれてしまったのは、明治という国体に原因があった。明治の維新史というのは、時の政権の中枢をになった薩長(鹿児島と山口)を中心として書かれたものであったため、それに敵対した勢力、たとえば会津藩(福島県)などはその埒外に置かれたのである。

不幸にして、柴五郎は明治維新に最後まで楯突いた会津藩の武士の末裔であった。



◎武士中の武士


柴五郎がこの世に生を受けたのは、江戸幕府も命からがらの頃(1854)。そして、明治の新政府軍が会津城下に迫って来た時、柴五郎はわずか10歳の幼い少年であった。

会津の柴家というのは由緒ある家柄であり、柴家の仕える会津藩というのは、日本全国でもとりわけ徳川幕府への忠節心が厚い土地柄であった。それは、初代藩主の保科正之が2代将軍・徳川秀忠の息子であり、3代将軍・徳川家光の弟でもあったことに由来する。

そんなこともあり、幕府に対する会津藩の忠義は、会津武士をもって「武士中の武士」と言わしめるほどに、他の武士たちの鑑にされていたのである。それゆえ、幕府を滅ぼした明治新政府との決戦は不可避なものであった。



まだ10歳だった五郎は戦場に立つことが叶わず、彼は父と4人の兄が戦いにおもむく後ろ姿をただ見送るしかなかった。落胆する五郎の心を喜ばせたのは、叔母と一緒に泊まりがけで山菜採りに出掛けるという話であった。

しかし実は、その山菜採りという話は、柴家を何とか存続させるために、五郎を生かす方便であった。五郎が山菜採りに興じているさなか、母・祖母・姉妹らの女衆たちは自害していたのだ。その自刃は、「女子供が城に身を寄せては足手まといになる」という、武家の女たちらしい悲壮な決断であった。

唯一の救いは、その悲壮な決断が五郎を生かし、のちの世界のお役に立ったということなのかもしれないが…。



◎臥薪嘗胆


奮戦虚しく、会津は敗れた。そして、その領民1万7000は青森県への移封とされた。青森へ向かう長い長い人の群れの中には、柴五郎の姿、そして幸いにも父と兄の姿もあった。

会津藩の所持していた石高は67万石。それに対して移封先の青森・斗南はわずか3万石(その実、7000石)。その小さすぎる石高で大藩・会津の領民を養うのは、まず不可能。それゆえ、移封した会津の領民の生活は極貧にさらされることとなった。極寒の地で…。



のちの柴五郎は、その時の生活をこう記している。「着の身着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥(布団)なく、耕すに鍬(くわ)なく、まことに乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下20度の寒風に蓆(むしろ)を張りて生きながらえし辛酸の日々…」

その過酷な生活により、五郎の髪の毛は抜け落ち、高熱により生死の境をふらつくことも…。そんなある日、食卓に犬の肉がのぼった。それは射殺された野良犬をもらい受け、塩で煮込んだものであった。ところが、弱っていた五郎はそれを吐き戻してしまう。

その五郎を厳しく叱責する父。「己は武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地に来たれるなり。『会津の武士どもの餓死して果てたるよ』と薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり」



会津武士としての誇り、それは薩長により賊軍と貶められても、一向に揺らぐものではなく、いささかも恥じるところのないものであった。

「子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裏に刻まれて消えず」と、のちの柴五郎は記している。



◎浮上する才


海に沈んだコルクの栓は、たとえその真上に大岩が乗せられたとしても、いずれは勢いよく海上へと浮上する。それと同様、柴五郎という有能な人物は機会さえとらえれば、一気に浮上する資質を兼ね備えていた。

それは会津藩伝来の教育の成果でもあったのであろう。初代藩主・保科正之以来、武士の鑑を育て続けた会津藩の初等教育には定評があった。その教えは「ならぬことは、ならぬものです」で知られる「什(じゅう)の掟」に代表されるものである。

極寒の地に流されてなお、元の会津藩士たちが子供たちの教育を軽んずることは決してなかった。いやむしろ、その苦境の中でより強靱な心が錬り込まれれていったのである。



世間は柴五郎の光を放ってはおけなかった。青森県庁に採用されるや、上京して士官学校へと進むことになる。ちなみに、彼の同期には「坂の上の雲(司馬遼太郎)」の主人公の一人・秋山好古がいた。

日清・日露の大戦を陸軍に身をおいて戦い抜くことになる柴五郎。薩長閥の間をかいくぐるようにして大本営参謀となり、最終的には陸軍大将の地位にまで登り詰めることになる。

そうした長い戦歴の中で、柴五郎の名がひときわ世界に鳴り響くのが、冒頭に記した北京籠城戦。この戦において、柴五郎は武士として、日本人として、世界を刮目させることになるのである。



◎義和団


日清戦争で日本に敗れた後の清国(中国)は、「眠れる獅子」の化けの皮が剥がされ、「眠れるブタ」とまでバカにされ、そのブヨブヨのブタ肉には欧米列強が我先にとカジり付いていた。日本が勝ち取った遼東半島はロシアが横取りし、ドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしり取る。イギリスは威海衛、そして香港島対岸の九龍を手中に収める。

こうした状況にあっては、義和団ならずとも外国勢力の駆逐に炎を燃やすであろう。義和団の起こした乱は、日本でいえば幕末の攘夷運動である。

義和団というのは、三国志の諸葛亮や趙雲などを信奉する信仰組織であると同時に、武術組織でもあった。神が乗り移った者は、呪文を念じてその拳を振るえば、刀はおろか銃弾すら跳ね返すと信じられていたのである。





彼らが北京と天津の間にある鉄道(京津鉄道)を破壊したことが、北京城(紫禁城)を孤立させることにつながった。北京を目指していたイギリス中心の連合軍2000は、北京救援の道を絶たれたのである。それは同時に、北京城の各国公使たちの脱出の道が絶たれたことをも意味した。

その外国勢の劣勢を見るや、清の西太后は諸外国に「宣戦布告」を突きつける。この宣戦布告は長期的にはまったく無謀であったが、短期的な北京決戦だけを見れば、清には十分な勝算があったのだ。

こうして、義和団という民衆の反乱は、清国の後押しを受ける形になり、北京での戦いはほとんど外国勢をいたぶるような様相をていしてゆく。日本公使館の杉山彬は、義和団ではなく清の官憲に捕まり、心臓をくり抜かれた。



◎人徳


四面楚歌となった北京の外国勢。多くの外国公使が北京に滞在していたが、その中でも柴五郎は古株であった。そして、幸いにも彼は中国語、英語、フランス語と、多国語に堪能であった。将来語学が必要になるであろうことを直感していた若き日の柴五郎は、その修得を怠ってはいなかったのだ。

中国語で中国人とも意志疎通ができ、各国公使とは英語とフランス語で会話ができる柴五郎の周りには、自然に情報が集まってきた。それは語学のみならず彼の人柄がそうさせたのであろうし、彼の人徳でもあったのであろう。これは指揮官としてはじつに望ましい徳であった。



彼は自分から意見を述べることは少なかったのだが、議論紛糾したときなど、各国公使は決まってこう言った。「コロネル・シバ(柴中佐)の意見を聞こう」と。

アメリカの守っていた堡塁が激しく攻撃された時、応援にかけつけたドイツとイギリスは、突撃して大砲を奪えと激しく主張した。ところがアメリカはそれを認めない。そんな時にはコロネル・シバが呼び出される。柴五郎は言う、「成功の公算あり。しかし、今は味方の犠牲を最小にすべし」。彼の断は、即座に軍議をまとめる力を持っていた。



◎強き者たち


「日本軍を指揮したコロネル・シバは、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬されていた(ピーター・フレミング)」

イギリスのシンプトン氏のみならず、誰もが「日本人の小男に傾倒していた」のである。そして、柴五郎の率いる日本兵は強かった。

「戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった(ピーター・フレミング)」

「日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中ではコロネル・シバが最優秀と見なされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス兵がこれに続くと思うが、しかし日本兵はズバ抜けて一番だ(ランスロット・ジャイルズ)」



◎最重要拠点・王府


日本軍の守る王府には、多くの中国人たちがいた。その中国人たちはクリスチャンであるために義和団から目の敵にされ、北京城に逃げ込んできていたのである。はじめ、各国公使は大量の中国人の受け入れに難色を示したのだが、柴五郎は即座に受け入れを決定した。

柴五郎の快い対応に感激した中国人クリスチャンたちは、積極的に王府の堡塁を築くのを手伝い、日本兵の協力に熱心であった。司令官の柴五郎のみならず、日本兵の多くは中国語を話せたために、中国人は日本兵によくなついたのである。

北京城内の外国勢は1000足らず。それに対して、中国人クリスチャンは3000以上。日本軍が中国人クリスチャンを味方につけたことは、大いなる戦力増強であった。中国人クリスチャンのなかには義勇兵として日本軍に従ったものも少なくなかった。



それでも日本軍の守る最重要拠点である王府は、途方もなく広かった。小高くなっている王府は、攻め落とされれば全体を見下ろす形で砲撃されてしまう。それゆえ、是か非でも守りきらねばならぬのが、この王府であった。

王府を奪う利は敵軍も承知である。ゆえにその砲撃も一段と激しい。その激しさゆえ、日本軍以外の外国勢はここを守ろうとしなかった。イタリア、フランス、オーストリア、ドイツなどの兵が加勢に来たりもしたが、王府の広さと攻撃の激しさを前にするや、「とてもじゃないが守りきれない」と引き返す有様であった。



◎智あり勇あり


それでも柴五郎率いる日本兵は一歩も引かなかった。睡眠時間は3〜4時間、大砲で城壁に穴を開けて侵入してくる敵兵を撃退するという戦いが、延々と繰り返されていた。

敵の砲弾は豊富であるが、日本軍のそれは限られている。無駄弾は一発たりとも放てない。一発必中の応戦が絶対であった。そこで一計を案じた柴五郎。敵兵をわざと城内まで引き入れ、敵兵が城内に充満するのを十分に待ってから、突然の一斉射撃。敵兵は我先にと開けた穴から逃げ去っていった。

こうした戦果は、籠城者たちを大いに奮い立たせ、全軍の志気を大いに鼓舞した。そして、そのたびに屈強な日本軍への信頼は増していった。

「日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ!」



◎イギリスの信頼


イギリス公使館の壁に穴があけられ、数百の敵兵が乱入してきた時、柴五郎は安藤大尉にその救援を命じた。大使館の中では最も広大だったイギリス公使館には、各国の婦女子や負傷者が多数かくまわれていたのである。

迅速に馳せ参じた安藤大尉、イギリス公使館に到着するや、サーベルを振りかざし、またたくまに数名を斬り伏せる。続く日本兵も次々に敵兵を突き刺せば、あっという間に敵兵たちは浮き足立ち、壁の外へと逃げ出した。

この日本軍の華麗なる敵兵一掃は、イギリス公使館に避難していた多くの人々の眼前で行われたこともあり、それが一同の語り草となり、日本兵の勇敢さは一般の市民にまで知れ渡ることとなった。



それ以来、イギリス公使であったマクドナルド氏は、日本兵の活躍を心底信頼するようになった。日本の将兵の勇敢さと不屈の意志、最激戦地・王府での不眠不休の戦い、そして礼儀正しさと完璧な秩序…。

マクドナルド氏は日本軍というものを、北京城内で目の当たりにし、ともに戦ったのである。そして、日本軍に絶大の信頼を抱いたマクドナルド氏は、北京を戦い抜いた後に結ばれることとなる「日英同盟」を強力に後押しすることとなる。





◎事、成る


さすがの柴五郎にも疲れが見えはじめ、城内の弾薬も尽きかけた頃、大きな砂塵をあげた援軍がようやく北京にたどりついた。総勢1万6000の援軍はその大半が日本軍であり、彼らは北京を包囲する清国軍や義和団を蹴散らして籠城軍を救った。こうして絶望的だった籠城戦は、その2ヶ月を見事に耐え抜いたのである。

戦火のやんだ北京城内での、初の列国会議の席上、イギリス公使のマクドナルド氏は開口一番、こう言い切った。

「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」




列席していた柴五郎は、会議のあとに自軍へと戻り、ともに戦った皆にこの有り難い言葉を伝えた。一同から漏れる嗚咽の声。祖国の名誉を守れたこと、そして世界の人々から認められた誇らしさが、満身創痍の強者たちの心を満たしていた。

「立つ鳥、あとを濁さず」。熾烈な戦が終わってもなお、日本軍の規律は一切緩まなかった。柴五郎は日本占領地域での略奪を一切許さず、その治安の良さは中国市民のみならず、各国軍の間でも注目されるほどであった。

北京籠城に関する数多い記録の中で、「直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけであった」。



◎ロシアと日本


日本占領地域の治安の良さに対して、ロシア軍に占領された地域は悲惨なものであった。その地の住民等が続々と日本の占領区に逃げ込むほどであり、イギリス公使マクドナルドの元にもその苦情は届いていた。北京市長が「ロシア軍管区を日本軍管区に替えて欲しい」と懇願してきたのである。

日本軍が北京で籠城戦を戦っていた間、ロシア軍はといえば、その隙に乗じて、中国の北方・満州をまんまと占領していた。これにはイギリスも眉をひそめ、ロシア軍の南下に警戒を強めた。



柴五郎が北京で示した日本軍の強さと美しさ。それに対するロシアの強欲さと卑劣さ。その両極を身で知ったイギリス公使マクドナルドは、イギリス首相ソールズベリーに、日本との同盟を強く勧めた。イギリスと日本にはロシアの南下・極東進出を防ぐという共通の利害があったのだ。

その後、わずか半年、異例のスピードで日英同盟は締結される(1902)。この同盟締結により、イギリスは長年の伝統であった「光栄ある孤立」政策を一大転換することとなった。しかも、その伝統を覆す最初の相手国が、日本という非白人国家であったのは、世界の驚きであった。



◎イギリスの先見


世界が日本という国を誤解していたのは無理なからぬことである。この国はわずか30年前に国を開いたばかりであり、その文明は明らかに西欧諸国に立ち後れていたものだった。

日本という国家の資質に世界で一番初めに気づいたのが、聡明なるイギリス公使マクドナルド氏であった。柴五郎をはじめとするの日本兵に、いまだ輝ききらぬ原石の素質を見いだしていたのである。



イギリスは、大国・ロシアの野望を打ち砕くために、小国・日本に賭けた。そして、その日本はその期待に見事に応え、日露戦争においてロシアを打ち破る。とりわけ日本海における海戦は、世界最強と目されていたロシアのバルチック艦隊をほぼ全滅させるほどに叩きのめした。

日本の大勝利はイギリスとの日英同盟に支えられたものであり、そして、その日英同盟を結ばせた陰の立役者が柴五郎であったということだ。



◎敗者の輝き


先にも記した通り、柴五郎の功績は過小評価されている。明治の時代にあっては「会津」といえば「賊軍」、負け組の代表格だったのである。北京籠城の功により陸軍大佐となった後、とんとんと出世を繰り返すものの、時には閑職に追いやられたりもしている。

一方で世界の賛辞はなかなかやまず、欧米各国からは勲章の授与が相継いだ。「その当時、一番大きな働きをした者に教皇からダイヤモンドの指輪が贈られてきたが、ファヴィエ大司教はこの貴重な印をただちに柴大佐に贈呈したのである(ベルギー公使婦人の明治日記)」



柴五郎の没するのは1945年、まさに日本敗戦の年。この静かな小男は、いかなる心で敗れゆく日本を眺めていたものであろうか。敗戦の報を知った柴五郎は、自決を図る。しかし悲しくも、その想いは果たせずに死ぬことはできなかった。

武士中の武士を育て続けた会津に生まれ、会津を離れてもなお、彼は武士としての誇りと礼節を忘れることがなかった。自決を図った時には、幼き日に見た母ら女衆たちの決然たる死に様が去来したかもしれない。



会津落城という敗者から始まった彼の人生は、北京籠城という輝きを得ながらも、結局は日本敗戦という敗者として終わることとなった。

自決は果たせなかったものの、その年の暮れに彼は病没する。その墓所は故郷・会津若松。かつての兵営跡には、柴家の生家跡を示す石碑が残る。



◎日本人


彼が北京で示した日本人像は、欧米の日本人観を一新させるに十分であった。

「当時、日本人とつき合う欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、皆の目に映るようになったのだ」



はたして、それから100年が経過した日本人は変わったのであろうか?

世界が讃えた日本人の美徳は、いまだ我々の心の内に備わっているのであろうか。



幸い、日本の歴史上には、柴五郎しかり、その鑑となる人物に事欠かない。この事実こそが、まさに国家の宝であり、礎石であろう。先の大震災において、世界が再び日本人の美徳を讃えてくれたことで、我々が古き良き日本の延長線上に位置していたことを確かめさせてくれた。

願わくは、そうした歴史が積み重ならんことを…。我々が過去の偉人を賞賛する心を持つ限り、それは成されるのであろう…。







関連記事:
「切腹」にみる責任と犠牲。生死と自他の境に想う。

「武士」とは? 新渡戸稲造が世界に示した日本人像。

偉人を輩出しつづける薩摩の教え。戦国の猛将・島津義弘が種をまいた「郷中教育」。



出典・参考:
コロネル・シバ(柴五郎中佐)〜日英同盟締結の影の立役者〜
致知2012年7月号「日露戦争に勝利をもたらした世界的英雄・柴五郎の実像」
posted by 四代目 at 06:39| Comment(4) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月25日

夢を翔けた「瀬戸大橋」。ホラ吹きェ之丞、100年の大計。


本州と四国を結ぶ「瀬戸大橋」。

瀬戸内海に散らばる島々を、あたかも飛び石のようにして四国へ伸びる。その巨大な橋の橋脚が置かれた島々は全部で5つ、橋は合計で6本連結されている。





◎橋の守人たち


この海を翔る橋ができてから今年で24年、その間ずっと、この橋を守り続けている人々がいる。

海に架かった部分だけでも全長10km近くもある瀬戸大橋、この長大な橋はたった6人のスペシャリストたちの手によって保守管理されているのだという。

彼らの立つ足場は、目も眩むほどの高所。最大で海面から200m近い。その狭い足場は、36階建ての霞ヶ関ビル(147m)のテッペンよりもずっと高いところにある。





橋全体で用いられているボルトの数はおよそ900万本以上。スペシャリストたちはその一本一本を手で触れ、目で確認して、その安全性を守るために五感を研ぎ澄ませている。

瀬戸大橋は100年保つように設計されているというが、彼らの志はその寿命を倍に延ばすことだ。日々の保守管理を徹底することで、それが可能だと彼らは考えている。



◎固い決意、たゆまぬ努力


与えられた任務以上のことを成し遂げようとする守人たちのリーダーは堀田哲男さん。瀬戸大橋を守り続けて16年のプロフェッショナルである。

彼の決意は決して緩まぬボルトよりも固い。「『まあいいか』なんてのはダメですね。200年保たさないといけないんですから。巨額の国費を使って造った橋なんだから、簡単に潰すわけにはいかないんですよ」



毎日毎日、ボルトの点検。900万本以上もあるボルトを一つ一つ確かめる。この途方もない仕事が終わるのには4年もかかる。そして、その翌日には新たな4年間の点検サイクルがスタートする。

瀬戸大橋に関わって16年という堀田さんは、この4年一巡のサイクルをすでに4回もこなしている。そしてその16年間、橋の異常が原因となった事故は一度も起きていない。



◎国家をあげた大事業


瀬戸大橋の総工費は1兆円を超える。そして、その巨費以上に多大な労力が注ぎ込まれてもいる。1978年に着工した工事は、のべ900万人の人員が関わった、およそ10年の長きにわたる超巨大事業であったのだ。

当時の日本は、高度経済成長からバブルへと向かうイケイケの時代。瀬戸大橋の大工事には国家の威信がかかっていたこともあり、そこには世界初の技術が惜しげもなく注ぎ込まれた。



たとえば、巨大な吊り橋をつるワイヤーは、瀬戸大橋のために開発されたものであり、わずか直径5mmのケーブル一本で車3台を軽々と持ち上げるほどの強度を持つ。その細く強靱なワイヤーを3万4000本以上束ねて直径1m以上になったものが、瀬戸大橋をつるワイヤーであり、その強度は世界最強(当時)であった。





また、吊り橋の土台となる巨大な基礎の型枠(ケーソン)は、通常海上で組み立てられるものであるが、瀬戸大橋の場合は陸上で組み立てられて、船10隻で4日かけて現場まで曳航するという前例のない方法がとられた。そして、この斬新な手法のおかげで、その工期は大幅に短縮された。





さらに、この瀬戸大橋は車のみならず、その下を電車が走る「鉄道・道路、併用橋」でもあった。

吊り橋の上を走る列車の重さは160トン。列車が通るたびに、その吊り橋は上下に大きくたわむ。それでも、橋も線路も決して折れ曲がらない。なぜなら、はじめからシナるように設計されており、最大5mのたわみを吸収することができるのだ(緩衝桁)。

当時の知恵があらん限り盛り込まれた瀬戸大橋、その建設を請け負った会社が取得した特許は100以上にものぼるという。



◎ホラ吹きェ之丞


世界最高の技術が結晶化したような瀬戸大橋。その開通は今から24年前の1988年。その構想から数えれば、じつに100年の歳月が流れていた。

瀬戸大橋の構想が打ち出されたという100年前といえば、それは明治時代。しかもまだ江戸の香りが残り、文明開化の光も地方までは行き届いていない時代である。

そんな時代に、いったい誰が瀬戸内海に橋を架けようなどと思い立ったのか?



それは「ホラ吹きェ之丞(じんのじょう)」。

彼の言うこと成すこと、すべてが人並み外れていたため、光栄にも「ホラ吹き」と称されるようになった人物である。彼の口から飛び出す気宇壮大なホラは、あまりに突拍子もないために、それを真面目に相手する人などいなかったのだ。

たとえば、彼の歌ったこんな都々逸が残る。「笑わしゃんすな百年先は、財田の山から川舟だして、月の世界へ往来する」。なんと100年後に彼の故郷・財田町から月へ行く舟を出すと歌っているではないか。

そんな彼の披露した瀬戸大橋の大構想。それが100年後に現実のものとなるとは、当時の人々は夢にも思わなかったであろう。月に行くという大構想は、アポロ11号に奪われたようではあるが…。



◎ホラは現実に


ホラ吹きェ之丞こと、「大久保ェ之丞」の吐くホラは、ホラはホラでも豊臣秀吉の大ボラのように、次々と現実化してゆく。それは彼の在世中に実現したものもあれば、瀬戸大橋のように後世の人々が実現したものもある。

彼の業績は道路や鉄道などのインフラに関わるものが多い。そうしたインフラ建設のために、彼は私財をなげうつことを躊躇(ためら)わなかった(彼の家は古くからの豪農であり、その私財は莫大であった)。



ェ之丞は幼き頃より陽明学を学んでいたこともあり、世のため人のためになることならば、実践することこそが道であると思い極めていたようである。

それにしても、なぜ、彼がそれほどまでにインフラ建設に熱心だったのか。それは年端もいかぬころの悲しい出来事が、彼をそうさせずにいられなくしてしまったのだという。



◎絶望の淵


ひどく雨の降りしきるその日、ェ之丞は乳母・ヤクを心配して峠道まで迎えに出ていた。そして、道の向こうにヤクの姿を認めると、ホッと一息。

ところが、その一息のあとである。突然の土流がヤクの足下を襲ったのは。そして、そのまま崖の下に落っこちそうになるヤク。

「すわっ」とェ之丞はヤクに駆けよるや、精一杯に手を差し伸べ、しっかりとヤクの手を握り締める。



しかし悲しいかな。ェ之丞11歳、その腕力には明らかな限界があった。

ヤクの手を握り締めたまではよいが、そこから引き上げることは到底かなわない。無情にも時は流れ、ヤクは崖の下へと…。



目の前のヤクを救えなかったェ之丞。歯噛みして涙を流す。

「あぁ、この峠の道がいま少しばかり広かったのなら…、ヤクは死なずに済んだのにっ!」

成人した後のェ之丞が、「ホラ吹き」と呼ばれようが、どんなにバカにされようが、道づくりに血道をあげたのは故なきことではないのである。



◎100年の大計


もはや、ェ之丞の眼は100年先の未来を見つめて離さなかった。

100年後の四国のために道路や鉄道は欠くべからざるものであり、本州と四国を橋でつなぐことも絶対に必要なことであった。



彼は金を出すだけではなく、自らが道具を握って現場に立ち続けた。政治家であったにも関わらず、その手にクワを握って…。

自らの信念を曲げることのなかった甚之丞は、100年先を睨んだまま倒れた。享年42歳。志半ばどころか、志の緒についたばかりの若すぎる死であった。

彼の死んだ後、もはや莫大な財産はすべて無くなっており、残された家族は3度のメシにも窮する始末であったという。それは、私財のすべてが公共の利益に供された結果であった。





◎尊き犠牲


瀬戸大橋構想は、ェ之丞が提唱してからおよそ50年間はほとんど放って置かれたに等しい。それも仕方がない、その構想は荒唐無稽なホラ話と思われていたのだから。

その大事業が重い腰をあげるには、もう一つの悲しい話が必要であった。

その事件が起こったのは1955年、「紫雲丸事件」と呼ばれる旅客船の沈没事故であり、犠牲者168名のうち、100名以上が小中学生という痛ましい事故であった。



コメのとぎ汁のように濃い霧の立ち込めていたその日、修学旅行生を乗せた紫雲丸は、行くか行かぬか迷った末に出航が決定された。一時的に視界が晴れたのは、結果から見ればじつに不幸なことであった。

懸念された霧は深まるばかりの海。そして、その白い闇の中から聞こえた汽笛は、突然の衝撃となって乗客を襲った。他の連絡船が激突してきたのである。

エンジンルームで爆発の起こった紫雲丸は、急激に左へと傾き、わずか数分で海底へ…。



◎漁師・国太郎の救出劇


その時の紫雲丸のあげた凄まじい衝突音は、濃い霧の中を響きわたったようで、近場でイカ漁をしていた地元の漁師・島谷国太郎の耳にも届いた。彼は少し前に紫雲丸とすれ違ったばかりであった。

虫が騒いだのか、国太郎は一気に引き返し、わずか5分で衝突現場に到着。即座に救助活動を開始。彼の機転により救われた命は50名弱。





しかし、先にも記した通り、この事故では多くの若すぎる命が海へと消えた。犠牲者の3分の2近くが小中学生だったのである(圧倒的に女の子が多かった)。また、船長は頑なに退船を拒否し、紫雲丸とともに沈んでいる。

かろうじて生き残った人は、その時の状況をこう語っている。「ドカーンと凄い大音響。ぶつかって3分もせずに船がググーンと大きく傾きました。大きな船ですので、沈むと渦の中へグーンと引き込まれ、そうこうしているうちに両足に髪の毛がまとわりついてくるのです。それは女の人の長い髪の毛だったのか…、今でも足に髪の毛が絡みついた感触が残っています…」



余談ではあるが、紫雲丸はこの大事故の前にも事故を立て続けに起こしており、今回は5回目の事故だった。あまりにも事故が続くために、「紫雲」というのは「臨終時に仏様が迎えにくる雲」だと囁かれ、ある人は「死運丸」とも呼んでいた。

ちなみに、この最後の事故を機に紫雲丸は改名され、以後10年以上、廃船まで無事故で運行されている。



◎甚之丞の先見


「あの事故がキッカケで、この橋(瀬戸大橋)ができたんだよね」と、土地の人は話す。

かつて、ホラ話だと思われていたェ之丞の話には、こうあった。「塩飽諸島を橋台となし、山陽鉄道に架橋連結せしめなば、常に風雨の憂ひなく…」。

塩飽(しわく)諸島というのは、のちの瀬戸大橋の橋桁が置かれた諸島のことであり、それを足場にして本州の鉄道と繋げれば、海の悪天候に左右されることなく、安全に往来が出来るようになる、とェ之丞は力説していたのであった。

塩飽(しわく)は「潮が湧く」に由来するとも言われるほどに、海の潮が複雑に入り組む海域であり、その航行は常に危険と背中合わせであったのだ。



◎塩飽水軍を育んだ荒い海


戦国時代に織田信長や豊臣秀吉に重宝された「塩飽水軍」というのは、塩飽諸島の複雑な潮の流れに鍛え抜かれた、戦国屈指の船乗りたちのことである。

彼らの名が天下に轟いたのは、秀吉の全国統一の総仕上げとなった北条氏・小田原攻めの時。小田原に向かった船舶の多くが台風により避難する中、塩飽水軍ばかりは奮然とその怒濤を乗り切って、見事期日どおりに兵糧米を秀吉に届け得たのであった。

以後、その功により島民650名は塩飽諸島の自治を認められた。当時、領地を持てるのは大名か小名かに限られていたにも関わらず、彼らは領地をもらったということで、特別に「人名(にんみょう)」という呼び名も与えられている。



江戸時代に入っても、徳川家康より特権を安堵され、年貢や漁場からの収益なども幕府に納める必要はなく、島で自由に使用することが認められていた。

彼らの卓越した操船技術は衰えることなく、新井白石をして「塩飽の船隻、特に完堅精好、他州に視るべきに非ず」とまで言わしめている。また、江戸最末期、勝海舟や福沢諭吉などを乗せてアメリカへと太平洋を渡りきった「咸臨丸」の水夫は、その7割が塩飽の島民であった。





そして、修学旅行生たちを乗せて紫雲丸が沈んだとき、その救助に駆けつけた漁師・島谷国太郎は、その塩飽水軍の技を受け継ぐ者であった。



◎夢、成る


悲しい事故を乗り越えて、100年ごしのェ之丞の夢が実現した瀬戸大橋。

その開通式の日には、「クワ踊り」なる伝統的な踊りが披露された。クワを持って舞うその姿は、工事現場で甚之丞がクワを振るっていた姿を表すものであるという。

地元の人々は、土地の偉人である甚之丞を讃えてやまない。 「きっと、ェ之丞さんも、空の上で踊っているに違いない…」

そして、その100年来の夢の橋は、堀田哲男さんをはじめとする優れた守人たちの手によって、完璧に整備され続けている。その夢をもっともっと遠くの空まで伸ばすために…。



◎流れ出たもの…


瀬戸大橋は本州と四国の往来の安全性と利便性を高め、その心理的な距離をグッと縮めてくれた。しかし、このグローバル化によって、島の若者たちは次々と島を離れていくことにもつながった。

また、塩飽水軍以来の操船技術も、その活躍の場を失っていった。かつては12のフェリー会社が24時間往来していた時代もあったのだが、瀬戸大橋ができて以来、その需要は激減し、12社中じつに10社までもが倒産してしまったのだ。



かつて国を閉ざしていた日本が、その門戸を諸外国に解放した時、得たものも多かった反面、失ったものも多かったに違いない。世界がつながり、広くなるということは、きっとそういうことなのだろう。

今では、塩飽諸島に暮らしていても昔ほどの不便さはない。瀬戸大橋に乗っかれば、あっという間に本州の街まで行けるのである。それでも、島に暮らす年輩の方々は、昔と同じように物や食物を大切にする。

「買うたって安いけど、自分で作っとればできるやろ」と言うのは、岩本ユキ子さん(77)。ユキ子さんの菜園で毎年実るスイカは子供たちの大好物だ。岡崎加壽美さん(67)は、毎年観音様にお供えする花を自分で栽培している。この島には三十三の観音様がいて、それを島外の人々が大勢お参りにやってくるからだ。

昔は麦一粒とて粗末にはできなかったと、彼女たちは言う。閉ざされた島の暮らしの基本は自給自足であり、その恵みは限られたものであったのだ。



◎島の心


瀬戸大橋を200年保たすといって頑張っている堀田さんの心意気も、島の生活で育まれたものなのかもしれない。

思えば、日本の歴史はそうした島の歴史である。そして、そこに芽生えた心はモノの大切さを身体で分かっていたのではなかろうか。この点、塩飽諸島は日本全土の縮図のようにも思える。



塩飽諸島が瀬戸大橋で外の世界と直結したように、今や日本という島国は世界のあらゆる国々とつながっている。そして、その無数の道からはあらゆるモノが流れ込んでくる。と同時に、外へ流れ出るのも容易である。

道が通じて間もない時は、ひょっとしたら流れ出るものの方が多いのかもしれない。しかし、その流出も極まれば、逆に流入も起こり、いずれはあるバランスに落ち着くのであろう。



◎戻りつつあるもの


瀬戸大橋ができて24年。その潮の流れには少々変化が起き始めている。故郷の島々の魅力がふたたび若者たちを魅了し始めているのである。

塩飽のある島では、減り続けていた漁師がふたたび増えはじめ、10代20代の若者たちが2割を占めるほどになっているという。本州へ憧れ、島を離れた若者たちは、一度島を離れることで島の魅力に気づかされたのだという。



失わなければ気付かないことは、思いのほか多いのかも知れない。

海に閉ざされた島国・日本は外の世界に対する憧憬はことのほか強い。しかし、それでもこの島国に育まれた想いは、なお捨て難し。



「瀬戸大橋は外に出るツールでもあるし、また帰って来れるツールでもあります。この橋はそんな幅を広げてくれるものなのです」

行くもよし、帰るもよし。広がった世界を楽しむもよし。

落ち着く先があるということは、きっと幸せなことなのであろう。




プロジェクトX 挑戦者たち
男たち不屈のドラマ 瀬戸大橋
〜世紀の難工事に挑む〜 [DVD]




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出典・参考:
NHK 新日本風土記 「瀬戸大橋」
大久保ェ之丞
潮待ちの港・塩飽本島
本四高速 瀬戸中央自動車道
posted by 四代目 at 20:16| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月19日

大国の波間をスイスイと生き抜く「キプロス」


不思議なことに、「キプロス」という国はこの地球上に2つある。キプロスという「島」は一つしかないにも関わらず…。

キプロス島という島は、地中海では3番目に大きな島といえども、その面積は「四国の半分」しかない。つまり、島としては大きいが、国としては小さい。そして、その島の上に住む国家が南北に分かれたことにより、さらに小さくなってしまっている。





◎北はトルコ、南はギリシャ


キプロス島の北部には「トルコ人」が住み、南部には「ギリシャ系の人々」が暮らす。かつては島全域にわたって混在していた両民族は、今では水と油のようにキレイに分かれ住んでいる。

面白いのは、両国の首都がちょうど南北の境界線上にあり、仲も良くない両国がその首都を仲良くシェアしていることである。トルコ人はその首都を「レフコシャ(トルコ語)」と呼ぶが、一般的には「ニコシア」で知られる都市である。



そのニコシアの街の真ん中には「線」が引かれ、二世帯住宅ならぬ、二国家首都という世界で唯一の奇妙な状態に置かれている。

その奇妙な様は、かつてのベルリン(ドイツ)を彷彿とさせるものであり、そして、他国の都合によって南北に袂を分かった姿は、朝鮮半島を思い起こさせるものである。





◎並みいる大国の寵愛


太陽あふれるキプロス島は、時の権力者たちにとって余程、魅惑的に輝いていたらしい。歴史上においても、この島ほど幾多の大国によって可愛がられた島も珍しい。

キプロス島の歴史を紐解けば、その支配国の一覧はキラ星のごとく蒼々たるメンバーのオンパレードである。古くはヒッタイト、アッシリア、エジプト、ペルシャ、ローマ…、近世に入ってからはオスマントルコ、イギリス…。

軍事的・交易的にも重要な「中継地点」であったキプロス島は、あたかも地中海に浮かぶ根無し草のように、あっちの大国、こっちの大国へと極めて柔軟に立ち位置を変えてきたのである。

日本で言えば、沖縄という島が日中・両大国の板挟みとなった歴史をもち、軍事戦略的にアメリカが決して手放そうとしないように…。



◎ロシアとイギリスの上陸


支配者は時の流れとともに代わっていったとはいえ、この島は一貫して「ギリシャ人」の島だったと考えてよい。そこにトルコ人が入ってきたのは、日本が戦国の国盗り合戦を繰り広げていた頃、オスマントルコの支配を受け入れて後の話である(1571)。

その後300年間ほどは、なんだかんだとギリシャ・トルコの両民族はこの島で同居を続けていた。100年単位の時の流れは、それなりの融和をももたらすものなのであろう。



その馴染みつつあった水と油がお互いに反発し出すのは、新たな時の大国、ロシアとイギリスの関与が始まってからである。

氷の国のロシアは凍らない港を求めてオスマントルコにまで南下してきて、戦闘を開始(露土戦争・1877)。ロシアの勝利に終わる。その後、戦争に敗れて弱ったオスマントルコにイギリスが救いの手を差し伸べて、うまうまとキプロス島を植民地としてしまう。

こうして、キプロス島には新たにイギリスとロシアが上陸し、現代に至る基盤を築いていくことになる。



◎イギリスによる法整備


キプロス島に古くから住んでいたギリシャ系の人々にとって、ロシアとイギリスの関与はある意味好ましいものでもあった。なぜなら、キリスト教(ギリシャ正教)を信奉する彼らにとって、オスマントルコのイスラム教だけは受け入れ難いものだったからである。

この点、イギリスは由緒あるカトリック、ロシアはロシア正教と、宗教的にはイスラム教よりもずっと安心感があったのである。



植民地時代も悪いことばかりではない。キプロスの経済は商売上手なイギリスの手によって整備され、「英語の通じるギリシャ」とまで言われ、海外からも盛んに投資されるようになる。

こうして、キプロス島は地理的には中東に近いといえども、その内実はぐっとヨーロッパに近づいた。その最大の成果がEU加盟(2004)であり、キプロスの通貨はユーロとなり国際的な信任を得られるようになったのである。



◎ロシアン・マネー


この整備された法制度に巧みに乗っかってきたのがロシアの富裕層。ソ連の崩壊にともなう国内の大混乱の中、お金に思いっきり余裕のあるロシア人たちが、その有り余る大金をキプロスの金庫に隠し込んだのである。

キプロスの法人税率は10%と、EU加盟27カ国中で最も低い。さらに会社法などはロシアよりもしっかりとした保障があるので、税の逃げ道(タックスヘイブン)としては最高の場所である。さらに、英国法に準拠した法律、ならびに国際通貨ユーロがその最強の後ろ盾である。



お金ばかりではなく、ロシア人自身もキプロス島に大挙してやって来た。氷の国に暮らしていた彼らにとって、太陽あふれるキプロスはまさに南国の楽園。いまだにロシア人観光客は増え続け、過去最高を更新し続ける勢い。南部の高級リゾート地リマソルの別名は「リトル・モスクワ」である。

そんなこんなで、キプロス島には60万人ものロシア人が住み着いている(島全体の人口が100万人もいないのに!)。そして、流れ込むロシアン・マネーは500億ドル(4兆円)とも。ちなみに日本の税収は40兆円。日本の人口がキプロスの100数十倍であることを考えると、その膨大さが窺い知れる。

その結果、キプロスの金融は小国に似つかわしくないほどに巨大化し、とんでもなく頭デッカチにもなってしまった。



◎陸の孤島となった島北部


キプロス島民の感情はどうあれ、イギリスとロシアのもたらした恩恵は、その経済を大きく飛躍させることとなった。

だが、その恩恵の置いてけぼりを食ったは、島の北キプロス。トルコに支配され続けたキプロス島北部の経済は、トルコの通貨リラを使っていっため、そのインフレの影響をもろに食らうなどして、一向に発展する気配はなかった。

その南北の差は時が経つごとにグングンと開いていき、ついにはGDP(国内総生産)で3倍もの格差となってしまった。あたかも、北朝鮮と韓国が同じ半島に位置しながら、その国境線を境にして、まったく色が異なってしまったように…。



世界中で北キプロスを国家として認めるのは、その支配者であるトルコ一国のみであり、その逆に、南キプロスを国として認めないのも、トルコ一国のみである。

日本政府に言わせれば、北キプロスというのは「トルコ軍による実行支配地域」に過ぎないのである。この日本の見解は世界共通のそれでもある。



◎トルコ軍の乱入、そして分断


キプロス島が南北に分断されたのは1974年。イギリスから独立して15年後のことであった。

当初は島全体の独立だったはずが、その独立が民族魂に火をつける結果ともなり、300年来混住していたトルコ人とギリシャ系民族が決裂してしまったのである。

初めにクーデターを起こしたのはギリシャ系。そして、その混乱を受けて島に乱入してきたトルコ軍が島北部を占領。その後、トルコ軍の占領地域となった島北部は、一方的に独立を宣言することになる(1983)。

キプロス島を巡る一連の騒動は、ギリシャとトルコの代理戦争でもあった。ギリシャの支持する南のキプロスには、キプロス好きのロシア軍の地対空ミサイルも配備されそうになったが、さすがに国際社会の批判を浴びて撤回された。



◎南キプロスに先を行かれたトルコ


キプロス島の南北分断以来、ギリシャとトルコの国際関係は一進一退、いまだ融和への道のりは遠い。

トルコはEU加盟という悲願がありながら、すでに加盟国のギリシャはそれを決して許さない。その逆に南キプロスがEUに入ろうとするのを、トルコは決して許さない。

しかしトルコには残念ながら、南キプロスは2004年にトルコの先を越して、EUへの仲間入りを果たす。これにはトルコも地団駄を踏むより他になかった。国際社会はつねに南キプロスの味方なのである。トルコがキプロス問題を抱え込んでいる限り、トルコがEU入りすることはまずないと考えられている。



トルコの支配する北キプロスの面積は、日本でいえば長野県か千葉県程度の大きさに過ぎない。しかし、トルコが固執するこの小さな地域があるがゆえに、トルコはその行く道をすっかり阻まれてしまっている。

トルコにとっての北キプロスは、中国にとっての北朝鮮のように、厄介な火種でありながら実益は少ない。それはまさに、肉は少ないが捨てるには惜しい「鶏肋(ニワトリの肋骨まわり)」なのである。

※「鶏肋(けいろく)」とは、中国「三国志」に見られる故事。その逸話において、大国・魏の曹操は守るに守りにくく、それほどの実益もない漢中という領土を結局は放棄している。



◎ギリシャ金融の核爆発


南のキプロスには悔しい思いばかりをさせられていたトルコにとって、胸をつかえが取れるような悲劇が南キプロスを襲った。

それはギリシャの金融危機であった。

南キプロスほどにギリシャと密接に関わっていた国は他にない。何よりも南キプロスの住民はギリシャ人なのであるから。

その財務省はこう表現している。「ギリシャで金融の核爆発が起こり、我が国がその爆発に巻き込まれた最初の国となった」と。ギリシャ国債のデフォルト(自発的なヘアカット)により、キプロスの銀行はGDP比で25%に相当するほどの大被害を受けたのである。



◎揺れるキプロス


ロシアン・マネーを始めとする海外投資は、キプロスの金融を頭デッカチにしていた。そして、その不安定に大きな頭がギリシャによって、ユッサユッサと揺すられ続けた。しかも数年にわたって。

倒れそうになったキプロスは、たまらずロシアに支援を求めることとなった。その求めを快諾したロシアは昨年25億ユーロ(2500億円)をキプロスに融資した。

それでも頭は揺れ続ける。キプロスは最後の頼みの綱であるEUにも支援を要請し、ユーロ危機以来、EUに支援を求めた5番目の国家となった。





◎EUよりもロシア


ところで、なぜキプロスは最初からEUを頼まなかったのだろうか? 同国の通貨がユーロであるのに、なぜロシアに先に助けを求めたのだろうか?

その答えは、「EUは厳しすぎる」というものだ。EUが金を貸す時には決まって「厳しい条件」が欲しくもないオマケとして付いてくるのである。

たとえば、EUはアイルランドを支援する条件として、法人税の引き上げを求めている。キプロスは法人税の低さによって、海外投資を招き入れているため、その増税は意に反するものなのである。



その点、ロシアは寛大である。ドイツほどに厳しくはない(ドイツほどにお金はないかもしれないが…)。

さらに現在のキプロス大統領(ディミトリス・クリストフィアス)は、EU首脳の中では唯一ロシア語を流暢に操るロシア通でもある(旧ソ連で教育を受けた経歴をもつ)。それゆえ、ロシアとのパイプも太いのである。



◎資源なき悲しさ


歴史上、大国の間で揺れてきたキプロスは、今世紀に入り、ふたたび揺れ動き始めている。

過去の歴史と異なる点は、島が南北に二分された状態で揺さぶられていることである。裂け目が入ったままのキプロス島は、揺れるたびにその亀裂の口を大きくしている。トルコが、ロシアが、そしてEUが…、その口に手をかけて…。



そもそも、キプロス島が大国に依存せざるを得ないのは、この島に資源がないからでもある。この点は日本と同じである。

日本が工業生産の道を選んだのに対して、キプロスは観光の道を歩んだ(GDPの70%を観光を含むサービス業が占める)。それゆえ、国内でモノを作らないキプロスはモノを外国から買うしかない。

その結果が、圧倒的な輸入超過。売るよりも買うほうが3倍以上も多いのだ。この体質は赤字を招き、なし崩し的に海外資本への依存を生んでしまった。



◎夢の資源


昔々は、「銅」がよく採れたというキプロス島。銅のラテン語名である「Cuprum」は、「Cyprus(キプロス)」に由来するとも言う。

紀元前3000年以来、およそ5000年もの歴史を持つというキプロスの銅山は自然銅が枯渇した後も、黄銅鉱から銅が抽出されてきた。しかし、現在の経済規模において、その鉱山はもはや意味を成さぬほどの小ささである。



もし、海の底にでも資源があれば…。

そんな夢を見ながら、地中海を眺めていたキプロス。なんと、その夢が現実のものとなりつつある。水平線のかなたから天然ガスの香りが漂ってきているのである。

その海底資源の発見に狂喜したシリアル財務省は、夢のまた夢を見ている。「一日が過ぎるごとに、天然ガスの香りが近づいている。その香りは美しい」。



ラテン気質というのは、根っから楽観的なものなのであろうか。同国が金融危機の渦中にあり、その財政が火の車にも関わらず、明るい未来を夢想できるのだから。

シリアル財務省が語るところによれば、2017年にまでキプロスは天然ガスを生産するようになり、2019年には輸出にも回すほどになるのだという。



◎楽天的な大ざっぱさ


そんな楽観的な明るい未来は大変結構なものの、現在のキプロスは自国の電力さえも賄いきれていない。

というのも、国内最大の発電所(ヴァシリコス)はちょうど一年前に大爆発を起こして、国内の発電量の半分近くが失われ、いまだに完全復旧には至っていないのである(2013年中には普及の見通し)。

その爆発の原因は大変不始末なもので、発電所の裏手に積んだままで数年間放置されていた爆薬が火を噴いたのである。しかも、その爆薬は国連との約束を破って、イランからシリアに向かっていたものであった。ロシアと関係の深いキプロスには、そんな暗い陰もあるのである。



◎小さな湾岸地域


キプロスが見る資源国の夢は、南北に割れた島を一つにする希望となるかもしれない。

しかし、どうやらキプロスの海周辺は新資源を巡って「小さな湾岸地域」の様相を呈しており、どちらかというと島の裂け目は大きくなる気配を見せている。

さっそくいつも通りにトルコが難癖をつけており、キプロスが持つはずの海底採掘権の一部に異議を唱え始めている。さらにはトルコと犬猿の仲にあるイスラエルが、敵の敵は仲間ということで、キプロスに急接近している。当然、天然ガスの香りをかぎつけて。



もし、楽観的なままにキプロスの天然ガスが採掘されるのであれば、それはヨーロッパを安定させる重要なエネルギー源となりうる。

しかし、悲観的な方に話が進むのであれば、その燃えやすい天然ガスは、ふたたびこの地域を「火薬庫」ともしてしまいかねない。今までよりも、さらに引火性を強めて。



◎何とかなるさ〜


なるほど、キプロスという島はいつの時代にも「重要な島」であり続けるわけだ。幸にも不幸にも、世界はこの島を放っておかないようである。

キプロスへやって来る観光客は、俗世から離れることを望んで、この島を目指すのかもしれない。しかし、この島自体が俗世を離れることは決して許されていないようである。

Source: google.nl via Lydia on Pinterest





それでもキプロスの海は美しい。

未来がどんな形になるのであれ、キプロスはどんなに美しい海でも荒れることがあることを知っているはずである。実際、この島は歴史上の荒波に揉まれながらも、それらを見事に処してきたのである。

もしかすると、この島の楽観的な人々は、この荒波をすら楽しんでいるのかもしれない。「何とかなるさ〜」とでも口ずさみながら…。







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出典・参考:
キプロス:「緊縮」迫るEUに不信感 域外のロシアに傾斜
ロシア人金持ちの隠れ蓑、キプロス

posted by 四代目 at 12:14| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする