2016年11月08日

みんなのダルマさん[高橋是清]


「あぶない!」

爆走する暴れ馬。

その先には、4歳の男の子が…。



バーン!

狂馬に吹きとばされた4歳児。

誰もが青ざめた。



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ところが…、

その子はなんと無傷。

のちのダルマ宰相「高橋是清(たかはし・これきよ)」、4歳のときのエピソードである。



彼は自伝に、こう書いている。

「私は子供の頃から幸せ者だ、運のいい者だと深く思い込んでおった。それが私を『生来の楽天家』にした原因じゃないかと思う『高橋是清自伝』)」







江戸に生まれた是清であったが、生後まもなく仙台藩の武士、高橋覚治の家へ養子にだされる。

そして江戸時代、最後の年、慶応3(1867)年、当時12歳の是清に大きなチャンスが与えられる。仙台藩がアメリカへと派遣する留学生の一人に抜擢されたのだ。



アメリカの大地に降りた是清。

さっそく手ひどい洗礼を受ける。悪質な契約書に、うかとサインをしてしまい、奴隷同然の労働を課される羽目になってしまったのだった。

是清は言う。

「私は疲れた体をベッドに横たえる時、これから一体どうなってしまうのだろうと、泣き明かしたことが度々あった『高橋是清自伝』

そして悩む。

「もし私が逃げ出したりしたら、それは契約違反だ。事態は一段と難しくなって周りにも迷惑をかけてしまう『高橋是清自伝』



数ヶ月後、是清はある一策を案じる。

ともにアメリカに渡った仙台藩士らとともに、日本の領事館へと駆け込んだ。そして奴隷のような契約を結んでしまった相手、ヴァンリードという役人に契約の破棄を迫り、認めさせてしまった。

このとき是清、わずか14歳。英語という外国語を駆使し、アメリカの役人に契約破棄を承認させるとは、なんたる機智であろうか。

是清は言う。

「わたしの言う『楽天』の意味は、そうのうちどうにかなるであろうとか、棚からボタ餅式に幸運が落ちてくるのを漫然と待っているとかいうような意味の楽天ではない。自分の全身全霊を傾けて最善を尽くす。あとは天に任せるのみである(高橋是清『随想録』


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是清が日本に帰国したとき、日本は文明開化、明治の世になっていた。

是清は得意の英語を駆使し、その10代を翻訳業や英語教師として過ごす。ちなみに、正岡子規や秋山真之らは、是清の教え子たちである。



明治13(1880)年、是清26歳のとき、うまい儲け話がころがりこむ。今後、かならず銀が値上がりすると耳打ちされたのだった。

しかし残念ながら銀の値はいっこうに上昇せず、是清は結局、5,000円を失うことになる。当時の5,000円は現在価値で2,000万円に相当する大損であった。

「ひどい目にあった」と是清は悔いた。と同時に、「ひとつ相場というものを研究してみたいという考えが起こった『高橋是清自伝』」。



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大損から一転、なんと是清、みずから米相場の仲買店を立ち上げてしまう。

当時、経済の知識が無に等しかった是清であったが、毎日、米の相場とにらめっこ。その動向、仕組みを貪るように吸収していった。

米の価格は日々、小刻みに変動していく。だが、じっくりと腰を落ち着けて眺めてみると、その背後には大きな流れが感じられた。是清の言う「根本」というものが見えてきた。



こうして是清は、小さな経済よりも、より大きな国全体の経済に目覚めた。海外の専門誌まで取り寄せて勉強したという是清。またたくまに経済の専門家へと成長を遂げた。

そして34歳のとき、新たな儲け話が舞い込んでくる。南米ペルーのある鉱山に、良質な銀が大量に眠っているというのだ。しかし、2度あることは3度ある。是清が実際ペルーに着いてみると、その鉱山は100年間掘りつくされた廃坑であったことが判明する。多額の借金だけが是清の手土産となってしまった。

のちに「財政の神さま」と崇められるようになる高橋是清であるが、若い頃はまだまだ形無しであった。



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ペルーから戻った失意の是清は、日本銀行で働きはじめる。

是清は言う。

「わたしは役人を長年やっていたので、実業界に転じるにあたっては丁稚奉公からたたき上げねばならぬと考えております『高橋是清自伝』

ペルーでの大失敗は、現場を知らぬことにあった。そこで是清は、現場から学び直すことを決意したのであった。

「元来、仕事そのものに軽い重いはないものであるが、虚栄の心があるとそれがわからなくなってしまうのである。どんなささいな仕事でもおろそかにしてはならぬ(高橋是清『随想録』



ある日、現場の職人たちが騒然としていた。骨組みの鉄棒が足りないというのだった。そして、大慌てで大量に発注していた。

是清はふと倉庫に入ってみると、職人たちが「ないない」と騒いでいた鉄棒が、そこに大量に眠っているではないか。是清は唖然とせざるをえなかった。現場レベルでは日銀ですら、基本的な在庫管理というものができていなかったのだった。



日銀ビルの建築現場では、また別のことが問題になっていた。

予算がまったく足りていなかった。そこで建築家の辰野金吾は、総石造りをあきらめ、2階部分は安いレンガで代用しようと設計を変更した。ところが当時の日銀総裁は、その変更に激怒。国家の威信をかけた建物は、断固、総石造りでなければならないと言うのであった。



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理想を曲げようとしない上層部、そして十分に予算を与えられない現場の人間たち。その両者の立場を経験していた是清は、双方の事情がよく見えていた。そして打開策が頭にうかんだ。2階のレンガ部分の外壁として、薄い石を貼り付けるという妙案だった。結果、見た目は総石造りそのもので、見事予算内におさまった。これが現在の日銀本館である(石積みレンガ造り、花崗岩貼り)。

のちのことであるが、高橋是清は日銀の副総裁、総裁を歴任することになる。






日露戦争が起こったのは、明治37(1904)年、是清49歳のとき。

2月の開戦からひと月半後、是清はロンドンへ飛んだ。戦費を調達するためだった。日本のおよそ10倍の国家予算をもつロシアを向こうにまわしては、日本経済が破綻する恐れがあったのだ。

ロンドンでの戦費調達は、日本の国債をどれだけ売りさばけるかにかかっていた。しかし、ロンドンでの日本の評判はすでに芳しくない。「大国ロシアに貧しい日本が噛みついた」と、銀行をはじめとする投資家たちは見向きもしてくれなかった。



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それでも是清はロンドンの銀行を毎日、訪ね歩いた。

目標額は一億円(現在価値にして約3,000億円)。日本の戦費はすでに底を尽きかけ、政府からは催促の電報がひっきりなしに是清のもとへ届いていた。

この切迫した状況のなか、是清はあえて時間をかける作戦にでた。というのも、開戦前から日本国債は暴落をつづけており、すぐに販売できるような信用がまったくもってなかったからである。

是清は銀行家たちに、こんな話をしていた。

「日本人は家族を基礎として、社会の結束が非常に強いのです。礼儀を重んじ、忍耐強く物事に取り組む武士道の精神があります『高橋是清自伝』

じっくりと時間をかけて、日本人の信頼を高めようとしていたのである。



日本の戦況が思わしくない、ある日、一人の投資家が是清のもとを訪れた。

「日本には同情します。600万円なら投資しましょう」

常人なれば、手を打って喜んだことであろう。いまは一円でもお金の欲しいところだった。ところが是清は、

「お断りします」

と、その申し出を言下に断った。

是清は、そのときの状況をこう記している。

「相手を操るために腹芸をしなければならない事もある。それが相手に響いて『この態度では他と取引される』と相手を心配させることができれば、もうしめたものだ(高橋是清『随想録』

わずかな金額に、日本国債を安売りするわけにはいかなかった。それでは信用を下げてしまうことになってしまう。是清はあえて強気の姿勢をつらぬくことで、日本国債がさも有望であるよう演出したのであった。



日本とロシアの激戦は、海戦から陸戦へとうつっていた。

「体格の貧弱な日本人は、陸戦でロシアに勝てない」

陸戦における日本人の評判は、まったく振るわなかった。



ところが、鴨緑江で奇跡がおこる。

弱小とみられていた日本軍が、ロシアの強大な騎馬軍団を蹴散らしてしまったのである。

ここに世界の常識がひっくり返り、ロンドンの投資家たちも「もしや…」と考えはじめた。



「いまだ!」

是清は一気に攻勢にでた。

くどいほど銀行を訪ね歩いていた是清のもとに、投資が殺到した。投資家たちは、いつの間にか日本人を信用するようになっていたのである。

目標の一億円は、わずか一週間で達成。その後3年で、是清は10億円の国債を売りさばいてしまった。



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無事に使命を果たしたことで、是清は有頂天になってもよかった。しかし是清はずっと冷静だった。

「借りた金は返さなければならない」

10億円という借金(国債)は、当時の日本のGNPの30〜50%を占めるほど膨大な額だった。どうやって返していくか、借金が成功した瞬間から、是清は今後の経済運営を考えはじめていたという。



56歳で日銀の総裁になった高橋是清、その2年後には大蔵大臣(以後、7回つとめる)。そして67歳で総理大臣にまで登りつめた。

72歳で政界を引退した是清は、隠居生活にはいった。

じつは、是清が国民から絶大な人気を得るのは、このあとの話である。



昭和4(1929)年、アメリカ発の大恐慌が、日本を直撃。失業者が町にあふれ、わが子を身売りしなければならないほど、悲惨な状況が日本を覆い尽くした。

時の首相・犬養毅は、ここに是清を呼び戻した。是清、77歳のときである。

大蔵大臣を拝命した是清は、次々と革新的な経済政策を打ち出す。まずは国債を大量に発行し、大胆すぎるほど公共事業に資金を注入した。とにかく雇用を生み、冷えきった景気を回復させることに全力をつくしたのである。

それから4年、日本は世界のどの国よりも早く、世界恐慌から抜け出した。「財政の神さま」はこうして誕生したのであった。







さらに国民の人気を決定づけたのは、是清による「軍事費の削減」であった。

軍事費に手をつけるのは、まったくのタブーの時代であった。昭和6(1931)年の満州事変以来、軍拡、軍拡で、ついには国家予算の半分にまでが軍事につかわれるようになっていた。

当然、軍事費削減に猛反発する軍部。是清は陸軍大臣・川島義之に正面きって言った。

「軍備といえども国力、すなわち国民の経済力にふさわしいものでなければならぬ」



軍部との攻防は8日間におよんでいた。

「こうなるともう、政治問題というよりはむしろ、体力問題だ」

21時間にわたった交渉最終日、首相官邸はほのぼのと明けはじめた。

当時の新聞には、こうある。

「以外にも、安政元年生まれ、当年82歳の高橋蔵相が遂に押切った」

「八十二翁の頑張り 耐久王・高橋さん 充血で危機線突破」

「『高橋さん、どうぞお休みください』と気付のウイスキーで赤くなった岡田首相は、やきもきしながら口説きにかかったが、『奇跡の達磨』のごとく厳然たる高橋翁は『ナーニ、議会の連中を相手に夜の十一時、十二時まで引張られる事を思えば、ずっと楽です』と…」



是清の軍事費削減を、国民はこぞって賞賛。

是清が官邸を出ると、いっせいに万歳の嵐。

「奇跡のだるま!」

国民の生活を良くするためには何が必要か、この一事を是清は考え抜き、そして実行したのであった。







その3ヶ月後、奇跡のダルマは軍部の凶弾に倒れる。

ニ・ニ六事件である。

「大蔵大臣・高橋是清、死す」







是清の葬儀には、数千人の市民が押し寄せた。

当時の新聞には、こう記されている。

”ぎっしり並んで「我らの高橋さん」を見送る町民、電車もバスもみな停車して、国民の心からなる哀悼の意を、古翁の霊にささげる”










(了)






出典:NHK知恵泉「高橋是清」



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2015年10月18日

ダビデとゴリアテ、史上最大の番狂わせ



旧約聖書の時代、建国したばかりのイスラエル王国に、好戦的なペリシテ軍が海を越えて攻めて来た。

イスラエル王国の初代サウル王は、宿敵たるペリシテ人を迎え撃つべく、住んでいた山岳地帯を下った。



両軍は、シェフェラ(現パレスチナ)のエラ谷を挟んで睨み合った。どちらも動こうとしない。谷底まで下りて、ふたたび登って敵陣に攻めかかるのは自殺行為に近かった。

先にしびれを切らせたのは、好戦的なペリシテ人。一人の屈強なる兵士が谷を下ると、こう怒鳴った。

「誰か一人でてきて、俺と対決しろ!」

この巨漢の兵士、ゴリアテは身の丈2メートルを超える大男。その迫力に圧倒されたイスラエル軍は、誰ひとり動くことができなかった。



息つまる静寂のなか、小さな羊飼いの少年、ダビデが一歩前に出た。

イスラエルのサウル王は驚いた。

「おまえはまだ子供ではないか。百戦錬磨のゴリアテには到底かなわない」

しかし、少年ダビデの意志は固かった。

「ライオンや熊に羊をさらわれたときも、わたしは後を追いかけて猛獣を倒して、羊を取り返しました」

こう言われては、さすがのサウル王もダビデ少年を止められなかった。

羊飼いの少年ダビデは、ひとり谷を下りた。



巨兵ゴリアテは一騎打ちのために完全防備しており、頭から足先まで青銅の鎧で覆い尽くしている。武器はすべて接近戦用。歴史家モシェ・ガーシールはこう記す。

「短い投げ槍には、太い柄の先に長く重たい鉄の刃がついている。この槍をゴリアテの強靭な腕で投げれば、青銅の盾も鎧も突き通すだろう」

一方のダビデ少年、鎧はおろか、剣すら身に帯びていない。羊飼いの杖を片手に、肩からは丸石を5個ばかり入れた袋を下げている。

そのダビデの軽装に、巨人ゴリアテは憤った。

「棒切れ一本で向かってくるとは、犬並みの扱いだな!」







現在に伝わる「ダビデとゴリアテ」という慣用句は、この史上有名な決闘が元になっている。その意味は「ありえない勝利」である。

巨人ゴリアテは古代の慣習どおり、一騎打ちを挑んだ。それ以外の戦いの形は考えなかった。それゆえの完全防備、近接武器であった。古代の軍隊には3種類の兵士がいた。馬にのる騎兵、鎧に身を固める歩兵。弓や投石器をつかう擲弾兵(てきだんへい)である。この3種のうち、ゴリアテの装備は「歩兵」、しかも重装歩兵であった。

対する少年ダビデは、投石器をもった「擲弾兵(てきだんへい)」。投石器とは、ロープにくくりつけた革の袋で、その中に石を入れて振り回し、石を遠くへと投げる。たかが石と侮ることなかれ。その名手ともなれば飛ぶ鳥をも打ち落とし、はるか遠くに辛うじて見える硬貨にさえ命中させる精度をもっていたという。旧約聖書の士師器には「髪の毛一筋」の正確さで名手は投石器を操ったとある。







重歩兵ゴリアテに向かった、軽妙なる投石手ダビデ。

ゴリアテは大声をあげた。

「かかって来い! おまえの肉を、天の鳥や地の獣にくれてやろう」

この挑発の言葉が終わるのも待たず、ダビデは走り出していた。投石器をグルグルと振り回しながら。

ダビデは言った。

「おまえは剣や槍でわたしに向かって来る。だが、主は救いを賜るのに、剣や槍を必要としないことを、ここに集まった全ての者が知るだろう」

ダビデの革袋を離れた丸石は、瞬く間にゴリアテの額に的中した。そこは唯一、青銅の鎧で覆われていない急所であった。







現代イスラエル軍の弾道学者、エイタン・ヒルシュはこう計算する。

「熟練投石者が35メートル離れたところから石を発射すると、時速120kmの速さに達する」

あたかもメジャーリーグの投手が、バッターの頭めがけてボールを投げたようなスピードだった。しかもそれは野球のボールではない。もっとずっと硬い石である。



巨人ゴリアテの額に命中した投石は、頭蓋骨にめり込んだ。

倒れたゴリアテに、ダビデはすかさず駆け寄り、ゴリアテの剣を奪って、巨人の首を宙に跳ね飛ばした。

谷を挟み、固唾をのんで見守っていた両軍はどよめいた。誰ひとり、貧弱なダビデが勝つなどとは思ってもいなかった。



「ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した(サムエル記)」

ここに伝説は成った。

どう見ても勝ち目のなかった弱者が、圧倒的な強者を打ち負かしたのであった。



歴史学者ロバート・ドーレンベントはこう言う。

「ゴリアテに勝ち目はなかった。青銅器時代の戦士が、45口径ピストルを持った者に立ち向かったようなものだったのだから」

後講釈ならばいくらでも、ダビデの勝利を後付けできるだろう。しかし、リアルタイムで戦場にあった者たちは、ゴリアテに勝ち目がないなどとは夢にも思えなかった。

それでも羊飼いの少年ダビデばかりは、その勝利を見据えていた。彼はサウル王にすすめられた鎧兜を断っている。「着けると動けませんから」と。サウル王は唖然とした。古代の常識として、一騎打ちに鎧は必須。至近距離での戦闘が当たり前だった。

だがダビデの視点は違った。ダビデは決闘の慣例にしたがうつもりなど毛頭なかった。むしろ肉弾戦しか想定していなかったゴリアテが、投石手ダビデの目には”格好の的”に見えていた。その巨大な的は50〜60kgもの重りでつながれ、一歩も動かないのだ。これほど狙いやすい標的はなかった。



徒手空拳で走ってくるダビデを見て、ゴリアテは最初、せせら笑っていただろう。十分に近づいたら自慢の槍で突き通してしまおうと、仁王立ちになったままだった。

しかし、ぐるぐる回るダビデの投石器に気づいたとき、ゴリアテは当惑した。これは自分が想定した戦いではない、と。そして何が起こっているのか分からないまま、ゴリアテは一瞬の一撃に沈んだ。

現代イスラエル軍の弾道学者、エイタン・ヒルシュは言う。

「ダビデが投石器を構えてからゴリアテを倒すまで、一秒強だっただろう。その場にじっと立っていたゴリアテが、石をよける時間はなかっただろう」






マルコム・グラッドウェル(Maclolm Gladwell)は著書「ダビデとゴリアテ:David and Goliath(邦題:逆転!)」に、こう記す。

「ダビデとゴリアテの対決は、愚かで誤った思い込みだらけだった。その一つが、”力に対する思い込み”だ。サウル王が勝ち目がないと考えたのは、ダビデが小柄でゴリアテが巨人だったから。つまり、腕力のあるほうが強いと信じて疑わなかった。だが力は腕力だけではない。常識をくつがえし、すばやく意表を突くことも大きな力になりうる」

「イスラエル人たちはゴリアテをひと目見て無敵の戦士と判断したが、ほんとうの姿を見抜いてはいなかった。谷の上にいるイスラエル人たちには、ゴリアテは恐ろしい巨人に見えたことだろう。しかし実際には、ゴリアテの並外れた体格こそが最大の弱点だった。… ダビデは羊飼いだった。古代世界では最も下層に属する職業だ。彼は戦争の細かい流儀には無縁だった」

「私たちは長年、この逸話を誤った形で理解してきた。それを正しく語りなおしていこうというのが、この本(ダビデとゴリアテ、邦題:逆転!)だ」







話変わるが、2015ラグビーW杯で、小兵なる日本代表は巨人・南アフリカを撃破。「世紀のジャイアント・キリング」という大番狂わせを演じてみせた。

ラグビー日本代表のHC(ヘッドコーチ)エディ・ジョーンズは、決戦前、日本vs南アフリカを「ダビデとゴリアテの戦い」に喩えていた。

「彼ら(南アフリカ)はW杯史上最高の勝率を誇っている(過去4敗のみ)。経験豊富ですさまじいフィジカルを備えている。われわれはW杯最低の勝率(過去1勝のみ)で、W杯では最小のチームだ。普通は”槍”を持って戦うが、われわれは”他のもの”を手に戦う」

宣言どおりに南アフリカから大金星を挙げたあと、エディ・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)はこう明かした。

「南アフリカ戦は私にとって、人生を賭けた戦いでした。ヒントになったのは、W杯の前に読んだ、マルコム・グラッドウェルが書いた『逆転!』という本です。スポーツに限らず、番狂わせについて書かれた本ですが、自分たちが南アフリカに対して必要なのは、”相手が想像すらしていない驚きを用意することだ”と感じたのです」

「ラグビーは世界でもっともオーソドックスなスポーツです。保守的でもある。だからこそ、相手を驚かすことが有効です。たとえば、サプライズに直面するとひとは考え始めるものです。そして、相手が考え始めた瞬間、ラグビーというスポーツでは勝つチャンスが生まれる。それが実際に南アフリカ戦で起きたのです。そうなると、いつものプレーが出来なくなります。ラグビーは高速のスポーツです。考える時間はありません。状況に反応し、判断し、プレーする。南アフリカの選手には疑問が湧き、判断が遅くなった。… そして後半、残り20分の段階で同点だ。こんなはずじゃない、と(南アフリカ)はパニックに陥っていたはずです」







ふたたびマルコム・グラッドウェル
(著書『逆転!』驚くべき、小国の勝率)

「過去200年に起きた大国と小国の紛争の勝敗表をつくってみよう。人口および兵力に少なくとも10倍の開きがあることが条件だ。ほぼすべての人が、大国の勝率は100%に近いと予測するはずだ。10倍の開きはそう簡単に埋まらない。だが、正解を知ると、誰もが腰を抜かすに違いない。政治学者アイヴァン・アレグィン=トフトがはじきだした結果は、71.5%。3分の1弱の戦いで、小国が勝利している」

マルコムはつづける。

「アレグィン=トフトはさらに、弱いほうがダビデになったとき、つまり大国と同じ土俵に乗らず、常識はずれのゲリラ戦法を採用した場合も計算した。すると小国の勝率は、28.5%から63.6%に跳ね上がった。… 弱者が勝つことはありえない、私たちはそう思っている。だからこそ、ダビデとゴリアテの逸話は時代を超えて人々の心を打つのだ。しかしアレグィン=トフトの試算は、むしろその逆であることを示している」

ならばなぜ、弱者はダビデのような戦い方をやろうとしないのか?

「政治学者アレグィン=トフトは、この疑問につながる奇妙なパターンを発見していた。負け犬がダビデのように戦えば、たいてい勝利する。だがダビデのように戦う負け犬はめったにいないのだ。アレグィン=トフトによると、戦力に極端に差があった紛争202件のうち、弱い側が真っ向勝負を挑んだものは全部で152件、そして119件で敗北した」

というのも、ダビデのように戦うのは、真っ向勝負を挑むより「非常に大変なのだ」とマルコムは言う。

「そう、ダビデのように戦うには、死にものぐるいでなくてはならないのだ。相手よりはるかに劣っている以上、ほかに選択肢はない」







出典:
マルコム・グラッドウェル『逆転!
Number 特別増刊「桜の凱歌」エディー・ジャパンW杯戦記 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))



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2014年11月14日

変わりゆく「性」のかたち [The Economist]



いまから60年ほど前、イギリスの内務大臣は「同性愛を撲滅する(eradicate)」と誓った。

大臣の命をうけた覆面捜査員は、その手のバーを巡回し、同性愛者をワナにかけては刑務所に送り込んだ。



これはイギリスだけに限ったことではない。

1950年代当時、同性間の性交渉は「ほぼ全世界的に法的で禁じられていた(gay sex was illegal nearly everywhere)」。



中国では1980年代、同性愛者が一斉に検挙され、裁判もないままに収容所送りとなり、強制労働を課せられた。

The Economist「世界中の同性愛者が、恐怖の中でひっそりと暮らしていた(All around the world, gay people lived furtively and in fear)」



ところが現在、

The Economist「多くの国で起きている同性愛(homosexuality)に対する姿勢の変化は、世界の驚異(the wonder of the world)の一つに数えられている」

アメリカ人の75%が、友人や同僚に同性愛者がいると答えている(1985年、この割合はわずか24%だった)。アメリカ国民の大半はすでに「同性同士で結婚できる州(states where gays can wed)」で暮している。2014年10月6日、アメリカの最高裁判所は、同性婚容認を不服とする上告を受理しないことを決定した。






○好意



The Economist「現在、少なくとも113の国で、同性間の性交渉が合法化されている(Today gay sex is legal in at least 113)」

合法違法を問わず、先進国ではもはや「同性愛者を嫌悪することは、社会的に受け入れられない(It is no longer socially acceptable to be homophobic)」。



中南米は同性愛に好意的(gay-friendly)である。

The Economist「アルゼンチンでは74%、ブラジルでは60%の人が、社会は同性愛を受け入れるべきだ(society should accept homosexuality)と考えている」



好意的な傾向は若者たちが主導する(lead the way)。

The Economist「韓国では、同性愛を受け入れるべきだと考えている人は、50歳以上ではわずか16%だが、18〜29歳では71%に上る」

タイでは、欧米諸国よりもトランスジェンダーには寛容である。






○悪意



一方、同性愛者が安全ではない国もある。

The Economist「同性愛者が死刑(execution)の対象になる国が、今でも5つある。イランでは絞首刑(hangs them)、サウジアラビアでは石打刑(stones them)だ。世界78カ国で同性同士の性交渉が、法律で禁じられている」

アフリカ大陸やイスラム圏では、法律の有無にかかわらず、民間による「むち打ちや殺人(beatings and murders)」が行われている。レズビアンを矯正するという名目で「レイプ(corrective rape)」も横行する。



国家による法規制も着々とすすむ。

The Economist「チャドでは同性間の性行為(gay sex)を法で禁じようとしている。ナイジェリアとウガンダでは、極めて厳しい反同性愛法(draconian anti-gay laws)が成立した。ロシアは同性愛の助長(promotion)を禁じている」



ロシアのプーチン大統領は、同性愛の世界的な広がりを「背徳の拡散(to spread perversion)」と嫌悪し、それを欧米による策略だと吹聴している。

The Economist「同性愛に反対する人の割合は、ロシアでは74%、ナイジェリアでは98%に上る。インドネシア、セネガル、ウガンダ、マレーシアといった国では、若者も高齢者に劣らず不寛容だ」



The Economist「同性愛者に対する憎悪(Revulsion against homosexuals)は、古くからある根深いもので、それなりに正直な感情(sincere)だ」

宗教力の強い国ほど、その傾向にある。

The Economist「宗教心の強い社会ほど、同性愛者の権利に後ろ向きだ(the more pious a society, the less enthusiastic it is about gay right)」






○都市と農村



南アフリカの憲法は「極めて親同性愛的(pro-gay)」である。

しかし農村では、同性愛をおおぴっらにすれば殺されかねない。



都市部においては、誰もが自分を知っている村よりも匿名性が高い。

The Economist「インドの同性愛者の人生は、地方ではいまだに辛いもの(still awful)だが、都市部のムンバイやデリーでは、同性愛が違法であってもずっと容易(much easier)だ」

中国では違法ではない。それでも地方でははばかられる。だが、「都市部では隠されなくなっている(undisguised)」。



都市化(urbanisation)は同性愛にとって、明らかな追い風だ。

The Economist「人々が都市へ移るにつれて、古い慣習(old traditions)が力を失っている。2050年までに都市部に住む人の割合は、現在の54%から66%にまで上昇すると見込まれている」






○自分への真実



「トースターに触れたいと思うくらいにしか、女性に触れたいと思わない(could no more imagine longing to touch a woman than longing to touch toaster)」

1970年代に、そう思っていた10代の若者がアメリカにいた。



だが彼は「正常(normal)」でありたいと切望し、25歳になるまで「自分に対する真実(truth to himself)」を否定し続けていた。

そういう時代だったのだ。



The Economist「だが今、彼は愛する男性と結婚している。2人が暮らすバージニア州のでは、それを奇異なことだと考える人はほとんどいない(few think this odd)」













(了)






出典:
『The Economist』October 11th 2014「Human rights: The gay divide」
JBpress「人権:同性愛の権利をめぐる国際格差」



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2013年10月21日

中島敦『李陵』を読む(3)完




中島敦『李陵』を読む(2)よりの「つづき」






■蘇武



匈奴のある朔北の地(中国北方)には、蘇武(そぶ)という漢人もまたいた。

もとは平和の使節として匈奴に遣わされたのであったが、わけあって捕らえられた。その使節の一人が匈奴の内紛に関係したために全員が捕らえられ、ほぼ皆が匈奴に降った。しかし、ただ蘇武ひとりはそれを拒絶した。

”降伏を肯んじないばかりか、辱めを避けようと自ら剣をとって己が胸を貫いた(『李陵』)”



昏倒した蘇武。手当てする胡医。

”地に掘って坑をつくり温火を入れて、その上に傷者を寝かせその背中を踏んで血を出させたと『漢書』には誌されている。この荒治療のおかげで、不幸にも蘇武は半日昏絶したのちにまた息を吹き返した(『李陵』)”



この硬骨なる漢臣・蘇武に、匈奴の単于は”すっかり惚れ込んだ”。

そして、蘇武の身体がようやく回復すると、熱心に降をすすめるのであった。しかし、蘇武に降る気はさらさらない。

その後、蘇武が穴蔵の中に幽閉されたとき、旃毛(せんもう)を雪に和して喰らいもって飢えを凌いだ。そしてついに北海(バイカル湖)のほとり人無きところに遷されて、「牡羊が乳を出さば帰るを許さん」と言われた。

”とにかく、李陵が悶々の余生を胡地に埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである(『李陵』)”



李陵にとって、蘇武は二十年来の友であった。

かつて同じ侍中を勤めていたこともあり、”片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いない”と李陵は思っていた。



しかし、はからずも自分が匈奴に降ってからは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。

”己の家族が戮されてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった(『李陵』)”

蘇武がはるか北方にいて顔を合わせずに済むことを、”むしろ助かった”と感じていたのである。






■再会



狐鹿姑(ころくこ)単于が父の後を嗣いでから数年後、李陵は”蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降伏を勧告するように”と頼まれた。

狐鹿姑(ころくこ)単于というのは、かつて李陵に師事した左賢王。親しきこの単于の頼みを無下にもできず、李陵はやむを得ず北へ向かった。



雪のこる極北の地、李陵の一行が案内人に導かれたのは、”一軒の哀れな丸太小舎”。

弓矢を片手に出てきた住人は、”頭から毛皮をかぶった鬚(ひげ)ぼうぼうの熊のような山男”。かつての蘇武のおもかげは、辛うじて残っていた。

”感動が陵の内に在って、今まで武との会見を避けさせていたものを一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった(『李陵』)”



滞在は数日にわたった。

無人の境は急に賑やかになり、酒食と歓笑が森の鳥獣を驚かせた。



蘇武は、凍てついた大地から野ネズミを掘り出して飢えを凌いだ話など、ここ数年間の惨憺たる生活をさりげなく語る。

李陵もまた、少しの弁解も交えずに自らの事実だけを語った。

”陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を棄てて他家へ行ったことはさすがに言えなかった(『李陵』)”






■大我慢



「この男は、何を目あてに生きているのか?」

李陵は怪しんだ。

「いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか?」

しかし、蘇武の口裏からはそんな期待は少しも感じられない。

「それでは何のために、こうした惨憺たる日々を耐え忍んでいるのか?」

”陵の怪しむのは、なぜ早く自らの生命を絶たないのかという意味であった。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄(天子から与えられた旗)を持して荒野に飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首刎ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる(『李陵』)”



李陵の場合は、状況を異にしていた。

彼が希望のない生活を断ち切りえないのは、いつのまにか匈奴の地に深く根を下ろしてしまっていたからだった。もはや妻もあれば子どももある。そして数々の恩愛や義理を受けすぎてしまっていた。いえば「やむを得ない」。

”いまさら死んでも、格別漢のために義を立てることにもならない(『李陵』)”



だが蘇武は違う。匈奴にはなんの恩義もないはずだ。はじめ捕らえられたとき、いきなり自分の胸を刺したこの男が、今さら死を恐れているとも考えられない。

ふと、李陵は思い出していた。蘇武が若いころの片意地を、滑稽なくらい強情な痩せ我慢を。

”単于は栄華を餌に、極度の困窮のなかから蘇武を釣ろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難に堪ええずして自ら殺すこともまた、単于に負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか(『李陵』)”

はたして蘇武は、そんな運命と意地の張り合いをしているように見えた。しかし、李陵にはそれが笑えなかった。

”想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を平然と笑殺していかせるものが「意地」だとすれば、この意地こそは誠に凄まじくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人げなく見えた蘇武の痩せ我慢が、かかる大我慢にまで成長しているのを見て、李陵は驚嘆した(『李陵』)”






■人に知られざる



しかもこの男は、己が事蹟を誰ひとり知ってくれなくても差し支えないのである。漢はおろか匈奴ですら、蘇武がかかる大我慢をもって無人の地で闘っていることを知るものはいないのだ。

”誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、自ら顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ(『李陵』)”



そうした”人に知られざるこを憂えぬ蘇武”を前にして、李陵はひそかに冷や汗をかいた。

”李陵は、かつて先代単于の首を狙いながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈奴の地を脱走しえなければ、せっかくの行為が空しく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった(『李陵』)”

知られぬことを恐れた李陵、それを恐れぬ蘇武。

”最初の感動がすぎ二日三日とたつうちに、何を語るにつけても、己の過去と蘇武のそれとの対比がいちいち引っかかってくる(『李陵』)”



蘇武は義人、自分は売国奴。

”それほどハッキリ考えはしないけれども、蘇武の厳しさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは、ひとたまりもなく圧倒されるのを感じないわけにはいかない(『李陵』)”

そう感じてくると、蘇武の李陵に対する態度までが、なにか”富者が貧者に対するときのような”ものを思わせる。

”襤褸(ぼろ)をまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐憫の色を、豪奢な貂裘(ちょうきゅう)をまとうた右校王・李陵はなによりも恐れた(『李陵』)”

※貂裘(ちょうきゅう)とは、貂(テン)の毛皮でつくった衣服。身分の高い人が用いる。






■やむを得ぬ



とうとう李陵は、蘇武への降伏勧告について口を切れなかった。

彼は旧友に別れを告げると、悄然と南へ去った。



しかし南に帰ってなお、蘇武の存在は李陵の頭から去らなかった。むしろ、その姿はかえって厳しく、いっそう聳(そび)えてくる。

それまで李陵は、自らの匈奴への降伏を「やむを得なかった」と信じていた。

”ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ないのだ」という考えかたを許そうとしないのである(『李陵』)”



蘇武には、やむを得ぬ事情などなかった。

”飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ(『李陵』)”

そうした蘇武の存在は、李陵にとって「崇高な訓戒」であった。しかし同時に「いらだたしい悪夢」でもあった。






■漢人と匈奴



はじめ、漢人の李陵にとって、匈奴の風俗は野卑滑稽としか写らなかった。

しかし、その地で実際に暮らしてみると、けっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵に飲み込めてきた。

”厚い皮革製の胡服でなければ朔北の冬は凌げないし、肉食でなければ胡地の寒冷に耐えるだけの精力を貯えることができない。固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級と貶し去るのは当たらない(中島敦『李陵』)”

もし、この地で漢人のような暮らしをしようとしたら、一日とて保つものではなかった。



かつて、先代の単于(匈奴の長)はこう言っていた。

「漢の人間が二言めには、己が国を”礼儀の国”といい、匈奴の行いをもって”禽獣に近い”と見なす。

 漢人のいう”礼儀”とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる”虚飾の謂(いい)”ではないか。利を好み人を妬むこと、漢人と胡人といずれかはなはだしき? 色に耽り財を貪ること、またいずれかはなはだしき? 

 表(うわ)べを剥ぎ去れば畢竟なんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ」



そう言われたとき、李陵に返す言葉はほとんどなかった。

李陵の祖父も、母も妻も子も、うわべを繕う漢人の佞臣・酷吏に殺されたのであった。

”たしかに、胡俗の粗野な正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さより、遥かに好ましい場合がしばしばあると思った。諸夏の俗を正しきもの、胡俗を卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵はそんな気がしてくる(『李陵』)”






■武帝の死



数年後、ついに漢の大皇帝・武帝は崩じた。

だが李陵には、いま一滴の涙も浮かんでこない。それは、妻子眷属を死に追いやった男の死であったからか。



李陵は北海のほとり、丸太小舎に蘇武をふたたび訪ねた。そして、武帝の崩御を告げた。

”蘇武は南に向かって号哭した。慟哭数日、ついに血を嘔くに至った(『李陵』)”



その有様を見ながら、李陵の気持ちはしだいに暗く沈んでいった。

”蘇武は、李陵のように一族を戮せられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕らええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。どう考えても漢の朝から厚遇されていたとは称しがたい(『李陵』)”

それでも、蘇武は哭いた。

”いま目の前に蘇武の純粋な痛哭をみているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、譬えようもなく清冽な純粋な漢の国土への愛情が湛えられていることを、李陵ははじめて発見した(『李陵』)”

李陵は、”己と友とを隔てる根本的なもの”にぶつからざるを得なかった。






■使者



武帝が崩じて、漢では昭帝(8歳)が即位した。

それを報じる使者が、匈奴にやってきた。

その使いは、はからずも李陵の旧友、任立政(じんりっせい)ら三人。わざわざ李陵の昔の友人が使者に選ばれたのは、「陵を呼び返そう」との相談ができ上がっていたからであった。



任立政は、李陵に言った。「小卿よ、多年の苦しみはいかばかりだったか。帰ってくれ。富貴など言うに足りぬではないか。どうか何もいわずに帰ってくれ」

友の切なる言葉に、李陵の心も動かぬではなかった。

しかし李陵は言う。「帰るのは易い。だが、また辱しめを見るだけのことでははいか? 如何?」

そして、二人は口をつぐんだ。



会が散じて別れ去るとき、任立政はなおも低声でたずねた。「ついに帰るに意なきや?」。

陵はただ、頭を横にふった。

「丈夫ふたたび辱めらるるあたわず」

その言葉は、ひどく元気がなかった…。






■天



その5年後であった。蘇武が偶然にも漢に帰れることになったのは。あの、人に知られぬまま北方に窮死するかと思われた蘇武が。

さすがに、李陵の心は動揺した。

”天はやっぱり見ていたのだ、という考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として懼(おそ)れた(『李陵』)”

この事実は、なんとしても李陵にはこたえた。

”胸をかきむしられるような女々しい己の気持が羨望ではないかと、李陵は極度に惧(おそ)れた(『李陵』)”



友のために張った別れの宴席上、李陵には言いたいことが山ほどあった。しかし、それを言えば愚痴になってしまうと口を閉ざしていた。

だが宴たけなわにして、李陵は堪えかねて立ち上がり、舞いかつ歌うた。



万里をゆきすぎ沙幕をわたる

君のため将となって匈奴に奮う

路窮絶し矢刃くだけ

士衆滅び名すでにおつ

老母すでに死す恩に報いんと欲するも、またいずくにか帰らん




”歌っているうちに、声が顫(ふる)え涙が頬を伝わった。女々しいぞと自ら叱りながら、どうしようもなかった(『李陵』)”



そして、蘇武は祖国へ帰った。

持節十九年、漢の節旄(せつぼう)を持した牧羊者は北海のほとりを華やかに去った。かくして、歴史にチリほども残るまいと思われた、この片意地の男の名は不朽となった。






■この世



ところで司馬遷、国の歴史を残すことのみに命の火を灯していたこの男は、孜々(しし)として書き続けていた。

腐刑の屈辱に遭ってから8年、”この世に生きることをやめた彼は、書中の人物としてのみ活きていた(『李陵』)”。

稿を起こしてから14年、父子相伝のその著述は最初の構想どおり、だいたいの通史がひととおり出来上がった。



それからまた数年、増補・推敲を加え、『史記』130巻、52万6,500字が完成したのは、すでに武帝の崩御に近いころであった。

”列伝第七十太史公自序の最後の筆をおいたとき、司馬遷は几によったまま惘然(ぼうぜん)とした。深い溜息が腹の底から出た。目は庭前の槐樹(えんじゅ)の茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった(『李陵』)”



完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をすると、司馬遷は急にひどく虚脱した。

”憑依の去った巫者のように、身も心もぐったりと崩れおち、まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったように耄(ふ)けた。武帝の崩御も昭帝の即位も、かつてのさきの太史令・司馬遷の脱殻(ぬけがら)にとっては、もはやなんの意味ももたないように見えた(『李陵』)”

先に述べた漢の使者・任立政(じんりっせい)らが李陵を伴わずに都に戻ったとき、司馬遷はすでにこの世に亡かった。

未来に遺された書である『史記』は、彼の肚にあった想いのとおり今なお生き続けている。






李陵については、蘇武と別れたあと何ひとつとして正確な記録は残されていない。

ただ、昭帝の元平元年(紀元前74年)、胡地で死んだとある。



李陵が胡地でもうけた子は、のちに単于に対して反乱を起こし、ついに失敗した。その旨が『漢書』匈奴伝にはある。漢の宣帝の五鳳二年(紀元前56年)のことだから、李陵が死んでからちょうど18年めにあたる。

”李陵の子とあるだけで、名前は記されていない(『李陵』)”













(了)






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出典:中島敦『李陵
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2013年10月19日

中島敦『李陵』を読む(2)



中島敦『李陵』を読む(1)よりの「つづき」






生きて虜囚となった李陵は、ようやく目が覚めた。

”獣脂を灯し獣糞を焚いた単于(匈奴の長)の帳房の中”にて。



とっさに彼は思った。

「自ら首刎ねて、辱しめを免れるか?」

いや、いま一応は敵に従っておいて、そのうちに機を見て脱走しよう(敗軍の責を償うに足る手柄を土産として)。李陵はそう心を決めた。



匈奴の長である単于(ぜんう)は、手ずから李陵の縄をといた。そして正直に言う。

「数代の単于に従って漢と戦ってはきたが、まだ李陵ほどの手強い敵に遭ったことはない」と。

李陵の祖父・李広の名を引き合いに出して、李陵の善戦を誉めた。飛将軍・李広の驍名は今もなお匈奴の地に語り継がれていた。虎を格殺したり岩に矢を立てたり…。



匈奴は「強き者」を遇する。

”陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫であり、また彼自身も強かったからである。食を分けるときも強壮者が美味をとり、老弱者に余り物を与えるのが匈奴の風であった。ここでは、強き者が辱しめられることは決してない(中島敦『李陵』)”

ゆえに、李陵への待遇は鄭重を極めた。






■左賢王



「隙があったら単于の首でも」と李陵は狙っていた。

たとえ単于を討果たしたとしても、その首をもって脱出することはまず不可能だろう。それでも李陵は、その”不可能とも思われる機会の到来”を辛抱強く待ち続けていた。



李陵のほかにも”漢の降人”が幾人かいた。だが李陵は彼らとほとんど口をきかなかった。

”他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった(『李陵』)”

そもそも、漢人の下って匈奴の中にあるものに、単于殺害をともにすべき人物はいないように思われた。



ところで、単于の長子「左賢王(さけんおう)」が、妙に李陵に好意を示しはじめた。20歳を越したばかりのこの真面目な青年は、”強き者への賛美”がじつに純粋で強烈だった。好意というより尊敬といったほうが近かった。

左賢王は李陵に”騎射”を教えてくれと来た。とはいえ、馬を駆る技術(騎)は陵に劣らぬほど巧い。李陵は”射”のみを教えることとした。

”左賢王は、熱心な弟子となった。陵の祖父・李広の射における入神の技などを語るとき、蕃族の青年は瞳を輝かせて熱心に聞き入るのであった(『李陵』)”



よく二人して狩猟に出かけるようになった。馬上の二人は縦横に広野を疾駆しては、狐やオオカミ、カモシカやキジなどを射た。

ある夕暮れ、二人は一群の狼に囲まれたことがあった。馬に鞭うち全速力で狼群のなかを駆け抜けて逃れたが、李陵の馬の尻に一匹の狼が飛びかかった。そのとき、後ろを駈けていた左賢王が彎刀をもって見事に胴斬りにした。

”そういう一日ののち、夜、天幕の中で今日の獲物を羹(あつもの)の中にぶちこんでフウフウ吹きながら啜るとき、李陵は火影に顔を火照らせた若い蕃王の息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった(『李陵』)”






■蚕室



宮刑に処された司馬遷は、薄暗い蚕室のなかにいた。

”腐刑施術後、当分のあいだは風に当たることを避けねばならぬので、中に火をおこして暖かに保った密閉した暗室をつくり、そこに施術後の受刑者を数日のあいだ入れて、身体を養わせる。暖かく暗いところが蚕(かいこ)を飼う部屋に似ているとて、それを蚕室と名付けるのである(『李陵』)”



彼は茫然と壁によりかかっていた。

言語を絶した混乱のなか、憤激よりも先に驚きのようなものを感じていた。

「刑罰も数ある中で、よりによって最も醜陋な宮刑にあおうとは…!」

もとより死ぬ覚悟はできていた。武帝の気に逆らって李陵を褒め上げたとき、死を賜うこともあろうとは予期していた。ところが迂闊にも、”このような醜いもの”が自分の運命に突然あらわれようとは、ぜんぜん頭から考えてもいなかった。



長く史実をあつかううちに、”人間にはそれぞれの人間にふさわしい事件しか起こらない”という一種の確信めいたものが司馬遷のうちに養われていた。

”同じ逆境にしても、慷概の士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の徒には緩慢なじめじめした醜い苦しみが、というふうにである(『李陵』)”

この持論にしたがえば、車裂の刑ならば自分にふさわしいと認められた。司馬遷は自分をそうした男だと信じていた。たとえ文筆の吏とはいえ、その心は武人のそれであった。



「それが齢50に近い身で、この辱しめにあおうとうは…!」

彼は、いま自分が蚕室の中にいるということが夢のような気がした。夢だと思いたかった。

”しかし、壁によって閉じていた目を開くと、薄暗いなかに、生気のない魂までが抜けたような顔をした男が三、四人、だらしなく横たわったり座ったりしているのが目に入った。あの姿が、つまり今の己なのだと思ったとき、嗚咽とも怒号ともつかない叫びが彼の咽喉を破った(『李陵』)”






■修史



「自分のどこが悪かったのか?」

暗闇のなか、司馬遷は憤懣のもっていきどころを求めていた。

「李陵のために弁じたことか?」

これを間違ったこととは司馬遷には思えなかった。阿諛に堕するに甘んじる気など毛頭なかった。

「自ら顧みてやましくなければ、その行為がどのような結果を来そうとも、士たる者はそれを甘受しなければならないはずだ。しかし、この宮刑は…、これはまた別だ。同じ不具でも足を切られたり鼻を切られたりするのとは全然違った種類のものだ。士たる者の加えられるべき刑ではない」



かく成り果てた我が身の有様をみるにつけ、彼の考えはいつも同じところをぐるぐる回るばかり。帰結するところを知らなかった。

「強いていえば、ただ『我あり』という事実だけが悪かったのだ…」

そうした狂乱と憤懣との中にあっても、不思議と司馬遷は自らを殺そうとは試みなかった。



「なぜ死ねなかったのか?」

何かが内から彼をとめていた。彼の気持ちを自殺のほうへ向けさせたがらない何か漠然としたものが。

”何を忘れたのかはハッキリしないながら、とにかく何か忘れものをしたような気のすることがある。ちょうどそんな具合だった(『李陵』)”



そしてひと月後、許されて自宅に帰った彼は気づいた。狂乱にとり紛れて”己が畢生の事業たる修史(世にいう『史記』)”のことを忘れて果てていたことを。

”司馬遷は恐ろしく我の強い男だったが、今度のことで己のいかにとるに足らぬものだったかをしみじみと考えさせられた。理想の抱負のと威張ってみたところで、しょせん己は牛に踏みつぶされる道傍の虫けらのごときものにすぎなかったのだ。「我」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった(『李陵』)”

無意識にもその仕事への思いが、彼を自殺から阻む役割を隠々のうちにつとめていたのであった。

”世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えても怡(たの)しいわけはなかった。それはほとんど、いかに厭わしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同士のような宿命的な因縁に近いものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために、自分は自らを殺すことができぬのだということだけはハッキリしてきた(『李陵』)”

死に際の父の遺命もまた、重くのしかかっていた。






■筆



一個の丈夫たる太史令・司馬遷は、天漢三年(紀元前98年)の春に死んだ。

恥辱にまみれた彼がその後も生き続けるには、そう思い込むよりほかに途(みち)はなかった。死んだ自分の仕事を続ける者は、”知覚も意識もない一つの書写機械にすぎぬ”と。



そうして司馬遷はふたたび筆を執った。

”傷ついた脚を引きずりながら目的地へ向かう旅人”のように。

とぼとぼと稿を継いでいった。



”以前の論客・司馬遷”は、一切口を開かずになった。

笑いもしない。怒りもしない。

ただ、”なにか悪霊にでも取り憑かれているような凄まじさ”で、夜眠る時間も惜しんで仕事ばかりを続けた。

”一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいと焦っているもののように、家人らには思われた(『李陵』)”






■憤怒



天漢4年(紀元前97年)、漢は匈奴に対して大軍をおこした。騎7万、歩13万。近来にない大北伐である。

迎え撃つ匈奴は精騎10万を繰り出した。李陵に師事する若き左賢王も一軍を率いて漢軍に向かった。



”李陵は漢との戦いには陣頭にあらわれなかったが、左賢王の戦績をひそかに気遣っている己を発見して愕然とした。どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた(『李陵』)”

連戦10余日、結果は漢の惨敗。大北伐は完全な失敗に終わった。左賢王の軍も漢軍をさんざんに打ち破った。



左賢王に叩きのめされた公孫敖(こうそんごう)は、都へ帰ると”妙な弁解”をした。

「匈奴軍の強いのは、漢から降った李将軍が常々兵を練って、軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだ」と。

”これを聞いた武帝が、李陵に対して激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび獄に収められ、今度は陵の老婆から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された(『李陵』)”



その知らせを李陵が聞いたのは、半年ほど後のこと。

”めちゃくちゃに彼は野を歩いた。激しい憤りが頭の中で渦を巻いた。老婆や幼児のことを考えると心は灼けるようであったが、涙は一滴もでない。あまりに強い怒りは涙を枯渇させてしまうのだろう(『李陵』)”

彼は祖父・李広の最期をも思い起こしていた。少年時代までの彼を鍛え上げたのは、この有名な祖父。この名将は大功を樹てながらも君側の佞臣に妨げられて、終始かわらぬ清貧に甘んじなければならなかった。その最期は、一軍吏に辱められたと自らの首を刎ねたのである。少年・李陵は声をあげて泣いた。

「いままで我が一族は、そもそも漢からどのような扱いを受けてきたのか?」

”司馬遷の場合とは違って、李陵のほうは簡単であった。憤怒がすべてであった(『李陵』)”






■他人の不幸



ほとぼりが冷めたころ、李陵は人間が変わったように見えた。

”というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対にあずからなかった彼が、自ら進んでその相談に乗ろうと言い出したからである。単于はこの変化をみて大いに喜んだ(『李陵』)”

李陵は単于の娘を妻に迎えると、自ら請うて漢討伐の軍に従った。



ところが、たまたま浚稽山(しゅんけいざん)の麓をすぎたとき、”さすがに陵の心は曇った”。

”かつてこの地で、己に従って死戦した部下どものことを考え、彼らの骨が埋められ彼らの血の染み込んだその砂の飢えを歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼はもはや南行して漢兵と闘う勇気を失った(『李陵』)”

病と称して、李陵は独り北方へ馬を返した。母妻子を漢に族滅された恨みは骨髄に徹していたものの、自ら兵を率いて漢と戦うことはできなかった。



李陵は考えることが嫌いであった。

イライラしてくると、いつも独りで駿馬を駆って広野に飛び出す。草原となく丘陵となく狂気のように馬を駆けさせる。

「あぁ、我もと天地間の一粒子のみ。なんぞまた漢と胡(匈奴)あらんや…!」

”ひとしきり休むとまた馬にまたがり、がむしゃらに駈け出す。終日乗り疲れ、黄雲が落暉に燻ずるころになってようやく彼は幕営に戻る。疲労だけが彼のただ一つの救いなのである(『李陵』)”



と、その頃、司馬遷が自分のために弁じて罪をえたことを伝え聞いた。

”李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった(『李陵』)”

司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶もしたことがある。だが、とくに交を結んだというほどの間柄ではない。むしろ、”いやに議論ばかりしてうるさいヤツだ”くらいにしか感じていなかった。

”それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりに自分一個の苦しみと闘うのに懸命であった。よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である(『李陵』)”













(つづく)

→ 中島敦『李陵』を読む(3)完






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出典:中島敦『李陵
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