2016年04月10日

「正しきものは強くあれ」 [土光登美]



昭和61年11月5日

土光敏夫(どこう・としお)に勲一等旭日桐花勲章が授与された。

ときに土光90歳、生前の民間人に授与されるのは史上初めての名誉だった。



そのときの映像が残されている。

皇居宮殿の正殿にあらわれた当時90歳の土光は、式部官に車椅子を押されていた。

ところが勲章を渡そうとする昭和天皇を前に、土光は車椅子から立ち上がろうとする。おそらく昭和天皇に対して、自分が車椅子に座ったままでいることを「失礼だ」と思ったのだろう。前月に頭部の手術を受けるなど、土光の体はすでに立つことすらままならない状態だっただけに、私はその姿に心打たれる思いで見ていた。

この叙勲に関して、土光は次のようなコメントを残している。

「私は『個人は質素に、社会は豊かに』という母の教えを忠実に守り…」

引用:致知2016年3月号 出町譲「正しきものは強くあれ」






「個人は質素に、社会は豊かに」

戦後、「日本の財界にこの人あり」と謳われながらも、「メザシの土光さん」と、その質素な生活ぶりでも広く知られていた土光敏夫。

その母の教えが「個人は質素に、社会は豊かに」であったと、天皇の御前で語ったのであった。



その母とは?

土光登美(どこう・とみ)

知る人ぞ知る、賢母であった。







明治4年(1872)

登美(とみ)は10人兄弟の3番目として、岡山県に生を受けた。

「女性に学問の必要なし」といわれていた時代にあっても、登美の向学心はあふれんばかりであった。西郷隆盛、中江藤樹、吉田松陰…、「私心なく公に尽くした偉人たち」に、登美は強く惹かれていた。



18歳で土光菊次郎のもとへ嫁いだ。

読書にふけりながら子どもに乳をやり、二女三男を育てあげた。

次女の節子は、母・登美をしてこう評す。

「(母は)つねに成長していたという感じで、晩年もあまり老人という感じがしませんでした」



(よわい)70を迎えようとしていた時、

登美は突然、こんなことを言い出した。

「お父さん(夫・菊次郎)が死にました。これから私は残り短い人生ですが、どうしてもやりたいことがあります」

改まった口調に、親戚一同、息をのんだ。

「学校を建てたいのです」



登美はよく、こう言っていた。

「国の滅びるのは悪によらずして、その愚による」

ときに日本は、日中戦争から日米戦争へと邁進し、戦争の連鎖がとどまるところを知らなかった。

登美は言う。

「どんなに偉い人でも、子どもの頃はお母さんのおっぱいを飲んで、お母さんにご飯を食べさせてもらっている。だから、子どもを育てることになる女性をしっかりと教育しなければならないのです」

登美は切々と、女子教育の重要性を訴えた。



それにしても、女性のための学校を建てるなどということは、暴挙にひとしい。年ももう70だ。家族全員が反対した。もちろん土光敏夫も必死でとめた。

しかし、登美の決意は鉄のごとき強靭さをもっていた。猛反対する家族らを尻目に、せっせと資金集めにいそしんだ。

「もし私が亡くなってから香典をくださるおつもりなら、生きているうちにください」

それが登美の殺し文句だった。朝昼晩、雨の日も風の日も、登美は足を棒にして知人や親類らに無心してまわった。さらに用地取得のため、地主や小作人を説得して歩いた。



登美の常人ばなれした根気と迫力におされ、3ヶ月という驚くべきスピードで学校建設の工事がはじめられた。

登美のこんな言葉がのこされている。

「私はナー、子孫に金を残して、かえって怠け心を起こさせてはいけませんから、できるなら学校を建てて、世の子女の教育をしてみたいと思うのですがナー」



昭和17年4月1日、戦争の真っ只中で、登美の学校が完成した。

橘女学院(現・橘学苑)の誕生である。

貧しい子女にも門戸をひらこうと、授業料は頑なまで低く設定された。



「正しきものは強くあれ」

登美は生徒らに、そう語った。

登美の教えを受けた生徒の一人は、こう言っている。

「どんなに正しい心をもっていても、それを実行する強さがなければ何にもならないのです」







机上の学問ばかりでなく、登美は畑仕事や掃除も大切に教えた。

「人間はどんなつまらない仕事でも、一生懸命やる心が大切なのです」



あるとき、女子生徒3人に退学処分がくだされようとしていた。

当時校長であった登美は、断固として言った。

「退学処分は許しません。私がその娘たちを預かります」

教室に寝具まで運び込んだ登美は、不良女生徒3人と寝食をともにしはじめた。だが、何を諭すということもなしに、登美は読経ばかりを熱心にやっていた。先にしびれを切らしたのは生徒たちのほうだった。

「先生、私たちは何をしたらいいのですか?」

しめたとばかりに登美は、掃除に勉強、さらには読経までを生徒らに教えはじめたという。


余談ではあるが、息子・土光敏夫も不良社員を決して軽んずることがなかった。

土光敏夫はこう言っている。

「そんな社員こそ、自分の部下にしたいのだ。作物と同じように、早く芽がでる人間もいれば、遅く出る人間もいるものだ」

それは母・登美ゆずりの信念であった。

「どんな人間であろうとも、けっして切らない」







明治天皇の御製

さしのぼる 朝日のごとく さわやかに

もたまほしきは 心なりけり


登美は、この歌をこよなく愛した。

「朝日のごとく、さわやかに」

それをモットーに登美は生きぬいた。



最後に、登美の言葉を引いて終わる。

「人間というものは生涯にせめて一度、『鬼の口』に飛び込む思いをしなければなりません。そういう機会をもたずに人生を終えるのは恥ずかしいことです」






(了)






出典:致知2016年3月号
土光登美「正しきものは強くあれ」



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2013年06月26日

豪雪の山中、90歳のおばあちゃんの届けてくれる郵便



冬になると積雪が4mを超えるという里山。

新潟県との県境にほど近い「長野県飯山市涌井」。



その豪雪の中、郵便配達をする「おばあちゃん」

清水咲栄(しみず・さくえ)さん、90歳。



「ここはもの凄い豪雪地帯で、郵便局のバイクを走らせることができません。つまり、歩いて雪の中を配達する他ないのです」

咲栄さんが言うには、大雪の時には民家がすっぽりと雪に埋まってしまい、土地勘のない人には家すら見つけられなくなってしまうのだという。



咲栄さんに、その地域の郵便配達をしてくれないかと依頼がきたのは「70歳の時」。

その時の咲栄さんは、体力的に過酷な「大雪の中での配達」が自分にできるかどうか自信がなく、「ひと冬だけやってみて、もしダメだったら辞めさせてもらいます」と引き受けたのだそうだ。



「そうして、ひと冬やり、二年、三年と積み重ねていくうちに、気がつけば20年も経っていたというのが実感です」と咲栄さんは話す。

90歳になった今も、冬になれば黙々と郵便配達を続けている。

「たとえハローワークに行ったとしても、数え九十になる年寄りを雇ってくれるところなど見つかりません。仕事を与えていただている飯山郵便局には、本当に感謝しています」と咲栄さんは言う。






◎冬の郵便配達



「私の一日は、朝5時に始まります」

冬の朝5時は、まだ外は真っ暗。その空気は、冷蔵庫の中にいるかのごとく暗く冷たい。



「その後、防寒服を着てまずやるのは、自宅前の雪掘り(除雪)です」

多い時には、一晩で50〜60cmも雪が積もっているという豪雪地帯。その除雪に3時間以上もかかってしまうこともあるのだとか。



「それが終わると、いよいよ郵便配達です」

咲栄さんが配達を任されているのは、「涌井」とその隣りの「堰口」という2つの集落。そのたいていの家が国道沿いではなく、そこから「細い山道」を登って行った先にある。



「”かんじき”を長靴の上にはめて、雪の坂道を一歩一歩踏みしめながら、上がっては下り、また上がっては下り…。その繰り返しです」

配達する距離は、全長5kmにも及ぶ。

「そうやって一軒ずつ配達していくと、すべて配り終わるまでに3時間はかかります」



郵便局の人からは、その健脚ぶりを買われ、「100歳までやって下さい」と言われているのだとか。






◎炭鉱



「私は、長野県富倉という小さな村で、貧しい農家の長女として生まれました。大正13年1月17日のことです」

咲栄さんは、昔語りをはじめる。

「働きに出ている両親に代わって、6人の弟妹たちの子守、炊事、洗濯をするのが私の役目。小学校にも赤ん坊をおんぶして通わなければなりませんでした」



咲栄さんが嫁に行ったのは昭和21年、22歳の時。

かけがえのない夫を、咲栄さんは「父ちゃん」と呼ぶ。

その「父ちゃん」は、幼くして両親に死に別れ、小学校を卒業すると同時に働きに出ていたため、家はボロボロ、家具もほとんどない。



咲栄さんはそこに二人で住み、近くの飯山炭鉱で共働き。

「コークスで真っ黒になった顔を、お互いに見合っては笑う。貧乏ですが、毎日楽しく暮らしていました」と、咲栄さんは遠い昔を振り返る。

そして、4人の子どもを授かった。



転機となったのは、「父ちゃん」が炭鉱主から「ある鉱区のリーダー」を任されるようになった時。

ある時、「大量の石炭」を掘り当てた。

なかば請負のような役割だったため、炭鉱主に払うのは「地代」だけで、石炭で儲けたお金はリーダーと従業員たちのものだった。



いきなり儲かった「父ちゃん」。

従業員にボーナスを出したり、温泉旅行に連れて行ったりと、掘り当てた山を惜しみなく皆で楽しむ。

「これまでの苦労は一気に吹き飛びました」と咲栄さん。「父ちゃんも私も『これで楽ができる』と有頂天になっていました」。



幼い頃からの労苦が、ついに報われたと思われた。

ところが…、好事魔多し。

この後、咲栄さん一家は、塗炭の苦しみを味わうこととなってしまう。






◎大借金



ある朝、大当てした炭鉱へと足を運ぶと、その入口に「立入禁止」という立て札がある。

あわてた父ちゃんは、炭鉱主の元へと走る。



すると炭鉱主は「あの鉱区はオレのものだ」の一点張り。

石炭が当たった途端に、その態度を180°ひっくり返してしまったのだった。



「一介の炭鉱夫にすぎない父ちゃんが、炭鉱主に太刀打ちできるはずもありません…」

結局、儲けた金はすべて掠め取られ、残ったのは750万円の「大借金」。

「昭和36年、私が37歳の時でした…」

当時、父ちゃんの給料は「4〜5万円」。750万円という額は、一生かかっても返せないかに思われた。



「いっそのこと、子供たちと一緒に死んでしまったほうが楽なのでは…」

「夜逃げしてしまおうか…」

咲栄さんは、厳しい借金の取り立てを受けるたびに、そう思ったという。

「明日食べるお米もないことがしょっちゅうで、返したくとも返すお金がなかったのです。それで仕方なく、部屋の畳やら布団やら、金目のものはそっくり持っていかれました…」



それでも父ちゃんは

「夜逃げはしない。何がなんでも借金を返す。ここでした借金はここで返す」

そう心を決めて、毎日顔を真っ黒にしながら働き続けていたという。






◎喜び



捨てる神あれば、拾う神あり

ある行商のおじさんが、咲栄さんに「食料品や生活雑貨を売り歩く仕事」を分けてくれた。

「重い荷物を担いで一軒一軒歩くのは大変だけど、この仕事は売れば売っただけカネになるから」と、行商のおじさんは親切に言うのであった。



一方、父ちゃんは炭鉱の若い衆と一緒に、埼玉へ出稼ぎに行くことになった。

「父ちゃん、頑張れよ! おらも頑張るからな!」

父ちゃんが出稼ぎで得るカネは、すべて借金の返済に回し、咲栄さんの行商での稼ぎは、家の生活費に当てることにした。



「重い荷を背負い、ひたすら山道を歩き回る日々。そういう生活が何年続いたでしょうか。たしか10年くらいたった頃だと思います」

地道に地道にひたすら働いた末、あの大借金のほとんどが消えていた。そして、ようやく父ちゃんも涌井の家に帰ってきた。



「母ちゃん、今度海外旅行に連れて行ってやるぞ!」

満面の笑みで父ちゃんは言う。

「父ちゃんがそう言ってくれた時、私は込み上げてくるものを抑えることができませんでした」と、咲栄さんはその時の喜びを今のことのように噛み締める。

ようやく借金地獄をくぐり抜け、一家は一つ屋根の下にようやく顔を合わせたのだった。






◎不慮



なぜ、新たな不幸が、そんなに早くやって来てしまったのか?

「父ちゃんが、交通事故で亡くなってしまったのです…。忘れもしません。あれは昭和50年12月12日のことでした」



その日の晩、涌井の里には大雪が降っていた。

その頃の道路は、まだ舗装もされていなければ、ガードレールもない。

「その上に新雪が積もっていたので、運転を誤ったのでしょう。崖から落下し、即死でした…」



唯一の救いがあるとすれば、父ちゃんと一緒に車に乗っていた「娘」が九死に一生を得たことであった。娘は落ちていく途中で、車の外へと放り出されて助かっていた。

「あの時は、娘は運良く助かったのだろうと思っていました。でも、いま考えると、落ちていく瞬間、父ちゃんが咄嗟に助手席のドアを開けて、娘の命を助けてくれたのではないか。そう思います」



茫然自失

涙も枯れ果てた咲栄さん。それでも、無我夢中で生きていた。

「まだ少し借金が残っていたため、下を向いてばかりいられなかったのです…」






◎雪の中



「死ぬわけにはいかない理由」があるのは、幸いだった。

咲栄さんは、土木現場で男衆に混じって、朝早くから夜遅くまで働き詰めた。

「あの時の私は、仕事に没頭することで悲しみを忘れようとしていたのかもしれません」



そして70歳になった。

郵便配達の話が舞い込んで来たのは、その頃だった。



豪雪の中、徒歩で雪山を歩き回るのには、少なからぬ危険がある。

ある時、「ゴォーッ」という地鳴りのような音に振り返ると、山の上から「雪崩」が襲ってきた。

「私はあわてて逃げましたが、一瞬のうちに背中をかすめて崖下へと流れ落ちていきました。あと何秒か遅れていたら、間違いなく雪崩に飲み込まれていたでしょう」



またある時、咲栄さんは「とてつもない暴風雪」に巻かれてしまう。

「どんなに踏ん張っても体が思うように動かなくて、どんどん崖の方へと流されていくのです。ところが、崖まであと2mという寸前のところで、ピタッと風が止んだのです」

まるで「父ちゃん」が、雪の中の咲栄さんをいつも気にかけてくれているかのようであった。



郵便局の人は「吹雪の日は休んだらいいよ」と言ってくれる。

だが、咲栄さんは20年間、天候を理由に仕事を休んだことはないという。

「誰かの笑顔を、この山に住む人に届けて一緒に喜ぶこと。誰かの悲しみを、この山に住む人に伝えて一緒に涙すること。それが私の仕事なのです」



それほど実直な咲栄さんが、一日だけ仕事を休んだことがある。

「たったの一日だけ、どうしても体が言うことを聞かなかったのです。それは、一番下の娘が亡くなった日のことです」

父ちゃんが亡くなった時、奇跡的に命を取り留めた一番下の娘。その彼女が乳ガンを患い、若くして他界してしまったのだった。享年46歳。

「やはり親としては、自分の娘に先立たれるほど切ないものはありません…」






◎四季



90年という歳月を振り返りながら、咲栄さんは想う。

「人生というのは、良いことよりも悪いことのほうが多いものなのでしょうか?」



涌井の冬は厳しい。

それでも毎年、春は来る。

90の四季が巡る間、それは変わることのない自然の優しさであった。



「人生という畑に『涙のタネ』を蒔けば、そのタネがいつか『喜びの花』を咲かせてくれる」

咲栄さんは、そう信じている。



「『ずく』を出して頑張らねか」

そう、咲栄さんはよく言っているという。「ずく」とは、この辺りの方言で「やる気」を意味する。

「どん底まで行ったから、あとは這い上がるのみです。一歩一歩踏みしめていけば、必ず幸せにたどり着く。本当に一歩、一歩。そう思います」

どんな大雪に見舞われようとも、カンジキを履けば一歩一歩進んで行くことができる。



「苦労をともに乗り越えてきた父ちゃんを亡くし、自分の娘にも先立たれてしまいましたが、6人の孫に恵まれ、今年の夏には、一番上の娘の息子が晴れて結婚することになりました」と、咲栄さんはシワだらけの顔をますますクシャクシャにする。

その孫の結婚式に出席することが、いまの咲栄さんの一番の楽しみだという。



毎朝仏壇に手を合わせる咲栄さん。今日も祈る。

「今日も頑張るからな、父ちゃん」

「母ちゃん生きて、この家守っていくんだからな」













(了)






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オジイのコーヒー豆。101年の人生

モノ以上の「想い」。サトーカメラ・佐藤勝人

「菓子パン」の何と有り難かったことか。少年の運命を変えた「人の善意」。



出典:致知2013年7月号
「一歩一歩踏みしめていけば、必ず幸せに辿り着く 清水咲栄」
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2013年06月25日

新しい父親像「家にいるお父さん」。アメリカ社会の男女観



「Mr. Mom(ミスターお母さん)」

これは、アメリカが「専業"主夫"」として「子育てをする父親」の呼び名であった。



だが、2012年の国勢調査からは

「Stay-at-home dads(家にいるお父さん)」

という呼称に変更されている。



その理由は、父親の子育てがアメリカ社会に受け入れられつつあるからだという。

ただ、そうした専業主夫の父親の割合は、2012年の調査時点では「3.6%」と依然小さい。5年前の2.9%からは1.2倍に上昇したとはいえ、母親の専業"主婦"の比率には遠く及ばない。

それでも、世間の目は変化しつつある。長年の固定観念とせめぎ合いながら。










◎新たな父親像



男性が「子育て」に専念するようになるキッカケは、その「約30%」が「仕事を解雇されたこと」だそうだ。

ちなみにアメリカの国勢調査の基準によれば、「1年以上仕事をもたずに子育てに専念する父親」のことを「Stay-at-home dads(家にいるお父さん = 専業主夫)」と呼ぶ。

アメリカには「15歳以下の子供を育てる専業主夫」が現在、18万9,000人いるとされ、この数は5年前から「14.5%上昇」している(米世論調査機関ピュー・リサーチ・センター)。



そうした専業主夫の一人、アダム・シュレーダーさん(31歳)は

「夫婦で以前から子供を毎日保育園に預けるのはイヤだという話をしていた。それに『妻の稼ぎの方がかなり多かった』から」と話す。

シュレーダーさんの言うように、「高い保育料を支払ってしまうと収入を得る意味がない」「妻が夫以上の稼ぎを得ている」といった理由は専業主夫に多い。



「家にいるお父さん」シュレーダーさんは、もうすぐ9ヶ月になるエリオットくんのオムツを替え、2歳のアイザックくんに朝食を食べさせる。

そして、エリオットくんを「おんぶ紐」で背負いながら、2歳のアイザックくんを公園で遊ばせる。かなり手慣れた様子で。子供らの寝かしつけもお手のものだ。

こうした生活が始まったのは、「勤めていたラジオ局が倒産して職を失ったからだ」という。妻のエリンさん(30歳)は看護麻酔師として働いている。



専業主夫シュレーダーさんは「家で子育てをすることが男らしくないことは全くない」と話す。

むしろ「子供たちが成長する様子を見られること」「子供たちのことをよく知れること」は役得だと感じている。つまり楽しんでいる。



一方、社会の認識はシュレーダーさんほど受容的ではない。

アメリカ国民の「51%」はまだ、「母親が家にいる方が子供には好ましい」と回答しており、父親が家にいる方が良いと答えたのは「わずか8%」にとどまっている(米世論調査機関ピュー・リサーチ・センター)。



依然、女性の多くは「夫に家庭のコントロールを渡すこと」に不安を感じており、「家庭では女性のほうが優れている」という考え方を持っているという。

「自分の子供をどのように面倒を見たらいいかを、自分が一番よく知っていると思わない女性はマレだ」と、元外交官のアン・マリー・スローター教授(プリンストン大学)は話す。






◎企業と男性



男性の「育児参加」への意識は、企業にも高まりつつある。

「調査結果によると、アメリカ企業の15%が新米の父親になんらかの有給休暇を提供している(全米人材マネジメント協会)」

たとえば、「米ヤフー」は新たに子供をもうけた父親に「8週間の有給休暇(全額支給)」を認めている。銀行大手「バンク・オブ・アメリカ」は「12週間の育児休暇」、アーンスト・アンド・ヤングの場合は「6週間」だ。



だが逆に、父親のほうが「休暇をとることを渋っている」。

「新米父親の約85%が育児休暇をとるが、その大半は『1〜2週間だけ』だという(ボストン・カレッジ調べ)」

「職場で地位を失うかもしれない」という不安や、昔から根強い「父親としての固定観念」が、長期の休暇をとることを躊躇させるというのである。スウェーデンやポルトガルで父親の育児休暇が「義務的」になっているのに対して、アメリカではあくまで「自発的」なのである。



たとえばアーンスト・アンド・ヤング社では、最大で「6週間の有給休暇」を提供しているにも関わらず、そうした父親たちの90%は「2週間」しか取らないという。

父親たちは「重要なプロジェクトに参加し損なうこと」を恐れ、メールや電話など在宅でも仕事をすることになる。

金融関係で働くギルバート・マドック氏は、息子が生まれた時に「1週間の育児休暇」をとったが、同氏は休みの間も結局「1日の40%」を仕事関係のことに費やしていた。「営業色が強い仕事なので、ペースを落とすわけにはいかなかった」と同氏は語る。



また、ソフトウェア会社「ラウンドペッグ」には、新米の父親に「1ヶ月の有給休暇」を与えるという方針があった。

だが、共同創業者である「ブレント・デーリー」氏は、息子と娘が生まれた時、それぞれ「1週間」と「3日間」の育児休暇しか取らなかった。

デーリー氏は、その時の心情をこう語る。「出社しないと、チームを失望させることになると感じた。最後は、1つの仕事をまあまあ上手くやるか、2つの仕事をひどくお粗末にやるかの選択になった」と。










◎烙印との葛藤



自由の国・アメリカでさえ、「男性にとって仕事が最優先であり、すべての育児は女性がするもの」といった固定観念が企業に根強い。

もし、男性が「親業と仕事とを対等の立場に置く」とすれば、「ある種の烙印」を押されてしまう、と社会学者のスコット・コルトレーン氏(オレゴン大学)は指摘する。

The Wall Street Journal「親業をしていることが知られている男性の多くは、職場でプレッシャーをかけられたり、同僚に反感をもたれたりしている。積極的に子供の世話をしている男性は、からかわれたり、侮辱されたりすることが多い」



育メン父親は「意気地なしだ」とか、「妻のシリに敷かれている」といった中傷の的にされたりもするといい、ゆえに仕事と家庭間の「葛藤」は必至である。

「2008年に、仕事と家族への責任との間で葛藤を感じていると報告した共働き世帯の父親は60%だった。ちなみに1977年の数字は35%である(家族・労働研究所)」

「新たな父親像」が社会に広まるにつれ、父親たちの葛藤はより大きなものとならざるを得ないようである。それは旧来の固定観念がその新しさに追いついていけないからでもあろう。










◎企業と女性



女性は昔から、仕事において男性よりも「不利な立場」に置かれるのが常だった。それは世論が大幅に変化した今もなお、あまり変化がないようである。

The Wall Street Journal「女性が職場進出を果たして数十年が経つが、女性の84%は『男性の方が同じような職に対してより多くの報酬を受けている』との見方を示している。この調査結果は1997年時点の調査とほとんど変わっていない」

世論調査の専門家、ビル・マッキンターフ氏はこの調査結果を「この国で変化しているものと『変化していないもの』に関する非常に強力な結果だ」と述べている。ちなみに、労働統計局の統計では、常勤の女性の週給は、男性の79%だと示されている。



「男性は仕事を犠牲にすべきではないし、女性は家庭を犠牲にすべきでない」との意見は根深い。

先史時代から続くという男女の「分業制」は、そうそう平らにならされるものではないらしい。



ゆえに、「女性たちよ大志を抱け」と唱えた女性シェリル・サンドバーグ氏(43歳)の意見は物議を醸す。

Facebook(フェイスブック)のCOO(最高執行責任者)にまで昇り詰めた彼女は、世の女性たちに「自分の可能性を妥協せずにキャリア・アップ(出世)を目指すこと」を助言している。










◎男性社会の中の女性



その代名詞ともなった言葉が「Lean In」。これは彼女の著書のタイトルでもある。直訳すれば「乗り出す」。つまり、職場で男性らに遠慮することなく、身を乗り出していけ、と言っている。

そう訴えるのはひとえに、アメリカの現状が「男性優位」に進んでいるからに他ならない。

The Wall Street Journal「女性の地位向上が比較的進んでいるアメリカでも、企業や政界のトップを見ると、フォーチュン500企業のうち女性が最高経営責任者(CEO)の座に就いているのは21社、役員クラスの役職に占める女性の割合は14%、国会議員に占める女性の割合は18%と、未だに男性が大半を占めるのが実情だ」



こうした現状にあって、サンドバーグ氏への風当たりが強いのは何ら不思議なことではない。

The Wall Street Journal「サンドバーグ氏の主張に対しては、賛否が二分している。同氏の言葉に感銘を受け、背中を押されたという声もある一方で、サンドバーグ氏は『極めて恵まれた特別な存在』で、一般の女性が置かれた状態を理解していないとの批判も聞かれる」



「特別な存在」であるサンドバーグ氏は、「ハーバード大学」の学位を2つ持ち、「世界銀行」やコンサルティング会社大手「マッキンゼー・アンド・カンパニー」で働いた後に、クリントン政権下では「首席補佐官」をやっている。現在のフェイスブックCOOとなったのは、グーグルで「副社長」を務めた後だ。

The Wall Street Journal「サンドバーグ氏の言葉はあまりに『エリート主義』で、家庭に入る決断をした母親や仕事で彼女のような成功を収めていない女性に批判的との声もある」



サンドバーグ氏が、どんなに忙しい中でも「夕方5時半」に帰宅できるのは、彼女がそれだけの特権を持っているからであり、並の女性がそうそう真似できることではない。

「一般的な女性」はやはり、子育てに注力するためにキャリアを諦めざるを得なかったり、働きやすい仕事に転職することのほうが普通である。たとえアメリカでも。

The Wall Street Journal「サンドバーグ氏の主張は確かに啓発的ではあるものの、正直『理想論』にしか聞こえない」






◎半分半分



なるほど、サンドバーグ氏の言う「Lean In(乗り出せ)」は、先を急ぎすぎているのかもしれない。それでも彼女の主張は、「これからの社会」が進んでいく方向を間違えてはいないだろう。

彼女の目指すのは、「女性が国や企業の半分の舵取りをし、男性が家庭の半分を代表する存在となる『真の平等な世界』」。

これは単なる「平等論」ではなく、男女の役割が半分半分になったほうが「国家や企業全体としてのパフォーマンスが上がる」とサンドバーグ氏は考えているのである。



「新しい世代」の考え方は、確実に変わりつつある。

The Wall Street Journal「若い父親は育児休暇を『不可欠なものだ』と捉えている一方で、より年配の父親は『職場で烙印を押されることになる』と返答した」

同「若い世代の女性は、多くの犠牲を払うことなく仕事と家庭生活を両立できないということに合意する傾向は小さく、『18‐34歳の女性の38%』は両立できないとの主張に賛成しないと答えた。一方、これは35‐54歳と、55歳以上の女性ではそれぞれ31%、32%だった」



「Lean In(出世に貪欲)」になりつつある若い女性たちに対して、「Lean back(仕事から後退)」していく若い男性たちがいるのも確か。

「女性はすでに『Lean In』しており、今までにないほど野心的で、高い教育を受け、会社で男性以上の成績を上げている」と話すのは、企業人材の多様化を促進する20ファーストのアビバ=ウィッテンバーグ・コックスCEO。

なるほど、新たな社会のバランスは、サンドバーグ氏の言う「真の平等」の方へ傾き始めているようである。



専業主夫歴が3年になるクレーさんは、「自分が『主夫』になるとは夢にも思っていなかった」と話す。彼の不動産業は、3年前の住宅市場の崩壊とともになくなってしまったのである。

彼の住む町には「伝統的な暮らし方」が根付いていたため、4歳の娘を幼稚園に連れて行くことにも「孤独感」を感じたという。参観に出かけたときには、「一握りほどの父親」しかおらず、彼らの話は仕事のことばかりであった。



「一般的に女性のほうが同情的で、少なくとも『主夫』に対して批判的ではありませんでした」と、クレーさんは言う。

すっかり主夫業が板についたクレーさんは、世の男性が自分のイメージを「職業(キャリア)」や「経済力」と深く結びつけたがるのを不思議に思うようになったという。



そして、「なぜ、文化的なステレオタイプ(典型例)が生じているのか?なぜ、それに挑戦することを嫌がる人がいるのか?」を、深く考えるようにもなった。

「人生という物語において、私たちは暮らしながら修正していくものだ。環境が変わればそれに合わせる。一番重要なのは、私たちはいつでも互いに寄りかかれることができると覚えておくことなのだ」



オバマ大統領は「父の日」の演説で、「どのような環境であれ、良い親でいることは簡単なことではない」と述べ

「どうすればより良き夫、良い父親になれるのか、私は今もまだ模索している最中だ」と話していた。














(了)






関連記事:

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神の姿を知っていた子供たち。摘み取られる才能の芽

不妊は女性ばかりの責任か? 日本と世界の差



出典:The Wall Street Journal
「女性の地位向上とともに増える専業主夫 社会的受容の壁崩れるか」
「父親たちはなぜ長期の育児休暇を取らないのか」
「キャリア選択、女性だけでなく男性も全てを手に入れられない理由」
「米国女性の大半が職場で偏見に直面」
「女性よ、大志を抱け―サンドバーグ氏の言葉は米社会を変えるか」
「ある主夫の告白」

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2012年11月04日

「当たり前」の幸せ。助産師・内田美智子


出産予定日は、その次の日だった。

ところが、その夜、お腹の中の赤ちゃんの胎動がない。



不安に駆られたその出産間際だった女性は、急いで病院へと走り、エコー写真で調べてもらった。

すると、恐れていた通り…、胎内の赤ちゃんの心臓は止まってしまっていた…。



◎死産


「胎内で亡くなった赤ちゃんは異物に変わります。早く出さないと、お母さんの身体に異常が起こってきます」

その死産を手助けした助産師「内田美智子」さんは、その時の様子を語り始める。



「普段なら私たち助産師は、陣痛が5時間でも10時間でも、ずっと付き合ってお母さんの腰をさすって、『頑張りぃ! 元気な赤ちゃんに会えるから頑張りぃ!』と励ますんです」

ところが、死産をするお母さんには「かける言葉」がない。「産んでも何の喜びもない赤ちゃんを産むのは、大変なことなんです…」。



ようやく産まれた時、その分娩室は「まったく静か」だった。

赤ちゃんが元気に生まれたきた時の賑やかさは、まったくなかった。

シーンとした中、母親となるはずだった女性の泣き声だけが響いていた…。



◎お乳


「一晩だけ、抱っこして寝ていいですか?」

明日にはお葬式をしないといけない。せめて今晩だけでも抱っこしていたいと、その女性は言うのであった。



その夜、看護師が様子を見に行くと、月明かりの下、彼女はその子を抱いていた。

「いまね、この子におっぱいあげてたんです」

よく見れば、じわっと零(こぼ)れてくるお乳を指ですくいながら、そのお乳を赤ちゃんの口元まで運んであげていた。



たとえ死産であっても、胎盤が外れた瞬間に女性ホルモンが働き出し、お乳は出始めるのだという。

その女性も、赤ちゃんを抱いていたらお乳が滲んできたので、それを与えようとしていたのであった。



◎母性


「若いお母さんの中には、タバコをやめるのはイヤ、夜中に起きるのはイヤ、24時間べったりされるのはイヤというような理由で、授乳をしない人たちもいます」

助産師歴33年、2,600人以上の出産に立ち会ってきたという助産師・内田美智子さんは言う。

「赤ちゃんはお母さんにくっつきたいと思っているのに、お母さんは離れたいと思っている…」



内田さんは、母性とは「育つもの」なのだと感じている。

「母性本能という言葉がありますが、母性は本能として備わっているわけではなく、育つものだと言われている方もいます」

それは、生まれてきた子どもとくっついていることで育つものだと言うのである。



◎犠牲


「子育てというのは、親の『犠牲』の上にあるものです」

母親は出血もするし、傷もできる。一年も二年もお乳をやっていれば、体重とともに命も削られていく。そして、「自分の時間」も失われてしまう。

「ところが最近、子どものために自分の時間を犠牲にしたくないという若い親御さんも増えています」





また逆に「甘やかしすぎる」こともある。

「手をかけること」と「甘やかしてしまうこと」は違うのだと、内田さんは考える。

「一から十まで全部してやっておいて、そのまま放り出されたら子供は悲劇です。自分のことが何もできない大人になってしまいます」。これが「甘やかす」ということだ。

一方の「手をかける」というのは、「できないことを一つずつ出来るようにしてあげて、親元から離れた時に一人でも生きていけるようにしてあげる」ことなのだという。そして、このことこそが親の仕事であると内田さんは言っている。



古い中国には、こんな言葉があった(宋名臣言行録)。

「寛(かん)なれども、縦(じゅう)に至らず」

「寛」というのは、寛大な心を意味し、「縦」というのは「放縦(ほうじゅう)」、つまり、勝手気ままに放任するということである。



この言葉は帝王学の書(宋名臣言行録)にみられるものだが、人と人との関わりの妙を示す言葉でもある。そして、それは親と子の関わりでもあるかもしれない。

寛大であることと甘やかすことは異なり、それが過ぎて「縦(じゅう)」に至ってしまえば、それは行き過ぎだというのである。



◎しあわせ


子どもが一晩中泣き止まなかったりすれば、「あぁ、うるさい。ちゃんと寝てよ」と思うのが人情。

しかし、それは「最高に幸せ」なことだと助産師の内田さんは言う。とりわけ、死産なども見てきている彼女なれば、なおさらである。



「自分の目の前に子どもがいるという状況を『当たり前』だと思わないで欲しいんです」と内田さんは訴える。

子どもが授かったこと、子どもがまとわりついてくること、それは「当たり前」ではない。これは、当たり前ではない不幸を目の当たりにしてきた内田さんが、心より思うことでもある。





「しあわせ」という日本語は、奈良時代には「為合」という字が当てられていたのだという。これは「天に合わせる」という意味らしい。

時代が下り室町時代になると、それが「仕合」となる。こちらは「人間に合わせる」という意味になる。かつては「天」との関わりが深かった日本人も、人と人との関わりが増えていく中で、人の間に「しあわせ」が生まれるようになったというのである。



「仕合」は「試合」とも同義である。武道などの試合では、相手より先に攻めることを「先の先(せんのせん)」、相手の出方を待って応じることを「後の先(ごのせん)」と言う。

子と親との関係でいえば、「後の先」とは子どものために自らを犠牲とする、つまり、子どもに合わせていくということになるのかもしれない。そして、それが「しあわせ」にも通じていくことになる。そうなるのなら、もはや犠牲は犠牲ではない。

しかし、いつまでも親が「後の先」でいると、それは「甘やかす」、中国の古典では「縦(じゅう)に至る」ということになる。子どもの将来を考えるのであれば、ときには「先の先(せんのせん)」が「しあわせ」に結びつくこともあるということだ。



◎生の反対


「生の反対はなんだと思う?」

その先生は、内田さんに唐突に聞いてきた。

「『死』じゃないですか?」と、内田さんは素直に返す。



待ってましたとばかりの先生。

「僕は『死』じゃないと思うよ」

思わせぶりな先生の次の言葉は、じつに意外なものだった。

「『生まれて来ないこと』だと思う」



「死ぬ」ということは、生まれ出たからこそ生じること。

もし、生まれることがなかったならば、「死」は生じない。

「生まれてきた者にしか、生も死もない。だから、生の反対は『生まれて来ないこと』、『無』なんだ」



そんな先生の話に内田さんは「ストンと腑に落ちた」。

それは、死産の子、流産の子をたくさん見てきたからでもあった。



「生まれるってことは凄いことなんだよ」と、内田さんは強く言う。

それは、すでに生まれてしまった我々にとっては、すっかり忘れてしまっていることでもあり、なかなか実感できないことでもある。



「当たり前のしあわせ」

できれば、それを実感できないのが一番の幸せなのだろう。

ただ、それを完全に忘れてしまった時、それは姿を消してしまうものなのかもしれない…。







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出典:致知2012年12月号
「母性こそ人を幸せにし、国を豊かにする」
posted by 四代目 at 08:01| Comment(2) | 女性・子ども | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月17日

太田光代と爆笑問題。天性の社長。


先天性の股関節脱臼。

そのため、その少女は1歳から4歳までを病院の小児病棟で過ごした。物心がついたのも病院のベッドの上。そこが最初の世界であり、すべてであった。

親がその世界に入ってくるのは、ずっと後。それは病院に里心がついてしまわないようにという配慮からだった。



独りぼっちの病院。

股関節がVの字のギプスで固められているため、身動きもままならない。壁から離れるとパタッと倒れてしまうため、壁に立て掛けられたまま。

そんな彼女を、小児病棟のほかの子たちが毎日いじめる。彼女のオヤツを取り上げてしまうのだ。それは一人一人に配られるはずの小さなビニール袋に入った、キャラメルやクッキー。ふつふつと復讐心が…。



幸いにも、その少女の股関節脱臼は生命にかかわるものではない。しかし、彼女をいじめていた他の子供たちは違った。小児ガンなどの重い病に冒されており、ひとり、またひとりと死んでいくのだった…。

「ざまあみろ」

正直、そう思ったと、後の彼女は述懐する。そして、そう思ってしまったことが後の彼女を苦しめることにもなる…。



◎凄腕社長


大人になったその少女の名前は「太田光代(おおた・みつよ)」。

爆笑問題という売れっ子タレントを抱える芸能プロダクションの女社長であり、爆笑問題「太田光(おおた・ひかり)」の妻でもある。20代で社長になって19年、今では芸能事務所のほか、店舗経営(花屋・カフェなど)やネット配信などの6社をマネージメントしている凄腕社長。

もともとはモデルから女優、お笑いまでをこなすタレントだったという光代さん。その人生は、現在の夫である太田光と出会ったことにより急転直下、そして急上昇することとなったのだ。





◎奇縁


その出会いは光代さん24歳の時。同じ事務所・太田プロに所属していたことが、その縁であり、その2年後には結婚していた(1990)。

「ビートたけしの再来」

当時の爆笑問題は、そう褒めそやされていた。ところがある日、調子に乗り過ぎた爆笑問題は所属事務所を飛び出してしまう。



「若気の至りでしょうね。その事務所はたけしさんがいたところだったんで、その再来と売り出していただけなのに…。本人がまんま受け取っちゃったんです。オレは天才だ、と」

光代さんは当時を冷静に振り返る。彼女に言わせれば、太田光は「間違っちゃいがちな人」となる。



事務所を飛び出してしてしまった、自称・天才の爆笑問題にはサッパリ仕事が来なくなってしまった。いわゆる「干された状態」である。

その後、3年ほどまともな仕事がなかったという爆笑問題。太田光は家に籠りきり、
ゲームや読書びたりの毎日。

それでも、妻の光代さんは「まあ、いずれ『何か』やるだろう。いずれ『何か』になるでしょう」と漠然と思っていた。「まあ、一人ぐらい食べさせていけばいいかな」。爆笑問題が干され続けていた3年間は、妻の光代さんが働いてその生活を支えていたとのこと。





◎不安


夫の太田光に関しては楽観していた光代さんであるが、爆笑問題の相方である田中のことは「ものすごく不安」になったという。

田中あっての爆笑問題。太田光が世に出るにしても、その前にあるのが爆笑問題。ここが起動しないことには『何か』が始まらないのだ。



ところが、その田中。バイト先のコンビニで実に活き活きと楽しそうに働いており、店長にならないかと誘われて、まんざらでもなさそうな顔をしている。

「合ってるんですよ。すっかり馴染んでるんです」と光代さん。

もはや田中は、爆笑問題のことなど忘れ、コンビニの店長を夢見ていたのである。



「これではダメだ」

さすがに光代さんも焦った。いくら爆笑問題に才能があったとしても、彼らは「スタートする方法」をまったく知らなかったのだ。

「だったら、もうしょうがないから、私がやるわ」



◎見切り発車


自分の住んでいた狭いアパートに電話を一本引いて、そこを事務所とした光代さん。経営の知識もなければ、OLの経験すらない。

「社長なんかできるか分からなかったし、どうやって会社を立ち上げていいかも分からない」



そんな「ないない尽くし」でも光代さんが思い切って立ち上がったのは、鳴かず飛ばずであった爆笑問題が、得意のネタで「NHK新人演芸大賞」を受賞したからだった(1993)。

「今しかない!」

そんな光代さんの直感を、夫の太田光は「動物的なカン」と表現する。相方の田中に言わせれば、「王(貞治)か長嶋(茂雄)かでいえば、長嶋かな」ということになる。



◎天職


「(光代さんは)行動力がすごい」

これは爆笑問題の2人とも認めるところである。

「考え過ぎちゃってる人って、すごく遅れたり、できなかったり、やんなかったりするじゃないですか。でも(光代さんは)行動も早いんです」と田中。



確かに、光代さんは「考え過ぎる人」であった。勉強は嫌いだったというが、考えることが好きだった。

「すごく、物事をいっぱい考えちゃうんですよ。ああでもない、こうでもないって。それが子供の頃、すごくストレスでした」と語る光代さん。

彼女にタレントを始めたのは、タレントがアイディアを考え出す仕事と考えたためだった。役作り、役どころ…。しかし、それでも考え過ぎて、噛み合わないところもあり、それがモヤモヤとなっていた。



ところが、社長業というのは、まさに「考えること」こそが仕事だった。社長はずっと考えていることが許された。そして、考え過ぎるということがなかった。モヤモヤもなく、どこまでもクリアーだ。

「私、これ向いてるわ。天職だ…」

そう光代さんは感じていた。社長になってたった一週間で。

光代さんがそう言うのを聞いた太田光はからかった。「一週間で何が分かったの?」。そう言って笑っていたという。





◎単独ライブ


その後、光代さんの考えること、ああすればいい、こうすればいいと考えること全てが、スパスパと気持ちの良いほどにハマっていく。「なんか、浮かんじゃうんですよ」というアイディアは、次から次へと湧いて出る。

そのアイディアの一つが、爆笑問題による「単独ライブ」。いちいち一つ一つの仕事を何重にも人と会って決めていくのは、じつに非効率。一度にたくさんの人を一カ所に集めて、一気に爆笑問題を売り込もうという大作戦である。幸い、爆笑問題のネタには定評があった。



ところが、このアイディアに当の爆笑問題は猛反発。「ライブはやりたくない、テレビに出たい」と駄々をこねる。光代さんはテレビの仕事が取れないから、ライブを提案したにも関わらず、「ライブは意味ない」と爆笑問題は大反対したのである。

「やれっつたら、やれ!」

渋る2人を一喝したという光代さん。ついに単独ライブを決行。凄まじいまでの行動力を見せつけた。



この作戦を考え抜いていた光代さんは、その事前の準備にも抜かりはない。この単独ライブのために送ったDMは、なんと4,000通。それを全て一人でこなしていた。その宛先はといえば「カン」だったという光代さん。そのカンも大当たり。

「ライブ後、一気に決まりました。レギュラー5本」

こうしてついに、太田光は「何か」になる糸口を掴んだのであった。



◎あれよあれよ


小さなアパートの一室からスタートした事務所「タイタン」は、いまや杉並区の阿佐ヶ谷のビル一つを埋め尽くすまでに成長。ほんの数年であれよあれよと、そこまでたどり着いてしまったのだという。

「30代での記憶っていうのがほとんどないんです。気がついたら40過ぎてた。42ぐらいだったかな」

光代さんが社長業に乗り出したのは29歳の時。それから10年以上は、まっしぐらだったということだ。「若い時期を全部つぶしてやってくれた」と夫の太田光。



現在の爆笑問題の活躍はご存知の通り。

テレビは週に12本、ラジオも2本のレギュラー番組を抱え、テレビで見ない日はないほどだ。



◎夫・太田光





太田光は「本」も書く。その中でも、今まで書いた「文明の子」と「マボロシの鳥」はベストセラーになった。じつはこの2冊、太田光が光代さんと約束した映画の脚本になるはずだった。どうして、それが小説に?

「怖くなっちゃったんですね、期待度が高すぎて」

光代さんが分析するには、太田光は「今を崩すのが怖い人」。ひと一倍、人の目を気にして、新たなチャレンジに二の足を踏んでしまうのだという。だから、すぐ逃げてしまう。そして、「反抗」してくる。



「すごく私のことをネタにしていた時期があって…。ダメージを与えようとしていたんでしょうね、私に。最初のうちは悪意を感じましたからね。あぁ、反撃してたんだなって。反抗期ですよ、子供の」

太田光の作戦通り、光代さんは「すっげー怖い人」というイメージが世間に印象づけられた。「お酒を飲むとスゴイ」とか…。

それでも光代さんは、「人にどう思われようが、何を言われても、私はあんまり気にしないです」と淡々。



そんな光代さんを、太田光は「織田信長」、田中は「酒」と評する(酔っ払ってお風呂で溺れかけてという前科があるため、それ以来、風呂の栓は太田光が持ち歩くようになったともいう)。





◎十字架


現在48歳となっている太田光代さん。その波乱の人生にあっても、小児病棟時代の経験が「一番つらかった」と語る。

楽しみにしていたお菓子を、イジメっ子たちに毎日取り上げられた日々。そして、そこ子たちの死を「ざまあみろ」と思っていた自分…。

「子供の時に、お菓子がもらえない感じって、もうね…、ほんとにね…、何ですかね…。何が辛かったって、あの時が一番辛かったですよ、今までの人生で。毎日毎日なんか…」



彼女がそんな自分に苦しみだすのは、小学校の後半くらいから。

遠く離れて振り返ってみると、小児病棟でお菓子を取り上げられたことくらい、「大したことではないな」と思えるようになっていた。今の自分はおいしいお菓子をいっぱい食べられるし、もっと楽しいこともいっぱいある。

でも、不幸にも死んでいったあの子たちは、もうお菓子が食べられない…。それ以来、光代さんは亡くなった子供たちの分の人生まで、自分が背負っているような気持ちになっていったという。



一時は、土下座までして爆笑問題を売り込んだという光代さん。彼女が凄腕社長として名前を轟かせているのも、その背負うものの大きさからなのかもしれない。

爆笑問題が世の中に笑いを提供できているのは、ほかならぬ彼女の背中の上である。







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出典:NHK仕事学のすすめ「社長力ってなんだ」太田光代
posted by 四代目 at 08:13| Comment(1) | 女性・子ども | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする