2011年07月10日

政治的判断の非人道性に立ち向かう「国境なき医師団」。彼らはつねに究極の選択を迫られている。

3.11大震災の直後、3月12日に「国境なき医師団」は被災地に入った。

先進国で医療活動をするのは、彼らにとっては異例中の異例だ。

病院ごとゴッソリと流されてしまった東北の被災地は、途上国の紛争地とも見紛うほどの惨状であったという。

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「国境なき医師団」の活動の中心地は、途上国であり、紛争地である。

このノーベル平和賞まで受賞することとなるNPOの設立のキッカケとなったのは、ナイジェリアの「ビアフラ戦争(1967〜1970)」である。



民族虐待に業を煮やした「イボ族」は、1967年にナイジェリアからの独立を宣言し、「ビアフラ共和国」を建国。

「イボ族」は、ナイジェリアの三大部族の一つで、キリスト教を信仰(他部族はイスラムか半イスラム)し、その商才から「黒いユダヤ人」とも呼ばれていた。

「ビアフラ共和国」を国家として承認したのは、世界で4カ国(コートジボワール、ザンビアなど)しかなかったが、フランス・南アフリカなどは、ビアフラを支援した。

一方、世界中の多くの国々は、ビアフラに同情的であったものの、ナイジェリアを消極的に支持せざるをえず(政治的判断)、ソ連は積極的にナイジェリアに肩入れした。



独立を機にナイジェリアから一斉攻撃を受けた「ビアフラ」は、あっという間に劣勢に立たされ、食糧や物資が極端に不足。国土を覆わんばかりの「餓死者」で満ち溢れた。

「骨と皮になっても、お腹がポッコリとした子供たち」の写真は、世界中に衝撃を与えた。しかし、それでも各国政府は中立の姿勢を崩さない。「赤十字」でさえもナイジェリア軍に妨害を受け、沈黙を守る始末。

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こうしてムザムザと餓死せざるをえなかった人々は、100万人とも200万人とも言われている。

この惨劇、そして政治的判断の非人道性に、真っ向から立ち向かわんと結成されたのが「国境なき医師団」であった。



「国境なき医師団」は、現在、19カ国に支部を置き(本部はない)、世界のおよそ70ヶ国で、果敢な活動を続けている。

現場の医療は、充分な設備が整わないことが多く、つねに熾烈な決断を迫られる。

例えば、頭に銃弾を受けた少女が担ぎこまれても、手術設備がなければ、意識はあっても「黒カテゴリー(死亡群)」として治療を諦めなければならない。もちろん、日本であれば「赤カテゴリー(最優先治療群)」として、真っ先に治療されるのだが‥。

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現場はスピードが命であり、その場で「できること」が最優先されるのである。



昨日、念願の独立を果たした「南スーダン」でも、「国境なき医師団」は活躍している。

独立したとはいえ、南スーダンのインフラは、無きに等しい。舗装された道路も少なく、水・電気などは望むべくもない。

ただあるのは「石油資源」のみ。しかし、油田は数多くあるが、「製油所」が国内にはない。そのため、南スーダンの国民は、何時間もガソリン・スタンドに列をなし、挙句の果てにはガソリンが手に入らない。

医療の必要性は切実ながら、こうした状況では、どうにもならないのが現状である。スーダンの南北対立の根源となっている石油の宝庫「アビエイ地区」では、今も武力衝突が絶えず、その負傷者達の数も増える一方である。

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「国境なき医師団」は、こうした危険なアビエイ地区においても、2006年から命をかけて医療活動を行ってきた。

紛争により2000人以上の負傷者が担ぎこまれ、移動外来では1000人以上の患者の診察をしたという。

しかし、残念ながら、今年5月には撤退を余儀なくされた。暴力の激化である。

「国境なき医師団」は、高潔な志を持つものの、時には「非情」ともうつる「撤退の決断」を下さなければならないときもあるのである。

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彼らの決断は、つねに究極的である。

テロリストは助けるのか? もちろん、助ける。

助けた途端に、新たなテロ活動に向かうかもしれないが、そうした政治的判断は二の次であり、「今の現場」を改善させることを最大の目的にすえる。



途上国での不幸は、先進国のシワ寄せであることが、ままある。

名もなき民衆たちは、目には見えない利権の餌食となる。

先進国が犯し続ける「無意識の罪」を、「国境なき医師団」は贖罪し続けているのかもしれない。

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それは、あたかも、病気の原因をつくっておいて、病気を治しに行っているようなものである。

このチグハグさが、世界の現実であり、「国境なき医師団」の存在意義でもあるのかもしれない。

政治の歪(ひず)みを修正すべく、日夜奔走する彼らの活動資金のほとんどは、民間の寄付により成り立っている。

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出典:爆笑問題のニッポンの教養
「戦渦の外科医ノブコ〜国境なき医師団・黒崎伸子」

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2011年07月08日

フランスから三陸に届いた最高の贈り物。これでカキ養殖が始められる。

東日本大震災による大津波で「壊滅」した、三陸の「カキ」。

絶体絶命の三陸の「カキ」を救わんと、遠く「フランス」から、「イカダや縄、作業着などカキ養殖に必要な装備7トン」が成田空港に届いた。

7月中旬までに、仕込みを終えなければ、カキの養殖が一年遅れる。「時間との戦いです」とフランスの物流担当者は急ぎに急いだ。



なぜ、フランスから「カキ養殖」の道具が届くのか?

じつは、1970年と1990年の二度にわたり、フランスで「カキの病気が蔓延し、養殖業者は危機に陥った」。

その窮状を見かね、助け舟を出したのが、日本のカキ養殖業者だったのである。

今回の支援は、その好意に報いようとするもので、プロジェクト名は「France o-kaeshi(フランスのお返し)」である。

「今度は、日本を助ける番です」と関係者は熱く語る。



日本のカキは、その8割が三陸に由来する。

世界のカキが、何らかの打撃を受けたとき、救いの手を差し伸べてきたのが、他ならぬ三陸地方なのだという。

今年3月にも、フランスでは新たな病気が発生し、三陸に助けを求めようとしたところ、逆に三陸が壊滅した事実を知った。

打撃の比は、フランスどころではない。三陸がやられるということは、世界のカキが危機に陥るといっても過言ではない。

日仏は一致団結して、「世界の三陸を救わん」と、今回のプロジェクトは、一気呵成に始動したということだ。



カキの養殖には、3年がかかる。

今回のフランスの好意は、3年後に実を結ぶことになる。



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2011年06月19日

親日国家ブータン。その友好の礎を築いた日本人「西岡京治」。

「ブータン」という国名を聞いても、ピンとこない人が多いかもしれない。

大きさは九州ほど、人口は70万人弱。日本で、70万人以下の都道府県といえば、鳥取県しかない。

ヒマラヤのふもとの、この小さな国は、「世界で一番幸せな国」とNHKで紹介されていた。

また、世界初の禁煙国家としても有名である。



世界で唯一「チベット仏教」を国教とする「ブータン」は、大の「親日国」である。

仏教を信仰する国民性に加え、外見が日本人ソックリということもあり、お互いに相通ずるものを感じるのかもしれない。

しかし、かつて、ブータンと日本の「かけ橋」となった人物がいたことは、是非、知っておくべきである。



その人物とは、「西岡京治(にしおか・けいじ)」氏である。

彼は「ブータン農業の父」として、ブータンの人々に最も尊敬される日本人である。



1964年、西岡氏は農業指導のために、ブータンに渡る。

西岡氏が、まず植えたのは「大根」。

日本から持っていった種は、ブータンの人々が見たこともないほど、大きく立派に育ち、皆を驚かせた。

西岡氏は、大根はじめ、数々の野菜を見事に育て上げる。彼はもともと植物学者でもあり、名うての実力派であった。



異国から来た西岡氏に、ブータンの人々は、はじめ半信半疑であったものの、見事な野菜の数々を大絶賛。

喜んだ国王は、西岡氏に滞在の延長を請い、西岡氏は二つ返事で承諾。

西岡氏の任期は、当初2年間であったが、ついには28年間の長きに及ぶこととなる。



次に取り組んだのは、稲作。

ブータンでは、苗をバラバラに植えるのが普通だったが、西岡氏は日本の田んぼのように、キレイに一列一列、並べて植えて見せた。

列で植えると、手押しの除草機が入りやすく、風通しも良い。

収量は見事40%アップ。

次々と水田を広げてゆき、彼の開発したジェムガン県の水田は、かつての50倍の面積に拡大した。

現在のブータンでは、西岡氏の伝えた日本風の田植えが主流となっている。



西岡氏の信念は、「身の丈にあった開発」。粘り強く、忍耐強く、地元の住民の意見を尊重しながら進んで行った。村人との交渉が800回に及んだ例まである。

無駄な費用をかけることも良しとせず、「最小の費用で、最大の効果」が彼の志すところであった。

 

西岡氏の無私の尽力と、ブータンの人々の努力によって、ブータンの農業は飛躍的に生産性を上げた。

ブータン国王は、西岡氏の功績を讃え、ブータンにおける民間人の最高位「ダショー」の称号を贈る。



1992年、日本にいた西岡氏の妻に訃報が届く。

「ダショー・ニシオカが亡くなられました。」

西岡氏の葬儀は、国葬として執り行われ、国を挙げて感謝の意が表された。弔問はブータン全土から届き、その葬儀の壮大さは、過去に例がなかったという。

妻の希望もあり、西岡氏はブータンの地に骨を埋(うず)める。



ブータンに一身を捧げた西岡氏。

日本人で彼の名を知る者は少ないが、ブータンの人々は「ダショー・ニシオカ」として敬愛している。



ブータン国王が、昭和天皇の大喪の礼の際に、日本を訪問。

多くの国々が日本に経済援助を求める中、ブータン国王は毅然と言い放つ。

「私は日本国天皇への弔意を示しに来たのであって、日本に金を無心しに来たのではありません」

ブータン国王は、この後、一ヶ月の喪に服したと伝わる。



先の東日本大震災にあっては、震災翌日に国王主催の「供養祭」が挙行される。

加えて、18日には義援金100万ドルが、日本に贈られた。

ブータンは小さな国とはいえ、日本にとっては、世界一大きな味方である。




「親日国家」関連記事:

太平洋の島国「ミクロネシア」に誇る日本の心。両国の絆は「森小弁」により結ばれた。

美しきサンゴの国「パラオ」。その歴史に秘められた「親日」への想い。

posted by 四代目 at 04:49| Comment(3) | 社会貢献 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月07日

象が教えてくれた、そのままの自分を認める勇気と、その可能性。

法律上では
明らかに失明と診断されるほど
視力の弱い少女がいた。

しかし、驚いたことに彼女は17歳になるまで、
自分の視力が、それほどまでに弱いことを
気づかなかったという。

気づかなかったというよりは、
「認めなかった」というほうが正しい。

「特別な学校に行かせたくない」
「レッテルを貼りたくない」
「限界を決めつけたくない」

という両親の強い想いのもとに育てられた少女は、
自分の障害を決して認めず、
不屈の精神で、健常者のごとく振舞い続けた。

健常者になりきりすぎて、
いつの間にか自分の視力の弱さすら
忘れてしまっていた。

ところが、17歳の誕生日に、
妹の付き添いで眼科に行き、
冗談半分で診察をうけた際、
医師に、自分の目が見えないことを指摘されたのだ。

それでも彼女は認めなかった。
普通の人に負けまいと仕事に就き、
グローバル企業のコンサルタントとして
第一線で活躍を続けていた。

しかし、28歳のとき、
ついに全く視界が閉ざされる。

ここに彼女は絶望する。
無闇に全力で走り回り、石につまづき転倒。
立ち上がる気力は、もうなかった。

その暗闇の中、
ひとしきり泣きじゃくった後、
彼女はトンでもない解決策に狂喜する。

「そうだ、象使いになろう」

突然立ち上がるや、
そのトンでもない計画を
素早く実行に移す。

インドに行ったこともなければ、
ヒンディー語も話せるわけがない。

それでも彼女は飛び立ち、
象にまたがり、インド1000kmを旅する。

そうして彼女は
初めて自分の思いに気づく。

今まで自分は「本当の自分」ではなかった。

目が見えないのに、
見えると無理やり思い込み、
「見せかけの自分」を作り出していた。

そのままの自分を全否定して、
自分を全く信じていなかった、と。

そのままの自分を認め、受け入れた瞬間、
彼女が求めてやまなかった「自由」が
これでもかと眼前に広がってゆくのを感じたという。

象の旅1000kmが終わる頃、
彼女に寄せられた寄付金の額は、
6千人の白内障患者を救うほどになっていた。

6千人の失明を救うことができたのだ。

現在、彼女は社会企業家として活躍中である。
彼女が講演する姿を見ても、
彼女の目が見えないと思う人は、まずいないだろう。


出典:TED
キャロライン・ケイシー: 限界の向こう側

posted by 四代目 at 12:11| Comment(0) | 社会貢献 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月03日

車椅子で行ける場所がわかるオンライン地図

ペットボトルのリサイクルを寄付へと変えるという
画期的なアイディアを成功させたラウル・クラウトハウゼン氏

彼の現在の取り組みは、
車椅子が利用できる施設を
地図上で検索できるWebサービス作りだ。

ベルリン発のこのサイトは
日本を含め7ヶ国に広がっている。

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彼自身が先天的な障害をもち、
車椅子の生活をしているのだが、
外出先が車椅子でも大丈夫か事前にわからないと、
現場まで行ってから引き返さなければならないこともあるという。

彼のサイトは、
不便をこうむる車椅子の人々が
少しでも少なくなって欲しいという願いの表れだ。

このサイトがきっかけになって、
社会全体が車椅子に優しい社会へと
変わって欲しいと、彼は言う。

そのために、まず障害者が困っていることを
社会に訴えていく必要があるのだ。

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ラウル氏は言う、
障害のない人は、「障害がない状態」にあるに過ぎない。
年をとれば誰しも不便を感じる機会は増えてゆく。

彼のサイトに登録されている情報数は
まだまだ十分ではない。

基本的にユーザーからの書き込みで
情報が増えてゆく、参加型の仕組みなのだが、
書き込み数が伸び悩んでいるのだという。

地域の情報を書き込んでくれる協力者を
ラウル氏は切に望んでいる。
関心のある方は、下記サイトを覗いていただきたい。

ホイールマップ wheel map


出典:NHK地球ドキュメント ミッション
「MISSION #29 “小さな善意”で世界を動かす
posted by 四代目 at 18:25| Comment(0) | 社会貢献 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする