2011年05月21日

革命の成果に落胆し、チュニジアを去る若者たち

チュニジアの若者たちは腐った政府に我慢ならず、意を決して抗議デモを敢行。

独裁者ベンアリは、その勢いに押し出される形で、あっさり国外へ逃亡。暴挙とも思えた抗議デモは、なんと「奇跡的な革命」へと成就してしまった。あまりにも美しすぎる革命であった。

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ところが、新生チュニジアの新たな船出は、いきなり座礁しかけている。

革命に立ち上がった若者たちが求めたものは「仕事」、ただそれだけであった。しかし、革命後のチュニジアには、その「仕事」がない。

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「雇用」は国の生命線である。アメリカがどれほど自国の失業率の推移に過敏になっていることか。

チュニジアの収入の6割は観光である。政変による政情の不安定化は、外国人観光客を遠ざけてしまっていた。



チュニジアでは、「持てるもの」と「持たざるもの」が水と油のごとく、ハッキリと分かれているという。金のない者には仕事は回ってこない。

若者たちが期待したのは、水と油をひっくり返すことであったのだが、革命によって一時的に水と油が混濁したものの、落ち着いてみれば、この図式は何も変わっていなかった。

独裁者は去った。しかし、それは表面的な事象に過ぎず、独裁者を支えていたピラミッドのような大きな土台は健在だったのである。



革命後も仕事がないチュニジアでは、若者たちの「淡い期待」は、たちまち「失望」へと変わった。

デモに参加した若者たちは、今、「仕事」を求めてチュニジアを後にしている。目指す先は「ヨーロッパ」だ。

新たな「希望」をヨーロッパに見出そうと、若者たちは小さなボートで海へと漕ぎ出した。ボートが傾くほど無理やり乗り込み、地中海の寒さに震えながら、新天地を目指した。

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多くの若者がたどり着いたのは、チュニジアからおよそ100kmのイタリア・ランペドゥーサ島である。人口5,000人のこの島に、人口の5倍にあたる2万5,000人の難民が押し寄せた。



島は大混乱に陥った。島民は「俺たちの生活がムチャクチャにされた」と激怒。

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事態を重く見たイタリア政府は、難民たちをイタリア各地へ移送することを約束。しかし、それは4月5日以前の難民に対してであり、それ以降の難民はチュニジアへと「強制送還」。

難民たちは「チュニジアにだけは戻りたくない」と、一時収容所に放火までして逃げ回る。命がけで海を渡ってきた人々の必死の抵抗であった。



独裁者ベンアリを追い出した「華々しい成功」は、革命達成の成果ではなく、緒戦の勝利に過ぎなかった。

チュニジアの真価が問われるのはこれからである。

革命からわずか数ヶ月、まだ結論を出すには早すぎるだろう。大きな果実を実らせるには、それ相応の時間も必要である。

革命の機運に乗じただけの「付和雷同」の面々は国を去ったが、チュニジアを逃げ出さずに、断固として踏み止まった気骨ある若者たちは、チュニジアで歯を食いしばっている。




「チュニジア」関連記事:インターネットに葬り去られたチュニジア独裁政権の顛末記。

「アラブ革命」関連記事:エジプト、革命のその後…。いまだ見えぬ道筋。


出典:ドキュメンタリーWAVE
「地中海・難民島〜ジャスミン革命は何をもたらしたのか」
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2011年05月17日

世界一「自己防衛」の意識が薄い日本人



アメリカ(人口約3億人)では「個人が所持する銃の数は2億丁以上」

「年間10万人近くが銃撃され、殺人や自殺なども含めて一年に3万人が銃で死亡。一日あたり80人が犠牲になっている」

それでもなお、アメリカは銃を規制しない。



アメリカという国は、「原住民との戦いの中でつくられた」国家である。国家の開拓は、つねに危険にさらされていたため、「自分の身は自分で守る」という「自己防衛」の意識が極めて強くなった。

「自己防衛」は、「自己責任」である。死んだら自分が悪いのだ。そのために銃は不可欠である。



アメリカ国民のもつ「自己防衛」の意識は強固である。その意識で見れば、日本は「防衛を他国に任せる国家」であり、「自己防衛」の真逆をいく国家である。アメリカ人の目には、日本人がまったくの「無責任」に映る。

日米同盟があるとはいえ、「日本が自ら何もしなければ、アメリカが日本の防衛に出動する」ことはありえない。

「領土維持の決意をハッキリ示すには、領土防衛のために血を流す覚悟がなければならない」とジェームス・アワー氏(国防総省・元日本部長)は言う。

「アメリカはお人好しで日本の防衛をしてくれるのではない。」

「どこまでも国益追求の手段としての同盟である。」



アメリカ人に比すれば、日本人は「自己防衛」の意識が弱いと言わざるをえない。「平和」を水か空気のように思っている節すらある。

日本は古来より単一民族の国家であったため、他人を無条件に信頼しすぎる面がある。これは美徳の一つでもあろうが、違う民族を相手にするとなると、話は違う。暗黙の了解となるベースが異なるからだ。

アメリカは他民族国家であるため、はなから他人を信頼していないところがある。宗教というものが必要になるのもそのためだろう。信なきところにこそ、信を求める思いは強くなる。



日米の国民性は、天と地ほども異なる。そんな凸凹コンビが今までうまくやってこられたのは、両国が上り調子であったからであろう。ひとたび、不調に陥れば、その関係が維持できるかどうかは疑わしい。

日本は世界を信頼しすぎているのかもしれない。


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2011年05月13日

10歳の少年が疑問に思う、ビンラディン氏殺害。彼は現代のジェロニモか?



「もう少しマシなやり方があったんじゃないの?」

これは、「ビンラディン氏殺害をどう思うか」と尋ねたオバマ大統領に対する、10歳の少年の答えである。

米軍は作戦上、ビンラディン氏を「ジェロニモ」と呼んでいた。

「ジェロニモを発見」

「ジェロニモを殺害」

「ジェロニモ」という名は、もともとアメリカ大陸の原住民インディアン「アパッチ族」の戦士の名前である。彼はアメリカ政府に最後まで抵抗した人物である。

このインディアン掃討作戦を完遂したのは、オバマ大統領が尊敬してやまないリンカーン大統領である。リンカーン大統領の民族浄化は「ナチス・ドイツも青ざめる」といわれるほど徹底したものであり、その様はまさに「殲滅」である。

リンカーンの名言「人民の、人民による、人民のための政治」にある人民とは、アメリカ政府が認めた人民であり、悪と認めたインディアンは入っていないのである。

アメリカ人は「力は正義」の旗頭のもと、平和に暮らしていたインディアンを皆殺しにして、アメリカ大陸を手に入れた。最後まで抵抗したジェロニモは、悪の象徴ではなく、むしろ民族の尊厳を示した英雄であろう。

ジェロニモは米軍の虜囚として生涯を閉じるが、彼の墓前には、インディアンたちによる供物が絶えることがないという。

彼の名をビンラディン氏に冠するところに、センスのズレがある。そして、アメリカの正義の疑わしさも、ここにある。

オバマ大統領は、いやしくもノーベル平和賞受賞者である。その立場を鑑みれば「もう少しマシなやり方があった」であろう。


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2011年05月11日

ビンラディン殺害にみるロシアの渋い反応。



アメリカによるビンラディン殺害を、ロシアはどう受け止めたのか?

ロシアもテロ組織アルカイダには散々やられている。

「モスクワ〜サンクトペテルブルク間の列車爆破テロ」
「モスクワ地下鉄爆破テロ」
「ドモジェドヴォ空港爆破テロ」

それでも、ロシア国内におけるビンラディン氏殺害の評価は概して低い。「実際のテロ活動に加わっていない、武器を持たない年寄りを殺害したのは、アメリカ大統領の評価を高めることにはならない」。「ビンラディン容疑者を殺害しても思想はそのまま残り、ネット上でどんどん広がっていく」などなど。

狂喜一色のアメリカとは異なり、ロシアの反応は渋い。

NATOによるリビア空爆の決議に際しても、ロシアはアメリカとは一線を画す。プーチン首相は「空爆は、かつての十字軍の聖戦を思い起こさせる」と鋭く非難。

テロや軍事政権に対する世論は、時代とともに変わっている。もはや、直接的な軍事行動が単純に評価される時代ではなくなっているのだ。旧来のシンプルさをもつアメリカ、複雑味を増しているロシアがここにある。

いつまでも「目には目を」とハムラビ法典をやっているわけにはいかないだろう。


posted by 四代目 at 09:01| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月08日

絶望の裏切りを越え、奇跡的な生還を果たしたベトナム難民船「ボリナオ52」

「人肉を喰らう」という状況は、
人間として最も過酷な状況かもしれない。

ベトナム戦争は
戦後20年で100万人以上の難民を生んだ。

彼らは貧素なボートで国を脱出し、
海を漂流しながら、
他国の船に救助されることのみを祈った。

アメリカの海軍に発見されれば、
それは大当たりだった。

アメリカは難民に対し、
最も寛大な国の一つであったからだ。

しかし、アメリカ海軍に無視された
悲劇の小船があった。

「ボリナオ52」と呼ばれる船がそれである。

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「ボリナオ」とはフィリピンの地名で、
この船がたどり着いた港であり、
「52」とは生存者の数である。
もとは110人の乗員がいた。

「ボリナオ52」は漂流19日目に、
アメリカ軍に発見されるのだが、
わずかばかりの食糧を与えられただけで、
事実上、見捨てられた。

そのアメリカの艦船は
イラン・イラク戦争の軍務を優先し、
難民の救助を軽んじたのだ。

アメリカ本国に電話の一本もいれれば、
ほかの船が救助に向かうこともできたのだが、
それすらしなかったことで
のちに轟々たる非難を浴びる結果となる。

アメリカ艦船に発見されたと
狂喜乱舞していた「ボリナオ52」の
落胆は如何ほどであったろう。

最も「信」を置いていた人々に
無残にも裏切られたのだ。

すでに19日間も漂流し、
精も根も尽き果てていた。

しかし、死の淵にありながらも、
人々は生への想いを諦めなかった。

船に浸水した水を
たった一個の空き缶で汲み出し、
必死に生きた。

生きるために、
尿を飲むことも、
人肉を喰らうこともした。

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その執念の成せる業であろうか。
「ボリナオ52」は漂流37日目にして
奇跡的に救助される。

海の藻屑と消えて当然の命は、
半数の乗員を犠牲にしながらも、
生き長らえたのだ。

「ボリナオ52」を見捨てた罪を問われた
揚陸艦ダビュークのベイリアン艦長は、
職務怠慢により有罪、解任。

「ボリナオ52」の生存者たちは、
フィリピンの難民収容所にありながら、
裏切り者であった艦長の罪を免除するよう
請願書を提出したという。

死の淵でみた一筋の光明、
それに裏切られながらも生き残った人々の目には
いったい何が映っていたのであろうか。


出典:BS世界のドキュメンタリー
シリーズ ベトナム戦争
 「ボートピープル 漂流の37日間」
posted by 四代目 at 12:31| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする