2012年11月13日

日露を戦った英傑二人「秋山兄弟」。酒と炒り豆と…


明治時代、日本の陸軍大学校に赴任したメッケル少佐は驚いた。

「生徒の中に『欧州人』がいる」と。

いや、それは欧州人ではない。伊予生まれの列記とした日本人「秋山好古(あきやま・よしふる)」である。



彼自身は「顔の美醜には関心がない」とは言うが、かれは紛れもなく「美男」であった。それも欧州系の…。それは弟・真之(さねゆき)とて同様で、この兄弟はともに、目鼻立ちの整った美しさを備えていた。

以下に記すことではあるが、兄・好古は陸軍、弟・真之は海軍において、それぞれが日露戦争を勝利に導く立役者となっていく。





「最後の古武士」と呼ばれるのが兄・好古である。微禄ながらも武士の家に生まれ育った好古には、「私利私欲」というものが全くなく、「質素倹約」に務める「質実豪胆」なる武人だったのだ。「贅沢に流される」などというのは全く縁遠い人物だったのである。

この武人の兄と東京で共に暮らしていた弟・真之、足袋も帯も贅沢だとして使わせてもらえず、食事もたった一つの茶碗を二人交代で使うことを強いられる。新聞など読むのももってのほか。ある雪の日に下駄の鼻緒が切れた時などは、「裸足で行け!」と厳格なる兄・好古に喝を入れられた。

そんな兄を、弟・真之は畏れ、かつ敬い続けた。それゆえ、一時志した文学への道を諦め、兄と同じ軍人の道を歩みはじめることにもなる。



「好古にとって、『酒』は主食であるらしかった」

粗衣粗食なる好古であったが、酒ばかりはその例から漏れる。戦場にあってすら、酒を呑まなかった日は一日もなかったと伝わる。呑むどころではない、浴びるのだ。

「真之は『豆』である」

3度のメシよりも好きという炒り豆、それは常に軍服のポケットに忍んでおり、事あるごとにポリポリポリポリ。



「態度が悪い」というのは兄弟共通であったらしい。

とりわけ、弟・真之の「奇行」はよく知られていた。ところ構わず屁を放(ひ)り出し、立ち小便も遠慮がない。軍議の最中でさえ、水虫の足を掻きむしる。

そんな奇行の真之に対して、上司であった東郷平八郎は決して戒めることがなかったという。「奇行の果てに湧き出てくる智謀」、それに東郷は期待していた。



「男子は生涯一事を成せば足る」

これが武人の兄・好古の信念である。そして、彼にとっての一事とは「騎兵」であった。

好古が陸軍大学校の教壇に立ったある日、つかつかと窓辺に歩み寄るや、やにわに拳を握りしめ、窓ガラスを叩き割った。そして、一言。「騎兵とは、これだ」。

彼の言わんとするところは、騎兵とは「高い攻撃能力を備えながらも、防御力は皆無に等しい」ということだった。敵を粉砕することはできるかもしれないが、自分は血まみれになる覚悟をしなければならない。実際、窓ガラスを叩き割った好古の拳は血塗れになっていた。





そして迎えた日露戦争。

陸軍には好古、海軍には真之の姿がそれぞれにあった。

そして、兄・好古は「黒溝台会戦」にて、弟・真之は「日本海海戦」にて、それぞれ赫々たる功績を成し遂げることとなる。



まずは兄・好古(よしふる)。

黒溝台会戦において自らが騎兵を指揮し、史上最強と謳われていたロシアのコサック旅団に決戦を挑んだ。真正面から押し寄せる強靭極まりないコサック旅団。好古の騎兵隊が「木っ端微塵に砕け散る」のは、ほぼ確実と思われた。

ところが好古、この時に思わぬ行動にでる。なんと「下馬」である。騎兵の本領を捨て、人馬ともに塹壕へと潜ったのだ。

じつは卓越した先見性を持っていた好古の騎兵隊は「機関銃」を持っていた。そのほかにも砲兵や工兵をも随伴させており、塹壕にあっても敵を邀撃することが充分に可能だったのだ。「防御力が皆無に等しい」と分かっていた騎兵隊に対して、好古は充分な備えを施していたのである。



好古の機関銃は、ロシアのコサック騎兵に対して猛烈に火を噴いた。

数にして5倍という巨大な敵の最前線に立たされながら、好古は一歩も引くことがなかった。それどころか、史上最強のコサック騎兵を跳ね返してしまったのだ!

世界が驚嘆した瞬間である。「まさか極東の島国で編(あ)まれたばかりの少勢が…」



好古は自らが信念とした「一事」を成した。

その手にはトレードマークともなっていた「切れない指揮刀」があった…。





そして弟・真之(さねゆき)。

「智謀湧くが如し」とのちに東郷が評することとなる彼も、それは勝手に湧きいでるわけではない。脳漿を搾り尽くして戦術を立て続けたのである。

確かに真之は天才であった。しかし、神ではない。日露戦争の序盤戦となった旅順港の閉塞作戦は、真之が実行策を練り上げていながら、3回すべてが失敗に終わった。黄海海戦においても、乾坤一擲のともに敢行した丁字作戦が失敗している。

こうした失敗のたびに、真之の神経は限りなく消耗したに違いない。



それでも、海軍総司令官の東郷平八郎は真之を信じ続けた。

参謀長の島村速雄も「作戦立案のすべてを任せる」と言い切った。

世界最強といわれるロシアのバルチック艦隊は、着々と迫りつつあった…。





「真之の脳髄がいかに悲鳴を上げ、かつ困憊しきっていたか」

その末に編み出されたのが七段戦法。バルチック艦隊を打ち破る真之の秘策である。

ついにその巨大な艦隊を眼前にした時、真之は「天気晴朗なれども、浪高し」との歴史的電文を大本営に発している。文学の才あふれる彼らしい美しさのある電文、「もはや神韻すら帯びている」。



のちに彼が「百発一中」というロシア艦隊の砲撃は、高い浪に翻弄された。そして、「百発百中」という日本海軍の一砲は、バルチック艦隊の旗艦であった「スワロフ」の司令塔を吹き飛ばし、ロシア海軍の総司令官であるロジェストウェンスキーに重傷を負わせた。戦闘開始からわずか15分の出来事であった。

「勝敗は最初の30分で決まった」

真之の七段戦法はそのすべてが実行されたわけでも、すべてが成功したわけでもなかった。それでも、バルチック艦隊はほぼ全滅した。ロシアのウラジオストック港にまでたどり着けたのは、たった3隻のみである。

「大日本帝国万歳、大日本海軍万歳、世界空前の大捷(大勝利)、敵艦隊全滅」

その第一報をきいたイギリスは最初、信じなかった。「まさか、極東の小国が…」。



さらに真之の名声を高めたのは、勝利の後の日本海軍「解散の辞」であった。

それにはこうある。「神明はただ平素の鍛錬に努め、戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安んずる者よりじかにこれを奪う」。

あくまで真之は倨傲を戒め、謙虚を貫いた。





戦火の止んだ晩年、この兄弟の想うところは「それぞれ」であった。

兄・好古はあくまでも「現場の指揮官」であろうとした。中学校の校長を引き受けることになる好古の胸の内には、「現場で指揮を執り、後続を教え導きたい」との想いが強かったのかもしれない。

一砲、弟・真之は「宗教の門」を叩いた。疲弊しきった脳漿を休ませるためであろうか。実際の戦闘の場においても、真之はつねづね「天佑」に助けられたとしか考えられない場面を数々目にしてきている。それゆえ、彼は自然と「神助」を信じる想いが強くなっていた。



死の床にあった二人も対照的であった。

兄・好古の最期の言葉は「馬を曳け」。彼は病床にありながら、心は戦場を駆け続けていたのである。

弟・真之が臨終に際して詠んだ句は、「不生不滅、明けて鴉の三羽かな」。



日本の誇る明治の英傑二人。

酒と炒り豆が供えられぬ日は、未だない…。







関連記事:
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出典:歴史人
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2012年09月01日

「非武の島」、沖縄。グアムとの数奇な共通点。


およそ200年前、アジアの国々を巡っていたイギリス艦長は、初めて沖縄(当時・琉球)の人々を目にして驚いたという。

「武器を持っていない…」



その驚きをナポレオンに伝えると、戦闘に明け暮れていたナポレオンはもっと驚いた。

「武器なくして彼らはどうやって戦うのだ?」

ナポレオンの抱いた当然の問いに対して、艦長はこう答えた。「彼らは戦争をしたことがないのだそうです。武器を持たずに、平和を保っているのです」

「なにーっ! 戦争がないだとーーーっ!」。ナポレオンは叫んだ。「この世に戦争を知らない人々がいるなどありえない!」と言わんばかりに。



◎非武の島


この”やりとり”は、バジル・ホールによる「大琉球探検公開日記(1826)」の一節である。この航海記が公開され、沖縄(琉球)は「非武の島」、武器を持たない島としてヨーロッパ各国に知られるようになったという。

しかし、戦争を知らなかったはずの沖縄(琉球)の人々は、第二次世界大戦の末期において、最も凄惨な地上戦の舞台とされてしまった。何より悲しいことは、犠牲者20万超のうちの半数以上が、本当に武器を持っていなかった一般住民だったということだ…。



戦後67年、今なお沖縄には一家全滅によって持ち主を失ったままの土地が点在する。「空屋敷(あきやしき)」という草ボーボーの空き地がそうであり、その中央には知人や近所の人々が小屋を立てて、その霊を祀っている。

また、ある墓地はアメリカ軍の基地の”中”に取り込まれてしまっている。普天間基地のフェンスの向こう側にあるその墓地には、年に一度しかお参りが許されていない。

かつて、「非武の島」とよばれたこの島は、大国・日本とアメリカによって「戦場」とされ、それが終わると「基地」にされてしまったのであった…。



◎2つの「基地の島」


沖縄の味わっている数奇な運命は、太平洋に浮かぶ「グアム島」とも奇妙に共通している。沖縄同様、グアム島も第二次世界大戦の戦場となり、そして「基地の島」となったのだ。

第二次世界大戦における日米戦争は、日本軍による真珠湾攻撃でその幕を開けるわけだが、グアム島が爆撃されたのは、そのわずか5時間後。そして2日後には、完全に日本軍により占領された。



グアム島は、日本がアメリカから奪った唯一の有人アメリカ領土である。この点も、沖縄と同じである。沖縄もアメリカに奪われた唯一の日本領土であるのだから。つまり、沖縄・グアムの両島は日米両国間で「奪い奪われた本国領」なのである。

グアム島は戦争中にアメリカ軍が奪還を果たす(1944)が、沖縄が日本に戻ってくるのは、戦争終結後のことである(1972)。



そして、第二次世界大戦の戦火がやんだ後、沖縄・グアムともにアメリカ軍の重要な軍事拠点とされ、多くのアメリカ軍基地が建設された。

沖縄は日本本土の0.6%の面積を占めるにすぎないが、その小さな島に日本に置かれたアメリカ軍基地の74%が集中している。同じように、グアム島の面積の3分の1は、米軍基地によって占められている。

アメリカ軍によって、沖縄が「太平洋の要石(かなめいし)」と呼ばれたのに対して、グアム島は「ヤリの先端」とされたのである。



◎為政者の望む基地移転


沖縄の米軍基地問題が膠着すると、その移転先として名前の挙がったのが、他ならぬ「グアム」であった。

人口16万人のグアムに現在配備されているアメリカ陸海空軍は、およそ5,000人。そして、沖縄から移転してくる海兵隊も、およそ同数の5,000人。グアム政府のエディ・カルボ知事は、この移転を強く支持している。

「1990年代の基地削減で、グアムから海兵隊が撤退してしまいましたが、もう一度この島に海兵隊に来てもらうのが我々の願いなのです」



為政者であるカルボ氏が移転計画に積極的なのは、それが島の経済発展に寄与すると考えているからである。現在、グアムの失業率は13%、若年層に限ればその数字は38%にまで跳ね上がる。観光ばかりに強く依存してしまっている島の経済は、景気の波に敏感すぎるのである。

「期待できる経済効果は、建設ブームとそれがもたらす『雇用』です。さらに、海兵隊の兵士からは、その『所得税』がグアム政府に入る仕組みもあるのです」



◎チャモロ人


こうした為政者の意見に猛反発するのが、島の半数近くを占める元々の原住民『チャモロ』の人々だ。グアム島に人が住むようになったのは、紀元前3000〜2000年頃と言われているが、チャモロ人たちはその頃からこの島に暮らしているのである。



ところが、チャモロ人の舐めてきた歴史は、周辺の海以上に塩辛い。大航海時代の幕開けとともにやって来たスペイン人たちは、チャモロ人たちの村々を焼き払い、10万人以上いたチャモロ人は、わずか5000人以下にまで激減してしまった(スペイン・チャモロ戦争、1669年)

無敵であったスペインが凋落すると、そのスペインに米西戦争(1898)で勝利したアメリカがグアム島の新しい支配者となった。その後、日本とアメリカの戦争(1941〜)が、この島を舞台とし、奪い奪われたのは先に記した通りである。

太平洋の中央というグアム島の抜群の立地は、水や燃料の補給地としてばかりではなく、海底ケーブルなどの通信や情報の中継地点としても抜群であった。その好立地による不幸が、チャモロ人たちの不幸でもあった。





◎土地を奪われた、あるチャモロ人


そうしたチャモロ人の一人、グスマンさん(78歳)は、日本軍の攻撃により住む土地を失った。「あんなに多くの飛行機を、今まで見たことがありませんでした」。

グアム島を占領した日本は、グアム島という名称を「大宮島(だいきゅうとう)」と日本式に改め、グスマンさんの住んでいたスマイという地名を「須磨(すま)」と改めた。そして、その須磨はアメリカ軍の爆撃によって焦土と化した。



当時10歳だったグスマンさんは、アメリカ軍の難民キャンプに収容されていたが、故郷スマイに帰れる日は、2度と来なかった。グスマンさんが暮らしていた土地は、戦争が終わっても軍用地としてアメリカ軍に接収されてしまったため、結局は完全に住む土地を失ってしまったのであった。

「土地の補償金は出ましたが、住民の考えていた額とはかけ離れていました。『補償金を素直に受け取って、土地は諦めなさい』。それがアメリカ政府のやり方だったのです」



◎植民地


現在のアメリカによるグアム島支配を、ある人は「植民地」と呼ぶ。なぜなら、国連の作成した非自治地域のリストを見ると、グアムは1946年以来ずっと「非自治地域」、つまり植民地のままなのである。

1950年、グアムの人々はアメリカの市民権を獲得することになるが、それは完全なものではなかった。今でもアメリカ大統領への選挙権はなく、連邦議会にグアム選出の下院議員を一人だけ送れることになってはいるが、肝心の議決権が与えられていない形だけのものである。



グアム国際空港のロビーの一画には、「英雄たちのカベ」と呼ばれる場所があり、そこにはアメリカの戦争に派兵されて戦死した若者たちの肖像が並べられている。

「グアムの英雄である彼らは、誰一人としてアメリカの市民権を完全な形では持っていませんでした。それは朝鮮戦争でも、ベトナムでも、湾岸戦争でも、そしてイラクでも同じです」

そう語るのは、エドワード・アルバレス氏。彼は「脱植民地化」委員会の事務局長である。国連憲章に定められた「自己決定権」を獲得すること、すなわち「グアムの将来を自分たちの手で決めること」が、アルバレス氏の悲願である。この権利なくしては、いくら基地に反対したとて、連邦政府から容易に却下されてしまうのだ。



◎土地の言葉


事務局長アルバレス氏と活動をともにするマイケル・ベバクワ氏は、失われつつある「チャモロ語」を大学で熱心に教えている。

「脱植民地化というと、政治的な活動やリーダーなどが必要だとお考えになるかもしれませんが、そうではありません。自分自身の心、アイデンティティと向き合い、進めていくものだと私は考えています」

そう信じるベバクワ氏は、グアムのアイデンティティとして、「チャモロ語」に注目したのであった。かつて国を失ったユダヤの民は、失われていた「ユダヤ語」を復活させることにより、そのアイデンティティを高め、独立を果たしたというが、それほどに「土地の言葉」とは力を持つものなのである。



今ではチャモロ語を流暢にあやつるベバクワ氏であるが、彼自身もかつてはチャモロ人でありながら、チャモロ語が一切話せなかったのだという。長き占領時代の弊害により、チャモロ語をまともに話せるのは、グアムではもはやお年寄りばかりであり、その命脈は尽きかけてしまっているのである。

土地の古老は昔を語る。「『チャモロ語は使うな!』と学校の先生に言われたのです。チャモロ語を使うと、成績もAからCにされてしまいました。そうしてチャモロ語は忘れ去られていき、『英語がすべて』になったのです」



現在のグアムで公用語とされるのは、英語とチャモロ語であるが、若い人たちの世代が話すのは主に英語であり、チャモロ語がまともに残る島は、北マリアナ諸島ぐらいだということである。

ちなみに、グアム島に隣接する北マリアナ諸島は、グアムと同じようにアメリカ軍の統治下にあったが、1978年に北マリアナ諸島は「コモンウェルス」となり、グアムよりも高度な自治権を獲得している。当然、グアムもそれをアメリカ政府に求めたが却下されてしまった(1982)。



◎沖縄への共感


沖縄に招待されたベバクワ氏は、こんなエピソードを紹介した。

「私たち親子は、グアムの本屋やレストランなどでも『チャモロ語』で会話するのですが、娘のチャモロ語を聞いたお年寄りが、目に涙を浮べていることがあります」

自身も忘れかけていたチャモロ語を、ベバクワ氏は大学時代に完全に習得した。そして、「文化に根差した言葉」を知らなかったのはおかしなことだと思い至り、「自分の子供は、そんな風に育てたくない」と心に決めていたのである。

「絶えてしまったはずの言葉が蘇る。そこにはグアムの希望があるのです」



沖縄を初めて訪れたベバクワ氏は、グアムとの共通点に驚く。太平洋戦争以来の歴史、そして基地問題…。

「グアムと沖縄で共通するのは、そこに暮らす人々が『自己決定権』を持っていないことです。今、沖縄について日本政府が多くのことを決めていると思いますが、それは必ずしも『沖縄の人々の意志』に基づくものではないでしょう。同じことがグアムでも起きているのです」

日本もアメリカも世界に誇る民主国家でありながら、地元の人々の願いが国にまでとどかない。そんな”もどかしさ”を、沖縄の人々もグアムの人々も、同じように胸の内に抱えているのである。



沖縄の人々と共感したベバクワ氏であったが、普天間の基地を見た時には、その驚きを隠せなかった。

「グアムでは考えられません。アメリカでもこんな所はありません」。ベバクワ氏が驚いたのは、基地と人口密集地のあまりの近さである。基地周辺では、実際に米軍機の墜落事故も何度か起こっている。

「沖縄の人々が『敬意を払われている』とは到底思えません。これを見ると、これからグアムで起こることが心配になってしまいます」





◎平和への想い


16年前、普天間基地の返還を沖縄県知事として政府に要請した「大田昌秀」氏は、こう語る。

「沖縄が他県に比べて誇ることができるのは、『平和に対する想い』が非常に強いということです。沖縄には、『他人に痛めつけられても眠ることはできるが、他人を痛めつけては眠ることができない』という言い伝えがあるのです」



古来、「非武の島」として平和な暮らしを長らく続けていた沖縄(琉球)の文化には、その根底に「平和」が横たわっている。しかし、戦争に巻き込まれて以来、この平和の島からは、何十、何百という戦闘機が飛び立ち、世界の国々を爆撃してしまっている。

「沖縄に軍事基地があるため、この島からアメリカ軍が出動していって、他国の非力な一般住民まで殺戮してしまっている。このことに沖縄の人たちは非常に心を痛めているのです」

太平洋戦争中、グアム島から飛び立った爆撃機が、日本全土を焼け野原にしてしまったのと同様、今の沖縄は、そうした爆撃機の飛び立つ拠点とされてしまっているのである。非武の島の人の心がいくら平和を望んだとしても…。



◎交流から対立へ


歴史上、沖縄(琉球)が長らく「非武の島」として武器を必要としなかったのは、「交易」によって、自分たちのみならず、彼らに関わった人々にも大きな利益を与え続けることができたからであった。日本にも中国にも届くその抜群の立地が、琉球独自の発展を支え続けたのである。

ところが、その交易に抜群の立地というのは、多国間の戦争においてもまた抜群の拠点であった。物や金が行き交えば、多くの人々が幸せになれるところを、戦闘機や銃弾が行き交えば、多くの人に悲しみをもたらすばかりである。

沖縄にしろグアムにしろ、交易・交流によって栄えた島々は、殺伐とした世相にあって、「対立の拠点」とされてしまったのである。そして、それを象徴するのが、沖縄・グアム両島にひしめく軍事基地なのであり、「基地の島」というありがたくもない呼称だのである。



◎与那国島


こうした対立の不幸が、もっとも悪い形で現れてしまっているのが、沖縄県の西の端、「与那国島」である。

日本の西の「国境」でもあるこの小さき島は、空気の澄んだ日には「台湾」が見えるほど他国に近い。それゆえ、与那国島の歴史は、台湾を始めとした中国、東南アジアとの交易によって栄えてきた。土地の人は「私たちも中国人の子孫かもしれないと思う時があります」とさえ語る。与那国島は中国など他国からの商人や漁民によって、大いに賑わってきたのである。



ところが、前世紀の時代に戦争続きとなると、この日本の西の端の島は、その国境として、人々の行き来が厳しく管理されるようになる。台湾有事や尖閣問題など、与那国周辺には軍事の香りが濃厚に漂うようになっていたのである。

こうして、交易という生命線を失った与那国島は、徐々にその力を弱めていく。最盛期には1万2000人以上が与那国島に暮らしていたというが、現在の人口はわずか1,600人足らず。島からは高校も消え、若者たちの島外流出にも拍車がかかってしまっている。

日本の西端でありながら、与那国島には出入国の管理官が存在しないため、国際便の就航が認められていない。そのため、たとえ間近の台湾からの訪問者ですら、遠くの港の空港などの迂回を強いられる。台湾とは水上バイクでも行き来できる距離だというのに…。



◎最果ての地


「ここ(台湾と与那国島)の間に『交通がない』という方が、不自然なんです」

与那国島の国際交流に尽力している田里千代基氏は、そう語る。本来、与那国島は日本、中国、東南アジアの中心に位置しているはずだった。なぜなら、与那国島から日本の首都・東京の距離(2112km)よりも、中国の首都・北京(1833km)、韓国の首都・ソウル(1,500km)、フィリピンの首都・マニラ(1124km)の方がずっと近いのである。

ところが、日本のアジア側の国境が厳しく制限されることにより、アジアの中心とさえなり得た与那国島は、「最果ての地」とされ、今やその存続も危ぶまれるほどに弱り切ってしまった。



◎二分された小さな島


人口の減少、経済の不振にあえぐ与那国島の為政者は、グアム知事と同じような結論に至る。「自衛隊を配備してもらえば、島を活性化できる」と。

実際、最新の防衛大綱に明記された「島嶼部への部隊配置」の名のもとに、防衛省は100人規模の部隊配備を与那国島に計画。島の南に広がる牧場が予定地とされ、去年末、およそ10億円の経費が閣議決定されていた。



与那国の古来からの住民たちが反発するのも、またグアムと同じである。

「自衛隊が入ったら、『基地の島』になるさ。住民はもういなくなるはずよ。祖先が立派に残してきた島を売り払ったらもう、二度と返されないはずだから…」と、島の老婆は語る。



二分された小さな島は、賛成派と反対派が拮抗。5人いる与那国町の議員も真っ二つ(賛成3人、反対2人)。現職の外間守吉・与那国町長は賛成派であるが、その再選はわずか100票という際どいものであった。

住民の間には「補償金」がもらえるかもしれないという期待もあるが、仲間同士でそうした話はタブーとされている。「突っ込んだ話は仲間内ではしない。こういう話をするとケンカになるから…」。



◎安全保障


言わずもがな、国の安全保障は国家の担う役割である。それゆえ、沖縄は「太平洋の要石(かなめいし)」とされ、グアムは「ヤリの先端」とされているのである。かつてはソ連に対して、今はメキメキと台頭してきた中国に対して。

しかし、与那国島の国債交流を志す田里氏の思い描く安全保障の姿は、国家のそれとは少々異なる。

「『人の交流』があるところには争いはないんですね。軍隊は要らないんです。必要なのはお互いの交流だけですから。文化や教育、医療、いわゆる人間の交流です。これこそ一番の『安全保障』かな」



中国を敵視したがるアメリカとて、米中間の交流の深さから、容易には争えない。それは日中間でも、日韓間でも同様であろう。かつて海峡を挟んで大砲を飛ばしあった中国共産党と台湾でさえ、そうである。

鎧を分厚くして、武器をたくさん揃えるだけが、前時代の安全保障であったかもしれないが、次の時代の安全保障は、かつて理想とされたものの片鱗を見せてきているのである。



◎対立か、交流か


「対立の島から、交流の島へ」

かつて戦場とされた島々は、こんな想いを抱いている。目先の繁栄を考えるだけならば、基地や兵士からお金をもらったほうが良いのかもしれない。しかし、歴史が示してきたのは、「争い続けることは不可能だ」ということだ。

その反面、「交流し続けること」の方が、大きな利益を生み出すことを、歴史上、「非武の島」と讃えられた沖縄(琉球)は体現している。



第二次世界大戦時には、日本の攻撃を受け、そして占領されたグアム島であるが、今では、グアム島における観光収入の9割までもが日本人によるものである。

かつて日本軍がグアム島にもたらしたのは何であったのか。そして今、日本人の観光客がグアム島にもらすのは何なのか。



◎将来


元・沖縄知事の大田昌秀氏は、その想いを語る。

「たとえ経済的に貧しくとも、『沖縄らしい沖縄』を創りたい。沖縄の誇る平和に対する強い想いを永続させたいのです」

沖縄はその「非武の島」としての歴史を見ても、「平和の象徴」として日本で最もふさわしい場所のようにも思える。この島が最も凄惨な地上戦を体験してしまったことは、じつに不幸なことであったが、それゆえに平和への想いは日本人の誰よりも強くもっている、と大田氏は言う。



「自分たちの未来は、自分たちで決める」

この当然そうな一事が、沖縄でもグアムでももつれ合ったままである。争いを助長しているようにも思える国家の安全保障に疑問を感じたままに…。



100年前とはすっかりその姿を変えてしまった沖縄とグアム。

さらに100年後の姿は、如何ようなものであろうか。

沖縄は再び「非武の島」となっているのであろうか?







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出典・参考:
ETV特集「オキナワとグアム 〜島が問う、アジア・太平洋の未来〜」

posted by 四代目 at 08:53| Comment(2) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月03日

争い、そして和する。「角館」に残された古き日本の絶妙な間合い。


夜の祭はいよいよクライマックスを迎えようとしていた。

若者たちの表情に緊張が走ったのは、通りの向こうに「隣町の曳山(ひきやま)」の姿を確認した時だった。

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ここは秋田県・角館(かくのだて)。江戸の昔に栄えた城下町であった角館には、今の世にも古くからの武家屋敷などが数多く残る。そうした武家の気風が残るのか、この祭りのクライマックスは少々荒々しい。



同じ通りで鉢合わせし、額を突き合わせた2つの「曳山(ひきやま)」。双方ともに、道を譲る気配は微塵も見せない。

ここで出番が来るのは、「交渉員」と呼ばれる若者たちで、彼らが両陣営の代表として交渉にあたることになる。現在火花を散らし合っているのは、「大塚地区」と「中央通り」、2つの曳山である。



(大塚地区)「我々は自町へ帰るところ。安全に通行できるように『協力』してほしい」。「協力」というのは、「道を譲れ」という意味である。

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協力という名の「譲歩」を迫られた「中央通り」の交渉員は、自分たちの曳山の責任者に相談に戻る。「向こうが『協力』をお願いしてきたのならば、こちらも『協力』をお願いする。それで、いぐねが?」と、その責任者は交渉員の若者に諭す。



再び交渉に戻った「中央通り」の交渉員は、こう切り出す。

「こちらからも『協力』をお願いしたい」

その言葉を聞いた「大塚地区」の交渉員は、とたんに気色ばむ。「ということは、こちらの『協力』が飲めぬということか?」と。



慌てる「中央通り」の交渉員。

「で、できないとは一言も言っていない…。」

いよいよ気が立ってくる「大塚地区」の交渉員。「できないという返答でなければ、先ほどからのうちの協力要請はどうなる?」



タジタジとなりながら、引き上げる「中央通り」の交渉員。再び責任者の元へ。じっくりと交渉員の話に耳を傾けていた責任者は、重々しく口を開いた。

「へば…、いくっ!」



他方、激昂しつつある「大塚地区」でも、

「次で切るっ!」



交渉決裂である。

両陣営とも、曳山の鼻面を大きく持ち上げ、威勢よく「ぶつかり合う」。こうなってしまったら、相手の曳山を横に揺さぶり、強引に道を譲らせたほうが「勝ち」である。

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ぶつかり合いが始まるや、両地区の住民たちは自陣の曳山に群がり、盛んに囃し立てる。太鼓が鳴り響き、笛の音も勢いを増す。角(つの)のぶつけ合いは、両者一歩も譲らない。ギリギリと木が軋み、自慢の鼻面はガリガリと削れていく。

時計が深夜を回っても、一向にラチがあかず、両陣営は頭をぶつけ合ったまま、時間ばかりが過ぎていく。すると、その膠着状態を見かねてか、町の「長老」から両陣営の責任者に「呼び出し」がかかった。



長老は、両陣営の責任者に語りかける。

「再度の交渉を。そして打開策を。できなければ、他を入れる。」

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深夜2時を過ぎて、そろそろ限界に達しつつあった両陣営にとっては、渡りに船。両者の曳山は静かに離れていった。

この「曳山ぶつけ」という行事は、たいがい深夜4時頃までには決着がつくようになっている。このお祭りの終わりは「日の出」とされているからだ。



この祭りでは、男たちが荒くれる一方、女たちは優雅な舞いを披露する。

「にぎやかし」と呼ばれるのは、町の家々の真横に曳山をつけて、若い女性たちが手踊りを披露する行事である。

小さい子は3歳くらいから、大きくとも20代の美しき女性たちの舞いである。



動的な男性と、静的な女性。

男女ともに若者たちが前面に出て、祭りの各場面を盛り上げる。



きっと「伝統」というものは、こうした形で若者たちに受け継がれていくものなのであろう。男たちは戦い、そして引き際をこそ心得なければならない。女たちは、美しくもそれを支える。

伝統的な武家屋敷や商家などが残る角館では、そこに育った若者たちの心の中にも、自ずと古きものを大切にするような気持ちが根付くらしい。



角館に残る古き武家屋敷は、残されるべくして残されたというよりかは、歴史の片隅に「忘れ去られてしまっていた」と捉えるほうが素直である。

江戸時代には一国一城令によって角館のお城は破却され、明治時代の廃藩置県によって、郡の中心は角館から大曲に移された。こうして中心から次第に離れていったことで、角館には明治近代化の波が及ばず、その結果、江戸以来の町並みが温存されることになったのである。

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お祭りにおける喧嘩や和解は、たぶんに芝居めいたところがあるのも事実である。

しかし、その喧騒の持つ独特の雰囲気や緊迫感は、若者たちを「本気」にさせてしまうこともシバシバだ。交渉役という重責を任された若者は、それが形だけのものとは頭で理解しながらも、融通が利かない相手方に本気で腹を立ててしまうかもしれない。両者激突の矢面に立たされる若者たちは、手加減など忘れてしまうこともあるだろう。

こうした争いの裏に見え隠れする年上の責任者や町の長老たちは、象徴的でありながらも、じつに示唆的な存在でもある。アクセル全開になってしまった若者たちの暴走を制御したり、方向を変えたりする存在でもあるのだから。

ついついヤリ過ぎてしまって、退くに退けなくなってしまった若者たちにとって、絶妙なタイミングで入る助け舟の何と有り難いことか。永遠に争い続けることは不可能なことで、いつかは和解しなければならない。しかし、それを自ら口にすることは、激昂した若者たちにとってはできるわけがないのである。



時として争いは必要である。しかし、争い続けることはできない。

角館の若者たちは、お祭りという特殊な場を通じて、こうした「間合い」を学んでいくのであろう。古き日本において、人を育ててきたのは、こうした社会だったのかもしれない。特別に有能な指導者がいなくとも、伝統という枠の中で人は育っていったのだろう。



一転、現代の社会はどうだろう?

大人たちのつくった社会に若者たちは納得しているのであろうか。その社会は、人を育てることができるのだろうか。

皮肉な言い方をすれば、現代社会にいるのは反面教師ばかりなのかもしれない。若者たちは、「ああはなるまい」と心に決めることで育っていくのかもしれない。大人たちがおおよそ頼りにもならないとしたら、若者たちは自らの道を切り拓く気にもなるだろう。

歴史上の革命は、そんな気運の中で成されてきたものでもある。

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伝統的な武家屋敷を彩る角館の「しだれ桜」は、樹齢300年近いものもあるという。かつて広江美之助教授(京都大)は、「実にいい桜だ。日本一のしだれ桜だ」と絶賛したのだという。

ところが、その一方でこうもつぶやいた。「惜しいことに、死ぬ寸前だ…」

道路の舗装により、根っこに十分な水分が行き渡らず、土壌も窒息状態。さらには自動車の排気ガスが追い打ちをかける。社会が人を育てるように、桜を育てるのはその環境なのである。



便利になった現代社会の裏には、不当に虐げられているものもあるということか。

それでも、必要以上に悲観することはない。どんなに見事な桜とて、いつかは枯れる時が来るものだ。もう一度その勇姿が見たいのであれば、また植えれば良いでないか。

そして、次の300年間を待てば良いではないか。



幸いにも、現代社会にそれらの種は残されている。

それは桜だけに限った話ではないだろう。







出典:新日本風土記 「角館」

posted by 四代目 at 06:01| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月23日

名刀「正宗」。その誕生の背景には、日本最大の国難があった。


その「刀」を一見して、「よく切れそうだな」と思わせる刀では、まだダメなのだという。

本当の名刀には、得も言われぬ「品位」があり、一切の思いを抱かせない「圧倒感」があるのだという。

平たく言ってしまえば、その圧倒感は敵に戦う気を失(な)くさせてしまうほどの「抑止力」ということにもなろうか。



日本の名刀として名高いのは「正宗」。

鎌倉時代に造られたという「正宗」を超える名刀は、後の世に現れることがなかったとも言われるほどである。

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鎌倉時代には、日本史上きっての国難が国を襲った。

大帝国モンゴルによる「元寇」である。

二度の襲来を受け、当時の人々は3度目、4度目も来るだろうと大いに身構えていた。



そのような時風において、名刀「正宗」は誕生するのである。

それはあたかも、日本を他国の侵略から護るために、この名刀は生を受けたのではないかと夢想させるほどである。

天の時を知り、人の技術が結晶化した名刀「正宗」を超える名刀が後の世にないことにも、思わず頷(うなず)いてしまえる。

さらには、「武士」という階級が力を増してしていたのも、この国難を乗り切るためではなかったかとまで思ってしまう。



「正宗」の後の世、「村正」という名刀も生まれる。

その「村正」の切れ味は、「正宗」を凌(しの)ぐとも賞賛された。



こんな逸話が残る。

水の流れに両刀を立てて、川上から「枯葉」を流す。

「村正」は見事に枯葉を両断。

ところが、枯葉は「正宗」を避けて流れ去った。



「正宗」の持つ「品位」、そして「圧倒感」をよく表わす逸話である。

良くも悪くも「村正」は切れ味が鋭く、それに対して「正宗」は「切る」という刀の目的を超えた存在なのである。



切れ味に特化した「村正」は、悪しき伝説をも生んだ。

「妖刀」としての「村正」である。




妖刀となされたのは、徳川家康により嫌悪されたためと伝わる。

家康の祖父・松平清康は、家臣に刺殺されるが、その刀は「村正」だったという。

家康の父親・松平広忠が殺害されるのも、また「村正」。

家康の長男・松平信康が自刃した時の介錯の刀も「村正」。

家康の夫人・築山御前を斬った刀も「村正」。



そして、妖刀「村正」は当の家康自身にも、その刃を向ける。

大坂の陣において、家康の本陣に肉薄した「真田幸村」は、家康に「村正」を投げつけたのだとか。



時代が下がり、江戸幕府が凋落すると、倒幕の志士たちは競って「村正」を求める。

「村正」こそが、徳川家を倒せる妖刀だと皆信じていたのである。

江戸城を制圧した西郷隆盛が帯びていたのも、まさにその妖刀であったという。



「斬る」という刀の目的を追求した「村正」は、ひたすら殺人の道具に特化してしまい、その域を出ることはなかった。

それに対して、「正宗」はといえば、およそ孤高の存在の如く、刀という枠を超越してしまっているかのようである。



「生を必する者は死し、死を必する者は生く」

これは、上杉謙信の言葉である。



武士たちの思想は禅的であり、それゆえに逆説的である。

禅的思想の敬愛するものは、「矛盾」なのである。



名刀「正宗」は、斬るために生まれていながら、斬ることを超えた。

この刀は小さな身を守るために斬るのではなく、より大きな国家を護るために斬らなかったのである。

刀の柄には「銘」を刻むのが一般的だが、「正宗」には無銘の刀が多いのだという。ここにも「正宗」のもつ潔さの一端が表れているようにも思える。



「禅は、寒い夜に暖まるるために、寺の仏像をことごとく焼きうる」という。

禅の嫌うところは「表面の虚飾」であり、求めるところは「本質」ということになる。



「刀」の本質とは何か?

人を斬ることか?

ならば何のために斬るのか?



斬った先に求めたものは、自ずから明らかであろう。

刀は嬉々として斬るものではなく、やむなく斬るものである。

それならば、「斬らぬに越したことはないではないか」というところに帰結する。



名刀「正宗」は初めからそこにいて、そこから一歩も動くことはなかったのだろう。

これこそが、名刀と称せらる由縁(ゆえん)である。



出典:新日本風土記 「いざ鎌倉」

posted by 四代目 at 08:41| Comment(4) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月14日

戦争の引き金をひいた「あるウソつき」の証言。「戦争先にありき」であったイラク侵攻。

もし、「詐欺」の容疑で国を追われてきた人物がいたら、その人の話を信じるであろうか?

さらに、その人物が会社の金を使い込み、その会社を首になっていたとしたら?



冷静な頭がありさえすれば、誰も彼の話を信じないだろう。

ところが、アメリカの大統領と国務長官は彼の話を鵜呑みにして、この男が語った言葉を「国連」という公の場で堂々と世界に言い放ったのである。

「イラクには『大量破壊兵器』がある!」

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そうして始められた戦争が、2003年の「イラク侵攻」である。

この戦争では、罪のない130万人のイラク人が犠牲となり、400万人の子供たちが親を失い、100万人の女性たちが夫を失った。

戦争が終わった後、案の定「大量破壊兵器」はイラクから見つからなかった…。



イラク侵攻の大義名分とされた「大量破壊兵器」。

その根拠を追求していくと、たった一人の男に行き着くのである。イラクでは「ウソつき」と呼ばれていた男、「カーブ・ボール(暗号名)」である(本名:ラフィド・アフメド・アルワン)。

イラクの化学工場で働いていたというカーブ・ボール。会社の金の使い込みが発覚して、首になる。その後、詐欺を繰り返し、ついには国外へと逃亡する。



彼がたどり着いた先は「ドイツ」だった。「水道のある国」ならどこでもよかった、と後に語っている。

ドイツの情報機関(BND)は、カーブ・ボールが語る「大量破壊兵器」の話を聞くも、「根拠なし」として一蹴した。なぜならカーブ・ボールの元上司(ジャナビ氏)が、「生物兵器を積んだトラックがある」という話を否定したため、情報の裏付けがとれなかったのである。

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それでも、BNDは一応アメリカの情報機関(CIA)には知らせておいた。ただし、「この情報は信憑性に欠けるため、もしこの情報を使うのなら自分たちの責任で使ってくれ」との警告を忘れなかった。



その数年後、アメリカのブッシュ大統領(当時)の口から、突然「大量破壊兵器」のことが語られる(2002年一般教書演説)。さらにはアメリカのパウエル国務長官(当時)の口からも、「大量破壊兵器」の話が飛び出してくる(2003年国連安保理)。

ドイツの情報機関(BND)は腰を抜かさんばかりに驚いた。「あのウソつきのカーブ・ボールの話そのままではないか!」

ドイツとしては、「戦争反対」の立場。この情報により戦端が開かれることを恐れた。



当時のアメリカは2001年の9.11テロの攻撃を受け、最高に熱くなっていた。

ジョン・ピラー氏(CIAイラク担当)は語る。「ホワイトハウスは戦争のキッカケを渇望していた。そのため大量破壊兵器の『裏付け』は二の次とされた。」

アメリカは熱くとも、国連はまだ冷静であった。イラクに査察団を送り込み、大量破壊兵器の調査を始めた。

その結果は…、「何の痕跡も発見できなかった」。工場と目された場所は単なるトウモロコシの貯蔵庫であったことが判明した。

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ところが…、その1ヶ月後である。アメリカがイラクに攻め込んだのは。

大量破壊兵器は「移動式」だから、どこかへ移動したというのである。

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ないものはない。

アメリカはイラクのフセイン政権打倒という大目標を達成するも、戦争の名目とされた大量破壊兵器が見つからなかったことで、世界の面目を失った。

当然、世界は戦争責任者たちを糾弾する。

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しかし、失われたものが戻ってくるわけはない。イラクはアメリカの大量破壊兵器により壊滅してしまったのである。



カーブ・ボールも当然槍玉に上がった。

イギリスの新聞ガーディアンで「戦争の引き金を引いた男」として大々的に取り上げられた。そして、彼は「ウソ」をついたことを認めた。

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カーブ・ボールはドイツから毎月3,000ユーロ(約32万円)を受け取りながら、保護されていた。そして、その条件はメディアに一切口外しないことだった。

しかし、その報酬が突然打ち切られたため、彼はメディアの取材に応じるようになったのだ。それでも、彼はよほどの大金を提示されない限り、一切口を開かないという。



ラリー・ウィルカーソン氏(元国務長官首席補佐官)は語る。

「金で動いたカーブ・ボールの罪が、国の上層部の罪よりも重いとは思わない。

責められるべきは国の指導者たちである。」



戦争の歴史を振り返れば、この話は特別な話ではない。

日本においても、徳川家康が些細なこと(方広寺鐘銘事件)を名目に、豊臣氏へ戦争を仕掛けている(大阪の陣)。

やはり、ここでも寺の鐘が悪いわけではない。「戦争先にありき」で、寺の鐘はそのライン上に位置していたに過ぎない。



アリの一穴から巨大なダムが決壊するように、時代の趨勢は時として迸(ほとばし)らざるを得ない状況まで追い込まれることがある。

小さな穴を開けたアリだけが悪いとはいえない。小さな穴を大きく押し広げた権力者たちがいる。そして、その権力者を次々と後押しする人々もいるのである。

傍観者たちも安穏とはしていられない。いつ濁流が流れ込んできてもおかしくはない。

世界貿易センタービルに開けられた穴は、今なお拡大を続けているのである。



出典:BS世界のドキュメンタリー シリーズ
 9.11から10年 第2週 「世界を戦争に導いた男」


posted by 四代目 at 06:21| Comment(1) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする