およそ200年前、アジアの国々を巡っていたイギリス艦長は、初めて沖縄(当時・琉球)の人々を目にして驚いたという。
「武器を持っていない…」
その驚きをナポレオンに伝えると、戦闘に明け暮れていたナポレオンはもっと驚いた。
「武器なくして彼らはどうやって戦うのだ?」
ナポレオンの抱いた当然の問いに対して、艦長はこう答えた。「彼らは戦争をしたことがないのだそうです。武器を持たずに、平和を保っているのです」
「なにーっ! 戦争がないだとーーーっ!」。ナポレオンは叫んだ。「この世に戦争を知らない人々がいるなどありえない!」と言わんばかりに。
◎非武の島
この”やりとり”は、バジル・ホールによる「大琉球探検公開日記(1826)」の一節である。この航海記が公開され、沖縄(琉球)は「非武の島」、武器を持たない島としてヨーロッパ各国に知られるようになったという。
しかし、戦争を知らなかったはずの沖縄(琉球)の人々は、第二次世界大戦の末期において、最も凄惨な地上戦の舞台とされてしまった。何より悲しいことは、犠牲者20万超のうちの半数以上が、本当に武器を持っていなかった一般住民だったということだ…。
戦後67年、今なお沖縄には一家全滅によって持ち主を失ったままの土地が点在する。「空屋敷(あきやしき)」という草ボーボーの空き地がそうであり、その中央には知人や近所の人々が小屋を立てて、その霊を祀っている。
また、ある墓地はアメリカ軍の基地の”中”に取り込まれてしまっている。普天間基地のフェンスの向こう側にあるその墓地には、年に一度しかお参りが許されていない。
かつて、「非武の島」とよばれたこの島は、大国・日本とアメリカによって「戦場」とされ、それが終わると「基地」にされてしまったのであった…。
◎2つの「基地の島」
沖縄の味わっている数奇な運命は、太平洋に浮かぶ「グアム島」とも奇妙に共通している。沖縄同様、グアム島も第二次世界大戦の戦場となり、そして「基地の島」となったのだ。
第二次世界大戦における日米戦争は、日本軍による真珠湾攻撃でその幕を開けるわけだが、グアム島が爆撃されたのは、そのわずか5時間後。そして2日後には、完全に日本軍により占領された。
グアム島は、日本がアメリカから奪った唯一の有人アメリカ領土である。この点も、沖縄と同じである。沖縄もアメリカに奪われた唯一の日本領土であるのだから。つまり、沖縄・グアムの両島は日米両国間で「奪い奪われた本国領」なのである。
グアム島は戦争中にアメリカ軍が奪還を果たす(1944)が、沖縄が日本に戻ってくるのは、戦争終結後のことである(1972)。
そして、第二次世界大戦の戦火がやんだ後、沖縄・グアムともにアメリカ軍の重要な軍事拠点とされ、多くのアメリカ軍基地が建設された。
沖縄は日本本土の0.6%の面積を占めるにすぎないが、その小さな島に日本に置かれたアメリカ軍基地の74%が集中している。同じように、グアム島の面積の3分の1は、米軍基地によって占められている。
アメリカ軍によって、沖縄が「太平洋の要石(かなめいし)」と呼ばれたのに対して、グアム島は「ヤリの先端」とされたのである。
◎為政者の望む基地移転
沖縄の米軍基地問題が膠着すると、その移転先として名前の挙がったのが、他ならぬ「グアム」であった。
人口16万人のグアムに現在配備されているアメリカ陸海空軍は、およそ5,000人。そして、沖縄から移転してくる海兵隊も、およそ同数の5,000人。グアム政府のエディ・カルボ知事は、この移転を強く支持している。
「1990年代の基地削減で、グアムから海兵隊が撤退してしまいましたが、もう一度この島に海兵隊に来てもらうのが我々の願いなのです」
為政者であるカルボ氏が移転計画に積極的なのは、それが島の経済発展に寄与すると考えているからである。現在、グアムの失業率は13%、若年層に限ればその数字は38%にまで跳ね上がる。観光ばかりに強く依存してしまっている島の経済は、景気の波に敏感すぎるのである。
「期待できる経済効果は、建設ブームとそれがもたらす『雇用』です。さらに、海兵隊の兵士からは、その『所得税』がグアム政府に入る仕組みもあるのです」
◎チャモロ人
こうした為政者の意見に猛反発するのが、島の半数近くを占める元々の原住民『チャモロ』の人々だ。グアム島に人が住むようになったのは、紀元前3000〜2000年頃と言われているが、チャモロ人たちはその頃からこの島に暮らしているのである。
ところが、チャモロ人の舐めてきた歴史は、周辺の海以上に塩辛い。大航海時代の幕開けとともにやって来たスペイン人たちは、チャモロ人たちの村々を焼き払い、10万人以上いたチャモロ人は、わずか5000人以下にまで激減してしまった(スペイン・チャモロ戦争、1669年)
無敵であったスペインが凋落すると、そのスペインに米西戦争(1898)で勝利したアメリカがグアム島の新しい支配者となった。その後、日本とアメリカの戦争(1941〜)が、この島を舞台とし、奪い奪われたのは先に記した通りである。
太平洋の中央というグアム島の抜群の立地は、水や燃料の補給地としてばかりではなく、海底ケーブルなどの通信や情報の中継地点としても抜群であった。その好立地による不幸が、チャモロ人たちの不幸でもあった。
◎土地を奪われた、あるチャモロ人
そうしたチャモロ人の一人、グスマンさん(78歳)は、日本軍の攻撃により住む土地を失った。「あんなに多くの飛行機を、今まで見たことがありませんでした」。
グアム島を占領した日本は、グアム島という名称を「大宮島(だいきゅうとう)」と日本式に改め、グスマンさんの住んでいたスマイという地名を「須磨(すま)」と改めた。そして、その須磨はアメリカ軍の爆撃によって焦土と化した。
当時10歳だったグスマンさんは、アメリカ軍の難民キャンプに収容されていたが、故郷スマイに帰れる日は、2度と来なかった。グスマンさんが暮らしていた土地は、戦争が終わっても軍用地としてアメリカ軍に接収されてしまったため、結局は完全に住む土地を失ってしまったのであった。
「土地の補償金は出ましたが、住民の考えていた額とはかけ離れていました。『補償金を素直に受け取って、土地は諦めなさい』。それがアメリカ政府のやり方だったのです」
◎植民地
現在のアメリカによるグアム島支配を、ある人は「植民地」と呼ぶ。なぜなら、国連の作成した非自治地域のリストを見ると、グアムは1946年以来ずっと「非自治地域」、つまり植民地のままなのである。
1950年、グアムの人々はアメリカの市民権を獲得することになるが、それは完全なものではなかった。今でもアメリカ大統領への選挙権はなく、連邦議会にグアム選出の下院議員を一人だけ送れることになってはいるが、肝心の議決権が与えられていない形だけのものである。
グアム国際空港のロビーの一画には、「英雄たちのカベ」と呼ばれる場所があり、そこにはアメリカの戦争に派兵されて戦死した若者たちの肖像が並べられている。
「グアムの英雄である彼らは、誰一人としてアメリカの市民権を完全な形では持っていませんでした。それは朝鮮戦争でも、ベトナムでも、湾岸戦争でも、そしてイラクでも同じです」
そう語るのは、エドワード・アルバレス氏。彼は「脱植民地化」委員会の事務局長である。国連憲章に定められた「自己決定権」を獲得すること、すなわち「グアムの将来を自分たちの手で決めること」が、アルバレス氏の悲願である。この権利なくしては、いくら基地に反対したとて、連邦政府から容易に却下されてしまうのだ。
◎土地の言葉
事務局長アルバレス氏と活動をともにするマイケル・ベバクワ氏は、失われつつある「チャモロ語」を大学で熱心に教えている。
「脱植民地化というと、政治的な活動やリーダーなどが必要だとお考えになるかもしれませんが、そうではありません。自分自身の心、アイデンティティと向き合い、進めていくものだと私は考えています」
そう信じるベバクワ氏は、グアムのアイデンティティとして、「チャモロ語」に注目したのであった。かつて国を失ったユダヤの民は、失われていた「ユダヤ語」を復活させることにより、そのアイデンティティを高め、独立を果たしたというが、それほどに「土地の言葉」とは力を持つものなのである。
今ではチャモロ語を流暢にあやつるベバクワ氏であるが、彼自身もかつてはチャモロ人でありながら、チャモロ語が一切話せなかったのだという。長き占領時代の弊害により、チャモロ語をまともに話せるのは、グアムではもはやお年寄りばかりであり、その命脈は尽きかけてしまっているのである。
土地の古老は昔を語る。「『チャモロ語は使うな!』と学校の先生に言われたのです。チャモロ語を使うと、成績もAからCにされてしまいました。そうしてチャモロ語は忘れ去られていき、『英語がすべて』になったのです」
現在のグアムで公用語とされるのは、英語とチャモロ語であるが、若い人たちの世代が話すのは主に英語であり、チャモロ語がまともに残る島は、北マリアナ諸島ぐらいだということである。
ちなみに、グアム島に隣接する北マリアナ諸島は、グアムと同じようにアメリカ軍の統治下にあったが、1978年に北マリアナ諸島は「コモンウェルス」となり、グアムよりも高度な自治権を獲得している。当然、グアムもそれをアメリカ政府に求めたが却下されてしまった(1982)。
◎沖縄への共感
沖縄に招待されたベバクワ氏は、こんなエピソードを紹介した。
「私たち親子は、グアムの本屋やレストランなどでも『チャモロ語』で会話するのですが、娘のチャモロ語を聞いたお年寄りが、目に涙を浮べていることがあります」
自身も忘れかけていたチャモロ語を、ベバクワ氏は大学時代に完全に習得した。そして、「文化に根差した言葉」を知らなかったのはおかしなことだと思い至り、「自分の子供は、そんな風に育てたくない」と心に決めていたのである。
「絶えてしまったはずの言葉が蘇る。そこにはグアムの希望があるのです」
沖縄を初めて訪れたベバクワ氏は、グアムとの共通点に驚く。太平洋戦争以来の歴史、そして基地問題…。
「グアムと沖縄で共通するのは、そこに暮らす人々が『自己決定権』を持っていないことです。今、沖縄について日本政府が多くのことを決めていると思いますが、それは必ずしも『沖縄の人々の意志』に基づくものではないでしょう。同じことがグアムでも起きているのです」
日本もアメリカも世界に誇る民主国家でありながら、地元の人々の願いが国にまでとどかない。そんな”もどかしさ”を、沖縄の人々もグアムの人々も、同じように胸の内に抱えているのである。
沖縄の人々と共感したベバクワ氏であったが、普天間の基地を見た時には、その驚きを隠せなかった。
「グアムでは考えられません。アメリカでもこんな所はありません」。ベバクワ氏が驚いたのは、基地と人口密集地のあまりの近さである。基地周辺では、実際に米軍機の墜落事故も何度か起こっている。
「沖縄の人々が『敬意を払われている』とは到底思えません。これを見ると、これからグアムで起こることが心配になってしまいます」
◎平和への想い
16年前、普天間基地の返還を沖縄県知事として政府に要請した「大田昌秀」氏は、こう語る。
「沖縄が他県に比べて誇ることができるのは、『平和に対する想い』が非常に強いということです。沖縄には、『他人に痛めつけられても眠ることはできるが、他人を痛めつけては眠ることができない』という言い伝えがあるのです」
古来、「非武の島」として平和な暮らしを長らく続けていた沖縄(琉球)の文化には、その根底に「平和」が横たわっている。しかし、戦争に巻き込まれて以来、この平和の島からは、何十、何百という戦闘機が飛び立ち、世界の国々を爆撃してしまっている。
「沖縄に軍事基地があるため、この島からアメリカ軍が出動していって、他国の非力な一般住民まで殺戮してしまっている。このことに沖縄の人たちは非常に心を痛めているのです」
太平洋戦争中、グアム島から飛び立った爆撃機が、日本全土を焼け野原にしてしまったのと同様、今の沖縄は、そうした爆撃機の飛び立つ拠点とされてしまっているのである。非武の島の人の心がいくら平和を望んだとしても…。
◎交流から対立へ
歴史上、沖縄(琉球)が長らく「非武の島」として武器を必要としなかったのは、「交易」によって、自分たちのみならず、彼らに関わった人々にも大きな利益を与え続けることができたからであった。日本にも中国にも届くその抜群の立地が、琉球独自の発展を支え続けたのである。
ところが、その交易に抜群の立地というのは、多国間の戦争においてもまた抜群の拠点であった。物や金が行き交えば、多くの人々が幸せになれるところを、戦闘機や銃弾が行き交えば、多くの人に悲しみをもたらすばかりである。
沖縄にしろグアムにしろ、交易・交流によって栄えた島々は、殺伐とした世相にあって、「対立の拠点」とされてしまったのである。そして、それを象徴するのが、沖縄・グアム両島にひしめく軍事基地なのであり、「基地の島」というありがたくもない呼称だのである。
◎与那国島
こうした対立の不幸が、もっとも悪い形で現れてしまっているのが、沖縄県の西の端、「与那国島」である。
日本の西の「国境」でもあるこの小さき島は、空気の澄んだ日には「台湾」が見えるほど他国に近い。それゆえ、与那国島の歴史は、台湾を始めとした中国、東南アジアとの交易によって栄えてきた。土地の人は「私たちも中国人の子孫かもしれないと思う時があります」とさえ語る。与那国島は中国など他国からの商人や漁民によって、大いに賑わってきたのである。
ところが、前世紀の時代に戦争続きとなると、この日本の西の端の島は、その国境として、人々の行き来が厳しく管理されるようになる。台湾有事や尖閣問題など、与那国周辺には軍事の香りが濃厚に漂うようになっていたのである。
こうして、交易という生命線を失った与那国島は、徐々にその力を弱めていく。最盛期には1万2000人以上が与那国島に暮らしていたというが、現在の人口はわずか1,600人足らず。島からは高校も消え、若者たちの島外流出にも拍車がかかってしまっている。
日本の西端でありながら、与那国島には出入国の管理官が存在しないため、国際便の就航が認められていない。そのため、たとえ間近の台湾からの訪問者ですら、遠くの港の空港などの迂回を強いられる。台湾とは水上バイクでも行き来できる距離だというのに…。
◎最果ての地
「ここ(台湾と与那国島)の間に『交通がない』という方が、不自然なんです」
与那国島の国際交流に尽力している田里千代基氏は、そう語る。本来、与那国島は日本、中国、東南アジアの中心に位置しているはずだった。なぜなら、与那国島から日本の首都・東京の距離(2112km)よりも、中国の首都・北京(1833km)、韓国の首都・ソウル(1,500km)、フィリピンの首都・マニラ(1124km)の方がずっと近いのである。
ところが、日本のアジア側の国境が厳しく制限されることにより、アジアの中心とさえなり得た与那国島は、「最果ての地」とされ、今やその存続も危ぶまれるほどに弱り切ってしまった。
◎二分された小さな島
人口の減少、経済の不振にあえぐ与那国島の為政者は、グアム知事と同じような結論に至る。「自衛隊を配備してもらえば、島を活性化できる」と。
実際、最新の防衛大綱に明記された「島嶼部への部隊配置」の名のもとに、防衛省は100人規模の部隊配備を与那国島に計画。島の南に広がる牧場が予定地とされ、去年末、およそ10億円の経費が閣議決定されていた。
与那国の古来からの住民たちが反発するのも、またグアムと同じである。
「自衛隊が入ったら、『基地の島』になるさ。住民はもういなくなるはずよ。祖先が立派に残してきた島を売り払ったらもう、二度と返されないはずだから…」と、島の老婆は語る。
二分された小さな島は、賛成派と反対派が拮抗。5人いる与那国町の議員も真っ二つ(賛成3人、反対2人)。現職の外間守吉・与那国町長は賛成派であるが、その再選はわずか100票という際どいものであった。
住民の間には「補償金」がもらえるかもしれないという期待もあるが、仲間同士でそうした話はタブーとされている。「突っ込んだ話は仲間内ではしない。こういう話をするとケンカになるから…」。
◎安全保障
言わずもがな、国の安全保障は国家の担う役割である。それゆえ、沖縄は「太平洋の要石(かなめいし)」とされ、グアムは「ヤリの先端」とされているのである。かつてはソ連に対して、今はメキメキと台頭してきた中国に対して。
しかし、与那国島の国債交流を志す田里氏の思い描く安全保障の姿は、国家のそれとは少々異なる。
「『人の交流』があるところには争いはないんですね。軍隊は要らないんです。必要なのはお互いの交流だけですから。文化や教育、医療、いわゆる人間の交流です。これこそ一番の『安全保障』かな」
中国を敵視したがるアメリカとて、米中間の交流の深さから、容易には争えない。それは日中間でも、日韓間でも同様であろう。かつて海峡を挟んで大砲を飛ばしあった中国共産党と台湾でさえ、そうである。
鎧を分厚くして、武器をたくさん揃えるだけが、前時代の安全保障であったかもしれないが、次の時代の安全保障は、かつて理想とされたものの片鱗を見せてきているのである。
◎対立か、交流か
「対立の島から、交流の島へ」
かつて戦場とされた島々は、こんな想いを抱いている。目先の繁栄を考えるだけならば、基地や兵士からお金をもらったほうが良いのかもしれない。しかし、歴史が示してきたのは、「争い続けることは不可能だ」ということだ。
その反面、「交流し続けること」の方が、大きな利益を生み出すことを、歴史上、「非武の島」と讃えられた沖縄(琉球)は体現している。
第二次世界大戦時には、日本の攻撃を受け、そして占領されたグアム島であるが、今では、グアム島における観光収入の9割までもが日本人によるものである。
かつて日本軍がグアム島にもたらしたのは何であったのか。そして今、日本人の観光客がグアム島にもらすのは何なのか。
◎将来
元・沖縄知事の大田昌秀氏は、その想いを語る。
「たとえ経済的に貧しくとも、『沖縄らしい沖縄』を創りたい。沖縄の誇る平和に対する強い想いを永続させたいのです」
沖縄はその「非武の島」としての歴史を見ても、「平和の象徴」として日本で最もふさわしい場所のようにも思える。この島が最も凄惨な地上戦を体験してしまったことは、じつに不幸なことであったが、それゆえに平和への想いは日本人の誰よりも強くもっている、と大田氏は言う。
「自分たちの未来は、自分たちで決める」
この当然そうな一事が、沖縄でもグアムでももつれ合ったままである。争いを助長しているようにも思える国家の安全保障に疑問を感じたままに…。
100年前とはすっかりその姿を変えてしまった沖縄とグアム。
さらに100年後の姿は、如何ようなものであろうか。
沖縄は再び「非武の島」となっているのであろうか?
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ETV特集
「オキナワとグアム 〜島が問う、アジア・太平洋の未来〜」