2013年03月30日

円空仏の微笑と悲しみ。両面宿儺


「円空もてるものは鉈(なた)一丁のみ。常にこれをもて仏像を刻む所作とす(近世畸人伝)」

僧・円空は一生涯で12万体の造仏を果たしたと伝えられる。



彼は高貴な僧侶ではない。

人々が親しみを込めて「円空さん」と呼んだように、限りなく庶民の側に生き続けた僧である。

全国を行脚した「円空さん」は、飢饉・干ばつ・風水害・貧困等で喘ぐ人々と交わりながら、その救済に仏像を造って与える菩薩行を実践して歩いたのだという。



今も残る円空画像の模写(飛騨千光寺)。

その画像には「キッと目を見開いて眼光するどく岩屋で念誦する山岳修行者を彷彿させる円空の厳しい顔がある(大下大圓・飛騨千光寺住職)」

諸国を行脚しながら風雪に耐えて旅した円空。その苛烈なまでの生き様を感じさせる画像。それは「自分には厳しく、他にはあたたかい」円空の慈愛でもあるのだろう。







◎両面宿儺(りょうめん・すくな)


円空の代表作に「両面宿儺」像というものがある(飛騨千光寺蔵)。

「両面」というのは顔が2つという意味であり、「宿儺(すくな)」というのは飛騨にあった豪族の名前だという。

円空の彫ったという両面宿儺は、「中央に笑った顔を、その横に怒った顔をくっつけた忿怒と柔和像である(大下大圓)」。



両面宿儺とは如何なる人物か?

悲しみに彩られた彼の伝説は、大きな権力に歪められた形跡が色濃い。



時は大和朝廷が盛んなりし頃、宿儺(すくな)は山深い飛騨の地に根を下ろしていた。

宿儺の姿は恐ろしくも異形。「身体は一つにして両の面あり。四手四足。四の手に弓矢を用ふ(日本書紀)」。その伝説は、宿儺を鬼神のように語る。



仁徳天皇の時代、飛騨の宿儺はその支配に従おうとしなかった(皇命に随はず)。

「美濃・飛騨は大和朝廷にまつろわない異族の国である。両面宿儺はその首長であると考えられる(谷川健一)」



そして差し向けられた討伐の兵。その軍を率いるのは武振熊(たけふるくま)。

その圧倒的な軍勢に撃退された宿儺は、山の中へと姿をくらます。その後を追う武振熊。その途上に白い鳩が北へ向かうのを見て、「宿儺は北へいるぞ」と北へ北へと追い立てる。

やがて武振熊(たけふるくま)の眼前には乗鞍岳がそびえ立ち、その中腹には大きな洞穴が見えてきた。「あの岩屋が宿儺の隠れ家だ!」



岩屋の入り口を目指して崖を攀じ登る都の兵士たち。

対する宿儺は四本の腕で大きな岩を落としたり、大木を引き抜いて投げつけたり、猛然と抵抗する。四本の脚で走り回る宿儺は、恐ろしく素早い。



然れども、宿儺の劣勢は覆い難し。ついには疲れ果て、武振熊に組み伏せられてしまう。

だが、武振熊もさる者、凄まじい一騎打ちを演じた宿儺のその武勇を惜しむ。「命を奪うには惜しい男だ…」。



しかし、宿儺は頑として降伏など聞き入れない。「早く首をはねるがよい」との一点張り。

やむなく武振熊は宿儺の首をはねる…。



◎両面宿儺は凶賊か


日本書紀は宿儺を「人民を掠略みて楽とす(人民から略奪することを楽しんでいた)」と記す。ゆえに誅したのだ、と。

しかし、土地に伝わる伝承からは、まったく異なる宿儺の顔が現れてくる。



飛騨千光寺の縁起(千光寺記)によれば、宿儺は「救世観音の化身」であり、当寺を創建した人物(御開山様)となっている。また、宿儺は天皇の命により位山の鬼「七儺」を討ったとの記述もみられる。

さらに、日龍峰寺の開基は「両面四手上人(両面さま)」とされており、宿儺は霊夢の告により「観音の分身」になったとも云う。そして、高沢山の毒竜を征伏したのもこの両面四譬の異人であると。



仁徳記(日本書紀)には、宿儺が怪物まがいの凶賊として語られているが、美濃・飛騨の現地では、両面宿儺への根強い信仰が今なお残る。

「その名は日本書紀に一度登場して誅殺されたあと、正史には姿を見せない。だが、濃飛では今でも敬愛されている(谷川健一)」

「千光寺にある宿儺の石像には、時代を超えて受け継がれてきた住民の敬慕の念が込められている。大和朝廷にとっては許せぬ抵抗者であったが、その地方にとっては人の倍の力をもった優れた人物だったのだ(岡部伊都子)」



◎柔和な笑み


2つの顔をもつ両面宿儺。

円空の彫ったその像は、柔和な笑みがその前面に大きく出ている。

「おそらく円空は、千光寺住職の舜乗から宿儺の物語を聞かされ、その想いを感じて丁寧に彫り上げたものと思われる(大下大圓)」



円空の宿儺像は、その手に剣や槍ではなく「斧」をもつ。それは黎明期の飛騨の山野を開拓した「ひだ人」の象徴ではないか、と大下住職は言う。

その「ひだ人」は、身を呈して現地の人々を守ろうと、強大な権力に刃向かったのかもしれない。そして、土地の人々はそんな宿儺の姿を尊崇し続けてきたのかもしれない。



飛騨の人々は英雄としての宿儺を忘れたくはなかったのだろう。

しかし公に宿儺を讃えるわけにはいかない。朝廷の逆賊とされたのだから。

ゆえに宿儺は「観音さま」となり、その信仰の陰に隠れるようにして現在まで生き延びたのではなかろうか。



宿儺を討った武振熊(たけふるくま)もその意を察してか、さり気ない牽制を行なっている。

今も飛騨各地に残る八幡社がそうであり、それは武振熊の建立によるものと伝わっている。



◎円空仏


円空の伝説によれば、幼き日に母を目前の水害で亡くしたことが、造仏のキッカケになったのだという。

自分の内に悲しみを抱えたままだった円空。諸国を旅するうちに、同じような苦悩を背負って生きる人々と出会う。



貧困や干ばつ等で苦しめられる農民たち。

円空はひたすら彼らの心の安寧を願った。

「もがき苦悩する人々へ手を差し伸べ、必要であれば、その辺りに転がる木々を用いて、簡単な仏像を造って手渡す(大下大圓)」



密教においては、仏を念誦・供養する規則が定められた経典や儀軌があり、造仏するためには、その規則にそって制作しなければならない。

ところが、円空の手による仏像のほとんどは、そうした決まりに則ったとは思えない。より抽象化され、そして思い切って省略されているのだ。



「円空は余分なものは一切彫らずに、仏の本質のみを表現した」

円空が形にしたのは「むき出しの個性と生命力」であった。







◎微笑


鉈(なた)で彫られた荒削りの円空仏の数々。

そこには「素彫りの微笑」が浮かんでいる。



修験の僧でもあった円空は、権威とは無縁のところで、大地にへばりついて生きていた。

そして、必死に生きんとする人々の生活の中にこそ浄土はある、と信じた。

そうした人々のために円空は祈った。飛騨でも、かつて蝦夷と嘲られた辺境の地でも…。



人には死と隣り合わせの苦しみを味わってもなお、そこから這い上がる人間力がある、とブッダは教えた。その力を「自灯明(じとうみょう)」という。

完成していないように見える円空仏は、そこに見る人の自灯明が灯ってはじめて、その完成を見るのかもしれない。

「円空仏の魅力は完成していないように見える素彫りの造形であり、それを拝む人の心に、安心や慈愛、微笑を醸しだしてくれるのである(長谷川公成)」







◎ 原始人間


「両面宿儺」の像が円空の代表作と讃えられるのも、この像が円空そのものを表しているかのように見えるなのかもしれない。

他人に見せる微笑と、自分に向ける忿怒の形相。

それは宿儺という人物のもっていた二面性を表していると同時に、円空その人を象徴しているようにも思われる。



遠く古代ギリシャにも、奇しくも両面宿儺と瓜二つの人物像が見られる。それはプラトンの「饗宴」に登場する「原始人間」である。

「原始人間の手は四本、足も四本。頭は一つで両面がある。その力は恐ろしく強く、また思想も甚だ偉大で、天に昇って神々に抵抗しようとしたこともある」

結局、神々は原始人間のその強大な力を削ぐために、その身を2つに断ち割り、現在の人間の姿形にしたのだという。そのために、人間は「失われたもう半分の自分」を求めているのだという。



「分離」を経験したという人間は、何かを求めずにはいられないのかもしれない。

かたや両面宿儺は、すべてを持っていたのであろうか。それゆえに疎まれたのであろうか。



求めても、得られても、どこにでも悲しみはあるのかもしれない。

そして、微笑も…。







(了)



関連記事:

最も弱い者を救うという「お地蔵様」。現代の救いはどこにある?

社殿よりも鎮守の森よりも大切なもの。八重垣神社宮司・藤波祥子

本当の自分と望まれている自分のギャップに苦しむ「犬たち」の話。



出典:大法輪2013年4月号
「円空の祈り 大下大圓」
posted by 四代目 at 06:44| Comment(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月25日

「必ず甦る」。文明よりも文化を育んできた日本民族


「文化」と「文明」

それは明確に異なる、と園田稔(そのだ・みのる)宮司は言う。



文化というのは、英語でカルチャー(culture)。

「じつは、このcultureという言葉には、大地を耕すという意味があります。つまり文化とは、基本的に農耕文化を指し、農耕文化とは、その土地の風土、代々その土地に定住する人々が作り上げるものです」と園田宮司。

それはすなわち、「土地独特の個性」ということになる。



一方、文明というのは、英語でシビリゼーション(civilization)。

「つまり、市民(citizen)の作るもの。市民は都市(city)に集まって来た人々のことですから、文明は都市文明を指します。文明の真骨頂は、地域や文化のカベを越えて普及していくという普遍化です」と園田宮司。



なるほど、そう解釈すれば、文化は個性的(地域的)であり、文明は均一的(全体的)である。

「文化が育つのには時間がかかります。時間というフルイにかけられて残ったものが文化なのです。それに対して、文明とは、現代の携帯電話に代表されるように、普遍性(大量生産)によって一気に広まっていくのです」と園田宮司。



グローバル化とともに日本に押し寄せた近代化の波は、日本各地の独特な文化をまたたく間に押し流していった。

「どこに行っても同じような建物、同じような街づくり…。文明化によって地方色(文化)が消えて、日本中が平均化され、没個性化してしまいました」と園田宮司。







文明を推し進めてきたのは主に欧米諸国。一神教の善悪によって物事を断じる彼らは、森林を伐採し
て、そこに集落や牧場をつくってきた。

森を切り拓くことこそが、彼らの文明の象徴であり、神の力の及ぶところであった。そのため、原始のままに残された森は、神の手の及んでいない「悪魔の住むところ」と考えられていたのである。



先述したように、文明は「普遍化」を目指す。森を切り拓き、そのカベをなくそうとする。そうした力の及んだ地域こそが先進国なのであり、その文明の利器に浴さないところは未開な後進国となる。

そうした思考の結果、未開な地域には悪魔が住んでいるという「差別」が生まれることになる。先進国が「善」であり、未開国は「悪」。そういう差別である。



一方、日本民族はおおむね文化的であった。

森は森のままに残し、それはそのまま神の住まいであった。近代化以降に建てられた明治神宮でさえ、そのほとんどは森であり、その中央にお社があるだけである(ほかの世界宗教には見られない質素さ)。

日本民族にとっての山々や森林は、命の糧である水をもたらしてくれる尊い存在である。ゆえにそこに植物が繁茂していることを喜び、森の中に禁足地を作って社殿を建ててきたのである。







一般的に日本人は個性的でないと言われることが多いが、じつのところ、日本民族は文明的というよりも文化的であった。つまり、平均化よりも個性的であったのだ(その個性というのは、個々人のものではなく、風土という個性ではあるが…)

まずは森ありき。そこに風土が生まれ、人々が育まれる。そして、長い長い時間をかけて文化が育まれていく。それが長らく、この国の民族の生き方であった。



それゆえ、森に悪や未開という発想を抱くことがなく、古くからの神道には善悪という発想は薄かった。どちらが正しいか、どちらが悪いかを考える前に、どちらにも言い分があると考えたというのである。

この点、日本の神道における神と人間の関係は「相対的」といえる。このことは、一神教において「善悪」が明確に定められ、神と人間が絶対的な関係に置かれていたのとは、じつに対照的である。



鎌倉武士を律した「御成敗式目」には、神と人間の相対性が、こう書かれている。

「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳(めぐみ)によりて運を添う」

人が敬うからこそ、神の威力は高まるのであり、そのおかげで、人は恵みを得られる。日本の文化はおおむね、このような柔軟性の中に育まれてきたのである。



「東日本大震災のとき、石原都知事が『神罰』と発言しましたが、あの表現は神道的にみると適切ではないのです」と園田宮司は言う。

「人間の力ではどうにもならない自然の営みを畏怖するものの、神道ではそれを神とは言わないのです。神は自然の中に生まれますが、自然を支配する存在ではないのです」



もし、一神教的な発想で被災地を見れば、大被害を受けたカオス(混沌)を「この世の終わり」と捉えるのかもしれない。しかし、日本の神道的には、カオスに絶望することはない、と園田宮司は語る。

「たとえば日本神話で、生と死の混沌とした黄泉の国は、決して絶望の国ではないのです。それは根源の世界であり、そこから新しい生命が芽生えてくるというカオスなのです」



日本神話では、黄泉の国に行ったイザナギは、そこから戻って来て禊(みそぎ)をすることで、アマテラスやツクヨミ、スサノオなどの重要な神々が生まれてくる。

「カオスの中だからこそ、新しい命が生まれるという発想なのです。だから、カオスに絶望はしません。自然のあり方を柔軟に受け止めるのです」と園田宮司。



この点、ある東北の漁師の言葉は、じつに神道的であった。

「震災に遭って2ヶ月間は、湾の中に小魚一匹見えなかった。ところが、2ヶ月後には、かつての海よりも豊かになって甦ってきた!」

日本での自然災害は珍しくない。その大小はあれど、毎年のように暴風や洪水、地震などに襲われる。それでも、この国の民族は絶望ばかりしてきたわけではない。「必ず甦る」と心のどこかで信じてきたのである。







今年(2013)、伊勢の神宮では、20年に一度の式年遷宮(しきねんせんぐう)が行われる。土地、建物から御装束神宝にいたるまで、すべてを新しく整えて神様にお移りいただくのである。

また、時を同じくして、出雲大社も60年に一度の大遷宮を迎える。



「新しくすることで神が若返り、国も若返る、それが式年遷宮だと言われています」と園田宮司。

「人々が神様を敬うことで、神様は大いなる生命の力を発して、国が栄え、人々もまた豊かな恵みの中で栄えていくのです」

人あっての神、神あっての人。あくまで神道は、神と人とが相対的なのであった。







伊勢神宮と出雲大社、この2つの遷宮が重なるのは60年に一度。前回は1953年、第二次世界大戦の傷跡がまだ生々しい時期であった。

当時の人々は絶望していたかもしれない。だが日本はその少し前に戦後支配からの独立を果たしており、新たな生命の芽生えは感じていたはずだ。

「必ず甦る」。そう信じていた人も少なくなかっただろう。



そして今、日本という国はカオスの中にあるのかもしれない。

それでも「必ず甦る」。そう信じている人も少なくないだろう。

式年遷宮という古来よりの儀式は、そんな想いを新たにさせてくれるものである…。







関連記事:

社殿よりも鎮守の森よりも大切なもの。八重垣神社宮司・藤波祥子

日本の海岸線を9,000年守る「緑の長城」への想い。宮脇昭

焼畑は環境破壊か? 日本人と森林の深い仲。



出典:致知2013年3月号
「神道、そして文化と文明」

posted by 四代目 at 04:00| Comment(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月19日

社殿よりも鎮守の森よりも大切なもの。八重垣神社宮司・藤波祥子


「社殿は一年もあれば建ちますから。でも、木々が森になるのには多くの時間を要します」

宮司がそう言うので、社殿より先に「鎮守の森」の復興が始まった。



ここは宮城県亘理郡山元町。その海岸近くに鎮座する「八重垣神社」である。

この神社は、東日本大震災の大津波ですべてを流出していた。

「残ったのは、傷ついた十数本のクロマツだけでした…」



その時、藤波祥子(ふじなみ・しょうこ)宮司はたまたま秋田にいて、難を逃れた。

震災後の混乱の中をようやく神社に戻ってみると、「手の施しようのないほどの大量の砂と、ヘドロの混じった瓦礫」、それが山のように立ちはだかっていた。



「やっぱり、そうなんだ…」

藤波宮司は、悲しみや絶望よりも「自然の法則」を痛感したという。

「失ったものを思って涙を流すと思っていましたが、諦念にも似た『納得』をしていました…」



しかし、一般の氏子さんたちにはそのような「納得」はなかった。

眼下に広がる凄惨な惨状を目の当たりにして、「この世には神も仏もいない…」と嘆くばかり。

藤波宮司とて、その言葉に答える術はない…。



そんな嘆きの中、ある農家の古老はボソリとつぶやいた。

「『神も仏もいない』と言うヤツは、津波が来る前から神も仏もいないんだ…」

古老は訥々と語り出す。「オレは被災する前から被災した今でも、毎朝お天道さまに手を合わせている。大いなる恵みを与えてくれるのが自然ならば、恐ろしい災害をもたらすのも自然なんだ…」



土を知る老人の言葉には、自然に対する敬虔な「畏れ」があった。そして同時に「恐れ」もあった。

「人間の力の及ばないすべてを、神と言うのではないか…?」



この八重垣神社のある氏子地区(笠野地区・新浜地区)には、およそ300戸ほどあったというが「元の姿で残ったのは2戸だけ」。およそ90人の方々が亡くなられた。

「中には、夫が妻の手を一瞬放したスキに、妻の行方が分からなくなってしまい、手を放したことを悔やんで苦しんでいる氏子さんもいます…」

「押し寄せる津波の中で、木片につかまっていると、『助けてーっ!』と叫びながら流されていく人を、助けることが出来なかったことに、今も苦しむ氏子さんもいます…」



「今年、夏祭りはどうするの?」

旧暦6月15日頃(新暦8月初め)に行われる八重垣神社の宵祭りは、「仙南地方の三大祭」の一つと数えられているものだった。

「祭りどころではないだろう…」。藤波宮司は正直、そう思っていた。ところが、氏子さんたちからは熱烈に「祭りをやって欲しい!」との声が上がる。



「ズドーーーーンッ!!」

漆黒に闇に打ち上げられる花火。それを見あげれば涙がこぼれる。いつもの年の半分以下の規模で行われた宵祭り。花火も数発しか上げられなかった。



「わっしょいっ!わっしょいっ!」

翌朝の神輿渡御は、津波に流されて壊れてしまった御神輿。「瓦礫の中を縫うように、雑草で荒れ果てた海への道を練り歩く」。

そして、神輿を海に入れる伝統の「浜降り」。「一年ぶりに見る神輿に、手を合わせる人、涙を流す人…」。



かつてはあった社殿も、今はない。

それでも氏子さんたちは、社殿が建っていたところに向かって手を合わせ、お賽銭をあげていく。

「何もないところに向かって、手を合わせる。その姿こそが『神道の心』であり、日本人の精神ではないかと、被災した人々から教えられました」と藤波宮司。





古来、神は森や岩に鎮まっているとされ、森や巨石は「神の依り代」として神聖視されてきた。

「やれ社殿だ、御神体だと騒ぐのは神主だけ」

だから藤波宮司は社殿の再建を後回しにしても、「鎮守の森」の再興を願った。

「社殿は一年もあれば建ちますから。でも、木々が森になるのには多くの時間を要します」



そして行われた植樹祭。

氏子さんらのボランティア、およそ500人が駆けつけ、タブノキ・シラカシなど、常緑広葉樹の苗201種3,300本が植えられた。

「一年の計を立てるなら『稲』を植えよ。十年の計を立てるなら『木』を植えよ」とはよく言われる。社殿が稲であれば、鎮守の森はまさに木である。



格言はさらにこう言う。「百年の計を立てるなら『人の心』を育てよ」。

何もないところに手を合わせるのが氏子たちなれば、木を植えるために集まってくるのも氏子たちである。

「二千年もの間、先祖たちがこの場所に神社を建て続けてきた理由とは?」

1000年以上前の大津波(貞観地震・869)の時も神社は流失していたかもしれない。現・八重垣神社の創建は807年。5年前には鎮座千二百年祭を迎えていた。

「それは、ここに神社を必要とした人々がいたからではないか」



「Nature does't make jumps.」

自然は決して飛躍しない。稲ですら植えてから穂を垂れるまで半年以上を要する。

ましてや人の心をや。



「お祖母さんへの手紙が無事届くように願って、赤いポストを拝む子どもの姿」

そんな姿がわれわれの心の源流にはあるのかもしれない…。







関連記事:
日本の海岸線を9,000年守る「緑の長城」への想い。宮脇昭

なぜ出雲大社はあれほど大きいのか? 大国主神の国譲り

日本の森は「オオカミ様」が支えてくれていた。オオカミ信仰を忘れると…。



出典:致知2013年1月号
「震災から再び立ち上がる 神社復興に生きる女性宮司」
posted by 四代目 at 06:02| Comment(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月05日

ガウディの遺志を継ぐ日本人。サグラダ・ファミリアの外尾悦郎


その男は、路傍の「石」にすっかり心を奪われた。

それは、道路端に山積みされた何の変哲もない御影石。普通の人であれば気にも止めぬような、日常の風景の片隅にすぎないものだった。



その男の名は「外尾悦郎(そとお・えつろう)」、のちにサグラダ・ファミリア(スペイン)の主任彫刻家となる男。しかし、当時の彼はまだ大学を出たばかり。自分の未来がどこにあるのか、まったく定かではなかった。

「なぜ、石に魂を奪われてしまうのだろう?」

若き日の外尾氏は、「石に奪われた魂」を取り戻すために、いつしか、「石の本場」ヨーロッパ大陸へと誘われていった。



◎奪われた魂


25歳にして立ったヨーロッパ。期間は3ヶ月。

はじめはパリに、次にドイツへ…、などと考えを巡らせる外尾氏。「まてよ…、デカいドイツ人と体力勝負するためには、スペインで栄養をつけておかないと…」。

結局、最初に足を向けたのはスペイン。「ついでに、サグラダ・ファミリアでも見ておくか…」。その気分は、単なる一旅行者のそれであり、切なる魂の叫びでも何でもなかった。それでも、彼の足は確実に「正しい未来」へと踏み出されていた。

ちなみに、サグラダ・ファミリアというのは、130年以上も建築工事が続けられているという途方もなく巨大な教会であり、その完成は数十年後とも数百年後とも言われる「永遠に未完の工事現場」である。





旅行者気分でサグラダ・ファミリアに着いた外尾氏。

しかし、そこに無造作に積まれた石の山を目にした時、彼の魂は「歓喜の雄叫び」を上げていた。

「あぁ、奪われた魂はここにあった…!」



一般の旅行者がサグラダ・ファミリアの天を突くような高さに目を奪われている中、外尾氏の目は、まだ建築物の一部ともなっていない足元の石に釘付けになっていた。

それらの石は、いずれ天下のサグラダ・ファミリアを構成するであろう未来の卵。

その未来が、外尾氏には見えていたのであろうか?



◎あり得ないであろう1%


さて、自分の魂の置きどころを見つけたといえども、サグラダ・ファミリアには何のツテもない。単なる旅行者、リュックを背負った見ず知らずの若輩の日本人。外尾氏が天下のサグラダ・ファミリアで仕事をさせてもらえる可能性は「100に一つ」もなかった。

おそらく、普通の人であれば、無難に大学で講師を務める日常へと帰っていったのであろう。普通の人にとって、それが「99%確実な未来」に思える。



それでも、外尾氏は「あり得ないであろう1%」に全てを賭けた。

何度も門前払いを食らった。それでも、彼は食らいついて離れなかった。そしてついには、試験を受けることが許され、見事に合格という陽の目を見ることとなる。

日本を離れてから2ヶ月、三ヶ月の予定だった旅行は、ずいぶんと予定が延びることとなりそうだった。



しかし、その職はサグラダ・ファミリアの職員というわけではなく、一回一回の契約で仕事をするという「請負いの彫刻家」であった。つまり、その都度その都度、相手を納得させる結果を出し続けなくてはならないという、じつに不安定なものであった。言うなれば、毎回毎回、試験に合格し続けなければならない身分に過ぎなかった。

「負けてしまったら終わり」

そんな崖っぷちを外尾氏は歩き続けた。サグラダ・ファミリアで石を刻む唯一の日本人として。



◎「生誕の門」


当初は3ヶ月の予定だった旅行、それが今や、34年という長き移住生活となっている。

その長い年月、外尾氏は厳しい評価に勝ち続けた。世界の並み居る芸術家たちを相手に、「ソトオ(外尾)」という外国人ばかりが仕事を獲り続けたのである。



そして、彼の名を世界に雄飛させることとなるのが「生誕の門」。

彫刻がなかった生誕の門。その門に飾る彫刻のデザインには、名だたる彫刻家たちが名乗りを上げ、そのアイディアを競い合っていた。出品された模型は「マリア像」や「ヨセフ像」などなど。じつに教会の門として相応しいものばかりであった。

ところが、そのコンクールの末に通ったのが、外国人「ソトオ」のデザイン。



「なんで、ソトオという外国人ばかりが、あの門をやるんだ?」

スペイン本国の芸術家たちは、お国自慢の建築物のデザインが外国人に攫(さら)われていくことに納得がいかない。その違和感は、日本の法隆寺や東大寺に外国人のデザインが入るようなものだろう。

しかし、そんな不満も2000年に外尾氏が15体の天使像を完成させると、みな唸らざるを得ない。現在、サグラダ・ファミリアで世界遺産に登録されているのは、この生誕の門である(2005)。この門自体の建築はガウディによるものだが、その装飾を手がけたのは日本人・外尾悦郎なのである。



◎設計図のない建造物


「私の出したアイディアは、他の方々とは全く違っていたのです」

生誕の門のデザイン・コンテストを振り返る外尾氏。

そもそも、サグラダ・ファミリアという未完の建造物には設計図が残っていない。そのため、ガウディという希代の建築家の思想を「想像」する形でしか建設は進められない。生誕の門のデザインに関しても、一切の資料は残っておらず、やはり芸術家たちの「想像力」だけが頼みの綱だった。



「私は少なくとも、同じモチーフが重なり合うことはないであろうと考えました。全体的なガウディの作品を見つめても、『繰り返し』ということをあまりしない人ですから」

この点に気づけたのは外尾氏だけであり、それが決定打ともなった。



「ソトオはなぜ、そんなことに気づくんだ?」と、他の彫刻家たちが不思議に思うことも多々あるのだという。

サグラダ・ファミリアの完成を見ることなくこの世を去ったガウディ。わずかに残された手がかりは、彼が生前に造り上げた建造物そのもの、つまり過去にしかない。しかし、その過去だけを見つめていては、未来のサグラダ・ファミリアは描けない、と外尾氏は語る。

「残された資料は何もありませんから、答えは出てきません。だから、彼を本当に知りたければ、ガウディを見るのではなく、『ガウディが見ていた方向』を見る。その方法でしか理解はできないと思うのです」





◎自然


その「ガウディが見ていたもの」とは何か?

ガウディは生前、「人間は何も創造しない」と言っていた。それでは、人間は何ができるのか?

ガウディに言わせれば、人間ができるのは、神の創造物である自然を「発見」することだけである。ガウディにとっての「自然」というのは、「常に開かれている偉大な書物」なのであった。



ガウディが得意としたのは「自然に即した建築」。

「構造は自然から学ばなければならない。構造的に安定しているのは『美しい形』だ」

ガウディは自然の中にこそ「最高の形」があると信じて疑わなかった。



そうした彼の自然への賛美がもっとも顕著に現れているという作品が「コロニア・グエル教会」の地下聖堂。

傾斜した柱や壁が洞窟のような空間を生み出している実に複雑なこの設計に、ガウディは「数字や方程式を一切使わなかった」と云われている。10年以上にわたり、ひたすら実験を繰り返して「最高の形」を発見したのだという。





◎逆さ吊り実験


その有名な実験が「逆さ吊り実験」と呼ばれるものである。この実験自体は非常に単純なもので、宙に渡したネット状のシートに重りを吊り下げて、そのたわみ具合を調べるというものである。

当然、重りを吊るされたネットは、重りの重力によって下に引っ張られる。建築物というのは、自然の力であるこの重力に抗する必要があるわけだが、その力に逆らわないためには、重力によって生じる「曲線」に沿って造る必要がある。

ガウディが考えたのは、重りの重力に引っ張られた形を、上下逆さまにすることであった。そして、その形がそのまま、重力に素直に抗する建造物の形となった。



重力には重力で応じたガウディ。彼はそれを机上の計算ではなく、実地から発見した。

ガウディのたどり着いた曲線は、現在では「カテナリー曲線」として知られるもので、単純な例でいえば、両端を固定された電線が、自らの重みでたわむ姿でもある。そして、それはサグラダ・ファミリアにも実用化された構造であった。



自然の上に軸足をおいていたガウディにとって、設計図は「役所に届けるために必要なもの」に過ぎなかった。何よりも彼が重視するのは「模型」であった。

それゆえ、晩年のガウディが全精力を傾けたサグラダ・ファミリアに関しても、模型は熱心に作ったものの、設計図はあまり描かなかったのだという。

不幸はスペイン内戦(1936〜1939)の折りに起こった。サグラダ・ファミリアの貴重な模型は破片となり、設計図のほとんどが焼失してしまう。それゆえ、現在のサグラダ・ファミリアの建造は「答えのない設計図」を夢想しながら、手探りで進んでいくしかないのである。



◎真っ暗闇


「ガウディならば、この門をどう飾るのか?」

外尾氏は、そんな「苦悩」の中につねに身を置いている。そして、苦悩の中にいるからこそ、気づくことができるのだとも言う。

「苦悩する人はもう、気づかざるを得ないんですよ。同じ状況にいても、苦悩しない人は何も気づきません。気づく必要もないのですから」



最初の十数年間は、まだ幾分の資料が残されていた部分だったので、それを足掛かりにすることができた。ところが、建築が進むにつれ、いよいよ未知の領域へと踏み込んでいかざるを得なくなる。

その行く先は、どこを見ても「真っ暗闇」。苦悩しかない「まったく孤独な世界」。外尾氏の契約はつねに一回限り。その危ない橋は、進めば進むほど危うさを増してゆく。



「溺れている状態のようでもあり、そのままジッとしていると溺れてしまいそうでした」

溺れぬようにと、ガムシャラに動き回っていると、ふと「か細い光」が見えることもある。そこに小さな答えがあることもあれば、ないこともある。それでもとにかく、もがいてもがいて、もがきまくるしかない。



苦悩が深ければ深いほど、その闇は深い。それゆえ、どんなかすかな光にでも気づくことができる。

「一度も闇の中に入ったことのない人、それは幸せと言えば幸せかもしれません。でもその幸せは、真っ暗闇の中から一条の光を見つけた時の喜びとは比較にならないものです」

これが外尾氏の答えである、「なんで、ソトオをそんなことに気づくんだ」という疑問への…。



◎コンクリート


サグラダ・ファミリアが完成すれば、それは170メートルを悠に超える高層建造物となる予定である。

そして、その強度を支えるのは鉄筋ではなく、素朴な「石積み」。つまり、石を重ねただけで高層ビル30〜40階もの高さに至るというのである。

これはガウディの思想の根幹である「自然に即して作る」という考えに基づくものである。「石というのは自然の素材であり、ゆえに自然と一体なのだ」とガウディは言う。「自然と一体であるがゆえに強く、美しいのだ」と。



しかし、ガウディの生きた時代は今から100年近くも前の話。

そのため、教会側は石積みから「鉄筋コンクリート」への転換を打ち出した。



この決定に愕然となった外尾氏。「オレはこの仕事を辞める…」と、背を向けることに…。

なんと、彫刻もすべてコンクリートとすると言うのだから…。外尾氏の魂を奪い続けていたのは、ほかならぬ「石」である。それは決してコンクリートではない。



外尾氏に言わせれば、コンクリートは「死んでいる」。コンクリートというのは、力づくで無理やり型にはめて生み出された遺体に過ぎない。

死んでいるがゆえに、その劣化も速い。建造時は頑強であるコンクリート造りの建物、しかし100年も経たずに取り壊されるものが後を絶たないのだ。



◎石


その見かけばかりが強そうなコンクリートに対して、自然の石は「生きている」。

生きているからこそ、外尾氏は路傍の石にも心を奪われてきたのである。彼にとってのサグラダ・ファミリアの最大の魅力は「全部が石」という、その一点に尽きる。



そして、ガウディの言う通り、石は強い。

石が積まれただけの中世の城は、いまもヨーロッパに幾多とある。そして、日本にも、ペルーにも…。歴史的な石積みの建造物は、大地震という自然の洗礼にも耐え抜いてきたのだ。



コンクリートと石の違いはなにか?

それは、生きているか否か、自然であるか否かであると、外尾氏は語る。



幸いにも、サグラダ・ファミリアの彫刻は石で造られると決まり、外尾氏は現場にとどまることとなった。

「ガウディが見ていた方向」を見据える外尾氏にとって、コンクリートの未来など、到底考えられなかった。





◎永遠の生


石が生きているのであれば、それで出来ているサグラダ・ファミリアもまた「生きている」。

たとえ、現在の工事がいつか完成する日が来たとしても、それは「完成ではない」と外尾氏。サグラダ・ファミリアは「永遠に生き続け、育ち続ける」と断言する。

サグラダ・ファミリアは、人々が生かし続ける限り、完成はないと言うのである。その真意は、建造物としての完成とはまた別の次元にある。



確かに、ガウディという不世出の建築家はもう死んでいる。

しかし、ガウディの遺志を継いで、その方向に歩み続ける後続がいる限り、ガウディは生き続ける。



実際のガウディの死は、その天賦の才に似つかわしくないほど悲しいものだった。

ミサに向かう途中だったというガウディは、路面電車に轢かれた。ところが、浮浪者と勘違いされたガウディ、その手当てが遅れ、その3日後に73年の生涯を終えることとなる(1926)。

妻子を持たなかったガウディは、その晩年を一心不乱にサグラダ・ファミリアに賭けており、建設資金に私財のすべてを投じ、ほとんど無一文になっていた。身なりに気を使うこともなかったというガウディの見かけは、浮浪者と勘違いされるほどみすぼらしいものだったのだ。



◎答えのない未来


サグラダ・ファミリアという教会は「贖罪(しょくざい)教会」と呼ばれるもので、その性質上、建設資金は「信者からの寄付」で賄われることとなっている。そのため、地域の経済が低迷してしまうと寄付も減り、その建設計画も頓挫してしまう。

不幸にして、ガウディの生きた時代には第一次世界大戦が起こっている。そのため、サグラダ・ファミリアの建つバルセロナ(スペイン)は財政危機に見舞われ、その建設は思うほどに進まなかった。



それでも、ガウディはサグラダ・ファミリアという壮大な構想を小さくすることなど微塵も考えなかった。

「私がこの聖堂を完成できないことは、悲しむべきことではない。必ず、あとを引き継ぐ者たちが現れ、より壮麗に命を吹き込んでくれる」

彼がそう信じた通り、ガウディの示した未来は100年たっても色褪せることがなかった。いや、むしろ彼の言う通り、「より壮麗に」なっているのかもしれない。模型や設計図が失われたことが幸いし、「あとを引き継ぐ者たち」の想像力は無限に喚起されるばかりである。サグラダ・ファミリアには、設計図という小さな枠にこだわる必要がないのだから。



あとを引き継ぐ者たちの一人である外尾氏は、その答えのない未来をこう思い描く。

「見えないけれども『本来あるべき答え』を見つける。『あるべきなのに、今ないもの』を見つける」

外尾氏が理想と考える彫刻とは、人々に「あぁ、これがなぜ、今までなかったんだろう」と感じさせるものなのだという。

その答えは「自然」の先にある。それこそが、「ガウディの見ていた方向」なのだろう。現在、外尾氏の手がける門扉には、アヤメや野バラなどの植物や、テントウ虫やトンボなどの昆虫の装飾が施される予定である。



サグラダ・ファミリアという建築物に限らずとも、現在の世界には「あるべきなのに、まだないもの」は、まだまだたくさんあるのかもしれない。

人はそれらを「創造」するわけではない。ただ「発見」するだけなのだ。

「自然」に目を向け続けたガウディは、そう言っている。



「未完」であるがゆえに、生き続けるサグラダ・ファミリア。

その未来は、まだまだ広がり続けている…。







関連記事:
世界に「日本人」を示した男。新渡戸稲造

世界に広がる「日本のコメ」。田牧一郎氏の開拓魂。

日本の心を世界に示した「柴五郎」。絶望的な籠城の果てに…。



出典・参考:致知2012年12月号
「天才建築家がガウディの遺志を継ぐ」

posted by 四代目 at 08:36| Comment(2) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月03日

動きの中にある幸せ。作家・五木寛之


今から2,500年もの昔に、ブッダは80歳まで生きたのだそうだ。医療も栄養もよくない時代のインドにあって…。

日本の親鸞(浄土真宗の宗祖)は90歳まで生きた。今から800年も前、時は源平の争乱の末に鎌倉の時代が生まれた頃であった。



親鸞の凄みは、80歳を過ぎてから数々の大仕事をやり遂げたことである。たとえば、仏教の教義を和語で讃えた和讃(わさん)の仕事を手掛けたのは、80代も後半になってからだという。

本人は手紙の中で、「もう目も見えず、字も乱れて…」と謙遜してはいるものの、南北朝時代に「三帖和讃」と呼ばれるようになる親鸞の著作群は、今も国宝として現代にまで息づいている。



◎新聞連載


その親鸞の生涯を小説として描いている作家が「五木寛之」氏。今年で御年80歳になられたそうだ。

その「親鸞」という小説は、平成20(2008)年から新聞連載されている新聞小説であり、昨年、親鸞60歳までの第二部までが終了し、来年7月から、親鸞が90歳で亡くなるまでの第三部を書いて物語を完結させるということである。





よく言われることは「年を取ると長編小説は書けない」ということらしいが、どうやら、五木寛之氏ばかりはその範疇に入らぬようである。「親鸞」という小説は、このペースでいくと6巻もの長編小説になる予定である。

しかも、新聞連載というのは毎日のように書かねばならない過酷な仕事である。そうした毎日毎日の執筆を五木氏は37年間も続けてきたのだそうだ。

「土日は別にして、一日も欠かさず、ストックもなしでね(笑)。まだ明日の原稿は書いていないんですよ」



たとえば、「日刊ゲンダイ」の連載は、夜12時までに原稿を入れると、翌日のお昼までには駅の売店に並ぶ。

「これで37年間、事故もなしに続いたのは奇跡みたいなものです。交通事故に遭ったり、風邪をひいたりして中断しそうなものだけど、お陰様で今のところ何とか奇跡的に続いています(笑)」



北海道新聞から琉球新報まで、1,600万部を超す新聞に掲載される小説「親鸞」。これは明治以来、最も部数の多い新聞小説であり、それを欠かさずに続けるというのは、並大抵のエネルギーではない。

「毎日朝刊を広げて読んでくださる北海道から沖縄までの読者のことを考えると、やっぱり肩の荷が重いです」

80歳にしてなお壮健に大仕事。まるで小説の主人公・親鸞聖人のようではないか。



◎夜行生活


老いることのないような五木寛之氏。しかし、彼の毎日の生活はなんと、「非常識の極み」と医者や科学者たちが太鼓判を押すほどなのだという。

「たとえば、早寝早起きが健康に良いと言われますが、私は何十年も『夜行生活』を続けてきました」



五木氏の執筆は深夜の12時に始まる。そして、それが終わるのが朝日も白みはじめる早朝5時。それから寝るのは朝6時である。

その眠りから覚めるのは、お日様が中天を過ぎた午後1時か2時。

その生活がたとえ「非常識の極み」と判じられようとも、実際の五木氏は「人一倍に元気」。もし、午前中に仕事があるのなら、睡眠は3時間でも徹夜してでもこなしていく。



彼いわく、「私なんか乱世に生きている『野性の動物』と思っているから、『不規則で動的な生活』を大切にしているわけです」。

彼の語る「動的」という言葉が、これから随所で語られるキーワードとなっていく。



◎動的な不規則さ


「『よく噛んで食べろ』ともいいますね。だけど、週に一日か二日、私はあまり噛まない。ご飯でも何でも飲み込んで、時どき胃腸に警告を与えてやる(笑)」

五木氏が言うには、20回も30回も口の中でグジャグジャに噛んで、流動食のようにして胃に流し込んでいたら、「胃が怠ける」ということになる。だから、時どき噛まずに飲んで「警告」を与えるのだ。

「でないと、彼らのは『野性的な力』を失って、いい加減になってしまう」



チョウよ花よと身体を壊れモノのように扱う健康論など、どこ吹く風。五木氏の養生論は、まこと身体に厳しい。決して良い環境に安住させようとするものではない。

あくまでも「動的」に、徹夜で脳を休ませないこともあれば、噛まずに胃腸を怠けるさせないこともある。



五木氏にかかれば、「規則正しいルーティンの生活を送っている人は、非常時に弱い」ということになる。「ですから、海外旅行に行って時差に悩まされるんです」。

昼夜の逆転してしまっている五木氏にとって、その体内時計はすでにどこか他の国のものとなっている…。



◎唯我


「多くの人には早寝早起きがいいかもしれないけれども、100人に一人、1,000人に一人、一万人に一人くらい『例外』があるかもしれない。その例外は私かもしれない」

五木氏は、万人に効く健康法があるとも、万人に有効な治療法があるとも思っていない。それは彼が「人間は一人ひとり違う」という前提に立っているからだ。

「世界には何十億もの人がいますが、一人ひとり全部遺伝子が違うんです。これは驚くべきことです」



それゆえ、科学や医学、あるいは治療というのは、「一人ひとりの『唯我』には向き合えない」。

「仏教に『天上天下唯我独尊』という言葉があるでしょう。あれは唯我、『たった一人の我』なればこそ尊しというものです」



その唯我とて、絶対的ではない。その時に応じて、その年に応じて、また別の唯我となっていく。

唯我は決して固定化されたものではなく、あくまでも「流動的に」変化していく存在でもあるのである。



◎偶然


五木氏は子供の頃に、第二次世界大戦敗戦後の大混乱を経験している。敗戦を迎えたのは朝鮮半島の平壌にて。年の頃は中学生ほどであった。

「当時流行していた朝鮮銀行券というのが、敗戦と同時に全部『紙くず』となって、ソ連の軍票に替わりました。そこで物凄いインフレーションが起きたんです」

インフレーションというのは、貨幣の価値が急落してしまうことで、パン一個買うのにも、何万円も支払わなければならなくなることもある。



こうした「予期せぬ未来が現出することがある」という感覚は、五木氏の骨の髄にまで染み込んでいるようで、彼は経済学者の言うことなど信じない。

「日本の将来は絶対に安泰だと言う人も、日本の経済破綻は刻々と迫っていると言う人も、両方とも信用しないんです。彼らは「偶然の要素」を入れないで予測しているわけですからね」



かつて、ロシアの脅威が迫っていた日露開戦前、日本の警官がロシアの皇太子を斬りつけるということを誰が予想できたのか?

第一次世界大戦の引き金となるサラエボでのオーストリア皇太子の暗殺はどうか?

「いくら一生懸命に経済予測をしても、富士山が爆発したらどうなりますか? それだけでもう日本経済は大変動をきたすでしょう」



五木氏にとっての未来は「偶然」に満ちている。

ハイパーインフレが起きるのも一瞬であり、「ちょっとしたキッカケ」でガラッと変わってしまうのだ。

だからこそ、規則性に自らを甘んじさせることはない。脳にも胃腸にも「思わぬ事態」を常日頃から体験させておくのである。



あくまでも未来は「動的」。

そして、それに対処できるのが「野性」ということになり、彼は自らを「野性の動物」に留めておこうとしているのである。

かの親鸞聖人とて、言葉もろくに通じぬ越後に流されたこともあったのだ。



◎予兆


世界の未来は不測であるものの、五木氏は自分の身体に起きる「予兆」は感じられると考えている。

身体は身体の言葉、「身体語」でそのサインを発している。その身体語に耳を傾けるかぎり、突然死とか発作は起こらないと考えているのである。

「突然死とか発作とかいう考え方を私は持っていないんです。必ず予兆がある」

どんなに突然に見える発作でも、必ずどこかで身体は警戒信号とか訴えを発しているというのだ。



かつて、五木氏は「偏頭痛の持病」に悩まされていたという。その偏頭痛の様子をつぶさに観察していた五木氏、ある時、その「予兆」が低気圧の接近にあることに気が付いた。

「たとえば、唾液がベトベトとして粘つくような感じになる。上まぶたがちょっと垂れ下がってくる。首筋だけちょっと熱くなる」

それらがすべて「気圧」の変化と関係していたというのだ。



それに気付いてからは、新聞で欠かさず気圧配置を確認するようになり、やばそうな時には、アルコールをストップしたり、お風呂をやめたり、徹夜を避けたりと、あらかじめ手を打つようになった。

すると、その偏頭痛は二度と起こらなくなってしまったのだという。



◎変わりゆく思想


変化が現れ、自分が世界が動的に動き出す時、そこには何かしらかの予兆があるはずだ。しかし、それに気付けなければ、未来は突然起こることになり、それは偶然と思うより他なくなってしまう。

経済的な予測というのは、基本的に何かの延長線上に未来が待っていると考えがちだが、そうしたラインはいわば幻想でもあり、時ならず何かの偶然によって大きく捻じ曲げられてしまうことも少なくない。

その偶然はリスクと呼ばれるのかもしれないが、そのリスクが実際に起こった結果までは予測不可能だ。それが人智の限界でもあるのだろう。



世の中も変われば、身体も変わる。そして、考え方も変わっていく。

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず…」



五木氏が困ることの一つは、「親鸞の思想ってどういうものですか?」と聞かれることだという。

なぜ困るのかといえば、親鸞という激動の人生を送った人の思想は、その年齢に応じても大きく変わっていったからである。



「9歳で比叡山に入って29歳まで営々と勉強していた頃の親鸞」

「29歳で山を下りて法然の弟子となり、それまでのものを全部捨て去った時の親鸞」

「その後に京を追われて都を離れ、越後という言葉も通じないような酷寒の地で暮らしていた頃の親鸞」

「60数歳で京都に戻り、念仏思想をさらに深めようとした親鸞」



こうした数々の親鸞は、その時々で違う思想を持っていた。

「違わなければ、親鸞の思想なんて、生きた思想じゃないじゃありませんか」

そう、五木氏の強調するのは、「生きている」ということなのであり、それは動きや変化を続ける「動的」なものということだ。

「親鸞は動的に生きたのです。人間はそうやって動的に生きなきゃいけないと思うんです」





◎長寿は幸せか


今、日本という国には、100歳以上の長寿者が5万人以上いるのだという。そして、その数は数年後には倍の10万人になるのだそうだ。

もはや60歳くらいでは「まだ青年」である。



ただ、ここで問題とされるのが、その100歳を超えた方々のじつに80%以上が「寝たきり」だということだ。

「はたして、長寿は幸せか?」

それを巡る幸福論は百花繚乱である。一人ひとりの遺伝子は違い、その体験も異なるのであるから、まさに百人百様。



五木氏が感じるのは、時代とともに幸福論も変化しているということである。

「かつての平穏な時代の幸福と、現在の絶望の時代の中での幸福は異なるのです」



現在の絶望というのは、「格差が固定してしまったことだ」と五木氏は考える。かつて、低所得の人でも格差の壁を越えて一発で成り上がれるという希望があった。つまり、格差はあっても、そこに「流動性」があったのである。

アメリカン・ドリームの発祥地・アメリカでさえ、格差の固定化は進み、それがウォール街に対する空前の規模のデモ抗議ともなっている。

「個人の生き方と同じように、社会もやっぱり動的でないといけません。けれども、今は社会が動的ではない。そこが問題なんですね」



そして、幸福論も動的でなくてはならない。

「古い知識でクドクド言ってても仕方がない。もっと動的に物事を見なければダメだし、幸福論にしても永遠の幸福論なんてないんです」

昔は長寿こそが最高の幸福だった時代もあったわけだが、今は寝たきりを望まない人が多いことも確かである。すなわち、適性寿命はその人それぞれに依存するということだ。

「人間の平均寿命なんか関係ない。一人ひとりの天寿というものがあるんです」





◎片輪


かつて、ナチスの強制収容所に囚われていたフランクルは、「夕日を見て感動する心を失わなかったことで、生き延びることができた」と書いている。

そして、ユーモアを「自分を見失わないための武器」だとも説いている。



五木寛之風に言えば、それは「喜び上手」ということにもなる。

ただ、それだけでは片輪であり、人は同時に「悲しみ上手」でもなければならないと五木氏は語る。

「戦後よくなかったのは、何でもプラス思考、プラス思考で、笑うこと、ユーモア、明るい気持ち、前向きと、そんなことばかりもてはやしていることです。でも、それは車の片方の車輪でしかない」



江戸時代の本居宣長は、こう書いている。

「悲しいことに出会ったら悲しいと思え。ごまかさずに真っ直ぐに見据え、あぁ、私はいま悲しい、悲しいって声に出して言え。人にも語れ、空に向かって拝みもせよ」

現代でいうカタルシス効果、昇華された悲しみは「すばらしい歌」になるとのことである。




◎矛盾


幸せと不幸せ、喜びと悲しみ…。

「人は笑う時もあれば、機嫌の悪い時もある。それが当たり前の姿です」

「生きる」ということは「動的」に流れ続けるということ。時に応じて、考え方が変わるのもまた良し。

「矛盾があるから人間であって、始めから終わりまで統一されていたら、そんなものは人間じゃない」



安定を求めればかえって不安定になることもあれば、不安定を覚悟でかえって安定することもある。

とどのつまり、われわれ人間は動くことを宿命づけられた「動物」なのであり、その本質は「動的」なものである。それゆえ、人間の希望は動きの中から生まれてくるものなのかもしれない。

ところが現実には、固定的に考え、それが一方向に偏りすぎるきらいがあることも否めない。そして、それが時代を閉塞させることにもつながってしまうのだろう。



◎動き続けるということ


齢(よわい)80にして、いまだ「野性味」を失わぬ五木寛之氏。

彼はあえて不規則を生み出し、動きを止めようとは決してしない。

一方の社会は、安定を求めるあまりに淀みにはまってしまった泡沫(うたかた)のような堂々巡りを続けるばかり。



親鸞という人は、一寺も建てず、市井の陋屋(ろうおく)で一生暮らして90歳という天寿を全うしたとのことである。

彼の名は、その時々によって変わり続けた。幼名からはじまり法名へ。越後に配流された時は「愚禿(愚かなハゲ)」を名乗っている。死してなお、諡(おくりな)から尊称から、いつくもの名前がある。

そして、その思想も留まることなく変わり続けた。彼は悪人であり聖人であったのだ。



それでもなお、親鸞の名は不朽である。

というよりも、それだからこそ、親鸞の生は不朽となったのかもしれない。



動的に生きるということ。

それが五木寛之氏の幸福論である。

しかし、その論もまた不変のものではないのかもしれないが…。







関連記事:
「流れ」の中に生きる宿命をもつ生命。迫りくるエントロピーの影。

金次郎の目に映る「円い世界」。二宮尊徳

不運を断ち切った小説家。宮本輝



出典:致知2012年12月号
「大人の幸福論 作家・五木寛之」
posted by 四代目 at 08:25| Comment(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする