2015年11月22日

千日苦行と、一瞬と [光永圓道]



比叡山 延暦寺

開山から1,200年

ここに代々伝承されてきた「動静2つの難行」がある。


動の行といわれる「千日回峰行」

静の行といわれる「十二年籠山行」










◆ 入山



子供のころから喘息(ぜんそく)だった。

ひどい発作に見舞われるたびに、もう死ぬと思っていた。



比叡山から話がきたのは、そんなときだった。

光永圓道(みつなが・えんどう)氏は言う。

「中学を出て、ワラにもすがる思いで小僧にしていただきました」



師となった光永覚道(みつなが・かくどう)は言った。

「坊さんをクビになっても就職できるよう、大学にいけ」

師僧・覚道阿闍梨(かくどう・あじゃり)は、比叡山随一の荒行・千日回峰行を1990年に、35歳で満行していた。






光永圓道(みつなが・えんどう)氏は言う。

(大学にいけと言われて)京都市内にある花園大学で勉強することになったわけですが、そこからですね、お坊さんになることを本気で考えはじめたのは。お勤めが忙しくて学校には寝に行くようなものだったんですが(笑)」

心配した喘息(ぜんそく)も、入山して3年目には完全に落ち着いていた。

「自然に囲まれた環境で、毎日忙しく立ち働いたことが、一種の逆療法のような効果をもたらしたのかなと思います。改めて振り返ると、自分がこの道に入ったことが、とにかく不思議で仕方ありません。気がついたらココにいたという感じで(笑)」






◆ 覚悟



住職になる前からすでに、千日回峰行に入る意志はあったという。

光永圓道(みつなが・えんどう)氏は言う。

「許可をいただかないとできない行ですから、公言はしていませんでしたが、心の内では "できることなら" と」



千日回峰行は平安時代、相応和尚(そうおう・かしょう)により創始されたとされる。

その極限の行を、比叡山はこう記す。

千日回峰行は7年間かけて行なわれます。1年目から3年目までは、1日に30キロの行程を毎年100日間行じます。定められた礼拝の場所は260箇所以上もあります。4年目と5年目は、同じく30キロをそれぞれ200日。6年目は、1日約60キロの行程を100日。7年目は200日を巡ります。最後の100日間は、もとどおり比叡山山中30キロをめぐり満行となるものです(天台宗公式HPより)


光永圓道(みつなが・えんどう)氏は言う。

「この回峰行は、途中で断念するときは "自害しなければならない" という究極の掟がありますから、中途半端な気持ちでは入れません。入る時にどれだけ自分の覚悟を決められるか、ということだと思います」

回峰行者は、頭には未開の蓮華をかたどった桧笠をいただき、生死を離れた白装束をまとい、八葉蓮華の草鞋をはき、腰には死出紐と降魔の剣をもつ姿をしています。生身の不動明王の表現とも、また、行が半ばで挫折するときは自ら生命を断つという厳しさを示す死装束ともいわれます(天台宗公式HPより)






◆ 行



平成15年(2003)、光永圓道氏は千日回峰行にはいった。

光永氏は言う。

「比叡山の千日回峰行は、毎年春にスタートします。年間100日間ですので、3月の下旬から7月の初旬まで歩くことになります(200日歩くときは10月中旬までになります)。寝るのは、だいたい夜の8時くらいで、夜中の12時半には起き、お勤めをして2時に出峰します。夜通し歩いてお参りして、朝の8時には帰ってきます」



ひとたび行に入れば、雨が降ろうと雪が降ろうと、行を続けなければならない。

山中でに怪我は数え切れず、ときには台風に遭遇し、脱水症状に倒れることもあったという。



光永氏は言う。

「中でも一番大変だったのは、京都大廻りのときに脚を怪我したことでした。累積疲労で脚がパンパンに腫れて、お医者さんからは "絶対安静" と言われていたんです」

そのとき、むかし言われた師の言葉が、脳裡に去来した。

”脚をかばうな”



光永氏は言う。

「かばいながら歩くと、今度は別のところを痛めるんですよ。ですが、かばわなければ痛いところはその一か所で済む。言われたときには意味の分からない言葉でしたが、実際に自分の身体で体験してはじめて、感得しました」






◆ 生存の否定



行に入って5年後、700日を満行すると、堂入り(どういり)となる。

光永氏は言う。

「9日間、明王堂に参籠して、断食・断水・不眠・不臥で本尊の不動明王にお祈りしました。一日に三坐の勤行をして、不動明王の真言を十万遍となえます。毎日午前2時に本尊にお供えするお水、閼伽水(あかすい)を近くの閼伽井(あかい)という井戸まで取水に行くのですが、それ以外は外に出ることはできません」

700日を満じて、9日間の断食・断水・不眠・不臥の“堂入り”に入り、不動真言を唱えつづけます(天台宗公式HPより)

断食・断水に関して、医学は "一週間(7日間)が生きられる限度" としている。が、それを9日間、行は求めるのであった。

「体力はどんどん落ち、身体も痩せこけて、頬がゲッソリと削げ落ちてきます。本当に死と隣り合わせのギリギリのところまでいくのです。心臓に負担がかかるので、本当にゆっくりとしか歩くことができなくて、トイレも手伝っていただかないと行けなくなりました」



生きることが一切、否定される。

すると不思議なことに、精神は別の働きをはじめるという。



光永氏は言う。

「まさしく極限の状態のなか、意識は逆に冴えわたって鋭敏になり、普段は決して聞こえない、比叡山の麓をはしる電車の音や、駅のアナウンスまで聞こえたほどです」



出堂したときには、杖もまともに握れぬほどに弱っていたという。

「堂入りは、お釈迦さまが悟りを開いたときの追体験の行です。お葬式をして、形の上では死をもって入堂させてもらい、9日後にそこから出堂するときには "生身の不動明王" として生まれ変わって出てくるということです」






◆ 自利行から化他行へ



堂入りを成満したものは「生き仏」とされる。

それ以後の行はすべて人様のもの、「化他(けた)の門」に入る。



光永氏は言う。

「最初は自分自身を高めていく "自利行(じりぎょう)" だったのに対して、そこからは "化他行(けたぎょう)" 。自分のためにお山を七里半まわった上で、人様のために京都洛北の赤山禅院まで七里半往復します」

6年目は、これまでの行程に京都の赤山禅院への往復(赤山苦行)が加わり、1日約60キロの行程を100日。7年目は200日を巡ります(天台宗公式HPより)



平成21年(2009)9月18日

光永圓道(みつなが・えんどう)師は千日回峰行を満行した。










◆ 一瞬



千日回峰行を終えたばかりの光永氏に、師はこう声をかけた。

「大変なのは明日からだ」



その言葉は、日常にひしひしと実感されてきた。

光永氏は言う。

「千日回峰行に入ったときは、特別なことをやっているという意識はありませんでした。逆に "終えてからのほうが大変" だというのが実感で、満行して "あぁ終わった" という感じは全然ないですね。行が終わった残りの人生は、寝るのも食べるのも日常のすべてが修行となります。千日回峰行は千日きっちり廻らずに、あえて25日残して満行となるのは、そこで行を完全に終えるのではなく、その後も一生かけて行を積み重ねていかなければならないことを示唆しています。回峰行という形は終わっても、見方を変えれば ”あらゆるものが行になる"。そういう意味で、行というのは一生続くものなのでしょう」



酒井雄哉(さかい・ゆうさい)大阿闍梨は言った。

”一日一生(いちにち・いっしょう)



千日という気が遠くなるほどの荒行も、一日一日の果てにある。

その一日も、一瞬一瞬、一刹那(せつな)の結果である。



「一瞬を生き切るということ。行とは、その大切さを改めて感じさせてもらうのだろうと思います。一瞬、一刹那を大事に生きることを心掛けることで、人生は有意義なものになるはずです」










出典:
『致知』2015年12月号
光永圓道「極限の行に挑む」



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2014年11月18日

幸せな臨死体験




ジャクソン・バワーズくんは、生後1ヶ月の頃、インフルエンザをこじらせて肺に穴があき、呼吸ができなくなってしまった。

急遽、救急車で搬送され、集中治療室へ。薬で眠らされ、蘇生装置につながれた。その間、生命の危機は波のように幼児を襲っていた。



「I died(僕は死んだんだよ)」

2歳になった頃、ジャクソンくんは突然、そんなことを言い出した。

「神様のところへ行ったんだ。きれいなとこだったよ」



母のミッシェルさんは驚いた。

「息子は救急車に乗ったときの話や、夫が付き添ったときの話もしました。2歳になった頃からこうした体験を語りはじめましたが、彼の話は何もかも本当に起きたことばかりなんです」

心臓カテーテルを入れるために足の手術をしていた時など、ジャクソンくんは自分の小さな体を抜け出し、医師や母親の姿を見ていたのだと言う。



そんな話を聞いた担当医は、眉をしかめる。

「薬で眠らされて昏睡状態におちいっていた生後1〜2ヶ月の赤ん坊が、その時の出来事を覚えているなんて、医学的にあり得ません」






■臨死体験



ジャクソン君が死の淵をさまよった時に見たもの、それは「臨死体験」と呼ばれるものなのかもしれない。

人は死の間際、不思議な体験をすることがあるという。

世界にはじめて臨死体験を報告したのは「レイモンド・ムーディー(Raymond Moody)」氏。今から40年ほど前、1975年のことだった。







以来、そうした研究はアメリカで盛んに行われ、1981年に発足した国際臨死体験研究所(IANDS)によって今も定期的な学会が開かれている。

その席上、臨死体験者は語る。「その時わたしは、自分の体を離れて、浮き上がるのを感じました。そして天井の隅に行き、ぐったりした自分の姿を上から見下ろしていたのです。すると神秘的な存在があらわれ私を導き、トンネルを抜けて宇宙のような空間に行きました。そこで突然、光に包まれたのです」

緊急医療が発達し、死の淵から生還する人が増えたからか、臨死体験の経験者はどんどん増えているという。現在、心停止から蘇生した人の5人に1人は臨死体験をしているといわれている。






■偽の記憶(フォールス・メモリー)



しかしながら、そうした体験に否定的な意見も少なくない。それは本人の脳が誤作動して作りだした絵空事だ、と。

「人間は偽の記憶、フォールス・メモリー(false memory)をつくりやすい動物なんだ」と、利根川進氏は言う。



人間の脳にフォールス・メモリーを作りださせることは、そう難しくない。

たとえば、子供のころの家族写真を、行ったこともない気球旅行の写真と合成して、本人に「いつ行ったのか、どんな旅行だったのか」を繰り返し語り聞かせていると、いつの間にか本人もその気になってしまうのというのだ。

1日目
「この写真の出来事を覚えていますか?」
被験者「ほとんど記憶にありません」

7日目
被験者「確か、気球に乗っていました。タラップの上を歩いて乗ったんです」



利根川進氏は言う。

「本人がコンビンス(確信)しちゃっていると、人間のフォールス・メモリーっていうのは起こるんです。イマジナティブ(想像的)な生物というのには、そういう危険がある。しょっちゅう色んなことを脳の中で反芻していて、ある時、外から来たことと一緒になっちゃう。MRI(脳の磁気検査装置)でも正しい記憶、ジェニュイン・メモリー(genuine memory)と区別がつかない。それはごもっともで、本人はフォールス・メモリー(偽の記憶)と思っていないから」










■脳と心



科学者がみな否定的なわけではない。

ひとたび臨死体験という強烈な体験をしてしまうと、それを否定する気には到底なれなくなる。



脳化学者であるエベン・アレキサンダー博士(60歳)は、そうした一人である。博士が臨死体験をしたのは、脳を細菌におかされ昏睡状態におちいった6年前のこと。

炎症による膿(うみ)は脳の血管を圧迫し、血液の流れなくなった脳は活動を停止した。さらに悪いことに、生命維持に欠かせない脳幹と呼ばれる奥深い部分までが損傷。生還できる確率は2%と、か細いものになっていた。

そんな半ば死んだような状態で、アレキサンダー博士は見ていた。無数のチョウが飛び交う光景を、荘厳な門がそびえ立つ世界を、そして神聖な存在を。



奇跡的に命をとりとめた博士は、病気から回復してから自分の医療データをすべて洗い直した。

博士「これは私が昏睡におちいって3日目の脳画像です。白い部分は、ひどい炎症によるものです」

その脳画像は、博士の脳がもはや機能を停止し、意識も思考も記憶もはたらいていなかったことを如実に語っている。そうした危機的な昏睡状態は、7日間も続いていた。



心とは、脳が作りだすものではなかったのか?

なぜ、脳が止まった状態であんな体験をしたんだろう?

私は確かに天国に行った。それは証明できる…!







アレキサンダー博士は言う。

「脳が機能していなかったのに、なぜその間のことを覚えていられたのか、現代の脳科学では、まったく説明することができません。科学では『心は脳から生みだされる』と言っています。しかし、そうだと本当に言い切れるものでしょうか?」










■死後の脳波



紀元前、ギリシャの哲学者プラトンは「脳が心を生み出す」と言った。そして、その弟子アリストテレスは「心は心臓に宿る」とした。

それ以来、西洋では伝統的に「心と体は別々に存在する」と考えられてきた。17世紀の哲学者デカルトの次の言葉は、その結晶であろう。

「われ思う、ゆえに我あり」







そうした考えの下では、人間が死ねば心も消滅せざるを得ない。

アレキサンダー博士も「死ねば心は消える」と信じていた。しかし、あの臨死体験をしてしまった後では、その信念が大きく揺らいでしまっていた。



死ぬとき、脳はどうなるのか?

従来の脳科学では、心停止を起こすと数秒で脳への血流が止まり、脳活動は止まるとされてきた。



ところが、より詳細な最新の研究によると、死んで止まっていたと思われていた脳波は、その後も数十秒間にわたって継続していることが確認された。

ジモ准教授(ミシガン大学)は言う。「このグラフは平らに見えますが、拡大すると微細な脳波が隠れているのです。脳波が非常に小さかったので、これまではもはや脳は活動していないと考えられていたのです。死ぬとき何が起きているのかは、もっと調べなければなりません」






■心のありか



プラトン以来、西洋人は躍起になって「心のありか」を探し求めてきた。

しかし、脳内のどの神経細胞を調べてみても、心(意識)は見つからなかった。そのため、「心の一部である意識は、科学における究極の謎」と言われてきた。



そんな中、トノーニ教授(ウィスコンシン大学)が革命的な理論を提唱した。

「人間の意識とは、クモの巣のようなものだ」

教授は、意識を特定の神経細胞には求めなかった。それらをつなぐ無形の「ネットワーク」こそが意識だと言ったのである(統合情報理論)。まるでインターネットのWeb(クモの巣)のように、それぞれの端末(コンピューター)よりも、それらをつなぐ通信網に注目すべきだと言ったのである。



トノーニ教授は、その理論を数式という具体的なものに表した。

その数式による計算で、植物状態と思われていた患者にも、じつは意識があることが明らかになった。さらには動物や昆虫にも、脳の大きさに応じた意識があることも判った。

さらに教授は、こうも言う。「現在の機械に意識はありませんが、われわれの理論によれば、意識をもった機械を人工的に造ることは不可能ではありません」










■心境



世界で初めて臨死体験を報告した、前出のレイモンド・ムーディー氏。彼は当初、死後の世界には否定的だった。

「死後の世界が存在する証拠はない」

しかしその後、精神を病んで自殺をはかってからは、死後の世界を信じるようになったという。



ムーディー氏は語る。

「当時は死後の世界を認められずに、他の説明をこじつけようとしました。しかしそれは、死後の世界があるとは明確に言い切れなかったので、認めることから逃げていたのだと思います。私は自分の心をより見つめるようになりました。いま自分でも、自分の言っていることに驚きます。死後の世界があるとはっきり言える自分に矛盾を感じています」







23年前、ムーディー氏に会ったという立花隆(たちばな・たかし)さん。それが立花さんの『臨死体験』という著書を書くきっかけだったという。しかし今、ムーディー氏の考えはすっかり変わってしまっていた。

立花さんは言う。「人間、70歳を過ぎると、70の前と後でものすごい心境が変わるんですね。いま私は74歳です。そう遠くない時期に死を迎えるに違いありません。それが確実な理解として迫ってくるのです」










■神秘体験



立花さんは、7年前に膀胱ガンを切除した。

しかし再発が疑われ、今年もまた手術を行った。



その時、彼は奇妙な夢をみた。

「この時わたしは、首が一切うごかせない不自然な体勢で、半日以上を過ごしていました。その間に私は、夢とも現(うつつ)ともつかない、奇妙な長い夢を見ていました。それはフォールスメモリー(偽の記憶)や脳がつくりだした幻覚だったと言われても、決して自分の中から消すことはできない、確実な実感をともなっていました」

それは多くの臨死体験者のする神秘体験と、非常によく似たものだったという。



なぜ、人は死の間際に神秘体験をするのだろう?

その疑問を、立花さんはネルソン教授(ケンタッキー大学)に尋ねた。彼は神秘体験の脳内メカニズムを調べている科学者である。



ネルソン教授は答えた。

「神秘的な感覚は、脳の辺縁系で起こる現象です」

辺縁系(へんえんけい)とは、ハ虫類にもあるという脳の最も古い部分。睡眠や夢をつかさどるところである。

「辺縁系は不思議な働きをします。眠りのスイッチを入れるとともに、覚醒をうながすスイッチも同時に入れます。それによって眠りは極めて浅い状態となり、目覚めながら夢を見る、いわば白昼夢の状態になるのです。さらに辺縁系は神経物質を大量に放出し、人を幸福な気持ちに満たします」



眠りの幸福感、それは生物に元々そなわっている本能に近いものであり、生死の境においても機能するものであるらしい。人も動物も、死の間際は決して不幸な感情に押し流されているわけではなく、むしろ幸せのなかに浸っているのだという。

脳がその最期を迎えるとき、最も根源的な部分はその最後の最後まで、一生懸命われわれを幸福感に包みこもうと力を振り絞る。それがジモ准教授の観測した「死後もつづく微細な脳波」なのであろうか。その生の余韻は、次の生へと続くものなのかもしれない。



立花さんは言う。

「人間は死ぬときに何を体験するのか、その謎を追いかけて数ヶ月、世界を旅してきました。この取材を終えて強く感じたことは、”人間が死ぬということはそれほど怖いことじゃない”、そのことがすごくわかったような気がします。前よりもずっと強くそう思えます。ギリシャの哲学者エピクロスは、人生の最大の目的は『アタラクシア(心の平安)』を得ることだと言いました。いま私は、その心の平安をもって自分の死を考えられます。いい夢を見たい、見ようという気持ちで人間は死んでいくのではないか、そう思えるようになりました」



ネルソン教授は言う。

「幸福な神秘体験は、ボーダーランド(意識と現実の間)で作り出される、感動的で根源的な現象です。しかしその詳細は科学ではわかりません。そもそも科学とは『どのような』仕組みかを追求するものであって、『なぜ』そのような仕組みが存在するかを問われても答えられないのです。『なぜか』という問いへの答えは、それぞれの人の信念に委ねるしかないのです」










■信念



あるホスピスの一室。

ネルソン教授は妻のアンさんと共にいた。



妻は問う、「これからどこに行くの?」

教授は答える、「君とここにいるよ」

じつはアンさん、脳全体に悪性の腫瘍があり、今どこにいるのか分からなくなっていた。余命はあと数ヶ月と診断されていた。



ネルソン教授は言う。

「妻には率直に話しています。彼女は敬虔なカトリック教徒で、深い信仰があります。たとえどんな科学的な事実であれ、誰の信念をも変えるものではありません。たとえば臨死体験をして亡きお母さんに出会ったとき、それをお母さんの魂と受け止めるのか、お母さんについての記憶だと受け止めるのか、それはその人にしか決められないことです。それぞれの人がする体験を、必ずしも科学で証明する必要はないのです」



半月後、妻アンさんは亡くなった。



願わくは、幸せのなかで旅立たれたことを…






(了)






出典:
NHKスペシャル「臨死体験」
立花隆、思索ドキュメント
死ぬとき心はどうなるのか



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2013年08月18日

「権現さま」のいる世界



「権現(ごんげん)」とは何か?

死んで神となった徳川家康は、「東照大権現」として日光に祀られている。



だが、その神号を決める時に一悶着あった。家康を「権現にするか、明神にするか」で、僧侶らが言い争ったのである。

「権現」を推したのは僧・天海、「明神」は僧・崇伝。結局、滅亡した秀吉がなった「明神(豊国大明神)」は不吉とされ、家康は「権現」となる。



「明神として祀られていれば、より神道色が明確になったはずだが、当時広く浸透していた神仏習合の信仰を基盤にした方が盤石だ、と天海は考えたのだろう(島田裕巳)」

その天海の慧眼は、まるで次の世のことも知っていたかのようである。というのも、江戸時代が終わった途端に「神仏分離」の風が吹き荒れ、神も仏も時代の波に晒されることになるからである。



権現は「神か仏か」を問われた時、そのどちらでもなかった。もしくは、どちらでもあった。

権現という存在は「仏が権(かり)にこの世に現れた神(本地垂迹説)」。つまり権現は、神であると同時に仏であり、またその逆も可という「融通無碍な性格」を有していた。

「仏としての性格を捨てて神にもなれれば、逆に神としての性格を捨てて仏にもなれた。神社に祀られていた権現は神と同義になり、寺院に祀られた権現は仏と同じ意味になった(島田裕巳)」



ゆえに、明治政府が神と仏を分離しようとした時も、権現は二つに引き裂かれることがなく、ただ祀られていた場所(神社か寺か)に従い、そのどちらかになっただけであった。

「明治の訪れとともに起った神仏分離という事態は、深刻な危機に結びつき可能性があったが、権現自体が否定されることはなかった。権現という存在そのものが廃されることはなく、それによって神仏分離という事態を乗り越えることができたのである(島田裕巳)」






■日本独自



日本の神も仏も、その多くが中国やインドなど他国に起源を持つ。

「たとえば江戸時代以降とくに盛んに信仰されるようなった『七福神』のうち、弁財天はヒンドゥー教の女神サラスヴァティーが仏教由来で入ってきたもの、毘沙門天は同じくクヴェーラの仏教由来の姿(多聞天ともいう)。大黒天はシヴァが護法神になったマヘーシュヴァラの化身マハーカーラが訳され、ダイコクという音から大国主と集合したもの。布袋は中国実在の禅僧だが、これは弥勒菩薩の化身ということになっている。そして、福禄寿と寿老人は道教の神様。残る恵比寿だけが日本固有の神様(事代主神)ということになる(中村圭志)」

七福神の乗る宝船は、人種のルツボならぬ「神や仏のるつぼ」のようである。



ところが日本の権現にあたる存在は、インドにもなければ中国や朝鮮半島にもない。

日本には東照大権現をはじめ、熊野権現や白山権現、あるいは立山権現、金毘羅権現、そして蔵王権現など幾多の権現さまがいらっしゃるが、その原型が他国に求められるのは、金毘羅権現くらいのものである(その元はインドで鰐を神格化したクンビーラに遡るとされる)。

「基本的に、権現は日本にしか存在しない信仰対象なのである(島田裕巳)」






■仮



権現の「権」とは、「仮」という意味をもっている。

「権教」という言葉も同じく「仮」という意味から「方便の教え」をいう。その権教に対するのは「実教」で、こちらが「真実の教え」ということになる(権実)。



この権実(ごんじつ)の区別が、「法華経」では明確にされている。

中国で天台宗を開いた「智(ちぎ)」は、法華経こそが唯一釈迦が真実を説いた経典であり、他の経典に優っていると強調した。というのも、釈迦は「華厳経」からから教えを説きはじめ、最後の八年間に「法華経」を説いたと智は主張し、それ以前の教えは、真実の教えである法華経に導くための「方便」であると捉えたからである。

つまり、法華経こそが「実教(真実の教え)」であり、それ以外の経典は「権教(方便の教え)」であると智はいうのであった。



そうした考え方が、日本の神仏習合にも当てはめられた。

日本の神々は方便であり、その実は仏にあり、と。

すなわち権現は「実ではない」と。



しかし、それでは神の価値が低くなってしまうではないか。

そこに論争の種はあった。智の天台宗を日本で広めたのは最澄であるが、彼は法相宗の徳一と激しい議論を戦わせている(三一権実諍論)。両者は神と仏で言い争ったのではないが、何が「権(仮)」で何が「実」となるかで揉めたのであった。



権実の考えに従えば、確実に「権」の価値は低い。それは「実」に至るための踏み段にすぎぬとされる。

それゆえ神道の立場からすれば、神は「仮」ではなく「実」であると訴えたい。そこで、神を仮とする本地垂迹説に対して、神を主とする「反・本地垂迹説(神本仏迹説)」を唱えた。

しかし残念ながら、それは社会的に受け入れられなかった。というのも、日本における神と仏の関係は、どうしても仏が上位に来ざるを得ない背景があったからである。






■神と仏



日本古来の神々は自然崇拝に由来することが多く、その神々は岩や滝などにちなんだ「土地神」であった。だが、そうした土地神(地居神)は人間より格上なのは確かであるが、仏教においてはまだ「六道輪廻の天人レベル」に過ぎない。土地に縛られて輪廻の輪から抜けられずにいる存在なのである。

一方、仏様というのはその輪廻の輪を悟って解脱した存在である。この点、仏教の思想は遥かにスケールが大きかった。



また、土地の神が現世利益にとどまっていたのに対して、仏さまは「来世」までをも約束してくれた。

「自分の死後の問題、来世や輪廻に関わる『盂蘭盆経』の世界観は、日本の神祇信仰には考えもつかない、仏教だけが明らかにした世界だった(藤本晃)」

教義なき神道とは対照的に、仏教には今世から来世にかけての「明確な答え」を持っていた。

「人々が一番気になる生きるか死ぬかの問題、そして死後の問題に、教義のない神道は答えようがなかった。儒教や道教にもある程度の答えはあったが、因果法則を解き明かした仏教の精緻な教えには遠く及ばなかった(藤本晃)」



そもそも、日本の最高神の子孫である天皇家も飛鳥時代、仏教を積極的に取り入れたのである。

「天皇家がそもそも仏教徒になったのです。日本という領土の万世一系の領主となった一族が、仏教に守られて国を治めると宣言したのです(藤本晃)」

そうした風潮にあっては、やはり神は「権(仮)」の存在とならざるを得なかったのであろうか。






■横断的



それでも神は権現となったことで、神であると同時に仏でもあるという強みを持つこととなった。

そして、権現と同じく「神道と仏教の両方の世界にまたがる横断的な存在」である修験道と深く結びついた。それ以来、山伏や修験者らが修行をする山においては、その神が権現として信仰の対象となった。

白山権現は白山(石川県)の神であり、飯縄権現は飯縄山(長野県)の神である。蔵王権現は蔵王(山形県)で生まれたわけではないが、修験道の開祖である役行者が金峰山(奈良県)で示現したものである。



世界宗教には一神教という考え方もあり、それにそぐわないものは排除される歴史もあった。

だが権現さまは排除されるどころか、さまざまな境界を渡り歩きながら唯一無二の存在になってしまった。明治政府が神仏を分けようとしても、分け切れないほどに柔軟な存在に。



もっとも、人々の信仰を「◯教」「△教」というふうにキッパリ分けられると考えるのは、西洋起源の一神教の発想であり、日本では近代以降の思考法である。

「今の私たちは、神社に行けば拍手を打ち、寺院では合掌するが、こうした区別が生まれたのは神仏分離以降のことである。江戸時代の絵図を見ると、神社の社殿の前でも参拝者は合掌しており、拍手を打っている場面を見出すことはできない。拍手が一般化するのは明治になってからである(島田裕巳)」






■観念か悟りか



「厳しい風土条件や戦乱に苛まれた西ユーラシア世界(西洋)では、神々も厳しいサバイバル戦を強いられ、敗者の神々たちは忘れ去られてきた傾向にある。その一方、東ユーラシア大陸(東洋)では、勝者の神々が打ち立てられた後にも、文化的風土の違いから敗者の神々も併存するという状況があった(中村圭志)」

西洋では「思わしくない霊的存在」は悪魔とされ排除されていった。魔女狩りなどはその典型であった。そうして、古い神々が無効化される一方、新しい神はより崇高化されて崇められてきたのである。



日本とて例外ではなく、渡来の仏教は日本列島に元からあった神々の上層をなすこととなった。

ただ、日本の仏教は土地の神々を排除することなく、その下層にであれ、もしくは権(仮)にであれ、従来の神々を一様に認めてきた。そもそも、仏さまは利他的な行を奨励するのであり、気に入らない他者を追い出そうするような存在ではなかった。

その寛容さからか、現在においても日本は「新しい宗教」がボコボコ誕生する珍しい国でもある。



「基本的にはそれが日本の、より広くは東ユーラシアの伝統的な信仰のあり方であるからです。興味深いのは、東洋においては神々を統廃合して唯一神に格上げすることに努力するよりは、個々人の心と身体の鍛錬を通じて何かの境地(解脱や悟り)を目指すという修行を発達させてきたことです(中村圭志)」

少々滑稽なのは、そうした日本では神さままでもが悟りを開こうと努力していることであろうか(仏教的にはそういうことになっている)。

権(仮)の力にすぎない「権力」を欲する人々もまた本末転倒なのであろうが…






(了)






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吉野の桜、熊野の山々は何をか語らん。

「男体山(日光)」に残る神々の物語。

人を寄せつけぬ火山から一転、一大観光地となった「蔵王」。



出典:サンガジャパンVol.14(Summer)
「権現とは何か 島田裕巳」
「仏教が、日本と神道を産み育てた 藤本晃」
「神道 中村圭志」
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2013年08月15日

日本の神にみる「外」の概念



外国からの文化が津波のように押し寄せてきた明治時代、日本ではそれまでの長い年月「当たり前」のように行われてきた諸々のことが押し流されようとしていた。

だがそれは悪いばかりではなかった。それまでの「当たり前」は外の世界との比較によって、「今の自分とは異なる他者」を過去に再発見する契機ともなった。そうした学問を「民俗学」と呼び、それは1875年に生まれた「柳田國男(やなぎだ・くにお)」にはじまることになる。



東京帝国大学で農政学を学んだ柳田。その後、農商務省に入り、有能な官僚として農村の立て直しに尽力する。当時の農村はといえば、急速すぎた資本主義化についていけずに、疲弊の影を強くしていた時代である。

柳田は考えた。小作人でも大地主でもない「中農」を支援育成し、協同組合をつくらせてて「豊かな暮らしを実現できるシステム」を構築しよう、と。



ところが、である。柳田が調査のために各地の農村地帯を訪ね歩くと、想像していたものとは全く異なる現実が農村社会にはしぶとく根付いていた。

そもそも、彼らには「もっと生活を豊かにしたい」という資本主義的な発想が薄いように思われた。むしろ、日々地道に働いて少しずつ蓄積してきたものを、「年に一度か二度の非日常の祭りの場」で、その全てを使い果たしてしまうことに無上の喜びを感じているようであった。






■2つの世界



静かに土と接する日常に対し、祭りという農村における「非日常」は、その地方の絆そのものであり、それは実に強固な結びつきだった。

そうした古来よりの日本農村の現実を肌で感じた柳田は、もともとの日本人というのは実は「2つの世界」に生きているのではないかと考えるに至る。

現実である日常、そして聖なる非日常。この2つの世界。



その2つの世界は、まったく別の場所にあるわけではない。どうやら隣り合っているかのように身近であり、その両世界は祭りという非日常においてクロスしているようだった。

時折クロスするその「境界」においては、異世界の者どもが日常に顔を出す。神と人間、山と里、生と死といった境界には、妖怪や精霊ともいうべき異形の者たちが確かに存在していた。



たとえば、遠野(岩手)の地に伝わる「境界の神々」は、石神、山神、道祖神、荒神などなど、さまざまな名をもっていた。

そうした境界の神々は、里に恵みをもたらす善神である反面、時には破壊をもたらす悪神にも変貌する、すなわち「両義性」をもつ神々であった。なるほど、そもそもが2つの世界を股にかける神々であるだけに、その性質もまた善悪両面を備えるのであった。






■鬼の力



三河地方(愛知)には、「花祭り」と呼ばれる神楽が伝わっている。この祭りは、今も日本各地にみられる「夜神楽」というもので、冬の農閑期に一昼夜かけて行われるものである。

なぜ冬に行うのかと言えば、それは自然の力が弱まっているためであり、その時期にあえて「異世界のもの」を迎えることで、その強い力を受け取ろうとするためであった。そして、その力を次の年の豊作につなげようというのであった。



たとえば三河の花祭りでは、真夜中すぎに「榊鬼(さかきおに)」という非常に恐ろし鬼が姿を現す。その別に「お判」という眷属たちの多くも出でる。

そうした者たちの力は恐ろしくも強大で、日常の世界に現れられたら忽ちに平穏な農村を破壊し尽くしてしまうほどのものである。だが、一夜限りとあらばその力の恩恵に預かることもできる。

焚き火を囲んだ夜通しの舞い、笛や太鼓による囃子に、男女も入り乱れて狂乱の夜を明かす。舞って舞って自らの魂を振れば振るほど鬼たちは喜び、そして力を貸してくれる。



ひとしきり舞った後、鬼神たちには「あちら側」へと帰っていただく。というのも、日常にまで居座られてはたまらない。日常において彼らは「荒ぶる神」としていささか迷惑な存在ともなってしまうのだから。あくまでも非日常の世界だけが彼らの居場所なのであった。

鬼たちが「外の世界」の者どもであるのと同様、非日常の祭りを担う人々もまた通常の社会秩序の外側で生きねばならなかった。古来日本では、そうした祝祭に関わる人たち、またある種の芸能に携わる人々というのは「河原者」と呼ばれる被差別的存在でもあった。

日常が内側であれば、非日常は外側。その外側に差別される人々が存在される人々がいる一方で、逆にことさらに敬われる反対の極もあった。それが「天皇」という存在であった。河原者などの被差別民が外側に置かれたように、天皇は格別の存在としてやはり日常世界の外側に位置していたのである。






■外側



被差別民としての芸能民、そして天皇にこだわり続けたのが「折口信夫(おりぐち・しのぶ)」であった。

柳田国男がこの両極の階級を切り離して日常を生きる「常民」に意識を向けていったのとは対照的に、折口はあくまで「外側」にこだわり続けた。



日本列島は海によって閉じられているようでいて、その実、四方に常に開かれている状態でもある。ゆえに歴史上、朝鮮半島や中国からはさまざまな文化が常に流れ込み、そして明治時代には欧米文化の波も打ち寄せたのであった。必然、日本列島には神々が「外から」もやって来た。

日本における信仰の古い層には、自然物(山や岩)を敬い、山などに神が住むという考えがあった。そのため、人間が山の懐に無遠慮に踏み入っていくというのは感覚をさほど持たなかったと考えられる。

たとえば、椎葉村(宮崎)で村の男たちが山に入って狩りを行うのは、一年のある期間だけに限られていた。神が宿る神聖な山に人が入るというのは、そうした特別な時だけであり、人が山に入る時には身も心も清浄にしなければならない。狩りには普段とは違う衣装を身に付け、山では山でしか通用しない特別な言葉を話した。それは、山が明らかな非日常の場だったからである。



ところが、朝鮮半島経由でやって来たと思われる修験道という信仰は、むしろ山に積極的に分け入った。神聖なる山々で自らの心身を鍛えることを宗としたのである。その後には仏教が渡来し、ずっと時代が下るとキリスト教も入ってくる。

日本人のユニークな点は、そうした外からの神様らを排除しようとはさほど考えなかったことであろう。古来より海辺に打ち寄せる波には親和性が高かったからか、祭りといった非日常を楽しむ気質が培われていたからか、むしろ外側からの力を敬う傾向にすらあった(とりわけ顕著なのは密教の思想であり、それはあらゆるものを受け入れることを良しとしていた)。

ゆえに、そうした日本列島にあって「混じり気のないものが優れていて、混ざっているから劣っている、という考え方は正しくなかった(安藤礼二)」。明治政府が神仏分離令を出さねばならぬほど、神と仏ですら区別できないくらいに入り混じっていたのである。






■芸能民



さて、折口信夫のこだわった「外側」の一つが、「河原者」と蔑まれて日常の外に置かれた芸能民たちである。その昔、彼らの活躍の場は「祝祭」という非日常に限られたものだった。

能楽の祖とされる世阿弥が著した『風姿花伝』には、彼らの子孫が「秦河勝(はたのかわかつ)」という海を渡って日本に来た人物(渡来系)であることが記されている。つまり、のちに日本を代表する伝統芸能の一つになる「能」は、そのルーツを「外」にもつのである。



そのルーツ「秦河勝」は秦の始皇帝の生まれ変わりとも云われるが、その誕生譚によれば、「大きな卵」のようなものが長谷寺(奈良)に流れ着き、その中から世にも美しい男の子が生まれたとある。その子は物まね(のちにいう猿楽)が大変にうまかったので、それが朝廷に認められて出世することになる。

秦河勝が亡くなった時、「うつぼ舟」という密閉された卵のような舟に乗せられ大阪湾に流される。だが、その漂着した先で彼は非常に恐ろしい神に変貌してしまう。すなわち、この能楽の祖の祖は「境界」に住まうことになる異形の神に変じるのであった。



また、秦河勝の子孫たる「観阿弥」「世阿弥」の名にある「阿弥」という文字は、一遍上人を祖とする時宗系の法名であるとのことである。一遍上人という人は「踊り念仏」で知られるが、太鼓や鉦を鳴らして念仏を唱えながら踊り、諸国を放浪して歩いた。

祭りの踊りが人々の魂を引っ掻き回し、ある種のトランス状態に導くことがあるように、一遍上人の「踊念仏」にもまたそうした現象を誘発するところがあったようである。そして、それは「神懸かり」の系譜にもつながることになる。






■神懸かり



「神懸かり」というのは神様が人間に憑依することであるが、それは『日本書紀』にも見られる日本的宗教の古層に横たわるものである。

第10代・崇神天皇の時代、世に流行していた疫病を鎮めるために、宮中に祀られていた天照大御神(あまてらす)の神霊を天皇の娘トヨスキイリヒメに憑依させ、天照大御神の神霊が鎮座するための場所を探させた、と『日本書紀』は記す。

その結果、天照大御神は伊勢の地に鎮座することとなり、これが伊勢神宮の起こりとなる。天照大御神は日本の天皇の皇祖神、すなわちご先祖さまである。



折口信夫は「日本の宗教は神懸かりから始まる」と言っているが、それは『日本書紀』以来の古代日本の伝統に基づくものであった。

三河地方に伝わる花祭りもそうであり、夜通し踊り狂うことによって我を忘れ、鬼神を自らに招き、その力を借りるのである。そうした「神懸かり」というのは、日本各地の古い神祭に多く見られるものである。

憑依されるということは即ち、外からの力を受け入れるということを意味する。それは、日本の宗教構造のトップに君臨する「天皇の祭祀」にも重なる、と折口は言う。天皇家は、祝祭によって神が発動する力を守り続けていると言うのである。



だが、天皇家で行われる祭祀、とくに神懸かりは数千年の歴史をもつと云われるものの、その実態は今も厚いベールの内奥に秘められている。

そのベールの中身を折口は、天皇家とは対極にあるが同じ外側に位置する「芸能民」、そして「神懸かりの新興宗教」から迫ろうと試みた。






■容れ物



「荒神(こうじん)」という神様は、日常と非日常の境界に立つ「荒ぶる神」。その力を借りんとする祭りが「荒神神楽」。

その荒神神楽に特徴的なものに、舞台の天井から吊るされる「天蓋」という紙でつくった飾りがある。その天蓋からは長く垂れ下がったヒモが伸びており、周囲の人々はそれを引っ張って天蓋をユラユラと揺らす。

その妖しく揺らめく天蓋が神懸かりのための「装置」となり、歌と太鼓で踊り狂っていた人々のうちの誰かが神懸かりをして、いろいろなことを口走り出す。その言葉はみな「神のお告げ」として大切に受け止められる。



たとえば伊勢神楽において、そうした神懸かりを導く天蓋のことを「マドコオフスマ」というそうだが、天皇家でも同様「マドコオフスマ」と呼ばれるものが用いられる祭祀がある。

それは「大嘗祭」である。大嘗祭というのは、毎年11月に行われる「新嘗祭」のうち、天皇が新たに即位して最初に行われるものをいう。すなわち大嘗祭は「即位儀礼」、天照大御神から脈々と受け継がれている祖先神の魂を、新しく天皇になった人物に継承するという儀式である。

折口信夫による考察は『大嘗祭の本義』にまとめられいるが、それによると、天皇は大嘗祭で新穀(その年の収穫)を神に捧げた後、マドコオフスマと呼ばれる「布団のような織物」に包まれるのだそうである。



ここで重要なのは、天皇の身体は卵の殻のような「魂の容れ物」にすぎない、と折口は言う。

折口は戦前、天皇が神格化される風潮の中を「天皇は神ではない」と言い切っている。折口いわく、天皇を現す「ミコト」という言葉は神の「御言」であり、天皇は神の言葉を伝えるに過ぎない。天皇もまた、神懸かりを受ける土台なのだ、と。

それは日本の信仰の古層に垣間見えるそれであり、古くは秦河勝が乗ってきたという卵のようなものであるのだという。



また、神は招いて終わりでは済まされない。それをふたたび送り帰す必要もある。

それが「直会(なおらえ)」というものであり、招いた神とともに食事をすることでその魂をもてなし、そして快く送り返すという意味がある。天皇家の行う大嘗祭にも直会は行われ、我々が行うお盆にもその風習は残っている。






■神懸かり宗教



日本に神は天照大御神(あまてらす)ばかりではない。天地に満ちるあらゆる森羅万象が神となりうる。ゆえに、神懸かりも千差万別、それぞれの神がそれぞれの宗教を生んでも何ら不思議はない。

事実、明治維新の前後、「神懸かり」を元とした新興宗教が日本のあちこちで産声をあげている。



江戸末期に生まれた「天理教」、これは山伏に神懸かりさせられた「中山みき」を祖とする。

息子が足を悪くして、いつまでたっても良くならないことから、加持祈祷をしてもらおうと彼女は山伏を呼んだ(当時の山伏は、加持祈祷によって病気を治すまじないを行っていた)。ところがその時、山伏が神をつける加持台がいない。やむなく中山みき自らがその役となり神を憑依させた。

すると、取り憑いた神は自らを「天理王命(てんりおうのみこと)」と名乗りだす。そして、みきを「神のやしろ」として受け入れてもらいたい、そうでなければ中山家を滅ぼす、と語った。そんなお告げを受けたみきは夫と相談し、それを受け入れることとした。そしてやっと、憑依した神は落ち着いたという。

こうして天理教の祖となった中山みき。すると彼女に憑いた神は「自分こそが本当の神である」と、その創世神話まで語りだす。天皇家の伝える神話(古事記など)には間違いが多いと言い、自分の語る神話こそが本物であると語るのだった。



また、天理教と同時期に生まれた「金光教」、その祖となる「赤沢文治」もまた神懸かりがその発端となっている。

文治の場合、最初に神懸かりしたのは石鎚講という山伏結社に入っていた弟である。その神の正体を尋ねたところ、「金神という方位を守る道教の神だ」と名乗ったといわれる。



「大本教(現在は大本)」は、天理教と金光教を一つにするような形ではじまる。

祖となった「出口なお」に憑いたのは「艮の金神」。その語るところは、今いる天皇家の神によって封じ込められたというものだった。






■国家神道



こうして芽吹いてきた新興宗教は、時の明治新政府にとっては穏やかならぬものであった。

神懸かりをした者たちは、みな神になれる。とくに大本教は人を神懸かりさせる方法を半ば公開し、それを理論として誰でも共有できるようにした。つまり、誰でもが神になれる道を開いたのだ。

それは困る。誰でも仏になるのとは訳が違う。誰にでも神になられたら、誰もが天皇を名乗れてしまう。事実、神懸かりが広まることによって多くの「新天皇」が日本に登場したのであった。



そこで生まれたのが、明治政府による神道を「国家宗教」とする政策。いわゆる国家神道。全国の神社を国家の管理下に起くため、神官の世襲を禁じて国から派遣するような、いわば官僚体制を敷こうとした。

しかし、それがうまくいかなかったことは懸念されたその通りであった。たとえば出雲大社など古い歴史をもつ神社において、突然国から派遣されてきた官僚のような神官など到底受け入れがたい。その他、山岳信仰などにおいても、国家神道の枠組みはあまりにも小さすぎた。

のちに、そうした宗教は「教派神道」として国に認められることとなる。天理教や金光教なども含め、合計13派がその対象となった。しかし、政府公認となった新宗教は天理教が最後。その後に成立した大本教はその枠からも外れた。

国に認められるのは一長一短。保護を受けるかわりに規制も受け入れなければならない。わりと自由に活動できた大本教はその後、新たに眞光や世界救世教などを生んでいくことになる。






■対



「神懸かり」において特筆すべき宗教構造は「対」という発想である。神懸かりする人とさせる人、その二者が必ず必要とされる。

「神懸かりというのは、神の主つまり神主と、その人に神がからさせる審神者(さにわ)との関係で成り立っている(出口王仁三郎『鎮魂帰神法』)」

神の声を宿らせる教祖と、その言葉を翻訳する審神者(さにわ)。この「対の形」が新たな宗教を安定させる構造となっていた。



そうした対構造は、日本に古くから見られるものである。

たとえば、日本神話における姉神アマテラスと弟神スサノオ。また、邪馬台国の卑弥呼は「神懸かりする巫女王」であり、その言葉を政治的に翻訳したのは彼女の男兄弟たちであったという。沖縄の島々に伝わる信仰の形も同様、女性が神懸かりの言葉を発し、男たちがそれを解釈・実践する。

大本教においては、神懸かった出口なおの言葉を余人にわかるように翻訳したのが出口王仁三郎であった。



古くは祭祀を司った芸能一族が大成させた「能」にも、それは見られる。能の物語は「シテ」と「ワキ」の対で進む。

世阿弥の大成させた「夢幻能」というジャンルにおいて、シテは死者であったり精霊であったり、その存在はこの世のものではなく、それが生きている人間(ワキ)のもとに現れて過去を語りだす。



能と同様、神楽にも出てくる「翁」と「鬼」。翁の裏には鬼がいる。研究者の松岡心平によれば、「能の観世宗家では、翁の面の上に、鬼の面を置いている」とのこと。

鬼のように強烈に荒ぶる神に対して、翁は穏やかな対比をなす。表裏一体とされる両者は、内に外にその役割をもち、鬼は「鬼は外」と外に追いやられながらも、その力は内にも必要とされている。

日本にはそうした思想が根強く、どちらかが絶対悪でどちらかが絶対善という考えは馴染みにくい。そうした対立よりはむしろ、足りない者同士が補い合う形の方にしっくりくるところがある。






■ゼロ



西欧の思想には「自己」にこだわりをみせる哲学がその底流としてあるが、古き日本においては「自己を虚しくする」ということも尊ばれてきた。それは「神懸かり」の思想にもつながる、自らが「外からの力を受け入れる器」となる考え方である。

そうした考えは、神道と仏教、ともに軌を一にするもので、仏教ではそれを「無我」と呼ぶ。こうした思想に刺激を受けた西欧でも、「むしろ自己など存在しないのではないか?」という風が生まれ、「自我を破壊し尽くした時にこそ初めて、そこに新たなものが生まれてくるのではないか」という、ニーチェなどの新しい哲学も生まれることとなる。



三島由紀夫は「オリジナルとコピーの区別がないのが日本文化である」と、著書『文化防衛論』に書いている。

天皇家ですら神の「容れ物」にすぎないという発想がある日本では、「空」もしくは「ゼロ」という概念には憧れにも近いものがある。千数百年の歴史をもつ伊勢神宮も、その社殿は20年に一度すべてが取り壊され新しく建て直される。

折口信夫も、新天皇即位の大嘗祭において、「天皇に神の霊がとりついた瞬間、すべての時間と空間は一度ゼロとなって生まれ変わる」と記す(『大嘗祭の本義』)。

かつて柳田国男が驚いたように、日本の農村の人々は一年間汗水たらして働いた成果を、たった一度の祭りで完全燃焼させることに喜びを感じていた。それもまたゼロへの回帰と呼べるものであろう。



ゼロへの契機となるのは、外からやってくる何か。

日常が非日常とクロスした瞬間に、それは起こる。

そうして生まれ変わった世界は、また一から歩みを始めるのである。皮肉にも再びゼロへと戻らんがために。






■融合的な土壌



西欧の近代思想は、内なる自己と外なる物質の完全な分離をはかることで、世界への把握を深めた。命が宿るのは内なる自己のみ、外側にある物質に命は宿らないと考えた。

だが古い日本人はどうしても、自分が外側の世界と完全に切り離れているとは考えあぐねた。自然の動植物はもちろん、石や山にも魂があるような気がしてならない。自らの内側と外側には見えないつながりがあるような気がして仕方がなかった。



そうした得も言われぬ感覚を端的に言葉にしていたのは密教であろう。その世界観は「何でもあり」。自他をとりわけ分け隔てることなく、すべてのことを等しく受け入れてしまうような世界を説いた。

密教における曼荼羅は、胎蔵界と金剛界が対になってその両義性を表し、大日如来と不動明王は決して善悪が割り切れない関係を示している。密教の教えによれば、ひとつのものが無数になり、無数のものがひとつになるという。



外の世界にさらされ続けた日本列島に生きた人々は、外からの事物が流れ込むほどに、その受け入れる土壌を豊かにしてきた歴史がある。流れ来たものが善と思われようが、悪と思われようが。

その内に置くものと外に置くものは時代によって変われども、いずれその境目は曖昧になっていくのであった。たとえ明治政府が神と仏を明確に分離しようと、われわれはまだその違いを理解しようとしないのである。

そうした日本の融合的な土壌は、原始宗教を研究したフレイザーのいう「呪術の世界」に近いものがある。その前近代的な社会は、森羅万象すべてが見えない力によって繋がり合った世界である。



不思議とフレイザーの言葉には、日本に残る古い社会を蔑まれたというよりも、むしろ褒められているようにも感じてしまう。

そう思う人はもしかすると、ゼロへと戻りたがっているのかもしれない。その心が、新たな力をもとめて…













(了)






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出典:サンガジャパンVol.14(Summer)
「折口信夫を通して見る神仏習合と神懸かりの系譜 安藤礼二」
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2013年08月13日

神と仏に響く「音」



似て非なるもの

「カミ」と「ホトケ」

はたまた同工異曲か



もともと日本に「神道」なるものはなかった。

それが自覚されるのは、外の国から「仏教」なる異質の教えがもたらされてからの話である。

「『神道』という語が最初に登場してくるのは、『仏法』との対比を通してであった(鎌田東二)」



「神道」という語の初出は「日本書紀」用明天皇(第31代天皇)の条。

「信仏法、尊神道」

さらに孝徳天皇(第36代天皇)紀には

「尊仏法、軽神道」と出てくる。



それ以前の古代日本における神道とは、先祖伝来の伝承の集積であり、それを「ある」とか「ない」とか意識する対象ではなく、「尊ぶ」も「軽んずる」もなかった。そこに草が生えているように、そこに石があるように、ごく当たり前のことであったのだ。

そうした神道のもつ「実にしぶとい生命力」、もしくは「日本文化の芯のようなもの」を、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は次のような言葉で賛美した。

「神道には哲学はない。体系的な倫理も抽象的な教理もない。しかし、そのまさしく『ない』ことによって、西洋の宗教思想の侵略に対抗できた。東洋のいかなる信仰もなし得なかったことである(小泉八雲著『神々の国の首都』)」

「ない」ものは侵略できない。壊せない。ゆえに神道は残り続けている、とハーンは言うのであった。






■知と情



「ない」ゆえに「ある」。この逆説的な存在たる神道は、仏教があってくれたおかげで、その影のごとくしぶとく生き残ってきたところがあった。

仏教が哲学をもつ「知性」とすれば、神道はより「感覚的」であり「感情的」である。



ラフカディオ・ハーンが「仏教には、万巻に及ぶ教義と深遠な哲学、海にように広大な文学がある」と言う通り、仏教には知的明快な「教義」がある。

たとえば
「三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」
「四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)」
「八正道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)」
「十二縁起(無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死)」

それに比べ、神道の教義は「あるかなきかも定かではない風前の灯火のようなものである(鎌田東二)」。ゆえに神道は「教義なき宗教である」ともいわれる。



だからと言って、神道に何もないわけはない。「神社」があって「お祭り」がある。

多くの神社人や神道家は「神道で一番大事なのは『掃除』だ」と言う。一にも掃除、二にも掃除、三にも四にも掃除。「掃除こそが神道の精神である」と言う。

それは彼らが「場」の清らかさを大切にするからである。その場の空気の清浄感、そして「もののあはれ」や「気配」という目に見えない感覚を敏感に感じ取っているからである。



その感覚を、柿坂神酒之祐宮司(天河大辨財天社)は「ふとまに」と言う。

「『ふと』そのま『まに』、ものごとが立ち現れてくる。その『ふと・そのまま・に』立ち現れてくる出来事や現象を、そのままに受け取って対処していくこと、それが『ふとまに』である」

その「ふとまに」は、「掃除」をすることによって立ち現れ、受け取られるのだという。ゆえに、神社の隅々までが掃き清められる。



神道における「浄(きよ)め」の観念は、教義よりも「こころ」を大切にしていることをうかがわせる。江戸中期の国学者「本居宣長」は、そうした心をこう詠んだ。

敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花

香るような繊細な心、それは「生きる場」が清浄であればこそ感じられる微細なものである。






■祭りと再生



神社が神道の「場」となれば、そこには「祭り」というワザが生まれる。

「祭りの主旨は、祭祀という魂を招き寄せる『ワザヲギ』による生命力の更新・復活にある(鎌田東二)」

「ワザヲギ」とは日本書紀に初出する言葉で、魂を呼び出し、付着(神懸かり)させたり活性化させたりする行いを指す。



たとえば、「天の岩戸」伝説がそれである。

天の岩戸に隠れ籠った太陽神「天照大御神(あまてらす)」は、象徴的な死の中に入った。

それを甦らせようと、踊りの神「アメノウズメ」は手に笹をもち、「神懸かり」となって乳房も女陰(ホト)も露わに踊り狂う。

そんなアメノウズメの様を、ほかの神々は喜び寿ぎ「咲(わら)ふ」。そしてついに「天照大御神(あまてらす)」は再顕現し甦る。



「祭りとは、このような『いのちの現れ=みあれ(御在)』に対する祝宴である。それは、生命力を賦活し活性化させる『鎮魂(たまふり)』であり、神々や人々の心身を生命的横溢と共鳴状態に変容させる『ワザ(技)』である(鎌田東二)」

そうした復活再生を、神社は「遷宮」という形に現す。2013年の今年、伊勢神宮は20年に一度の、出雲大社は60年に一度の式年遷宮を迎える。祭りで人の心が新たになるのならば、神社そのものも遷宮によって新たになるのである。






■日本化



神道が無邪気に「生」を賛美する一方、仏教は厳かに「死」を司る。

神道が祭りに狂乱している間、仏教はその騒ぎに酔い痴れることなく理法(ダルマ)に目覚めようとする。

神道が感覚そのままに振舞おうとすれば、仏教はそうした感覚をあえて相対化しようと努める(五蘊皆空)。



そうした点において、神と仏は「似て非なるもの」の側面を強くする。

神がそのままに「在るもの(自然)」だとすれば、仏は「成るもの(成仏)」。神が此岸(俗世間)に「来るもの」だとすれば、仏はそこを離れ彼岸(涅槃)に「行くもの」である。



神がその場にとどまる一方で、仏には目指すべき道がある。仏は煩悩、苦しみ、迷いからの解脱、すなわち輪廻転生の鎖から抜け出す道を指し示す。

仏と成るには、「自己を通して現れる世界の苦の現実」と「その拠って来る由縁」を正しく見抜かなければならない。ブッダという人は、苦と迷いの世界(此岸)から彼岸(涅槃)に渡ることのできた成就者(覚者)である。

「このように分析してみると、神と仏は『180°異なる存在』である(鎌田東二)」



ところが面白いことに、日本という風に仏が吹かれるうちに、神と仏の境はあいまいになっていった。日本では、悟りを開かなくとも死ねば誰もが「仏」と成れるようになったのだ。

「本来、『カミ』と『ホトケ』はまったく異なる存在形態である。それが日本で、あろうことか『反対物の一致』を引き起こした(鎌田東二)」

それが日本仏教の見せた、頽落とも深化とも判断のつかぬ変成であった。日本列島という不思議な領域では、歴史上、あらゆる物事がメルトダウンしてきた。それは「まったく異なる原理や志向性をもつ2つの神聖概念(神と仏)」とて避けうることのできない宿命であったようだ。

「これを仏教の神道化というべきか、神道の仏教化というべきか? いずれにしても、甚だしい仏教の『日本化』が起ったことは間違いない(鎌田東二)」






■浄め



「厭離穢土(おんり・えど)欣求浄土(ごんぐ・じょうど)」

かつて徳川家康は、この文句を記した旗を自軍にもたせた。

その意味は、穢(けが)れた土地である「穢土(えど)」を厭(きら)い離れ、浄(きよ)められた土地である「浄土(極楽)」を欣(よろこ)び求める、というものである。



この思想は、末法思想が広まっていた中世日本(戦国時代を含む)に広まった救済への願いであった。これはもちろん仏教の思想である。

だが、「浄(きよ)め」という点においては、神道のそれである。ということは、「穢れ」と「浄め」という概念において、神と仏の差異は一挙に空無化するのであった。



浄土真宗の祖「親鸞」は、こう言った。

「善人なほもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」

善人とは浄らかな「浄土人」、悪人とは穢れた「穢土人」。たとえ穢れた悪人といえども、「なむあみだぶつ」と念仏を唱えれば浄められ、極楽往生できると親鸞は教えたのであった。

もともとは「厳しい修行(聖道門)」を必要としたはずの仏教の「成仏」。それが念仏を唱えるという「簡単な浄化」によって極楽に行けるようになったのだ。






■禊(みそぎ)



一方、神道における浄化には「禊(みそぎ)と祓(はらい)」がある。古事記によれば、最初に「ミソギ(禊)」を行ったのは「イザナギ」という男神である。

その話のキッカケとなるのは、妻「イザナミ」の死。彼女は火の神カグツチを出産した時の火傷が元で死んでしまった。

妻の死を嘆き悲しんだイザナギは、妻を追って「黄泉(よみ)の国」へと赴く。ところが、穢れた国である黄泉の火を通した物を食してしまった妻イザナミの姿は、あまりにもおぞましく腐乱し、異様なものと成り果てていた。



「見るなと言ったのに、見〜た〜な〜」

化け物となってしまった妻イザナミは、「恨みと哀しみと怒りのないまぜになった感情」を爆発させ、夫イザナギを追って殺そうと躍起になる。

そして、追い逃した後、「わが夫の神よ、この仕返しに日本中の人間を一日に千人ずつ絞め殺してくれる!」と、彼女は国生み・神生みの女神から一転、恐ろしき殺戮の神に豹変してしまうのであった。



命からがら逃げ帰った夫イザナギは、黄泉の国で穢れたその身を、日向の国「橘の小戸(たちばなのおど)の阿波岐原(あわぎはら)」にて、その清らかな瀬の水で「禊(みそぎ)」を行う。

イザナギいわく、「吾はいな『しこめししこめき穢(きたな)き国』に到りてありけり。故、吾は御身の『禊(みそぎ)』せむ」。

その際、身に付けていた衣服や装身具から12の神々が成り出で、御身の各所を濯いだ時に14の神々が生まれることになる。






■善悪こもごも



この禊(みそぎ)によって生まれた神々の興味深いところは、良い神さまばかりでなく「悪い神さま」も同時に生まれたことである。

身体をすすいだ時に最初に成りませる二神、「八十禍津日神(やそ・まがつひのかみ)」と「大禍津日神(おほ・まがつひのかみ)」は、「穢繁国(けがらわしきくに)に到りし時の汚垢(けがれ)」によりて成れる神。その禍(まが)を直さむとして、次にイザナギが生むのが「神直毘神(かむなほびのかみ)」「大直毘神(おほなほびのかみ)」「伊豆能売神(いづめのかみ)」の三柱。

穢れから生まれた「マガツヒ」の二神が悪しき事を引き起こす力を持ち、次の「ナホビ」の二神が穢れを落とし浄めていく力を発揮する神となる。そして、その次の「イヅノメ」の神は「祓いやる強力な力能をもった女神」とされる。



イザナギが最後に顔を洗った時、彼自身がその誕生をたいへん喜んだという「三貴子」が現れる。

左目からは「天照大御神(あまてらす)」
右目からは「月読命(つくよみ)」
鼻からは「建速須佐之男命(すさのお)」

「天照大御神(あまてらす)」は日本の皇室の祖(皇祖神)ともなる太陽の女神。「月読命(つくよみ)」はその弟で姉と表裏一体をなす月(夜)の神。そして、末っ子「建速須佐之男命(すさのお)」は後に述べるが少々乱暴な神さまである。

ちなみに、伊勢神宮が祀るのが「天照大御神(あまてらす)」、出雲大社が祀るのは「建速須佐之男命(すさのお)」である。



国生み・神産みの女神イザナミの死は、これら清浄な三貴子への再生という形でひとまず落ち着くことになる。

死と穢れを経た、再生復活への道筋。これが神道における「厭離穢土(おんり・えど)欣求浄土(ごんぐ・じょうど)」の物語ともいえる。

「神道的『浄土』が、天照大御神の君臨する光の神国である『高天原』であった。それに対して、母神イザナミが赴いた死の国『黄泉の国』が、神道的『穢土』であった(鎌田東二)」






■スサノオの声



清らかなはずの三貴子のうち、末弟「スサノオ」ばかりは穢れが取りきれていなかったのか、以後の物語においてその「問題児ぶり」を発揮する。

上の姉兄が父イザナギに任せられた各々の国を真面目に治めるのに対して、末弟スサノオばかりは「母恋し」と大泣きしてばかり。任されていた「海原」をまとめるどころか、その暴風のような啼き声によって海の水を全部干上がらせて、山の木々まで枯れさせてしまう。

「悪しき神の音(こえ)は、狭蝿如(さばえな)す皆満ち、万の妖(わざわひ)ことごとく発(おこ)りき(『古事記』)」



そうした悪行の末、スサノオは父イザナギによって追放の憂き目にあう。

そして行ったのは、姉アマテラスの国「高天原」。だが、ここでも「大嘗殿を糞で穢したり、血だらけの馬を投げ入れて機織女を殺したり」と、さまざまな乱暴狼藉や悪逆非道をスサノオは繰り広げる。そして、ついには「髭を切られ、手足の爪を抜かれて」高天原からも追放されてしまう(神遂ひ)。

「こうしてスサノヲは、父と姉から二度にわたり追放された『どうしようもない荒くれ者』である。この前半部のスサノヲは見境なく暴れ、殺害する神、手のつけられない『荒魂(あらみたま)』である(鎌田東二)」



「母恋し」と泣き叫んでいたスサノオは、母神イザナギの嘆きと哀しみをそのままに体現していた。

黄泉の国で腐乱して蛆(うじ)のたかっていた母イザナギ。その醜い姿を夫に見られ「吾に辱見せつ」と負の感情にまみれていた。正確にいえば、スサノオを生んだのは父イザナギのはずだが、スサノオは不在の母イザナミを純真に恋い慕っていたのであった。



スサノオに受け継がれた負の連鎖は、神の世界から遠く離れた「出雲の地」で不思議な開花を見せる。彼はここで全く別の神に生まれ変わるのだ。

長らくこの地の住民を悩ませていた八頭八尾の怪物「八岐の大蛇(やまたのおろち)」を、スサノオはあっという間に退治してしまう。そして救った「櫛名田比売(くしなだひめ)」を娶ったスサノオは、その喜びをこう歌い上げる。

八雲立つ 出雲 八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を



このスサノオの歌こそが、わが国における「和歌の濫觴(起源)」とされている。

「母を恋い慕って泣き叫んでいたその荒ぶる声が、このような喜びの力強い声となって迸(ほとばし)った。破壊的な声の力が、調和に満ちた愛の言霊に転化したのだ(鎌田東二)」

その純粋なる喜びが、スサノオの穢れを祓い、押しも押されぬ最高の英雄神へと昇華させるのであった。

「穢れと悪逆にまみれた神が、追放されて祓われて、浄めと鎮めの神となる。そしてそれが、歌の発生から出雲神話など日本の伝承と祭礼にきわめて深いインパクトを与え続けることになる(鎌田東二)」






■言霊



和歌に限らず、言霊(ことだま)や音霊(おとだま)による「浄め」の概念は、古く「万葉集」より見られる(三例)。

巻五 八四九番
「神代より言ひ伝来らく そらみつ大和の国は皇神(すめかみ)の厳(いつ)くしき国 言霊の幸(さき)はふ国と 語り継ぎ言ひ継がひけり 今の世の人もことごと目の前に見たり知りたり(山上憶良)」

巻十三 三二五四番
「磯城島(しきしま)の 大和の国は 言霊の助くる国ぞ ま幸(さき)くありこそ(柿本人麻呂)」

巻十一 二五〇六番
「言霊の八十(やそ)のちまたに 夕占(ゆふけ)問ふ 占正(うらまさ)に告(の)る 妹(いも)相寄らむ(柿本人麻呂)」



「言霊(ことだま)」という概念の起こりは、言葉以前の「草木言語」と呼ばれるものに根をもつ。

「日本書紀」には、「天地割かるの代、草木言語(ものがたり)せし」状態であったと記されている。「磐根(いわね)・木株(このもと)・草葉(くさのかきは)も、なおよく言語(ものい)ふ。夜はほ火の若に喧響ひ、昼は五月蝿なす沸き騰る」



統一された言語以前の「音霊(おとだま)」とでもいうべきものは、父神イザナギを激怒させたスサノオの絶叫「悪しき神の音(こえ)」もそうだったのであろう。

スサノオに限らず、「荒ぶる神たちの騒々しい音声(おとなひ)」は混沌とした世にあふれていた。その騒音がさまざまな妖(わざわ)いを起こし、世界を混乱させてもいたのである。そうした雑音は、磐根(いわね)や木立、草葉などからも聞こえてくる。もろもろの自然物がそれぞれに語(こと)問うて、国は荒ぶるばかりであった。

そこに天孫が降臨すると、「言分け和(やわ)し」、自然発生した言語は整序され秩序がつくられる。それは大和朝廷という統一国家の形成にもつながっていくことにもなる。






■音から和歌へ



平安時代初期、空海という僧は真言密教により「前仏教的な言霊」と「音霊」をすべて呑み込み、位置づけし直した。

五大にみな響きあり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身はこれ実相なり(『声字実相義』)

「空海の真言密教が神道と仏教の最大の接合部となったことは強調しておくべきだろう(鎌田東二)」



空海はこうも言う。

草木に仏なくんば
波にすなはち湿(うるほひ)なけん

これは天台本覚思想の「草木国土悉皆成仏」にまで結びつく。

「草木の『言語う』ところから『成仏』することろまでをつないでいるのだから、ここに神道と仏教は原理的差異を超えて一挙に習合化の道をたどることになる(鎌田東二)」



そして、その延長線上に位置するのは中世の「和歌則陀羅尼説」。

僧・西行はこう語る。「この歌すなわちこれ如来の真の形体なり。されば一首詠み出でては、一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては、秘密の真言を唱ふるに同じ。我この歌によりて法を得るところあり」

一首一仏、一句一真言。和歌の秘めたる言霊はそのまま仏に、真言になると言うのであった。

僧・無住はこう語る。「聖人は心なし。万物の心をもって心となし、聖人は身なし。万物の身をもって身とす。聖人の言、あに法語にあらざらんや(『沙石集』)」



そうした僧らに先立つこと「紀貫之(きのつらゆき)」は、「古今和歌集」の仮名序でこう述べている。

「和歌(やまとうた)は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」

「花に鳴く鶯(うぐいす)、水に住む蛙(かはづ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」

「力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士(もののふ)の心をもなぐさむるは、歌なり」



かくして、和歌は心の「あはれ」を表に出させ、そして浄化する「ワザ」でもあった。

神道における原初的なアニミズムの残響は、和歌という洗練された形の底にも確かに響いていたのである。






■心



神道が音に出すことによって心を浄めるのに対して、仏教はもっと静かな道を歩んでもいた。

空海と同時代の僧・最澄のいう「止観(しかん)」とは、「止」すなわち「集中」と、「観」すなわち「内面の観察」を行じることであった。心を鎮め、呼吸を整え、物事をありのままに見る。そうした瞑想、禅定による智慧の成就を最澄は説いたのである。



「それ坐禅の方は、もしよく善く心を用うればすなわち四百四病は自然に除差す。もし用心が所を失すればすなわち四百四病を動ず」

心の用い方(用心)次第で、「四百四病」は治すこともできれば発症することもある。ゆえにその心の用い方(用心)を止観によって練るのだと最澄は言っている。



仏教における心観と瞑想は、その創始者ブッダも説くところである。

「ものごとは、心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される」

「もし汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。車を引く(牛の)足跡に車輪がついて行くように」

「もし清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う。影がその身体から離れないように」



仏教を日本でいち早く受け入れた聖徳太子も、同様のことを語る。

憲法十七条
「十に曰く、忿を絶ち瞋を棄てて、人の違ふことを怒らざれ。人皆心有り。心各執有り。彼是なれば我は非なり。我是なれば彼は非なり。我必ず聖に非ず、彼必ず愚に非ず。共に是れ凡夫ならくのみ。是非の理、たれか能く定むべけむ。相共に賢愚なること、環の端なしが如し。是を以ちて、彼人瞋るといえども、還りて我が失を恐れよ。我独り得たりといえども、衆に従ひと同じく挙へと」

仏教における克服すべき「三毒」は「貪・瞋・癡(とん・じん・ち)」、「貪(むさぼ)ること」「怒ること」「愚かであること」。そのうちの「怒り(忿・瞋)」がここでは戒められている。人が違うことを怒らず、人が怒る時は我が身を省みよ、と。是も非も、賢も愚も「端のない輪のとごし」と。



最澄による「用心(心の用い方)」は、この流れに連なる。

最澄いわく、「国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす(『山家学生式』)」

比叡山中に築いた「一乗止観院」なる道場は、国宝たる「道心」を止観によって練り上げるためのものであったという。






■美しい詩



神道が音を発し、仏教が音を絶っても、「宇宙の音」は止むことがない。

「宇宙間には時として所として音声のない処はない。人間の地津魂(くにつたま)の耳に聴き得ざる時にも、人間の天津魂(あまつたま)が聴き得る音声が存在する。宇宙そのものが音霊そのものである」と、神道天行居を開いた「友清歓真(ともきよ・よしさね)」は記す。

それは空海が『声字実相義』の中で述べていることと同義である。



友清は続ける。「科学は音覚(聴覚)の器官は耳であると教へる。だが、じつは皮膚にも毛髪にも足の裏にも耳がある。耳といふものは額の両面と壁とにのみあるわけでは決してない。ゆえに電車内に並んで座している若い男女は、初対面でまた一切沈黙してゐても、じつは盛んに会話を交へているものである」

観音さまが「音を観る」が如く、友清にとって聴覚とは単に五感の一感覚にとどまらず、それは根本感覚とも全身感覚とも呼びうるものであった。

「音霊ほど世に奇しびなるものはない。世の一切の活動が音霊によって起こり、世の一切の生命が音霊とともに流れてゐる。久遠の過去より久遠の未来に流れてゐる。ゆえに古の聖人は礼楽によって世を治め、天の岩戸も音霊によって開かれた」



友清歓真は『古神道秘説』の中で次のようにも述べる。

「音霊をもって我を清め、他を清め、家を清め、国を清め、天地を清め、一切世界を清め人とするものであります」



最後に、折口信夫は神道をこう言い表した。

「宗教体系を待つこと久しい、神話であったと思ふ。だから美しい詩であった」













(了)






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出典:サンガジャパンVol.14(Summer)
「神道と浄め 鎌田東二」
posted by 四代目 at 11:39| Comment(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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