「マグロは釣るんじゃない。マグロに選んでもらうんだ。」
そう語るのは、青森県の大間で40年以上「マグロ」を釣り続ける生粋の漁師、「山崎倉(おさむ)」氏である。
山崎氏は、中学生の時にマグロを釣って以来、60歳を超えた今も、現役でマグロを釣り続けている。
直径1ミリ、長さ75メートルの釣り糸で、何百キロというマグロを釣り上げる。
200キロを超える大物になると、「少なくとも1時間は格闘」することになる。「この前は、240キロを釣り上げるのに、4時間格闘した」と山崎氏。
今年のマグロの初竸りでは、トップに一本3,249万円(342kg)もの高値がついた(1キロ9万5,000円)。
釣れればデカいが、「全然釣れない時もある」という。マグロ漁はそんな「おっかない商売」だ。
針を沈めた瞬間にマグロが食らいついてくることがある一方、「一週間も10日も釣れないときもある。」
山崎氏にとっても、暗黒の時代があった。
青函トンネルの工事が始まるや、マグロがパッタリと大間から消えてしまったのだ。それ以来、大間では10年以上もマグロが釣れることはなかったという。
「北海道から八丈島まで、マグロを追いかけたが、燃料費に全て消えた。」
借金だけが年々増えてゆく。仲間たちは次々とマグロ漁から去ってゆく。
「マグロよりも、イカでも釣ったほうが確実に儲かる」。そう言われても、山崎氏は「そういう気持ちにはならなかった」といって、ひたすらマグロのみを追い続けた。
そして、青函トンネルの工事が終わった翌年、山崎氏の釣り上げた大物は、初競りで見事に日本トップに輝く。快進撃は止まらず、次の年も連続トップの快挙を成し遂げる。
ところが、また釣れなくなる。
今度は、「自分だけが釣れない」のだ。他の仲間は「どんどん釣っている」。
悪夢ふたたびか?マグロシーズンは、7月から12月の半年間に限られている。シーズンがはじまって以来、9月、10月、11月とまったく釣れない。
もし、12月も釣れなければ、その年の収入はない。また借金だ。次の漁は翌年の7月まで待たなければならない。
ギリギリに追い詰められた12月27日。ついに「マグロが選んでくれた!」。200キロを超える大物。年越し直前の大逆転である。じつに111日ぶりのマグロであった。
辛酸をなめつくした山崎氏は語る。
「どんなに努力しても、できない時はできない。それでも努力するしかない。
こっちがいくら借金をしているかなど、マグロ様の知ったところではない。
抗(あらが)いようのない自然が相手だからこそ、自分のできることをやり尽くすしかないんだ。」
あるテレビ撮影の時の出来事。
山崎氏は撮影最終日に大物を2匹連続で釣り上げる。
テレビのスタッフは、「さすが山崎さん!」と大絶賛。
それでも、山崎氏は淡々としている。「釣れても釣れなくても、それが結果。たとえ、6ヶ月釣れなくても、それが俺の勝負の結果なんだ。」
「どんな一日でも、満足するようにしている。」
山崎氏は、大震災以来、こんな質問をよく受けるという。
「大間からマグロがいなくなったら、どうすんだい?」
山崎氏の答えは揺るがない。
「たとえ1000年に一度の大地震があっても、マグロは大間にやって来る。そう信じて漁に出るだけだ。」
「労を惜しまず、自分のできることをやり尽くすんだ。
そうすれば、きっとマグロは俺を選んでくれる。」
出典:致知9月号
マグロ漁は一に勉強、二に勉強、三に努力、四に努力。
2011年08月25日
2011年08月03日
日本から遠ざかり続ける「食料」。それらの生産地は、果たして?
「100マイル・ダイエット」というのはご存知だろうか?
減量(ダイエット)のために、100マイル(160km)走ることだろうか?
2007年にカナダの夫妻が取り組んだこの試みは、世界中の関心を集め、その体験を記録した本(The 100-mile Diet)はベストセラーとなった。
英語の「Diet(ダイエット)」という言葉には、食事制限という意味の他に、「食事法(食事のスタイル)」という意味もある。
100マイル・ダイエットとは、「新たな食事スタイル」の提案である。
新たな食事スタイルとは、「半径100マイル(160km)以内の食材のみを口にする」というスタイルである。
日本流に言えば、「地産地消」となろうか。
半径100マイル(160km)とは、どれくらいの大きさの地域であろうか?
日本では、全ての都道府県が、半径100マイルの円内に収まると考えて良い。
感覚的には、関東地方、関西地方などのような、「地方単位」と捉えれば、ほぼ誤解はない。
さて、その100マイル圏内では、何が生産されているのだろうか?
日本では、東北・北海道以外の地域では、食料自給率は100%に届かない。つまり、何かしらかの不足が生じるのである。
ちなみに、食料自給率の低い都道府県といえば、「東京・神奈川・大阪」がダントツに低い。1〜3%である。
食料自給率が100%を超えている都道府県でも、「ないモノ」はたくさんある。
コーヒー、チョコレート、コカ・コーラ、ジャンクフード‥‥。健康を害するもののほとんどは、他国からの輸入品である。
「100マイル・ダイエット」という本は、自分の食事スタイルを見直すことで、「世界の現実」を明らかにしてくれる。
なぜ、裏庭でもできるトマトが、遠い中国からやって来るのか?中国のトマトは、それほど美味いのか?
山梨でもできるワインが、なぜ南アフリカからやって来るのか?ボルドー・ワインなら話は分かるが‥‥。
地理的な距離をものともせずに、食品が世界の空を飛び回るのは、「経済的に効率的」だからに他ならない。
自分の裏庭でトマトを作るよりも、中国でトマトを作ってもらったほうが「安上がり」なのである。
しかし、経済的に「正しい」ことは、時として極めて「不自然」である。
現代文明は、この「不自然さ」を経済的な「正しさ」で押し込めてきたが、その「シワ寄せ」は、いよいよ世界各地で露(あら)わとなり始めている。
世界的な食糧価格高騰も、その兆しである。
日本では、食料の30%を食べずに捨てておきながら、「食料自給率が低くて問題だ」とおっしゃる。
世界の歪みが大きくなってきているのは、明らかな現実である。そして、その現実を作り出したのが、「経済信仰」である。
「100マイル・ダイエット」は、そんな世界とガチンコ勝負である。
現代文明に甘やかされた現代人にとって、100マイル・ダイエットは「苦行」以外の何物でもない。
朝の「コーヒー一杯」が飲めないことに、耐えられない。
オヤツに「チョコレート」を食べられないことに、耐えられない。
夜、「ビール」で酔っぱらえないことに、耐えられない。
「ないモノ」「ないモノ」ばかりに目が行き、不平不満の権化と化す。
しかし、その苦行は次第に考え方に変化をもたらす。
「あるモノ」の有難さに気づく瞬間である。
「ないモノ」を追いかける世界は、無限地獄へと真っ逆さまだが、ひとたび「あるモノ」に気づけば、平穏無事な世界が無限に広がる。
話変わるが、脱原発の論議においては、「今さら昔の生活に戻れというのか」という意見も多い。
経済合理性の論点に立脚すれば、それは誠に正しい意見である。
しかし、経済合理性という「無理」がまかり通った結果、引っ込んでしまっている「道理」があることにも目を向ける必要がある。
食に話を戻せば、いかなる「道理」が引っ込んでしまっているのだろう?
もし、地元に農家の知り合いがいれば、そこから食べ物を頂くことは、自然なことである。
もし、地元のスーパーが友達だったら、そこで買い物をしてあげたいと思うかもしれない。
ところが、価格を最優先させれば、そうした自然な行動をとらないことも多くなる。
その結果、地元の農家は消え、小さな商店はシャッターを降ろす。
経済性の追求は、世界を分業化へと導き、自国で食料を生産する必要がない国も現れた。
自国で食料を生産しない国の食料は、遠い他国から、多くの人々を仲介しながらやって来る。
自分で作物を育てれば、自分と作物の間に誰も入ってこないが、輸入品は、数知れない人々を巻き込むことになる。
より「回りくどい」ほうが、経済発展には寄与するかも知れないが、より不自然であることは確かである。
その「回りくどい」結果、自分の100マイル圏内から、農地が消え去ってしまっている地域もある。
「100マイル・ダイエット」という発想は、その現実の危険性を再考させてくれる。
経済性を追求していたつもりが、自分の足元の地域を「貧しく」してしまっているかもしれない。
自分の足元の水やりが疎(おろそ)かになれば、それは良いことばかりではないだろう。
食料が、間接的に間接的になってしまった結果である。
食料生産が間接的になればなるほど、その危うさは増すばかり。
ブロックを積み上げれば積み上げるほど、崩れる危険性は大きくなる。
しかし、この危うさを人々が認識することは少ない。
伸びるにまかせるツル植物は、遠くの根っこが切られても、しばらく気づくことはない。
世界の危うい食料生産システムは、複雑になりすぎて、こんがらがっている。
東日本大震災では、複雑になりすぎた自動車生産が、思わぬところに根っこがあったことが明らかになった。
我々も、食料がどこで生産されているかくらいには、関心を寄せていたほうが良いのかも知れない。
我々は、知らず知らずのうちに、「最も大切なモノ」を、「最も遠いところ」に置いてしまっているかもしれない。
関連記事:
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韓国は世界3位の電力浪費国(一人あたり)。その格安電力の舞台裏は散々だった。
出典:BS世界のドキュメンタリー シリーズ
食を見直そう「100マイル チャレンジ〜地元の食材で暮らす〜
第1回 食べ物がなくなる?!」
2011年07月27日
アメリカ・中国の2大国が、今後の世界食料の分配を左右する。
一年前に比べ、「小麦」の価格は2倍増、「トウモロコシ」の価格は73%アップ、「大豆」の価格は36%増。
人間の主食とされる「穀物」は、この「小麦・トウモロコシ・大豆」が7割を占める。そして、この3種からは様々な派生食品が作られる。
その結果、この3種の価格高騰により、食品価格はあらゆる面で「底上げ」された。

なぜ、食料価格は高騰するのか?
最も単純な回答は、食料が「足りていない」ということだ。
生産よりも消費が多ければ、経済の基本的な原理により、値段は上がらざるを得ない。
ところが、ここで注意しておかなければいけないのは、世界は現在の全人口をまかなえる以上の食料を生産しているということである。
現在、世界は「22億トン」の穀物を生産している。
この「22億トン」で、どれだけの人口をまかなえるかというと、何と「100億人」である。
現在の世界人口は、およそ「70億人」。つまり、現在、世界人口が消費する1.5倍近い穀物が生産されていることになる。
では、なぜ穀物が足りていないのか?
それは、穀物を「家畜(牛・ブタ・鶏)」に食べさせたり、「燃料(バイオ・エタノール)」にしたりしているからである。
例えば、アメリカは世界の「トウモロコシ」の40%を生産している世界最大のトウモロコシ生産国だが、アメリカの生産するトウモロコシのうち、そのたった20%しか人の口に入らない。
アメリカの生産するトウモロコシの80%は、家畜のエサか燃料になっている。

穀物を家畜に食べさせると、その変換効率は極めて悪化する。
牛肉1kgを生産するのには、その11倍の穀物が必要である。同様に、豚肉なら7倍の穀物、鶏肉なら4倍の穀物をエサとして必要とする。
人間の文明が進むほどに、人間は肉を食べるようになる。
先進国ほど肉を食う。肉を食うことにより、穀物を最大で10倍も消費するようになる。
現在、顕著に肉消費が増えている国は「中国」である。
現在の中国人は、20年前に比べておよそ3倍の肉を食べるようになった。
日本人は一年間に一人あたり「28kg」の肉を消費するというが、現在の中国人は、日本人の約1.8倍の「50kg」を消費するという。
中国の肉消費を加速させたのが、「牛肉」の消費急増である。
もともと中国人は、ブタや鶏を食べており、牛はあまり食べられていなかった。
ところが、アメリカにより「ハンバーガー」が持ち込まれ、日本からは「牛丼」が持ち込まれると、中国の牛肉消費量は、たちまちに増大。
農村の都市化が進めば、中国の肉消費量は、まだまだ増える見込みである。
現在の食糧価格高騰は、こうした大国の影響が極めて大きい。
アメリカの穀物戦略は、今後、まだまだ価格高騰に拍車をかける可能性がある。
というのは、上に挙げたように、穀物を「肉」に変えることで「付加価値」が高まり、経済的な利益が享受できる。
また、穀物を「燃料」に変えることで、自国のエネルギー自給率を上げることができ、中東への石油依存を減らせる。
アメリカ国内の食料自給率は100%を超えているのだから、自国で余った食料は、できるだけお金になったほうが良いのである。
実際、アメリカの穀物農家の収入は増加傾向にあるという。
中国の食料自給率は、95%である。
中国の農業は、現在、目一杯生産している状態にあるので、おそらくこの数字は年を追うごとに悪化する可能性が高い。
中国の巨大な消費をカバーできるのは、やはりアメリカということになる。
しかし、アメリカは穀物の付加価値を高めたいと考えているため、穀物を穀物として輸出する価格は、年々高騰している。
それでも、中国政府は世界一貯蓄があるので、充分に買える。しかし、中国政府にお金があっても、一般民衆にはそれほどお金がない。
中国のジレンマは、ここにある。
国としては、食料を買えても、一般民衆は食料を買えなくなる。
この状態がエスカレートすれば、政変の危機へと発展してしまう。
さらに、お金持ちの中国が、高い値段でアメリカから食料を買ってしまうと、世界的な食料価格の高騰を後押しする結果ともなる。
これは、中国にとっても、世界にとっても悪い話である。
さて、日本は?
食料の自給率以前に、エネルギーの自給率が極めて低い(4%)。
現代農業は、多大なエネルギーを消費する。農薬・化学肥料・機械などなど、あらゆる面で「石油依存」が強まっている。
この現実は、農家の収益を圧迫しており、生産を増やすほどに借金がかさむという非経済的な農家すら現存する。
都道府県別の自給率を見れば、自給率が100%を超えているのは、「北海道」「青森」「秋田」「山形」「佐賀」。たったこれだけである。
これらの都道府県がお金持ちという印象は、まったく無いだろう。
経済原理に沿えば沿うほど、日本では農業をやらないほうが良いという証左である。

今後の食料事情は、楽観できない状況にある。
日本では、神の見えざる手に任せてしまうと、農業は衰退の一途をたどるより他にない。
たとえ食料価格が上がっても、エネルギー価格まで同時に上がってしまっては、日本での農業は苦しくなる一方である。
農業を大型化すればするほど、エネルギー依存は高まる。つまり、大型農家ほど苦しくなるということである。
日本の農業は、つねにこのジレンマの中にあった。
小規模だと金にならず、かといって大規模化すれば経費がよけいにかかり、リスクは増大する。
世界一高い人件費と、世界一高いエネルギーの中で、農業をやるほど非経済的な話もない。
かつて食料危機を経験した世代でもなければ、経済原理を超える「食料の有り難さ」は理解できない。
「何でもお金で買える」という常識がまかり通る限り、自らの手で食料を生産するという気にはなれないであろう。
出典:大人ドリル 「日本もピンチ?世界の食料問題」
人間の主食とされる「穀物」は、この「小麦・トウモロコシ・大豆」が7割を占める。そして、この3種からは様々な派生食品が作られる。
その結果、この3種の価格高騰により、食品価格はあらゆる面で「底上げ」された。
なぜ、食料価格は高騰するのか?
最も単純な回答は、食料が「足りていない」ということだ。
生産よりも消費が多ければ、経済の基本的な原理により、値段は上がらざるを得ない。
ところが、ここで注意しておかなければいけないのは、世界は現在の全人口をまかなえる以上の食料を生産しているということである。
現在、世界は「22億トン」の穀物を生産している。
この「22億トン」で、どれだけの人口をまかなえるかというと、何と「100億人」である。
現在の世界人口は、およそ「70億人」。つまり、現在、世界人口が消費する1.5倍近い穀物が生産されていることになる。
では、なぜ穀物が足りていないのか?
それは、穀物を「家畜(牛・ブタ・鶏)」に食べさせたり、「燃料(バイオ・エタノール)」にしたりしているからである。
例えば、アメリカは世界の「トウモロコシ」の40%を生産している世界最大のトウモロコシ生産国だが、アメリカの生産するトウモロコシのうち、そのたった20%しか人の口に入らない。
アメリカの生産するトウモロコシの80%は、家畜のエサか燃料になっている。
穀物を家畜に食べさせると、その変換効率は極めて悪化する。
牛肉1kgを生産するのには、その11倍の穀物が必要である。同様に、豚肉なら7倍の穀物、鶏肉なら4倍の穀物をエサとして必要とする。
人間の文明が進むほどに、人間は肉を食べるようになる。
先進国ほど肉を食う。肉を食うことにより、穀物を最大で10倍も消費するようになる。
現在、顕著に肉消費が増えている国は「中国」である。
現在の中国人は、20年前に比べておよそ3倍の肉を食べるようになった。
日本人は一年間に一人あたり「28kg」の肉を消費するというが、現在の中国人は、日本人の約1.8倍の「50kg」を消費するという。
中国の肉消費を加速させたのが、「牛肉」の消費急増である。
もともと中国人は、ブタや鶏を食べており、牛はあまり食べられていなかった。
ところが、アメリカにより「ハンバーガー」が持ち込まれ、日本からは「牛丼」が持ち込まれると、中国の牛肉消費量は、たちまちに増大。
農村の都市化が進めば、中国の肉消費量は、まだまだ増える見込みである。
現在の食糧価格高騰は、こうした大国の影響が極めて大きい。
アメリカの穀物戦略は、今後、まだまだ価格高騰に拍車をかける可能性がある。
というのは、上に挙げたように、穀物を「肉」に変えることで「付加価値」が高まり、経済的な利益が享受できる。
また、穀物を「燃料」に変えることで、自国のエネルギー自給率を上げることができ、中東への石油依存を減らせる。
アメリカ国内の食料自給率は100%を超えているのだから、自国で余った食料は、できるだけお金になったほうが良いのである。
実際、アメリカの穀物農家の収入は増加傾向にあるという。
中国の食料自給率は、95%である。
中国の農業は、現在、目一杯生産している状態にあるので、おそらくこの数字は年を追うごとに悪化する可能性が高い。
中国の巨大な消費をカバーできるのは、やはりアメリカということになる。
しかし、アメリカは穀物の付加価値を高めたいと考えているため、穀物を穀物として輸出する価格は、年々高騰している。
それでも、中国政府は世界一貯蓄があるので、充分に買える。しかし、中国政府にお金があっても、一般民衆にはそれほどお金がない。
中国のジレンマは、ここにある。
国としては、食料を買えても、一般民衆は食料を買えなくなる。
この状態がエスカレートすれば、政変の危機へと発展してしまう。
さらに、お金持ちの中国が、高い値段でアメリカから食料を買ってしまうと、世界的な食料価格の高騰を後押しする結果ともなる。
これは、中国にとっても、世界にとっても悪い話である。
さて、日本は?
食料の自給率以前に、エネルギーの自給率が極めて低い(4%)。
現代農業は、多大なエネルギーを消費する。農薬・化学肥料・機械などなど、あらゆる面で「石油依存」が強まっている。
この現実は、農家の収益を圧迫しており、生産を増やすほどに借金がかさむという非経済的な農家すら現存する。
都道府県別の自給率を見れば、自給率が100%を超えているのは、「北海道」「青森」「秋田」「山形」「佐賀」。たったこれだけである。
これらの都道府県がお金持ちという印象は、まったく無いだろう。
経済原理に沿えば沿うほど、日本では農業をやらないほうが良いという証左である。
今後の食料事情は、楽観できない状況にある。
日本では、神の見えざる手に任せてしまうと、農業は衰退の一途をたどるより他にない。
たとえ食料価格が上がっても、エネルギー価格まで同時に上がってしまっては、日本での農業は苦しくなる一方である。
農業を大型化すればするほど、エネルギー依存は高まる。つまり、大型農家ほど苦しくなるということである。
日本の農業は、つねにこのジレンマの中にあった。
小規模だと金にならず、かといって大規模化すれば経費がよけいにかかり、リスクは増大する。
世界一高い人件費と、世界一高いエネルギーの中で、農業をやるほど非経済的な話もない。
かつて食料危機を経験した世代でもなければ、経済原理を超える「食料の有り難さ」は理解できない。
「何でもお金で買える」という常識がまかり通る限り、自らの手で食料を生産するという気にはなれないであろう。
出典:大人ドリル 「日本もピンチ?世界の食料問題」
2011年07月23日
世界の食糧価格「高騰」に見る、世界の常識の激変。
世界の食糧が「高騰中」である。
土用のウナギに負けずに、ウナギ昇りである。

やはり、「中国」の台頭が大きい。ケタ外れの人口は、ケタ外れの食糧を消費する。
大豆を例にとれば、今年、南米の大豆は「豊作」だと報じられた。
投資家たちは、供給が増えるということで、「今年の大豆は値が下がるのでは?」と思ったが、実際には、価格の高騰は続いた。
かつて、中国は「大豆」の輸出国であったが、現在は「輸入国」へと転身している。その消費力たるや、ここ10年で「倍増」し、まだまだ伸びる傾向にある。
中国に「インド」が続いてくれば、世界的な食料価格の高騰は、まだまだ続くと見なければならない。

国家としての最大の「安全保障」は、「食糧の確保」である。
チュニジア発の中東革命の発端は、「食糧不足」である。フェイスブックなどの役割は、燃え上がった炎に、風を送って煽ったに過ぎない。
それなりに食糧が確保されていれば、民衆は「独裁」などは、さほど気にしないものである。いくら「インテリ層」が高い理念を掲げようとも、国はそうそう転覆したりはしない。
ところが、食うモノがないとなると、話は全く別である。
その結果は、チュニジア、エジプトの政変を見れば、一目瞭然である。
その点、「中国」も安穏とはしていられない。
いくら情報統制をしようとも、目の前の食料価格が上がっていく様は、誰の目にも明らかである。
ブタ肉の高騰などは、常軌を逸している。
中国政府は、今、経済成長のペースを鈍化させ、金利を少しづつ上げながら、異常な食料インフレ(価格高騰)を御(ぎょ)そうと必死である。
立派な空母を造るだけでは、国の安全は保てない。内側から崩壊することほど恐ろしいことはない。内部被曝が一番怖い。
さて、日本は?
スーパーの価格は、10円、20円と、地味に上昇してきている。しかし、世界的に見れば、まだまだ主婦層の愚痴で済むレベルである。
より深刻なのは、生産者サイドである。
特に、輸入飼料に頼る「畜産(肉)」関係にとっては、もはや死活問題。ここに放射能まで絡んでくるのだから、たまったものではない。
牛などは「穀物」を食べさせたほうが、より大きくなるのだが、その穀物が高すぎるので、仕方なく「草」の量を増やさざるを得ない。
輸入穀物は高いからと、日本でも家畜のエサ用に「コメ」を作ろうということで、政府がコメ農家に補助金を出すほどである。
畜産だけではない。あらゆる農家は、農薬や化学肥料など、「輸入物」に大きく依存している。
ただでさえ、利益の薄い産業にとって、その打撃は小さくない。
今まで「減・農薬」「減・化学肥料」は、志高き人々のステータスであったが、これからは、経済的な問題から取り組んでいかなければならない切実な課題となるのかもしれない。
世界の食糧高騰の波を緩和してくれているのが、現在、歴史的に高い水準にある「円」である。
輸出企業は、「円高」はダメだと叫ぶが、日本しか買い物をしない一般人にとって、「円高」はある意味ありがたい。
それは、日本の食料自給率が低く、輸入品を食する機会が大変多いためである。円高であるほど、輸入品は安くなる。
円高が緩衝材の役割を果たすとはいえ、世界の食糧価格の高騰は異常である。
日本の大手商社などでは、食料輸入から国内生産に切り替える動きも出てきている。
先に例にひいた「大豆」などを、北海道で栽培したりして、今後の食料価格高騰に備え始めている。
食料は日本で作ると「割高」だということで、今までは「輸入食品」に押されっぱなしだったわけだが、時代の流れは、ついに逆転しつつあるのかもしれない。
冷静に考えれば、日本ほど食料生産に適した国も珍しい。
何より「水」が豊富である。アメリカの多くの農地は、機械で水を撒かないと何も作れないが、日本の農地の多くは、「雨」や「川の水」だけでも十分に生産が可能である。
アメリカ、オーストラリア、ロシアなどは、よく「大干魃」で大打撃を受けているが、日本の凶作はそれほどに深刻ではない。
日本の農業が下火になってきたのは、工業偏重・経済偏重の結果であろう。
農家をやっているよりも、一介のサラリーマンになったほうが賢かったのである。
しかし、この経済偏重の思考は、食料価格高騰により、逆の流れとなって農家を後押しする可能性が出てきた。
食料が「お金を出しても買えない時代」になるのかもしれない。
去年、ロシアやウクライナは、小麦の凶作により、輸出を停止した。そして、その余波は、中東・北アフリカを襲い、歴史的な政変へとつながった。
日本の大震災においても、「お金さえあれば、何でも買える」という常識が覆(くつがえ)った。
どんなに現金があっても、パン一つが手に入らなかった。どんなに現金があっても、ガソリン10Lが手に入らなかった。
去年、世界は「通貨安戦争」という奇妙な競争を始めた。
各国が、「負けよう負けよう」とする戦争である。20世紀の「勝とう勝とう」とする戦争から、「負けるが勝ち」へと価値観が180°変わってしまった。
それほどに、各国の「貨幣の価値」が落ちてしまったのである。その煽りは「金」を史上最高値への水準へと持ち上げ、いまだ天井知らずである。
そもそも「貨幣」とは、人間が作り出したものゆえに、その信用とは「人間(国家)」への信用の証である。
その「人間への信用」が揺らぎ、貸した金が返ってこなくなるのではないかという疑念が、世界中で起こった。
その顕著な例が、ギリシャを筆頭とする「ヨーロッパ金融危機」である。
人間に対する疑念は、世界最大の経済国・アメリカへの信用をも怪しいものにしており、アメリカの借金問題は、揉めにもめている。
もし、政治的な妥結が図れなければ、来月にも、新たな歴史が刻まれることとなるかもしれない。
食料、マネー、信用。
前世紀の常識は、すっかり覆(くつがえ)ってしまったようにも思える。
世界は、今、ダイナミックに変動している。
生物は、「強い」から生き残るのではない。「変化に適応できる」から生き残るのである。
常識や思い込みは、最大の敵である。
自分の目で見て、自分の耳で聞くことでしか、正しい判断はできない。
国の政策を批判しているヒマがあったら、自分の手で「種」をまいたほうが、よっぽど手っ取り早い。
出典:クローズアップ現代
「迫る“食料高騰”時代」
土用のウナギに負けずに、ウナギ昇りである。
やはり、「中国」の台頭が大きい。ケタ外れの人口は、ケタ外れの食糧を消費する。
大豆を例にとれば、今年、南米の大豆は「豊作」だと報じられた。
投資家たちは、供給が増えるということで、「今年の大豆は値が下がるのでは?」と思ったが、実際には、価格の高騰は続いた。
かつて、中国は「大豆」の輸出国であったが、現在は「輸入国」へと転身している。その消費力たるや、ここ10年で「倍増」し、まだまだ伸びる傾向にある。
中国に「インド」が続いてくれば、世界的な食料価格の高騰は、まだまだ続くと見なければならない。
国家としての最大の「安全保障」は、「食糧の確保」である。
チュニジア発の中東革命の発端は、「食糧不足」である。フェイスブックなどの役割は、燃え上がった炎に、風を送って煽ったに過ぎない。
それなりに食糧が確保されていれば、民衆は「独裁」などは、さほど気にしないものである。いくら「インテリ層」が高い理念を掲げようとも、国はそうそう転覆したりはしない。
ところが、食うモノがないとなると、話は全く別である。
その結果は、チュニジア、エジプトの政変を見れば、一目瞭然である。
その点、「中国」も安穏とはしていられない。
いくら情報統制をしようとも、目の前の食料価格が上がっていく様は、誰の目にも明らかである。
ブタ肉の高騰などは、常軌を逸している。
中国政府は、今、経済成長のペースを鈍化させ、金利を少しづつ上げながら、異常な食料インフレ(価格高騰)を御(ぎょ)そうと必死である。
立派な空母を造るだけでは、国の安全は保てない。内側から崩壊することほど恐ろしいことはない。内部被曝が一番怖い。
さて、日本は?
スーパーの価格は、10円、20円と、地味に上昇してきている。しかし、世界的に見れば、まだまだ主婦層の愚痴で済むレベルである。
より深刻なのは、生産者サイドである。
特に、輸入飼料に頼る「畜産(肉)」関係にとっては、もはや死活問題。ここに放射能まで絡んでくるのだから、たまったものではない。
牛などは「穀物」を食べさせたほうが、より大きくなるのだが、その穀物が高すぎるので、仕方なく「草」の量を増やさざるを得ない。
輸入穀物は高いからと、日本でも家畜のエサ用に「コメ」を作ろうということで、政府がコメ農家に補助金を出すほどである。
畜産だけではない。あらゆる農家は、農薬や化学肥料など、「輸入物」に大きく依存している。
ただでさえ、利益の薄い産業にとって、その打撃は小さくない。
今まで「減・農薬」「減・化学肥料」は、志高き人々のステータスであったが、これからは、経済的な問題から取り組んでいかなければならない切実な課題となるのかもしれない。
世界の食糧高騰の波を緩和してくれているのが、現在、歴史的に高い水準にある「円」である。
輸出企業は、「円高」はダメだと叫ぶが、日本しか買い物をしない一般人にとって、「円高」はある意味ありがたい。
それは、日本の食料自給率が低く、輸入品を食する機会が大変多いためである。円高であるほど、輸入品は安くなる。
円高が緩衝材の役割を果たすとはいえ、世界の食糧価格の高騰は異常である。
日本の大手商社などでは、食料輸入から国内生産に切り替える動きも出てきている。
先に例にひいた「大豆」などを、北海道で栽培したりして、今後の食料価格高騰に備え始めている。
食料は日本で作ると「割高」だということで、今までは「輸入食品」に押されっぱなしだったわけだが、時代の流れは、ついに逆転しつつあるのかもしれない。
冷静に考えれば、日本ほど食料生産に適した国も珍しい。
何より「水」が豊富である。アメリカの多くの農地は、機械で水を撒かないと何も作れないが、日本の農地の多くは、「雨」や「川の水」だけでも十分に生産が可能である。
アメリカ、オーストラリア、ロシアなどは、よく「大干魃」で大打撃を受けているが、日本の凶作はそれほどに深刻ではない。
日本の農業が下火になってきたのは、工業偏重・経済偏重の結果であろう。
農家をやっているよりも、一介のサラリーマンになったほうが賢かったのである。
しかし、この経済偏重の思考は、食料価格高騰により、逆の流れとなって農家を後押しする可能性が出てきた。
食料が「お金を出しても買えない時代」になるのかもしれない。
去年、ロシアやウクライナは、小麦の凶作により、輸出を停止した。そして、その余波は、中東・北アフリカを襲い、歴史的な政変へとつながった。
日本の大震災においても、「お金さえあれば、何でも買える」という常識が覆(くつがえ)った。
どんなに現金があっても、パン一つが手に入らなかった。どんなに現金があっても、ガソリン10Lが手に入らなかった。
去年、世界は「通貨安戦争」という奇妙な競争を始めた。
各国が、「負けよう負けよう」とする戦争である。20世紀の「勝とう勝とう」とする戦争から、「負けるが勝ち」へと価値観が180°変わってしまった。
それほどに、各国の「貨幣の価値」が落ちてしまったのである。その煽りは「金」を史上最高値への水準へと持ち上げ、いまだ天井知らずである。
そもそも「貨幣」とは、人間が作り出したものゆえに、その信用とは「人間(国家)」への信用の証である。
その「人間への信用」が揺らぎ、貸した金が返ってこなくなるのではないかという疑念が、世界中で起こった。
その顕著な例が、ギリシャを筆頭とする「ヨーロッパ金融危機」である。
人間に対する疑念は、世界最大の経済国・アメリカへの信用をも怪しいものにしており、アメリカの借金問題は、揉めにもめている。
もし、政治的な妥結が図れなければ、来月にも、新たな歴史が刻まれることとなるかもしれない。
食料、マネー、信用。
前世紀の常識は、すっかり覆(くつがえ)ってしまったようにも思える。
世界は、今、ダイナミックに変動している。
生物は、「強い」から生き残るのではない。「変化に適応できる」から生き残るのである。
常識や思い込みは、最大の敵である。
自分の目で見て、自分の耳で聞くことでしか、正しい判断はできない。
国の政策を批判しているヒマがあったら、自分の手で「種」をまいたほうが、よっぽど手っ取り早い。
出典:クローズアップ現代
「迫る“食料高騰”時代」
2011年06月11日
「名古屋コーチン」の栄光。現代農業の抱える問題を克服した好例。
最高級ニワトリ、「名古屋コーチン」。
このニワトリは、明治維新後の「サムライ養鶏」の産物である。
江戸時代の終焉とともに、「武士」という身分がなくなった。
その結果、元・武士たちは大量失業。新たな職を必要とした。
そんな折、尾張藩(名古屋)のサムライであった「海部兄弟」は、「養鶏」を始めたのである。
明治以前、日本での「養鶏」はマレ。
ニワトリと言えば、「闘鶏(シャモ)」や「ペット(チャボ)」であった。
卵や肉の販売を目的とした「養鶏」は、明治以降に発展した産業である。
サムライ養鶏の走りであった「海部兄弟」は、試行錯誤の連続。
ときには、「コレラ」により、大切なニワトリを全滅させたことも。
幾多の交配を繰り返しながら、苦心の末に、ついに「名古屋コーチン」が誕生。
「名古屋コーチン」は、中国の「バフコーチン(九斤)」と「地鶏」との交配から生まれたという。
この傑作は、またたく間に世に広がり、明治・大正とかけて「ニワトリの代名詞」的存在となっていった。

ところが、第二次世界大戦後、転機が訪れる。
外国産のニワトリが、日本の国内市場を席巻。
今や鶏肉市場の86%を占めるまでになった「ブロイラー」の襲来である。
ちなみに、日本にブロイラーを持ち込んだのは、大阪「くいだおれ」の創業者・山田六郎氏である。
デカくて、卵をたくさん生む外来のニワトリに、「名古屋コーチン」は押しに押され、あわや駆逐されんまでに追い詰められた。
土俵際の「名古屋コーチン」。しかし、ここからの「ネバリ腰」が凄かった。
大量生産・大量消費にヒタ走った「養鶏」の中にあって、「名古屋コーチン」は、その真逆の道を選んだ。
少量生産・高品質である。
「種の保存(繁殖)」を一元的に徹底管理して、「名古屋コーチン」の純血を保つ。
一般農家の繁殖は認められていない。必ず純血のヒナを購入する必要があり、そのヒナを「交配」しないことを明記した「誓約書」にサインまでさせられる。
その甲斐あって、現在の「名古屋コーチン」は、最高級品の栄冠を戴いている。
生産量は、鶏肉市場のわずか0.1%(100万羽)と少数ながらも、その地位は確固たるものである。
大量生産・大量消費の道を歩んだ「ブロイラー」は、生産効率を優先させたがあまり、その飼育環境は「物議を醸す」。
エサが少量で済むように、ニワトリをギュウギュウに押し詰め、身動きがとれないようにする。あまり動き回られると、腹が減ってエサを余計に食ってしまうのだ。
その結果、ブロイラーの30%は、自分で体を支えて立つことができずに、歩行困難となっている。
密集環境では、お互いが「クチバシ」で突っつき、ケガをしたりする。そこで「クチバシ」を切断してしまう(日本ではマレ)。
また、早く出荷するために、24時間、電気で光を当て続ける。世界動物保健機関は、ニワトリが休めるよう、「暗がり」も必要だと訴える。
ブロイラーは、もはや「生きた工業製品」と化しているのである。
かたや、「名古屋コーチン」は、ブロイラーの2倍のエサを食う。動き回るので腹が減るのだ。その分、筋肉が発達し、良い肉になる。
飼育期間も120日以上。これはブロイラーの3倍近く長い期間である。
120日という飼育期間は、自然界のニワトリの平均的な期間である。ブロイラーは出荷サイクルを早めるために、急激に成長させられているのである。

ブロイラーは、経済性を徹底して追求した結果の産物であり、名古屋コーチンは、ニワトリの本来の力を追求した結果の産物である。
農業を商業的に行うジレンマが、ここに示されている。
動植物の本来の力を無視した「拡大路線」は、見えない危険をはらみ続ける。
旧来の農家は、その危険を肌で感じている。しかし、それが解っていても、規模を拡大しなければ経営が成り立たない。
営利のためには、農業が工業化せざるを得ないのである。

消費者たちは、知らず知らずのうちに、彼らが「望んでいない未来」を選択しているのかもしれない。
日本の農業を健全に保つのは、生産者だけではなく、消費者の責任も厳然としてある。
表面的な価格の安さには「然るべき理由」がある。高価格には「然るべき価値」がある。
ここにも先のジレンマは登場する。それが解っていても、安いものを買ってしまうのだ。
農業においては、生産者、消費者ともに、同じジレンマに直面している。
そのジレンマの根っこにあるのは、経済第一義の思想である。
名古屋コーチンは、このお互いのジレンマを抜け出した、稀有の例であり、今後の指針を示す「希望」でもある。
飛べないニワトリの見事なる飛翔である。
出典:いのちドラマチック
「名古屋コーチン よみがえったブランド鶏」
このニワトリは、明治維新後の「サムライ養鶏」の産物である。
江戸時代の終焉とともに、「武士」という身分がなくなった。
その結果、元・武士たちは大量失業。新たな職を必要とした。
そんな折、尾張藩(名古屋)のサムライであった「海部兄弟」は、「養鶏」を始めたのである。
明治以前、日本での「養鶏」はマレ。
ニワトリと言えば、「闘鶏(シャモ)」や「ペット(チャボ)」であった。
卵や肉の販売を目的とした「養鶏」は、明治以降に発展した産業である。
サムライ養鶏の走りであった「海部兄弟」は、試行錯誤の連続。
ときには、「コレラ」により、大切なニワトリを全滅させたことも。
幾多の交配を繰り返しながら、苦心の末に、ついに「名古屋コーチン」が誕生。
「名古屋コーチン」は、中国の「バフコーチン(九斤)」と「地鶏」との交配から生まれたという。
この傑作は、またたく間に世に広がり、明治・大正とかけて「ニワトリの代名詞」的存在となっていった。
ところが、第二次世界大戦後、転機が訪れる。
外国産のニワトリが、日本の国内市場を席巻。
今や鶏肉市場の86%を占めるまでになった「ブロイラー」の襲来である。
ちなみに、日本にブロイラーを持ち込んだのは、大阪「くいだおれ」の創業者・山田六郎氏である。
デカくて、卵をたくさん生む外来のニワトリに、「名古屋コーチン」は押しに押され、あわや駆逐されんまでに追い詰められた。
土俵際の「名古屋コーチン」。しかし、ここからの「ネバリ腰」が凄かった。
大量生産・大量消費にヒタ走った「養鶏」の中にあって、「名古屋コーチン」は、その真逆の道を選んだ。
少量生産・高品質である。
「種の保存(繁殖)」を一元的に徹底管理して、「名古屋コーチン」の純血を保つ。
一般農家の繁殖は認められていない。必ず純血のヒナを購入する必要があり、そのヒナを「交配」しないことを明記した「誓約書」にサインまでさせられる。
その甲斐あって、現在の「名古屋コーチン」は、最高級品の栄冠を戴いている。
生産量は、鶏肉市場のわずか0.1%(100万羽)と少数ながらも、その地位は確固たるものである。
大量生産・大量消費の道を歩んだ「ブロイラー」は、生産効率を優先させたがあまり、その飼育環境は「物議を醸す」。
エサが少量で済むように、ニワトリをギュウギュウに押し詰め、身動きがとれないようにする。あまり動き回られると、腹が減ってエサを余計に食ってしまうのだ。
その結果、ブロイラーの30%は、自分で体を支えて立つことができずに、歩行困難となっている。
密集環境では、お互いが「クチバシ」で突っつき、ケガをしたりする。そこで「クチバシ」を切断してしまう(日本ではマレ)。
また、早く出荷するために、24時間、電気で光を当て続ける。世界動物保健機関は、ニワトリが休めるよう、「暗がり」も必要だと訴える。
ブロイラーは、もはや「生きた工業製品」と化しているのである。
かたや、「名古屋コーチン」は、ブロイラーの2倍のエサを食う。動き回るので腹が減るのだ。その分、筋肉が発達し、良い肉になる。
飼育期間も120日以上。これはブロイラーの3倍近く長い期間である。
120日という飼育期間は、自然界のニワトリの平均的な期間である。ブロイラーは出荷サイクルを早めるために、急激に成長させられているのである。
ブロイラーは、経済性を徹底して追求した結果の産物であり、名古屋コーチンは、ニワトリの本来の力を追求した結果の産物である。
農業を商業的に行うジレンマが、ここに示されている。
動植物の本来の力を無視した「拡大路線」は、見えない危険をはらみ続ける。
旧来の農家は、その危険を肌で感じている。しかし、それが解っていても、規模を拡大しなければ経営が成り立たない。
営利のためには、農業が工業化せざるを得ないのである。
消費者たちは、知らず知らずのうちに、彼らが「望んでいない未来」を選択しているのかもしれない。
日本の農業を健全に保つのは、生産者だけではなく、消費者の責任も厳然としてある。
表面的な価格の安さには「然るべき理由」がある。高価格には「然るべき価値」がある。
ここにも先のジレンマは登場する。それが解っていても、安いものを買ってしまうのだ。
農業においては、生産者、消費者ともに、同じジレンマに直面している。
そのジレンマの根っこにあるのは、経済第一義の思想である。
名古屋コーチンは、このお互いのジレンマを抜け出した、稀有の例であり、今後の指針を示す「希望」でもある。
飛べないニワトリの見事なる飛翔である。
出典:いのちドラマチック
「名古屋コーチン よみがえったブランド鶏」

