2011年11月28日

外国人が目を丸くする「日本のラーメン」。結局みんな好きになる。



「朝ラーメン」

これはラーメンの街「喜多方(福島)」では珍しいことではない。

この街では、「田んぼに出前」までしてくれる店もあるのだとか。



喜多方という街は、じつに小さな街である(人口5万人)。

ラーメン好きならば、その名を知らぬ者はないほどに知名度が高い街ではあるが、実際に訪れてみると、その名前の大きさとのギャップに驚く。



しかし、ラーメン店だけは異様に多い。

その数、120を超えるのだとか(一人当たりのラーメン店数、日本一)。

街は小さくとも、ラーメンへの期待には予想以上に応えてくれる。毎食毎食ラーメンを食べ続けたとしても、ゆうに一ヶ月以上は楽しめる計算だ。



ときには日本三大ラーメンの一つとも称せられる「喜多方ラーメン」。

豚骨や煮干しベースのスープに、太めの平打ち縮れ麺。具材はチャーシュー、ねぎ、メンマなど。どちらかというとアッサリした感じの伝統的なスタイルである。

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昭和初期の一台の屋台から、喜多方のラーメンは始まったと言われている(現・源来軒)。

そして、1980年代の「ご当地ラーメン・ブーム」の波とともに、現在のラーメンの街へと発展を遂げた。



ラーメンで名を上げる前の喜多方は、福島の北の端の小さな町に過ぎず、唯一注目されるものと言えば、2,000は現存しているという「古くからの蔵」のみであった。

「蔵」の観光というのは、じつにアッサリしすぎている。

観光客たちは、フラフラと蔵を眺め終わると、風のように去ってゆく。



どうしたら、観光客を長く引き留められるのか?

そこで、観光課の「富山昭次」氏は思い立った。

「ラーメンだ!」



ところが、周囲は大反対。

「一杯数百円のラーメンで町興しなどできるものか」

そう言ってバカにされたという。



それでも、富山氏はしぶとかった。

「るるぶ」の紹介記事に、こっそりと「ラーメンの記事」を忍ばせておいた。



「蔵の街・喜多方の蔵は、味噌・醤油を貯蔵するためのもの。

喜多方のラーメンは、その蔵で醸造された上質の醤油でつくられる。

こうして、おいしい醤油ラーメンが産まれるわけだ…。」

その結果、現在まで、喜多方のラーメン店で行列が絶えることがなくなったという次第である。



喜多方のラーメン発展の歴史は、ほとんど日本全国の歴史と軌を一にしている。

「流し」と呼ばれた屋台が日本で多く見られるようになったのは、大正から昭和にかけて。

屋台スタイルというのは、江戸時代の「夜鳴き蕎麦屋(屋台)」のラーメン版だったのだとか。



戦後、インスタント・ラーメンの発売なども相まって、日本のラーメン文化は国民食へ。

そして、1980年代には「ご当地ラーメン・ブーム」が巻き起こり、ラーメン文化は一気に花開く。



バブル崩壊とともに、日本経済が沈静化していくのを横目に、ラーメン文化ばかりは、発展に継ぐ発展。

経済学者の方々が言う「失われた10年、20年」の間、ラーメンばかりはまことに実り多き時を過ごしたのであった。



ある日本人へのアンケートによれば、100人に「ラーメンは好きか?」と訊ねれば、少なくとも90人以上が「Yes!」と答えるのだという。

これほど国民から圧倒的な支持を受ける国民食というのも、世界に例がない。

独裁とも思えるラーメン政権には、外国人たちも驚くばかりである。



しかも、その日本のラーメンは、あっという間に外国人たちをも虜(とりこ)にしてしまう。

日本観光局の調べでは、外国人の「日本に来て満足した食事ランキング」の第2位が「ラーメン」である。

堂々の第一位は「お寿司」。ラーメンは寿司に次ぐ地位を獲得し、強豪他者である「刺身」「天ぷら」を見事に押さえきっているのだ。

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外国人がラーメンを好きになる理由の一つは、ラーメンの「コッテリ感」だという。

日本の伝統的な料理は、一様に「アッサリ」している。つまり、何か物足りないところがあるのだ。

ところが、ラーメンの濃厚さは肉好きの欧米人の口をも満たしてくれるものなのである。



その外国人たちにとっての「カベ」は、ズズーっと「すすること」。

欧米はもちろん、中国・東南アジアにおいても、食のタブーは「音をたてて食べること」なのである。



しかし、このカベをブチ破れた外国人は、もうラーメンの世界から引き返せなくなってしまう。

見事にブレークスルーを果たしたあるイギリス人は力説する。

「口の隙間から空気を入れて、麺と一緒に吸い込むんだ(ズズーッ)。

すると、空気が麺の周りで回転して香りが広がり、一層美味しくなるんだよ!」

彼は仲間内から「ラーメン・マスター」の名で尊敬されているという。

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「ラーメンは食の域を超えている。もはや趣味だ。」

そう感じる外国人もいる。

ラーメンの評論家があまた存在し、専門の雑誌も人気を集め、個人レベルでもラーメンの写真をとってブログで感想を述べる。

あっちこっちと食べ歩き、日本全国へと足を伸ばす猛者も少なくはない。



本家・中国では日本ほどにラーメンが多様ではないのだとか。

インドネシアでは、ラーメンを好きだと言うと「悪い冗談」だと思われるらしい。

なぜなら、ラーメンは安っぽい料理の代表であり、それをわざわざ好きだという人はいないのだという。



外国人たちの種々の反応をうかがっていると、いかに日本のラーメン事情が、世界的に特殊であるかが分かってくる。

日本のラーメンの特徴の一つは、「何でもアリ」ということ。

最近では、つけ麺スタイルが人気を博したり、パスタとも思われるようなトマトソースのラーメンまでもある。



そのトマトソース・ラーメンを見て、イタリア人女性は眉をしかめる。

「これは、ラーメンじゃない」

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しかし、それでもラーメンなのだ。

ラーメンは「食のるつぼ」なのである。

「人種のるつぼ」として、あらゆる人種を受け入れて大きく発展したアメリカ合衆国のように、ラーメン合衆国はあらゆる食を受け入れて、稀有の発展を遂げ続けているのである。



日本人の心は「簡素さ」を好むかと思えば、ラーメンのような「多様性」をも好むようである。

何だかんだと文句を言う外国人たちも、「ラーメンを好きか?」と問えば、意外と多くの人が素直に手を挙げる。

「なんだ、結局みんな好きなんじゃないか!」

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ラーメンの生み出した宇宙は、まだまだ膨張を続けていきそうである。

新しい星が生まれ、そして消えてゆく…。

次に生まれる星(ラーメン)は、どんな星なのだろうか?




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出典:COOL JAPAN
〜発掘!かっこいいニッポン ラーメン


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2011年11月27日

神様のお米と日本人。その長い長い歴史に想う。


日本には「神様が食べるお米」がある。

そのお米を作るのは「神宮神田(三重県伊勢市)」

作業に携わる人々は皆、上下ともに真っ白い衣装に身を包んでいる。



植えられている品種は13品種と数多い(広さ3ha)。

それは、台風や冷夏などでも、確実に収穫するためである。

神様へのお米は決して実らぬことがあってはならない。



そのお米を食べるのは…、伊勢神宮におわします天照大御神。

神様のお米は、忌火屋殿(いみびやでん・神様の台所)で毎日炊かれる。「忌火(いみび)」というのは、清らかな火のことであり、タブーという意味ではない。

そもそも、「忌」という文字は、神様専用という意味であり、一般の人々が遠慮すべきところから、タブーという意味が出てきたのである。



神様のお食事は、日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)という神事である。

この神事は、1,500年もの昔から、一年365日欠かしたことがないという。



そもそもの起こりは、天照大御神が「一人で食べるのはツマらぬ」と言われたこと。

そして、一緒に食事する相手として天の橋立から呼ばれたのが、豊受大神(とようけのおおかみ)だったという。

これが雄略天皇の時代(1,500年前)との話である。



神様は一日2食。朝8時(冬9時)と夕方4時(冬3時)の2回(これは室町時代以前の古代人の慣習でもある)。

神様への神饌(みけ)の基本は「水・塩・飯」の3品。

神話の時代から続く伝承である。

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「水」は高天原(天の神々の住まう場所)から移したと伝わる井戸より。

「塩」は倭姫命(やまとひめのみこと)が「ここで作りなさい」と命じた二見(三重県伊勢市)の御塩殿(みしおでん)の堅塩(かたしお)。

そして、「飯」は冒頭でご紹介した神宮神田(じんぐうしんでん)のお米である。このお米も、塩と同様、倭姫命(やまとひめのみこと)が「ここで作りなさい」と命じたとのことである。

「飯」としてお米が選ばれたのは、天照大御神が「これを主食にしなさい」と言って、高天原で稲穂を授けたからと伝わる。



実際のところ、稲作は中国から朝鮮半島を渡って、日本へ伝えられたと言われている。

それは、数千年も昔の話であるのだが、朝鮮半島と日本列島の狭間にある「対馬」には、その痕跡が今もなお確かに息づいている。



対馬市の豆酘(つつ)地区では、今なお数千年前のお米(対馬赤米)を作り続けているのだという(赤米神田)。

そのお米を食べる時、必ず手にのせて、手で食べる。

それが、気の長くなるほど遠い昔からの作法なのだという。



収穫を祝う「お吊りまし神事」というのも伝統だ。

部屋の天井から、コメ俵を吊り下げて、収穫を感謝する。

その意味は分からずとも、この神事は数千年の時を経てなお、現在も脈々と受け継がれている。

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いずれにせよ、日本人はお米を大切にしてきた。

そして、どの稲作民族よりも巧みに稲を栽培することに成功している。



元々のお米は、決して日本の風土に適したものではなかった。

稲は暑い気候を好む植物であるから、雪の降るような地域では栽培できなくて当たり前なのである。

ところが、今の日本では、米どころといえば雪国であり、最北の大地・北海道でもコメの栽培が可能である。



しかし、さすがに北海道で栽培できるようになるまでには、日本民族も相当に苦労したようである。

それが成されるのは、明治時代以降であるのだから。



その記念碑となったコメは「赤毛」と呼ばれる米であった。

寒さの中でも良く育つ種子を選びながら、丹念に少しずつ稲を寒さに慣らしながら、「中山久蔵」氏は北海道で稲の栽培を続けた。

その見事な結果が「赤毛」である。白い米なのだが、稲の毛が赤いことから、こう呼ばれている。

偶然とはいえ、日本に初めて伝わったとされる「赤米」と「赤」でつながっていることは興味深い。

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また、水を多用する稲作により、日本人の水の扱いは目を見張るほど進化した。

たとえば、菱野の「三連水車」というのは、江戸時代の灌漑設備であるが、水の力だけを使って、川よりも高いところに水を流すことができる。

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筑後の堀川用水に水を引くために作られた「山田堰」は、水底の高さを巧みに調節したことで、水の流れる速さを自在に操るようにできている。

「土砂吐き」という流れの速い場所では、水の力で土砂が自動で掻き出されるため、決して堰が土砂で埋まることがない。



良くも悪くも、日本は水の国。

水に笑い、水に泣いてきた。

稲作を通じた水との長い付き合いにより、日本人はうまく水を味方につける術を学んできたとも言えよう。



栽培のみならず、コメは日本人の金銭感覚をも鋭く磨いた。

その結果、日本には世界最初の金融相場が発生するのである(大阪・堂島)。

米に裏打ちされた「米切手」は紙幣の替わりとなり、敷銀と呼ばれる証拠金さえ積めば、差金決済による先物取引が可能であった。これらの仕組みは、現代の基本的な金融取引のシステムと全く同じである。



昔の紙幣といえば金(ゴールド)に裏打ちされていることが常であったが、米切手の場合、金の代わりにお米との交換が保証されていた。

重たい米俵を移動することなく、紙切れ(米切手)だけで日本全国のお米を自在に操ることが可能となる実に効率的な仕組みであった。

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しかし、稲作のもたらしたものは「富」ばかりではなかった。

同時に「争い」も生んだ。



稲は、同じ場所で半年以上も栽培しなければならないため、必然的にその地を「外敵から守る」必要が生じる。

その外敵とは、野生の動物でもあったし、同じ人間でもあった。



土地を争い、水を争う。「国」の誕生の起源である。

そもそも国というのは、守り争うためにできたようなところがあり、その歴史が戦争ばかりであることは、ある意味必然なのである。



稲作の盛んとなった弥生時代の吉野ヶ里遺跡には、争いの痕跡が幾多と残る。

防御の堀や杭、首のない人骨…。

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稲作を巡る争いは、古代の日本民族たちの権力闘争でもあった。

現在、日本一の神様は、先述の天照大御神(伊勢)ということになっている。これは明治政府が、天照大御神を天皇家の先祖と決めたからである。

そして、天照大御神が日本民族の稲を授けたとも伝わるように、天照大御神は稲作の起源でもある。



それ以前の日本は?

縄文人とも呼ばれるような、その土地ごとに根付いていた人々があまたいたと考えられている。

天照大御神の伊勢神宮と並び称される「出雲大社」を起源とする民は、そうした土着の民の一つである。

神話によれば、出雲の大国主が国を譲ったということになっている。



ここには、確実に「争い」の影がある。

その争いは、土着の民族と稲作民族とによるものである。

平和に行われたとされる「国譲り」であるが、川が真っ赤になるほど血が流された可能性もある(神話では八岐大蛇の血とされているが…)。



ある地方では、「お米一粒には、7人の神様が宿る」と言われている。

その7人の神様とは、諸説あるものの、その中には必ず「大黒天」が入っている。

大黒天というのは、出雲の大国主のことでもある。つまり、国を譲った大国主は、稲作民族のお米の中に宿されたのである。



ここで面白いのが、大黒天・大国主ともに元々は「争い」の神様であったことだ。

今では福の神の一人である大黒天も、元々はインドの破壊神・シヴァの化身であり、大黒天の「黒」は、元々「暗黒」という意味である。

死者を弔う尸林(しりん)に住むという大黒天は、血肉を喰らい、争えば必ず勝つという神。三つの顔と六本の腕を持ち、忿怒の形相で睨みつけている。



大国主も様々な別名を持ち、その一つが「八千矛神」であり、要するに武力の神様である(「八」という文字は殺された八岐大蛇をも連想させる)。

神話によると、大国主は2度死んでおり(2度生き返る)、はたして最終的に出雲の統治を許されたのが、元々の大国主だったのかは異論の尽きないところである。



そんな争いの歴史も、いまでは遠い昔。

大黒天は袋に七宝(金や銀)を持った長者様のようになり、大国主はお米にも宿ると言われるように豊穣の神様となっている。



それでも、大黒天の微笑みの影には、いまだに争いの要素が潜んでいるのかもしれない。

お米は事あるごとに物議を醸し出す。

現代においても、コメを輸入すべきか否かについては、議論紛糾するところである。



食卓にのぼる一杯のご飯。

この一杯のおコメには、信じられないほどの歴史が詰まっている。

それは、米に一喜一憂してきた日本人の歴史である。



いかなる歴史の中でも、日本には稲が実り続けてきた。

稲の実る色は、果てしなく優しい。

ある人は、その色を「ときの色」と呼んだ。「とき」とは、実りの「時」を表している。

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青く猛々しかった稲が柔らかく色付く時、大黒様は満面の笑みとなる。

自然と頭(こうべ)を垂れ、「もう刈っていいよ」と教えてくれるのである。



神宮神田に実った稲は、手で刈られ、手で摘まれて神様に捧げられる。

その様に、神様のお米をつくった人々は、ホッと胸を撫で下ろす。

「今年も無事に実った…。」



日本人の歩んできた道、そして、これから歩む道。

その道端には、いつも稲が実っているのであろう。




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出典:新日本風土記
「コメの旅 イネの道」


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2011年10月11日

モルディブからもたらされた「鰹節(かつおぶし)」は、日本のカビによって見事なる昇華を遂げる。


「鰹節(かつおぶし)」と聞けば、日本の特産に間違いはないのだが、意外にも生産量の1割ほどを「輸入」に頼っているのだという。

一体、どこの国が鰹節を作っているかといえば、インドネシア・フィリピン・ベトナム・モルディブ・中国・台湾などなどのアジア諸国である。



これら他国のほとんどでは、「日本への輸出向け」に鰹節が生産されているそうで、実際の食生活に根差した「鰹節文化」を持つのは「モルディブ」だけだという。

つまり、鰹節を食する文化を持つ国は、世界で2国「日本とモルディブだけ」ということになる。

遠く海を隔てた両国の「意外な共通点」である。



歴史の記録によれば、モルディブの鰹節のほうが、日本の鰹節に先んじるという。

14世紀にモルディブを訪れた旅行家「イブン・バトゥータ」の「三大陸周遊記」に鰹節の記述が残っている。

「かつお節は羊肉のような匂いがし、かつお節とヤシを食べると、無比の強い活力を得る」

モルディブでは鰹節の製造のみならず、「輸出」もされていたようである。



モルディブでは、漁獲量の「70%」がカツオと言われており、その名も「モルディブ・フィッシュ」といい、モルディブではカツオが堂々の「国魚」なのである。

モルディブには1,000以上の島々があり、それら島々の間には多数の小魚が生息し、カツオはその小魚を目当てにモルディブ海域に集まってくるのだという。

少し意外だったのは、鰹節を燻製にするために燃やす木々を、日本から輸入していることだ。日本の「樫(かし)の木」は、火持ちがよく火力が強くてカツオの燻製には最適なのだとか。



当の日本の歴史はと言えば、現在の鰹節の技術が確立されるのは「江戸時代」とされている。

しかし、カツオを食する歴史は縄文の昔までさかのぼり(青森・八戸遺跡)、古事記(日本最古の歴史書の一つ)にも記載が見られる。古事記に登場するカツオは「神様」へのお供え物とされ、その存在は実に「尊い」ものだったという。

カツオを屋根に型どった家を見つけた「雄略天皇(419〜479)」は、「己が家を天皇の御殿に似せるとは何事か!」とたいそうなご立腹で、その家を焼き払うよう命じたのだとか。

現在の伊勢神宮においても、朝夕の神饌(しんせん)にカツオが祀られている。



「カツオ」という名称も天皇の命名なのだという。

「景行天皇(71〜130)」が東海に御幸した際、エサもつけない竿に次々とカツオが釣り上げられる様をご覧になる。

「なんと愚かで頑(かたく)なな魚か」と仰られたことから、「かたくなな魚 → かたいうお → かたうお(堅魚) → かつお(鰹)」となっていったという。



平安時代ほどになると、カツオを干したりする記述も見られるほうになり、室町時代には日本で初めて「鰹節」の記録が登場する。

最古の記録は「種子島」ということもあり、鰹節がモルディブから日本に伝来した技法である確率は高い。

戦国時代には籠城の際の保存食などともなっている。「カツオぶし」は「勝男武士(かつおぶし)」に通じるとして、武士たちに縁起を担がれたのだとも。



そして江戸時代。いよいよ鰹節が全国的なものとなる。

まず、「煙」による殺菌・防虫が一般化する(燻煙)。

それまでの鰹節は、「天日(太陽)」と「火」で乾燥させていただけだったが、江戸中期に「燻煙」の技術が確立されたことにより飛躍的に「保存性」が高まり、カツオ国(紀州・土佐・薩摩・伊豆など)から江戸・大阪への運送が可能になったのだ。

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それでも、鰹節は長期の輸送中にはカビてしまったりしたという。

そこで考えだされたのが「カビ」を逆手にとって、「カビ」に鰹節を守ってもらうことだった。

しかし、カビも良いカビばかりではない。善玉である「カツオブシ・カビ(麹カビの一種)」だけを鰹節に蔓延(はびこ)らせるには巧みな技術力が必要とされた。

この技法は当初「土佐藩」の秘伝とされたものの、時代が下るにつれ全国へと普及してゆく。

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現在でも「カビ」を用いた鰹節は「枯節(かれぶし)」「本枯節(ほんかれぶし)」として、「枯節」は数ヶ月以上、「本枯節」ともなると2年以上の歳月を要する高級品として珍重されている。

カビを用いることにより、鰹節の「脂分」まで分解され、より透き通った味わいになると同時に保存力もグンと高まる(鰹節用のカツオは脂分が少ないほうが良質である。一方、生食用は脂分が多い方が美味とされる)。

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ここまで深化した技法は世界でも日本だけであり、モルディブの技法はこの前段階である「荒節(あらぶし)」という状態である。

モルディブから伝わったとされる鰹節づくりは、日本のカビの文化によって、見事なる昇華を遂げたこととなる。



江戸の日本に鰹節が普及したのは、その良味もあろうが、「健康食品」としての人気も高かったようである。

「甘微温(やや体を温める)。毒なし気血を補ひ筋力をさかんにし、諸病に害なく大に人に益あり。」

「脾胃(胃腸)をととのえ、身を肥やす。諸病に用いて益あり(御膳本草)」

鰹節は産後の回復を助けるということで、「出産祝い」にも喜ばれたのだとか。



これらの効用は、カツオの持つ強靭な生命力に由来する。

カツオは一生涯泳ぎ続ける魚であり、最高時速は50kmに及び、生涯で地球20周分の距離(100万km)を泳ぐと言われている。

その遊泳範囲は、熱帯から寒冷帯と幅広い。生まれは熱帯海域でありながら、冷たい海水にも適応できるのは、カツオが体温を水温よりも高く保てる(プラス10°Cほど)からだという。

鰹節の効用が「身体を温める」というのも、なるほど納得のいく話である。



一生泳ぎ続けるカツオの「疲れ知らずぶり」は、「疲労回復」の効用も見込める。

沖縄の「鰹湯(かちゅーゆ)」や鹿児島の「茶節(ちゃぶし)」などは、疲労回復のために古くから食されてきた伝統食なのだという。

科学的には、鰹節に27種類の「疲労改善物質」が含まれていることが判っている。特に、数種の「抗酸化物質」は血行を促進し、疲労物質を効率的に除去してくれるのだそうだ。

疲労というのは、古い血液を循環させてリフレッシュすることで回復するものらしい。つまり、血行促進と疲労回復は不可分の関係にあることになる。

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江戸の昔の経験から生まれた知恵が、現代の日本の食の基本となっていることは、大変に有難いことである。

カツオ出汁(だし)が疲労を回復してくれると聞けば、味噌汁のありがた味も増すというもの。

日本の食は、知れば知るほどその価値が高まり続けるかのようである。



出典:こんなステキなにっぽんが
「煙たなびく かつお節の町」〜鹿児島県枕崎市〜

味の素「かつお大百科」


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2011年09月27日

食の根本は日本にあり。ありがたや「日の丸弁当」。陰陽理論で放射能にも立ち向かう。


「日の丸弁当を食べていれば、日本人は健康になれるの。」

そう言うのは、御年74歳ながらも矍鑠(かくしゃく)たる「スーパーおばあちゃん」こと「若杉友子」さんである。



かつては、「貧乏の象徴」であった日の丸弁当を食えと言うのである。

ちなみに、日の丸弁当とは「白いご飯」の真ん中に「梅干し一つ」という、さながら「日本の国旗」のような立派なお弁当のことである。



「カロリー、カロリーという人達は、すっかりアメリカに洗脳されてしまっているわね。

日本人のカロリー摂取量を上げようとしたのは、日本にアメリカの農産物を売り込みたいからじゃない。」

若林さんは常人の2倍のスピードでしゃべるそうだ。彼女の言葉は通常の2倍のスピードで読んで頂きたい。



「日本人が肉ばっかり食べていたら、身体に良いことは一つもないわ。

口に極楽、腹地獄というやつね。」

若林さんはスクワット70回を平気でこなすそうだ。



「牛乳を飲んでも背は高くならないわ。

お子さんの背を高くしたいなら『タケノコ』。タケノコは上に向かって伸びる『陰性』の強い食材。旬の季節(春)にタケノコを子供に与えると背が高くなるの。子供は強い『陽性』だから。」



食材に「陰と陽」があると考えるのは、古来より伝わる陰陽五行説を根拠としている。

「陰と陽」はどちらも一長一短であり、「両者(陰陽)のバランスをとる」ことによりはじめて両者の長所を引き出すことが可能となる。

明治期の石塚左玄によれば、「陰と陽」を科学的に説明すれば、「ナトリウムとカリウム」ということになる。



たとえば、夏は陽性であり、この季節には陽性の臓器である「肝臓」が強くなりすぎる。このバランスをとるには、陰性の「酢の物」を食することが効果的となる(陽性を抑える)。

また、「冷え」は陰性であり、このバランスをとるには陽性の食べ物が必要となる。

魚(陽性)に塩(陽性)をふって、火で焼き(陽性)、醤油(陽性)をかける。そうすれば、陰陽のバランスを保つことができる(陰性を抑える)。



ちなみに、ヒロシマの原爆で被曝した人々に「塩」を積極的にとるように勧めていた医者がいたという。

なぜなら、「放射能」は陰性で、「塩」は陽性だからである。間違っても「砂糖」を取り過ぎてはいけない。砂糖は陰性であり、放射能の影響を増長してしまうからである。

放射能技師たちが体調を崩した時、その治療法として「濃い食塩水」を飲ませるというのがあったそうである。



「玄米飯(陽性)にうんと塩(陽性)をつけて握るんだ。

塩辛い味噌汁(陽性)をつくって毎日食べさせろ。

そして、甘いモノ(陰性)は避けろ。砂糖(陰性)は絶対にいかん。」

放射能の被曝者たちにこう指導したのは、秋月辰一朗医師である(致知9月号)。

ちなみに「米や塩」でも精製されて真っ白なモノは「陰性」である(未精製であれば陽性)。精製された真っ白な砂糖は「極陰性」となる(未精製であっても陰性)。



放射能や化学薬品、食品添加物や農薬、これらは全て「極陰性」であり、「溶血・溶細胞」の作用をもつとされる。

これらに共通することは、人の手によって作られたモノであるということである。これらに対抗するには、できるだけ自然に近いモノが有効と考えられる。



日本の伝統的な食事は、季節を大切にしていることもあり、自然と陰陽のバランスがとれているものが多い。

しかし、西洋由来の食事には注意が必要である。

たとえば、「肉」を食べ過ぎれば、「甘いモノ」が欲しくなる。肉は陽性で甘いモノは陰性であるので一見バランスが良いようにも思える。

しかし、肉も甘いモノの極端に陰陽の力が強いため、陰陽のバランスはアッチへ行ってコッチへ戻るといった具合で、必要以上にバランスが崩れてしまう。



現在のスーパーでは、あらゆる食材が一年中手に入るため、食材の旬が判然としない。

季節感を無視することは、陰陽を無視することにつながり、ひいては不健康を招いてしまう。

便利さがアダともなりかねない。しかも、ご丁寧に食品添加物のオマケつきである。



カロリー偏重、西洋科学偏重の食の常識に「No」を突きつけるスーパーおばあちゃん。

若林さんは縄跳びも100回連続で出来るそうである。

彼女はハツラツと料理教室で指導を続けている。




関連記事:
外国人が目を丸くする「日本のラーメン」。結局みんな好きになる。

なぜ「マツタケ」は消えたのか? 本当に失われたのは自然との「絶妙な距離感」。

「菓子パン」の何と有り難かったことか。少年の運命を変えた「人の善意」。



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2011年09月19日

今年のサンマは光っている。三陸漁師たちの嬉しい復活。

東北を襲った大津波は、サンマ漁に出るはずだった漁船の「90%」を再起不能にしてしまった。

「今年はもうダメか……。」

誰もがそう思っていたという。

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ところがっ、諦めかけていた漁師のほとんどが海に戻ってきたのだという。

彼らは8月2日のサンマ漁解禁の日に、北海道の釧路港に大集結していた。

彼らの船をよく見ると、日本各地の地名が書かれている。遠くは三重県から船を調達してきた漁師もいる。

一度は失ってしまった漁船であったが、彼らは日本中走りまわって必死で調達してきたのだ。

「借金の山だよ。倒産ギリギリ。」

もう一歩も後へは退けない。

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不退転の決意のもと、漁に出る男たち。

彼らの胸にはある想いがあった。

「ご支援いただいた日本全国の方々に、なんとしても報いたい。

みんなに『光るサンマ』を食ってもらいたい。」

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神は味方した。

大漁である。

今年のサンマは、ひときわ光り輝いている。

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すべてを奪っていった海は、今ふたたび富をもたらし始めている。



出典:目撃!日本列島
「海へ ふたたび〜北海道沖 サンマ漁」


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