2011年12月23日

渡り鳥からガチョウへ。フォアグラとなった数奇な運命。食えぬ不幸に食わされる不幸。


「フォアグラ」とはフランス語であり、「脂の多い(グラ)肝臓(フォア)」という意味である。

通り名がフランス語だけあって、その生産量もフランスが「世界一(80%以上)」。美食のイメージが強いフランスらしい数字とも言える。




フォアグラは主に「ガチョウ」の肝臓のことである。

ガチョウには肝臓に脂肪を貯め込む性質があるのだという。

なぜなら、ガチョウの祖先は「渡り鳥(雁)」であり、長距離の飛行に耐えるために、エネルギーを蓄積しておく必要があったためである。



彼らの不運は、渡った先の人間に見初められたことに始まった。

脂肪を蓄積した「肝臓」の美味いこと、旨いこと…。

牛肉の脂などの溶ける温度は38℃ほどであるのに対して、フォアグラの脂はその半分近い21℃ほどで溶ける。つまり、口の中でやすやすとトロけるのである。

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「もっとフォアグラが食べたい!」。火のついた人間の欲望は、もう止まらない。

フォアグラをできるだけ大きくしようと、これでもかとエサを与えた。しかし、なかなか肝臓は大きくならない。なぜなら、彼らの主食は繊維質な「牧草」であり、消化に時間がかかるわりに、得られるエネルギーが小さかったのだ。



ガチョウの肝臓が急激に「肥大化」するのは、栄養価が高くて消化のよい「トウモロコシ」が広大なアメリカ大陸からもたらされて以降である。

それでも、動物には「満腹中枢」というものがあるので、ガチョウたちも必要以上にはエサを食べない。



そこで一計が案じられた。

悪名高き「強制肥満化(ガバージュ)」である。

ガチョウの口に管を突っ込み、胃袋にエサが入るだけ詰め込むのである。一日3回、一ヶ月ほど続けられる。

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この作戦は見事に奏功し、ガチョウの肝臓の大きさは通常の10倍以上となり、その脂肪率は50%を超えた。

人間の場合、肝臓に脂肪が貯まると「病気(脂肪肝)」と診断される(食べ過ぎ・飲み過ぎ)。そして、その脂肪率は「5%以上(正常値は3〜5%)」。

この数値と比べれば、フォアグラの脂肪率の異常さが浮き彫りになるであろう(10倍)。



強制的に肥満化させられたガチョウたちは、もはや実験動物のようである。

通常飼育と比べると、その死亡率は10倍にも20倍にもなるという。正常な肝臓機能がすっかり損なわれ、肝臓で処理すべき「毒素」が全身に回ってしまうためでもある。



もはや、飛ぶことも歩くこともままならない。時には息をすることさえ困難になる。

それでも、その病的な肝臓は「世界三大珍味」の一つとして、世界中で愛されているのである。



当然、動物愛護団体は猛烈に抗議する。

「動物虐待だ!フォアグラを食うな!」



美食家たちの旗色は、極めて悪い。

ヨーロッパ各国では、ガバージュ(強制給餌)が軒並み禁止・違法とされ、来年(2012)からはアメリカ(カリフォルニア州)でも禁止される。

機内食でも扱わない航空会社も増えており、フォアグラを扱わないスーパーやホテルなども増えている。



その渦中の中心にある「フランス」は、周辺諸国がフォアグラの生産を次々と断念していくために、着々と市場シェアを固めつつある(シェア80%以上)。

フランスではフォアグラを「文化の遺産」と称し、積極的に保護する姿勢を見せており、ガバージュ(強制給餌)に関しても「止むを得ない」との見解を示している。



このフランスの態度は、「原発」に対する姿勢とも軌を一にしている。

周辺諸国(ドイツ・イタリア・スイス)が原発の放棄を宣言する中、原発大国のフランスは一貫して原発の支持を表明している。



ところで、肝臓の肥大化に関しては、日本で面白い研究が行われている(農研機構畜産草地研究所)。

今まではエサをやりまくって太らせていた肝臓だが、ここでは逆にエサを「制限」することにより、肝臓を肥大化させることに成功している。



具体的には、エサの中の「タンパク質」を極端に減らす。

タンパク質が足りないと、動物の身体は大きく成長できない。すると、炭水化物や脂肪などの栄養素が「余ってしまう」。

そして、その余った栄養素が「肝臓」に貯め込まれる。少量のエサとはいえ、タンパク質の量が少ないと、必然的に肝臓に脂肪がついていくというのだ。

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この現象は、低タンパク食による「ダイエット」でも見られるものである。

摂取するタンパク質の量が少ないと、体重が減っていくにも関わらず、肝臓には脂肪が蓄積され「脂肪肝」という病気になってしまうのである。痩せていくのに、肝臓だけには脂肪が貯まるという不思議な現象である。

この現象は、飢餓を生き抜くための動物の知恵とも言われている。



果たして、エサの量を減らしても、通常よりも肝臓に脂肪がつく方法が示された。

まさに「逆転」の発想である。



フォアグラの歴史は3,000年以上にもなるというが、強制的にエサを突っ込まれるようになったのは17世紀以降、ここ300〜400年であるという。

この間に、ガチョウたちは大きな変化を体験することとなった。美食という人間の欲望のために…。

ガチョウたちは大空を忘れ、飛ぶことも忘れた。

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現在、中国ではガチョウの飼育が盛んになりつつあり、「金のタマゴ」だとも言われている。

グリム童話に登場する「黄金のガチョウ」は、ある男に類マレな幸運を提供することとなるが、肝臓の肥えたガチョウは、まさに現代における黄金のガチョウであろう。

本来は「粗食にもよく耐える」と言われるガチョウであるが、よりによって「大食」を強いられるとは奇妙な話である。



食えぬ不幸に、食わされる不幸。

不幸と不幸の間の幸福は、ガチョウにとっては遠い遠いもののようである。

ガチョウが腹を空かすのは、いつの日か…。





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2011年12月18日

それでもフグを食い続けてきた日本人。猛毒の隣りにある美味。


「その花は、冬に咲く。

ひとひら、ひとひら、口福(幸福)になり、虜になる。魔性の花」

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美しい花のように盛り付けられる「フグ」。

「フグは食いたし、命は惜しし」

魔性の花は「毒」をも秘める。



姥山貝塚(縄文時代)には、日本最古と思われる「フグ中毒死」の痕跡が残る。

家族仲良く、5人が「フグの骨」を囲んだままに死んでいる。

現在においても、毎年40〜50人ほどがフグの毒に当たり、その内の2〜3人は死んでしまう。たいていは、自分で釣ったフグを自分で調理して食べた結果である。

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フグの毒(テトロドトキシン)というのは、想像以上の「猛毒」である。

食べた際の「致死量」はわずか1〜2mg。猛毒「青酸カリ」の850倍の毒性という恐ろしさである。



「当たれば死ぬ」

そういう意味を込めて、大阪ではフグを「鉄砲(てっぽう)」と呼ぶ。「てっさ(”てっ”ぽうの”さ”しみ)」「てっちり(”てっ”ぽうの”ちり”鍋)」などなど。

全国で水揚げされるフグのなんと約6割が「大阪」で食べられているのだという(京阪神で7割)。現在では当たる人は少なくなったとはいえ、過去の歴史では「鉄砲」と呼ばれるほどに当たった人々も多くいたのかもしれない。



一方、「下関」ではフグのことを「ふく(福)」と呼ぶ。

国内で水揚げされるフグの半分は、「下関」に集まるのである。フグは「不遇(ふぐう)」ではなく、「ふく(福)」を同地にもたらしているのである。



ところで、なぜフグと言えば「下関(山口県)」なのか?

それは、明治時代に「山口県のみ」でフグ食が「解禁」されたからである。



こんなエピソードが同県に残っている。

明治政府の初代首相となった「伊藤博文」。退任した後に訪れた「料亭・春帆楼」で、その魚(フグ)は彼の前に出された。

明治政府が禁止していたその魚。それでも、シケで他の魚が獲れなかったからと、女将は平に容赦を請いながら、恐る恐る伊藤博文の前に差し出した。



フグをパクリと食べた伊藤博文。

そして一言、「こんな旨い魚を禁じる法はない」。

ここにめでたく山口県のみでフグが「解禁」されたのだという(以後、全国で解禁)。ここで注意すべきは、伊藤博文が同地の出身だということである。



ところで、なぜ日本ではフグ食が禁じられていたのか?

その歴史は、豊臣秀吉にまで遡る(16世紀)。

朝鮮半島への出兵のために「肥前名護屋城(佐賀県)」に兵を駐屯させていた豊臣秀吉。その兵士たちの間で、フグによる中毒死が相次ぐ。調理法を知らない他国の兵士が無造作にフグを食らった結果だった。

「大事な出兵の前に、何たる不始末! フグを食うことはまかりならんっ(怒)!」

太閤殿下(豊臣秀吉)の逆鱗に触れたフグは御法度となってしまった。



以後、時代が江戸に変わっても、「主家に捧げるべき命を、食い意地で落とすわけにはまいらぬ」としてフグは遠ざけられた。

実際、フグを食って死んだ当主が、家名断絶の憂き目にあった話もあるのだとか。



しかし、それでも江戸の人々はフグを食べていた。

「松尾芭蕉」は恐る恐るフグを食した翌日の朝に、こんな句を詠んでいる。

「あら何ともなや、昨日は過ぎて、フグ閉じる(河豚汁)」



フグの毒というのは、意外なことにフグが作り出しているわけではない。

フグが食べる「エサ(貝やヒトデ)」に含まれている毒が、フグの体内に蓄積するのだという。当然、フグがその毒を食らっても死ぬことはない(それでも致死量はある)。

その証拠に、毒のない人工のエサで養殖されたフグには「毒がない」。毒がないので、珍味の「フグの肝」までそのまま生食できる。

しかし、不思議なことに、無毒のフグの泳ぐ生簀に、毒のあるフグを放すと、無毒のフグも毒気を帯びてくるのだという。



フグの毒に関しては、未解明な部分も多い。

美川(石川県)には、猛毒である「フグの卵巣」を「無毒化」する方法が伝わっている(フグの子ぬか漬)。




卵巣を塩水につけ(1年)、その後「ぬか漬け」にする(2年)。すると、あら不思議。「なぜか」すっかり毒気が抜けている。

微生物たちの発酵の力で毒が抜けるのか? 科学的な証明は未だ成されていない。

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なぜ、そこまでしてフグを食べるのか?

無毒のフグを作ってまで肝を食い、3年かけて毒を抜いて卵巣まで食らう。ヒレも捨てずに、酒にする。骨の回りの肉まで惜しみ、鍋で食する。

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縄文の昔から、毒で死ぬ犠牲者を幾多と出しながらも、日本人は4,000年以上もフグを食ってきた。公(おおや)けに禁止されても食ってきた。

世界中を見渡しても、この毒魚をここまで愛した民族は見当たらない(エジプト人はフグを食うともいうが)。

毒に当たって死ぬかもしれないというスリル感が、日本人のフグ熱をここまで刺激したのであろうか?

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フグ毒の正体(テトロドトキシン)を科学的に突き止めたのも日本人(田原良純)である(1909)。

しかし、その「解毒剤」は未だなく、当たれば24時間以内に死亡する。

島原(長崎県)では、「棺桶(かんおけ)」を置いてでもフグを食うと言われたことから、フグのことを「かんば(棺桶の方言)」と呼ぶのだそうだ。



ひとたび当たれば、有効な対処法は今でもほとんどない。

昔は、頭だけ出して全身を地面に埋めたというが、それは迷信である。ネコが食べても平気だというのも、同じく俗信であるという。

フグ毒の致死率は5.7%。この値は他の食中毒よりも圧倒的に高い数字なのだという。



それでも、日本人はフグを食い続けた。

死屍を築きながらも、今ではフグ毒をさばく卓越した処理方法が確立している。

念のために繰り返すが、現在、フグで死ぬのは、たいてい素人が扱った場合である。





出典:新日本風土記 「ふぐ」

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2011年12月16日

イスラムの秘薬だった「コーヒー」。その伝播の歴史とともに。


興奮して飛び跳ねる「ヤギ」。

山の木に実る「赤い実」を食べたのが原因だった。

その赤い実とは、現在の「コーヒー」。




ヤギ飼い少年のカルディが修道院に相談するために、その赤い実を持ち込んだのが、「コーヒーの起源」の一つとされている(エチオピア)。

それ以来、コーヒーはイスラム教の「秘薬」として、修道者などに飲まれるようになる(エチオピア → イエメン)。

「♫昔 アラブの偉いお坊さんが…♫」と歌われたように(コーヒー・ルンバ)、コーヒーはアラブの国の宗教者の飲むものだったのである。



6世紀頃にイエメン(アラビア半島)に伝わったとされるコーヒーだが、当時は葉っぱやコーヒー豆を煮出して飲まれていたようである。

しかも、宗教的な秘薬とされていたため、一般庶民に開放されることは決してなかった。それゆえ、他国へ持ち出すことなども「もってのほか」。

万が一にも国外へ流出しないように、コーヒーの豆を火で焙(あぶ)って、種から芽が出ないようにした(芽止め)。



すると、あら不思議。

焙ったコーヒー豆からは、なんとも芳(かぐわ)しい香りが…。

コーヒー豆は煎ることにより香気成分が3倍以上に増えるのだ(200 → 700)。

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ところが、この魅惑的な香りは逆にイスラム教では問題視された。

ご存知の通り、イスラム教では「アルコール」が禁止されている。そして、コーヒーもアルコールに「準ずる」ものと考えられたのである。

つまり、コーヒーは「悪しきビドア(異端)」とみなされたのだ。

イスラム教の聖地メッカでは、「大衆を堕落させる毒」としてコーヒーの飲料を禁じ、焼き捨てを命じた事件も起きている。



イスラム世界で正式にコーヒーが認められたのは15世紀(1454)。

一般民衆にコーヒーの飲用を認めるファトワー(法判断)が出された。これ以降、イスラム限定だったコーヒーは、世界へと羽ばたくことになる。



アラビア世界から北進したコーヒーは、トルコ(オスマントルコ)の地で最初のブレークを果たす。

トルコでは現在のように「嗜好品」として楽しまれたという。首都イスタンブールには「コーヒー・ハウス(カフヴェハーネ)」が開かれ、現在のカフェのような「サード・プレイス(都市生活者の第3の居場所)」として機能していたのだとか。



そして、当然のようにヨーロッパへと伝わっていく。

ところが、ここで問題が生じた。

当時のコーヒーは、依然イスラムの宗教色が色濃いイメージがあったため、キリスト教世界は、すんなりと異教の飲料を受け入れることが出来なかった。



そこで、時の教皇(クレメンス8世)は「コーヒー洗礼」という儀式を執り行う(1605)。

コーヒーにキリスト教の洗礼を施すことにより、キリスト教徒でもコーヒーを飲めるようにしたのである。

こうして、コーヒーはめでたくもイスラム・キリスト2大宗教から「お墨付き」を得ることとなった。



日本にコーヒーが伝わるのは「江戸時代」。長崎の出島から「オランダ人」が持ち込んだと言われている。

当時の長崎奉行所の大田南畝は、こう記している。「紅毛船にてカウヒイというものを…、焦げ臭くて味ふるに堪えず」

当時の日本では、コーヒーはお茶というより、「薬」として認識されていたようである。




現在、コーヒーは「石油の次に貿易規模が大きい一次産品」とまでなっている。

しかし、その生産地域は限定的で、赤道を中心に北回帰線と南回帰線の間でしか栽培することができない(コーヒー・ベルト)。

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コーヒーには多種多様な味やブランドがあるが、植物としての「コーヒーの木」のほとんどは「アラビカ種」である(7〜8割)。

このアラビカ種は、ヤギ飼い少年カルディの伝説にも語られるエチオピア原産である。コーヒーの品種に関しては、「原種に近いほどウマイ」という定説があるらしい。




飲料としてのコーヒーが多種多様なのは、同じアラビカ種の木でも、「栽培地によって」味と香りが別物になってしまうからである。

たとえば、「標高」が高いほどに「脂質や糖質」が多くなり、糖度が高いほどにフルーティーになる。



現在、最高級の品質と謳われるのは「ブルーマウンテン」であるが、それに次ぐとされるのが「コナ・コーヒー」である。

コナは「ハワイ島」のコーヒー。同地の曇りがちな気候が、奇しくも高い品質を生んだのだ。




ハワイへコーヒーが伝わるのも、不思議な縁の末である。

イギリスを訪れていたハワイ国王(カメハメハ2世)は、ロンドンにて亡くなってしまう(1825)。

その亡骸をハワイに運ぶ途中に寄港したのがブラジル(リオ・デジャ・ネイロ)で、コーヒーの苗木はその時に手に入れられたものだという。



1890年代、ハワイ島に「コーヒー投機ブーム」が巻き起こり、一気に栽培面積が拡大。しかし、ほどなく暴落。ハワイのコナ・コーヒーは一時壊滅した。

再びハワイのコーヒーが立ち上がるのは、日本人移民の活躍によるところが大きいのだとか。



現在でも、多くの日本人移民たちがハワイのコーヒー栽培に携わっている。

オアフ島にあるハワイ農業研究センターで働く「長井千文」さんもその一人。彼女はモカを品種改良して、新しい品種を作り出した。



「モカ」は味が良いのに、収量が少ない(3分の1)という泣き所があった。

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そこで、長井さんは実の大きな品種との交配を繰り返し、「モカなのに収量が多い」という矛盾したような新品種を生み出したのである。



「原種に近いほどウマイ」とされるコーヒー界にあって、長井さんはあえて新品種にこだわった。

なぜなら、ハワイという「熱帯」の気候は途上国と同じであり、「付加価値」がなければ、価格競争に敗れるのは目に見えていたからである。

この新品種が世に受け入れられるかどうかは、時の判断を待たなければならない。



現在の日本人は、平均で一年間に570杯のコーヒーを飲むのだという。

江戸時代には、「味ふるに堪えず」とされたコーヒーも、今やすっかり文化の一部となっている。



そのコーヒーが、まさかイスラム教の秘薬だったとは、もはや想像すらできない。

ヤギの最初に食べたという赤い実が、思わぬ広がりを見せたものである。

そのコーヒーの赤い果肉は、意外にも甘く美味しいのだという。





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出典:いのちドラマチック
「コーヒー 人類を操った香り」

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2011年12月15日

まさかの「三陸のカキ」。これほど早く食べられるようになるとは…。畠山重篤氏とともに。


「奇跡のカキ」

築地(東京)の人々は、三陸から届いた牡蠣(かき)をそう呼んだ。

まさか、あの大津波が襲ったその年の内に、最大の被災地から「最高の牡蠣」が届くとは…。震災直後は誰一人として予想だにできなかった嬉しい誤算である。



実際、大津波が引いたあとの三陸には、何も残されていなかった。

海に浮かんでいた漁船も養殖用の筏も、海べりにあった牡蠣の処理場も、何もかもが貪欲な海に持ち去られてしまっていた。

誰もが絶望して当然の状況であった。



しかし、その絶望の渦中にありながらも、「畠山重篤」氏は望みの綱を放してはいなかった。

「意地でも復活させようと思っています。海は壊れていないのですから。」

自身の養殖場も加工場も失い、損失額は2億円にも上ると試算しながら、当時の畠山氏の心は、辛うじて楽観的な部分を保っていた。



彼が楽観できる根拠のいくつかは、過去の「経験則」に裏打ちされたものだった。

50年以上のチリ地震津波の時、通常2年近くかけて育つカキが、わずか半年で成長したということがあった。

「津波が起きた年は、もの凄く成長がいいんですよ。」

それは、海中の泥の底に沈んでいた栄養が、津波によって海中に溶け出してくるからだともいう。



それに、畠山氏が育てていたのは海ばかりではなかった。「山」をも育んでいた。

山の栄養が海のカキを育てるという信念から、彼の貯金は山の森の中にも蓄えられていたのである。20年以上、川の上流の山々に植林を続け、カキの栄養を山々から川を通して、セッセと海へと送り込んでいた。



なぜ、畠山氏はカキを育てるために山を育てるようになったのか?

それは、若き日の苦い経験に、その端を見ることができる。



昭和42年に大量発生した「赤潮」により、大切に育てていたカキが「真っ赤に染まり」、売り物にならなくなってしまった。

牡蠣の栄養は、海に漂う植物プランクトン。牡蠣一個は、一日にドラム缶1〜2本分(200〜400リットル)もの海水を濾しとっているのだという。

その海が真っ赤に染まったため、牡蠣はその赤い海をタップリと吸い込んでしまったわけだ。高度経済成長のもたらした負の側面の一つが、この赤潮だった。

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この赤潮を前にして、多くの漁師仲間は海を去った。

家業を継いで、わずか6年。24歳の若き畠山氏も去就を迫られた。

そんな苦境の中、彼はフランスへと飛ぶ。フランスは牡蠣の本場。そこに何らかの答えがあるかもしれない。



早速、地元のフランス人漁師に質問をぶつける。

「どうして、ここでは赤潮が発生しないのですか?」

待ってましたとばかりに、フランス人漁師は答える。「我々は森を手入れしているからね。森は海のおふくろなんだ」。



急ぎ日本に戻った畠山氏の為すべきことは、もはや明白であった。

その目はもう赤潮を見ておらず、照準は「山」へと定められていた。



しかし、当時の山々のなんと荒れ果てていたことか。

かつては雑多な木々が繁茂していたはずの森は、植林された杉が伐採された後で、ハゲ山ばかりが多かった。

さらに悪いことには、巨大ダムの建設の話までが持ち上がっていた。森をその水底に沈めるというのである。

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焦る畠山氏。

このままでは、山の回復どころか、永遠に森の恵みが遮断されてしまう。

当時、「山が海を育てる」などという発想はない。しかし、人々を説得するには、それなりに科学的な証拠も必要だ。



追い詰められた畠山氏は、幸運にも「松永勝彦」教授に出会う。松永氏の学説は、畠山氏の考えを裏打ちするものであった。

とはいえ、実地の調査には金もかかる。

さらなる助け舟は、畠山氏の母がソッと差し出した封筒の中に入っていた。それは新しい船を買うために、彼女が身を切って貯めていたお金だった。

「自分のやり方を貫きなさい」と母は言ったという。その母は、今回の津波により、不幸にも帰らぬ人となった。



畠山氏は2年間、海の水を汲んでは調べるを延々と繰り返し、ついに科学的な証明をすることに成功する。

海に注ぐ「鉄分」の9割が、山からもたらされていたことを突き止めたのである。上質のカキを育てるには、この鉄分(フルボ酸鉄)が不可欠であった。

こうして、畠山氏の「海を守るために、山を守る」という信念は確立され、今まで足元ばかりしか見えていなかった人々の視線を、大自然のつながりへと向けさせることにもなった。




「牡蠣はワタ(内臓)ごと食べますから、汚れた水で育った牡蠣を食べると当たってしまうわけです。」

畠山氏の育てた山は、周辺の川を日本でも有数の清らかさにまで回復させた。

「シラスウナギを見つけた時は嬉しかったです」

シラスウナギというのはウナギの若い姿であり、清らかな水にしか住めない。畠山氏の川(大川)には、四半世紀ぶりにシラスウナギが帰ってきたのである。



「海の中にも『森』はあるんです」と畠山氏。

これは比喩ではない。海中の植物プランクトンが行う光合成の量は、単位面積あたりの熱帯雨林と同じなのだという。

そして、その植物プランクトンを食するのが牡蠣。つまり、牡蠣はその殻(炭酸カルシウム)の中に二酸化炭素を「固定化」しているのである。それは他の貝類も同様である。



もともと、地球の大気に「酸素」はなかった。

初めて酸素を生み出したのは、海中の植物プランクトンだとされている。海中で飽和した酸素は、大気中にも放出され、大気中の酸素はオゾン層を形成した。

そのオゾン層は有害な紫外線の効力を弱め、ここに来てようやく人間が住める環境が整うのである。



畠山氏の育んだ舞根(もうね)の海は、「キュウリの味がする」という。

それだけ、植物プランクトンが豊富なのである。そして、それらが最高の牡蠣を育てるのである。

そんな畠山氏のことを「海の仙人」と呼ぶ人もいる。中には「魔法使い」と呼ぶ人も…。



しかし、その仙人も大津波のあとの無理がたたり、体調を崩し、大好きな海に出ることすらままらなくなった。

今回の「奇跡のカキ」の立役者は、じつは彼の息子「畠山哲」氏である。



一時は出稼ぎも考えたという哲氏。しかし、6月にカキの「稚貝」が石巻に打ち上げられたと知って、海に希望をつないだ。

すべてが津波に持ち去られてしまったかと思ったら、海はご丁寧にも稚貝の一部を返して寄こしたのである。奇跡のカキを生む「奇跡の種」は、不思議な偶然によりもたらされた。



しかし、津波直後の海では、「ビックリするぐらいに何も見かけなかった」という。

海に回復の兆しが見え始めたのは一ヶ月もしてからだった。「チョロチョロと現れたかと思ったら、一気に爆発的に増え出した」

「海は戻って来た」



ところが、牡蠣も津波のトラウマを抱えていたようだ。

通常、夏に数回は起こるという「放卵(産卵)」が、一回しか起こらなかったという。卵が取れなければ、来年以降の養殖ができない。

海中に放たれるカキの卵を取るには、巧みの技が求められる。ホタテの貝殻でキャッチをするのだが、ホタテの貝殻を早く海に入れすぎると、余計なものが付着してしまい、肝心の卵がくっつけなくなる。かと言って遅ければキャッチし損なう。

しかし、そこは百戦錬磨の漁師たち。見事に一回しかなかった放卵を捉えられたという。来年への希望は、確かに受け止められた。



幾多の危うい橋を渡りながらも、牡蠣は予想以上の成長を見せた。

畠山氏の言った通り、「津波が栄養を増やしてくれた」のかもしれない。



息子・哲氏が試しに採ってきたカキを見て、海岸で心配そうに待っていた畠山氏は思わず歓声を上げる。

「おーっ、上等じゃないかっ!」

そして、パクリ。

「舞根(もうね)の海の味がする! これなら大丈夫だ! うまいっ!」

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大津波の直後の海を見た人は、誰しもが「今年はダメだ…」と思わざるを得なかった。

まさか、こうして牡蠣が食えるようにまでなるとは…。

海の力、そして山の力も計り知れないが、「海を信じる」漁師たちの力も尋常ではない。



山があり、川があり、海がある。

そして、そこには人がいる。

それらの繋がりが強く太いほどに、損傷した箇所の修復は素早いものとなるのかもしれない。



山、川、海、そして牡蠣。

それらをガッチリつないでいた畠山氏。

奇跡のカキがもたらされたのは、決して偶然ではない。



その種は、50年以上前に蒔かれ、幾多の試練を生き抜いてきたものである。

たとえ未曾有の大津波とはいえ、その全てを奪い去ることは出来なかった。

そして、今また、その花は見事に咲いたのだ。

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関連記事:
なぜ「マツタケ」は消えたのか? 本当に失われたのは自然との「絶妙な距離感」。

オババのいる4000年の森。山は焼くからこそ若返る。

2つの海流が育んだ、日本列島の奇跡。水の国はこうしてできた。



出典:プロフェッショナル 仕事の流儀
「それでも、海を信じている〜カキ養殖・畠山重篤」


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2011年12月10日

600年の歴史を受け継ぐインカ帝国の「塩」。マラスの村の塩田風景より。


富士山ほどの高さにある「塩田」。

インカ帝国の名残りとも言われる「マラス」の塩田である(南米ペルー)。

日本の棚田や段々畑のように、峻厳な山の斜面に巧妙に作られている。



インカ文明の遺跡といえば、「マチュピチュ」が思い起こされる。




マラスの塩田もマチュピチュの遺跡さながら、険しい山岳の中に忽然と現出する。

しかし、マラスの塩田は遺跡ではない。現在でも毎年「塩」の生産が続けられている。



一枚一枚の塩田はそれほど大きくなく、その枚数は3,200を超えるほどあるのだという。それぞれの塩田には所有者がおり、およそ400名の村人が作業に携わっているとのこと。

塩水と土とをよくコネ合わせれば、その泥はコンクリートのように硬くなる。この性質を利用して、塩田の「土手やあぜ道」は一つ一つ丁寧な手作業で構築されている。

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ところで、なぜ標高が3,000mを超えるような高地に「塩水」が湧き出ているのか?

それは、6千万年前の大陸大移動によって、かつては海であったこの地が、一気に山上へと押し上げられたからだという。

隆起した山中には、海水の塩分が固まりとして残され、それが湧き水に溶かされながら、マラスの塩田へと流れ込むのである。



驚くのは、その湧き出る塩水の「塩分濃度」である。

なんと20%を超える。海水の塩分濃度が3%程度であるのだから、マラスの塩水は海水の7倍もあることになる。



この極めて濃厚な塩水が、高山の強い日差しに晒(さら)されることによって、この地の塩は「独特な姿」へと変貌する。

とにかく、「塩の結晶が大きい」。

普通のサラサラした塩(0.4mm)の10倍も20倍もデカい(1〜10mm)。まるでアラレのようだ。



塩の結晶がケタ違いに大きいため、「食味」も全く別物となる。

普通の塩は舌の上ですぐに溶けるため、「刺すような塩味」となるのに対して、マラスの塩は、舌の上でユックリと溶けるため、なんとも「柔らかい塩味」となるのだそうだ。



マラス特有の塩味を、あるフレンチの料理人は高く評価する。

「マラスの塩は、新たな味覚への扉を開いてくれる。

この塩から生み出される独特の妙味は、他では決して味わえない」



マラスの塩田は、インカの昔、はるか600年の伝統なのだという。

この山岳の奥地は、幸いにもスペインによる征服の魔の手の少し外側にあったようだ。



塩田での作業は、インカ時代さながらであり、手で作り、手で運ぶ。

干し上がった塩を集めるのは、一枚の板切れであり、収穫した塩をいっぱいに詰めた袋(50〜60kg)は人力で倉庫まで担ぎ上げられる。

それは、急峻な山道を人間一人を背負って登り降りするようなものである。村人たちは一日に何十回となく往復を繰り返す。

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これほどの重労働に、「効率化」を望む声も当然上がる。

たとえば、塩田にビニールシートを敷いておけば、そのシートを剥がすだけで、あっという間に塩が集められる、といったような若い声である。

しかし、その声に首を縦に降る人は少ない。やはり、伝統という重みは計り知れないのだろう。



そのため、彼らの生活は「不便」に満ちている。

あらゆる作業を皆で協力し合わなければ、何事も成すことができない。

共同の水路は皆で補修し、道も橋も皆で作る。



こうした共同作業は、インカ以来の「アイニ(相互扶助)」なのだという。

山岳地帯という何事にも不便な地だからこそ、この相互扶助の精神は、今なお根強く息づいている。

「♪今日はあなたのために ♪明日は私のために♪」

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しかし、我々がより驚くのは、相互扶助による共同作業ではない。

その「利益分配」の方だ。

塩田の所有者たちは、持っている塩田の枚数がそれぞれ違う。2〜3枚しか持っていない人もいれば、数十枚も持っている人もいる。

ところが、3ヶ月に一度配分されるお金は、「皆一律」である。今回は皆100ソル(およそ3,000円)だった。



「平等を大事にしなければ、塩田を放棄する人が出てきます。

誰かが独り勝ちするのではなく、みんなで塩田を守っていかなくてはなりません」

600年も続いてきた相互扶助の精神は、我々の想像を容易に超えるものである。



彼らは決して裕福なわけではない。

近年では、貯蔵庫に塩の「在庫」が山と積み上がり、塩が売れなくて困っている。

外国による大規模経営の安い塩に大いに押されてしまっているのだ。



その苦境に、マラスに魅せられたある実業家は協力を申し出た。

マラスの塩を様々な商品に用いたりと、販売に工夫してくれたのだ。

彼はこう言う。「世界にはヒマラヤや死海などの珍しい塩はあるが、マラスのようにインカから続く長い歴史を持つ塩は他にない」。



ここに来て、村人たちが頑なに細々と守ってきた伝統が、大きく脚光を浴びたのである。

実業家は語る。「私たちは塩を売っているのではありません。

その背景にある神秘に満ちた伝統と歴史を売っているのです。」




果たして伝統はどこまで続くのだろうか?

日本にも塩田は多かったであろうが、今や…。

便利になりすぎた日本には、相互扶助という言葉も虚しく響く。



幸か不幸か、マラスの地は不便なままに残されている。

そして、時が止まったかのように、市場で物々交換が行われていたりもする。

なんとインカの皇帝(シンチロカ)の末裔までが、ちゃんといるのである。



彼らの姿形が我々日本人と似通っているだけに、その違いには余計に驚かされる。

世界の最先端を走る日本、600年の歴史の中に留まるインカの末裔たち。

インカの民と日本人は、あたかも対極に位置しているかのようである。



インカの言葉では、塩を「カチ」というのだそうだ。

「カチ、カチ、カチ」と繰り返すと…、「チカ」に聞こえてくる。



「だから、塩田は美しいんだよ。

『チカ』は女性。女性は美しいだろ」

大変な塩田作業の手休めには、こんなノン気なやり取りに皆が微笑んでいる。





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出典:地球イチバン
「地球でイチバン高い場所にある塩田」〜ペルー・マラスの塩田〜


posted by 四代目 at 06:13| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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