2016年10月26日

日本一のパン [竹内久典]



なんの取り柄もなかった。

足は遅い、頭は悪い、おまけにチビ。

あまりの劣等感に、朝おきても体が動かなかった。



完全に不登校になったのは中学2年生のときだった。

竹内さんは言う。

「なんかホント、社会からはみ出したみたいな感じがすごいありました。ほんま、きつかったっす。あーぁ、このまんま終わっていくんかな、って」



人生、早々に打ちひしがれながらも、夢中になったテレビ番組があった。さまざまな社長が自らの成功秘話を語るシリーズだった。

竹内さんは言う。

「もう絶対、金持ちになろうって考えました。社長になって大金持ちになろうって」



あこがれの大金持ちになるため、竹内さんが選んだ就職先は「パン屋」だった。

「なんでかって考えたとき、パンは毎日食べると思ったんです。成功するイコールお金持ちになれるのは、もうパン屋さんやって」

必死に修行した竹内さんは、みるみる頭角をあらわしていった。



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27歳のとき、とある洋菓子屋のシェフから声がかかる。

「これまでにない新しいパンをつくってほしい」

その依頼にこたえるために、竹内さんは毎日毎日、「いままで見たことのないパン」をつくりつづけた。そして、確信した。

「常識にとらわれない、どこにもないパン。これで一番になれる」

竹内さんは言う。

「パンだけは負けたないっす。もう、いろんなもんすべてに負けてきましたから。なにひとつ一番やっていうのはなかったっすもんね」



そして独立。

竹内久典(たけうち・ひさのり)、28歳のときだった。

その5年後、悲願の日本一を成し遂げる。

「一番になったーっ! ほんと嬉しくって。あのとき泣いたんやないですかね。めちゃくちゃ嬉しくて。ずっと一番になりたくてやってましたから。ようやく認められたって思いましたね」



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大阪の竹内さんのパン屋、『ブランジェリ・タケウチ』には連日1,000人以上が列をなすようになった。日本一のパンを食べたいと、お客は朝4時から開店を待った。

焼いても焼いてもパンが足りない。24時間体制でパンをつくっても、まだ足りない。1日の売り上げは100万円を超えた。

一等地にタワーマンションを買い、高級車に乗った。まさに、むかしテレビで見た、あの華麗なる生活が現実のものとなっていた。



だが…、なにかおかしい。

なんの満足感もない。

成功したかったはずなのに…、大金持ちになりたかったはずなのに…。いざ、それらを手にしてみても、すべてが嘘のように虚しかった。



竹内さんは言う。

「いや、ちがうねん。おまえ、なにやりたいねんって」

怒涛の来客に、身も心もボロボロになっていた。追いたてられるように、無数のパンをひたすら焼きつづけた。

「もう作品ではなかったです。つくりたいもんが作れなくなってました。なんか自分を騙しているような、嘘をついているような感じがイヤやった。『ほんまはオレ、こんなん作りたいんちゃうねん』って、『お客さんに失礼やで』って、自分にずっと言ってました」

妻の直美さんは言う。

「目つきも変わってしまってました。こわかったです。もう、くたくたでした」



理想と現実は、かくも乖離したものだった。

大金持ちになれば、すべてが解決するはずだった。しかし実際のところ、問題は増える一方だった。

なんのために働いているんだ?

家族のためか?

社会のため?



「もう、やる意味ないなぁ…」

人気絶頂の渦中に、竹内さんは店をたたんでしまった。

「なんて言ったらいいんですかね…、金儲けっていうのがすごいイヤになったっていうか」






それから3年、日本一のパン職人は鳴りを潜めた。

自分がやりたかったのは「パンづくりそのもの」だったことに、改めて気がついた。

そして、新しいパン屋『生瀬ヒュッテ』が生まれた。かつての都会の喧騒を離れた、郊外の山中に。



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夜も明けやらぬ午前3時。

竹内さんのパンづくりははじまる。

これから12時間、まったく休憩をはさまずに焼きつづける。



まずは看板商品である食パン。

「これが水の量の限界やと思います」

その生地は極度にやわらかい。通常の倍もの水が加えられている。

「水を増やしたら美味しくなったから、増やしました(笑)。そしたら機械も通らなくなって、ぜんぶ手で成形しないといけなくなって(笑)」

大量の水を含んだ生地は、もちもちした食べごたえと、ノドごしの良さを実現した。その食感のためなら、竹内さんは伝統の技法も製法もすっかり無視してしまう。ときには邪道とけなされたとしても。

「おいしかったら、なんでもええんです。製法なんて関係ないです。どんだけこだわっても、おいしくなかったら何の意味もない。手をぬいておいしいんやったら、手をぬく。時間かけておいしくなるんやったら、時間をかける」



そんな型破りな竹内さんの焼くフランスパンは、教科書に照らせば「0点」だと自ら笑う。

「バゲットとしては怒られるやつです(笑)」

なにせ、固いはずの皮が柔らかく、気泡だらけのはずの内層が詰まっている。

「100点のバゲット食べたら、パン自体はおいしいです。でも、ぜったい料理より先になくならないです、皮が気になって」

なぜ0点のバゲットをつくったかといえば、それは料理に合わせるためだった。そのために、あえて脇役に徹ししめたのだった。

「軽いし、食事にぴったりです。ぜったい料理より先に溶けてなくなります。自分だけで考えてたら、やっぱり限界があります。他の業種の人と組んだら、すごいものができるようになります」



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竹内さんの店『生瀬ヒュッテ』は、電話のみの完全予約制。

「200回かけて、やっとつながったんです」と、あるお客は言う。電話予約が月曜の朝10時から午後2時までと限られているため、その時間帯、店には予約の電話が鳴りつづける。

「1,000回電話しました」と、また別の客。パンの数には限りがあるため、予約のみしか受け付けられない。かつて大阪のド真ん中に店を構えていたときに比べると、パンを焼く数は5分の1に減っていた。



期待が大きいだけに、「ふつうに美味しい」ではお客は満足してくれない。

竹内さんは言う。

「こんな所まで電話してもらって、こんな所まで来てもらって、ふつうに美味しいかったら絶対ダメでしょ」



巨大な期待にこたえるためにも、日々の改良に余念はない。

あたらしい食パンづくりがはじまっていた。

「いままでの食パンより、あっさりしてるんです。バターの量も半分以下ですし、砂糖も半分以下で、軽い食パンです。ボリュームを出すため、ガス抜きを一回ふやしました。あと、水分を昨日より増やしました、2%」

材料にこだわるあまり、ときには原価割れもおこす。

「売れたら売れただけ損してるわ、みたいなね(笑)」



ある日、めずらしいお客が来た。

「10年前、ほんのちょっとだけお世話になった…」

すこし考え、竹内さんは思い出した。

「あ、知ってるわ」

かつて大阪で店を開いていたときの従業員だった。

「いま何してんの?」

「福岡でお店をしてます」

「そうなん。すごいな」

ニコニコと言葉を交わしてくれる竹内さんに、かつての従業員は内心おどろいていた。というのも、かつて金の亡者だった頃の竹内さんとは、まるで別人のようだったからだ。

「こんなに話してもらえるとは思っていませんでした(笑)」



人が変われば、パンも変わる。

竹内さんのパンは、おいしくなりつづける。

「たまに出来がよすぎて、これは売りたくないなっていうパンもあるんすよ(笑)」

もはや唯一無二のパン。

舌の肥えた客でさえ、舌をまく。

「話にならんくらい、うまいわ」



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竹内さんは言う。

「まだ、おいしなるんですよ、絶対」

なぜ、そう言い切れるのか?

「え? がんばるから。なるまで(笑)」













(了)






出典:NHKプロフェッショナルの流儀
「パン職人 竹内久典」



関連記事:

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アンパンマンに隠された深い哲学。「正義とは何か?悪とは?」。作者やなせたかし氏の人生とともに。

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2012年12月07日

加工食品に課された熾烈な運命。賞味期限との戦い


まだ食べられる食品を「捨てる」のは、食品業界の常識だ。

それを端的に示すのが「3分の1ルール」という商慣習。賞味期限までの日数が3分の1を過ぎてしまう前に納品しなければならない。

たとえば、あと30日後に賞味期限を迎える食品であれば、10日以内に納品する必要に迫られるのである。



では、もしその3分の1の期間を経過してしまったら?

廃棄処分、つまり捨てられることとなる。その額、年間で1,140億円相当というたいそうな量である。



また、スーパーなど小売の店頭では「3分の2ルール」というものが存在する。

たとえば、設定された賞味期限が製造から30日間であれば、3分の2にあたる20日間が経過した時点で、「値引きあるいは廃棄」されることとなる(一部は食品メーカーに返品)。この段階でロスする食品の総額はおよそ420億円。



これら「3分の1ルール」と「3分の2ルール」を合わせた食品ロスは、合計で1,600億円相当。ちなみに、事業系(製造・卸・小売)全体の食品廃棄の量は756万トンで、そのうち「まだ食べられる食品の量」は300万トン、つまり製造された加工食品のおよそ40%近くが食べずに捨てられていることになる。

これが「賞味期限が切れていない加工食品」の末路である。





ところで、賞味期限というのは、いかなる根拠で決められるものなのか?

微生物検査や官能検査など幾多の検査を経た食品は、問題の発生した日数までの70〜80%がその賞味期限と定められる。たとえば100日目で検査に異常が出た食品であれば、100日の70〜80%にあたる70〜80日間がその賞味期限に設定されることになる。

ということは、賞味期限を20〜30%経過してしまっても食べられないわけではない。ましてや、賞味期限が過ぎたからといって、即座に異常が発生するわけでもない。賞味期限はもっとずっと安全に設定されている。



ふたたび翻って「3分の1ルール」を見てみよう。

賞味期限という日数自体が安全設計されているところに、このルールが加わることで、「本来食べられるであろう期間」の23〜26%で食品は廃棄されることとなる(70〜80% × 3分の1)。

また、小売の段階で廃棄が目前と迫る「3分の2ルール」の場合でも46〜52%(70〜80% × 3分の2)、すなわち食品が「本当に食べられなくなるであろう期間」の半分程度で見切りをつけられていることとなる。



加工食品の運命とは、かくも短きものなのか…。

遅くともその寿命の半分を迎えるまで花を咲かせなければ(売れなければ)、捨てられるという宿命を背負わされている。



こうした悲運の中の唯一の救いは、廃棄される食品にも「リサイクル」という道が残されていることである。

たとえば、食品の製造段階では廃棄食品の94%もがリサイクルに回される。たとえ3分の1という厳しいルールに引っかかってしまっても、その多くが生き残りの道を与えられているのである。

ところが、このリサイクル率は川下へ行くに従って、だんだんと流れが乏しくなっていく。スーパーなどの小売業のリサイクル率は37%にまで低下し、ファミレスなどの外食産業となればそれは17%という数字にまで落ち込む。

「川下では廃棄物が分散しているため、集めることが難しいのであろう」





さて、じつは上述してきた事業系(製造・卸・小売)以上に食品を無駄にしている部門がある。

それはお察しの通り「家庭系」である。事業系756万トンの食品廃棄に対して、家庭系のそれは1,032万トン(事業系の1.37倍)。

そして、家庭の冷蔵庫から「まだ食べられる食品」が捨てられる量はおよそ200万トン、廃棄量の約20%に相当する。南極料理人も真っ青だ…。



現代は飽食の時代なのであろう。

至るところに食品は完備されている。

しかし、その至れり尽せりの過程には無駄があることもまた事実。



備えあれば憂いなし。

かといって、備えすぎては…。







関連記事:
「食べない」という奇跡。難病の森さんと甲田先生。

日本から遠ざかり続ける「食料」。それらの生産地は、果たして?

諦めの農地に実った赤いトマト。被災地に希望を与えた西辻一真



出典:農業経営者 2012年11月号(200号)
「1,600億円 賞味期限が切れていない加工食品が1年間に廃棄された金額」

posted by 四代目 at 03:43| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月23日

オジイのコーヒー豆。101年の人生


「あんたのように遊んでいて食っているというのは、大したもんだ」

そのコーヒー豆屋のオジイは、ニート(無職)の兄ちゃんを皮肉ったわけじゃない。ほんとに偉いと思ったのだ。

人間働かなくちゃ食っていけない時代に、働かなくとも食ってる奴がいる。ほんとに偉い。オジイはといえば、101歳になった今も現役で働いている。



「そのまま、一生通せよ」

そう言いながら、オジイはニートの兄ちゃんにコーヒーをタダで飲ませてやる。





ニートを偉いとは思うが、オジイは働くのが好きだ。

明治時代に生まれてからこのかた、101歳までずっと働きっぱなしだ。



当時の13人兄弟というのは、家族にとっての大きな負担だった。だから、捨てられた。

「おいしいオトト(魚)がたらふく食べられるから」と親父に言われて汽車ポッポで向かった先は、親戚の家。最初は捨てられたと思ってないから、丸二日野宿をしてでも生家へと帰ろうとした。

しかし、ようやく生家にたどり着くと、おふくろは「お腹すいただろ」と優しく声をかけてくれるが、親父は「こいつは捨てた子だ。家のガキじゃない」と露骨である。

「…そうか、オレは捨てられたのか…」。その時、小学生の頭はようやく状況を理解した。



大学を目指すため、千葉から東京へ出たときには、大いにたまげた。

当時、東京へ行くということは、「宇宙」へ行くも同じだった。

日本橋の三越デパートは巨大な石の塊だ。その入り口からは赤絨毯が敷いてある。田舎者が思わず下駄を脱ぐのも、また然り。



大学は慶応、そこから三井物産。しかし、会社勤めが肌に合わず、半年で辞めてしまう。結局、元の漁師に戻った。

「雑魚ばかり獲ってたって、お金にならねえ」

そういうことで、「クジラ」を狙うことにした。ニュージーランドへも行ったし、ノルウェーにも行った。時代は関東大震災、世界恐慌と激震が走っていた。



第二次世界大戦が勃発すると、中国、のちにインドの戦地に送られた。

インドの山岳に分け入った時、途中に少数民族の集落があった。見ると、子供たちが手で魚を獲っている。そこで、元漁師のオジイはジャングルから伐ってきた竹でカゴを編み、ワンサカと魚を獲って見せた。そして、カゴも魚も全部くれてやった。すると、集落の大人たちから大歓迎されて、なにかにとご馳走にもなった。

しかし、戦争の方はまったく思わしくなく、オジイが従軍したインパール作戦は、日本軍が喫した歴史的な敗北となった。



それでも生き抜いたオジイ。50過ぎてから、山登りを始める。

年間100日以上は山に登り、日本の山をだいたい終えた。それで今度は外国だ。アンデスやキリマンジャロ。その時アンデスで出会ったのが、コロンビア人のポーター(荷物運搬人)。彼はコーヒー豆の生産をしていた。



そんなこんなで始まったコーヒー豆の輸入販売。もう85歳になっていた。

どうやって売るのかツテもない。じゃあ、ということで、コーヒー豆をリュックにつめて、日本全国800軒以上の焙煎店を訪ね歩く。見本として1kgほどのコーヒー豆を配って歩いた。そして、そのうち10軒に1軒くらいからは注文があった。

最初は生豆だけを卸していたのだが、近所の人からは「焼いた豆が欲しい」と言われ、少し焼いてみることにもなった。





そんなオジイがニートの兄ちゃんに「大したもんだ」と感心するのは面白い。

その言葉の裏には、100年以上のオジイの人生が詰まっている。



100歳を超えても、オジイは「自転車」で得意先を回る。

「これが健康の秘訣だね」というその距離は、遠いところで往復3時間もかかる。

当然、宅配便という「便利なもの」も勧められる。それでもオジイは自転車から降りない。



「オレが自転車で持っていった豆を相手がこぼしたとする。すると、ちゃんと拾ってくれるんだ。『旦那が一生懸命、汗流して持ってきてくれた豆だ。一粒だって無駄にできない』ってね」

今の親は、子供がご飯をこぼしても「捨てておけ」と言うらしい。でも、オジイの豆ばかりはそうもいかない。



「ここなんだ。オレが言いたいのは」

モノは同じでも、そこに詰まった想いは全然違う。

オジイのコーヒー豆には、101年分の「味」が詰まっている…。







出典:致知2012年12月号
「101歳、独立自尊 安藤久蔵」

参考:コーヒー豆輸入販売「アロマフレッシュ

posted by 四代目 at 08:17| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月06日

かけたほうにも魔法がかかる「義」のラーメン。早坂雅晶


「ぼくは常々、ラーメンは『魔法の食べ物』だと思っているんです」

そう話すのは、ラーメン屋のオヤジ「早坂雅晶(はやさか・まさあき)」さん。



もともとは、ペンションか喫茶店を経営したいと思って洋食屋で修行をしていたという早坂さん。ところが、親戚のやっているラーメン屋に遊びに行った時、ラーメンの魔法をかけられてしまう。

そのオヤジは、「ラーメンは鍋、釜、ドンブリの3つさえあれば、どこでもできる」と言った。「洗い物なんてドンブリだけだぜ」。

その言葉に「心がグラっと揺れた」という早坂さん、グラっときたまま、ラーメンの道にドンドンはまり込んでいくことになる。



◎一流


ラーメンのどこに惹かれたのか、と問えば、「答えが全然見えないところ」と早坂さんは答える。

「たとえば、パスタなら、ここは一流だという店にいけば『答え』はあるんですが、ラーメンには『答えがない』。進化し続けるラーメンもあれば、ノスタルジックに戻っていくラーメンもあって、どっちも繁盛する」



それでも、「答え」を模索し続けたという早坂さん。

ある時ふと、「答え」はラーメンの中にではなく、「人」にあるのではないかと気づいた。

それは、ラーメン屋を始めてから20年も経った時のことだった。



もともと、彼は「一流」を目指していた。

彼の言う「一流」とは、「一番」とは違う。「一番は都会に出て目立てばなれるけど、必ず落ちていく。でも一流は別です」。

一流の人間は「時流や場所」に左右されることはない。なにせ、彼らは自らが「流れ」であり、自らが「場所」である。だから、どんな田舎にいても繁盛店になる。そして、もし請われれば、帝国ホテルでもビビらずに堂々とラーメンをつくることもできるのだ。



「一番なんて、つまらないぞ。一流になれ」

この言葉は、早坂さんがある超一流経営者に言われた言葉であり、その話を聞いて以来、早坂さんは仙台という都会に出るのをやめて、自分の店を繁華街から郊外に移してしまった。

「一流なら、ここに人を呼べなきゃ意味がないだろう」





◎魔


一流のラーメン屋のオヤジとして、みるみる頭角を現した早坂さん。

その大繁盛ぶりを見たある地主が、「一緒に商売をやろう」と声をかけてきた。それまでも、東京進出やフランチャイズの話はずいぶんとあったが、一流を目指していた早坂さんは、そのすべてを断っていた。

しかし、この時ばかりは「魔が差した」。のちの早坂さんが「有頂天になっていた自分のアホらしさ」を思い知らされたという大転落は、ここから始まることとなる。



場所は東北随一の歓楽街「仙台・国分町」。香港の財界人も巻き込んだ大プロジェクトとなり、オープンの時にはテレビ局もやって来た。

「これは絶対、成功間違いなしだ」と早坂さんは目論んでいた…。



ところが、商売に「絶対」はなかった。

3ヶ月を待たずして、借金が5,000万円まで膨れ上がり、それが全て早坂さんに押し付けられた。店を出すために借りていた別の費用5,000万円も合わせると、合計一億円の大借金。

「人生終わったな…」



◎隻腕


それでも、「死ぬ気でもう一度やってみよう」と早坂さんは、ふたたびラーメンで立ち上がろうとしていた。

そして、なんとか先が見えてきたその時、とんでもない事故が起きてしまう。



その朝、いつものように製麺機を動かしていた早坂さんの右腕が、機械に挟まれてしまったのだ。

そのままジリジリと機械に持っていかれる右腕。そして、上腕二頭筋のあたりから腕が千切れてしまった。

「死にかけました(笑)」



腕をもがれても、意識はしっかりしていた早坂さん。

テキパキと店のスタッフに指示して、もげた腕をクーラーボックスに詰めさせ、呼び寄せた救急車には自分で乗り込んだ。

「救急隊員の人がビックリしていました(笑)」



◎オヤジを助けろ!


「オヤジ、どうした?」

救急車で運ばれた先の病院では、昔よく店に来ていた東北大学の学生たちが、立派な医者になってズラっと並んでいた。

「なんとか、オヤジの腕を繋がなければ…!」

かつてのラーメンの恩になんとか報いんとばかりに、かつての学生たちは必死にもげた腕を縫い合わせようとしてくれた。16時間を超える格闘…、しかし結局ダメだった。



一流の右腕は失われてしまった…。

早坂さんのほかに、麺をつくれる奴も、餃子をつくれる奴も店にはいない。ただただ莫大な借金ばかりが残されている。

「オヤジが帰ってくるまで、ここ(店)は僕らが守ります!」

心あるスタッフたちは、そう言ってくれた。しかし正直、早坂さんは「たぶん持たないだろうな…」と思っていた。



◎義


ところがなんと、店はもった。

スタッフたちの心意気に打ち震えた早坂さん、「これはまだリタイヤできねぇな…」と腹を括り直す。



隻腕となった早坂さんは重度障碍者。

「自分たちのことだけを考えていたら、やめてまた別の商売でも始めたほうが合理的です。損得で考えたらそうなるんです」



しかし、ラーメンというのは「魔法の食べ物」。ラーメンは、人の人生に勝手に入り込んでくる。オヤジのラーメンは、医者になった学生、そして店のスタッフたちの人生にすっかり入り込んでいた。

「ずっと食いに行ってました」「高校の時、オヤジさんに説教されたんですよ」

そんな昔のことを言われても、早坂さんは全然覚えていない。それでも、オヤジのラーメンは彼らの心の中の一角を占め続けていたのである。



そんなラーメンを、早坂さんは「義」という言葉で表現する。

「義」は損得で考えることも、合理的に考えることも許さない。

その対極に位置するのが「欲」であり、これは合理的に損か得かを追い求める「利」が元になっている。その利がもたらすものは、「一過性の幸せでしかなく、手に入れた瞬間から、また別の新しいものを手に入れたくなる」。つまり、利を求める限り、それは無限に欲を増幅させ、結局は自らのクビを締めていくのである。



◎不思議


「売れるものをつくりたいのか? それとも、自分の生き様を表していきたいのか?」

もはや、早坂さんが損得を押し潰してでも、ラーメン屋を再開する理由は明白であった。



「義」に生きることを心に定めた早坂さん。

すると、不思議なことが起こった。仙台のテレビ局が企画した「東北らーめんランキング」で、突然「ナンバーワン」に選ばれたのである。



その朗報を、早坂さんが真っ先に知らせたいと思ったのが、腕を必死に繋いでくれようとした医者たちのいる病院。

「障碍を負ったり、腕を失ったりしても、人間はここまでしぶとく生きられるんだ、というのを見せたかったんです」と早坂さん。当然、病院では大歓迎。

「片腕がなくなっても、それで人間の営みが半分になるわけじゃない。できなくなったのは、拍手と…、あとは神社に行ってもお願いができなくなったことくらいですかね。それは神仏に頼らず、自分で何とかしろってことじゃないですか(笑)」





◎憤


2011年3月11日、東北地方は未曾有の災害に襲われた。

幸いにも、直接の被害は避けられた早坂さん。しかし、安穏と座しているわけにはいかなかった。

安否が気になっていた気仙沼のお客さんと電話で話をすると、その惨状に愕然とするしかない。避難所で水を分けてもらえず追い返されたと、その人は電話口で泣き始めた。泣く泣く、藻で緑色になったプールの水を沸かして家族と飲んでいるというのである。



「いい加減にしろよ!」と憤りを感じ、即座に大量のおにぎりと唐揚げをしょって気仙沼に駆けつける早坂さん。

「想像を絶する世界でした…。これはヤバイなと…。自分の無力さ、微力さ、一人で何をやったところで、焼け石に水を一滴垂らすにも及ばないような…、そんな悲惨な状況でした…」

それでも、何かやらなきゃしょうがない。500食分くらいの豚汁を用意して避難所に振舞った。しかし、やはり焼け石に水。個人の力には限界がある。



そこで県の防災課に走った早坂さん。支援のための便宜を要請した。

しかし悲しいかな、「一個人のラーメン屋に何ができる」と門前払い。



カッと火のついたラーメン屋のオヤジ・早坂さん。「ラーメン屋をナメんなよ!」と必死で考えた末、今度は日本ラーメン協会を頼って、全国のラーメン屋に援助を要請するFAXを流してもらった。

すると嬉しいかな、わずか一週間後には、日本中のラーメン屋が雪崩を打って被災地に集結してきた。現場まで来れないラーメン屋も、ドカドカとラーメンを送ってよこす。現金までも送ってよこす。

その流れは地元の商店街をも巻き込み、饅頭屋さんも、お味噌屋さんも、お米屋さんも「ぜひ、あんたに使って欲しい」と続々名乗りを上げてきた。





◎魔法


「義」の心を持つ、心優しき全国のラーメン屋のオヤジたち。

「ラーメンは魔法の食べ物だと思っていましたが、被災地で改めてそれを確信しました。食べると笑顔になるし、幸せな気分になる」



絶望していた被災者たちに魔法をかけたラーメン。その魔法は必死でラーメンをつくっていたオヤジたちにもかけられた。

「皆さん食べ終わると、使い終わった割り箸なんかをゴミ入れにキチンと綺麗に重ねて、お地蔵さんを拝むように手を合わせて帰って行かれるんです。その様子を見て、背筋がシャンとしましたね」



「おいしい」って喜んでもらった上に、「ありがとう」と言われる商売。

それがラーメン屋。彼らオヤジたちは損得に生きているわけではない。



損得は世界を小さくしてしまうが、ラーメンの世界はどこまでも広がり続けている。

そんな「魔法の力」を持つラーメン。

隻腕のオヤジのラーメンは、今も人の心を満たしながら、勝手にその心に居座っていることだろう…。







関連記事:
外国人が目を丸くする「日本のラーメン」。結局みんな好きになる。

300年の教え「先義後利」。うまいぞ、うまいぞ半兵衛麩屋

諦めの農地に実った赤いトマト。被災地に希望を与えた西辻一真



出典・参考:致知2012年12月号
「生きている間がチャンスゾーン 早坂雅晶(五福星代表)」

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2012年06月26日

イギリスの景気後退が生んだ「食の変化」。食品ロスが…。


イギリスの食が変わるつつあるのだとか。

以下、英国エコノミスト誌の記事「Eating and recession (食事と景気後退)」より。



◎景気後退(リセッション)による食品価格の高騰

アメリカ発のリーマンショック(2008)、ギリシャ発のユーロ危機(2009〜)などなど、ここ4〜5年の一連の金融騒動により、イギリスは正式に「景気後退入り」してしまった。

経済学者たちの言う「景気後退」とは、「2四半期連続してGDPが減少すること」、つまり、「およそ半年間、経済成長のマイナスが続くこと」である。イギリスは昨年第4四半期(10〜12月期)にマイナス0.3%、今年第1四半期(1〜3月期)にマイナス0.2%、といった具合にマイナス成長が続いているのである。



ユーロ圏でリセッション(景気後退)入りした国は、すでに8カ国(スペイン、イタリア、ポルトガル、ギリシャ…)。ユーロ圏全体では、ドイツの孤軍奮闘により辛うじてプラス成長であるものの、そのプラスは1%にも満たないほど弱々しいものである。

イギリスの財とサービスの輸出の30〜40%が「ユーロ圏」向けであるため、ユーロ圏の外側に立つはずのイギリスとて、その寒風を避けることはおおよそ不可能であった。

こうした不況のあおりを受けて、イギリスにおける食品の小売り価格は25%も急騰(2008年比)。家計に占める飲食費の割合いは、70数年ぶりに上昇に転じている。その結果、イギリス家庭の食卓も変化せざるをえなかった。



◎捨てられた健康志向


こうした不況に襲われる以前のイギリスでは、グリーン意識と健康志向の高まりにより、「野菜と果物」の消費は上昇傾向にあった。

「Five a day (一日5皿の野菜と果物)」というアメリカ発の官民一体となった健康運動や、「Weekday Veg (週5日だけのベジタリアン)」などがもてはやされていたのである。




こうした傾向は、自身の健康への配慮もさることながら、グルーバルな環境意識の高まりもその背景にあった。

グラハム・ヒル氏が言うには、「私たちは1950年代と比べて、2倍以上の肉を食べています。驚くべきことに、牛肉の生産には野菜の生産の100倍の水を必要とし、その生産で生じるCO2の量は、あらゆる交通手段(車・電車・飛行機・船舶)からの温暖化ガスよりも多いのです」

「週5日だけのベジタリアン(Weekday Veg)」となれば、「肉の摂取を70%減らす」ことになると彼は主張し、「健康のため、財布のため、動物のため、環境のため」にと訴えたのである。

グレアム・ヒル:「ウィークデイベジタリアン(週5日の菜食主義)」のすすめ



こうした健康志向、環境意識の高まりは、ヨーロッパでトップクラスの「肥満率」を誇るイギリス人の心を、少なからずも動かしていた(イギリスの肥満の増加率は70%を超え、2015年までに30歳以上のイギリス人の8割近くが肥満になるという試算もあるのだとか)。

ところが、ここに「ユーロ危機の寒風」が吹き込んできたのである。

庶民の財布は冷え冷えとなり、目には見えない温暖化ガスや、どこで殺されているかも知らない牛たちに構っている余裕はなくなった。明日の地球よりも、今日の食卓の心配をしなければならなくなったのだ。



◎失われゆく余裕


環境・健康志向とともに売り上げを伸ばしていたオーガニック食品は、一連の金融危機以来、21%の急減。

とりわけ、野菜や果物の減少幅は大きい。クイック氏の言うとおり、「Primary proteins (まずはタンパク質)」ということで、食費と一緒に削られるのは野菜や果物だったのである。

それに加えて、「調理」をする余裕さえも失われた。イギリス人の平均調理時間は「一日34分」という記録的な短さにまで短縮されている(Kantar Worldpanelより)。

その結果、ピザなどの「加工済み・調理済み食品」の需要は高まった。「まずはタンパク質」という思いから、肉関係の中食の伸びが大きいようだ。そして、「甘いもの」も忘れてはならない。削るに削れず、いやむしろストレスによってか、その需要は増えている。



◎イギリス人の無関心


もともと、イギリス人という人々は「食への関心」が薄いようである。「イギリスの料理は世界一まずい」とはよく言われることであるが、それは彼らの食への興味のなさの結果なのかもしれない。

「偏食などというレベルではありません。チキン・ナゲットしか食べない人やピザしか食べない人も、よく目にします。フィッシュ&チップス(揚げ物セット)を週に2回も3回も食べていたら、そりゃ太ります(イギリス留学生・徳丸文さん)」




食の選択を自由市場に任せきるのは、少々危険なことなのかもしれない。

自由の旗振り役のアメリカは、世界を牽引する肥満大国なのであり、彼らオススメのマクドナルドは、世界の子供たちを魅了すると同時に、ヘビー級にもしてしまう。

健康的な食物ほど経済原理の淘汰を受けるというのも皮肉な話である。目先だけを見れば、安く手軽な食品に勝るものはないのかもしれないが、長期的な国民の利益を考えた場合、それはのちのち高くつく恐れもある。



イギリス政府が懸念するのはそれである。不健康な食を繰り返す結果としての医療費の増大は、ただでさえ小さくなった国庫を一段と圧迫する恐れがあるのである。

イギリス保健省は、食品メーカーにカロリーを減らすことを要請しているらしいが、そうした努力も、国民が「Cheap and Easy (安く手軽な食事)」に殺到している状況下にあっては、焼け石に水のようだ。



◎購買傾向の変化、そして無駄の減少


財布のヒモの固くなったイギリス人は、「衝動買い(Impulse buying)」が減ったという。スーパーへ行く前に「買い物リスト」をしたためてから家を出るという人の割合が、ここ3〜4年で20%も増えたのだという(47%→67%)。

また、一度の大量買いではなく、足繁くスーパーに通うようにもなったともいう。その結果、家庭での食品ロスが少なくなるという思わぬ「恩恵」が…。2006年に830万トンあったというイギリス家庭の食品ロスは、金融危機以降、13%減の720万トンにまで減ったというのだ。

環境と健康を二の次としたはずのイギリス人は、ひょんなところで環境に優しい人たちになっていたのである。



◎日本における食品ロス


豊かすぎる先進国において、まだ食べられるモノを捨てるという「食品ロス」は、日々の食に苦しむ途上国の人々に対して申し訳のない社会問題である。これは当然、豊かすぎる日本とて例外ではない。

世界では全人口の15%にあたる10億人もの人々が、まともな食事をしていないのだという。先進国としての日本は、その義務として途上国への「食料援助」を行っている。

しかし悲しいかな、日本国内では、他国へ援助する量の2倍以上の食糧が「まだ食べられるのに捨てられている」という現状がある。日本語であるはずの「Mottainai(もったいない)」という言葉が、アフリカの人から言われるのも無理はない。




「食品ロス」というと、食品メーカーやレストランなどの業者によるものが多いのではないかと思われるが、意外にも「家庭」のそれもバカにならない。食品ロスの5分の2は家庭から出ているのである。

ロスが多いのは「野菜や果物(ロス率9%)」であり、廃棄の理由の半数以上は「腐らせる(もしくは消費期限切れ)」というものである。




幸か不幸か、10年も20年もまともな経済成長が失われた日本では、食品ロスが一時から半減している。年代別で見ると、低成長時代に育った若い年代ほど食を無駄にする傾向は少ない。




◎三たび吾が身を省みる


前世紀の20世紀という時代、前半は度重なる戦争に苦しめられたものの、その後半、先進国と呼ばれる国々は大いなる経済成長を謳歌した。そして、今世紀の初頭、彼らは金融というワナに蹴躓(けつまず)いてしまった。

前向きに考えれば、この躓(つまず)きは悪くないことなのかもしれない。というのも、人間の性向のうち、もっとも厄介なモノとされるのが「思い上がりや傲慢さ」であるからだ。



経済的な寒風により、イギリス人も日本人も多少なりと謙虚にならざるを得なくなったようで、それは食べ物の無駄の減少にも見られることである。

食料生産の現場を知らない人々は、あらゆる季節の食べ物が常にスーパーの棚に並んでいることしか知らないため、食料が「有限」であることへの実感は薄い。そして、今の今にも食に苦しむ人々が世界にいることも、メディアの中の話にすぎない。



◎Basket case(ポンコツ)


虫歯が痛くなった時には、もうだいぶ菌にやられてしまっている。

もし、御神輿に乗っている先進国の国民が「食が有限である」と実感した時、世界はどんな姿になっているのだろうか。



世界経済は、こぐのを止めると倒れてしまう自転車のように、その成長が止まることを極端に恐れている。しかし、「成長のための成長」はその身を伴わないことも…。

その歪みは、経済的な格差や国や地域の格差となって、その自転車のペダルをどんどんと重たくしてしまう。さらには、その車輪までもがどんどんと小さくなり、漕いでも漕いでも出るのは汗ばかり。そして、その現実に気づいた時、その汗は冷や汗に…。



将来への不透明さや未来への不確実さを最も嫌う世界経済は、いまその歩みを止めようとしているかのようである。そして、その足をどっちに向けてよいか決めかねて、途方に暮れているようでもある。

冒頭の英国エコノミスト誌の記事のタイトルは「Basket case(手も足もでない無力な状態)」。はたして次なる一歩は、どこへ向かうのか? それは安く不健康な方角であろうか…。





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posted by 四代目 at 08:35| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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