「自分の能力が、下から25%にはいっていると思う人?」
そう聞かれても、誰も手をあげない。
「じゃあ、平均以上だと思う人は?」
8割がたの人が手をあげる。
これは少し可笑しな話だ。
「8割以上の人が平均以上」ということは統計学上ありえない。
「人はもともと楽観的なんです」
と専門家は言う。
そして、こう付け加える。
「自分のことには楽観的で、自分以外のことには悲観的なんです」
タバコを吸うと肺ガンで死ぬ確率が高くなる、というデータが明示されたとしても、喫煙者の多くは、なぜか「自分だけは死なない」と思い込んでいる。
バイクの死亡事故は自動車の30倍だと聞かされても、なぜか「自分だけは大丈夫」と多くのバイク乗りは思っている。
専門家は言う。
「そう考えるほうが、生存に有利だったのでしょう」
生存のためなら、脳は平気で現実を無視する。
都合が良ければ、無いものでも有ると思い込み、都合が悪ければ、有るものでも無いと思い込む。
たとえば、木に隠れたネコの、尻尾だけが見えているとしよう。すると人間の脳は勝手に、見えないはずの「ネコ」を作りあげてしまう。これは「アモーダル補完」と呼ばれる脳の働きのひとつであり、過去のデータから連想して、自動的に現実をつくりだしてしまうのである。
もちろん、ネコの尻尾が見えたら、おそらくそれはネコだろう。だが、この働きがエスカレートすると、脳の現実は幻想的になっていく。つまり「楽観的」になるのである。
テレビに映る像は、現実ではない。
それは「たくさんの点の集まり」にすぎない。
動いて見えたとしても、それは動いているわけではない。
1秒間に30回くらい、点の色が変化しているだけだ。
言葉も本来は意味をもたない。
ただの音だ。
実際、自分の知らない言語を聞けば、その意味はチンプンカンプンであり、それらが有意に連続しているなどとは到底思えない。きっと、ランダムな音の羅列にしか聞こえないはずである。
ありのままを見れば、あるいは、ありのままを聞けば、そういうことになる。
意味や連続性は、言ってみれば、脳があとから味つけした情報にすぎない。そして、その情報というのも、電気伝達の結果でしかない。
初期仏教の長老がたは、その辺りをよくよく心得ている。
サイエンスでいえば量子力学になる。
量子という存在は「不確定」とされている。空間的な位置を定めれば、時間的な速度に逃げられる。また逆に、時間的にとらえれば、こんどは空間の中に逃げられる。
物理学者たちが好むネコ、「シュレディンガーの猫」は箱を開けるまでそこに存在するとは限らない。たとえ、さっき箱の中に入れたとしても。もし、シッポが見えていたとしてもだ。
じゃあ、現実とは何か?
この問いには、根本的に可笑しなところがある。
とらえられる現実が存在すると、前提しているところである。量子力学者なら、そうは言わないだろう。
かつてギリシャのプラトンは、現実を「洞窟の壁にうつる影」と表現した。洞窟のなかで焚き火をしていると、洞窟の壁には人々の影が写しだされる。現実とは、そんな影のような存在だ、と。これを現代人は「ホログラフィック原理」という。
そういえば夏目漱石『夢十夜』の第8夜に、床屋の椅子にすわる男がでてくる。彼に見える世界は、床屋の鏡のみ。鏡という2次元空間に写る、豆腐屋や芸者しか見えない。
男は言う。
「ちょっと様子が見たい。けれども粟餅屋はけっして鏡の中に出てこない。ただ餅をつく音だけする」
3次元だと思っている世界が、じつは影や鏡のような2次元だったとしたら。これは面白い。多次元のようにどんどん次元を増やしていくよりも、いっそ減らしていこうというのだから。
しかし、階段の塵は竹の影が掃いても動じない。どんな激流も水に映った月を押し流すことはできない。二元論は禅の強く戒めるところだ。
ならば禅僧なら、なんと言う?
両忘(りょうぼう)? 光と影、大と小、中と外などなど、なんでもかんでも2つに分けて考えなさるな、両方とも忘れろ、と。
二元論はどこまで行っても、平面たる二次元からは抜けられない。所詮、同一平面上、お釈迦さまの掌上を出ることはない。
莫妄想(まくもうそう)
そろそろ妄想はおわりにしよう。
一
○
(了)
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