「これが本当に、日本画の絵の具で描いたんだろうか…?」
山種美術館の館長・山ア妙子さんは、一枚の名画をまえに感嘆する。
速水御舟(はやみ・ぎょしゅう)27歳のときの作品
『鍋島の皿に柘榴』(1921, 大正10)
なんという細密な描写だろう。すべすべとした柘榴(ざくろ)、硬い磁器の質感。背景は皿の影のみという明快さ。
山ア妙子さんはつづける。
「モノの質感描写を追求した結果、御舟(ぎょしゅう)はモノの存在の神秘さにまで行き着いているような気がいたします」
モノという対象を徹底的に見つめつづけた若き日の御舟。この一枚で、ひとつの完成をみた。と同時に、大きな壁にも直面した。
御舟は言う。
「なにか、それ(写実)だけでは済まない問題が、常に往来している。この無味乾燥を打破して、本当の何ものかをつかみ出さなければならない」
”本当の何ものか”
モノの描写だけでは満たされない、それだけでは済まされない”何ものか”が、御舟には必要だった。
悩みを背負った御舟は、武蔵野の禅寺、平林寺の門をたたいた。
ひたすら座禅をくむ日々。
修行僧としての生活は9ヶ月にも及んだ。
大正14年の夏、御舟は軽井沢の別荘にいた。
毎晩毎晩、御舟は焚き火をして、その炎をじっと見つめつづけた。
そして描いた『炎舞』(1925, 大正14)。
渦を巻くように燃え上がる炎。
その光に群がる蛾(が)。
背景には、深い闇があった。
一見、写実的に見えるこの作品だが、よく見るとその炎は日本画のように様式化された形であり、精緻な 蛾もじつは、みな真正面から描かれているという不自然さがある。にも関わらず、炎にも蛾にも、現実を超えた生命力がみなぎっている。
そして圧巻は、その「闇」である。
御舟自身、「もう一度描けといわれても、二度と出せない色」と語ったほどの「闇の色」。黒に朱をまぜ、その境目に金泥をほどこして微妙な色調を表現。さらに深い闇の部分には、青みがかった炭をつかったという。
美術家の森村泰昌さんは言う。
「あの絵は、闇という空間を表現しているんです。その闇は真っ暗なものじゃなくて、微妙な色を積み重ねて、とても豊かな闇空間を表現しています。救いがあるというか、そういう闇です」
これほどの作品をもってしても、御舟は納得しなかった。
御舟は言う。
「絵画修行の過程において、わたしが一番恐れることは型が出来るということである。なぜなれば、型が出来たということは、一種の行き詰まりを意味するからである。芸術は常に、より深く進展していかねばならない。だから、その中道に出来た型は、どんどん破壊して行かねばならない」
日本画にあって日本画にあらず、西洋画のようでいて西洋画にあらず。独自の画風を切り拓いていった速水御舟は、自ら切り拓いた画風を惜しみもなく捨て去る画家であった。
こうも言う。
「梯子(はしご)の頂上に登る勇気は貴い。さらにそこから降りて来て、ふたたび登り返す勇気をもつ者は、さらに貴い」
御舟が次に登りはじめた梯子は、何だったのか?
それは、『名樹散椿』(1929, 昭和4)となって現れた。
御舟が描いた椿は、京都・昆陽山地蔵院にあったという樹齢400年の古木。豊臣秀吉の寄進によると語り継がれてきた名樹だった。
この作品にとりかかった理由を、御舟はこう記している。
「伝説的な古木には必ず、そうした伝説と名声とを発生させるだけの、特殊な崇高美や画的美感がその樹姿のうちに認識されるに相違ないということを想察したからである。だから、それを表現し描写することは、ただ単なる花鳥描写、自然描写と相違して、そこにもっと内面的なもの、より深奥なもの、を展開し得られるだろうも希望された」
古木ゆえの逞しい幹。そこから太い枝が左へ左へと何本ものびる。花は五色のあでやかさで輝き、散った花弁は苔むした地面に横たわる。
そして圧巻は、金地の背景である。
普通、背景に金箔を貼るとき、金箔同士に隙間ができないよう、わずかに重ねながら貼っていく。その結果、金箔と金箔の継ぎ目には「箔足(はくあし)」とよばれる格子状の筋が残る。しかし、御舟の『名樹散椿』の金地には、まったく繋ぎ目が見えない。
金を背景とする手法は、ほかに金泥を用いるものがある。金箔を細かくして膠(にかわ)で溶き、刷毛で丁寧に何回も塗り重ねるという手法だ。しかし、どうしても刷毛の跡が横筋として残ってしまい、完全に均一な背景をつくることはできない。
いったい御舟は、どうやってムラのない完璧な背景を金で表現しえたのか?
それは彼が少年のころに学びおぼえた「蒔絵(まきえ)」の技法にヒントがあった。沃懸地(いかけじ)とよばれる技法で、粉にした金を撒いて地をつくるものだった。
『名樹散椿』においては、膠(にかわ)を塗った紙のうえに、粉にした金箔を散らし、それを手の平で丁寧にならしていく「撒きつぶし」という手法がつかわれていた。貼るだけの金箔に比べると、途方もない時間がかかる。さらに金箔の量も貼る場合に比べて10倍もの量が必要になる。
それは、『名樹散椿』(1929, 昭和4)となって現れた。
御舟が描いた椿は、京都・昆陽山地蔵院にあったという樹齢400年の古木。豊臣秀吉の寄進によると語り継がれてきた名樹だった。
この作品にとりかかった理由を、御舟はこう記している。
「伝説的な古木には必ず、そうした伝説と名声とを発生させるだけの、特殊な崇高美や画的美感がその樹姿のうちに認識されるに相違ないということを想察したからである。だから、それを表現し描写することは、ただ単なる花鳥描写、自然描写と相違して、そこにもっと内面的なもの、より深奥なもの、を展開し得られるだろうも希望された」
古木ゆえの逞しい幹。そこから太い枝が左へ左へと何本ものびる。花は五色のあでやかさで輝き、散った花弁は苔むした地面に横たわる。
そして圧巻は、金地の背景である。
普通、背景に金箔を貼るとき、金箔同士に隙間ができないよう、わずかに重ねながら貼っていく。その結果、金箔と金箔の継ぎ目には「箔足(はくあし)」とよばれる格子状の筋が残る。しかし、御舟の『名樹散椿』の金地には、まったく繋ぎ目が見えない。
金を背景とする手法は、ほかに金泥を用いるものがある。金箔を細かくして膠(にかわ)で溶き、刷毛で丁寧に何回も塗り重ねるという手法だ。しかし、どうしても刷毛の跡が横筋として残ってしまい、完全に均一な背景をつくることはできない。
いったい御舟は、どうやってムラのない完璧な背景を金で表現しえたのか?
それは彼が少年のころに学びおぼえた「蒔絵(まきえ)」の技法にヒントがあった。沃懸地(いかけじ)とよばれる技法で、粉にした金を撒いて地をつくるものだった。
『名樹散椿』においては、膠(にかわ)を塗った紙のうえに、粉にした金箔を散らし、それを手の平で丁寧にならしていく「撒きつぶし」という手法がつかわれていた。貼るだけの金箔に比べると、途方もない時間がかかる。さらに金箔の量も貼る場合に比べて10倍もの量が必要になる。
しかしなぜ、御舟はそこまで「ムラのない均一な背景」にこだわったのだろう?
美術家の森村泰昌さんは、こう考える。
「ぼくはこれ、金じゃないと思ってます。金箔とか金泥というのは物質です。金という物質なんです。でも、この御舟の撒きつぶしは”非物質”なんです。金箔のてらてらした感じとか、金泥のざらざらした感じとか、そういう金の物質感がまったくありません。だから非物質なんです」
御舟が求めたのは、モノに非ず、ということか。
森村さんはつづける。
「物質に非ず。この世のなかでの非物質といえば、それは光です。だから、御舟が表現したのは金ではなく光、光の空間だったんです」
美術家の森村泰昌さんは、こう考える。
「ぼくはこれ、金じゃないと思ってます。金箔とか金泥というのは物質です。金という物質なんです。でも、この御舟の撒きつぶしは”非物質”なんです。金箔のてらてらした感じとか、金泥のざらざらした感じとか、そういう金の物質感がまったくありません。だから非物質なんです」
御舟が求めたのは、モノに非ず、ということか。
森村さんはつづける。
「物質に非ず。この世のなかでの非物質といえば、それは光です。だから、御舟が表現したのは金ではなく光、光の空間だったんです」
モノから闇へ、そして非物質たる光へ。
できそうになる型を、次々と壊しつづけた御舟。
その花が散るのは、『名樹散椿』完成からわずか5年後。
享年40という急逝であった。
できそうになる型を、次々と壊しつづけた御舟。
その花が散るのは、『名樹散椿』完成からわずか5年後。
享年40という急逝であった。
(了)
出典:NHK日曜美術館「深奥へ 速水御舟」
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