2016年05月11日

生死の境にのぞみつつ [皆藤章]



「これから母を殺しにいきます」

カバンから包丁をとりだすと、その人は立ち上がった。



その時のことを、皆藤章(かいとう・あきら)臨床心理士は語る。

「その人は幼いころ、母親が目をはなしたスキに車にひかれ、身体に重い障碍(しょうがい)が残ってしまいました。面談ではしばしば、鬱積した母親への憎しみを繰りかえすのでした」



「よろしいですね」

包丁をもった男は言った。

皆藤氏は、なにも答えられずにいた。



皆藤氏は言う。

「ここは体を張って止めるべきところではあるけれども、この人の気持ちも痛いほどわかる。はたして私は、自分の心に一点の曇りもなく『やめなさい』と言えるだろうか…」



知らず、皆藤氏の頬に、幾筋かの涙がつたっていた。

男は、その涙をじっと見つめ、言った。

「すみませんでした…」

包丁をカバンにおさめた。







「死は決して私たちと無縁ではありません」

臨床心理士として生きる皆藤氏は言う。

「生と死のギリギリの境目で苦しむ人たちがいるのです」



皆藤氏が臨床心理士となったのは、日本を代表する心理学者、河合隼雄(かわい・はやお)の影響がおおきかった。

皆藤氏は言う。

「河合先生の最初の授業が、わたしの人生を変えたのです。臨床心理学の『臨床(りんしょう)』は『床(とこ)に臨む』と書く。そして『床(とこ)』は死の床を意味している。つまり臨床とは、死に逝(ゆ)く人のからわらに臨み、その魂のお世話をすることだ、と話されたのです」







河合先生は温和な人であった。

しかしその先生が珍しく、声を荒げたことがあった。



皆藤氏は言う。

「学会に出席するため、ある方との面談をお休みしているあいだに、その人が自死されたことがありました。面談を休んだことを悔いた私は、

『もし私が学会になど行かずに面談していれば、その方は亡くならずにすんだかもしれない』

と話したとき、河合先生は

『馬鹿者!!』

と、わたしを一喝されたのです。

なんと甘いことを考えているのだ、と。

『人間の死というものは、そんな単純なことではない。解き明かせないほどの要因が幾重にも連なって、人は亡くなっていく。きみが会っていれば死ななかったというのは、その人に対して、ものすごく傲慢な態度だ!』

懇々(こんこん)と諭(さと)され、わたしは心を穿(うが)たれる思いでした」



皆藤氏はつづける。

「わたしが取り組んでいるのは、『治る、治らない』といった次元にとどまるものではありません。わたしの思いの根底には、『ひとの心や運命は、意図して操作できるものではない』という河合先生の教えがあるのです」







皆藤氏は言う。

「わたしが専攻したユング心理学には、コンステレーション(Constellation)という考え方があります。

たとえば北斗七星は、7つの星が柄杓(ひしゃく)のかたちに並んでいるように見えますが、それは、そう見えるように意図して並んだわけではありません。一つ一つがただ輝いているだけで、全体がひとつの形を成しているように見えるだけです。

そういう有りようを『コンステレーション(Constellation、配置)』とユングは言いました。

同じように人間の縁や運命も、意図してつくられるものではなく、一人一人が生きるなかで自ずと形づくられるものなのです」







「先生っ! わたしに生きていける言葉をください」

遠く南米からの手紙であった。

自尊心を剥奪(はくだつ)されるような過酷な人生。途方もない痛みを、どうすることもできずにいた。



皆藤氏は言う。

「ゆっくり返事を考えている場合ではありませんでした。その方の心にとどく言葉が必要だったのです。夜どおし考えました。夜が明けたとき、わたしに語れる言葉はこれだけでした。

『黙々黙々。ただ黙々と生きてください。待っています』





半年後、その人は無事帰国してきた。

皆藤氏は言う。

「もし、わたしの返事がその方の心にどどかなかったら…? いまでも身震いします」













(了)






出典:致知2016年6月号
皆藤章「出会いを生かし、ともに関を越える」



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posted by 四代目 at 07:13| Comment(0) | 医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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