2016年04月17日

1,000敗という「強さの証」 [加藤一二三]



朝日新聞の将棋観戦記に、こうあった。

「ある一手を指すと、次に指す手がない」

この一文に、ある将棋少年は悟った。

「将棋というのは、好手を指しつづければ、勝てるゲームなんだ」







加藤一二三(かとう・ひふみ)

当時、小学4年生。

のちの名人となる棋士である。



加藤は言う。

「これは初めて話すことなんですが、隣の市に、一局いくらで将棋を教えるオジさんがいると聞いて、四年生のときに訪ねていったら、私が全勝してしまった。そのオジさんは、たぶんお金を受け取らなかったと思うんだけど(笑)」

夏休みになると、大人にまじって将棋三昧。とくに将棋を勉強するということなしに、メキメキ腕をあげていった。



「福岡から相当見込みのある子供がやってきた」

そんな話が、関西将棋会館で伝えられた。

その”相当見込みのある子供”、加藤一二三は、まず野村慶虎七段と飛車落ちを指した。そして今度は、板谷四郎九段に飛車香落ちを打った。



そうした対局をかたわらで見ていた、升田幸三(ますだ・こうぞう)は言った。

「この子、凡ならず」

当時、升田は飛ぶ鳥を落とす勢いの名人だった。







加藤一二三はその後、14歳で史上初の中学生棋士に、18歳の時にはA級八段となった。

「神武以来の天才」

と呼びそやされた。



20歳のとき(昭和35年)、最初の檜(ひのき)舞台にあがった。

名人戦である。

相手は大山康晴(おおやま・やすはる)名人。







加藤は言う。

「その頃の大山名人は、名人を含めたほとんどのタイトルを独占しておられて、仰ぎ見るような存在でした」

ちなみに江戸から昭和のはじめ頃まで、名人は「世襲制」だった。現在のような「実力制」にかわったのは昭和12年(1937)。以来、将棋界は大変な活況を呈するようになった。

加藤は言う。

「実力制は、棋士の生活を大きく変えました。弟子をとって生計を立てていたのが、大手新聞社がスポンサーについて、まぁ名人戦を戦うというだけで家が一軒建つくらい収入が安定していきました」



20歳の初対局から数えて、加藤は大山名人と生涯、125局戦うことになる。

加藤は言う。

「十局でいうと、5.5割対4.5割で負け越して、タイトルを奪還することはなかなかできませんでした。だけど、われわれの勝負というのは長いんですよ。10年間どちらかが勝ち続けても、後の10年は負け続けるということが実際にある。大山名人との対局でも、6回目の挑戦にして、ようやくタイトル(十段戦)を獲得できました」

この対局、加藤には「7時間かけた一手」があった。

「私は一つの手を7時間かけて考え抜いて勝ちました。7時間かけて見つかる素晴らしい手があったのかと、勝負の深さを実感しました」

昭和43年(1968)、加藤は大山名人から十段位を奪取。加藤28歳のときだった。






大山名人以上に加藤が苦戦をしいられたのは、中原誠(なかはら・まこと)名人だった。

加藤は言う。

「中原名人には8年間で一回も勝てなかった。タイトル戦で20連敗していますからね」







加藤は言う。

「技の特徴を意識しながら中原名人と対局を重ねるたびに、自分の技が非常にシャープになっていくのを感じていきました。私は大山名人とは125局戦ったわけだけど、面白いことに、そういう感覚を掴んだことはありませんでした」

さしもの大山名人でさえ、中原名人には手を焼いていた。中原名人にだけは負け越していたのである。



大山名人と中原名人の対局は主に2日制だった。

加藤は言う。

「一日が終わった段階で、新聞で局面を見ると、中原名人が一歩リードしている。形勢の良さを維持して、押し切って勝とうという作戦です。つまり先攻逃げ切りです。そういう作戦のパターンに気づいた頃から、私も少しずつ勝てるようになっていきました」



昭和48年(1973)、中原名人を相手に、加藤は2回目の名人戦に挑む。

結果は4連敗。

だが、不思議と劣等感はなかったという。

「一回も劣等感をもったことがないんです。ちょっとこの人は器が違うな、歯が立たないなと思ったことは一度もないんです」



そして、9年後の昭和57年(1982)第40期名人戦、中原名人に勝つときがきた。

加藤は言う。

「十局戦ってついに私が勝ちました。このときの対局は激しい鍔(つば)迫り合いがつづき、名人戦史上の名勝負として、いまも語り草になっています。私自身も9年間の鍛錬があったのでしょう。このときは私なりの悟りがありました。『負けた直後に自信がうまれて強くなる』ということを、私は人生のなかで何度か体験してきました。負けた時ほど、己と徹底的に向き合うからなのでしょうか」







名人と呼ばれる人々には、

「自分はなぜ負けたのか、ということを客観的に知りたい好奇心」

がある、と加藤は言う。

「ひと言でいえば、負けず嫌いということでしょうか。升田名人というのは面白い人で、対局で私が勝つと、その後の感想戦(対局を振り返っての研究)が3時間におよぶんです。そのくらい自分の将棋を徹底して見つめられた。だけど、自分が勝ったときは10分で終わり(笑)」

升田名人の「負けん気」は有名だった。

加藤はつづける。

「ある時など、午前2時に対局が終わって、感想戦を終えて将棋会館をでたのは朝7時だったこともあります。大山名人もまた『意地』が口癖でしたし、感想戦は真剣そのものでしたね」

プロの将棋の世界には、「10の222乗」という天文学的な指し手が存在するという。そんな膨大な星の数の中から、お互いが最強とおもえる一手を繰り出し合うのである。ゆえに、その吟味となるとまた、天文学的とならざるをえない。







負けと真剣に向かい合うからこそ

負けて強くなる。

将棋の道一筋62年、

加藤九段は76歳のいまもなお、現役の棋士である。



加藤は言う。

「私の場合は、1,000回以上も負けているんです。なんと言っても『負け数一位』ですから(笑)。将棋界の歴史で『千敗達成者』は、私を含めてまだ3人しか存在しません」

プロの棋士界では、負けつづけると最短13年で引退に追い込まれる。負けてなおプロでありつづけるためには、負け以上に勝たなければならない。

「たくさん負けるには、それ以上にたくさん勝たなくてはいけない。千敗というのは、60年以上現役をつづける『強さの証』だと、自負しているわけです(笑)」



加藤一二三(かとう・ひふみ)

2016年4月現在

対局数2479(歴代1位)
1320勝(現役2位)
1158敗(歴代1位)










(了)






出典:致知2016年2月号
加藤一二三「続けると、勝負の奥にある感動が掴める」



関連記事:

4,000の安打と8,000の凡打。イチロー

英才教育の切り札「将棋」。日本の伝統が世界に注目されている。

争わない手 [宇城憲治]




posted by 四代目 at 08:57| Comment(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。