2016年04月10日

「正しきものは強くあれ」 [土光登美]



昭和61年11月5日

土光敏夫(どこう・としお)に勲一等旭日桐花勲章が授与された。

ときに土光90歳、生前の民間人に授与されるのは史上初めての名誉だった。



そのときの映像が残されている。

皇居宮殿の正殿にあらわれた当時90歳の土光は、式部官に車椅子を押されていた。

ところが勲章を渡そうとする昭和天皇を前に、土光は車椅子から立ち上がろうとする。おそらく昭和天皇に対して、自分が車椅子に座ったままでいることを「失礼だ」と思ったのだろう。前月に頭部の手術を受けるなど、土光の体はすでに立つことすらままならない状態だっただけに、私はその姿に心打たれる思いで見ていた。

この叙勲に関して、土光は次のようなコメントを残している。

「私は『個人は質素に、社会は豊かに』という母の教えを忠実に守り…」

引用:致知2016年3月号 出町譲「正しきものは強くあれ」






「個人は質素に、社会は豊かに」

戦後、「日本の財界にこの人あり」と謳われながらも、「メザシの土光さん」と、その質素な生活ぶりでも広く知られていた土光敏夫。

その母の教えが「個人は質素に、社会は豊かに」であったと、天皇の御前で語ったのであった。



その母とは?

土光登美(どこう・とみ)

知る人ぞ知る、賢母であった。







明治4年(1872)

登美(とみ)は10人兄弟の3番目として、岡山県に生を受けた。

「女性に学問の必要なし」といわれていた時代にあっても、登美の向学心はあふれんばかりであった。西郷隆盛、中江藤樹、吉田松陰…、「私心なく公に尽くした偉人たち」に、登美は強く惹かれていた。



18歳で土光菊次郎のもとへ嫁いだ。

読書にふけりながら子どもに乳をやり、二女三男を育てあげた。

次女の節子は、母・登美をしてこう評す。

「(母は)つねに成長していたという感じで、晩年もあまり老人という感じがしませんでした」



(よわい)70を迎えようとしていた時、

登美は突然、こんなことを言い出した。

「お父さん(夫・菊次郎)が死にました。これから私は残り短い人生ですが、どうしてもやりたいことがあります」

改まった口調に、親戚一同、息をのんだ。

「学校を建てたいのです」



登美はよく、こう言っていた。

「国の滅びるのは悪によらずして、その愚による」

ときに日本は、日中戦争から日米戦争へと邁進し、戦争の連鎖がとどまるところを知らなかった。

登美は言う。

「どんなに偉い人でも、子どもの頃はお母さんのおっぱいを飲んで、お母さんにご飯を食べさせてもらっている。だから、子どもを育てることになる女性をしっかりと教育しなければならないのです」

登美は切々と、女子教育の重要性を訴えた。



それにしても、女性のための学校を建てるなどということは、暴挙にひとしい。年ももう70だ。家族全員が反対した。もちろん土光敏夫も必死でとめた。

しかし、登美の決意は鉄のごとき強靭さをもっていた。猛反対する家族らを尻目に、せっせと資金集めにいそしんだ。

「もし私が亡くなってから香典をくださるおつもりなら、生きているうちにください」

それが登美の殺し文句だった。朝昼晩、雨の日も風の日も、登美は足を棒にして知人や親類らに無心してまわった。さらに用地取得のため、地主や小作人を説得して歩いた。



登美の常人ばなれした根気と迫力におされ、3ヶ月という驚くべきスピードで学校建設の工事がはじめられた。

登美のこんな言葉がのこされている。

「私はナー、子孫に金を残して、かえって怠け心を起こさせてはいけませんから、できるなら学校を建てて、世の子女の教育をしてみたいと思うのですがナー」



昭和17年4月1日、戦争の真っ只中で、登美の学校が完成した。

橘女学院(現・橘学苑)の誕生である。

貧しい子女にも門戸をひらこうと、授業料は頑なまで低く設定された。



「正しきものは強くあれ」

登美は生徒らに、そう語った。

登美の教えを受けた生徒の一人は、こう言っている。

「どんなに正しい心をもっていても、それを実行する強さがなければ何にもならないのです」







机上の学問ばかりでなく、登美は畑仕事や掃除も大切に教えた。

「人間はどんなつまらない仕事でも、一生懸命やる心が大切なのです」



あるとき、女子生徒3人に退学処分がくだされようとしていた。

当時校長であった登美は、断固として言った。

「退学処分は許しません。私がその娘たちを預かります」

教室に寝具まで運び込んだ登美は、不良女生徒3人と寝食をともにしはじめた。だが、何を諭すということもなしに、登美は読経ばかりを熱心にやっていた。先にしびれを切らしたのは生徒たちのほうだった。

「先生、私たちは何をしたらいいのですか?」

しめたとばかりに登美は、掃除に勉強、さらには読経までを生徒らに教えはじめたという。


余談ではあるが、息子・土光敏夫も不良社員を決して軽んずることがなかった。

土光敏夫はこう言っている。

「そんな社員こそ、自分の部下にしたいのだ。作物と同じように、早く芽がでる人間もいれば、遅く出る人間もいるものだ」

それは母・登美ゆずりの信念であった。

「どんな人間であろうとも、けっして切らない」







明治天皇の御製

さしのぼる 朝日のごとく さわやかに

もたまほしきは 心なりけり


登美は、この歌をこよなく愛した。

「朝日のごとく、さわやかに」

それをモットーに登美は生きぬいた。



最後に、登美の言葉を引いて終わる。

「人間というものは生涯にせめて一度、『鬼の口』に飛び込む思いをしなければなりません。そういう機会をもたずに人生を終えるのは恥ずかしいことです」






(了)






出典:致知2016年3月号
土光登美「正しきものは強くあれ」



関連記事:

豪雪の山中、90歳のおばあちゃんの届けてくれる郵便

オババのいる4000年の森。山は焼くからこそ若返る。

モーレツ漫画家「ヤマザキマリ」 [テルマエ・ロマエほか]






posted by 四代目 at 17:20| Comment(0) | 女性・子ども | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: