2015年09月03日

目的的ではないゴリラと京大 [山極寿一]



「山極(やまぎわ)教授に投票しないで」

京大総長を投票で決める際、そんなビラが学内の掲示板を埋め尽くした。

山極寿一(やまぎわ・じゅいち)氏は日本のゴリラ研究にとって欠くべからざる人物である。もし彼が総長にでもなってしまえば、今後の研究がストップしてしまう。それは「世界の霊長類学にとって損失だ」というわけであった。

しかし研究者らの訴え虚しく、山極氏は2014年秋、京都大学の第26代総長に選出された。






通称、「サル学」。

それは京大が生み出した日本発の学問。その創始者は今西錦司氏。それを伊谷純一郎氏が継承し、山極氏が世界的な学問へと発展させた。

「人間の社会から動物を見るのではなく、動物の社会から人間を見る」

この逆転の発想こそが、京大サル学の肝であるという。創始者・今西氏は「動物の世界にも人間同様の社会がある」と提唱したが、その発想自体、欧米にとっては絶対タブー。人間中心のキリスト教が支配する世界においては許すべからざるものであったという。



「チンパンジーの研究者はチンパンジーに似てくる」らしいが、ゴリラ専門の山極氏は「肩から背中にかけての雰囲気がシルバーバックそのもの」と評される。成熟したオスのゴリラは、その背中が白っぽくなるためシルバーバック(silver back、銀色の背中)と呼ばれている。

「ぼくは研究難民でね、ルワンダからコンゴに移って、いまはガボンですよ」

そう言って山極氏は、ゴリラよろしく豪快に笑う。しかし京大総長になってからは

「自分ではフィールドに行けないから、院生をアフリカに行かせてますよ」






「京大っていうところはね、教えないんですよ。『学問は自ら学ぶもんだ』って昔からそういう伝統がある。最近、ヨーロッパのトップクラスの大学の学長たちと話す機会があったんですが、そういう大学はみんなそうなんです」

京大伝統、「自由の学風」というやつだ。その伝統のおかげか、東大とは異なり、京大には冒険・探検の歴史が深い。

「京大は『探検大学』って言われてきたからね。それは今西さんたちのAACK(京都大学学士山岳会)の影響が大きいよね。何度も大規模な探検隊を出してきたからね」

AACK(京都大学学士山岳会)は、1933〜34年の白頭山遠征にはじまり、1938年の内蒙古探検、1942年、大興安嶺探検などがよく知られている。世界に14座ある8000m峰のうち、日本が初登頂を果たしたのはマナスル。その登頂者、今西寿雄氏は京大山岳部の出身だった。

「それに負けまいとして学問の世界でも未知の領域の探検が行われたんだ。それをやるには自由な発想、目的的ではない『バカな発想』が必要。成果や出世を考えてるとできない。ただおもろいことやろう、誰もやってないことをやろう、と。そういう精神は、常に先頭を走らなければならない東京ではできない。東京にいると、どうしても『目的的』になっちゃうんだよね」

しかし山極氏は、その目的的な東京の生まれである。

「うん。だから京都に来たわけだよ(笑)」






伊谷純一郎著『ゴリラとピグミーの森

この一冊が、山極氏をサル学の世界へと引き込んだ。

「『野生の世界にこそ学ぶべきことがある。人間や文明社会だけが研究の舞台ではない』と、その本から教えられた気がした」

学生時代は自主ゼミをつくってニホンザルを研究した。自分自身がサルになりきり、北は下北半島から南は屋久島までニホンザルを追っかけた。



「ゴリラをやってみないか」

山極氏は、師事していた伊谷氏からそう声をかけられた。

まずは単身、ザイール(現コンゴ民主共和国)に。そしてゴリラ研究の聖地、ルワンダのカソリンケ研究センターに乗り込んだ。

「ゴリラの挨拶を真似てみろ」

それが入所試験だった。

「伊谷さんは単独行を愛した。隊ではなく個人で自然と対峙する。僕もそれが大好きだった。僕はすべてを現地調達するんです。食料から何から。服も現地人と同じ。ジャングルは危険が多く、さすがに一人では入れないので、地元の狩猟採集民、焼畑農耕民、トラッカーと呼びますが、森に詳しい彼らを伴って歩く。テントすら使わなかった時期もあった。トラッカーがあっという間にすばやく周りの木や草をつかって小屋をつくってくれるんです」






サルは登山をするのか?

その質問に山極氏は「しないだろう」と答える。人間は登頂したときに得られる達成感を「予想(予期)」することができるが、サルは自分が頂上に立っている姿を想像できない。

「意図的という意味を定義すると、『自分のやろうとしていることを見ている他の自分』がいるってことです。それが動物にはない。チンパンジーにはちょっとあるらしいけど」

サルが山に登るには、そこに食べ物があるとか仲間がいるとか、何かに追われてそこにしか逃げ場所がないとか、そういった逼迫した理由が必要だという。「そこに山があるから(Because it's there)」というのは、理由として不十分なようだ。



まったく目的的ではない動物は、目標を立てることなどしない。ただ、目の前の現実をそのままに受け入れるのみ。

「森林には何が潜んでいるかわからない。ゾウもいるしバッファローもいる(氏はバッファローに追われ、樹上で半日すごしたことがあるという)。ヘビが怖い。イノシシも危ない。不意に出会うと、こっちもビックリするけど、向こうもビックリする。それが一番怖い。そもそも森では相手の存在なんて忘れてるんですよ。出会い頭にどう対処するか、それだけ」

人間の根源もまた然り。

「人間はもともと森林から出てきた生き物なんだよね。だから、あらかじめ『アイツがこう来たらどうしよう、こっちがこう出たらあっちはどうするんだろう』なんてことを考えて行動するんじゃなくて、いい加減でいい。森から出てきた人間が、いつでも予測して行動できるなんて思ったら大間違い。相手の存在を忘れて、出てきたときにいい加減に対処する。でも、その『いい加減さ』が適切である必要がある。そこが人間の知性の介入するところ」



山極氏のサル学は、「人間とは何か」という哲学的な問いと深く関わっている。

「今西さんや伊谷さんに触れてわかったことは、人間っていうのが一番、未知の領域だということ。ある固定観念のなかでの未踏峰はなくなっているのかもしれないけど、『人間という未踏峰』があるわけです。それにはいろんな登り口がある。それはゴリラかもしれないし、チンパンジーかもしれない」







(了)



出典:岳人 2015年 09 月号 [雑誌]
山極寿一「未知なる頂きを踏む。それがフィールドワークの精神」


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posted by 四代目 at 08:35| Comment(0) | サイエンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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