ヤマメとサクラマス
両者の大きさは、小舟と戦艦ほどに異なる。体長20cmほどのヤマメに対して、サクラマスは60cmほどもある。体重で比べれば、その差は30倍にも達する(100g 対 3,000g)。
それでも、この2種の魚は同じ卵、同じ母親から生まれるのだという。生まれた時は同じでも、その後、川に残るか、海に出るかで、それほども異なってしまうのだ。
■川での争い
真冬の12月。凍りそうな川の中に彼らの卵はあった。この段階ではまだ、どの卵がヤマメになって、どの卵がサクラマスになるのかは判らない。
生まれたばかりの稚魚たちは、お腹に赤い袋を抱えている。そこにたっぷりと詰まった栄養を唯一の頼りに、しばれる川の石の隙間で、じっと春を待つ。
5月はじめ、北海道の遅い雪解けとともに、ヤマメの赤ちゃんは活動を活発化させる。川に浮遊する小さな虫たちをせっせと食べて、着実に大きくなっていく。
6月。稚魚によって、ずいぶんと大きさが異なるようになってくる。川の上流に位置する稚魚のほうが、流れてくる水棲昆虫を早くゲットできるために、より大きくなれる。一方、下流の稚魚たちは「おこぼれ」に甘んずるしかない。よって小さなままである。
体格の大きな稚魚たちは、流れが強くエサが豊富に流れてくる「瀬」を占領できる。そして増々大きくなっていく。一方、貧弱な稚魚たちは流れが弱くエサの乏しい「淀み」に戯れるのみ。メダカのように小さなままである。
ここで、勘のよい読者は気づくかもしれない。
「ははぁ、大きな稚魚たちが将来、巨大なサクラマスとなるのだな」と。
ところが、事実はその真逆である。川でのエサ争奪戦に敗れた小さな稚魚たちこそが、意外にもサクラマスに大変身するのである。
■試練の大海
なかば川を追われるように、負け組のヤマメたちは大海原へと旅立っていく。その小さな身体のままで。
海が近づくにつれ、彼らの身体の模様は薄らぎ、まるでイワシのような銀色の体色になっていく。外敵の多い海にあっては、ピカピカ反射する銀色が身を守ってくれるのだ。色だけでなく、エラや内蔵なども少しずつ海の塩水に合わせて変化していく。
海には、驚くほどエサが豊富にある。川とは比べものにならないほど、生態系が豊かなのである。小さなヤマメたちは海の恵みを腹に、どんどんどんどん、その身体を大きくしていく。
海にはエサがふんだんにある一方で、自分たちがエサになってしまう危険も多い。獰猛なシャチやオットセイなど、天敵が山ほどいる。海に出て川に帰ってこれるヤマメは、わずか一割にすぎないという。だから、できれば川で一生を過ごせるのなら、それにこしたことはない。
実際、九州など暖かい地方の川のヤマメは、あえて海に出ていくことはしない。しかし寒くて食べ物の少ない北海道では、じつに4分の3(75%)ものヤマメが海に出ていかざるをえない。その内訳は、メスのほとんどとオスの半分。つまり、強いオスだけしか川に残れない。
大海は厳しい。
それでも、もしこの試練の荒海で生き延びることができれば、そのヤマメはサクラマスへと大変身を遂げることになる。立派な体躯となって、故郷に錦を飾ることができるのだ。
■川のぼり
また春が来た。
一年前に海にでた、かつての小さなヤマメたちが川を遡ってくる季節だ。
その姿はもうヤマメとは呼ばれない。サクラマスという大型の、まったく別の魚のような風貌。海での武者修行が、その身を鍛え抜いた結果である。
海から戻ったサクラマスには、その身に傷をもつ者も多い。獰猛な天敵たちに襲われもしたのであろう。今はようやく危険な海を離れたとはいえ、目指す故郷はまだまだ遠い。そして、川の旅もそう生半可なものではない。
行く手をはばむ大きな滝。3mもの段差が、サクラマスの群れを遮る。それでも彼らは、果敢に身を空に投げ出して、その滝を乗り越えようとする。何度も何度も激流に身をぶつけ、ときには岩に打ちつけられても、決して諦めようとはしない。コツをつかんだサクラマスは、滝壺の底に深く身を沈め、浮上の勢いをかって一気に大ジャンプ。そうして次々と、サクラマスが大きな滝を飛び越えていく。
目指す故郷、川の上流にたどり着くには数ヶ月も要する。春にはじまった遡上の旅は、もう3ヶ月がすぎ、北海道の短い夏も終りを迎えようとしていた。
そんな8月、浅瀬に差しかかったサクラマスたちは、浅い川底に腹をこすり、背ビレを水面に出してバチャバチャと進んでいた。すると、そのしぶきの音を聞きつけたヒグマが、彼らを襲いくる。浅瀬で身動きのままらならないサクラマスたちは、面白いようにヒグマに狩られていく。ヒグマにとってサクラマスはまたとない御馳走なのだ。
大海原を生き抜いたサクラマスといえど、無事に故郷まで帰り着けるのは、ほんの一握り。それでも彼らは、一途に故郷を目指す。
■争い
夏が終ったころに、ようやく懐かしき故郷が見えてきた。
繁殖の準備がととのったサクラマスは、その身に赤いマダラ模様を浮かび上がらせる。とくに変化がはげしいのがオスの顔。上アゴが鈎状に曲り、鋭い歯がはえてくる。まるで赤鬼のような形相である。
ふる里の川には、ずっと川に残っていたヤマメたちが元気に泳いでいる。そこに突如あらわれた巨大なサクラマスの群れ。はたして、川のヤマメたちは彼らが昔わかれた兄弟だということを認識できるのであろうか。
川に残っていたヤマメの体重は、わずか100gほどにしかなっていない。一方、荒武者サクラマスの体重は、3kgを悠に超える(ヤマメの約30倍)。
かつての勝ち組はもう、海帰りのサクラマスには歯が立たない。川に残っていたお山の大将たちは(そのほとんどが昔強かったオスであるが)、もはやサクラマスとなったメスの恋愛対象とはならず、尾ビレで軽くあしらわれるのみである。
戦いはまだ終らない。
サクラマスのいかついオスたちは、メスを巡って新たな戦いをはじめる。巨大化したアゴで相手に噛みつき、意中のメスを我がものにせんと激闘を繰り広げる。大変身したオスの鋭い牙は、この戦いのためのものだった。皮肉にも、同じ兄弟たちと戦うために、最後の武器を用意していたのであった。
オスたちの真剣勝負は、ときに数時間にわたって続く。相手がシッポをまいて逃げ出すまで、戦いはつづく。
■産卵劇
戦いに勝ったオスは、その身を震わせ、メスに産卵をうながす。
メスは川底を尾ビレで叩き、卵を産みつけるための穴を掘る。
そうしている間にも、ほかのオスがちょっかいを出してくる。最後の最後まで気が抜けない。
ついにメスが産卵した。
感動の瞬間だ。
大きなオスはブルブルと、ますます身を震わす。
と、その瞬間、小さなヤマメが両者に割って入った。
一瞬の隙をつき、メスの産んだ卵に自らの精子をかけたのだ。
必死で子孫をのこそうとする、最後のあがきであった。この時ばかりは、小さな身体が役にたった。小ささを逆手にとって、土壇場で大逆転を試みたのである。産まれる子の何匹かは、このヤマメの血を受け継いでいくのかもしれない。
■新たな命へ
季節はもうすっかり秋。
森の木々はすっかり葉をおとし、寒々しい景色となっていた。
川面を見れば、力尽きたサクラマスが口をぱくぱくさせて、身を横たえている。
もう動ける力は残っていない。波乱にみちた生涯は、もうすぐ終ろうとしていた。
こころなしか、生気を失いかけた眼が満足げにも見える。
川で敗れ、海に出ていかざるをえなかったサクラマス。
海の危険をくぐり抜け、そして決死の思いでたどり着いた故郷の川。
新たな息子・娘たちは、きっと来春には生まれているはずだ。
(了)
出典:NHKダーウィンが来た!
「ヤマメ vs サクラマス」
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