2014年08月20日

正直のままに [画家・宮芳平]




ずっと無名の画家だった。

宮芳平(みや・よしへい)

生前は、美術の先生くらいにしか思われていなかった。



「心で見なさい、ということを一生懸命おっしゃっていたと思うんです」

宮の教え子、中沢優子さんはそう話す。

作家のドリアン助川さんは「絵がそんなに売れたわけでもないし、大きな名声を得たわけでもない。なのに一生描き続けた人ですよね」と語る。



宮芳平はこう言っている。

「絵の具がたくさんくっついているからといって、良い絵とは言われない。ただ私の場合、よたよたと歩こうとした”私の正直”を見てもらいたい。その盛り上がった一筆一筆のかたまりが、その一つ一つの陰影が、画面に不在の美しさを加味していることを時折思う」






■マグマ



宮芳平は明治26年(1893)、新潟の呉服商の家に生まれた。8人兄弟の末っ子で、親からは孫のように可愛がられて育った。

日本海に沈む夕日に感動して画家になることを決意した若き芳平。高校卒業後、家族の反対を押し切って上京。一年浪人して東京美術学校に入学した。1914年、20歳で東京大正博覧会に初入選を果たし、幸先の良いスタートを切ったかにみえた。



ところがその矢先、田舎から突然の訃報がとどく。父・末八の死であった。

通夜の晩、芳平は独りキャンバスに向かうと、一枚の自画像を描いた。どこか虚ろなその目は、先行きのおぼろさを暗示しているかのようであった。




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その年、芳平は政府が主催する公募展、文展への出品を決意。返す当てもない借金をして絵の具を買うと、大作『椿』に挑む。

執拗に塗り重ねられる点描。赤や緑、小さな絵の具の点々がキャンバスを埋め尽くす。その画面は圧倒的に暗い。その薄暗さのなかに目を凝らすとようやく、赤いドレスを着た女性が浮かび上がってくる。




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その印象をドリアン助川さんはこう表現する。「なんでしょう、火山の噴火口から底を覗いたときに、うっすら見えているマグマのような…。それは青年・宮芳平の血であり、情念であり、生命的なマグマであり、そういうものがここに込められている」

野地耕一郎氏(泉屋博古館・分館長)はこう語る。「憑かれたように点描を重ねている。キャンバスの目に食い込ませるように、捻じ込むように点描を打っている。あまりにも魂を込めすぎたような、抜き身の刀のような鋭さがあります」



それほど生命を賭けた『椿』。

しかし結果は落選。

どうしても納得のいかない芳平は、とんでもない行動に打って出る。文展の審査委員長、森鴎外(もり・おうがい)の自宅へと押し掛けたのだ。






■森鴎外



「私の所へ、アカデミィの制服を着た一人の青年が尋ねて来た。M君はいかにも無邪気で、その口吻には詞を構えて言うやうな形跡が少しもなかった」

森鴎外は、宮芳平の突然の来訪を、短編小説『天寵』に書き留めている。









M君(宮芳平)は言った。

「あの画(え)は、布、顔料、額縁に、持っていただけの金を掛け、費やされるだけの時間を費やし、嘗められるだけの苦辛を嘗めて為上(しあ)げた。ほとんど自分の運命は懸けてあの画にあると云っても好い。そこでせめてもの心遣(や)りに、あの画のどこが各に合わぬか、聞かせて貰いたい」

鴎外はこう答えた。

「私はすこしも君の画を嫌う念を有していない。君の画には大衆の好みに阿(おもね)った跡もなく、また大家の意を迎えた跡もない。これは君が何を能(よ)くするかと云う問題である」



鴎外は、この青年に好感を抱いた。そして、その素質を認めた。

芳平の絵はそれほど上手なものではなかった。しかし、そこには純粋さがあった。たとえ暗くとも、澄み切った心があった。自分の感情に対する正直さがあった。鴎外は、その一途な思いを丁寧に受け止めた。

その後も、芳平は鴎外のもとをしばしば訪ねた。そしてその度に、鴎外は丁重にもてなした。鴎外は知り合いの文化人の名刺を渡して、積極的に会うことを勧め、見識を広めるよう助言したという。



ある日、芳平は鴎外に相談をもちかけた。友人たちが自分の絵を「奇態(きたい)だ」と言って笑う、と。

「ほほー」

それを聞いた鴎外は笑った。そしてこう答えた。「でも君、毛虫は奇態だろ。しかし蝶になる。君はこの”嘘偽りない気持ち”を積み重ねていけば、奇態な絵であっても最後はやっぱり蝶になる」



鴎外は、宮芳平の絵を一枚買った。

『歌』

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その絵にはもう『椿』のような暗さはなかった。世の安穏を祈るような平和さがあった。咲き誇る椿の下、男女が親しげに顔を寄せ合っている。それは自分だけの世界から一歩踏み出した、「世の人との間に立った絵(ドリアン助川評)」であった。

鴎外は生涯、この絵を自宅に飾っていたという。






■教え教わる



25歳で、芳平はエンと結婚。

しかし絵はまったく売れず、困窮した生活が続いていた。家計を支えていたのは、妻エンであり、肺病を患いながらも洗濯の手伝いなどに精をだしていた。



29歳のとき、長野の諏訪市に移った。知人から、高校の美術教師にならないか、と声をかけられてのことだった。

「芸術家にとって職に就くことは堕落だ」と考えていた芳平。されど背に腹はかえられず、長野の高校の非常勤講師となった。それ以来、絵を描く時間はきわめて限られたものとなった。放課後のわずかな時間しか、彼の自由とならなかった。

当時の葛藤を、芳平はこう記す。「創作することと教えることは違うような気がする。これはどうしても二つの仕事だ。創作は創作で全力のいる仕事だし、教えることは教えることで全力のいる仕事だ。それではこの二つをどう調和したらよいだろうか?」

苦悩のなか、公募展での落選が続いた。



そんな暗闇にいた芳平を救ったのは、教え子たる生徒たちであった。疑うことを知らない素直な子どもたち。それは汚れのない光であった。

芳平は記す。「しんとした部屋の中に、黙って置かれてある子どもたちの道具すらが眼に触れて、私のためにあんなにもよい生徒がここに座して、おとなしく勉強して行ってくれた。これがその部屋であると思うと、何とも言えない嬉しい気持ちがこみ上げて来て、体中いっぱいになる」

生徒たちもまた、芳平を慕った。教え子の中沢優子さんは、その思い出をこう語る。「ともかく優しかったんです。先生でありますっていうような威圧的なところがなくて。だから、とっても居心地がいいんです。美術室にほぼ入り浸っていましたね」






■抜けた空



生徒たちの清らかな純粋さに触れ、宮芳平の画風は明らかに変わった。

ドリアン助川さんは言う。「もう全然違う人ですよね。どうですか、この青空の鮮やかさ」

『茜さす山』

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生徒たちをよく教室の外に連れ出したという芳平。自分もまた、雄大な大自然のなかでのスケッチをともにした。

『けしの花』

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芳平はこう記す。「いま、雑草の頭を越えて、大きな花が丈高く咲きました。私はなぜこの花が好きなのでしょう。わかりません。紅にしろ、また白にしろ、純粋とはこのようなものだと教えてくれるような気がします」



純然たる大自然、そして無垢なる子どもたちにより拓かれた、宮芳平の画。

ドリアン助川さんは言う。「いま純粋にこの花をまえにして、蝶も蜂もいたでしょう、香りもしたでしょう、光も輝いていたでしょう。それが嬉しくて嬉しくてしょうがない。細胞が喜んで描いている。金ないけど、今日も幸せだなオレ、みたいな。その無邪気な感じが伝わってきますね」

野地耕一郎氏は言う。「絵の具と一緒に遊んで、キャンバスに一緒に飛び込んでるという感じ。信州に行ってからの彼の絵は、点描主義とかそういう理論じゃなくて、見たまま。花なら花、自然そのままを全部描きたいっていう気持ちが絵になっている」






■拙さ



芳平は生徒たちにこう教えていた。

「形などいくら崩れたっていい。絵の命はそんなところにない。むしろ崩れているところに本当の正しさがあると言いたいくらいだ。だからあなた方は、絵の稽古など必要じゃあないんだ。ただ、あらゆる情熱と根かぎりの誠実と、力いっぱい投げ出して描いていけばいいんです。それだけで、どんな素人でも完全な芸術を生み得る。いや、芸術とはその他にはないんだ」

そうした教えを端的に表すために、芳平は「養拙(ようせつ)」という言葉を用いた。「拙(つたな)さ」を養うという意味である。

野地耕一郎氏はこう解説する。「拙いっていうことを、すごく積極的にとらえているのです。つまり、子どもたちの絵を見るとやはり幼い『拙い絵』ですよね。でも、拙いということは決して消極的なことではなく、むしろ童心に帰るということ。生まれたままの資質をそのまま、大人になってもうまくうまく持ち続けるということ。それが人間にとって最も大切なことではないかと思いはじめるんです。大人になると拙さを擦り減らしていくわけですが、その拙さを養いながら大切にしていく、そこに何か光があるだろうということだと思うんです」



巧まずして描く。芸術的な企みはもはや、芳平の絵から影をひそめた。

結果的に、教師になったことは彼にとっての堕落ではなかった。むしろ、彼はそのことによってどんどん純化されていったのであった。



芳平は記す。



一枚の絵がうまくいくことと、一つの授業がうまくいくことと、どっちが楽しいだろうか。

とにかく一つの絵がうまく行くと、一つの授業がうまく行く。一つの授業がうまく行くと、一つの絵がうまく行く。

この二つはどうも二つではないようだ。

一つのようだ。






■妻



心は開けたものの、生活は依然厳しかった。

売れぬ絵に、高価な絵の具の代金ばかりがかさんでいった。「いい絵を描くためには、いい絵の具が必要だ」。そう言う芳平を、妻のエンは黙って支え続けた。



一本の絵の具を買えば悲し
子供のゴム靴はまた一と月と延びたり

二本の絵の具を買えば悲し
わが帽子はもとのままなり

三本の絵の具を買いし時
医者に薬代払わざりき

かくして十本の絵の具を買いし時
吾が小さき絵は出来上がりたり





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8人の子供の面倒をみていた妻エン。宿痾となっていた肺病は、彼女を苦しめ続けた。

「結核が重くなってきて、医者が栄養のあるものを摂らせなさいと言うが、栄養のあるものが買えなかったんで」と、孫の大地さんは言う。

「最後、おばあちゃんが死ぬときは苦しそうだったって聞きました。洗面器いっぱいくらい血を吐いて死んだらしいです」



47歳という若さで、エンは他界した。

「なかなか良くしてあげられなかった。絵を投げうって看病にあたるとか、そういうことがしてやれなかった。そうした忸怩たる思いっていうのは、ずっと引きずっていたんだと思うんです」

孫の大地さんは、祖父・芳平の心境をそう思いやる。



葬儀のさい、芳平は自分が書いた妻の肖像画を遺影がわりに飾ったという。

『妻』

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■晩年



はじめは3〜4年と考えていた長野での教員生活であったが、一年また一年と延び、ついには35年という長き歳月がすぎていた。

定年を迎えても芳平は、ずっと諏訪に暮らした。教え子や友人たちが金を出し合って、アトリエを建ててくれたからだった。

今の残るそのアトリエ。壁には「こはわが城わが砦、われここに死なん」という、自身が掘った文字がぶら下げてある。



1966年、73歳となった芳平は、かねてよりの念願であったヨーロッパ・中近東の「聖地巡礼」へと旅立つ。心ある人々の助力により、それが叶った。聖書の教えにはずっと心ひかれていたのだ。

ローマやエルサレム、聖地を巡りながらスケッチを重ねた宮芳平。その成果は14枚の連作、「聖地巡礼シリーズ」へと結実した。

その中には、『マグダラのマリアの悲しみ』『エフタとその娘』など、聖書にも登場する女性たちの受難の物語が描き込まれた。それは、尽くしてくれた妻に対する慚愧の念であったのかもしれない。




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77歳、末期ガンを宣告された芳平は、そのわずか半月後に帰らぬ人となった(1971)。

一度も裕福になることはなかった。

一度も名声が世に広まることもなかった。

それでも彼は描き続けた。文字通り、死ぬまで描き続けた。



絶筆となった『黒い太陽』。

この太陽に黒い絵の具を塗ったあと、芳平は病院へ運ばれたという。




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晩年の彼は、太陽というモチーフを多く描いている。

井浦新さんはしみじみと言う。「一筆の重みというか、最終的にたどり着いたのが、この太陽」

野地耕一郎氏は「無心の絵といっていいかもしれません」と言う。「そこに打算のようなものがまったく入り込んでいないですよね。初めて見る人たちは、純粋な絵だと直感するんじゃないでしょうか。彼はこれで完成だとは思っていなかったと思いますが、でも未完成ななかに純朴な自分がどれだけ出ているかっていうことを、ずっとやってきたわけです。最初は抜き身の刀のような鋭さだった彼の画も、その刃はもうボロボロになっている。だけど、人生と画業一つになって鍛えられた刀は太くて頑丈で重みがあって、偉大なる鈍(なまくら)となって、こういう絵になっているのかなと思います」

去年(2013)、生誕120周年をむかえた宮芳平。生前は無名だった彼の絵がいま、多くの人々の共感を得て、高く評価されている。初となる大規模な回顧展は、全国各地に新鮮な驚きをもたらしている。



最後にふたたび、彼の言葉をひく。



絵の具がたくさんくっついているからといって、良い絵とは言われない

ただ私の場合、よたよたとして歩こうとした私の正直を見てもらいたい。













(了)






出典:NHK日曜美術館
「野の花のように描き続ける 画家・宮芳平」



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posted by 四代目 at 08:43| Comment(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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