2014年07月14日

ヨーガの里にて 〜死と復活〜 [中村天風] その3




ヨーガの里にて 〜壺中の水〜 [中村天風] その1

ヨーガの里にて 〜心と病〜 [中村天風] その2

からの「つづき」






■恐れ



「病は必ず治る」

カリアッパ師は力強く断言した。



しかし、こうも続けた。

「治るけれども、時がくれば死ぬ」



それが天の摂理だと、三郎(のちの天風)もわかっている。

しかしそれでも、死を恐れる気持ちを禁じえない。自分の病が治るとは、自分自身が信じきれていない。



「人間は、とかく死を恐れる」

三郎の心中を見透かすように、師は言った。



三郎の心は大きく動揺した。彼は幼少より武士の教育を受けてきただけに、死を恐れるということを最大の恥辱と考えてきたのである。

<死を恐れるなど、男子としてあるまじきこと>

しかし、今の自分は明らかに死を恐れている。故国を遠く離れた、このインド山中で野垂れ死ぬことを。それを認めないわけにはいかなかった。



師は言う。

「いずれ死ぬことが分かっているなら、それを恐れたり気にすることなどない。同じ死ぬなら、気にしないほうが気楽だろう。死にもしないうちから、死ぬことを気に病むなど無駄なことではないか。いや、無駄以上に滑稽だ」



その言葉は、三郎の胸にズンときた。

じつは三郎も、ロシアの戦場ではずっとそう思ってきた。戦争という異常な心理状況においては、三郎も死などは少しも恐れなかった。殺すか殺されるか、そんな修羅場を三郎は何度も斬り抜けてきたのである。









しかし今は違う。

平和のなか静かに迫る死とは、かくも恐ろしきものなのか。

<同じ死との対決であるにもかかわらず、条件が変わるとこうも情けなくなってしまうのか…>

三郎は、そんな自分を嘆かざるをえなかった。






■眠り



「お前は戦争のときにも、同じような体験をしたそうだねぇ」

「はい。戦争では二度か三度、『もうダメだ』と覚悟しました」

「でも、その時も夜になったら眠っただろう」



「…」

三郎は、師の言わんとするところをつかみかねた。



師は構わずに続ける。

「あのな、死は『目覚めない眠り』、つまり永遠の眠りと言うねぇ。その通りだよ。夜よく眠っている間は、死んでいる時とまったく同じなのだ。とすればだ、われわれ人間は毎晩眠っているわけだが、それはそのまま毎日死んでいるのと同じことなのだ」

「…?」

「もっとはっきり言うと、人間は毎晩死んで、毎朝生き返っている」

「…?」



「では、永遠の眠りと、普通の眠りの違いを知るのは誰だ?」

「…」

「お前が眠っているとする。そのとき、『よく寝ている』と思うのはお前自身かね?」

「いえ、違います」

「そうだろう。眠っていると自分で思っていたら、それは眠っていない証拠だ。つまり、それが判るのは本人ではない。周囲の者がそう判断するのだ。その眠りに命があるかどうかは関係ないのだよ」



「では聞く。毎晩眠るのは恐ろしいことか?」

「…いえ」

「そうだろう。むしろお前は眠ることを楽しんでいるからな。私が、小屋へ帰って寝ろ、そう言うと、お前はじつに嬉しそうに帰っていく。眠るのも死ぬのも同じことなのに、お前は一方を恐れ、一方を楽しんでいる。それはおかしいだろう」



「…う〜む」

三郎は唸った。

「それとも何だ、永遠の眠りは長すぎるから嫌なのか?」

「…」

「それは大きな間違いだぞ。なぜなら、眠りのなかに時の流れはない。時間という観念は、心の働きがあってこそのもの。眠っている人間には時の流れなど感じられない。どれくらい寝ていたかは、目覚めたあとにしか分からないのだ」

「…」

「つまり、一夜の眠りであろうと、永遠の眠りであろうと、その違いはない。あるのは考え方の違いだけであり、それが死への恐怖というものなのだ」






■時間



眠っているときの時間は感じられない…?

そう言われると、三郎には思い当たる節があった。



それは戦場でのこと。

三日三晩、眠り続けたことがあった。

しかし起きたときに部下から、「三日もたっているんですよ」と言われても、まったくその実感が湧かなかった。



あの時は、見張り台の上から落ちたのであった。

敵から正確極まる射撃をうけ、とっさに身を投げたのである。幸い、落下地点には刈り取ったばかりの高粱(コーリャン)が山と積まれていたため、それがクッションとなって命は助かった。だが、意識は失ってしまっていた。



「あれから三日もたっているのか…?」

まったく信じられない。三郎には「ほんのわずかな間、気を失っていた」としか思えなかった。

もし部下から「三日も眠り続けていたのですよ」と聞かされなかったら、そんなことは夢にも思わなかっただろう。



いま思えば、あの不思議な体験は、「眠りに時の流れはない」という師の言葉そのままであった。

<あれが10日、20日と続いていても、目覚めたときは同じだろう。いや仮に、1ヶ月、2ヶ月つづいたとて、きっと同じことなのだ>

どう考えても、時というものは目が覚めないかぎり出てこない。

<もし、あのまま息絶えていたら…?>

三郎は死んだことに気づかなかったかもしれない。



そう考えると、死が恐いと感じるのは、他人の死を自分と重ね合わせた結果のように思われた。

逆に、自分にとっての自分の死とは、むしろ他人事なのかもしれなかった。






■ヨギの死



とある夕べ、ヨーガの里が騒然としていた。

老爺が言うには、つい今しがた、死んだと思われていた一人のヨギ(ヨガの行者)が、10年ぶりにひょっこり山奥から帰ってきたのだという。



山奥というのは、三郎が修業をしている大滝のそのまた向こう、そのまた奥である。

昼なお暗いというその鬱蒼とした密林には、虎や豹、猛毒のコブラなどがうようよとひしめいているという。そのうえ、悪性のマラリア、コレラなどの病原菌までが蔓延しているのだそうな。

そんな恐ろしげな森が、ヨギたちの最終修業場(アシュラム)とされていた。山中に入ったが最後、生きて帰らぬものも多かった。この難行苦行を完遂して最高の境地に至ることができるのは、100年に一人いるかいないかだった。



そうした稀な修行者が、この村に帰ってきたのだ。

そのヨギは、60くらいの年齢に思われたが、老人めいたところは少しもなかった。



師は三郎に言った。

「お前は、よくよく運が良い。これから行われる行は、滅多に見られるものではない。一言でいえば、死んだ人間が生き返る」

「…?」



広場には皆が集まっていた。

その中央には白い布が敷かれている。

そのヨギは、布の上に坐を組んだ。カリアッパ師をその正面に見据えている。



場には、極度の緊張感がみなぎっていた。

三郎には、それが武士の切腹の場面のように思われた。



そのヨギの打坐(ダーラナ)はしばらく続いた。

そして、おもむろに両手で自分の首を絞めはじめた。

ヨギの顔面は激しく紅潮した。

三郎は思わず身を固くした。



がくり、とヨギの首が傾いたとき、血の気はすっかり失われていた。

次第に前のめりとなったヨギは、力なく崩れていった。



敷かれていた白い布に、ヨギはそのまま包まれた。

用意されていた棺が運び込まれると、白布ごとヨギはその中に納められた。

棺は大理石でできており、その重い蓋が閉められた。



近くには、すでに2mほどの穴が掘られており、棺はそっとその暗がりへと降ろされた。

そのまま棺は埋められ、あとにはこんもりとした墳墓ができあがった。



なんという不気味な行であろうか。

三郎は茫然と、盛られた土を眺めていた。

<もし生き返らなかったら…?>

というより、生き返ったヨギの姿など三郎には想像もできなかった。






■儀式



七日七夜がたった。

その間、見張りのヨギが交代であの墳墓を見守り続けていた。



そして8日目の朝

いよいよ掘り起こされた。



広場の中央には、あの日と同様、白い布が敷かれていた。

棺から出されたヨギの体は、あの日のまま白布に巻かれていた。

そしてゆっくりと、白布がはがされていく。



<死んでいる…>

遠目にも、三郎にはそう見えた。

ヨギの手足はミイラのように細くひからび、皮膚は土の色をしていた。

どう見ても、それは屍体であった。



そのヨギの体を、4人のヨギが囲んだ。

そして、そのこわばった体に油(ギータ)を塗り込んでいく。さらに白い粉をふりかけると、今度は体の各所を丹念に揉みはじめた。

あたりには読経のような声が鳴り響いている。どうやらそれは古典サンスクリット語のようであった。



30分ほども経ったであろうか。

<あれっ?>

三郎にも変化がわかった。

枯れ木のようだったヨギの体に、いくらか潤いが出てきたのだ。



もちろん、4人のヨギもそれに気がついている。

彼らの揉む手は、いっそう活発になった。

すると皮膚には赤みがさし、筋肉には弾力がでてきた。



三郎は我を忘れて、凝視していた。

赤味が全身にひろがると、死人のようだったヨギの顔が、生きた人間のそれのように見えてきた。



広場の誰もが、もう確信していた。

その復活を…!






■復活



ヨギの胸がかすかに動いた。

呼吸が戻ってきたのだ。

その呼吸は次第に大きくなり、今はヨギの胸をはっきりと上下させている。



そしてついに、ヨギの目が開いた。

彼はそっと身を起こすと、白布の中央にしっかりと坐を組んだ。

正面のカリアッパ師は、静かに微笑んだ。



周りの者たちは、一斉にひれ伏した。

三郎も、すっかり身を投じていた。



ヨーガ最高の行とされる「入定(にゅうじょう)の行」は、こうして終わった。

その瞬間、そのヨギは「偉大なる聖者(グレイト・ヨギ)」の一人となった。



生命の復活

その信じられないことが現実になった。

この荘厳なる光景を目の当たりにした三郎は、ただただ夢中で、心打たれるばかりであった。いつもの科学的な屁理屈など少しも頭に浮かばなかった。






■死の曖昧さ



翌朝、カリアッパ師は「入定の行」について話してくれた。

「あのヨギとて、必ずしも生き返れるとは限らなかったのだ。そうだな…、3人のうち2人くらいは、そのまま永眠していく」

「えっ? そうなんですか…」

三郎は驚いた。よみがえりの確率は3分の1くらいしかなかったのだ。それでもあのヨギはそれに挑んだのだ。まさに命を賭して。



「でもな、生き返れなくとも同じなのだ。だいいち当人は七日七夜、土の中に埋められていたことなど覚えていない。覚えているのは、自分で息をつめていったところまでだ。そして、次に目を覚ましたときにようやく、『ああ、そうか、息をつめたのだったな』と思い出すだけなのだ」

そう言う師は、この入定の行をかつて二度も行ったのだという。

「あの時は、自分は死んでしまったと思っていたよ。ちょうどそれは、お前が毎晩、楽しく小屋に帰って眠る、それと同じことなのだ」



「そんなものですか…」

なんだか、死ぬことを恐がるのが馬鹿らしくも思えてきた。

そして、ついこんな軽口を叩いてしまった。

「できれば私も…」



すると師は「馬鹿なことを言うな」と三郎をたしなめた。

「お前なんかがやったら、それっきり、二度とこの世に帰ってこられないだろう。あの行ができるまでには、少なくも30年はかかるのだ。お前がもし、あの山奥の修業地(アシュラム)に入ったら、おそらく3日と生きていられない。すぐにでも猛獣にやられてしまうだろう」






■クンバハカ



師は言った。

「まずお前は、クンバハカというものを悟らなければならない」



「え? 何ですか、それは?」

師は答えた。「もっとも神聖な状態だ。心と体をその状態にすることができれば、猛獣も襲ってくることはできない」



「では、そのクンバハカというのは、どうしたらできるようになるのですか?」

師は言う。「言葉で教えることはできない。自分で悟るよりほかない。あえて言うなれば、体を『壺の中へ水をいっぱいに入れたような状態』にするのだ」



クンバハカ

これは修業を重ねたヨギたちにとっても、なかなか通過できぬ関門らしい。

村には100人を越すヨギが住んでいるが、そのうちでクンバハカを会得しているものは、ほんの一握りしかいないとのことであった。あの老爺でさえ80歳をすぎた今でも、その悟りは得られていないのだという。



のちの話ではあるが、この難題は、三郎にとっての最終命題となる。

そしてそれはもう、そう遠い話ではなかった。













(つづく)

→ ヨーガの里にて 〜悟り〜 [中村天風] その4(完)






出典:『ヨーガに生きる 中村天風とカリアッパ師の歩み』おおいみつる



関連記事:

ヨーガの里にて 〜壺中の水〜 [中村天風] その1

ヨーガの里にて 〜心と病〜 [中村天風] その2

「切腹」にみる責任と犠牲。生死と自他の境に想う。



posted by 四代目 at 07:12| Comment(0) | 心身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: