2014年07月11日

ヨーガの里にて 〜壺中の水〜 [中村天風] その1




どうにもならぬ暑さ

熱砂の地、エジプトのカイロ



その熱気のなか、中村三郎はぼんやりとレストランに座っていた。

テーブルには運ばれてきたスープがあった。だが、それに手をつける気は起こらなかった。



さして広くもないレストラン。

三郎の他には、この暑さのなかでガウンを羽織った老人と、それに従う侍者2人ばかりが居た。



「どこかの豪族かな?」

三郎は思った。侍者の一人は、孔雀の羽根の団扇(うちわ)でゆったりと老人に風を送り、もう一人は傍らにひざまずいている。

彼らはアラビア人というより、インド人、いや日本人にも見えた。いずれにせよ、相当の地位をもっている人物のように思われた。老人の長い白髪は、そうした気品を感じさせた。



三郎の視線に気づいたのか、老人はやおら三郎を手招くと、こう言った。

「あなたは、右の胸に大きな病をもっていますね」

三郎は驚いた。いま会ったばかりの老人に、右胸の空洞を見抜かれたのだ。このレストランに入ってからは、あの結核特有の軽い咳もまったく出ていないというのに。



当惑する三郎をよそに、老人は静かに続けた。

「その病を持ったままでは、あなたは自分の墓穴を掘ることになるでしょう」

なんと残酷な言葉か。病人には禁句ともいえる死の宣告。だが、不思議と三郎の心は乱れなかった。老人の言葉には、三郎の心を傷つけぬだけの深い慈愛、そして温もりがあった。



三郎は、ぽつりぽつりと答えた。

「もう助からないことは自分でもよく承知しています」

「どうせ死ぬなら、故国日本の土をもう一度だけ踏みたい。日本へ帰って死にたい…。そう思ったら、もう矢も盾もたまらずフランスを発っていたのです」



時は明治43年(1910)、中村三郎33歳。

その当時、結核といえば不治の病であった。なんら有効な治療法もなく、とりわけ若者の死亡率は高かった。






■結核



「なぜ、治すことを考えないのじゃ?」

老人はそう問いかけてきた。

三郎は医師である。自分の病のことは誰よりも自分が知っていた。自分のように大きな空洞が2つもできてしまっては、もう死よりほかに道はない。できることといえば、栄養と安静を保ち、一日でも命を永らえさせることのみだった。



「医学では、ダメだと言うのかね?」

三郎が医師だと知ると、老人は重ねてたずねた。

「いや、な。医学がダメだからといって、それ以外に方法はないのか、と」

三郎に返す言葉はない。



「助からない、というのは、自分でそう思っておるだけだろう」

この老人の言葉を、三郎は理解しかねた。

「自分でダメだと思っておるようじゃが、私の目には、あなたはまだ死なねばならぬ人間とは映らない。とにかく、あなたはまだ一番大事なことに気づいていないのじゃ。それさえ分かれば、あなたは死なずにすむじゃろう」



三郎には、この老人が結核のことを少しも分かっていないように思われた。自分のような重症患者が助かろうはずはない。医学的な知識があれば「まだ助かる」などとは到底言えたものではあるまい。

そうは思ってもしかし、三郎は老人の言葉に希望を感じたのも、また事実であった。老人には親のような愛の情が感じられた。

ふつう結核患者とわかっただけでも、汚いものを避けるように逃げてしまう人が多かった。ところがこの老人は、自分を少しも厭うことなく顔まで近づけてくるのである。



「どうだろう、あなたがまだ気づいていないこと、それを私が教えてあげようではないか。そうすれば死なずにすむ」

「えっ…?」



「これから私は国へ帰るのだが、どうかな、私と一緒について来ないかね?」

そう言われた三郎は、考える間もなくはっきりと答えていた。

「はい。参ります」

そう力強く言ってしまったあと、三郎は迷いのなかった自分に驚いた。第一、この老人の名前はおろか、どこの国の人かも知らなかったのだから。



三郎はなぜだか確信していた。

結果などはどうでもよい。ついて行って、そこで死んでしまっても構わない。悔いることなどあるものか。

三郎にそう思わせるほど、老人には徳の高さが感じられた。そこに疑念や迷いなどは入り込めようがなかった。






■カリアッパ師



老人が去ったあと、三郎は茫然としたままだった。

「あなたは幸運な人ですね」

その声に、三郎は我に帰った。見ると、レストランのマネージャーがそこに立っていた。



「えっ? 何が幸運なんですか?」

三郎は思わず聞き返した。

するとマネージャーは驚いたように言った。

「あの方をご存知ないのですか? あのお方はね、ヨーガ哲学の大聖者、カリアッパ師ですよ!」



そう言われても三郎にはピンと来なかった。

ヨーガという言葉すら聞いたことがなかった。

専門家ならいざ知らず、日本でヨーガという言葉が一般的になるのは戦後の話である。そして何より、本格的にヨーガを日本に伝える一人は、この中村三郎なのであるから。






■長途



翌朝、中村三郎はカリアッパ師とともにナイル河岸にあった。

そこにはヨットが繋留されており、師はこのヨットでロンドンまでの長旅から帰る途上であった。

そこから陸路に沿って、途中の港々に停泊を続けながらカラチ(パキスタン)にまでたどり着くと、今度はラクダの曳舟に乗り換えて、インダス河をさかのぼって行った。



病み衰えた三郎の身には、過酷な旅路であった。

強烈な太陽は、遠慮会釈なく照りつける。

広大な平野を延々と、三郎はラクダの背に揺られ続けた。旅の途上、三郎はどこへ向かっているのかずっと知らなかった。この灼熱地獄の日々がいつ果てるとも知らなかった。



出発から90日も経った頃であろうか。

ようやく一行は目的地へとたどり着いた。

そこはヒマラヤの高峰、カンチェンジュンガ(標高8,586m)の麓であった。



その村は、険しい岩山を背にした谷間にあった。点在する民家は、どこか日本の農家を思わせ、三郎の弱った心を妙に懐かしがらせた。

<よくもまぁ、ここまで身体が保ったものだ…>

それが三郎の偽らざる感慨であった。その昔に鍛え抜いた強靭な肉体は、病にだいぶ冒されながらも、どうにか余力を保っていたようだった。



ロバにまたがった三郎は、カリアッパ師についてその集落へと歩を進めた。

すると驚くべきことに、集落の人々は皆一様に地面にひれ伏しているではないか。その数も尋常ではない。小さな村のそれに留まらず、カリアッパ師の帰国を聞きつけて遠路はるばる大勢の人が押し寄せていたのである。

三郎は改めて、カリアッパ師の集める尊崇、その偉大さを思い知るのであった。三郎はただただ、この辺境の地の異様な光景に圧倒されるばかりであった。






■羊小屋と鳥のエサ



「ここが今日から、お前のねぐらだ」

三郎にそう示されたのは、明らかに羊小屋であった。

<こんなところで寝ろというのか…>

三郎は内心不満であった。案内したのは、カリアッパ師の紹介してくれた一人の老爺。村で唯一、英語を少し話せる人物だった。



「あ、そうだ。裸になって、これを腰に巻け」

そう言って手渡されたのは、青いシマ模様の布一枚。

<これで文明の世とも、当分お別れだな…>

丸裸になって腰布一枚になった三郎は、そう覚悟した。



「食べろ」

無遠慮に差し出されたのは、葉っぱに包まれた大根や人参、芋とおぼしきものだった。恐る恐る口に入れると、ほどよい塩味。悪くはない。しかし、もう一つの包みに入っていた稗(ひえ)は頂けなかった。

<生のまま、稗を食べるのか…>

都会育ちの三郎にとって、稗といえば鳥のエサとしか思えなかった。



「肉や魚はないのか?」と三郎は聞いた。

すると老爺は「そんなものは人間の食べるものではない」と取り合う気配も見せない。その代わり、山野に実っているバナナやマンゴーはいつでも好きなだけ食え、と言った。

三郎は急に不安になった。平時ならまだしも、病身の自分には何よりも栄養が必要だというのに…!



3ヶ月にわたる長旅を終えたばかりの三郎の肉体は、とうに限界を越した状況にあった。そして体とともに心のほうも疲れ果てていた。

<挙げ句の果てが、羊小屋と鳥のエサか…>

もはや考えるという気力も湧かず、ただ頭が朦朧とするばかりであった。






■象と人間



翌朝、三郎の寝る羊小屋のまえを、カリアッパ師が通りかかった。

ここでの三郎は、おいそれと師に話しかけることは許されない。ひたすら路傍にひれ伏すのみ。



幸いにも、師は話かけてくれた。

「どうだ、昨夜はよく眠れたか?」

「はい、疲れきっておりましたゆえ」

「そうか。それなら朝の気分も良いであろう」

「いいえ。どうにか保っているといったところで、気分が良いなどというところまではゆきません。熱もあり息切れもひどく、参っております」



ひれ伏しながら、三郎は恐る恐る師の顔色をうかがった。

師は無表情に、三郎を見下ろしていた。その冷たさに三郎は一瞬ひるんだが、思い切ってお願いをした。

「じつは食べ物のことなのですが、このままでは私の身は保ちません。贅沢やわがままで言うのではなく、この病には栄養が必要なのです」



治療法の欠いていた結核という病に対して、当時はできるかぎり栄養を摂ることが奨励されていた。三郎もそれに従い、肉や魚を嫌でも食べてきた。じつは弱りきった身体にとって、脂っこい肉や魚はノドを通りにくい。それでも三郎は無理に食べていた。それが最善の治療法と信じて疑っていなかった。

それに、これ以上は痩せられぬ、という思いもあった。かつて60kg近かった体重は、もはや40kgもない。骨と皮だけになった肉体に、少しでも栄養を与えてあげたかった。

「私の身体には、肉や魚がどうしても必要なのです」

三郎は切に訴えた。結核患者にとって動物性タンパク質がいかに重要であるかを、諄々と説いた。



しかし師は無関心に、三郎の長い言葉が途切れるのを待っていた。そして草むらを指差した。

「あの象は、いったい何を食べていると思う?」

「…」

「藁(わら)だ。それでもいっこうに痩せもしないし力も落ちない。あれとお前とどちらが大きい? お前はあのシッポほどの重さもない」



話をはぐらされたと思った三郎。必死で言い返した。

「象と人間は違います」

しかしカリアッパ師は、三郎の言葉を取り合わない。

「人間も象も同じだ。お前がどう言おうと、ここの人間は肉も魚も食べないから、皆丈夫で長生きできるのだ」



そう言うと、師はくるりと背を向け、去ってしまった。






■生い立ち



中村三郎は明治7年(1874)、東京に生まれた。

父・中村祐興は大蔵省に勤めていた。三郎が幼少より英語に堪能であったのは、イギリスから招かれた技師らと身近に接していたからであった。近くには、日本で初めての洋紙工場(今の王子製紙)があった。

文明開化に浴した三郎少年は、ずいぶんと生意気、そして腕白であった。喧嘩などは日常茶飯事。鼻血は当たり前、時には指をへし折る、手のつけられぬ暴れん坊ぶりであったという。中学では刃傷沙汰を起こして退学処分とされてしまった。









日露戦争がはじまると、三郎はロシアへと従軍した。

終戦とともに生きて帰ったはいいが、この時であった、結核を発病したのは。

救いを求めて、三郎はアメリカへと渡った。がしかし、得るところはまったくなし。イギリス、フランスと転々とするも、胸の空洞は広がるばかりであった。



三郎がエジプトでカリアッパ師に出会ったのは、すべてを諦めて日本へ帰ろうとしていた時のことだった。

不思議と、カリアッパ師のそばにいると安らぎがあった。一時的にしろ、死への恐怖から遠ざかることができた。



しかし、あれから一ヶ月、三郎は師に声すらかけてもらえなかった。

地面にひれ伏す三郎には、頭を上げて師の尊顔を拝むことすら許されていなかった。

それほどカリアッパ師はこの里における絶対的な存在であり、一転、三郎は家畜以下の身分だったのである。



心まで病んでしまっていた三郎には、すべてが恨めしく映った。

村の者たちが嬉々として働くさまさえ忌々しく思われた。

夜明けの美しさなど知るよしもなし。それはただ暑さのはじまりを告げる嫌なものにすぎない。早くから起きている羊など、蹴飛ばしてやりたい気持ちだった。



身体は鉛のように重い。

頭の芯には、いつも微熱がある。



<なんで、こんな山奥にまで来てしまったのだ…>

カイロで初めて会ったカリアッパ師は、確かに真情にあふれていた。だが、この村ではどうだ。声ひとつかけてくれない。

<自分が気づいていない一番大切なことを教えてくれるはずではなかったのか…?>

三郎の身命を賭けた一縷の望みは、遠のいてしまったかのように感じられた。師の足音が遠ざかるたびに、三郎の失望は深まるばかりであった。



<なぜこうも、自分だけが不幸であるのか。どうして、これほど惨めな思いをしなければならないのか>

三郎は心の底から、天を恨んでいた。






■村



村の人の言葉はレプチャ語である。三郎には何を言っているのか、さっぱり分からない。唯一、話相手となってくれるのは、食事を運んできてくれる老爺だけであった。

「朝メシを持ってきたぞ」

朝と夕、老爺は決まって食べ物を持ってきてくれる。そして一緒に、なにがしかの話もしてくれる。



つい三郎は、カリアッパ師のことを愚痴った。

「師はカイロで大事なことを教えてやると言った。でも、いつになったら教えてくれるのだろう…。こっちから声をかけてはいけないと言われているし」

すると老爺は「心配するな。待っていればいい」と気軽に答える。



時計など見たこともない村人たちは、そもそも時の感覚が自分とは異なっているように思われた。

老爺は「待っていろ」と言われれば、何時間でもそこに座ったままジッと待っている。自分の年齢すら定かでない。彼らにとって、時は「現在」しかないようであった。

そうした長閑(のどか)さは、三郎にとっては原始的というよりも、超人的にすら思われた。



そのように時に頓着しない彼らであったが、こと村の掟には厳正に従っていた。

インドには古来よりカースト(階級制)というものが存在し、たとえばカリアッパ師は村に数人しかいないブラミン(司祭者)という高い身分にあった。さらに師はヨギ(ヨガの行者)としても最高位の大聖者である。

一方、三郎はといえば身分は最下位のスードラ(奴隷)。それでも、それは師の恩情であった。というのも、奴隷でなければこのヨーガの里に入ることすら適わなかったのだ。それほど部外者に対する警戒心は強かった。



名目上、師の奴隷とされた三郎であったが、そのお陰で、三郎はいつでも師に従うことが許されていた。そして師から直接の教えを受けることも。

だがしかし、「生徒の準備ができたときに教師があらわれる」と言われるように、じつは三郎のほうにその準備ができていなかったのである。



そんなことも露知らず、三郎は不満と不安を募らせるばかりであった。

そして早2ヶ月が経とうとしていた。






■準備



先のことにばかり心を囚われていた三郎は、意を決した。

<よし。もうどなってもいい。カリアッパ師に聞いてみよう>

師に話しかけてはいけないという、村の掟を破る決心をしたのであった。



その日、村では儀礼が行われていた。

高弟を従えた師はおもむろに姿をあらわした。

大地にひれ伏した人々の間からは咳(しわぶき)ひとつ聞こえない。まことに静粛な雰囲気であった。



いつもは女子供たちのずっと後ろに控えていた三郎であったが、この日ばかりは、皆の最前列に陣取っていた。

師が静かに三郎の前を通り過ぎようとした、その時、三郎はガバっと、上げてはならぬ顔を上げた。そして直言した。

「お尋ねしたいことがあります」



「ほう、何かね?」

師は意外にも優しげであった。それに勢いをえた三郎、一気に言った。

「エジプトのカイロで、初めてお会いした折りに言われた、あのお約束は、いつ果たしていただけるのでしょうか?」

師は答えた。

「いつでもよろしい。私はすぐにでも教えたかったのだが、肝心な教わる方の準備がまだだったので、ずっと待っていたのだ」



三郎はキョトンとなった。そして言った。

「準備は初めからできているつもりです」

しかし師はすげない。

「いや、できていない。毎日お前の姿を見るたびに、『まだ準備ができていないのか。いつになったら教わる気になるのだろう』、そう思っていたのだ」



こうなると訳がわからない。師はなにか勘違いでもしているのではなかろうか。

困惑している三郎に、師は言った。

「どうしても分からないのか? では、あの小さな壺に、水をいっぱい入れて持って来なさい」



ますます分からない。

しかし師の言う通りにするしかあるまい。

三郎は渋々、素焼きの壺をもって立った。






■冷たい水



万人注視のなか、三郎は冷水で満たした壺を師のまえに置いた。

すると師は「よし。今度は同じくらいの壺に、お湯をいっぱいに入れて持って来なさい」と言った。

炊事場の釜には大量の湯がいつも沸かされていた。それをそっと汲むと、三郎は「水」と「湯」、2つの壺を師のまえに並べた。



「では、お湯をこちらの壺に移してごらん」

「…? 水がいっぱいに入っている壺にですか?」

「そうだ。その壺に入るかどうか、入れてみなさい」

「…入りません。こぼれてしまいます」

「そうだな。あふれるな。それは分かるな」



三郎は、完全に馬鹿にされている気分であった。

水がいっぱいの壺に、お湯を入れても入るわけがない。

そんな子供騙しのような問答に、エリート意識の強かった三郎は屈辱を感じずにはいられなかった。集まっている周囲の人々の手前もある。知らず、三郎の顔はかっかと火照っていた。



そんな三郎を気にもかけず、師は静かに言った。

「お前の心の中は、この壺と同じだ。冷たい水がいっぱいに入っている。だから、私がいくら温かいお湯を入れてやろうと思っても、それは皆、あふれてしまう。お前が水を空けてくれれば、私もお湯を注いでやれるのだが…」

「…」

「私は毎日、お前が水を空けるのを心待ちにしていたのだ。お前の中には、役にも立たない下らない理屈がいっぱいに詰め込まれている。そんな中に、私がいくら素晴らしいものを注ぎ込んでも、お前はそれを受け取ることができないであろう」

「…」



それだけ言うと、師は歩み去った。

残された三郎は、師の言葉に魂を大きく揺さぶられ、身じろぎもできずにいた。






■裸



思えば三郎は、小さい頃から乱暴ではあったが、学業はズバ抜けて良かった。

何より英語に慣れ親しんでいたことが大きかった。文明開化全盛の時代、学校の授業の多くは英語の教科書が用いられていた。ほかの級友たちは英語の難解さに辟易するばかりであった。英語の得意な三郎の鼻は、いやでも伸びざるを得なかった。

中学校に進めたのも、当時は全国で3万人ほどしかいなかった。そんな中、三郎はアメリカのコロンビア大学に渡り、医学部を出たのである。



三郎は、そんな圧倒的エリートであった。我は恐ろしく強く、理屈はこねるだけこねる。人の話など聞くような人間ではなかった。このヨーガの里へ来てからも三郎は変わらず、原始的な暮らしを続ける村人たちを、どこか心の中で軽蔑していた。

それがカリアッパ師の言う、三郎の中の「水」であった。そして師の一言は、三郎の自慢の壺を打ち転がした。

幸い、三郎はそれに気づけるくらいには賢明であった。同時に、水を空けねばならぬほどに三郎は追い詰められていた。自分の中の知識だけでは、もう自分の命が助かりそうにないことは思い知っていた。



ヨーガの里に着いてから2ヶ月、三郎は肉体の苦痛と極度の不安に苛まされ続けた。

しかしそれは、然るべき代償であったように今は思われた。そうした道を通ることでしか、「裸」に戻ることはできなかった。



ようやく、生徒の準備は整った。

そしていよいよ、ヨーガの修業がはじまろうとしていた。













(つづく)

→ ヨーガの里にて 〜心と病〜 [中村天風] その2









出典:『ヨーガに生きる―中村天風とカリアッパ師の歩み』おおいみつる



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posted by 四代目 at 08:57| Comment(0) | 心身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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