「思い切り、突くように」
空手家・宇城憲治(うしろ・けんじ)師範は言った。
対するは、若き空手の日本チャンピオン。
若者の繰り出した突きは、非常に鋭く、素早く見えた。
だが、その拳が師範の胸に到達する前に、師範の右手がすでに若者のアゴを抑えていた。
若者は冷や汗を流し、凍りついていた。
「全然、見えませんでした…」
傍目には、師範の動きはむしろゆっくりに見えていた。
しかし若者には「突然、アゴの先に拳が現れた」ように感じられた。その始動も途中もまったく感じられなかった、と。
■時間
「相手の時間の中に入れば簡単です」
こともなげに宇城師範は言った。
「相手の動きがスローモーションのコマ送りみたいに見えたら、対処は簡単でしょう。私の場合もそんな感じです。相手が一コマ動く間に、スッと入ればいいわけです」
「時間は伸び縮みするんです」
師範は、まるでアインシュタインのようなことを言う。
「同じ時間の長さでも、好きな人と過ごす一時間と、嫌いな人と過ごす一時間は長さが違う。そうでしょう?」
どうやら、武術の世界では「時間の感覚」が異なるらしい。
「武術は、あくまで自分を主体にします」と師範。
ふつうなら、人間は時間に支配されていると思っている。ところが武術ではその逆、自分が主で時間が従だ、と師範は言う。
「アインシュタインは相対性理論において、それまでの時間の常識をくつがえしました。すなわち、自分の過去・現在・未来が、すでに他の誰かには見えている、分かっているということがあり得るということです」
宇城師範は、武術家であり科学者でもある。サイエンス誌ニュートンには、こうある。
「相対性理論は、過去・現在・未来という時間区分について、驚くべきことを明らかにしました。あなたにとって過ぎ去った過去の出来事や、まだ起きていない未来の出来事が、別の誰かにとっては現在の出来事である、といったことがあり得るというのです(Newton2013年10月号
師範は言う、「無意識という時間のなかに、先が見えているのです。身体が勝手に教えてくれるのです。そもそも『先がわかる』『先を観る』という世界は、昔の武術の世界では必須のことでした」
■いま
「『いま』という時間はあると思いますか?」
宇城師範は問う。
「過去・現在・未来と言いますが、実際には『いま』はないに等しいんです。『いま』と言っている瞬間に過去になっている。すべてはたちまち過去になってしまう。それぐらい、いまという時間は不確かなものなのです」
「『いま』は本当に短くて、無に等しい瞬間です」
そう言って、師範は両手を胸の前で合わせてみせる。
「ですが、いまを生きる日常を重ねていると、『いま』がだんだん広がってきます。『いまを広げる』、これが大事なんです」
合わせた両手は左右にゆっくりと開かれ、両手の隙間が大きく広がっていく。
人間の脳には「いま」を感じる力が備わっている。それは左右2つの脳があるうちの、右脳の機能である。順序をつかさどる左脳が「過去」と「未来」を生み出す一方、右脳にはそうした時間の概念がない。あるのは「いま」だけである。
それを実際に体験した脳科学者の話を、師範はする。
「脳科学者、ジル・ボルト・テイラー博士はある日、脳卒中となり、自身の左脳の機能が徐々に失われていく過程を経て、一時的に右脳だけの世界に至ります。過去、未来といった時間の概念がなくなり、『いま』だけの、静かで安らいだ、すべてのストレスから解放された、非常に幸せで平和な気持ちになったそうです」
その後、テイラー博士は8年かけて左脳の機能を回復させたというが、完全復帰したいまでも、右脳だけの世界、すなわち「いま」だけの世界(博士曰く、ラ・ラ・ランド)に遊ぶことができるという。
■頭と身体
「頭は遅い。身体は速い」
考えたら遅い、身体で動けば速い、と宇城師範は言う。
たとえば運転中、「危ない」と感じてとっさにブレーキを踏むまで、身体は0.2秒かかるという。そして、脳がブレーキを踏んだと自覚するのはもっと遅れて0.5秒後だという。
すなわち、現実世界が脳に描き出されるまでには0.5秒かかるのであって、われわれが頭で認識する世界は正確にいうと「0.5秒前に起こった過去の世界」ということになる。
となると、「いま」という世界はどこにあるのか?
それは、脳が知るよりも先に身体が反応した世界である。つまり、事が起こってから「0.2秒以前」。武術のアプローチするのはその世界であり、一般的には「無意識」と呼ばれる領域である。
師範は言う、「内面のスピード、すなわち無意識の時間領域にあるスピードは、外面とは比較にならない速さがあります。本来、人間のスピードというものは、無意識のなかで培われるものなのです。一方の意識とは、頭が気づく0.5秒後の世界なのです」
もし「意識して」突こうとすれば、もうその時点ですでに遅い。
脳という神経細胞がもつ時間は「1,000分の1秒」といわれているが、細胞一個一個の時間はもっとずっと速い。その1,000倍速い「100万分の1秒」だという。
だから、打とうと意識したり、投げようと意識した途端、技は相手にかからなくなるという。
さらに、「意識は一つの動作にしか向けられません」と師範は言う。手を意識すれば足が、足を意識すれば腹がおろそかになってしまう。
そうした無意識のお手本は、子供だという。
「子供は、その無邪気さゆえに、身体を無意識に使えています」
しかし、子供といえども意識するとダメになる。
「大人に『押せ』と命令されると、とたんに押せなくなります。意識してしまうからです」
■とっさ
たとえば、電車におばあさんが乗ってきた。
「席を譲ろうかな」と意識するのは、0.5秒後の世界。
「気づいたら席を譲っていた」というのが、0.2秒の世界。
師範は言う、「無意識には、頭で考えるという意識が介入しないので、身体にも強くエネルギーがでます。ところが、席を譲ろうかなと迷っているときは意識の世界にとどまっているので、エネルギーもでません」
一般的に大人は客観的であるがために、いつも0.5秒後という遅い世界にばかりとどまることになる。しかし、それはすでに終わった世界。そこでどうこうすることは蓮華の花を捻るに等しい。
宇城師範の塾を受講したある人は、こんなことを書いている。
「日曜日の午後、電車に乗っていました。駅に到着してドアが開いた直後、切羽つまった女性のうめき声を聞きました。すぐに席を立って駆けつけたところ、若い女性がホームと電車のあいだに身体が半分落ちていました。
女性を引き上げたところ、女性が『子供がいるんです!』と私に叫びました。ホームの下をのぞいてみると、4歳くらいの子供がホームと列車の隙間から見えました。両手を伸ばして何か叫んでいました。子供の手が届きそうだったので、お母さんと一緒に腹ばいになって子供を引き上げました。
いま思い出すと、引き上げたときに周りの方たちから拍手があったような気がします。お母さんは子供を抱きしめて泣いていましたが、自分は役割が終わったと思い席に戻りました。しばらくして電車が動きはじめたころに、やっと我に帰った気がしました。急に『ぞっと』しました。
常々、宇城先生に『気がついたときはゴミを拾っている自分になるように』とご指導をいただいています。普段の私はゴミを見ても、通り過ぎてから『これではダメだ』と自分に言い聞かせてから、その場に戻って拾うタイプでした。しかし今回は、考える前に身体が動いていたのです。先生のご指導のお陰で、私の身体も一瞬、統一体になったのだと思います。ありがとうございました」
人のため、と頭で考えた時点で偽りだ、と師範は言う。「身体が先に動いてこそ」だという。「〜のため」は結果にすぎない。
マザーテレサは言う、「愛は言葉よりも行動」。
■統一体
立ったまま、ヒジを宙に浮かせた状態での腕相撲。
宇城師範は、相手がどれほど筋骨隆々であっても、涼しい顔のまま相手をひっくり返してしまう。
「筋力じゃできません」と師範。
20人くらいの人と腕相撲をしても軽々と勝ってしまう。まるでマンガのように。
「身体が一つになっているからです」
それが師範の言う「統一体」である。
先ほどの無我夢中で子供を助けた男性は、「私の身体は一瞬、統一体になった」と書いている。
統一体と反対の言葉が「部分体」。筋トレやサプリメントなどで部分部分を鍛えてできあがる身体である。
しかし、「部分を合わせても全体にはなりません」と師範は言う。
残念ながら今の世界、頭で考えること、そして部分的に身体を強化する傾向が主流である。しかしながら、それは師範の理想とする統一体からは離れていく方向にある。
師範は言う、「教育において知識偏重にあること、スポーツにおいて西洋型の筋力トレーニングによる強化を主体としていること。それらすべては本来の人間がもっている潜在能力を引き出すのではなくて、逆に閉じ込めフタをしてしまっているのです」
「頭の命令で部分的な力に頼ったときと、身体を一つにして生まれる力は次元が違います」
「ライオンや象などの動物が、トレーニングなどをしなくても充分強くしなやかであるという事実は、何を示しているのでしょうか。人間だって筋トレをしなくても、自然体の統一体であれば強いのです」
■呼吸
身体を一つにするのは「呼吸」だという。
「口の呼吸ではありません。大切なのは『身体の呼吸』です」
身体の細胞ひとつ一つがきちんと呼吸する。そうすることで、全身に気が巡る。そうして、頭よりも先に身体が動くようになる。
「身体に気が流れていないと、身体の内部が居着いた状態になります」
居着くというのは、武術の嫌う最たるもの。居着いた瞬間、すぐ投げられる。
宇城師範の師匠、座波仁吉・最高師範はこう言っている。
「だいたい空手の投げの基本は、相手を硬くさせること(居着かせること)。相手に技をかけて瞬間、相手は棒みたいに真っ直ぐになる。いわば、その術をかける。術なんですね、技というより」
たとえば、宇城師範は大の男を「指一本」で抑えてみせる。
「さぁ、起きてみてください」
だが、その大男はどんなに暴れても起き上がれない。
「技がかかっていますから、逃げられません」
大男はすっかり「居着かされて」しまっていた。身体の呼吸はすっかり止まり、口だけの浅くて軽い呼吸になっていた。
「鍛錬することで、呼吸は『呼吸力』に変わります」
「呼吸は筋肉のように加齢によって弱くなることはありません。逆に強くなっていくのが呼吸です」
■姿勢
「正しい姿勢は、型を通してつくられます」
姿勢という字は、姿に「勢い」と書く。
「型によってつくられる外面の姿に、身体の内面の勢いが出てきます。それが正しい姿勢です」
「型は、日常生活の中にもあります」と師範は言う。
たとえば正座のお辞儀。いわゆる土下座。身体が呼吸によって一つになった統一体で行えば、そのかがんだ背中に人を乗せても平気である。
「食事のときだけでも、家族そろって正座をして食べるといいでしょう」
日本文化に根付いている正しい姿勢は、それがそのまま統一体を導く型なのだと師範は言う。「礼儀を正す」それ自体が、いわば身体の鍛錬になるというのである。
箸を正しく持つことも然り。
「箸を使うのも、日常生活の型なんです。正しく箸をつかうと、自然に身体の呼吸が通ります」
それが日本人というものらしい。
ちなみにナイフとフォークでは、日本人は統一体になれないという。
「ほうら、呼吸が止まってる。ナイフとフォークだと呼吸が止まるんです」
口での呼吸ならいざ知らず、細胞レベルでは居着いてしまう。
日本人にとってはやはり、長年繰り返されてきた日常こそが、その心身を育むということである。
もし正座よりも椅子、箸よりもフォークを便利とするならば、日本人は統一体から遠ざかり、頭偏重の部分体に近づいていくことになるのだろう。
■海外
「海外の人は速い」
世界各国の人々に指導する宇城師範。
たとえば「頭より身体」と言ったとき、海外の人のほうが反応が良いという。
ところで日本人は、昔から「身体では欧米人にかなわない」と劣等感を抱いている。
確かに、体格や筋肉などの表面上では劣っているだろう。しかし、武術を日常的にやっていた頃の日本人、「本当の身体」という点では遥かに欧米を凌いでいた可能性もある。
1860年、日米修好通商条約のためアメリカに渡った日本人。
「大小の刀を二本帯刀した礼儀正しき使節たち、無帽のまま動ずる気配もなく、きょうこのマンハッタンの街頭をゆく」と、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンを感心させている。その堂々とした威風と、アメリカ人を圧倒する迫力とが。
師範は言う、「このような背景には、武道と武術に根差した日本の生活習慣がありました。正座や礼儀といった日本人の生活文化は、単なる儀礼や形式ではありません。ひとり一人の姿勢や呼吸をも培ってきたことが、いま武術を学ぶとよく分かります」
皮肉にも現在、日本の武術に対する関心は欧米のほうが高かったりもする。武術が光をあてる身体の神秘に興味津々なのである。
逆に、身体では負けると思ってきた日本人は、「頭の優秀さ」を今も追い求め続けている。日本の武術では、昔から「頭より身体」であるのだが。
■できる
ある席で「文武両道」という話がでた。
そのアメリカ人はこう言った、「アメリカには野球選手でありながら医者になったり、フットボールの選手が引退後、弁護士になったりする。勉強もするしスポーツもする。ところが最近の日本では、そういう人材がほとんどいない」
それを聞いた宇城師範、小首をかしげる。
「文武両道の本質は違うんですよ。ほとんどの人は、文と武の2つができて文武両道だと思っている。そうじゃありません。われわれは文と武、2つで一つという発想なんです」
「文か武か」で論じるようなら、それは文武両道ではない。あるレベルを超えてしまえば「文も武も」となる。師範はそう言うのである。それが「できる」ということだ、と。
「はじめて自転車に乗れたとき、乗り方を本で勉強しましたか? それとも誰かに手取り足取り教えてもらいましたか?」
師範はそう問いかける。
「頭で考えても自転車に乗れるようにはなりません。何度もコケて、コケる中で身体が覚えて、ある瞬間にパッと乗れるようになった人が大半でしょう」
それが武術の「できる」というレベルである。
「一度乗れるようになると今度は、わざとコケようとしてもコケることができません。100%の確率でそれができるようになる。できない、ということがなくなります」
「技というのは、できるか、できないかの世界です。できたら決して後戻りしない。デジタル的なステップアップをするのです」
本当に「できる」ようになるには、「できるまでやる」しかない。
「身体を通して実体験で得た情報は、知識で得た情報とはその量がケタ違いです」
「赤ちゃんは放っておいても1歳を過ぎる頃から言葉を覚え、しゃべれるようになります。しかし英語を中学・高校・大学と10年ちかく学んでも、不思議に会話というコミュニケーションができるようになりません」
■一触
座波仁吉・最高師範は、こう言っていたという。
「理屈の質問を僕は受けません。空手に理屈はいりませんから」
理屈は頭の世界。それでは遅すぎる。
宇城師範は言う、「できる感覚を師匠から『一触』で教えられている人は速いです」
聞くより見る、見るより触れる。百見は一触にしかず。
「師は弟子に映し、弟子は師をまねる」
元来、人間にはミラーニューロンという鏡のような機能があり、他者の行動をそのまま自分に映せる能力が備わっているという。
「身体に身につけた技は無意識化され、とっさに出る技になります。ですが、頭で考えてやった稽古は永遠に無意識の技になりません」
先に時間の話を記したように、無意識とは脳で気づく以前、0.2秒以内の世界のことである。それは細胞のスピードレベルである。
人間には60兆個の細胞があるとされるが、そのうち脳(神経細胞)は0.01%にも満たない。つまり99.9%以上が「考えない細胞」である。
その世界までをも発動させるのが達人の境地。それを言葉で教えることは不可能。それでも一触によって、お互いの身体(細胞)同士は共感し合うことができるというのである。たとえそれが意識できなくとも。
余談ながら、多田宏氏は師匠・植芝盛平(合気道・開祖)の技を60年たった今も克明に再現できるという。60年前に道場でかけられた時の体感記憶が、身体に完全保存されているのだそうだ。
「身体に刷り込まれている」と多田氏は言っている。
技をかけられた瞬間、完全に師匠と同調して、師匠が何を感じているのかが全てわかったそうである。
■細胞
「『細胞先にありき』です」
宇城師範が言うには、母親の胎内で1mmにも満たなかった受精卵という細胞は、脳が先にできるわけではない。
「その細胞分裂の成長過程が、まさに『細胞先にありき』です。脳が先ではないのです。すなわち、脳を優先させる考えではなく、細胞先にありきという考え方のほうが理にかなっているわけです」
それを実証したのが、首から下を動かせなくなった弟子が、杖なしで歩いた瞬間だった。
「私のやり方は、脳→神経→筋肉という従来とは逆ルートの、細胞→神経→脳という方法で、『身体、先にありき』として働きかけるというものです」
それは武術的な方法論であった。
「A君の場合は首の神経が傷つき、そもそも頭の命令でいくら動かそうとしても足を動かせない状態になっていたのですが、身体を頭の命令から細胞の命令に切り替えることで、見事左右の足を高く上げることができるようになりました」
一生歩くことができないと宣告された足は、左右とも高らかに上がった。
師範は言う、「この事実はいまの医療では不可能とされていることでありますが、それは、いまの医療が目に見えるもののみが存在するという古典物理学に基づく物質主義にあるからです。すなわち、目に見えない『心』や『気』は存在しないとしているのです」
■心
「心は技の大もとである」
戦国から江戸にかけての剣客、伊藤一刀斎はそう言った。
「真心は武士の一芸であり、勇者の具足、鎧のようなものである」
「武術にとって心は必須です」
宇城師範は言う。
「『心豊かなれば、技冴える』です」
その「心」とは何か?
「頭で考えても意味はありません」と師範は言う。それは頭で考えるような心でも、イメージでもないという。
江戸時代の剣術書『天狗芸術論』にはこうある。
月は水に映るともなく
水は月を映そうとも思わぬ
広沢の池
さざ波も立たぬ水面のごとき無心。
そこに「映そう」という意識はない。
そうした心は目にはみえない。
師範の言う「相手の中に入る」という次元である。それは無意識とも呼ばれる世界。そこに入られた相手は無力化されてしまう。先を取られたことに気づくことさえできない。
「打たずして打つ」
「投げずに投げる」
そうした無意識の技が、古伝空手の基本であるという。意識が一つのことにしか及ばないのに対して、無意識の心は同時多次元に働く。あたかも千手観音がその千本の腕の一本一本を意識することなく、それぞれに正しい働きを行うように。
伊藤一刀斎いわく
「人は眠っている時でも、頭が痒くなれば頭をかく。頭が痒いのに尻をかく者はいない」
これぞ無意識下での身体の妙。それは万人に備わっていながら、大人の脳や頭はそれを妨げる。
■戦わずして勝つ
そもそも、技と呼ばれるものは「見えない次元」で行われるもの。
人間が意識できる「いま」と、身体のそれとでは広さ深さがまるで異なる。細胞が100万分の1秒で反応できるとすれば、脳が1秒を感じている間に細胞では11日間以上(100万秒)も待ちぼうけである。
宇城師範は言う、「稽古を重ねると、相手の内面が見えてきます。幽体離脱ってありますよね。私の場合は、相手が動く前に、動く方向にそういうのが先に見える感じです」
余談ながら、江戸期の柳生新陰流では、そういったものを「陰」と表現した。また宮本武蔵の『五輪書』には、見の目ではなく「観の目(心眼)」で見ると記されている。
師範は言う、「内面の速さというのは、刀を振らずに振っているというものです。つまり、刀を持たずに勝つ、無刀ということになります。動かずして相手に映っている自分を消すことができれば、振らずして相手を制することもできます」
それは「戦わずして勝つ」という次元。
「山岡鉄舟は、剣の達人と呼ばれながら、生涯ひとりも人を斬っていません。戦わずして勝つ、相手の気を斬るという境地。山岡鉄舟はそれができていたから、江戸城の無血開城ができたのでしょう」と師範は言う。
一般的に、江戸城の無血開城を実現させたのは、勝海舟と西郷隆盛だったとされる。だがそれ以前に、山岡鉄舟は駿府の総督府に乗り込んでいたのだという。
「武術の勝負は、生きるか死ぬか。負けは即、死。真剣勝負をすれば、一方は必ず死ぬ。だからこそ、戦わずして勝つ、究極の境地を極める世界で武術の修行が行われるのです」
■調和と融合
宇城師範が、相手を無力化してしまうと、その相手は攻撃しようとする意思すら働かせることができなくなってしまうという。
そのとき師範は、相手と対立しているのではない、と言う。むしろ「調和、融合している」と。
そもそも沖縄の古伝空手は、平和を求めた末に生まれたものだと師範は言う。
「沖縄は約600年前、北山、中山、南山の三山に分かれて対立していた時代に、国を統一するために武器を捨て、平和の道を選んだ歴史があります。この歴史から、武器をもたない手(ティー)、現在の空手が生まれました。これが空手のルーツです」
「心に刃をのせて『忍』と書くように、人を大切にする、争わない手の歴史こそ、沖縄の心です」
相手と衝突するのではない。「調和と融合」こそが古伝空手の根本にある、と師範は言う。池の水は月を映すことをこばまない。
力に頼るとき、相手と対立する。
頭を使うとき、相手と衝突する。
それらはすべて「遅い」次元。そうした対立や衝突が発生する以前に、敵も自分も渾然一体となった状態がある。それは人間が意識できない0.2秒以前、無意識の世界。
そこで「事の起こり」を抑えてしまえば、戦わずして勝つに通ずる。それを宮本武蔵は「枕を抑ゆる」と表現した。
「敵のかかるという『か』の字を抑え、とぶという『と』の字の頭を抑え、きるという『き』の字を抑ふる(『五輪書』)」
宇城師範は言う。
「すべての根源は調和にあります。対立を生むのは器の小ささです。対立している状態は弱いのです」
調和は連鎖する。
「投げられたらオシマイではありません。調和の力で投げられた人は、じつはその力をそのまま身体に取り込んでいるので、投げられた状態のまま別の人を投げることもできるのです。それは5人でも10人でもずっと続くのです」
それが調和力の次元。
「現在の常識からすればあり得ない『みんな強い』という次元です。それは身体が『できる』を無意識に感じられるからです。身体がそう感じたときは、できるのです」
「私たちは60兆個の細胞をもってこの地球上に生かされています。この細胞の中には自然の理に調和する力があるのです」
しかし、もし誰かが心を閉じた状態であれば、そうした調和力は伝わらなくなってしまうという。
「心が閉じた状態は、人間にとって最も良くないあり方です。頭偏重の人は、頭が先に動いてしまうために心が閉じてしまう傾向にあります。自分を守ってくれる時空とつながりを断つことは危険なことでもあります。そうした人は軽く押されるだけで簡単に崩れてしまいます」
誰もが大人になるにつれ無意識のうちに、心の扉を閉じていく。それは徒らな知識によってであったり、常識という重しによっても。
「『どうしたらできるようになるのですか?』という質問は、本来あり得ないのです。なぜならすでに、あなたにはその能力が備わっているからです。それよりも急がねばならないのは、その能力を封じ込めている扉を自ら開くことです」
■謙虚
宇城師範は大学に講師として呼ばれたり、講演したりする機会もあるという。
東大での講演の帰り道、コーディネーターは師範に向かってこう言った。「今日は何人か分かってくれた感じですね」
すると師範は即答、「わかってもらおうなんて思ってやっとらん」。
師範は常々、こう言っている。
「わかりやすいことは、まったく意味がない場合もある」
わかりやすいことほど、その人は自分の知識内の解釈で終わってしまうのだという。
「私は広めようという考え方はしない。深める、それだけ」
そう言って師範は、両手の指先を合わせて逆三角形をつくり、地面を深く掘り進むような仕草をしてみせる。
「深めていけば、自然に間口は広くなるものです。深さを知るとは、謙虚になることです」
「大河にコップ一杯の水を流し続ける。かならず清い水を求めて、下流から魚が上流にのぼってきます」
「わたしたちは過去ではなく、『いま』に身を置かねばなりません。『いま』を広げた世界に身を置かねばなりません」
「生きるということは、真剣勝負です」
(了)
出典:
宇城憲治『気によって解き明かされる 心と身体の神秘
宇城憲治『ゼロと無限 ― 今の常識を超えた所にある未来 ―
宇城憲治監修、小林信也『古伝空手の発想
関連記事:
ヒビわれた茶碗と、坐禅修行 [藤平光一]その1
身体で悟る。生涯無敗と謳われた「国井善弥」
無防備なる「宮本武蔵」。その実像に迫った直木三十五

