2014年06月14日

本田圭佑とACミラン [前編]




ぼくは大人になったら

世界一のサッカー選手になりたい

と言うよりなる



本田圭佑(ほんだ・けいすけ)

小学6年生の時に、そう書いた。



サッカーをはじめたのは保育園。

3つ上の兄の背中だけを追っていた。

「おい、全然ついていけへんやん。お兄ちゃんのほうがなんぼでも上手いぞ。負けてるぞ、兄貴に」



兄が中学に入ると、本田は小学4年生ながら中学の部活にもぐりこんだ。

「よく泣かされてたよ。チビ、チビ、いうてね」

当時のサッカー部の監督、田中章博氏は言う。「それでも食らいついてたんですよ、圭佑。アイツ本気だったんですよね」

本田は監督に聞いた。「先生、力でいったってスピードでいったって勝てへんかったら、何でいく?」



ズバ抜けた才能はなかった。足も遅い。ただ、しつこいほど負けず嫌いだった。

摂津FCのコーチ、藤林繁男氏は懐かそうに振り返る。「リフティングで負けて、その場では帰るんですよ。で、次の週みるとね、相手を抜いてるんですよ。えっ? なんで?って思いますよね。どっかのグラウンドか河川敷でやるんか、どこでやるんか知りませんが、やってるんでしょうね、人より」



本田の作文は、こう続く。



世界一になるには世界一練習しないとダメだ。

だから今ぼくはガンバっている。

今はヘタだけれどガンバって必ず世界一になる。







■トレーニング



2013年1月

本田は石垣島にいた。

世界屈指の長距離ランナー、ケニア人2人と10日間にわたってみっちり走り込むという。本田は日本代表のエースに成長した今も、走るのが得意ではなかった。

「肝心なときに、ゴール前に行ったときにはバテてるわけですよ。それが僕、悔しくって。とりあえずだから、あの、救急車だけは呼んどいてください(笑)」



「すげぇ速い…」

世界レベルの走りは、恐ろしく速かった。

それでも本田は無類の負けず嫌い。限界を超えながらも2人に食らいついていた。

「マイケル・ジャクソン、尊敬しますわ。あんな楽しそうに走って(笑)」



走って走って、極限まで疲れた状態で、本田はボールを蹴りはじめた。

「今日もやるよ。3本連続で当てるまで帰らんよ」

蹴ったボールをゴールの枠に3本当てるというゲーム。だが、本田の蹴るボールは意外とバーに当たらない。



「終わらせる気ある?」

本田は独り言をいいながら蹴り続ける。

「あかんよ。集中できてないよ」

自問自答の相手、リトル・ホンダとやり合いながら。



「でかいねん、ボケ!」

一時間ちかく蹴り続けていた。もう日も暮れる。

「折れるな、折れるな、折れるな!」



「あ、3本?」

200本以上蹴って、ようやくその日は終わった。

もはやゴールの枠は暗闇に溶け込もうとしていた。






■サッカー教室



この日は雨。

石垣島の子供たちとサッカーする約束をした日だ。



プレーを続けるうち、ドシャ降りになった。

「まだやるんですか?」

心配したスタッフは聞いた。

「え? やりますよ」

ズブ濡れの本田は答えた。「雨でサッカー中止なんて聞いたことない」



「動きながらや、動きながら。つねに動け!」

本田の指導は本気だ。相手が小さな子供であろうと手は抜かない。

「ボール来る前に判断しとけよ。ボール来てから考えるな!」

「来るよ! 今みたいにボールは。どんなボールが来てもいいように、いろんなイメージつくっとけ。強いパス、弱いパス、どういうパスでも来るぞ!」



その日の終わり、本田は子供たちにこう言って別れた。

「みんなありがとう。がんばれよ。やれよ。お前らの年齢やったら、まだまだ何でも出来るぞ。夢は大きくもてよ」






■中高時代



本田は中学時代、ガンバ大阪のジュニアユースに所属していた。

だが鳴かず飛ばずだった。

当時の同期、與貴行は言う。「言いかた悪いですけど、(本田は)足も遅いし、体力もなかった。サッカーもそこまで上手くないし、いい選手にならないだろうなと思ってました」

「でも、人一倍のすごい努力家で負けず嫌い。これはもう凄かった。誰よりも早く来て一人で蹴ってたし、全体練習が終わっても、最後まで残って一人でボール蹴ってました。ネットに向かってボール蹴っては取りにいって、ボール蹴っては取りにいって…。その繰り返しです」



しかし、どれほど本田が努力しようが、実力の足りなさは覆うべくもなかった。

中学3年生のとき、本田は上のユースチームに昇格できないと告げられてしまう。



崖っぷちで飛び込んだのは、北陸石川の強豪、星稜高校。

入部早々、本田は「最初が肝心や」と思って、ブチ上げた。

「目標は『ワールドカップ優勝』です!」

ガンバ大阪ジュニアユースの落ちこぼれは、とんでもない大風呂敷を広げてみせた。



「もう生意気ですね、すごく。関西からクソ生意気なヤツが来たぞ、みたいな(笑)」

当時のサッカー部の先輩だった新田亮介は言う。ここでも本田は負けず嫌い。

「よく絡んできて、皆んなでメシ食うんですけど、ご飯は必ず2杯、3杯とよく食ってましたね。みんなが『もう腹いっぱい』って言ってるとこに、『俺、まだ食うよ』みたいな感じで(笑)。アイツはそういうとこにも負けたくないっていうか」

本田はどんな小さな競争にもガチンコだったという。



高校2年のとき、名古屋グランパスの練習に参加した。

当時のグランパスには、ウェズレイというブラジルから来た絶対エースがいた。そして本田はそのウェズレイに対抗心を剥き出しにした。



紅白戦の1シーン、本田はウェズレイにパスを出さずに、自分でシュートを打った。

ウェズレイは怒った。「なんで俺にパスを出さない!」

すると本田は臆することもなく「俺のほうにチャンスがあった」と言い返し、逆に「俺にパスを出せ」と要求したという。



そのやり取りに、名古屋グランパスの監督ネルシーニョは驚いた。

「先輩も後輩も関係なし。17歳であれほどのメンタルを持っているとは…。こういう選手がふたたび現れるには、あと100年はかかるんじゃないか?」

やり合ったウェズレイも、内心、舌を巻き、クラブ幹部にこう進言した。

「あの選手と契約すべきだ」






■海外へ



高校卒業後、本田はプロ選手となった。

所属先は、あの名古屋グランパスだった。



そして21歳のとき、オランダへ渡った(VVVフェロン)。

最初は「役立たずの日本人」と罵られた本田であったが、外れても外れてもシュートを打ち続け、ついにはキャプテン・マークをつけるまでにのし上がった。

ロシアへ移ったのは23歳(CSKAモスクワ)。ここでは激しい体当たりに苦しめられた。だがそんな中で揉まれながら、本田は日本人離れしたフィジカル(肉体)の強さを手に入れた。



この頃、本田は初めてのW杯出場を果たす。

子供の頃から「優勝する」と公言してきた、世界最高の舞台である。

その2010年の南アフリカ大会、本田はシンデレラボーイとなった。2ゴールを決めて日本代表ベスト16への原動力となった。だが、そこで敗れた代表に、本田は納得できるはずがなかった。








「自分はまだまだやれる」

本田は力強く語った。

「もう準備しはじめてます、ビッグクラブでプレーする。即レギュラーで、がんがんアシストや点取るイメージはできてます。『まさかホンマに今、そのクラブでプレーしてんねんな』っていうようなクラブでプレーしてますよ」



小学校時代の作文にはこうあった。



Wカップで有名になって、ぼくは外国から呼ばれて、ヨーロッパのセリエAに入団します。

そしてレギュラーになって、10番で活躍します。




その予言成就は近づいていた。

イタリア、セリエAの名門「ACミラン」による本田へのアプローチははじまっていたのである。











■10番



気の早いイタリアの新聞は「ミラン、ホンダ獲得を急ぐ」と報じていた。

そして2013年の夏には「ホンダが来る」とはっきり書かれた。

ACミランへの移籍は確実と思われた。実現すれば日本人初の快挙である。ACミランはイタリアリーグ優勝18回、ヨーロッパチャンピオン7回というビッグクラブ。イタリア「ビッグ3」の一角である。



だが、流れた。

移籍交渉は土壇場で決裂した。

さすがの本田もがっかりした。「あかんかったか、と。でも、しゃあないなって感じです。僕の場合、困難と向き合ってる時間が長いのか、それを楽しめないようじゃ、僕の人生やっていけないと思うんですよね」



その年の冬、ふたたび移籍マーケットが騒がしくなった。

ACミランの最高経営責任者、ガリアーノは満を持して発表した。

「もう何も隠すことはない。ホンダが1月13日からACミランの選手になる。背番号は、エースナンバーの10」



名門の10番

それは本田が要求したものだという。

本田は言う。「ミランほどの歴史があるクラブでは、その番号の重みがあります。僕自身、歴代の10番をつけた選手は知っています。でも、どうせサッカーをやるんであれば、ハラハラドキドキ刺激のある10番でプレーしてみたいっていうのが、自分の中では大きかったですね」






■入団



「ホンダが来たぞ!」

「バンザイ、ホンダ!」



2014年1月4日、サングラス姿の本田が、ミラノの空港に降り立った。

ACミランのファンは世界中にいる。本田は、その10番を背負う初めてのアジア人だった。



世界注視の入団会見。

本田には、スター選手だけに用いることが許されるエグゼクティブ・ルームが手配された。



さっそく記者は質問した、「背番号10の意味は理解しているか?」

本田「夢が一つ叶いました。12歳のとき、いつかセリエAで背番号10をつけてプレーしたいと作文に書きました。だから10番が欲しいと願っていました。ピッチ上では10番に値する選手だということを証明してみせます」

「ミランを選んだ理由は?」

本田「心の中のリトル・ホンダに聞きました。『どのクラブでプレーしたい?』と。そうしたら『ミランでプレーしたい』と答えたんです。それが決断の理由です」

「サムライ精神とは何か?」

本田「僕はサムライに会ったことがないんだ(笑)。ただ、日本男児は決して諦めない。強い精神力をもち、規律を重んじる。僕自身にもそれはあります」



堂々たる態度であった。

I really want to show “who I am” on the pitch.

自分が何者であるか、ピッチ上でぜひ表現したい。

世界を前に、英語でそう言い切った。



周囲の反応は上々。

TVキャスター「本田は、仕事に対する真摯な姿勢をもっていた」

新聞記者「揺るぎない覚悟をもっている印象を受けた」



だが皮肉にも、この華やかな入団会見が、ACミランの本田にとって最もスポットライトを浴びた瞬間となった。

以後、本田はイタリアの辛辣メディアから散々に叩かれていく。













(つづく)
→ 本田圭佑とACミラン [後編]






出典:NHKプロフェッショナル仕事の流儀
「本田圭佑スペシャル2014」



関連記事:

無名からカリスマへ。本田圭佑 [サッカー]

天才は2度輝く。「柿谷曜一朗」 [サッカー]

金メダルへの想い。なでしこジャパン



posted by 四代目 at 07:08| Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。