ヒビわれた茶碗と、坐禅修行 [藤平光一]その1
「気」と植芝盛平 [藤平光一]その2
「心」と中村天風 [藤平光一]その3
からの「つづき」
海軍少将だった叔父は言った。
「アメリカには鬼や熊のような奴がいる。殺されるぞ」
藤平は、そんな忠告を意にも介さず
ハワイへ向かう船上の風に吹かれていた。
ハワイで出迎えてくれた人は言った。
「先生は若いんですね」
当時の藤平はまだ33歳。
遠慮のないハワイの人たちはさらに言う。
「先生は小さいですね」
藤平は小兵だった。身長162cm、体重65kg。
最後は疑ってかかった。
「本当に強いのですか?」
−−現地で私を出迎えてくれた人は、合気道の達人というから「ヒゲでも生やした巨体の人物」を想像していたらしい。こんな小柄な人物が達人だというなら、「合気道は八百長か芝居みたいなものではないのか」と不安を抱いたのである(藤平光一『氣の確立』)。
■洗礼
「ハワイで強いといわれる人を、10人ほど集めていただけませんか」
藤平はそう提案した。実際に技を見せなければ、誰も信用しそうになかった。
すると早速、ハワイの腕自慢たちが続々と集まってきた。柔剣道四段、五段は当たり前。なかには100kg超の巨体プロレスラーまでが混じっていた。
そんな強者たちを自由にかかってこさせ、藤平は次々、軽々と投げてみせた。
そうしてようやく、「これは本物だ…」と認められるに至った。
同年、本土カリフォルニア州にも足を伸ばした。
ここでもやはり同じように試された。
アナウンスは言う、「まだ八百長だと思っている人もいるだろう。そこでこの5人の柔道家にかかっていかせる。突いても蹴っても、あるいは噛みついたりしてもよろしい」
その5人は輪になって藤平を囲んだ。そして、その輪を徐々にせばめながら、一斉に飛びかかろうとした。
−−間もなく、5人が襲いかかってきた。私はそのうちの一人を輪の中央に投げると、そのまま輪の外へ飛び出した。こうなればすでに相手の作戦は破綻したも同然である。私は、彼らが疲れ果てて動きを止めるまで、5人を縦横無尽に投げ飛ばし続けていた(藤平光一『氣の確立』)。
以来、藤平は思う存分、アメリカで合気道を指導した。そして合気道の唱える「心」や「気」といったものを、アメリカ人に啓蒙していった。
その甲斐あって、ハワイを中心に合気道の道場は増え続けた。そして「気」というものがアメリカにも徐々に浸透していった。
■気と心
藤平がアメリカ行きを決めたのには、一つの思いがあった。それは、日本人が戦後の疲弊で忘れてしまった「日本人の心」を思い起こさせることだった。
−−当時の日本人は、私がいくら「気」について語っても、決して言うことを聞こうとはしてくれなかった。それは国民の意識がすっかり海外へと向かってしまっていたからでもある。国産品は見向きもされず、外国製品であればどんなものでも有り難がる時代だった。とにかく日本中が「アメリカかぶれ」と言っていい有様だったのだ(藤平光一『氣の確立』)。
ならば、先にアメリカで「心」や「氣」を広めてやろうじゃないか。
アメリカで認められたものならば、きっと日本人ももう一度目を向けてくれるに違いない。その方が手っ取り早い。
−−この狙いは見事に的中した。いざ日本に帰ってみると、日本の合気道熱も高まっていたのである(藤平光一)。
しかし残念ながら、そうした熱に浮かされた合気道では、「理にかなっていない技」が教えられることも多かった。それは明らかに「気」を軽視しているからだった。合気道を単なる肉体運動としかとらえていないからだった。
たとえば力で相手をねじ伏せていたのでは、自分より力の強い相手には技が効かないということになってしまう。それでは合気道とは呼べない。
そもそも力というのは、相手の気の流れに対抗する動きである。だが本来、そうした相手の気の流れは尊重するものであって逆らうものではない。
−−たとえば相手が私の腕を取りにきたなら、少なくとも相手の手にはある一定の方向に気が流れている。それに対して押し返したのでは、気の流れがぶつかり合うことにしかならない。だが、相手の気の流れに合わせた方向へそのまま私の気を流せば、相手はそのままひっくり返ってしまうのである(藤平光一『氣の確立』)。
まず相手の気を導き、そしてその方向を変える。それが合気の道であり、相手の強さも自分の強さにすることができた。相手が力めば力むほど、技の効果も倍増するのだった。
藤平はそれを実演してみせる。
だが、「藤平先生は強いからだ」と、弟子たちはどうしても力が強い弱いの問題に落ち着いてしまう。
そうではない。藤平が言いたかったのは、「天地の理」、すなわち物は下に落ちるとか、秋冬は春夏の次にくるといった類いの、逆らうに逆らえない理(ことわり)に対して「正しいかどうか」であった。
−−気を出すためには何も特別なトレーニングはいらない。ただ「気が出ている」と考えればよい。心で気が出ていると思えば、すなわち気がほとばしり出る。よく「気が強い」「気が弱い」などと言うが、気に強いも弱いもあるはずがない。あるとすれば、その出し方が強いか弱いか、それだけしかない。つまり、すべては本人の心にかかっている(藤平光一『氣の確立』)。
■不満
敗戦当時、アメリカに占領されていた日本では武道が禁止されていた。
そんな中、藤平の合気道だけは特別に許可をうけ、GHQの前で演武をすることになった。それは司令官が、藤平の語る「争わざる理」にいたく共鳴したからだった。
だが、連れて行った内弟子が勝手なことをした。
その弟子は投げられる前に、自分から調子を合わせてひっくり返ったのだ。
藤平は激怒した。「まだ投げちゃいねぇ! いらんことをするな! 帰れっ!」
弟子のなかには、勘違いしている者もいた。
受け身の反復練習のクセで、何もしていないのに受け身をとる者もいた。相手がこう来たら、転がるものだと思っているのだった。それを藤平は激しく嫌った。肉体の反復動作ではない。それじゃ八百長だ。合気道の技はあくまでも気の力によってなされるべきだった。
そう繰り返し指導しても、間違いはおこる。
「相手の気に合わせるのが道」と思われてしまうのだった。
藤平に言わせれば、それは違う。相手の気は尊重するものであるが、合わせるのは「天地の理」に他ならない。
−−ハワイでの仕事を一通り終え、日本でも目論見どおり合気道は大ブームとなった。しかし、そのありようは私には不満だった。日本の合気道は気のことを疎かにし、技と型だけのものになっていたのだ。私は「合気道とは気があってこそのものなのだ」と訴えたが、それは取り合ってもらえなかった(藤平光一『氣の確立』)。
■分裂
ハワイに合気道本部が設立されたとき、その会館の落成式に植芝盛平を招いたことがあった。
ハワイの弟子たちは熱狂的に喜んだ。
「あの伝説の達人、植芝先生を直接見ることができる!」
現地での歓迎ぶりは、じつに盛大。
武装警官のオートバイが数台、植芝盛平の乗った車をしっかりガードし、街中の信号もすべて止めてしまった。まるで大統領がハワイに来たかのような歓待ぶりだったという。
その伝説の植芝盛平も、昭和44年(1969)に息を引き取った。
道場の後継者には、子息・吉祥丸が立った。
だが、藤平と吉祥丸の合気道に対する考え方は大きく異なっていた。
二代目・吉祥丸は「人の気に合わせるのが合気道」と言って譲らなかった。一方、藤平はつねのとおり「天地の気に合する道」と言い続けた。
これほど理念の異なった2者。一つの道場に共存することはもはや不可能であった。二代目・吉祥丸はハワイやアメリカ本土の諸道場から「藤平の写真」を取り外すように命じたとき、両者の決裂は決定的となった。
それ以後、藤平は「心身統一合気道会」を立ち上げ、独立することになる。
余談ではあるが、植芝盛平が存命中に最高段位十段を与えた人物は唯一、藤平光一のみであった。
■物質と心
「もともと日本では、天地を通じて、心の問題を真摯にとらえていた」と藤平は言う。
だが敗戦により日本にやってきた占領軍によって、日本伝統の心の文化は破壊されてしまった。天照大神の権威は地に落ちた。
その代わりに日本人の心を占めたのは「物質」だった。
−−早い話が、日本はこの物質に負けたわけだ。食うや食わずになった日本人は、必死になってこの物質の道を求め続けた。その結果、大切な心の問題を忘れてしまった(藤平光一『氣の確立』)。
藤平は言う、「心を忘れれば、人間としての反応が欠落してしまう。それを治すためには、心と身体を統一し、天地の理にかなうようにする以外、方法はないのである」
植芝盛平も中村天風もつまるところ、そうした自然体を会得していた人物だった。
「私に言わせれば、自然体というものを独自に会得したというだけで、すでに千万人に一人というくらい貴重な、特別な人なのだ」
藤平はアメリカでこんな話を聞いたことがあった。
飛行機のパイロットが初めて飛行する時、雲に入ると猛烈な恐怖に襲われる。目の前がまったく見えなくなるからだ。
それでもコックピットには種々の計器が状況を把握してくれているのだから、何の問題もなく飛行はできる。それは頭ではわかっている。だが「見えない」という危機的状況は、心の底に恐怖を芽生えさせるのだった。
いずれ雲は通り抜ける。眼前にはふたたび広大な視界がひらける。すると恐怖心は一気に霧消し、とても幸せな気分になる。ところがまた雲に入る。そしてまた恐怖心が…。
そんなことを繰り返すうち、雲があってもなくても同じなんだという当たり前のことを、心と身体が理解する。藤平の言う「心と身体の統一」である。そうして初めて、楽に飛行ができるようになるのだという。
戦後の日本は、いったいどんな雲に覆われていたのであろうか。
いずれにせよ、その不安を解消したのは物質だったのかもしれない。だが現在、あまりにも大量の物質が新たな雲を形づくってしまっている。
藤平は言う、「あまりにも目にあまる状況になったせいか、最近になってようやく心の問題が見直されはじめてきた。心が大事だと言われるようになったのだ」
疑われても、馬鹿にされても、私はまったく平気である。
天地の理に対して正しいことは、いずれわかってもらえる。
それが私の一生であり、人生であった。
2011年5月19日
藤平光一、肺炎のため死去。
享年91歳。
『荘子』にいう
堯(ぎょう)は舜(しゅん)に問うた
「皇帝はどのように心を用いておられるか?」
堯は答える
「寄るべなき民をおざなりにせず、窮する民に心をくばる。死者に悲しみ、子らを慈しみ、女を憐れむ」
舜は言う
「天はあるがままで地は安らか。日月が照らし、四季は巡る。昼は昼で、夜は夜。雨は降るとき降ります」
堯は言った
「私は人に合わせていた。おまえは天地と合している」
荘子曰く
「天下に王たる者は、何をか為さん。天地のみ」
(完)
出典:藤平光一『氣の確立
関連記事:
ヒビわれた茶碗と、坐禅修行 [藤平光一]その1
「気」と植芝盛平 [藤平光一]その2
「心」と中村天風 [藤平光一]その3

