藤平光一(とうへい・こういち)
彼は幼いころから虚弱であった。
近所で風邪でもはやろうものなら、まっさきにクシャミをする。
親が柔道をはじめさせたのは、なんとかしなければという思いがあったのだろう。
その甲斐あってか、中学に入るころにはすっかり丈夫になっていた。
だが、慶応の柔道部でアクシデントが起こる。
身体の大きな相手に投げられ、左胸を強く打ってしまう。
肋膜炎と診断された。
医者は言った。
「おまえの身体は、ヒビの入った茶碗だ。こんどガチャンときたら、それでオシマイだ」
■山岡鉄舟
失意のなか、学校は一年間休学。
とくかく肋膜炎がおさまるまでは、田舎でジッとしていなければならなかった。
少し治りはじめると、彼は本を読みはじめた。
幸い、実家の蔵には本がいくらでもあった。
意味もわからず仏教書から聖書まで…、とにかく貪(むさぼ)るように読んだ。
そしてたまたま、『おれの師匠
それは小倉鉄樹という人が、自分の師匠である山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう)について講演した内容だった。つまり、山岡鉄舟の一代記。
幕末から明治を生きた剣豪・山岡鉄舟
欲もなく、何事にも捨て身でぶつかる。
自分で納得しなければ承知せず、とことん自分で体験する。
藤平は切に思った。
そういう生き方がしたい…!
藤平はすぐに飛び出した。
山岡鉄舟の春風館道場はすでに存在しなかったものの、その弟子・小倉鉄樹のつくった道場、一九会(いっくかい)道場が中野にあるというである。
当然、親には内緒だ。猛反対されるのは目にみえていた。
−−それが、今日の私がある、最初の出来事だった。私の原点である。それだけしかない、と言ってもいい。人生はそんな小さなきっかけで、大きく転換していくものなのだ(藤平光一『氣の確立』)
■一九会
道場に飛び込んだ藤平は、とにかく夢中で入門を請うた。
しかし、頭ごなしに言われた。
「慶応のような柔弱な学生にできる修行ではない」
それでも必死に食い下がった。
肋膜炎を患っていることは正直に話した。
「どうせこのままでは、一生涯寝たきりになってしまうかもしれません。それは嫌だから、命がけでお願いします!」
そうした押し問答が続いていると、奥から道場主、日野鉄叟(ひの・てっそう)が現れた。
そして静かに言った。
「坐禅からはじめてみなさい」
入門の許可はおりた。
−−今から思えば、われながら無茶だという気もするが、その行動自体にはなんら迷いも疑いもなかった。そして、こうした真摯な願いこそ、本当に必要なものや大切なものに出会うための条件なのだという思いもある(藤平光一『氣の確立』)。
■坐禅とみそぎ
最初の半年間は、ひたすら坐禅。
京都の大徳寺から、管長の太田常正老師が来る日が、月に3日あった。その3日間は不眠不休、昼夜を徹して坐禅がおこなわれる。夜の6時から坐りはじめて、7時から8時までは老師の講話を聞く。そのあとは、ひたすら坐禅を組んで過ごす。
坐禅は「静の修行」とはいえ、まったく甘いものではなかった。
半年して、夜通しの坐禅にも慣れてきたころ、日野先生は言った。
「そろそろいいだろう」
そして、次なる「みそぎ」の修行がはじまった。
みそぎの修行では、「と、ほ、か、み、え、み、た、め」と、鈴に合わせて腹一杯の大声をだす。
坐禅が静的であるのに対して、みそぎは動の極致。この静動の両修行を同時にやれば、両者を早く体得できるようになる。それが一九会のやり方だった。
冒頭、神前にて宣言される。
「この修行は、生死脱得の修行なれば、喪身失命を避けず、一声一声、まさに吐血の思いをなして喝破すべし」
そして全員が一声に
「と、ほ、か、み、え、み、た、め」
と唱える。あらん限りの大声を絞り出す。時間にして一時間から一時間半。弱ってきた者は、容赦なく背中をぴしーっと引っ叩かれる。
朝5時半頃からはじまって午前に3回、午後にも3回、さらに夜1回。一日に8回も繰り返す。まさに全身全霊を賭けた戦い。その凄まじさに、便所の草履をはいたまま逃げ出す者もいたという。
藤平も、半日たたぬうちに声が完全に潰れた。それでも息だけはガラガラと吐き続ける。夕方には肋膜の胸がチクチクと痛みはじめた。
「とうとう再発したな…。当たり前だ。医師から禁止されたことばかりをやっているんだ」
もはや観念した。
「ええい、ままよ!」
奇妙なことに、捨て身となってみそぎを続けるうちに、痛みは感じなくなっていた。
この荒行を藤平は3日間のセットで、都合60回おこなった。
一方、毎月一回、不眠不休の坐禅も休まず続けていた。
そんなフラフラな状態で学校へ行けば、どうしても眠くなる。授業中はきまって居眠りだ。
だが藤平は少しも身体を崩さず、直立不動の姿勢のままに眠っていたという。
そしてついたアダ名が「天上天下唯我独尊」だった。
■土蔵をけ破る
修行ではひっくり返るまで息を吐かなければならない。
だが、藤平は肋膜を患っているせいで、病巣に息が引っかかってうまく吐き出せない。
そのため、どうしても吐く息が弱々しく、スパッときれいに吐ききれない。いつも一歩引いた感じになってしまうのだった。
小倉先生は言った。
「まず、その殻を壊してこなければダメだ。おまえの心の土蔵をけ破ってこい」
心の土蔵?
何のことかまるで分からない。
アメリカでは「ガラスケースを破ってこい」と言うらしい。
当時、藤平は16歳。
−−あのころの私は、本ばかり読んでいた。だから最初に一九会に入ったときも、頭を凝らし、理屈として納得できないことが多かった。あからさまに言えば、みそぎの効果を頭のどこかで疑っていたのだ(藤平光一『氣の確立』)。
一時期、坐禅をやりすぎて、いわゆる「禅病」にもなった。
なにを見ても「空(くう)、空…」。ノイローゼの一人歩き。現実と空想の境目がわからない。
重症になると、電車が来ても「あれも空じゃないか」と走る電車に向かってしまったり、「あのきれいな花をとりましょう」とビルの屋上から一歩を踏み出してしまったりするらしい。
それが、静的な修行の落とし穴であった。
だが幸い、藤平は極端に動的な修行、みそぎも並行して行っていた。
静から動へと急に移り、ガッシャン、ガッシャンと鈴を振っているうちに、そうした禅病はパッと消えてしまう。しかし坐禅に戻ると、またふたたび妄想が鎌首をもたげてくる。それはまた、激しいみそぎで消え去る。また坐禅。妄想。みそぎ…。静、動、静、動…。
いつしか静動一致。どっちも同じことをやっているのではないかと思えてきた。
ともあれ、激しい修行は藤平の心身をクタクタにさせるに充分であった。
そんな疲労困憊の状態では、修行の是非を疑う頭も働かない。理屈もクソもあったものではない。
肋膜ももう問題ではなかった。
いつの間にか、息はスパッと吐き切れていた。
我知らず、土蔵の殻はけ破られていたのである。
■冷暖自知
坐禅とみそぎを続けて、およそ一年半
慶応病院でレントゲン写真を撮ってみると、肋膜炎がきれいに消えていた。それも、まるで跡形もなく。当然、そんな前例はかつて一つもなかった。
治療といえば湿布だけ。それ以外は何もやっていない。むしろ肋膜に悪いことばかりをやっていた…。
さらに医者は言った。
「こんな立派な心臓は他にない」
医者は「不思議だ」と首をひねるばかり。
−−慶応に復学したときには、ほとんど半病人の状態だった。ところが修行がはじまって命懸けになって、もうどうでもいいやと決めたら、逆に身体が良くなってしまった。肋膜炎は消え、心臓もたくましいと言われる(藤平光一『氣の確立』)。
−−何事であれ、とにかく自分で体得しなければ物にはならない。身体ごとぶつかって会得する。そして初めて自分のものになる。頭でっかちになって、いくら理屈を並べてみたところで、それは何の役にも立ちはしない(同)。
それはまさに、山岡鉄舟のいう「捨て身の修行」であった。
それを坐禅では「冷暖自知(れいだんじち)」という。食うにしろ飲むにしろ、実際に自分の舌で味わってみなければ、味はおろか冷たいのか熱いのかさえわからない。
ところで、
藤平が修行に夢中になっていた、ちょうどその頃、日本と中国は険悪な空気に包まれていた。
そして起きた、日支事変。
時はいま、大きく動かんとしていた。
(つづく)
→ 気と植芝盛平 [藤平光一]その2
出典:藤平光一『氣の確立
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