木々が生い茂る庭の木陰
その木漏れ日のなか、一人の老人が筵(むしろ)にゴロリ
顎には、ヤギのような真っ白なヒゲ
その仙人のごとき老人は言う。
「地面に頬杖つきながら、アリの歩き方を幾年も見てわかったんですが、アリは左の2番目の脚から歩き出すんです。アリの歩き方は、ただ一通りしかないのです」
時間を無視した丹念な観察のすえ、こんな絵が生まれた。
『豆に蟻』1958
熊谷守一(くまがい・もりかず)

「これ子供にでも描けそうに思うでしょう」
岐阜県美術館の館長、古川秀昭さんは言う。
「とんでもない。このポーズ、その一つ一つが全部もう、”そのもの”です」
■謎かけ
その15坪ほどの庭には、森羅万象のすべてがあった。
熊谷守一は言う。「ただ歩くなら、ものの2分とかからない範囲ですが、草や虫や土やいろいろなものを見ながら廻ると、毎日廻ったって毎日様子は違いますから。そのたびに面白くて、ずいぶん時間がかかります」
夜になると、「学校へいく」と言ってアトリエに籠った。
冬になると、「冬眠」と称して絵筆をしまった。
唯一の愉しみは囲碁。
相手は妻。守一は負けてばかり。
横で見ていた画商に言われた。
「あれじゃ豆まきだ」
ネコが好きだった。
家にはいつもネコが憩っており、野良猫も自由に出入りできるようにと、雨戸や障子に仕掛けをつくってやった。
とくに可愛がっていたのは、目のみえない三毛猫だった。

デザイナーのナガオカ・ケイイチさんは言う。
「熊谷さんの絵は、まるで絵本なんだけれども言葉がひとことも書いてない、そういうものを見ている感じがします。謎解きじゃないんだけど、なにか凄い答えがあるような…」
■西洋画
熊谷守一(くまがい・もりかず)は20歳のとき、西洋画を志して東京美術学校に入学。成績は抜群、主席で卒業。
29歳で、自画像『蝋燭(ろうそく)』を描き、文部省美術展覧会(文展)で見事入選。画家としての将来を嘱望された。

しかしその翌年(1910)、守一は表舞台から姿を消してしまう。
母の死をきっかけに故郷の岐阜に戻り、山奥で木材をはこぶ仕事をしたり、鍛冶屋で道具をつくったり。長い模索の時代がつづく。
35歳でふたたび上京するまで、絵はほとんど描かなかった。
42歳で結婚。東京に家をもち、子宝にも恵まれた。
しかし、絵が描けない。生活苦から妻は「絵を描いてほしい」と守一に懇願した。それでも絵筆を握ろうとはしなかった。
のちに彼はこう回想している。「まわりの人からもいろいろ責め立てられましたが、あのころはとても売る絵はかけなかったのです」
本当に描きたいという気持ちが湧いてこない。
その一方で、生活は困苦に極まる。妻の質屋通いは続き、子供が熱をだしても医者にもいけなかった。
■転機
そんな中、悲しい出来事がおこる。
次男・陽(よう)が、突然の肺炎でこの世を去った。まだ2歳。
守一は思わず、涙ながらに筆をはしらせた。
『陽の死んだ日』1928

しかし途中でやめた。
”絵を描いている自分”に気づいて、嫌になった。
のちに彼はそう語っている。
日本画をはじめたのは、50歳になってからだった。
即興のように筆をはしらせ、シンプルな線で草花や生き物をとらえた。
西洋画と違い、日本画は「必ずしも全部、絵の具で塗りつぶさなくてもいい」。空白がのこっていても未完成ではなかった。線と余白だけで、喜びも悲しみもそこにあった。
そうした新たな画風を完成させたといわれる作品
『ヤキバノカエリ』1948〜55頃

夕暮れ時か、とぼとぼと道を歩く親子。
遺骨を納めた箱がみえる。
まだ焼け跡の残る戦後、守一は長女・萬(まん)を結核で亡くした。21歳だった。
およそ8年、守一はこの絵を描きつづけた。
模索を繰り返すほど、絵はシンプルになっていった。まるで絵から感情が削ぎ落とされていくかのように、線は少なくなっていった。人物の顔には眼も鼻もない。
かつて幼子を亡くした時の作品『陽の死んだ日』と、この『ヤキバノカエリ』はまったくの対照をなす。
裸の感情をそのままにぶつけたような『陽の死んだ日』
感情を絞りきって、それでも残った『ヤキバノカエリ』
前者の感情は表皮に痛く突き刺さり、後者のそれはそっと骨に染み入る。
「あれ見たとき、鳥肌がたちましたね」
ナガオカ・ケンメイさんは、『ヤキバノカエリ』に強く感情を揺すぶられたという。
「やっぱり、輪郭線を引くっていうことは、こっちとそっちをものすごくハッキリさせるということなので」
混沌とした感情、割り切れないはずの感情。それをあえて強い線でバサリと切り離す。”不離”であるはずのものは、その対極の”離”によって、よけいにその不離が際立つようだった。感情を抜くほどに、あふれ出る万感の想い…。
■石ころ一つ
岐阜県歴史資料館には、守一が大切にしていたという「小さな小石」が数個のこされている。
学芸員は戸惑いぎみに話す。「あの…、日常的にどこに行ってもあるような石ですので…。なぜ、これがいいのか? ちょっと我々にはわからないですね」
守一は言っていた。
「石ころ一つでも、見ていると全くあきることがありません」
雨どいから落ちる一滴の雨粒さえ、彼の目を愉しませた。

娘の榧(かや)さんは言う。
「縁側にね、胡座(あぐら)かいてね、いつもジッと外を見てるんですよね」
ナガオカ・ケンメイさんは言う。
「自然ていうのは、雨が降るんだよ、ポチャッと落ちるんだよ、とか、カエルは葉っぱにいるんだよ、花は咲くんだよ、みたいな。なんかそういう”逆らえないみたいなもの”があるんだよって」
古川秀昭さん(岐阜県美術館の館長)は言う。
「全部、大事なものは”そのまま”でそこらにいっぱいある。花一つ、蟻一つ、水一滴。そのなかで自分がなんと小さなものであるか、と」
■自画像
余人にとっては何でもないものが、守一には果てしない好奇心を想起させた。
彼はこんなことを言っている。「朝、目が覚めて、布団のなかでじっとしていたら、雨戸の節穴から朝の光が差し込んでくる。その最初の光がどんなかなと毎日注意していたら、あんな具合に見えたのだ」
『朝のはぢまり』1969

娘は言う。
「なんか自分のことも含めてね、自画像でもあるって言ってましたね」
守一90歳、最晩年の自画像といわれる作品
『夕暮れ』1970

かつてか細い蝋燭に灯されていただけの自画像はいま、太陽そのものと相成った。
熊谷守一(くまがい・もりかず)
享年97歳
曰く
「何も書かない白いままがいちばん美しい」
(了)
出典:NHK日曜美術館
「ひとり"命"の庭に遊ぶ 〜画家・熊谷守一の世界〜 」
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