2013年10月21日

中島敦『李陵』を読む(3)完




中島敦『李陵』を読む(2)よりの「つづき」






■蘇武



匈奴のある朔北の地(中国北方)には、蘇武(そぶ)という漢人もまたいた。

もとは平和の使節として匈奴に遣わされたのであったが、わけあって捕らえられた。その使節の一人が匈奴の内紛に関係したために全員が捕らえられ、ほぼ皆が匈奴に降った。しかし、ただ蘇武ひとりはそれを拒絶した。

”降伏を肯んじないばかりか、辱めを避けようと自ら剣をとって己が胸を貫いた(『李陵』)”



昏倒した蘇武。手当てする胡医。

”地に掘って坑をつくり温火を入れて、その上に傷者を寝かせその背中を踏んで血を出させたと『漢書』には誌されている。この荒治療のおかげで、不幸にも蘇武は半日昏絶したのちにまた息を吹き返した(『李陵』)”



この硬骨なる漢臣・蘇武に、匈奴の単于は”すっかり惚れ込んだ”。

そして、蘇武の身体がようやく回復すると、熱心に降をすすめるのであった。しかし、蘇武に降る気はさらさらない。

その後、蘇武が穴蔵の中に幽閉されたとき、旃毛(せんもう)を雪に和して喰らいもって飢えを凌いだ。そしてついに北海(バイカル湖)のほとり人無きところに遷されて、「牡羊が乳を出さば帰るを許さん」と言われた。

”とにかく、李陵が悶々の余生を胡地に埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである(『李陵』)”



李陵にとって、蘇武は二十年来の友であった。

かつて同じ侍中を勤めていたこともあり、”片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いない”と李陵は思っていた。



しかし、はからずも自分が匈奴に降ってからは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。

”己の家族が戮されてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった(『李陵』)”

蘇武がはるか北方にいて顔を合わせずに済むことを、”むしろ助かった”と感じていたのである。






■再会



狐鹿姑(ころくこ)単于が父の後を嗣いでから数年後、李陵は”蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降伏を勧告するように”と頼まれた。

狐鹿姑(ころくこ)単于というのは、かつて李陵に師事した左賢王。親しきこの単于の頼みを無下にもできず、李陵はやむを得ず北へ向かった。



雪のこる極北の地、李陵の一行が案内人に導かれたのは、”一軒の哀れな丸太小舎”。

弓矢を片手に出てきた住人は、”頭から毛皮をかぶった鬚(ひげ)ぼうぼうの熊のような山男”。かつての蘇武のおもかげは、辛うじて残っていた。

”感動が陵の内に在って、今まで武との会見を避けさせていたものを一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった(『李陵』)”



滞在は数日にわたった。

無人の境は急に賑やかになり、酒食と歓笑が森の鳥獣を驚かせた。



蘇武は、凍てついた大地から野ネズミを掘り出して飢えを凌いだ話など、ここ数年間の惨憺たる生活をさりげなく語る。

李陵もまた、少しの弁解も交えずに自らの事実だけを語った。

”陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を棄てて他家へ行ったことはさすがに言えなかった(『李陵』)”






■大我慢



「この男は、何を目あてに生きているのか?」

李陵は怪しんだ。

「いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか?」

しかし、蘇武の口裏からはそんな期待は少しも感じられない。

「それでは何のために、こうした惨憺たる日々を耐え忍んでいるのか?」

”陵の怪しむのは、なぜ早く自らの生命を絶たないのかという意味であった。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄(天子から与えられた旗)を持して荒野に飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首刎ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる(『李陵』)”



李陵の場合は、状況を異にしていた。

彼が希望のない生活を断ち切りえないのは、いつのまにか匈奴の地に深く根を下ろしてしまっていたからだった。もはや妻もあれば子どももある。そして数々の恩愛や義理を受けすぎてしまっていた。いえば「やむを得ない」。

”いまさら死んでも、格別漢のために義を立てることにもならない(『李陵』)”



だが蘇武は違う。匈奴にはなんの恩義もないはずだ。はじめ捕らえられたとき、いきなり自分の胸を刺したこの男が、今さら死を恐れているとも考えられない。

ふと、李陵は思い出していた。蘇武が若いころの片意地を、滑稽なくらい強情な痩せ我慢を。

”単于は栄華を餌に、極度の困窮のなかから蘇武を釣ろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難に堪ええずして自ら殺すこともまた、単于に負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか(『李陵』)”

はたして蘇武は、そんな運命と意地の張り合いをしているように見えた。しかし、李陵にはそれが笑えなかった。

”想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を平然と笑殺していかせるものが「意地」だとすれば、この意地こそは誠に凄まじくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人げなく見えた蘇武の痩せ我慢が、かかる大我慢にまで成長しているのを見て、李陵は驚嘆した(『李陵』)”






■人に知られざる



しかもこの男は、己が事蹟を誰ひとり知ってくれなくても差し支えないのである。漢はおろか匈奴ですら、蘇武がかかる大我慢をもって無人の地で闘っていることを知るものはいないのだ。

”誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、自ら顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ(『李陵』)”



そうした”人に知られざるこを憂えぬ蘇武”を前にして、李陵はひそかに冷や汗をかいた。

”李陵は、かつて先代単于の首を狙いながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈奴の地を脱走しえなければ、せっかくの行為が空しく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった(『李陵』)”

知られぬことを恐れた李陵、それを恐れぬ蘇武。

”最初の感動がすぎ二日三日とたつうちに、何を語るにつけても、己の過去と蘇武のそれとの対比がいちいち引っかかってくる(『李陵』)”



蘇武は義人、自分は売国奴。

”それほどハッキリ考えはしないけれども、蘇武の厳しさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは、ひとたまりもなく圧倒されるのを感じないわけにはいかない(『李陵』)”

そう感じてくると、蘇武の李陵に対する態度までが、なにか”富者が貧者に対するときのような”ものを思わせる。

”襤褸(ぼろ)をまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐憫の色を、豪奢な貂裘(ちょうきゅう)をまとうた右校王・李陵はなによりも恐れた(『李陵』)”

※貂裘(ちょうきゅう)とは、貂(テン)の毛皮でつくった衣服。身分の高い人が用いる。






■やむを得ぬ



とうとう李陵は、蘇武への降伏勧告について口を切れなかった。

彼は旧友に別れを告げると、悄然と南へ去った。



しかし南に帰ってなお、蘇武の存在は李陵の頭から去らなかった。むしろ、その姿はかえって厳しく、いっそう聳(そび)えてくる。

それまで李陵は、自らの匈奴への降伏を「やむを得なかった」と信じていた。

”ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ないのだ」という考えかたを許そうとしないのである(『李陵』)”



蘇武には、やむを得ぬ事情などなかった。

”飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ(『李陵』)”

そうした蘇武の存在は、李陵にとって「崇高な訓戒」であった。しかし同時に「いらだたしい悪夢」でもあった。






■漢人と匈奴



はじめ、漢人の李陵にとって、匈奴の風俗は野卑滑稽としか写らなかった。

しかし、その地で実際に暮らしてみると、けっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵に飲み込めてきた。

”厚い皮革製の胡服でなければ朔北の冬は凌げないし、肉食でなければ胡地の寒冷に耐えるだけの精力を貯えることができない。固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級と貶し去るのは当たらない(中島敦『李陵』)”

もし、この地で漢人のような暮らしをしようとしたら、一日とて保つものではなかった。



かつて、先代の単于(匈奴の長)はこう言っていた。

「漢の人間が二言めには、己が国を”礼儀の国”といい、匈奴の行いをもって”禽獣に近い”と見なす。

 漢人のいう”礼儀”とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる”虚飾の謂(いい)”ではないか。利を好み人を妬むこと、漢人と胡人といずれかはなはだしき? 色に耽り財を貪ること、またいずれかはなはだしき? 

 表(うわ)べを剥ぎ去れば畢竟なんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ」



そう言われたとき、李陵に返す言葉はほとんどなかった。

李陵の祖父も、母も妻も子も、うわべを繕う漢人の佞臣・酷吏に殺されたのであった。

”たしかに、胡俗の粗野な正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さより、遥かに好ましい場合がしばしばあると思った。諸夏の俗を正しきもの、胡俗を卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵はそんな気がしてくる(『李陵』)”






■武帝の死



数年後、ついに漢の大皇帝・武帝は崩じた。

だが李陵には、いま一滴の涙も浮かんでこない。それは、妻子眷属を死に追いやった男の死であったからか。



李陵は北海のほとり、丸太小舎に蘇武をふたたび訪ねた。そして、武帝の崩御を告げた。

”蘇武は南に向かって号哭した。慟哭数日、ついに血を嘔くに至った(『李陵』)”



その有様を見ながら、李陵の気持ちはしだいに暗く沈んでいった。

”蘇武は、李陵のように一族を戮せられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕らええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。どう考えても漢の朝から厚遇されていたとは称しがたい(『李陵』)”

それでも、蘇武は哭いた。

”いま目の前に蘇武の純粋な痛哭をみているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、譬えようもなく清冽な純粋な漢の国土への愛情が湛えられていることを、李陵ははじめて発見した(『李陵』)”

李陵は、”己と友とを隔てる根本的なもの”にぶつからざるを得なかった。






■使者



武帝が崩じて、漢では昭帝(8歳)が即位した。

それを報じる使者が、匈奴にやってきた。

その使いは、はからずも李陵の旧友、任立政(じんりっせい)ら三人。わざわざ李陵の昔の友人が使者に選ばれたのは、「陵を呼び返そう」との相談ができ上がっていたからであった。



任立政は、李陵に言った。「小卿よ、多年の苦しみはいかばかりだったか。帰ってくれ。富貴など言うに足りぬではないか。どうか何もいわずに帰ってくれ」

友の切なる言葉に、李陵の心も動かぬではなかった。

しかし李陵は言う。「帰るのは易い。だが、また辱しめを見るだけのことでははいか? 如何?」

そして、二人は口をつぐんだ。



会が散じて別れ去るとき、任立政はなおも低声でたずねた。「ついに帰るに意なきや?」。

陵はただ、頭を横にふった。

「丈夫ふたたび辱めらるるあたわず」

その言葉は、ひどく元気がなかった…。






■天



その5年後であった。蘇武が偶然にも漢に帰れることになったのは。あの、人に知られぬまま北方に窮死するかと思われた蘇武が。

さすがに、李陵の心は動揺した。

”天はやっぱり見ていたのだ、という考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として懼(おそ)れた(『李陵』)”

この事実は、なんとしても李陵にはこたえた。

”胸をかきむしられるような女々しい己の気持が羨望ではないかと、李陵は極度に惧(おそ)れた(『李陵』)”



友のために張った別れの宴席上、李陵には言いたいことが山ほどあった。しかし、それを言えば愚痴になってしまうと口を閉ざしていた。

だが宴たけなわにして、李陵は堪えかねて立ち上がり、舞いかつ歌うた。



万里をゆきすぎ沙幕をわたる

君のため将となって匈奴に奮う

路窮絶し矢刃くだけ

士衆滅び名すでにおつ

老母すでに死す恩に報いんと欲するも、またいずくにか帰らん




”歌っているうちに、声が顫(ふる)え涙が頬を伝わった。女々しいぞと自ら叱りながら、どうしようもなかった(『李陵』)”



そして、蘇武は祖国へ帰った。

持節十九年、漢の節旄(せつぼう)を持した牧羊者は北海のほとりを華やかに去った。かくして、歴史にチリほども残るまいと思われた、この片意地の男の名は不朽となった。






■この世



ところで司馬遷、国の歴史を残すことのみに命の火を灯していたこの男は、孜々(しし)として書き続けていた。

腐刑の屈辱に遭ってから8年、”この世に生きることをやめた彼は、書中の人物としてのみ活きていた(『李陵』)”。

稿を起こしてから14年、父子相伝のその著述は最初の構想どおり、だいたいの通史がひととおり出来上がった。



それからまた数年、増補・推敲を加え、『史記』130巻、52万6,500字が完成したのは、すでに武帝の崩御に近いころであった。

”列伝第七十太史公自序の最後の筆をおいたとき、司馬遷は几によったまま惘然(ぼうぜん)とした。深い溜息が腹の底から出た。目は庭前の槐樹(えんじゅ)の茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった(『李陵』)”



完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をすると、司馬遷は急にひどく虚脱した。

”憑依の去った巫者のように、身も心もぐったりと崩れおち、まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったように耄(ふ)けた。武帝の崩御も昭帝の即位も、かつてのさきの太史令・司馬遷の脱殻(ぬけがら)にとっては、もはやなんの意味ももたないように見えた(『李陵』)”

先に述べた漢の使者・任立政(じんりっせい)らが李陵を伴わずに都に戻ったとき、司馬遷はすでにこの世に亡かった。

未来に遺された書である『史記』は、彼の肚にあった想いのとおり今なお生き続けている。






李陵については、蘇武と別れたあと何ひとつとして正確な記録は残されていない。

ただ、昭帝の元平元年(紀元前74年)、胡地で死んだとある。



李陵が胡地でもうけた子は、のちに単于に対して反乱を起こし、ついに失敗した。その旨が『漢書』匈奴伝にはある。漢の宣帝の五鳳二年(紀元前56年)のことだから、李陵が死んでからちょうど18年めにあたる。

”李陵の子とあるだけで、名前は記されていない(『李陵』)”













(了)






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人を信じない男、中国最初の皇帝 [史記] 前編



出典:中島敦『李陵
posted by 四代目 at 08:21| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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