2013年10月19日

中島敦『李陵』を読む(2)



中島敦『李陵』を読む(1)よりの「つづき」






生きて虜囚となった李陵は、ようやく目が覚めた。

”獣脂を灯し獣糞を焚いた単于(匈奴の長)の帳房の中”にて。



とっさに彼は思った。

「自ら首刎ねて、辱しめを免れるか?」

いや、いま一応は敵に従っておいて、そのうちに機を見て脱走しよう(敗軍の責を償うに足る手柄を土産として)。李陵はそう心を決めた。



匈奴の長である単于(ぜんう)は、手ずから李陵の縄をといた。そして正直に言う。

「数代の単于に従って漢と戦ってはきたが、まだ李陵ほどの手強い敵に遭ったことはない」と。

李陵の祖父・李広の名を引き合いに出して、李陵の善戦を誉めた。飛将軍・李広の驍名は今もなお匈奴の地に語り継がれていた。虎を格殺したり岩に矢を立てたり…。



匈奴は「強き者」を遇する。

”陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫であり、また彼自身も強かったからである。食を分けるときも強壮者が美味をとり、老弱者に余り物を与えるのが匈奴の風であった。ここでは、強き者が辱しめられることは決してない(中島敦『李陵』)”

ゆえに、李陵への待遇は鄭重を極めた。






■左賢王



「隙があったら単于の首でも」と李陵は狙っていた。

たとえ単于を討果たしたとしても、その首をもって脱出することはまず不可能だろう。それでも李陵は、その”不可能とも思われる機会の到来”を辛抱強く待ち続けていた。



李陵のほかにも”漢の降人”が幾人かいた。だが李陵は彼らとほとんど口をきかなかった。

”他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった(『李陵』)”

そもそも、漢人の下って匈奴の中にあるものに、単于殺害をともにすべき人物はいないように思われた。



ところで、単于の長子「左賢王(さけんおう)」が、妙に李陵に好意を示しはじめた。20歳を越したばかりのこの真面目な青年は、”強き者への賛美”がじつに純粋で強烈だった。好意というより尊敬といったほうが近かった。

左賢王は李陵に”騎射”を教えてくれと来た。とはいえ、馬を駆る技術(騎)は陵に劣らぬほど巧い。李陵は”射”のみを教えることとした。

”左賢王は、熱心な弟子となった。陵の祖父・李広の射における入神の技などを語るとき、蕃族の青年は瞳を輝かせて熱心に聞き入るのであった(『李陵』)”



よく二人して狩猟に出かけるようになった。馬上の二人は縦横に広野を疾駆しては、狐やオオカミ、カモシカやキジなどを射た。

ある夕暮れ、二人は一群の狼に囲まれたことがあった。馬に鞭うち全速力で狼群のなかを駆け抜けて逃れたが、李陵の馬の尻に一匹の狼が飛びかかった。そのとき、後ろを駈けていた左賢王が彎刀をもって見事に胴斬りにした。

”そういう一日ののち、夜、天幕の中で今日の獲物を羹(あつもの)の中にぶちこんでフウフウ吹きながら啜るとき、李陵は火影に顔を火照らせた若い蕃王の息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった(『李陵』)”






■蚕室



宮刑に処された司馬遷は、薄暗い蚕室のなかにいた。

”腐刑施術後、当分のあいだは風に当たることを避けねばならぬので、中に火をおこして暖かに保った密閉した暗室をつくり、そこに施術後の受刑者を数日のあいだ入れて、身体を養わせる。暖かく暗いところが蚕(かいこ)を飼う部屋に似ているとて、それを蚕室と名付けるのである(『李陵』)”



彼は茫然と壁によりかかっていた。

言語を絶した混乱のなか、憤激よりも先に驚きのようなものを感じていた。

「刑罰も数ある中で、よりによって最も醜陋な宮刑にあおうとは…!」

もとより死ぬ覚悟はできていた。武帝の気に逆らって李陵を褒め上げたとき、死を賜うこともあろうとは予期していた。ところが迂闊にも、”このような醜いもの”が自分の運命に突然あらわれようとは、ぜんぜん頭から考えてもいなかった。



長く史実をあつかううちに、”人間にはそれぞれの人間にふさわしい事件しか起こらない”という一種の確信めいたものが司馬遷のうちに養われていた。

”同じ逆境にしても、慷概の士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の徒には緩慢なじめじめした醜い苦しみが、というふうにである(『李陵』)”

この持論にしたがえば、車裂の刑ならば自分にふさわしいと認められた。司馬遷は自分をそうした男だと信じていた。たとえ文筆の吏とはいえ、その心は武人のそれであった。



「それが齢50に近い身で、この辱しめにあおうとうは…!」

彼は、いま自分が蚕室の中にいるということが夢のような気がした。夢だと思いたかった。

”しかし、壁によって閉じていた目を開くと、薄暗いなかに、生気のない魂までが抜けたような顔をした男が三、四人、だらしなく横たわったり座ったりしているのが目に入った。あの姿が、つまり今の己なのだと思ったとき、嗚咽とも怒号ともつかない叫びが彼の咽喉を破った(『李陵』)”






■修史



「自分のどこが悪かったのか?」

暗闇のなか、司馬遷は憤懣のもっていきどころを求めていた。

「李陵のために弁じたことか?」

これを間違ったこととは司馬遷には思えなかった。阿諛に堕するに甘んじる気など毛頭なかった。

「自ら顧みてやましくなければ、その行為がどのような結果を来そうとも、士たる者はそれを甘受しなければならないはずだ。しかし、この宮刑は…、これはまた別だ。同じ不具でも足を切られたり鼻を切られたりするのとは全然違った種類のものだ。士たる者の加えられるべき刑ではない」



かく成り果てた我が身の有様をみるにつけ、彼の考えはいつも同じところをぐるぐる回るばかり。帰結するところを知らなかった。

「強いていえば、ただ『我あり』という事実だけが悪かったのだ…」

そうした狂乱と憤懣との中にあっても、不思議と司馬遷は自らを殺そうとは試みなかった。



「なぜ死ねなかったのか?」

何かが内から彼をとめていた。彼の気持ちを自殺のほうへ向けさせたがらない何か漠然としたものが。

”何を忘れたのかはハッキリしないながら、とにかく何か忘れものをしたような気のすることがある。ちょうどそんな具合だった(『李陵』)”



そしてひと月後、許されて自宅に帰った彼は気づいた。狂乱にとり紛れて”己が畢生の事業たる修史(世にいう『史記』)”のことを忘れて果てていたことを。

”司馬遷は恐ろしく我の強い男だったが、今度のことで己のいかにとるに足らぬものだったかをしみじみと考えさせられた。理想の抱負のと威張ってみたところで、しょせん己は牛に踏みつぶされる道傍の虫けらのごときものにすぎなかったのだ。「我」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった(『李陵』)”

無意識にもその仕事への思いが、彼を自殺から阻む役割を隠々のうちにつとめていたのであった。

”世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えても怡(たの)しいわけはなかった。それはほとんど、いかに厭わしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同士のような宿命的な因縁に近いものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために、自分は自らを殺すことができぬのだということだけはハッキリしてきた(『李陵』)”

死に際の父の遺命もまた、重くのしかかっていた。






■筆



一個の丈夫たる太史令・司馬遷は、天漢三年(紀元前98年)の春に死んだ。

恥辱にまみれた彼がその後も生き続けるには、そう思い込むよりほかに途(みち)はなかった。死んだ自分の仕事を続ける者は、”知覚も意識もない一つの書写機械にすぎぬ”と。



そうして司馬遷はふたたび筆を執った。

”傷ついた脚を引きずりながら目的地へ向かう旅人”のように。

とぼとぼと稿を継いでいった。



”以前の論客・司馬遷”は、一切口を開かずになった。

笑いもしない。怒りもしない。

ただ、”なにか悪霊にでも取り憑かれているような凄まじさ”で、夜眠る時間も惜しんで仕事ばかりを続けた。

”一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいと焦っているもののように、家人らには思われた(『李陵』)”






■憤怒



天漢4年(紀元前97年)、漢は匈奴に対して大軍をおこした。騎7万、歩13万。近来にない大北伐である。

迎え撃つ匈奴は精騎10万を繰り出した。李陵に師事する若き左賢王も一軍を率いて漢軍に向かった。



”李陵は漢との戦いには陣頭にあらわれなかったが、左賢王の戦績をひそかに気遣っている己を発見して愕然とした。どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた(『李陵』)”

連戦10余日、結果は漢の惨敗。大北伐は完全な失敗に終わった。左賢王の軍も漢軍をさんざんに打ち破った。



左賢王に叩きのめされた公孫敖(こうそんごう)は、都へ帰ると”妙な弁解”をした。

「匈奴軍の強いのは、漢から降った李将軍が常々兵を練って、軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだ」と。

”これを聞いた武帝が、李陵に対して激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび獄に収められ、今度は陵の老婆から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された(『李陵』)”



その知らせを李陵が聞いたのは、半年ほど後のこと。

”めちゃくちゃに彼は野を歩いた。激しい憤りが頭の中で渦を巻いた。老婆や幼児のことを考えると心は灼けるようであったが、涙は一滴もでない。あまりに強い怒りは涙を枯渇させてしまうのだろう(『李陵』)”

彼は祖父・李広の最期をも思い起こしていた。少年時代までの彼を鍛え上げたのは、この有名な祖父。この名将は大功を樹てながらも君側の佞臣に妨げられて、終始かわらぬ清貧に甘んじなければならなかった。その最期は、一軍吏に辱められたと自らの首を刎ねたのである。少年・李陵は声をあげて泣いた。

「いままで我が一族は、そもそも漢からどのような扱いを受けてきたのか?」

”司馬遷の場合とは違って、李陵のほうは簡単であった。憤怒がすべてであった(『李陵』)”






■他人の不幸



ほとぼりが冷めたころ、李陵は人間が変わったように見えた。

”というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対にあずからなかった彼が、自ら進んでその相談に乗ろうと言い出したからである。単于はこの変化をみて大いに喜んだ(『李陵』)”

李陵は単于の娘を妻に迎えると、自ら請うて漢討伐の軍に従った。



ところが、たまたま浚稽山(しゅんけいざん)の麓をすぎたとき、”さすがに陵の心は曇った”。

”かつてこの地で、己に従って死戦した部下どものことを考え、彼らの骨が埋められ彼らの血の染み込んだその砂の飢えを歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼はもはや南行して漢兵と闘う勇気を失った(『李陵』)”

病と称して、李陵は独り北方へ馬を返した。母妻子を漢に族滅された恨みは骨髄に徹していたものの、自ら兵を率いて漢と戦うことはできなかった。



李陵は考えることが嫌いであった。

イライラしてくると、いつも独りで駿馬を駆って広野に飛び出す。草原となく丘陵となく狂気のように馬を駆けさせる。

「あぁ、我もと天地間の一粒子のみ。なんぞまた漢と胡(匈奴)あらんや…!」

”ひとしきり休むとまた馬にまたがり、がむしゃらに駈け出す。終日乗り疲れ、黄雲が落暉に燻ずるころになってようやく彼は幕営に戻る。疲労だけが彼のただ一つの救いなのである(『李陵』)”



と、その頃、司馬遷が自分のために弁じて罪をえたことを伝え聞いた。

”李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった(『李陵』)”

司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶もしたことがある。だが、とくに交を結んだというほどの間柄ではない。むしろ、”いやに議論ばかりしてうるさいヤツだ”くらいにしか感じていなかった。

”それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりに自分一個の苦しみと闘うのに懸命であった。よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である(『李陵』)”













(つづく)

→ 中島敦『李陵』を読む(3)完






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出典:中島敦『李陵
posted by 四代目 at 08:11| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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