■父・司馬談
「古今を一貫せる通史の編述」
その志なかばにして、司馬談(しばたん)は倒れた。その偉業に取りかかる前段階、単に材料の蒐集のみにてこの世を去った。
”司馬談は己のまた起ちがたきを知るや、遷(せん)を呼びその手を執って、ねんごろに修史の必要を説き、おのれ太史となりながらこのことに着手せず、「賢臣忠臣の事蹟を空しく地下に埋もれしめる不甲斐なさ」を嘆いて泣いた(中島敦『李陵』)”
司馬氏はもと周の史官。のち、晋に入り秦に仕え、漢の代となってから四代目が司馬談。漢の武帝につかえて太史令(たいしれい)をつとめていた。
その息子が、のちに『史記』を記すことになる司馬遷(しばせん)。
”彼(父・談)が息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えてのちに、「海内の大旅行」をさせたことであった。当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史家・司馬遷に資するところのすこぶる大であったことは、いうまでもない(『李陵』)”
父・談は死の床にあって、未完の大業『史記』の編纂を息子・遷にたくした。
「予死せば、なんじ必ず太史とならん。太史とならばわが論著せんと欲するところを忘るるなかれ」
”遷は俯首流涕して、その命に背かざるべきを誓ったのである(『李陵』)”
■述而不作(述べて作らず)
父・談の死から2年、はたして司馬遷は太史令の職を継ぎ、父の蒐集した資料を用いて、すぐにも父子相伝の天職にとりかかった。ときに遷、年40をまたぐ頃である。
「もっと事実が欲しい。教訓より事実が」
当時あった史書『春秋』は、事実よりも道議的批判(いわゆる教訓)に傾くきらいがあり、遷にとって「事実を伝える史書」としては何ともあきたらなかった。
ならば『左伝』や『国語』はどうか?
なるほど事実はある。だが、その事実をつくりあげる一人一人の「人としての探求」がなかった。
”事件の中にある彼らの姿の描出は鮮やかであっても、そうしたことをしでかすまでに至る彼ら一人一人の身許調べの欠けているのが、司馬遷には不服だった(『李陵』)”
いずれにせよ、当代、司馬遷を納得させるような史書は存在しなかった。
なにより、それら従来の史書は「当代の者に既往(過去)を知らしめること」に熱心であり、「未来の者に当代を知らしめるためのもの」ではないように思われた。
司馬遷の腹案としてはやはり、後世(未来)に意味をもつ史書を書き上げたいという想いがあった。かといって、『春秋』のようにあまりにも道義的な断案(教訓)は好ましくない。それは事実を「作る」部類に入るように思われた。
司馬遷のとった方針は「述而不作(述べて作らず)」。
後世の人が事実そのものを知ることを妨げぬよう、さらには、事実の起こった必然を人のなかに求めるものであった。それは史書としてまったく新しい形であり、司馬遷自らが創るよりほか世に現れようがなかった。
”彼自身でも自ら欲するところを書き上げてみてはじめて判然する底のものと思われた(『李陵』)”
司馬遷の胸中には、そんなモヤモヤが鬱積していたのである。
■述べる
漢が天下を定めてからすでに五代・100年。
秦の始皇帝による反文化政策(焚書坑儒ら)によって隠滅しあるいは隠匿されていた書物がようやく陽の目をあび、「文の興らんとする気運」が鬱勃として感じられていた。
”時代が、史の出現を要求しているときであった(中島敦『李陵』)”
司馬遷個人もまた
”父の遺嘱による感激が学殖・観察眼・筆力の充実をともなって、ようやく渾然たるものを生み出すべく発酵しかけていた(『李陵』)”
気持ちよく進む仕事。
『五帝本紀』から『夏殷周秦本紀』と、むしろ快調にすぎるほどだった。事実の正確厳密は固く守られていた。
だが、始皇帝をへて「項羽本紀」に入る頃、「技術家の冷静さ」がだんだんと怪しくなってくる。
”ともすれば項羽が彼に、あるいは彼が項羽に乗り移りかねないのである(『李陵』)”
項王すなわち夜起きて帳中に飲す。
美人あり。名は虞(ぐ)。常に幸せられて従う。駿馬、名は騅(すい)。常にこれに騎す。
ここにおいて項王すなわち悲歌慷概し、自ら詩をつくりて曰く。「力、山を抜き、気、世を蓋う。時、利あらず。騅逝かず、騅逝かず。奈何すべき。虞や虞やなんじを奈何にせん」と。
歌うこと数けつ、美人これに和す。
項王、泣(なみだ)数行下る。
左右皆泣き、よく仰ぎみるものなし…。
「これでいいのか?」
司馬遷は疑う。
「こんな熱に浮かされたような書きっぷりで…」
彼は「作ること」を極度に警戒していた。己の仕事は「述べるのみ」と思い極めている。
”しかし、なんと生気溌剌たる「述べ方」であったか?(『李陵』)”
「作ること」を恐れた彼は、熱に浮かされたままに書いた部分を読み返し、「人物が躍動すると思われる字句」を削った。すると、その人物の「ハツラツたる呼吸」は止まった。
”しかし、これでは項羽が項羽でなくなるではないか。項羽も始皇帝もみな同じ人間になってしまう。(『李陵』)”
「違った人間を同じ人間として記述することが、何が『述べる』だ? 『述べる』とは、違った人間は違った人間として述べることではないのか?」
そう思い至り、やはり司馬遷は削った文字をふたたび元に戻す。そして、なんとか人心地つく。
”いや、彼ばかりではない。そこに書かれた史上の人物が、項羽や樊噲や范増が、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ち着くように思われる(『李陵』)”
■禍
数年の間は、司馬遷にとって「充実した幸福といっていい日々」が続いていた。
”どこまでも陽性で、よく論じよく怒りよく笑い、なかんずく論敵を完膚なきまでに説破することを最も得意としていた(『李陵』)”
しかし突然に「禍(わざわい)」は降る。
「たかが星暦卜祀をつかさどるにすぎぬ太史令の身として、あまりにも不遜な態度」
諸重臣は一同そうした意見で一致し、太史令・司馬遷の刑は「宮(きゅう)」と決まった。宮刑とは「男を男でなくする奇怪な刑罰」である。この刑を腐刑ともいうのは「腐木の実を生ぜざるがごとき男」と成り果てるからだという(その傷痕が腐臭を放つゆえだとも)。
皮肉にも、司馬遷はあまりに「男らしかった」ゆえに、「男でなくする刑」に処されることとなった。
というのは、群臣らが李陵(りりょう)という将軍を「売国奴」と罵るのを、好漢たる司馬遷は座視することができなかったのである。
北方の異民族・匈奴の討伐に出ていた李陵は、戦に敗れて死んだと思われていた。ところが、その戦の翌年、李陵は戦死したのではない。捕らえられて匈奴に降ったのだという確報が都にもたらされた。
漢の武帝は、戦に敗れたと聞いたときには「思いのほか腹を立てなかった」。だが、李陵が敵に膝を屈したと聞いた時、「はじめて赫怒した」。武帝は、漢の絶頂にあたって50余年のあいだ君臨した大皇帝。齢60を超えてなお、気象の烈しさは壮時に超えていた。
そんな武帝の眼下、匈奴に下ったという李陵をかばおうとする者など誰もいない。この大皇帝を取り巻く者どもは、その威におされ「佞臣にあらずんば酷吏」。帝の顔色をうかがい、合法的に法を曲げるのが常であった。
”帝の震怒をおかしてまで李陵のために弁じようとする者はいない(『李陵』)”
佞臣らは口を極めて李陵を讒誣した。変節漢と誹謗した。
司馬遷にとっては、なんとも不愉快な光景であった。李陵が出陣するに際しては盃をあげて行を盛んにした連中が、そして李陵の孤軍奮闘を讃えていた同じ連中が、いまは李陵を口汚く罵るばかり。
たまらず司馬遷ひとりは、李陵をハッキリと褒め上げた。
言う。
陵の平生を見るに、親につかえて孝、士と交わって信。つねに奮って身を顧みず、もって国家の急に殉ずるは誠に国士の風ありというべく。
いま不幸にして事一度やぶれたが、「身を全うし妻子を保んずることをのみただ念願とする君側の佞人ばら」が、この陵の一失を取り上げてこれを誇大歪曲し、もって上の聡明を蔽おうとしているのは遺憾この上もない。
そもそも陵の今回の軍たる、五千にも満たぬ歩卒を率いて深く適地に入り、匈奴数万の師を奔命に疲れしめ、転戦千里、矢尽き道窮まるにいたるも、なお全軍空弩を張り、白刃を冒して死闘している。部下の心を得てこれに死力を尽くさしむること、古の名将といえどもこれには過ぎまい。
軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとはまさに天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして虜に降ったというのも、ひそかにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか…。
”並いる群臣は驚いた。こんなことの言える男が世にいようとは考えなかったからである。彼らはこめかみを顫(ふる)わせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。それから、自分らを「全躯保妻子(くをまっとうし、さいしをたもつ)の臣」と呼んだこの男の待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである(『李陵』)”
そして、司馬遷の「男」は切り取られた。
”後代の我々が「史記の作者」として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令・司馬遷は「眇たる一文筆の吏」にすぎない。頭脳の明晰なことは確かとしても、その頭脳に自信をもちすぎた、人付き合いの悪い男、議論においてけっして他人に負けない男、たかだか強情我慢の偏屈人としてしか知られていなかった。彼が腐刑に遇ったからとて別に驚く者はない(『李陵』)”
■李陵
匈奴にむかった李陵は、一隊の騎馬兵も連れていなかった。騎兵を主力とする匈奴に対しては無謀の極みというほかない。その歩兵ですらわずか5,000。絶えて後援もない。
”いかにも万里孤軍来たるの感が深い(『李陵』)”
李陵の軍がそれほど乏しかったのは、武帝の前で吐いた彼の広言に因があった。
「臣、願わくば少をもって衆を撃たん」
一時は軍旅の輜重隊(運搬係)に回されそうになった李陵。それでは、かつて飛将軍と呼ばれた名将・李広の孫としてあまりに情けない。軍に騎馬はなくとも構わぬと、李陵は武帝に嘆願したのであった。
「臣が辺境に養うところの兵はみな一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討って出たい」
李陵の勇ましい言葉を、派手好きの武帝は大いに欣び、その願いを容れた。時に李陵は40近い血気盛り。「つとに祖父の風ありといわれた騎射の名手」であった。
当時、毎年秋になると決まって漢の北辺は匈奴に侵略されていた。武帝が即位してから30年、欠かすことなくそうした北辺の災いが続いていた。
馬肥ゆる秋、匈奴の騎馬には当たり難い。それでも、李陵が練りに練った軍は強かった。初戦、5,000に満たぬ李陵の兵卒は、3万は優にあった匈奴を圧倒した。
”匈奴の軍は完全に潰えて山上へ逃げ去った。漢軍はこれを追撃して虜首を挙げること数千(『李陵』)”
次に現れた匈奴は8万。快速の騎馬は、李陵の歩軍を前後左右、隙もなく取り囲んだ。だが、前回の失敗に懲りたか、遠巻きにするばかり。
まるで「飢え疲れた旅人のあとをつける広野のオオカミ」のごとく、匈奴は白兵戦を避けながら、李陵の軍を少しずつ少しずつ遠矢によって消耗させていった。
”少しずつ傷つけていった揚句、いつかは最後の止めを刺そうとその機会を窺っているのである(『李陵』)”
いつしか李陵の寡兵は、出陣のときに各人が100本ずつ携えていた50万本の矢をことごとく射尽くしてしまっていた。矢ばかりでなく全軍の刀槍矛戟もしかり。半ばは折れ欠けていた。文字通り「刀折れ矢尽きた」。
「全軍、斬死のほか、途(みち)はないようだな…」
明るい月のもと、李陵は誰に向かってともなく言った。
「今夜のうちに囲みを突いて外に出、各自が鳥獣と散じて走ったならば、あるいは途はあるかもしれぬ」
諸将僚はうなずくと、遮二無二に軍を走らせた。
早い月はすでに落ちた。
全軍の3分の2は、囲みを突破したようだった。しかし、すぐに敵の騎馬兵の追撃に遭った。李陵は敵の追撃を振り切った。がしかし、部下を逃すやまた元の修羅場へと取って返した。
”身には数創を帯び、自らの血と返り血とで戎衣は重く濡れていた。麾下を失い全軍を失って、もはや天子にまみゆべき面目はない。彼は戟(ほこ)を取り直すと、ふたたび乱軍のなかに駆け入った(『李陵』)”
乱闘のうち、李陵の馬はガックリ前にのめった。流れ矢に当たったとみえる。
それとどちらが早かったか、李陵は背後から重量ある打撃をくらった。失神し落馬した李陵の上には、生け捕ろうと匈奴の兵らが十重二十重と折り重なって飛びかかった。
かくして李陵は、「生きて虜囚」とされたのであった。
(つづく)
→ 中島敦『李陵』を読む(2)
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出典:中島敦『李陵