2013年10月14日

人を信じない男、中国最初の皇帝 [史記] 後編



人を信じない男、中国最初の皇帝 [史記] 前編 よりの「つづき」






天下統一を果たした秦の始皇帝。

その孤絶の頂から、彼にはどんな景色が見えていたのか。



厳然と施行される法に、新しい国はまったく平らに整っているかのようだった。しかし一皮むけばその下に、声には出せぬ怨嗟がドロドロと渦巻いていた。

秦の徹しきった法家主義には、おおよそ血がかよっているとは思われない。あまりの厳罰主義に罪人の数ばかりが膨れ上がり、そうして罪人とされた者たちは過酷な労働に酷使された。たとえば、阿房宮の造営。その後宮には、中国全土から選りすぐりの美女3,000人が入るという、おのが欲望のためだけに建てられるような代物だった。

中国現代の史家・范文瀾の推定によれば、当時の人口約2,000万人のうち、阿房宮や始皇帝陵墓の建設のために150万人、万里の長城建設に30万人、雑役をくわえ約300万人(人口の約15%)もの民衆に労役が課せられていたという。さらには苛酷な徴税である。民はギリギリにまで絞り上げられていた。






■一君万民



秦は「黒」を好んだ。

というのは、中国には古くから五行思想(木・火・土・金・水)というものがあり、それに照らせば秦は「水」。その司る色が黒であったことから、衣服・旗印・幟などに黒が尊ばれた。

また「6」も好まれた。これもまた水の司る数であり、割符や冠は6寸、車の幅は6尺、馬車は6頭立てとされた。



「法」を重んじたのも、秦が水徳をもつとされたからであった。

”すべて法の定めどおりに行われ、冷厳一徹、恩義や人情を排除することが水徳にかなうとされた。したがって法による追求は厳しく、どれほど時が過ぎても、けっして許すことがなかった(徳間文庫『史記』)”



法は信じるが他人を信じぬ始皇帝は、従来のように各地に王を置くことを嫌った。しかし、丞相の王綰(おうわん)はそれに異議を唱えた。

「燕・斉・楚はなにぶんにも僻遠の地。王を置かなければ完全な掌握は望めません。なにとぞ諸皇子を王として、その任にお当てくださいますよう」

それに対して李斯(りし)は、「かつて同族を王とした周が、代を重ね血縁が薄れるにつれ、互いに敵視し対立するようになった」と指摘。各地に王を立てることは「戦禍のタネ」をまくに等しく、有害無益と主張した。

始皇帝はこの李斯の意見を採り、全土は始皇帝の直轄地とされた。新しく36に分けられた地方には中央から官僚が派遣され、その任免は始皇帝のサジ加減ひとつであり、世襲などもってのほかであった。






■焚書



のちに、儒者の一人であった淳干越(じゅんうえつ)は、ある酒宴の席にて王の問題を蒸し返した。

「殷・周の王朝が1,000余年も栄えたのは、子弟や功臣を王に封じ『皇室の藩屏(はんぺい)』としたからだと言われております。しかるに陛下は、ご子弟のいずれも一介の平民に留められたままでございます。これでは将来、藩屏なしでいかに皇室を保持できましょうや。なにごとにつけ、古(いにしえ)を手本としないで永らえたためしはございません」

王をおくか否かよりも、李斯(りし)は「古(いにしえ)」という言葉にカチンときた。

李斯は言う、「迂愚の学者どもは現今を師とせず往古を学び、天下を批判して民心を惑わす。上古の世を理想とみなして現代を批判し、陛下の法制に異を唱えることを名誉と心得、誹謗に明け暮れている」



「昔は、昔は」とばかりいう儒者たちに、李斯らは我慢がならなかった。新たな世を築いた自負がある。

そして断行された「焚書坑儒(ふんしょ・こうじゅ)」。

これが秦の悪政を決定づける。



「史官の秦記にあらざるは、皆これを焼かん」

詩・書を論じあう者がいれば”さらし首”。上古を理想として現代を非難する者は”一族皆殺し”。書籍を焼き捨てない者は”入墨したうえ重労働”。

ただ、医薬・卜筮・農事に関する書は例外とされた。



いわゆる愚民化政策。

だが学問を全否定したわけではない。地方の書はおおかた焼かれたが、中央にはすべてが集められた。朝廷にはあらゆる書物が保管され、儒者とはいえ登用された者もいる。

むしろ、文字などは秦の天下統一によって利便性が高まった。それまでは7つの各国で異なっていた文字が「秦篆(あるいは小篆)」と呼ばれる、簡略で書きやすい字体に改められていた(それは学を広めるというよりも、法令を全国に正しく行き渡らせるという意が強かったのだが…)。



焚書が秦にとってより有害だったのは、以後、儒者・淳干越のように皇帝を諌める「直諫の臣」が地を払ってしまったことだ。

皇帝の権威ばかりがますます高まり、その高みはもはや窺うことすら許されなくなってしまうのだった。






■真人



唯一無二の存在であった始皇帝。

ある時から、その所在すらを人にあらわさなくなった。

それは、ある方士の奏上によるものだった(方士とは、人が神仙になることを目指す行者)。



方士・盧生はいった、「仙人の方術に、”人主はつねに微行して悪鬼を避けよ。悪鬼を避ければ『真人』になることができる”とあります。人主の居所を臣下に知られては、神気の妨げとなります。そもそも真人とは無心そのものの存在で、水にも濡れず火にも焼けず、雲とともに漂って天地のあるかぎり生き続けるものです」

始皇帝は心奪われた。

「その真人とやらになりたいものだ。今後は自分を朕といわず、真人と呼ぶことにする」



始皇帝が真人になることを求めたのは、その先に「不老長寿の薬」があったからでもあった。

方士・盧生はこうも言っていた。「せめて陛下の所在を人に知られぬようお努めください。それが達成されれば、不老長寿の薬もおのずと手に入りましょう」



ある行幸の際、始皇帝が山上から李斯の行列を見下ろし、あまりの仰々しさに苦い顔を見せたところ、宦官の一人がそれを李斯に告げた。そして李斯は供回りの車騎を減らした。

それに気づくや始皇帝は激怒した。「宦官め…、洩らしおったな!」

始皇帝の所在を洩らしたものは死刑。この時、厳しい取り調べにも関わらず犯人が判明しなかったため、現場に居合わせたもの全員が死刑に処されたという。以後、始皇帝の行幸先はたえて洩れることがなくなったという。






■坑儒



それでも、不老長寿の薬はなかなか見つからない。

焦った方士・盧生は、むしろ毒づきはじめた。

「始皇帝という男は、生まれつき冷酷非情で唯我独尊。歴史はじまって以来、自分以上の人間はいないとのぼせ上がっている。政治といえば刑罰一点張り。高官たちも始皇帝の命令のままに動くだけの操り人形になっている。過ちを諌める者がいないから驕り高ぶる一方だし、臣下のほうは這いつくばって上辺だけのご機嫌とりだ。方士たちもご機嫌を損ねることをおそれて、星の動きに皇帝の過ちを示すものがあっても誰ひとり直言するものがいない」

そうつぶやくと、盧性は身を隠した。



人を信じぬ始皇帝がその代わりとしたのは、まず「法」であり、次に「方」であった。

だが、徐々に方士たちからも期待を裏切られはじめる。方士逃亡の知らせは、始皇帝を烈火のごとく怒らせた。

「方士どもは不老長寿の薬をつくるという触れ込みだったが、観衆は逃げ去って音沙汰なし。徐市らは億という費用を使いながら薬は手に入らずじまいのうえ、もっぱら私腹を肥やしているとの噂だ。盧生にいたってはわしを誹謗し、わしの不徳を吹聴してやまぬ」

そして、始皇帝は方士・学者ら460余人を、法に違反したかどで生き埋めにしてしまった。いわゆる「坑儒(こうじゅ)」である。






■長子・扶蘇



焚書につづく坑儒に、一人の男が勇敢にも始皇帝を諌めた。

それは長子・扶蘇(ふそ)であった。

「孔子の教えを信奉する儒者たちが、旧来の慣行を言い立てるからといって、これを法一本槍で規制しようとなさるのは、社会にいたずらに不安を掻き立てるだけではないでしょうか。どうかご賢察ください」



たえて無くなっていた諫言が、まさか我が子の口から出ようとは…。

始皇帝はますます怒った。

そして、扶蘇を北方の辺境へと追いやった。そこは蛮族・匈奴との激戦地、名将・蒙恬(もうてん)が30万の大軍を率いて、万里の長城を建設していた地であった。



だが、この時の扶蘇の諫言は、始皇帝の耳の奥底ふかくに鈍く響き続けた。

それが大きく鳴り響くのは、始皇帝が死の床に就いたときである。不老不死を渇望しながらも結局は死ぬのかと彼が思い極めたとき、ふと扶蘇の声音が耳奥からよみがえる。

信じられる者のいなかった始皇帝に、のちの世を託せるのはこの扶蘇をおいて他にいないと思わせるのであった。



しかし、時すでに遅し。

始皇帝と扶蘇はこの時の決裂を境に、二度と相まみえることはない。






■神山



紀元前211年、火星がサソリ座にとどまって動かなかった。

明らかな凶兆だった。

始皇帝の死は近い。だが、それを告げる骨太い臣はもういない。



始皇帝が「封禅の儀」を挙行するため泰山に登ったとき、中途で暴風雨に襲われ、大樹の根元に難を避けたことがあった。

すると、お払い箱になっていた儒者たちは「それ見たことか」と、陰で始皇帝を罵った。焚書坑儒への恨みは深く、天下の人民も然り。法の厳しさを憎み、天下はみな秦に背いていく。



それでも、そうした景色は始皇帝のいた高みからは全く見えない。

高山に湧く雲のような高官たちが、そうした「実」を始皇帝に見せることはついぞなく、始皇帝は「虚」の世界へと押しやられてしまっていたのである。長子・扶蘇がその雲間の下を始皇帝にチラと見せたのは、例外中の例外であった。



地上世界を極めた気になっていた始皇帝は、天界に手をかけるに熱心であった。方士たちに裏切られてなお、海中の三神山にあるという不死の妙薬を求めずにはいられなかった。

言い伝えによれば、蓬莱・方丈・瀛州の三神山は渤海のなかにあるという。そこに行き着いた者もあったらしく、そこには多くの仙人が住み、不死の薬もある。物はみな鳥や獣まで真っ白で、黄金づくりの宮殿がある。遠くから眺めると雲のように見えるが、近づいてみると水中に沈んでいる。

だが覗き込もうとすると、風が吹いて船が引き離されてしまうというのだった。






■最期


天下を統一して以後10年間、始皇帝は全国を5度巡行している。そのうちの何度か、三神山があるという渤海をのぞむ琅邪台にて海上を探索させた。

最後の巡行のときもそうだった。「巡遊すれば吉」との占いに従い、始皇帝は期待を込めてその地へと向かったのだった。



だが、方士・徐市(じょふつ)らの報告は、始皇帝を失望させるだけだった。

「蓬莱に行きさえすればお約束の薬が手に入るのですが、いつも大鮫に邪魔されてたどり着くことができません」

ならばと、始皇帝は漁師に命じて大鮫を仕留めるための道具一式を用意させ、自らも連射式の弩(ど)で射ようと待ち構えた。

だが、ついぞ大鮫は姿を現さない。その北上を続けるさなか、始皇帝は病に倒れた。



容態は悪化の一途であった。

さしもの始皇帝もついに観念したか、遺書をしたためる。

それは長子・扶蘇にあてた書簡で「軍は蒙恬にまかせて咸陽に帰り、わが遺骸を迎えて葬儀を行え」と記してあった。



七月丙寅の日

始皇帝は沙丘にて薨じた。

皮肉にも、不死を追った旅のさなかに。



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■遺言



『論語』にある、「人のまさに死なんとするや、その言やよし」。

始皇帝の今わの際の言は、長子・扶蘇を頼るものであった。扶蘇は20人を超す皇子たちのなかで人格見識ともに優れ、臣下の人望もひときわ厚かった。



だが、その最後の願いは空しくも、宦官・趙高(ちょうこう)の皺々の手によって握り潰される。

一介の宦官が、世継ぎの決定という始皇帝の絶対的な命を覆しえたのは、始皇帝が真人たらんとしてその姿や声をおいそれと外に現さなかったからである。すべての命は、宦官の口によって語られたのであった。

始皇帝の遺言も然り。その存在を知るものは、宦官・趙高のほか幾人もいなかった。ゆえに、趙高はそれを潰した。というのも、聡明な長子・扶蘇が後を継げば、自らの安泰はないと恐れたためであった。

趙高が力を保ち得るのは、末子・胡亥が二世となった時だけだった。もとは卑賤の出であった趙高、刑法に詳しかったのが功を奏し、胡亥に法を教えることで出世したのであった。



余談ではあるが、この古代中国史上最悪の奸物とまでいわれる趙高。こんな”馬鹿な話”がある。

趙高は二世皇帝・胡亥(こがい)に「鹿」を献上して「馬でございます」と言った。胡亥は笑った、「鹿を馬だとは」。側近のある者は皇帝とともに「鹿でございましょう」と笑った。後日、鹿といった者たちはすべて殺された。






■扶蘇



宦官・趙高は始皇帝の死を秘したまま、その遺骸が夏の暑さに腐臭を漂わせるのを急ぎ引きずり、都・咸陽に戻ると「二世皇帝は胡亥(こがい)である」と公表。

21歳だった胡亥は、始皇帝に最も愛されたといわれ、最後の巡行にも同行していた唯一の皇子であった。ゆえに、それは自然な成り行きのようにも思われた。

むしろ、長子であった扶蘇が二世となることのほうに違和感があった。というのは、彼は始皇帝に諫言した罪により、死ねとばかりに北方の匈奴の戦場へと送られていたからである。



戦場にあった扶蘇のもとには、始皇帝の本意とはまったく異なる書簡が、宦官・趙高によって届けられた。

「なんじ扶蘇は、蒙恬とともに数十万の軍を率いて辺境にあること十余年、一步も前進しえずして数多の士卒を失い、寸毫の功すら挙げえていない。にも関わらず、しばしば上書して不遜にもわが為すところを誹謗した。なんじ扶蘇は、人の子として不幸である。よって自害を命ずる」

一読した扶蘇は、その場で剣を抜きはなつと自殺をはかった。



その手を、将軍・蒙恬(もうてん)はグイと抑えた。

「一使者が来たからといって、すぐ自害されていいものでしょうか?」

蒙家は秦に三代仕える名家であり、蒙恬には異民族・匈奴を黄河の内から追い払い、万里の長城を築いたという功績があった。その蒙恬の威勢に匈奴は震え上がったいたのである。



しかし、一途なる扶蘇は、蒙恬の手を振り払った。

「父が子に死を命じたのだ」

そして、そのまま命を絶った。

悲しくも、命じたのは宦官・趙高であり、父は二世皇帝になれと言い遺していたのだが…。



さらに使者は、蒙恬にも死を迫った。

書簡にはこうあった。「将軍・蒙恬は、扶蘇とともにありながらこれを正すことがなかった。その陰謀や推して知るべし。人臣として不忠である。よって自害を命ずる」

だが蒙恬は、扶蘇の無念を晴らさんとその場では死なず、都に再度の勅命を要請した。しかし、都では宦官・趙高による粛清の嵐が吹き荒れており、蒙恬は獄中で毒薬をあおることになってしまう…。






■盛衰



あの、秦の礎を築いた李斯(りし)ですら、宦官・趙高に陥れられた。

李斯は大きな溜息をついた。「あぁ、荀卿先生(荀子)に以前、”なにごとも盛んになりすぎてはいけない(物ははなはだ盛なるを禁ず)”と言われたことがあったな。なにごとも極点に達すればあとは衰えるばかり(物極まれば衰う)」



秋霜おりて草花しぼみ、堅氷とけて万物おこる。

宦官・趙高により太い根を次々と断ち切られた秦。その花は一気に枯れた。秦の始皇帝の死からわずか15年。中国大陸初の統一国家は灰塵に帰す。

その帝国崩壊を導いたのは、陳勝・呉広という名もない貧農があげた小さな火花。それが、すでに爆発点に達していた民衆の憤懣に着火し、たちまちに原野を焼き尽くすことになる。のちの項羽も劉邦も、そうした火花の一つであった。



秦が中国史上初の統一国家であったのならば、陳勝・呉広の起こした反乱もまた中国史上初の大規模な農民反乱。この空前の帝国は、これまた空前の大反乱によって幕を閉じるのである。

その後、中国の歴代王朝はほとんど例外なく農民反乱の波のなかで衰亡するというパターンを繰り返す。そして、秦の試みた法の支配もまた、歴代王朝によって受け継がれていく。そうした意味で、秦の法制度はよい叩き台でもあった。のちの漢はその土台の上に400年の歴史を積み上げるのである。






■空



幸いにも、始皇帝はのちの惨劇を知らない。

彼は死後、驪山に造営された始皇帝陵に葬られた。それは始皇帝が即位したときから墓所としてすでに工事に着工していたもので、徒刑者70余万人の血と汗が流されていた。



墓室は地中深く三層の水脈を掘り抜いた下に設けられ、柩は銅板を敷きつめた上に安置された。地下には、地上そのままの宮殿がつくられ、諸官の席ももうけられていたという。

水銀で百川・江河・大海がつくられ、水銀の流れは機械じかけで還流。天井には天文が描かれ、床には地理がかたどられた。灯火としては、永く消えないようにと人魚の油が用いられた。

総面積56平方km、東京ドーム40個分にあたる広大さである。



さらに宮中の宝物庫から珍器奇宝が運び込まれた。そして、これを狙う者が近づけないように自動発射装置つきの弩が備え付けられ、侵入者があればたちどころに矢が飛び出すような工夫がなされていた。

始皇帝の埋葬が終わると、墳墓造営に携わった工匠たちは一人残らずその中に閉じ込められ、二度と生きて出られぬよう外の門を下ろされた。万に一つも財宝の秘密が世間に洩れぬように、と。

そして、その墓を囲むように配置された3つの兵馬俑では、いまも8,000体におよぶ兵士の像が守りを固め続けている。






人質からはじまった始皇帝の人生は、権力の絶頂期をへて、その暗い穴のなかに収まった。

なにかと不自由だった人質生活。日々の食にも事欠き、そして見上げる狭い空はどこか遠いところに希望があるように思われた。そしていざ、すべてを手にして見た空は果てしもなく高かった。だが逆に、地上の景色は見えなくなっていた。

そして収まった地下の都。

そこには、もう空がなかった…










(了)






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出典:
プロファイラー「始皇帝 孤独から生まれた最強の男」
史記〈3〉独裁の虚実 (徳間文庫)



posted by 四代目 at 08:14| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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