2013年10月12日

人を信じない男、中国最初の皇帝 [史記] 前編



鷲のような鼻

万人を威圧しつくす恐ろしい切れ長の目

鷲のように突きでた胸

そして…

地の底から響きわたる虎のような声

それが、秦の始皇帝であった…(本宮ひろ志『赤龍王』より)








古代中国、戦国のはじめ、周の太史・老耼(すなわち老子その人であるといわれる)が秦の献公にまみえ、こう予言したという。

「秦にはやがて覇王が現れましょう」

それが現実となった。



中国最古の歴史書『史記』には、こうある。

「秦王・始皇帝は人を信じない(不信人)」

7つの国を制して中国大陸をはじめて統一した男。秦の始皇帝は、人をまったく信じないのに、すべてを手に入れた男であったという。

”数奇な運命のもとに生まれ、残酷非情とも見える冷徹さで障害となるもの一切を抹殺しながら、一直線に天下統一に突き進んだ彼の姿には、人間を超えた一種の魔性さえ感じさせる(徳間文庫『史記』)”






■父・子楚



いまから2,200年もの昔、中国大陸は500年にわたる戦乱の中にあった。凌ぎを削っていたのは「戦国の七雄」と呼ばれる7つの国。



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のちに秦の始皇帝となる人物は、隣国・趙の国で生まれる。というのも、父・子楚(しそ)が趙の人質とされていたからである。

この時代、対立する7つの国々はお互いむやみに戦をしかけないよう、王家同士で人質の交換を行っていた。父・子楚は側室の子であり、兄弟が20人以上もいたため王位継承の可能性は低かった。ゆえに敵国に人質としてだされた、いわば捨て駒の一つにすぎなかった(母は夏姫という。愛なし。『史記』)。



そんな見捨てられた王子だった子楚。

そこに、ある大商人が現れる。名を呂不韋(りょふい)。彼は子楚に商機を見い出す。

「秦の公子か。これは掘り出し物だ。買いだ(奇貨居くべし)」

※「奇貨」は珍しい品、「居く」は買うという意味。








秦の王子とはいえ子楚の暮らしは貧しく、日々の生活にもこと欠く始末。さらに、秦がしばしば趙を攻撃していたため、人質である子楚に対するあしらいは、とかく冷たかった。

そんな子楚に同情した呂不韋は、こう持ちかける。

「秦王はいまや老齢。全財産を投じて秦におもむき、安国君(皇太子・子楚の父)と華陽夫人(正室)に対し、あなたを後継ぎにさせるよう工作しましょう」

子楚は半信半疑ながらも、深々と頭を下げた。

「もし巧くいったら、秦の半分をあなたに差し上げよう」



さっそく秦に戻り、千金をばらまいて王家にとり入った呂不韋。

「色をもって事(つか)うる者は、色衰えて愛ゆるむ」

色香が衰えてからでは手遅れになると、子がなかった華陽夫人(子楚の父の正室)を説き伏せ、子楚を世継ぎとさせたのであった。






■政



子楚が妻としたのは、趙の舞姫「趙姫」であった。

もとは呂不韋の愛人だった趙姫。ある酒宴で彼女の舞に一目惚れした子楚。譲って欲しいと呂不韋に頼み込んだという。

呂不韋ははじめムッとしたが、「もって奇を釣らんと欲するなり」と子楚に趙姫を献上。彼女が秦の始皇帝の母となる。だがこの時、ある「うわさ」は趙姫が呂不韋の子を身ごもっていたと伝える。



紀元前259年、子楚と趙姫のあいだに王子が誕生。

名を「政(せい)」。のちの始皇帝は、肩身の狭い人質の子として敵国(趙)で生まれたのであった。



政2歳のとき、秦は無情にも趙に出撃。首都・邯鄲を包囲。

落城の危機にまぎれ、父・子楚は妻と子を置いて、呂不韋とともに秦に逃亡。敵国に残された人質・政は当然殺されそうになる。だが、辛うじて死をまぬがれる(『史記』は、趙姫が豪家の娘だったためと記す)。



政が秦に戻るのは、9歳のとき。

先代の王(昭王)が在位56年で世を去ったあと安国君が即位し、「奇貨」であった子楚が、呂不韋の策略通りに皇太子となったからであった。

以後、運命の歯車は急速に回転をはじめる。

新王はわずか一年で亡くなり、子楚が国王となる(荘襄王)。子楚はかつての約束通り、呂不韋を「丞相」という高位につけ重んじた。



だが、国王となった父も、わずか3年で急死。あれよあれよと、政はわずか13歳で秦の国王となったのであった。

長い人質生活をおくり、秦に頼る者の少なかった政は、呂不韋の位をさらに進め「相国」とし、さらに「仲父(ちゅうほ)」と呼び敬った。

※「仲父」の「仲」は兄弟の順を示す「伯仲叔季」の2番目で、仲父は「父に次ぐもの」を意味する。






■不信



大権を得た呂不韋は、国王・政が幼少であるのをいいことに、良からぬ暗躍をはじめる。

政の母・太后(かつての愛人・趙姫)と不義を重ね、さらに巨大な男根の持ち主・嫪毐(ろうあい)を彼女にすすめる。母・太后の淫は、政が一人前の大人になってもますます盛んであった。

巨大な一物をもつ男(大陰の人)嫪毐は、自慢のモノを心棒として車輪を転がしてまわったというが、ヒゲと眉毛を抜いて宦官になりすまし、太后の側近くに仕えた。そしていずれ、太后は嫪毐の子を身ごもった。



秦王・政の治世9年(紀元前238年)、彗星が出現し、時には天空の端から端に達することもあったという(ハレー彗星か?)。

その不吉な星とともに、巨根・嫪毐(ろうあい)は国家転覆の挙に打って出る。当時、太后の愛を一身に受けていた嫪毐は、長信侯として山陽の地を与えられ、宮殿・馬車・衣服・別荘などすべてが彼の思うがままであった。さらに、太后との隠し子を2人も抱えていた。

嫪毐の企てた反乱を察知した秦王・政。即座に攻撃、鎮圧。嫪毐の一味は一網打尽とされ、嫪毐本人は五体を引き裂く「車裂き」の刑に処された。



しかし、なんという背信か…!

母に裏切られ、父同然と慕った呂不韋にも騙された。

政25歳、彼はこのクーデターを経て、人が変わったようであった。司馬遷が『史記』にいう「不信人(人を信じない)」という人間に近づいていく。

とはいえ、政にはまだ恩愛があった。母・太后と仲父・呂不韋を殺さず、追放という処分にとどめた(太后はのちに都に呼び戻され、呂不韋は自らの運命を悟り服毒)。



この年の冬はひどい寒波で、凍死者があとを絶たなかったともいう。






■地歩



呂不韋の死により、政の「虎狼の心」は定まった。

頼れるは己一人。道は天下統一へ一直線。



幸いにも、秦の培ってきた軍団は剽悍無類。商鞅の改革以来、「力戦力耕」を中心とする富国強兵策がたわわに実っていた。

かつて秦を訪れた荀子は、その様子を次のように語っている。

「秦の風俗をみると人民は純朴、音楽は邪淫なく、服装は華美なく、役人には恐れかしこんで従順。まさしく古(いにしえ)の理想の世の民である(『荀子』彊国篇)」



他の6国に比べ、西の果てに位置した秦は「遅れた国」とされてきた。しかしながら、その後進性がむしろ強さを養うには格好でもあった。

”急速な秦の台頭は、ほかの諸国に異様な恐怖心を植えつけた。先進地域の人々の目には、自分たちとは異質の国、まさに「虎狼の国」と映ったのである(徳間文庫『史記』)”

「戦国の七雄」といわれた7つの国々は、戦国時代も中頃になると、もはや3つの強国に絞られていた(秦・楚・斉)。戦国末期になると、まず斉が脱落。燕の名将・楽毅によって一時、滅亡寸前にまで追い込まれていた。そして楚も、秦の名将・白起の攻撃により都を陥とされ遷都。100万を豪した大軍も10万にまで落ち込んでしまっていた。



圧倒的な秦の優勢。

そこに現れた若き秦王・政。国内の反乱分子を一掃した彼に、もはや敵は少なかった。

統一への道は一瀉千里。






■李斯



「秦の国力は強大。大王は賢明。この2つの条件を備えたいま、諸侯を滅ぼして天下を統一することは、たとえば『竈(かまど)のチリ』を掃き落とすようなもの(竈上の騒除)。簡単この上ありません」

秦王・政にそう説いて、天下統一への野心を焚きつけたのは「李斯(りし)」。彼はかつて呂不韋の食客として重用されていた人物であった。



李斯はもともと敵国・楚の人。しかし、2匹のネズミを見て悟り、秦に来た人であった。その逸話はこうである。

若いころ、楚の郷里で小役人を勤めていた李斯は、役所の便所でよくネズミが糞を食っているのを見た。その「便所のネズミ」は人間や犬の気配に怯え、いつもビクビクしていた。一方、食糧庫に入れば、そこにもネズミがいた。この「倉のネズミ」は糞ではなく穀物を食っている。しかも、人犬に恐れることもなく悠々と。

2種の両極端なネズミを見て、李斯は嘆息した。「あぁ、人間も同じだ。身の置きどころ一つで、運命が決まるのだ…(人の賢不肖はたとえば鼠のごとく、自ら処るところに存るのみ)」。そして、李斯は落ち目にあった楚を見捨て、昇竜の勢いにあった秦にやって来たのだった。

李斯はこうも言う。「人間であるからには、地位の低いほど恥ずかしいことはなく、貧乏ほど悲しいことはないはず(恥は卑賤より大なるはなくして、悲は窮困より甚だしきはなし)」。

李斯が秦にきたのは、政の父・荘襄王が没した直後、政が13歳で即位したばかりの頃だった。






■法



李斯の功績は「法」にある。

人間は本来、悪であるという「性悪説」。それを唱えた荀子に李斯は学んだ。

同門の韓非子はこう言う。「君主の害となるのは、人を信ずることである。人を信じると、人に制せられることになる」。



それは、まさに秦王・政の実感してきた境遇そのものであった。淫やまぬ母に裏切られ、父がわりの呂不韋にも騙された。信じたからこそ、彼は制せられてきたのであった。

人はもともと弱い存在。ゆえに法で縛る必要がある。法を奉じ守ることが強ければ国は強く、法を奉じ守ることが弱ければ国は弱い。

李斯の吐く言は、秦王・政の大きく頷けるところであった。人間を信じられなくなっていた政にとって、その穴を埋めるに法は最適であった。



身分を問うことなく、手柄を立てた者には褒美を与える。だが、法に背くものは厳しく罰する。信賞必罰。

たとえば「弩(ど)」と呼ばれる武器、射程距離が280mもあったというが、秦の兵士の命中率は格段に高かったという。

というのも、兵士に課された弩の試験は厳しく、12本の矢をうって、そのうち6本を小さな的に当てなければ罰則が課された。だが、7本、8本と定められた本数よりも多く当てることができれば、1本ごとに15日間の有給休暇が与えられたという。



そんなアメとムチが、秦では巧みな法さばきによってコントロールされていた。その立役者が李斯という人物であった。

”秦の天下統一のブレーンは、何といっても李斯であった(徳間文庫『史記』)”






■説難



秦王・政が法に魅せられたのは、韓非子の書が最初であった。

「あぁ、これを書いた者に会えたら、わしは死んでも構わない(あぁ、寡人この人を見、これと遊ぶを得ば、死すとも恨みず)」

政は、韓非子の著作(『孤憤』『五蠹』)に感嘆の声をあげた。ちなみに後世、諸葛亮孔明が幼主・劉禅に与えた書も韓非子だったという。



そして、秦王・政は韓非子のいる韓に、まず攻め込んだ(韓非子は、その姓があらわすように、韓の公子であった)。

切羽つまった韓王は、韓非子を秦に送り込む。そうして、秦王・政は韓非子に会え、大いに気に入った。しかし、周囲はそれを気に入らなかった。「韓非子が登用されたら、自分たちが危ない」。

人を信じきれぬところのあった秦王・政もまた、敵国の公子を心から受け入れることはできず、結局は韓非子を獄につないでしまう。これを好機とみた李斯。すかさず獄中に毒薬を送り、自殺を迫った(重ねて言うが、李斯は韓非子とは同門である)。

獄に送りはしたが、韓非子の才を惜しんだ秦王。赦免しようと獄に使いを送るも、時すでに遅し。韓非子は毒薬をあおって骸となっていた。



『史記』をかいた司馬遷は言う。「それにしても悲しまれてならないのは、韓非が『説難(ぜいなん)』を書きながら、自分が悲運を免れなかったことである」

韓非子の『説難』は「逆鱗に触れる」で締めくくられている。「人、これに触るる者あらば、必ず人を殺す。人主もまた逆鱗あり。これを説く者、よく人主の逆鱗に触るることなければ近し」

人のもつ逆鱗に触れることを警告していた韓非子。それを書いた彼が皮肉にも、秦王の逆鱗に触れることになってしまった。それを嘆いた司馬遷であったが、彼もまた漢の武帝の逆鱗に触れ、宦官となってしまうのであった…。










■ 尉繚と王翦



「大王が恐ろしゅうございます…。秦王においては、およそ温かさというものが感じられませぬ。自分に理があれば、たとえ流民であろうとへりくだりますが、理なくばたとえ親といえども踏みつけましょう…」

本宮ひろ志の『赤龍王』にある一場面。

その言を聞いた秦王は、地の底から響きわたる虎のような声で、「煮殺せィ」。



魏の尉繚 (うつりょう) は他国者でありながら、その言に理があるとして秦王に重く用いられた。「尉繚 に会うとき秦王は対等の礼をとり、衣服・食事もすべて尉繚 と同じものにした(『史記』)」。

しかし尉繚は、よけいに警戒心を抱く。「どうみても人間らしい心の持ち主ではない(恩少なくして虎狼の心あり)。いまでこそ素浪人の私にもへりくだった態度を見せてはいるが…。いつまでも付き合える相手ではない」



始皇帝のなかに暗く潜む、人間不信の性情。

将軍・王翦(おうせん)もまた、その暗い影に敏感であった。彼は秦の覇業達成に最大の軍功をあげた将軍であり、趙を下し燕を下し、魏を滅ぼした。それでも油断はならなかった。

天下統一を目前に控えた時、秦王は楚に対してどれほどの兵力を必要とするかと、王翦にたずねた。

「どうしても60万は必要でしょう」

この答えに、秦王は王翦の老いを感じた。ほかの若い将軍は「20万もあれば十分」と血気盛んである。ゆえに王翦を用いなかった。だが結果は、見るも無残な負け戦。



そして再び返り咲いた王翦(おうせん)。

いよいよ出陣の日、王翦は秦王に「引出物として最上級の田地邸宅を賜りたい」と懇請。秦王は言った、「安心して出陣せよ。おまえに貧乏な思いはさせない」と。

だが、王翦はなおも言う。「いえいえ、大王にお仕えする将軍は、これまで功をたてても封侯の栄誉を賜ったためしがありません。私は大王の恩顧をうけておりますうちに、頂戴できるものは頂戴して、子孫に残したく思います」。その言葉に大笑した秦王。

戦地にあってなおも、王翦は”おねだり”をやめない。土地を賜るよう、たびたび秦王のもとに使者を出したのであった。さすがにこれを見かねて、王翦に忠告する者もいた。「将軍のおねだりも度が過ぎましょう」

すると、王翦は答えた。「わからぬか。王は冷酷で他人を信頼できない方だ。わしに秦の全軍を委ねたいま、心安らかであるはずがない。こうして財産のことばかり気にかけているように見せかけなければ、逆心はないかと疑われてしまうだろう」



王翦はたちまち楚軍を大敗させ、各地の都邑を席巻。一年あまりのうちに楚王を虜にして全土を秦の直轄地に編入した。

また、王翦の子、王賁もまた燕と斉の地を平定。王翦親子は臣下のなかで最も功績の高い一族の一つであった。





■統一



かつて呂不韋は、「厳酷に法を徹底させる若い王」の性格に不安を抱いていたことがあった。

そして、彼の編纂した『呂氏春秋』は、秦王の苛烈さを暗に戒めていた。そこには、伝統的な「存亡継絶(亡びしを存し、絶えたるを継ぐ)」という教えが記されており、天下を統一するにしても諸侯を滅ぼし尽くすのではなく、亡国の君主の子孫に封地を与えて祭祀を絶やさないようにすることを示していた。

だが、呂不韋の死後、その重石はとれてしまっていた。他6国は無残にも秦に斬り従えられることとなる。



まずは韓

2年後に趙

5年後に魏

7年後に楚

8年後に燕

9年後に斉

わずか10年での中国全土統一であった(紀元前221年)。



『史記』は、秦の猛進とともに天変地異をあわせて記す。

趙を攻めたとき、彗星が東の空に現れ不吉な光芒を放つ。北の太原を攻めたとき、地震があった。韓を併合したとき、大飢饉が民を襲った。

かつて人質生活を送った趙で、母の実家を迫害した者どもを残らず捕らえ坑埋めにした時も、大飢饉がおこった。秦王の母はこの年に崩じる。

かつて秦王の暗殺を企んだ刺客・荊軻は燕におり、その屍体はバラバラにして見せしめられた。その翌年、大雪が降り二尺五寸も積もる。






■始皇帝



「この功業を後世に伝えるためには、この際、王という呼称を改める必要があろう。この件について答申せよ」

何人も成し得ないといわれた全土統一。それを成した秦王・政。もはや「王」という小さな呼称に収まりきらなくなってしまっていた。

李斯は言上する。

「昔、かの五帝は天下の主とはいえ、その領土は千里四方にすぎず、周囲は諸侯や蛮族の国でした。ところが陛下は天下を平定されました。これは上古よりこのかた、その例を見ぬ偉業であり、五帝といえども成し得なかったことであります」

さらに続ける。「博士どもが申しますには、五帝以前の太古には、天皇・地皇・泰皇の三者が君臨し、なかでも泰皇がもっとも尊い存在であったとのこと。天子の自称を朕とされてはいかがと存じます」



秦王は口を開く。

「では、泰皇の皇をとり、上古の帝とあわせて、皇帝と称することにしよう(号して皇帝といわん)」

「朕は最初の皇帝なるがゆえに始皇帝と称する。朕のあとは順次二世、三世と称し、これを千万世の後までも、無窮に伝えるものとする」



この始皇帝なくんば、中国という広大な領地は分割されたままだったかもしれず、現代にも大国・中華人民共和国の姿はなかったかもしれない。

皇帝という呼称は、秦にはじまり清に終わるまで2千年以上にわたり存続する。



人を信じることなく法と理を信じた覇者、秦の始皇帝。

その国家は現代のグローバル世界に通じる「法治国家」という最初のロール・モデルでもあった。だがしかし、その手綱はあまりにも馬を信用しなかった。そして、始皇帝にしか握れないものであった。

ゆえに以後、秦は瓦解への道を進むしかなかったのである。













人を信じない男、中国最初の皇帝 [史記] 後編へ(つづく)






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出典:
ザ・プロファイラー「もう誰にも頼らない 始皇帝 孤独から生まれた最強の男」
史記〈3〉独裁の虚実 (徳間文庫)
赤龍王 1 本宮ひろ志傑作選 (集英社文庫―コミック版)



posted by 四代目 at 07:48| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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