3つの世界一をもつ湖
ロシア・バイカル湖
シベリアの奥地、タイガ(針葉樹林)が鬱蒼と生い茂る2,000m級の山々に囲まれた巨大な湖。
日本最大の琵琶湖より47倍も広く(3万1,500平方km)、弓なりにしなった細長い全長は635km(東京・青森間に匹敵)。
その湛える水量は2万3,000立法kmと途方もない。これは地球上の淡水の5分の1を占め、世界の全人口を3,000年間養えるほど膨大な量である。
■氷の湖
凍てつく大地に横たわるバイカル湖。
3,000km離れた日本にまで厳冬をもたらすシベリア寒気団のお膝元なだけに、バイカル湖の一年の半分近くは冷たい氷に塞がれる。
湖が凍りはじめるのは例年12月ごろ。北の突端から生まれる氷は徐々に厚さを増しながら、ひと月もせずして南端にまで至る。完全な全面凍結。分厚いところで氷の厚さは1mを超える。重さ2トンを超える車がその氷上を走ってもビクともしない。
「私にとって、凍ったバイカルは崇めるものなんだ」
30年にわたってバイカル湖の調査を続けるイーゴリ・ハナエフ(ロシア科学アカデミー)さん。果てしない氷に覆われた銀色の湖に立ち、目を細める。
やおら懐のウォッカを取り出すと、それを御神酒のように湖上に注ぐ。
「湖に出るときや漁に出るとき行われてきた、伝統的な儀式です。神ではなく、精霊に祈るのです。バイカルの精霊に」
時に、命を奪うほどの厳しさを見せるバイカル湖。そこに暮らす人々は古くから湖を敬い、崇めてきたという。
真冬は氷点下20℃を下回るというバイカル湖だが、春の見えはじめたこの時期、4月下旬はいよいよ解氷の時期に差しかかる。岸辺に近い場所の氷は、棒一本を刺し入れるだけでモロモロと崩れていく。
「見て下さい、バイカルの解氷です。気温が上がり解けた氷は、針のような形になります」
分厚い氷は、ツララのように細長い氷が束となって縦に並んでおり、それを棒で突き崩すと、束をバラしたようにほどける。それはキャンドル・アイスと呼ばれるもので、一本一本が氷の結晶である。

キャンドル・アイスは日本でも見れるが、その長さはせいぜい20cm程度。バイカル湖のそれはその2倍も3倍も長い。極寒の地ならではである。
このキャンドル・アイスが見られるようになると、地元の人々の頬はほころぶ。それは長かった冬の終わりを告げる風物詩。
緩みはじめた氷の世界に、バイカル・アザラシも顔をのぞかせる。生後2ヶ月ほどの赤ちゃん。淡水で生活するアザラシがいるのも、世界でここだけだという。
■青と緑
バイカルの氷は青い。
太陽光に含まれる青い光線は、もともと氷の中を通り抜けやすい性質をもつ。だが、不純物の多い氷の中は抜けられない。バイカルの氷が放つ美しい青は、不純物のない透き通った証である。
その清涼な湖に魅せられ、イーゴリさんはこれまで1,000回以上も、その湖水に潜ってきたという。
青い氷を突き崩し、キャンドル・アイスを払いのけ、潜水服に身を包んだイーゴリさんは命綱を氷に結わえ、氷下の水中へと身を沈める。
「透明度はせいぜい3〜4m」
意外にも水中は緑色に濁り、ベールがかかったかのようである。
「いまは植物プランクトンが活発になる時期だ」
氷が薄くなるこの時期、水中に増す太陽光を浴びる植物プランクトンは活動が盛んになる。
真っ青な氷の世界の下では、緑の生命が勢いを増していたのである。

■最古最深
バイカル湖の1つ目の世界一は、ここが「世界最古の湖」であるということ。
その誕生は2,500万年もの大昔。大陸規模の大変動が生んだ落とし子が、このバイカル湖である。
地球の表面はプレートと呼ばれる殻に覆われているが、バイカル湖は「ユーラシア・プレート」と「アムール・プレート」の境目に生まれた巨大な亀裂。その両プレートを大きく引き裂いたのは、インドがユーラシア大陸に激突した時の大衝撃。

驚くべきことに、9,000万年前のインドは現在の赤道よりも南、すなわち南半球にあった。アフリカ・マダガスカル島の隣にあったのだ。その南方の海からインドは急北上、そしてユーラシア大陸に大激突。
その時の大衝撃で潰れ、盛り上がったのがヒマラヤ山脈。その高さは世界最高峰となった。その一方、その大衝撃で割れたのがユーラシア・プレートとアムール・プレートの境目、すなわちバイカル湖。こちらは世界最深の大地の裂け目となった。
2,500万年前その当時、バイカル湖の深さは深海並みの9,000mもあったという。ヒマラヤの高峰が上に9,000m近く盛り上がった一方で、バイカル湖は同じだけ地下に沈んだということだ。
そうした大規模な地殻変動、大地が裂けて生まれた湖を「断層湖」と呼ぶ。
アフリカ大陸の裂け目に生まれたタンガニーカ湖(水深1,470m)とマラウイ湖(同706m)もそうであり、これらはそれぞれ世界で2番目と3番目に深い湖である。
世界一の深さを誇るのは、いまだロシア・バイカル湖。
「バイカル湖の深さは、淡水湖としては世界で群を抜いています。最も深いところでは1,630mにもなります」と、イーゴリさんは誇らしげに話す。
長い年月をへて、バイカル湖は9,000mという深さから1630mへと浅くなった。というのも、バイカル湖に注ぐ336本の川が運んでくる土砂や堆積物が湖底に厚く溜まってしまったからである(湖水の8割は川から流れ込む)。
それでも今だ世界一である。
周囲から泥や土砂の流れ込む宿命をもつ湖には「寿命」があり、並みの湖であれば、たいてい1〜3万年で埋まってしまう。
バイカル湖のように2,500万年も生き長らえているのは異例中の異例。というのは、未だやまぬ地殻変動が一年で数万回もの地震を発生させ、バイカル湖を年間数センチの割合で押し広げているからである。
つまり、バイカル湖はいまだ成長している若い湖なのだ。2,500万歳という超高齢にも関わらず。
■固有種
初夏6月。
あれほどあったバイカルの氷もすっかり姿を消し、いまは深く穏やかな表情で横たわっている。
その日の気温は22℃と暖かい。それでも湖の水は痛いほどに冷たい。
その冷涼な水に触れながらイーゴリさんは言う。「温かくなることはないんだ。一年中冷たい」
真夏には日中の気温が30℃近くにまで上がるというが、バイカル湖で泳ぐ人はほとんどいないという。
「すまないね、ここは南の海じゃないんだ(笑)。ここに来る人たちの目的は泳ぐことじゃない。景色を楽しむのさ」
そんな冷たい水に、イーゴリさんは嬉しそうに潜ろうとする。いそいそと愛用の潜水服に着替えながら。
イーゴリさんの専門は生物学。バイカル湖のもつ長い歴史は、湖に暮らす生物たちを独自に進化させてきたという。湖という環境自体が固有種を生みやすい上に、バイカルの歴史は2,500万年と途方もない。
固有種の宝庫として知られるバイカル湖では、その生物の7割、じつに1,000種を超える固有種が見つかっているという。
「ヨコエビだ」
水中のイーゴリさんは、珍しいエビを指さす。
「バイカルのヨコエビは、ほとんどが固有種だ」
ヨコエビはエビに似た甲殻類。エビなのに前に進む。バイカル湖にはおよそ300種類のヨコエビが生息しているという。他では見られないほど大きなものも。

「ほら、グープカが驚くほど生い茂っている。これも固有種だ」
地元で「グープカ」と呼ばれるのは、海綿動物のバイカルコ・カイメン。サンゴのように生い茂る。
海綿は地球上で最も原始的な多細胞生物で、その多くが海に生息している。淡水の湖では、バイカル湖に見られるほど大きなものは他にない。ここでは100年以上生き続けるものもあるという。

魚たちが元気になるのは夜。
プランクトンを食べようとするヨコエビを狙って、珍しい魚たちが湖の深いところから上がって来る。
バイカル湖に生息する魚の種類はおよそ50、その半分が固有種だとか。
■メタンハイドレート
バイカル湖の圧倒的な水深は、思わぬ恵みを人にもたらした。
「あそこ、あそこ。ほら、泡が見えるだろ」
激しく泡立つ水面。発生しているのはメタンガス。
「ほかの湖でもメタンが発生することはあります。しかし、バイカル湖ほど大量に噴出するのは非常にマレです」
いくぶん興奮気味にイーゴリさんは話す。なぜなら、メタンがいつどこから噴出するのか、専門家でもまったく予測がつかず、その現場に探し当てるのは並大抵のことではないからだ。
嬉々として泡の元へと潜るイーゴリさん。
「ヨコエビがいる」
メタンガスの噴出口には、それを好むバクテリアが数多く発生しているため、それを食べようとヨコエビや小魚が群がってくるのだ。
2008年、ロシアは潜水艇ミールによって水深1,600mの湖底調査を行った。バイカル湖の最深部に光が当てられたのは、その時が初めてだった。
そして発見されたのがメタンハイドレート。氷のようなその個体の塊が溶けると、100倍を超える体積のメタンガスになる、注目の資源である。
「メタンハイドレートが発見されたのは、淡水湖ではバイカル湖だけです。バイカル湖は非常に深いため、湖底の沈殿物によってメタンハイドレートが形成されるのです」
メタンハイドレートは、生物の死骸などから発生したメタンガスが、水と結びついて個体になったもの。その形成には「高い圧力」と「低い温度」が必要とされる。
幸いにも、バイカル湖は両方の条件を見事に満たす。数kmに及ぶほど深い湖底の堆積物、そして容赦のない寒さ。
メタンハイドレートの噴出は、バイカル湖の圧倒的な深さと寒さが生み出した奇跡の光景であった。奇しくもバイカル湖は、その湖底にも「氷」を蓄えていたのである。

■漁師
最古、最深に加え、もう1つの世界一が「透明度」であった。かつて40.5mという数字を記録した。
イーゴリさんによると、湖の中でもとくに透明度の高い水域が「オリホン島周辺」にあるという。オリホン島はバイカル湖の中部に浮かぶ島である。
そして着いたのはサヒュルタ村。90人ほどしか暮らしていない、ささやかな村である。みな漁業や牧畜を営んでいるという。
バイカル湖畔にはとりたてて大きな街はなく、こうした小さな集落が点在しているとのことである。
「軍隊の船みたいだろ」
漁師のパベルさんは、40年になるという年季の入った灰色の船の舵を握る。
このサヒュルタ村に生まれたパベルさんは、その船と同じ年月、バイカル湖で魚を取り続けているという。
初夏(6月)のこの時期、バイカルは夜中の11時にならないと陽が沈まない。漁が始まるのは、その日没後、真夜中を過ぎてから。
魚たちは暗くなってからでないと動き出してくれない。漁師たちは時計の時刻ではなく、バイカル湖の自然に合わせて暮らしているのである。
しかし、バイカル湖に魚影は薄い。
一年の半分は氷に覆われてしまうため、とりわけ冬場の漁は、氷に穴を開けて行う”か細い”ものである。
夏場でさえ、魚の捕れる保証はない。
「なるようになるさ」
毎日バイカル湖の自然を見つめるパブロさんは、その決して多くはない恵みに生活を委ねている。
網を揚げ、漁が終わると決まって、パブロさんはバイカル湖の水をコップに汲んで飲む。
「都会からのお客さんは皆、この水を持って帰るんだ。『都会にはこんなにキレイで結晶のような水はない』ってね」
大昔から営まれてきたであろう漁師の生活は、バイカル湖の自然と共にある。
「これが俺たちの暮らしだ。人は皆、生まれた場所で生きていくものだろう」
その日の漁果に満足しながら、パブロさんはコップを一飲みに飲み干す。
■エメラルド
翌朝、慌てず騒がず、パブロさんの船はゆったりと、透明度の最も高い水域を目指す。
その灰色の船のスピードは時速12km。軽く漕ぐ自転車ほどの遅さで、片道60kmの航路を行く。
「塩漬けのオームリだ。朝漬けたんだ」
パブロさんが差し出したのは、バイカル湖の固有種、オームリという魚。臭みがなく淡白な味わいだ。
「最高に旨い。健康にも良い」
その皮は湖へと投げ捨てる。
「カモメが食べてくれるさ」
その言葉も終わらぬうちに、さっそくカモメが待っていたかのように、その皮をさらっていく。
「一面、青々としているだろ」
ようやく着いた目的地の湖水は、目が覚めるほど透き通ったエメラルド色の光を放っていた。ここがバイカル湖で最も透明な場所だという。
バイカル湖の透明度が高いのには一つ、周囲に暮らしている人がごくわずかしかいない、というのがある。生活排水に含まれる窒素やリンなどの栄養分が湖に流れ込むことがほとんどないため、水中の栄養分が乏しく植物プランクトンが繁殖しにくいのだという。
また、解氷のはじまった4月下旬に水が緑色に濁っていたことも、バイカル湖がもつ水を浄化する仕組みの一つだという。
バイカル湖が氷の蓋をとると、露わになった湖面は燦々とした太陽に温められる。イーゴリさんによれば、その水温が「4℃」になった時に、湖の浄化がはじまる。
水は4℃の時に最も密度が高く重くなるという性質がある。そのため、先に温められた湖上層の水は4℃になると湖底に沈んでいく。その時、緑色の濁りの正体である植物プランクトンも4℃の重たい水と一緒に沈んでいく。そして、その代わりに浮上してくるのは下層部の澄んだ透明な水。

すべての氷が解けるまでの一ヶ月以上、この上下の水の大循環は継続し、ちょうど氷の解ける初夏、バイカル湖の水は最も透明に澄むのだという。
凍結と解氷を繰り返すたびに美しくなるバイカル湖。
凍るゆえに、解けるたびに、この湖の美しさは磨かれる。
■役割
水の浄化には、バイカル湖に長く棲む固有種たちも深く関わっている。
「グープカのおかげでバイカルの水はきれいなんだ」
グープカとは、バイカル湖の至るところに生息する、岩に張り付いたまま微動だにしない生物。先にも記したこの海綿、じつは驚くべき浄化能力を持っているのだという。

「昔はスポンジ代わりに使っていたんです」
海綿の表面には無数の細かな孔があいており、スポンジそのもののように弾力に富んでいる。
「海綿はいわばフィルターです。隙間だらけの体内を水が自由に出入りし、水を汚す有機物などをこしとり、体内で分解・浄化するのです」
バイカル湖には、淡水の湖としては他に例をみないほど海綿が大きく育つ。その数の多さも群を抜いている。高さおよそ50cmほどの海綿ひと株で、一日に数千リットルもの水量を浄化する能力をもつという。
「もしグープカが姿を消したら、バイカル湖は自浄能力を失い、透明度を保てなくなるでしょう」
あのヨコエビもまた、バイカル湖の掃除屋さんだ。湖底に沈んだプランクトンを飲み込み分解するのは、彼らの役割。
栄養分の乏しい水中環境にあっては、何ものもゴミにはならない。そこに暮らすものたちは皆、何らかの形でバイカル湖の美しさに一役買っているのである。
彼らがバイカル湖で独自に進化させた姿は、美しさを目指した姿だったのだ。
■神秘
「もしバイカルが無くなれば、オレたちも共に消えるのみさ…」
澄み切った湖面に目をやりながら、漁師のパベルさんはそうつぶやく。
「何度もバイカル湖を旅してきましたが、そのたびに美しさに圧倒されます」
湖の美しさに見とれる科学者イーゴリさんは、しばしば科学の眼を忘れる。
「この湖については、何も知らないことを痛感させられます。バイカル湖は、湖という概念を超えた存在なのです」
3つの世界一をもつ湖、バイカル湖。
その唯一無二の世界には、数字の示すそれ以上の神秘が、まだまだ秘められているのだろう…
(了)
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出典:体感! グレートネイチャー
「ロシア・バイカル湖 2,500万年の神秘」