放浪の画家「山下清(やました・きよし)」
この「裸の大将」は、フラリと新潟・長岡の花火大会に現れた。
その時、花火師「嘉瀬誠次(かせ・せいじ)」さんは忙しく花火大会の段取りに追われていた。
「最初は、山下清なんか知らないんだよね」
白いランニングに、夏だから膝までのパンツ。山下清は手暇そうに、立ち働く花火師たちを後ろの方から眺めていた。
「危ないから向こうへ行ってなさい」
はじめ、花火師・嘉瀬さんは優しく諭した。
ところが山下清は呑気なもので、「は、花火は、な、なんで危ないのかな?」などと言っている。
一発で頭にきた嘉瀬さん。
「危ねぇから危ねぇんだよ! 向こう行ってろ!!」
ついにはどやしつけ、山下清を追っ払った。
■長岡空襲
新潟・長岡の花火大会は「日本三大花火」としても知られる壮麗なものである(他、秋田・大曲、茨城・土浦)。
その始まりは明治12年(1879)にさかのぼると云われるが、現在につながる形になったのは1946年8月1日、第二次世界大戦からの復興を願う市民の気持ちが結実したものであった。
その「8月1日」という日は、長岡市がアメリカ軍の大空襲にさらされた日(1945年)。
その日の夜22時30分、テニアン島を発した125機の爆撃機は、市民およそ7万5,000人が暮らしていた長岡市に16万発以上の焼夷弾、およそ925トンを情けもみせずに投下。
約1,500人を死に至らしめ、市街地の8割もを火の海にしてみせた。
頭上からバカバカと落ちてくる爆弾に、当時小学生だった金子登美(かねこ・とみ)さんは地獄絵図を見せられていた。
「一面の死体でした…。私の父も姉も弟も、遺体を見つけられなくて…」
母とともにいた金子さんは近くの神社に逃げ込み、「ここで死のう」と深く掘られたゴミの穴に身を投じた。同じような思いを抱いたであろう多くの人々が、そうしていた。
「そしたら母がね、いつの間にか上へ這い上がっていて、私を引きずり上げようとしてるんです」
その母の手に必死で抗ったという金子さん。
「もう、あんな地獄のような外に出るくらいだったら、もう死んじゃった方がいいと思ってグズグズしていたんです」
そんな母子の健気なやりとりを見るに見かねたか
「下になってるどこかのオジさんが、ボーンと放り出してくれたんです」
ようやく娘の手をたずさえると、母は川へ向かって一心に走った。
「ただ夢中で走って、石垣の上からドボン、ドボンと飛び込みまして」
恐ろしくも「M47焼夷爆弾」と呼ばれる大型のガソリン爆弾は、川に入ってもガソリンに火がつき逃れられないものであった。だが幸いにも、母子が身を入れた川はその魔の手からは避けられた。
「暗いあいだは怖くて上がれなくて、一晩、水の中にいたんです」
ようやく爆音が止むのは、日付を越えた0時10分。
途方もなく恐ろしい100分間はその後、幼かった金子さんの脳裏に深く深く刻まれた。
ちなみに同じ8月1日、富山市、八王子市、水戸市もまたアメリカ軍の予告通りに、ひどく爆撃されていた(長岡に予告はなかった)。
■慰霊
その長岡空襲から、わずか一年後であった。長岡まつりのメインイベントとして大花火大会の企画が持ち上がったのは。
それは復興の狼煙となるものであったのだが、反対の声もまた高かった。
「空襲と同じようなことを頭の上でバカバカやられたら、かなわねで!」
金子さんも嫌だった。
「花火を上げることには猛反対でした。正直、スターマインなんか見ると空襲とそっくりなんです」
それでも、1946年8月1日、戦災復興祭りとして花火は盛大に打ち上げられた。
かつて空襲がはじまった夜10時30分。
慰霊の大華が夜空を彩った。
「そこは子供でね、うれしかった」
空襲の記憶はなお生々しかったものの、まだ小学生だった金子さんの心は思わず踊っていたという。
その大きな美しさに、傷んだ心は洗われていた。
■シベリア
悪夢の空襲から68年、今年(2013)もまた長岡の夜空に夜花が咲いた。
夜10時30分、慰霊の鐘とともに打ち上げられる「白一色の尺玉」3発。
それは花火師・嘉瀬さんが思いを込めた「白菊」と呼ばれる大玉である。
「葬式なんかはよく白い花でしょ。白い白銀の花火をいっぱい上げて、亡くなった人の霊を慰めようと思って」
花火師の三代目だった嘉瀬さんは、20歳で戦争に駆り出された。そのため、故郷・長岡が空襲に傷んだその日、そこには居らず、翌年の花火大会にも参加していなかった。
もっと酷い生き地獄を、極寒の地・シベリアで味わわされていた。終戦とともに異国の地へと連れ去られてしまっていたのである。
「ロシアの船が遠くからだんだんと島に向かって来て、『戦争は終わった。日本に連れて帰る』と言って、シベリアへ騙して連れて行って…」
俗にいう「シベリア抑留」。およそ56万人の日本人兵士が最長11年間、強制労働を強いられた。
「強制労働で一番困ったのは、食い物が足りなかった。いつも腹がへって、ほんとに歩くのがやっと。そのあいだ何年もタダ使いされて、最後には餓死したでしょ」
厳寒のもと満足な食事や休養も与えられず、労働ばかりは苛烈を極めた。ひたすら課される重労働に人間の心はいつしか失われ、一日が過ぎるのばかりをただただ待つ日々が延々と繰り返された。
「とてもじゃないが、喜怒哀楽とか全くなし。家族のことも考えないし、もう何にも…。希望とかっていうのはなくなっちゃうんだよね」
■弔い
幸い、嘉瀬さんは生きて日本に帰りつけた。
しかし、心は晴れない。最果ての地で倒れた戦友たちの姿が、嘉瀬さんの心をずっと悩まし続けた。
「国のためにもならんで、そういう死に方(餓死)したら、さぞ無念だったろうて…」
そう話しつつ、嘉瀬さんは言葉に詰まる。
「うっと詰まって、いきなり止まって。しゃべりが止まるんだよ。言おうと思ってもダメなんだ。ただ(涙が)おってきてよ…」
そして1990年、68歳になっていた嘉瀬さんは、亡くした戦友らへ「弔いの花火」を捧げようと、ふたたびシベリアの地を目指した。
そのために精魂を込め、丹念に仕上げた花火が「白菊」。
ロシアの夜空に輝いた白銀の大花。
かつての戦友たちは見上げたであろうか…。
(合掌)
■ちぎり絵
さすらいの画家「山下清」もまた見上げた。長岡の夜空を。
嘉瀬さんが亡き人に手向けた花を。
そして、一枚の「ちぎり絵」を嘉瀬さんの家に預けて去った。
その去り際、山下清はつぶやいた。
「みんなが爆弾なんか作らないで、きれいな花火ばかりを作っていたら、きっと戦争なんか起きなかったんだな…」
(了)
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出典:新日本風土記「花火」