2013年09月07日

松本に生きる「民藝」の美。柳宗悦





「自然の黄味が既に美しい色を呈している」

そう言って、柳宗悦(やなぎ・むねよし)が愛用したマフラー。確かによく見ると、白さの中には微妙な黄色味がある。

それは、信州(長野)松本の生み出した「特別な絹」の成せる業であった。



驚くべきことに、「天然の繭(まゆ)」というのは白ではなかった。

なんと、食する葉っぱと同じような「緑色」をしているのである。その繭をつくる蚕(かいこ)もまた、アゲハチョウの幼虫のごとく緑色である。

一般的な絹糸が真っ白なのは、じつは人が何世代にも渡って品種改良を続けた成果であったのだ。その改良のたびに、緑色だった天然の繭は白くなり、そして糸も切れにくく、織物にしやすくなっていったのだという(蚕本人も真っ白になった)。



土地で「山繭(やままい)」と呼ばれる天然の繭。

それはその地、松本一帯が日本でも数少ない産地。「絹のダイヤモンド」とも言われる天然のエメラルドグリーン。

自然味あふれる野生の蚕は、かくも大胆な色の繭に包まれ、そして羽化するのであった。



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■山繭織



信州は蚕(かいこ)の里として知られ、古より織物が盛んに行われてきた土地柄である。

野生の蚕の絹糸を使った織物は「山繭織(やままい・おり)」と呼ばれ、その天然の美しい色を生かし、松本では色を染めずに織り上げられるのが一般的だったという。

品種改良されていない山繭の糸は、極めて繊細で切れやすい。しかしそれを丁寧に紡ぎ織り上げることで、その糸一本一本がそれぞれの色艶を白に黄色に輝かせるのであった。



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「着て動いて、光線の加減で、ちょっとした動きでキラっと見える。それもあまりケバケバした光ではなくて、奥ゆかしいちょっと高級感のある光加減っていいますかね」

山繭をつかった着物を織り続けて40年、武井豊子(たけい・とよこ)さんは、古来より伝わる山繭織をそう表現する。

山繭それ自体は個性的な色合いをしているにも関わらず、織物となるとその糸は自己主張しすぎることなく、着物全体をとても柔らかな雰囲気に仕上げてくれる。それは白一色ではない、天然の淡いグラデーションが光に揺らぐからでもあろう。



「これってやっぱり、自然から生まれて生きてきたもので、決して人間のために生まれて来たわけじゃないんですよね」

染織家の本郷孝文(ほんごう・たかゆき)さんはそう言って、生まれながらの野生の美に敬意を表す。

「手を加えないで、ほんとにそれだけで作っていい。そういう魅力です」

野生の山繭は、むしろ人の手を払いのけるように、色が染まりにくいのだという。






■民藝



そうして、松本の地で古くから受け継がれてきた「自然の色合い」。

それを柳宗悦(やなぎ・むねよし)は、心から愛した。

彼は、そうした土地の美を「民藝(みんげい)」という言葉であらわし、その美しさ、大切さを訴えた。名も無き民による普段づかいの工芸品、それが民藝である。



「よき工芸は、よき天然の上に宿る」

その工芸が材料を選ぶというよりは、その材料が工芸を招く、と柳は言う。

「民藝には必ずその郷土があるではないか。自然から恵まれた物資が産みの母である。郷土的薫り、地方的彩り、このことこそは工芸に幾多の種を加え、味わいを添える」

民芸品は、自然に対するじつに素直な現れなのであった。

「天然に従順なるものは、天然の愛を享ける」



「その美を見る時、人は自然、自らを見るのである」

土地に生えるものから生まれるその土地の民芸品は、その地の「意志のあらわれ」でもある、と柳は言う。

「その意志は、いかなる形をいかなる模様を有つべきかを吾々に命じる。誰もこの自然の意志に叛いて、よきものを作ることは出来ぬ」



「母のその懐に帰れば帰るほど、美はいよいよ温められる」

「それは人が作るというよりも、むしろ自然が産むとこそ云うべきであろう」










■みすず竹



松本には土地の竹細工も生きる。

「みすず細工」と呼ばれる工芸がそれで、松本では江戸時代から暮らしの中でごく普通に使われてきたという。

土地に生える「みすず竹」は細かに編まれ、それが籠に敷物になるのであった。編み目が細かいために通気性が良いと、かつては松本じゅうの銭湯の脱衣所にみすず竹の敷物があったほどだという。



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柳宗悦いわく、「編みの細かいのが上等である」。

みすず細工の特徴は、細かく柔らかな、角のない手触り(足触り)。加えて、軽く丈夫である。

その秘密は、松本に自生する「みすず竹」そのものにある。この竹はじつに細い。一般的な竹細工に使われる真竹(まだけ)が腕や脚ほどの太さがあるのに比べ、このみすず竹は鉛筆ほどの細さしかない。

その細い竹を、縦に四つにも六つにも割り、みすず細工はつくられる。その細い細いヒゴが、じつに細やかに精緻に編まれ、みすず細工特有のしなやかさ、そして美しい曲線美を生み出すのである。



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みすず細工に見られるのは、柳が唱える「用の美」であろう。

工芸品は、用いられ使われるからこそ美しい。トロンとした丸みを帯びるみすず竹の弁当行李は、毎日の昼食を包み入れるほどにその美しさを増していく。足元の敷物も同様、人に踏みしめられるほどに美しい。

「用いずば、器は美しくならない。器は仕えることによって美を増し、主は使うことによって愛を増すのである」






■用の美



「毎日触れる器具であるから、それは実際に堪えねばならない。頑丈なもの、健全なもの、それが日常の生活に即する」

柳の言う民芸品は、美しさを求めて生まれてきたわけではなく、「必要だから作られた」。

「床に飾られ室を彩るためのものではなく、台所に置かれ居間に散らばる諸道具である。それらの多くは片田舎の名も知れぬ故郷で育つのである。または裏町の塵にまみれた暗い工房の中から生まれてくる」



ゆえに民芸品は名を成そうとは考えない。そこに銘が刻まれることなどない。

ただ純粋に、日々の用のみに仕える。その「正直さ」が美しい、と柳は言う。

「ちょうど宗教の真髄が、複雑な神学に在るよりも『無心な信仰』にあるのと同じなのです。信仰の前に神学は二次なのです。同じように『無心な民藝の美』に対して、個人の意識的な作は二次なのです(『民藝とは何か』柳宗悦)」

「無心な帰依から信仰が出てくるように、自ら器には美が湧いてくるのだ(『雑器の美』柳宗悦)」



民藝品は「働くもの」であるから、華美な衣装はまとわない。「貧しく着、慎ましく暮らしている」。

その使い古された様は「奉仕の歴史」、「なすべきことをなした功」。

「よき用とよき美とは、叛く世界ではない。用美一如と云い得ないであろうか」










■協団



松本に黒々とそびえる松本城。

その建設のため、かつて松本には日本中から優秀な職人たちがたくさん集まり、それが工芸を古くから盛んにさせたのだという。松本の民藝品の真骨頂といえば家具という人も多いが、それはそんな江戸時代に培われた土壌であった。

しかし不幸にも、第二次世界大戦の混乱によって、その伝統は途絶えてしまう。



そんな折、松本に生え育った民藝に心奪われていた柳は、そうした現状を憂えた。そして松本の木工家らに声をかけた。

「西洋家具の形をそのまま模することから始めよう」

日本の民藝を心から愛した柳であったが、その懐は広く深く、西洋のギルド(Guild)が手仕事で生み出す工芸品にも理解があった。



「処の東西を問わず、よき工藝が栄えたところには、常に協団の制度があったのです」と柳は言う。

民藝は、各個バラバラの個人が生み出すものではなく、「結ばれたる人間の社会」がその結晶として現出させるものだ、との考えが柳にはあった。

「正しい美は、正しい社会の反映なのです。その背後には結合せられた人間がいるのです。すべてが互を支持して美を示さねばならないのです」



個々の美よりも、総合の美。

それが柳の言う「工藝の追うべき目標」であり、それは「人間と人間の結合なくしてはあり得ない」のであった。






■虎斑



松本の家具職人、池田三四郎(いけだ・さんしろう)氏は、柳の掛け声に応じた。

「何百年もの時間の中で、幾重もの人たちが大切に受け継いできたものは、大切に受け継いできた理由があるはずなんです」

同時代の人々が結びつくのみならず、過去の先人たちの思いもがそこに連なる。



柳が持ち込んだ西洋家具を見て、池田氏はその材を土地に求めた。

それは松本の寒さ厳しい山中に自生する「ミズメザクラ(梓)」であった。

しかしこの木は木工家泣かせである。あまりにも厳しい自然環境がその身をじつに堅いものとしてしまうため、加工するのは容易ならざることであった。



それでも、その杢目(もくめ)はあまりにも美しい。

年輪とは違う文様が、その切り口から現れてくる。まるで虎のシマ模様にも似ることから「虎斑(とらふ)」とも呼ばれるマダラ模様である。それは厳しい自然を生き抜いた証であった。

「立ってる目と寝てる目と、塗料の染み込み方が違ってくるんです。ですから、そこで色の微妙な変化が出てくるんですよ」と池田氏は、その杢目を示す。

人の手が入ることにより、その美しくも力強い自然の風合いは浮かび上がり、際立つのであった。



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■多産廉価



民藝品には「活ける生命の美」がある、と柳は言う。

それは自然そのままの力を、最小限の人の手で「用」に結び付けているからだという。

もしそれが、用よりも美に偏ってしまうと、より複雑に、より精密になってしまう。それが行き過ぎれば「過美」となり、自然本来の力から離れて「病にかかった贅沢品」になってしまう、と柳は言う。



それでも人は、そうした病的な美術品のほうを高く評価するきらいにある、と柳は嘆く。

一方、どこにでも普通に転がっている民藝品の美しさは見出されず、「下手(げて)もの」とすら蔑まれてしまうのである。巷にあふれる民藝品は値段も安く、それゆえさらに低く見られてしまうのであった。

「温室の花をのみ美しい花と見る時、人々はしばしば野の花の美しさを忘れました」



柳は、多産そして廉価であることが、民藝品の美を高めたと考える。

日々使うものであるから、美にかまけてはいられない。技におぼれていられない。一日に何百となく作らなければならないとすれば、必然、その手は意識せずとも同じ動きを覚えてしまう。

「人々は語らいつつ笑いつつ作るのです。何ができるかさえすでに念頭を離れています」



そうした「無心」の手作業が、民藝品の中には息づくと柳は言う。

「美に向かってはいかに無心であったでしょう。作るのではなく生まれるのです」

そこには高価な美術品に見られるのな「通有の欠点」、たとえば「自意識の超過」や「工夫作為の弊」が見られない。

「多産は技巧の罪を忘れしめ、廉価は意識の弊を招かない」






■粗悪濫造



多産と濫造を、そして廉価と粗悪を混同してはならない、と柳は言う。

彼の生きた大正時代、ちょうど工芸品の機械化がすすみ、モノから命が消えていく時でもあった。

「機械には決定のみあって創造はない。作られるものはただ規則的な冷ややかなものに過ぎないのです」



民藝品は「用」のために作られたが、工業製品は「利」のために作られる。

「何事よりも利得が主眼なのです。利の前には用も二次なのです」

もはやそれらは必要だから作られるという美しさをもつものではあり得なくなっていた。



「雑器のよき歴史が漸く傾き始めて、正しい手工が終りに近づいたのは明治の半頃である」と柳は言う。

民藝品の美を最初に見出したのは、武野紹鴎や千利休ら茶道の先人たち。彼らは「かつて貧しい者が使った飯碗」にすら美を見る眼をもっていた。「あり合せの木や竹や土で、心ゆくばかりの茶室を建てる力」があった。

そして、そののちの江戸時代に民藝品は花開いた。

「徳川の文化は平民の所有であった。文学においてそうであり、絵画においてそうである」



しかしながら、複雑さと技巧に傾いていった天上の美は、いずれ下り坂へと向かってしまう。

そんな中、土地とともにあった民藝ばかりは「歴史は傾くとも、その美に傾きはなかった」。その無心なるがゆえに、自然の力を損ねることがついぞなかったのである。

だが、そうして地にへばりついて生き残っていた民藝品も、機械化の波にすっかりさらわれてしまうのである。粗悪濫造という大波に。






■美の公道



皮肉にも、民藝品が全盛だった江戸時代、その美が公に見出されることはなかった。

というのも、彼らはその中に生きていたため、その美に気づくことがなかったのである。まるで「花園に居慣れる者はその香りを知らないと云われる」ように。

民藝品はそれが廃れるまで「自らは美を知らざるもの」であり、「誰も知る世界でありながら、誰も見なかった世界」であった。



そうした曇れる鏡を拭った柳宗悦。貴族的な美術品「上手物」と庶民的な民藝品「下手物」を、こう比する。

有想より無想
意識より無心
作為より必然

主我より忘我
在銘より無銘
個性より伝統

華美より質素
錯雑さより単純さ



一握りの富者にしか愛好されない美術品よりも、大衆に用いられる民藝品こそが「美の公道」であると柳は言う。

「普通であることほど実際偉大なる場合はないのです。一般の人々は非凡なもののみ偉大であると思うほど平凡になっているのです」

かつて老子は道の極致を「玄」と読んだ。「玄」はいわゆる「聖暗」。日本人はそれを「渋さ」と解した。



時として、美は「逆理」のうちにある。

われわれは「知識を過信するほど無知」であるが、無心の美は「知識をすらなお無知ならしめる」。

民藝品に「際立った個人の存在」は感じられない。むしろ、「個人は自らを匿した。わずかな作者から美が出るのではなく、美の中に作者が活きた」。

それは「絶大な他力の中」に抱かれていた。



個が求めるのを「小我」とすれば、民藝品の体現したものは「大我」であった。

「あの強い自我をして、なお弱からしめた無我の強さ」

「個性の主張をしてなお言葉なからしめる自然の意志」

それを生んだのは江戸という時代であり、日本という土地であった。かくして、「名もなく学もない貧しい大衆の作」から「容易ならざる美」が生まれることになる。



柳は言う。「このことは何を示すのでしょうか。あの凡庸と蔑まれる民衆への限りない肯定を語ってくれます。民衆あっての深い美なのですから」

かつて禅僧の慧能(えのう)は、こう言った。

「処に南北あらんとも、仏心に東西あらんや」













(了)






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出典:
美の壺「柳宗悦が愛した松本」
民芸とは何か柳宗悦
雑器の美柳宗悦
posted by 四代目 at 07:55| Comment(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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