2013年08月31日

「見えないと始まらない」 人類、月へ。



「見えないと始まらない

 見ようとしないと始まらない」

400年前、そう言ったガリレオ・ガリレイは、自らが作り上げた望遠鏡で夜空の星々を見上げた。



それまで、月の表面は真っ平らだと考えられていた。

ところが、ガリレオの好奇心が見たその月は、表面がデコボコだった。



もっと遠くを見たい。

もっと宇宙を知りたい。

そんな思いが、イタリアの天文学者、ガリレオ・ガリレイにより触発され、人類はついに、ガリレオがはるか遠くに見たその月に足跡を刻むこととなる。










■青い地球



人類が実際に宇宙へと飛び出したのは、ほんの50数年前。

過去の2つの大きな戦争が、皮肉にもロケット技術を飛躍的に進歩させた余燼であった。



その嚆矢となって地球から飛び出したのは、ソ連の「人工衛星」スプートニク(1957年)。

そのビッグ・ニュースは、ほぼ同時期に開始されたテレビ放送によって世界へと報道され、「人工衛星の姿を見てみたい」と宇宙ブームが巻き起こる。

狂喜乱舞していた民衆を尻目に、ギリギリと歯噛みしていたのはアメリカだ。自らが宇宙への先鞭をつけるべく躍起になっていたところ、ソ連に先を越されたからだった。そのアメリカは、ソ連の人工衛星打ち上げ成功を「スプートニク・ショック」と呼んで肝に銘じ、臥薪嘗胆の日々を送ることになる。



国家の威信を宇宙にかけたアメリカは、3,000人もの志願者の中から7人の宇宙飛行士「マーキュリー7」を選び抜き、その過酷な任にあたらせた。

しかし、当時のロケット技術は信じられぬほど拙く、その成功率はわずか50%。選び抜かれた7人の宇宙飛行士がロケットを視察した時、そのロケットは脆くも空に散った。

目の当たりにした現実を、マーキュリー7の宇宙飛行士、スコット・カーペンターはこう語る。「恐怖をおぼえました。ロケットが爆発したり、宇宙船が壊れたりすることを常に覚悟しておかなければならないと知りました」



一方、ソ連の躍進は止まらない。

1961年4月12日、ソ連のユーリ・ガガーリンが「人類初の有人宇宙飛行」を成し遂げた。

アメリカの悲願であった「宇宙一番乗り」は、ついにソ連の手柄となったのだった。








「地球は青かった」

人類で初めて宇宙から地球を見たガガーリンは、この名言を残した。

より正確に記すと、実際にガガーリンが言った言葉はこうなる。

「地平線の眺めは独特で、並外れて美しいものでした。そして、地球を取り巻く薄い膜は淡い青色でした」



残念だったのは、ガガーリンが乗ったソ連の宇宙船には「外を撮影できるカメラ」がなかったことである。

ガガーリンの言葉を聞いた世界の人々は、ガガーリンの言う「青い地球」の姿を思い思いに夢想するより他なかった。






■窓とカメラ



一度ならず二度までも、ソ連に先を越されたアメリカであったが、2番手となって宇宙へ出ていったアメリカは、ガガーリンの成し得なかったことを成し遂げる。

それは、ガガーリンが言葉にした「青い地球」を、写真として世界に示したことだった。



しかし最初の段階では、アメリカの宇宙船は窓もない単なる「鉄の箱」だった。というのも、ソ連に先んじられていたNASA(アメリカ航空宇宙局)は「人間を宇宙に送り出すこと」にしか関心がなかった。窓を付けると構造的に弱くなると言うのであった。

「私たちは『窓がないとダメだ』と主張しました」と、アメリカの宇宙飛行士「マーキュリー7」の一人だったスコットは言う。真っ暗闇の鉄箱の中で宇宙空間を往復しても、青いという地球を見ることすらできない。



ようやく、窓が認められると今度は、マーキュリー7のリーダー的存在だったジョン・グレンが「宇宙から見える地球を写真に撮ろう」と提案した。カメラは自腹で購入するから、宇宙船に持ち込ませてくれと懇願したのである。

400年前、ガリレオは「見なければ始まらない」と言ったが、ジョン・グレンに言わせれば、人々に宇宙からの地球を「見せなければ始まらない」のであった。



ソ連のガガーリンに遅れること10ヶ月、1962年2月20日、グレンらマーキュリー7は宇宙に向けて飛び立った、自前のカメラを携えて。

地球の上空260kmを周回したグレンは、その眼下に展開される息を飲むような光景を次々とカメラに収めた。

そして、地球の夜側に回り込んだ時だった。グレンの目にしたのは、地平線に浮かび上がる美しい光の帯。それは大気の放つ青い光、ガガーリンの言った「淡い青色の薄い膜」であった。



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■月への思い



勢いづいたアメリカは、大胆にもこう宣言する。

「人を月に送り込む。これを次のアメリカの国家目標とする(ジョン・F・ケネディ大統領)」

そう、月面への着陸を目指す「アポロ計画」の始動である。



月への思いは、ソ連もまた同様であった。そして、アメリカを出し抜かんと虎視眈々、密やかにアメリカを上回る巨大ロケットの建造を進め、完成まであと一歩というところまで迫っていた。

その静かな動きを機敏に察知したアメリカ。今度こそは前轍を踏むまいと、強引にも急遽、月への予定を繰り上げた。



1968年12月、アポロ8号はあわてて地球を離れた。

その名誉ある乗組員はフランク・ボーマン、ジム・ラベル、ビル・アンダースの3名。

有人宇宙飛行を目指したマーキュリー計画から10年、この時は着陸こそしなかったものの、ついにアメリカは月への先鞭をつけることができた。








「月は見渡すかぎり、灰色の世界だ」

月上空を巡りながら、宇宙飛行士はNASAにそう報告した。

その直後、「あれは驚くべき光景だった」と、のちにジム・ラベルが語る景色が眼前にあらわれる。



「あれは月の裏側から表側に戻ろうとしていた時だった。進行方向を見ていると、月の地平線から地球が顔を出したんだ」

日の出(サン・ライズ)ならぬ、地球の出(アース・ライズ)。

青く輝く地球が、ぽっこりと眼前に現れた。



その神々しさに心打たれたジム・ラベルは、「写真に撮らねば」と咄嗟にカメラを取り出す。

ところが、「それはできない」と止められる。「フィルムは月を撮るために持ってきたのであり、地球を撮るためではない」というわけだ。

「しかし、実際に地球の出を見せてやると、おぉーっ!と声を上げて、すぐに3人ともそれぞれのカメラを取り上げて撮影しまくった」とジム・ラベルは言う。



38万kmの彼方から見る地球。

漆黒の宇宙に浮かぶその姿は、人々の地球への認識を一変させてしまうほどの力をもっていた。

そこに醜い国境線は見えない。ただ、1つの美しい球体があるだけだった。



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■生中継



いよいよ月面への着陸を目指すアメリカのNASA(航空宇宙局)は、その偉業の達成と同時に、ある挑戦に打って出る。それは、その瞬間を世界同時にテレビで「ライブ中継」しようというのであった。

月を目指すというアポロ計画には、アメリカの国家予算のおよそ4分の1もの大金が投じられていた。その必要性を国民に納得してもらうのに、テレビ中継というのは極めて有効な手段であった。

「見せなければ終わってしまう」

NASAは月面着陸をテレビ公開することで、世論の後押しを狙ったのである。



だが、当時の技術では「どうすれば上手くいくのかわからない」と、テレビ中継の責任者であったエド・フェンデルが言うほどに、月からの生放送は荒唐無稽の企画であった。

まず、アポロ計画が始まった頃のテレビ・カメラというのは、重さが100kg以上もある鉄の塊のようなもので、それを宇宙飛行士が担いで撮影するというのは、まったく非現実的なことであった。

「カメラの重量は、宇宙船の安全性を脅かすものでした。カメラだけでも重いのに、中継に必要なさまざまな付属品も重いんです。これは大問題でした」と中継を任されたエドは言う。



さらに、月への最初の一歩を撮影するには、その前に誰かが月面にいなければならない。しかし、そうすると撮影されるのは最初の一歩ではなくなってしまう。

そのため、月に降りる宇宙飛行士自身が、テレビ・カメラを持ちながら月着陸船のハシゴを降りるという案もあった。だが、それは危険過ぎた。ハシゴを無事に降りれるかどうかすらも危ぶまれていたのである。



そもそも、38万kmという月と地球との距離の中、うまく電波は送受信できるのか?

月から映像を送信するアンテナは直径60cmという小型のもので、出力はわずか20Wに過ぎない。その微弱な信号を受け取るには、地球側に最大64mという超巨大アンテナが必要とされた。

「たとえて言うと、何百キロも離れたところから、ロウソクの炎を見ようとするほど無茶なことでした」と、中継担当者の一人、ビル・ウッドは言う。

さらに、地球が回ると地上のアンテナが月からの電波を受信できなくなる時間帯が生じてしまう。そのため、アンテナの設置場所はアメリカだけでは不十分であり、地球全域を網羅する必要があった。






■情熱



当時のアメリカの月への熱意は、そうした諸々の問題を次々に解決していった。

100kgを超えていたテレビ・カメラは、なんと3kgという片手で持てるほどに技術改良された。加えて、月面の明暗激しいコントラスト(約1,000倍)の元でも撮影できるよう、アメリカ軍の暗視カメラの技術も取り入れられた。



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撮影方法は、月着陸船のメサという収納スペースからカメラを飛び出させる方法が採用された。

「宇宙船の外に出るとき、宇宙飛行士が小さなレバーを引くんです。すると、メサが飛び出す仕組みでした。メサは耐熱シートに保護されており、カメラはその中に収められていたんです。ハシゴを降りる飛行士が映るよう計算されていました」



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月からの微弱な映像を受信するためには、その画質が3分の1に落とされ、巨大アンテナはアメリカのみならず、オーストラリア(ハニーサックル)、スペイン(マドリード)の3ヶ所に設置された。






だが、その準備はまことに慌ただしいもので、月着陸船にカメラが取り付けられたのは、ロケット発射のわずか数日前。

宇宙飛行士や技術陣らが実際の手順を充分に確認できたかという、それは付け焼き刃のようなものであった。

それが、のちのライブ中継でのドタバタ劇を巻き起こすことになる。






■月着陸へ



1969年7月16日、月面着陸そして生放送の使命を帯びた「アポロ11号」は、ついに打ち上げられた。

乗組員は、ニール・アームストロングとエドウィン・オルドリンの2人。

地球を蹴ってから3日と3時間49分後、アポロ11号は月の軌道に乗った。



「着陸を開始せよ」

その指令とともに、月面への着陸船イーグルは、ゆっくりと月面に降りていく。

「こちら、静かの海。イーグルは着陸した」

アームストロング船長のその言葉に、固唾を飲んでいたNASAの職員らは、とりあえず胸を撫で下ろす。

「了解。みんな青くなっていたが、おかげで生き返った」



さあ、世界中の人たちがテレビ画面を前に、瞬きも忘れて食い入ることになるライブ中継がいよいよ始まる。その予定は、宇宙飛行士の2人が仮眠をとってからのはずだった。

ところが、一刻も早く月面に降りたいと逸ったアームストロング船長。船外活動の開始を早めると伝えてきた。

「許可がもらえるなら、ヒューストン時刻の8時頃に船外活動をはじめたい。つまり、今から3時間後だ」



この突然の変更に、テレビ中継のスタッフらは大混乱。3時間などという時間は飛ぶように過ぎ、あっという間にアームストロング船長が宇宙船の扉を開く時間となってしまった。

「ハッチを出たところだ」

その言葉が月から届くも、なぜか映像は届かない。テレビ中継のスタッフらは大慌てに慌てて走り回り、その原因の究明に神経をすり減らす。

じつはこの時、着陸船の中にいたオルドリン飛行士が、映像送信のスイッチを押し忘れていたのである(アームストロング船長は手順通り、カメラの入ったメサを開くレバーをちゃんと引いていた)。






■執念



誰もが「もうダメだ…」と観念した時、

「テレビ映像が入った!」

弾んだ声が、管制室に響いた。



だが、その映像はどこかおかしい。

「画面の上下が逆さま(upside down)だ…」

じつは、メサに取り付けられたカメラは、その構造上、上下が逆さまに取り付けられており、受信した画像を地上で「反転」する予定であった。混乱に次ぐ混乱の中、映像を反転させるスイッチを押し忘れてしまっていた。

地球で初めて見た月の映像は、その混乱を象徴するかのように、上下が逆さまだったのである。



反転はすぐに解消されるも、その画質は絶望的に悪い。アームストロング船長の姿すら定かでない。

その時、ある管制官がハニーサックル(オーストラリア)の画質が良いことに気がついた。

即座に映像はハニーサックルのものに切り替えられた。そのタイミングは、アームストロング船長がまさに「最初の一歩」を月に踏み出すほんの数秒前。間一髪とはこのことであった。



その一歩を踏みしめたアームストロング船長は、全世界に言った。

"That's one small step for man, one giant leap for mankind."

「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大なる飛躍である」



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この言葉をテレビで聞いた全世界6億人、40カ国の人々。その興奮は極みに達していた。そして誰もが、自分の手柄のようにその映像を脳裏に刻み込んだ。

「アポロ計画の偉大な点は、テレビ中継の映像を通じて、誰もがアポロ11号の快挙を共有できたことです。実際に月に行ったのは私たち宇宙飛行士ですが、みんな誰もが自分たち人類が月に行ったと言うんですよ(笑)」

アポロ11号の4ヶ月後に月に降りた宇宙飛行士の一人、アラン・ビーンはそう言って満足気に笑う。



執念とも呼ぶべき月面からのテレビ中継によって、アームストロングの「小さな一歩」は人類共有の財産となったのであった。

「私たち人類が、この映像を見ることができなかったとしたら、その影響は計り知れません」と、スミソニアン航空宇宙博物館の研究員、ジェニファー・レバソーは感慨深げにそう振り返る。








アメリカには、こんな言葉もある。

What you see is what you get(見たものが得られる).

その頭文字をとって、俗にウィズウィグ(WYSIWYG)とも言われる。

もとはコンピューター画面に写ったそのままが印刷されるという意味であるが、人間の経験の限界を示す意味にもとられる。「見なければ始まらない」し、人間が得られるものは「実際に目にしたもの」だけなのである。






■月面カメラ



アポロ計画が残したのはテレビ映像だけではなく、写真も山と撮った。その数およそ3万枚。

月面で用いられたカメラは特別仕様。昼夜の温度差が260℃という月面の厳しい気候に耐えられるように、そして分厚い手袋をした宇宙飛行士でも扱えるようにと改造されている。

一つ面白いのは、被写体を確認するためのファインダーがないことだ。巨大なヘルメットをかぶった宇宙飛行士は、それを覗くことができなかったからである。



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アポロ11号が撮った写真のうち、物議を醸すことになる一枚もあった。

それは月面にアメリカの国旗「星条旗」を立てた時に撮った写真である。その時の映像を確認すると、空気がないはずの月面でその旗がはためいている。そのため、アポロ計画で記録された映像は「地球で撮影されたものだ」と主張する人々がいたのである。アポロの月面着陸は「真っ赤なウソだ」と。

「真相はこうです。この星条旗、あるNASAの職員がデザインしたものなんですが、空気のない月でも、月の重力でも旗が垂れないように、ここ(旗の上辺)に棒が入っているんです。じつは宇宙飛行士が旗を月面に立てた時、ポールが揺れて、旗も揺れた。こういうことだったんです。月面は空気抵抗がないので、旗の揺れはむしろ収まりにくい。月という地球とは全く異なる環境ならではの、面白い現象だったわけです(NHK)」








アポロ11号の、月面の写真を撮ったカメラはその後、月に置いてきた。

月着陸船に積める荷物の重さには限界があるため、カメラの重さ分、「月の石」を持ち帰るためだった。






■最後の一歩



アポロ計画では、じつに6回の月面探査が行われた。

アポロ12号のコンラッド船長は「ニール(アームストロング)にとっては小さな一歩だが、私には大きな一歩だ」と言って月に降り立った。



月の重力は地球の6分の1。その月面でゴルフ・クラブを振りぬくと、そのボールは宇宙の彼方に飛んでいくかのようだった。

空気がないことで、ガリレオの重力実験は見事に証明できた。

「私はいま、左手に羽、右手にハンマーを持っています」

同時に手を放すと、軽い羽も重いハンマーも同時に月面に着地した。

「ほらね。ガリレオは正しかった」

ちなみに、400年前のガリレオはピサの斜塔で、大小2つの鉄球を落とす実験を行っている。








1972年12月、3年に及んだアポロ計画は幕を閉じる。

それは月面着陸の栄光とは裏腹に、失敗の連続でもあった。発射台上で火災に巻き込まれたアポロ1号、アポロ13号の爆発事故…。








最後のミッションを務めたのはアポロl7号。その船長であったジャック・シュミットは、この言葉を月に残した。

「私が月面に『最後の一歩』を踏みしめた後、人類はしばらく地球に帰ります。ですが、遠からざる未来を信じています。私たち人類は、ふたたび月に戻ってくるでしょう」










■身体の壁



宇宙開発の黎明期において、人類の前に立ちはだかったのは「無重力の壁」であった。

地球で進化を続けた我々ヒトの身体は、宇宙に向いてはいなかった。長く宇宙の無重力にさらされると身体がふにゃふにゃになってしまい、地球に帰還すると立って歩くことすら適わなくなってしまうのだった。

重さがないという無重力の身軽さは、皮肉にも人間の身体をダメにするのであった。それはまるで、贅沢三昧の旅のあと、自宅の質素な生活に耐えられなくなってしまうかのようである。



長く宇宙に留まるには、無重力への対策は必須であった。

そこで、長期ステイが計画されたアメリカの宇宙ステーション「スカイラブ(1973年)」では、直径7mという広い船内をフル活用し、激しい運動で筋力を維持するなどの、徹底した無重力への対策が講じられた。重さのなくなってしまう宇宙空間においては、地球上より何倍もの負荷が必要とされた。

そうした努力の結果、3ヶ月という長期滞在にも関わらず、地球に帰還した宇宙飛行士たちは全員、立って歩くことができた。無重力の壁は、そうした尽力によって見事に克服されたのであった。



ところで、アメリカに対抗すべく、ソ連も宇宙ステーションを宇宙空間にこしらえる。それが1986年に打ち上げられた「ミール」である。

アメリカには遅れたものの、ソ連はそのミールでアメリカを凌ぐ「長期滞在記録」を次々と打ち立てる。438日間というワレリー・ポリャコフの成した記録は今も破られていない。










■心の壁



宇宙での滞在期間が伸びるにつれ、新たな問題が生じることになった。それは「心の問題」であった。動かせば鍛えられた身体とは異なり、心というのは実に繊細な部分を持っていた。

「時には涙も流しましたよ。宇宙では涙は落ちませんがね。涙が盛り上がってくるんです」

そう語るのは、438日間も宇宙に居続けたソ連の宇宙飛行士、ワレリー・ポリャコフ。

「感受性が麻痺したように鈍るのです。限られた仲間の中だけで、単調な日常生活を続けていると、感受性が鈍ってくるのです」

感受性の麻痺(無気力)にともなう孤独感は、日に日にポリャコフの心に積もっていき、その心はすっかり塞がれてしまっていた。



宇宙に閉鎖された感覚。

そんなミールの中で、唯一「外の希望」を感じられる場所を、ポリャコフはついに見つけた。

それは「観測用の窓」だった。



「私は多くのものを見ました。最も感動したのは、宇宙ステーションから見た、美しい地球です」

地平線の向こうに何があるのだろう?

あそこには何があるのだろう?

そんな疑問をもって地球の姿を眺めるうちに、ポリャコフの心には新たな力が湧いてくるようであった。

「知識欲、好奇心。これらは神がこうした逆境を乗り越えるべく、人間に与えたものなのです」と、ポリャコフはしみじみ語る。



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400年前、ガリレオ・ガリレイは地球から宇宙を遠望して、その思いを膨らませたものだった。

ところが、人類が宇宙に行けるようになった後、ポリャコフは逆に宇宙から地球を眺めて、そうした思いを新たにしたのであった。

「見なければ始まらない。見ようとしなければ始まらない」とガリレオが言った真意はやはり、見ようとする人の意欲と、そこに生まれるエネルギーを語ったものであったのでだろうか。






■協調へ



技術の壁を超え、身体と心の壁を超え、そしてついに人類は宇宙を介して、部分的ながら「国境の壁」をも超えることになる。

ベルリンの壁が音を立てて崩れると、ソ連という大国は瓦解した(1991)。

そのソ連崩壊後、宇宙開発史は大きな転換点を迎えることになる。それが1993年に行われた「国際宇宙ステーション共同建設」の調印式である。冷戦と呼ばれた東西陣営の対立は、ついに宇宙で手を結ぶ約束を交わしたのであった。



幕を開けた新時代の象徴は、ロシアの宇宙ステーション「ミール」と、アメリカの宇宙船「スペースシャトル」のドッキングという壮大なミッションだった。

1955年6月

アメリカ「さあ、シャトルのハッチを開けてくれ」

ロシア「OK、開けるぞ」

それまで犬猿の仲で覇を競い合っていた両大国は、国境線を遠く離れた宇宙空間で、その一線をついに超えたのであった。



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時代は「対立から協調へ」。

ロシアも参加した国際宇宙ステーションの建設は1998年に開始された。日本も含め15カ国が技術と資金を出し合った。

ちなみに、宇宙開発の黎明期、日本はどうしていたのか?

ソ連とアメリカが覇を競って大型ロケットを宇宙に飛ばしていた頃、日本が作っていたのは小さな小さな「ペンシル(鉛筆)ロケット」。最初の飛行時間は17秒、到達高度600mというオモチャのようなものであった。というのも、第二次世界大戦後、敗戦国となった日本は長らく宇宙開発を禁止されていたからであった。

出鼻を大きく出遅れた日本であったが、もともと優れた技術を内包していた日本は、月探査船「かぐや」をはじめ、世界初の偉業となる小惑星探査機「はやぶさ」など、地味ながらも着実な成果を確実にその歴史に刻んでる。










■400年という時の流れ



ガリレオは400年前、地上の望遠鏡で星々を夢想した。

そして今、人類は宇宙空間に巨大な望遠鏡を浮かべて、宇宙の隅々にまで目を凝らしている。「ハッブル宇宙望遠鏡」が地球に届ける映像は、宇宙の謎と神秘を次々と明らかにしてくれている。








カメラを持った最大の冒険者は「ボイジャー」。

1977年に地球を旅だった航海者、ボイジャー1号とボイジャー2号、この2機の探査機は今も現役で宇宙を旅している。

ガリレオは400年前、木星の回りに4つの衛星を見つけた(ガリレオ衛星)。そしてボイジャーは、そのカメラを使ってガリレオには分からなかった衛星イオの正体を明らかにした。それは火山噴火を活発に続ける天体だった。



ガリレオは土星の輪にも首をかしげた。

ボイジャーの撮影した画像は、とにかく美しく、そして驚くほど詳細。その土星の輪に電波を当てると、その正体が「氷の粒」であることも判明した。

「小さなものは数ミリ、ほとんどが雪玉くらいの大きさですが、最も大きいのは家の一部屋ほどもありました」と、ボイジャー計画を率いたエドワード・ストーン博士は興奮気味に言う。

ボイジャーが目指す恒星系への接近は「5億年後」の予定である。



ガリレオはその晩年、地球が回っているという地動説を頑なに唱え続けたため、教会から異端視され苦難に満ちた人生を送る。

「それでも地球は回っている」

彼は自らの目で観測した事実を、信じ続けた。400年後の我々は皆知っている。「ほらね、ガリレオが正しかった」と。



ガリレオは、こうも言っている。

「宇宙は、我々の目の前に開かれている巨大な書物である」

夜空を見上げるだけで、この巨大な書物は何かを語りかけてくる。



「見ようとしたから始まった。見せようとしたから始まった」

人類の宇宙への探究心は、知れば知るほど深まるばかりである。

幸いにも、宇宙の謎は知れば知るほど、その深さを増すようだ…













(了)






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月のおかげで、地球の傾きは安定している。ところが、その月が遠ざかりつつあるのだとか……。



出典:NHK 阿部寛の”宇宙への挑戦”




posted by 四代目 at 09:10| Comment(0) | 宇宙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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