「権現(ごんげん)」とは何か?
死んで神となった徳川家康は、「東照大権現」として日光に祀られている。
だが、その神号を決める時に一悶着あった。家康を「権現にするか、明神にするか」で、僧侶らが言い争ったのである。
「権現」を推したのは僧・天海、「明神」は僧・崇伝。結局、滅亡した秀吉がなった「明神(豊国大明神)」は不吉とされ、家康は「権現」となる。
「明神として祀られていれば、より神道色が明確になったはずだが、当時広く浸透していた神仏習合の信仰を基盤にした方が盤石だ、と天海は考えたのだろう(島田裕巳)」
その天海の慧眼は、まるで次の世のことも知っていたかのようである。というのも、江戸時代が終わった途端に「神仏分離」の風が吹き荒れ、神も仏も時代の波に晒されることになるからである。
権現は「神か仏か」を問われた時、そのどちらでもなかった。もしくは、どちらでもあった。
権現という存在は「仏が権(かり)にこの世に現れた神(本地垂迹説)」。つまり権現は、神であると同時に仏であり、またその逆も可という「融通無碍な性格」を有していた。
「仏としての性格を捨てて神にもなれれば、逆に神としての性格を捨てて仏にもなれた。神社に祀られていた権現は神と同義になり、寺院に祀られた権現は仏と同じ意味になった(島田裕巳)」
ゆえに、明治政府が神と仏を分離しようとした時も、権現は二つに引き裂かれることがなく、ただ祀られていた場所(神社か寺か)に従い、そのどちらかになっただけであった。
「明治の訪れとともに起った神仏分離という事態は、深刻な危機に結びつき可能性があったが、権現自体が否定されることはなかった。権現という存在そのものが廃されることはなく、それによって神仏分離という事態を乗り越えることができたのである(島田裕巳)」
■日本独自
日本の神も仏も、その多くが中国やインドなど他国に起源を持つ。
「たとえば江戸時代以降とくに盛んに信仰されるようなった『七福神』のうち、弁財天はヒンドゥー教の女神サラスヴァティーが仏教由来で入ってきたもの、毘沙門天は同じくクヴェーラの仏教由来の姿(多聞天ともいう)。大黒天はシヴァが護法神になったマヘーシュヴァラの化身マハーカーラが訳され、ダイコクという音から大国主と集合したもの。布袋は中国実在の禅僧だが、これは弥勒菩薩の化身ということになっている。そして、福禄寿と寿老人は道教の神様。残る恵比寿だけが日本固有の神様(事代主神)ということになる(中村圭志)」
七福神の乗る宝船は、人種のルツボならぬ「神や仏のるつぼ」のようである。
ところが日本の権現にあたる存在は、インドにもなければ中国や朝鮮半島にもない。
日本には東照大権現をはじめ、熊野権現や白山権現、あるいは立山権現、金毘羅権現、そして蔵王権現など幾多の権現さまがいらっしゃるが、その原型が他国に求められるのは、金毘羅権現くらいのものである(その元はインドで鰐を神格化したクンビーラに遡るとされる)。
「基本的に、権現は日本にしか存在しない信仰対象なのである(島田裕巳)」
■仮
権現の「権」とは、「仮」という意味をもっている。
「権教」という言葉も同じく「仮」という意味から「方便の教え」をいう。その権教に対するのは「実教」で、こちらが「真実の教え」ということになる(権実)。
この権実(ごんじつ)の区別が、「法華経」では明確にされている。
中国で天台宗を開いた「智(ちぎ)」は、法華経こそが唯一釈迦が真実を説いた経典であり、他の経典に優っていると強調した。というのも、釈迦は「華厳経」からから教えを説きはじめ、最後の八年間に「法華経」を説いたと智は主張し、それ以前の教えは、真実の教えである法華経に導くための「方便」であると捉えたからである。
つまり、法華経こそが「実教(真実の教え)」であり、それ以外の経典は「権教(方便の教え)」であると智はいうのであった。
そうした考え方が、日本の神仏習合にも当てはめられた。
日本の神々は方便であり、その実は仏にあり、と。
すなわち権現は「実ではない」と。
しかし、それでは神の価値が低くなってしまうではないか。
そこに論争の種はあった。智の天台宗を日本で広めたのは最澄であるが、彼は法相宗の徳一と激しい議論を戦わせている(三一権実諍論)。両者は神と仏で言い争ったのではないが、何が「権(仮)」で何が「実」となるかで揉めたのであった。
権実の考えに従えば、確実に「権」の価値は低い。それは「実」に至るための踏み段にすぎぬとされる。
それゆえ神道の立場からすれば、神は「仮」ではなく「実」であると訴えたい。そこで、神を仮とする本地垂迹説に対して、神を主とする「反・本地垂迹説(神本仏迹説)」を唱えた。
しかし残念ながら、それは社会的に受け入れられなかった。というのも、日本における神と仏の関係は、どうしても仏が上位に来ざるを得ない背景があったからである。
■神と仏
日本古来の神々は自然崇拝に由来することが多く、その神々は岩や滝などにちなんだ「土地神」であった。だが、そうした土地神(地居神)は人間より格上なのは確かであるが、仏教においてはまだ「六道輪廻の天人レベル」に過ぎない。土地に縛られて輪廻の輪から抜けられずにいる存在なのである。
一方、仏様というのはその輪廻の輪を悟って解脱した存在である。この点、仏教の思想は遥かにスケールが大きかった。
また、土地の神が現世利益にとどまっていたのに対して、仏さまは「来世」までをも約束してくれた。
「自分の死後の問題、来世や輪廻に関わる『盂蘭盆経』の世界観は、日本の神祇信仰には考えもつかない、仏教だけが明らかにした世界だった(藤本晃)」
教義なき神道とは対照的に、仏教には今世から来世にかけての「明確な答え」を持っていた。
「人々が一番気になる生きるか死ぬかの問題、そして死後の問題に、教義のない神道は答えようがなかった。儒教や道教にもある程度の答えはあったが、因果法則を解き明かした仏教の精緻な教えには遠く及ばなかった(藤本晃)」
そもそも、日本の最高神の子孫である天皇家も飛鳥時代、仏教を積極的に取り入れたのである。
「天皇家がそもそも仏教徒になったのです。日本という領土の万世一系の領主となった一族が、仏教に守られて国を治めると宣言したのです(藤本晃)」
そうした風潮にあっては、やはり神は「権(仮)」の存在とならざるを得なかったのであろうか。
■横断的
それでも神は権現となったことで、神であると同時に仏でもあるという強みを持つこととなった。
そして、権現と同じく「神道と仏教の両方の世界にまたがる横断的な存在」である修験道と深く結びついた。それ以来、山伏や修験者らが修行をする山においては、その神が権現として信仰の対象となった。
白山権現は白山(石川県)の神であり、飯縄権現は飯縄山(長野県)の神である。蔵王権現は蔵王(山形県)で生まれたわけではないが、修験道の開祖である役行者が金峰山(奈良県)で示現したものである。
世界宗教には一神教という考え方もあり、それにそぐわないものは排除される歴史もあった。
だが権現さまは排除されるどころか、さまざまな境界を渡り歩きながら唯一無二の存在になってしまった。明治政府が神仏を分けようとしても、分け切れないほどに柔軟な存在に。
もっとも、人々の信仰を「◯教」「△教」というふうにキッパリ分けられると考えるのは、西洋起源の一神教の発想であり、日本では近代以降の思考法である。
「今の私たちは、神社に行けば拍手を打ち、寺院では合掌するが、こうした区別が生まれたのは神仏分離以降のことである。江戸時代の絵図を見ると、神社の社殿の前でも参拝者は合掌しており、拍手を打っている場面を見出すことはできない。拍手が一般化するのは明治になってからである(島田裕巳)」
■観念か悟りか
「厳しい風土条件や戦乱に苛まれた西ユーラシア世界(西洋)では、神々も厳しいサバイバル戦を強いられ、敗者の神々たちは忘れ去られてきた傾向にある。その一方、東ユーラシア大陸(東洋)では、勝者の神々が打ち立てられた後にも、文化的風土の違いから敗者の神々も併存するという状況があった(中村圭志)」
西洋では「思わしくない霊的存在」は悪魔とされ排除されていった。魔女狩りなどはその典型であった。そうして、古い神々が無効化される一方、新しい神はより崇高化されて崇められてきたのである。
日本とて例外ではなく、渡来の仏教は日本列島に元からあった神々の上層をなすこととなった。
ただ、日本の仏教は土地の神々を排除することなく、その下層にであれ、もしくは権(仮)にであれ、従来の神々を一様に認めてきた。そもそも、仏さまは利他的な行を奨励するのであり、気に入らない他者を追い出そうするような存在ではなかった。
その寛容さからか、現在においても日本は「新しい宗教」がボコボコ誕生する珍しい国でもある。
「基本的にはそれが日本の、より広くは東ユーラシアの伝統的な信仰のあり方であるからです。興味深いのは、東洋においては神々を統廃合して唯一神に格上げすることに努力するよりは、個々人の心と身体の鍛錬を通じて何かの境地(解脱や悟り)を目指すという修行を発達させてきたことです(中村圭志)」
少々滑稽なのは、そうした日本では神さままでもが悟りを開こうと努力していることであろうか(仏教的にはそういうことになっている)。
権(仮)の力にすぎない「権力」を欲する人々もまた本末転倒なのであろうが…
(了)
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出典:サンガジャパンVol.14(Summer)
「権現とは何か 島田裕巳」
「仏教が、日本と神道を産み育てた 藤本晃」
「神道 中村圭志」