2013年08月15日

日本の神にみる「外」の概念



外国からの文化が津波のように押し寄せてきた明治時代、日本ではそれまでの長い年月「当たり前」のように行われてきた諸々のことが押し流されようとしていた。

だがそれは悪いばかりではなかった。それまでの「当たり前」は外の世界との比較によって、「今の自分とは異なる他者」を過去に再発見する契機ともなった。そうした学問を「民俗学」と呼び、それは1875年に生まれた「柳田國男(やなぎだ・くにお)」にはじまることになる。



東京帝国大学で農政学を学んだ柳田。その後、農商務省に入り、有能な官僚として農村の立て直しに尽力する。当時の農村はといえば、急速すぎた資本主義化についていけずに、疲弊の影を強くしていた時代である。

柳田は考えた。小作人でも大地主でもない「中農」を支援育成し、協同組合をつくらせてて「豊かな暮らしを実現できるシステム」を構築しよう、と。



ところが、である。柳田が調査のために各地の農村地帯を訪ね歩くと、想像していたものとは全く異なる現実が農村社会にはしぶとく根付いていた。

そもそも、彼らには「もっと生活を豊かにしたい」という資本主義的な発想が薄いように思われた。むしろ、日々地道に働いて少しずつ蓄積してきたものを、「年に一度か二度の非日常の祭りの場」で、その全てを使い果たしてしまうことに無上の喜びを感じているようであった。






■2つの世界



静かに土と接する日常に対し、祭りという農村における「非日常」は、その地方の絆そのものであり、それは実に強固な結びつきだった。

そうした古来よりの日本農村の現実を肌で感じた柳田は、もともとの日本人というのは実は「2つの世界」に生きているのではないかと考えるに至る。

現実である日常、そして聖なる非日常。この2つの世界。



その2つの世界は、まったく別の場所にあるわけではない。どうやら隣り合っているかのように身近であり、その両世界は祭りという非日常においてクロスしているようだった。

時折クロスするその「境界」においては、異世界の者どもが日常に顔を出す。神と人間、山と里、生と死といった境界には、妖怪や精霊ともいうべき異形の者たちが確かに存在していた。



たとえば、遠野(岩手)の地に伝わる「境界の神々」は、石神、山神、道祖神、荒神などなど、さまざまな名をもっていた。

そうした境界の神々は、里に恵みをもたらす善神である反面、時には破壊をもたらす悪神にも変貌する、すなわち「両義性」をもつ神々であった。なるほど、そもそもが2つの世界を股にかける神々であるだけに、その性質もまた善悪両面を備えるのであった。






■鬼の力



三河地方(愛知)には、「花祭り」と呼ばれる神楽が伝わっている。この祭りは、今も日本各地にみられる「夜神楽」というもので、冬の農閑期に一昼夜かけて行われるものである。

なぜ冬に行うのかと言えば、それは自然の力が弱まっているためであり、その時期にあえて「異世界のもの」を迎えることで、その強い力を受け取ろうとするためであった。そして、その力を次の年の豊作につなげようというのであった。



たとえば三河の花祭りでは、真夜中すぎに「榊鬼(さかきおに)」という非常に恐ろし鬼が姿を現す。その別に「お判」という眷属たちの多くも出でる。

そうした者たちの力は恐ろしくも強大で、日常の世界に現れられたら忽ちに平穏な農村を破壊し尽くしてしまうほどのものである。だが、一夜限りとあらばその力の恩恵に預かることもできる。

焚き火を囲んだ夜通しの舞い、笛や太鼓による囃子に、男女も入り乱れて狂乱の夜を明かす。舞って舞って自らの魂を振れば振るほど鬼たちは喜び、そして力を貸してくれる。



ひとしきり舞った後、鬼神たちには「あちら側」へと帰っていただく。というのも、日常にまで居座られてはたまらない。日常において彼らは「荒ぶる神」としていささか迷惑な存在ともなってしまうのだから。あくまでも非日常の世界だけが彼らの居場所なのであった。

鬼たちが「外の世界」の者どもであるのと同様、非日常の祭りを担う人々もまた通常の社会秩序の外側で生きねばならなかった。古来日本では、そうした祝祭に関わる人たち、またある種の芸能に携わる人々というのは「河原者」と呼ばれる被差別的存在でもあった。

日常が内側であれば、非日常は外側。その外側に差別される人々が存在される人々がいる一方で、逆にことさらに敬われる反対の極もあった。それが「天皇」という存在であった。河原者などの被差別民が外側に置かれたように、天皇は格別の存在としてやはり日常世界の外側に位置していたのである。






■外側



被差別民としての芸能民、そして天皇にこだわり続けたのが「折口信夫(おりぐち・しのぶ)」であった。

柳田国男がこの両極の階級を切り離して日常を生きる「常民」に意識を向けていったのとは対照的に、折口はあくまで「外側」にこだわり続けた。



日本列島は海によって閉じられているようでいて、その実、四方に常に開かれている状態でもある。ゆえに歴史上、朝鮮半島や中国からはさまざまな文化が常に流れ込み、そして明治時代には欧米文化の波も打ち寄せたのであった。必然、日本列島には神々が「外から」もやって来た。

日本における信仰の古い層には、自然物(山や岩)を敬い、山などに神が住むという考えがあった。そのため、人間が山の懐に無遠慮に踏み入っていくというのは感覚をさほど持たなかったと考えられる。

たとえば、椎葉村(宮崎)で村の男たちが山に入って狩りを行うのは、一年のある期間だけに限られていた。神が宿る神聖な山に人が入るというのは、そうした特別な時だけであり、人が山に入る時には身も心も清浄にしなければならない。狩りには普段とは違う衣装を身に付け、山では山でしか通用しない特別な言葉を話した。それは、山が明らかな非日常の場だったからである。



ところが、朝鮮半島経由でやって来たと思われる修験道という信仰は、むしろ山に積極的に分け入った。神聖なる山々で自らの心身を鍛えることを宗としたのである。その後には仏教が渡来し、ずっと時代が下るとキリスト教も入ってくる。

日本人のユニークな点は、そうした外からの神様らを排除しようとはさほど考えなかったことであろう。古来より海辺に打ち寄せる波には親和性が高かったからか、祭りといった非日常を楽しむ気質が培われていたからか、むしろ外側からの力を敬う傾向にすらあった(とりわけ顕著なのは密教の思想であり、それはあらゆるものを受け入れることを良しとしていた)。

ゆえに、そうした日本列島にあって「混じり気のないものが優れていて、混ざっているから劣っている、という考え方は正しくなかった(安藤礼二)」。明治政府が神仏分離令を出さねばならぬほど、神と仏ですら区別できないくらいに入り混じっていたのである。






■芸能民



さて、折口信夫のこだわった「外側」の一つが、「河原者」と蔑まれて日常の外に置かれた芸能民たちである。その昔、彼らの活躍の場は「祝祭」という非日常に限られたものだった。

能楽の祖とされる世阿弥が著した『風姿花伝』には、彼らの子孫が「秦河勝(はたのかわかつ)」という海を渡って日本に来た人物(渡来系)であることが記されている。つまり、のちに日本を代表する伝統芸能の一つになる「能」は、そのルーツを「外」にもつのである。



そのルーツ「秦河勝」は秦の始皇帝の生まれ変わりとも云われるが、その誕生譚によれば、「大きな卵」のようなものが長谷寺(奈良)に流れ着き、その中から世にも美しい男の子が生まれたとある。その子は物まね(のちにいう猿楽)が大変にうまかったので、それが朝廷に認められて出世することになる。

秦河勝が亡くなった時、「うつぼ舟」という密閉された卵のような舟に乗せられ大阪湾に流される。だが、その漂着した先で彼は非常に恐ろしい神に変貌してしまう。すなわち、この能楽の祖の祖は「境界」に住まうことになる異形の神に変じるのであった。



また、秦河勝の子孫たる「観阿弥」「世阿弥」の名にある「阿弥」という文字は、一遍上人を祖とする時宗系の法名であるとのことである。一遍上人という人は「踊り念仏」で知られるが、太鼓や鉦を鳴らして念仏を唱えながら踊り、諸国を放浪して歩いた。

祭りの踊りが人々の魂を引っ掻き回し、ある種のトランス状態に導くことがあるように、一遍上人の「踊念仏」にもまたそうした現象を誘発するところがあったようである。そして、それは「神懸かり」の系譜にもつながることになる。






■神懸かり



「神懸かり」というのは神様が人間に憑依することであるが、それは『日本書紀』にも見られる日本的宗教の古層に横たわるものである。

第10代・崇神天皇の時代、世に流行していた疫病を鎮めるために、宮中に祀られていた天照大御神(あまてらす)の神霊を天皇の娘トヨスキイリヒメに憑依させ、天照大御神の神霊が鎮座するための場所を探させた、と『日本書紀』は記す。

その結果、天照大御神は伊勢の地に鎮座することとなり、これが伊勢神宮の起こりとなる。天照大御神は日本の天皇の皇祖神、すなわちご先祖さまである。



折口信夫は「日本の宗教は神懸かりから始まる」と言っているが、それは『日本書紀』以来の古代日本の伝統に基づくものであった。

三河地方に伝わる花祭りもそうであり、夜通し踊り狂うことによって我を忘れ、鬼神を自らに招き、その力を借りるのである。そうした「神懸かり」というのは、日本各地の古い神祭に多く見られるものである。

憑依されるということは即ち、外からの力を受け入れるということを意味する。それは、日本の宗教構造のトップに君臨する「天皇の祭祀」にも重なる、と折口は言う。天皇家は、祝祭によって神が発動する力を守り続けていると言うのである。



だが、天皇家で行われる祭祀、とくに神懸かりは数千年の歴史をもつと云われるものの、その実態は今も厚いベールの内奥に秘められている。

そのベールの中身を折口は、天皇家とは対極にあるが同じ外側に位置する「芸能民」、そして「神懸かりの新興宗教」から迫ろうと試みた。






■容れ物



「荒神(こうじん)」という神様は、日常と非日常の境界に立つ「荒ぶる神」。その力を借りんとする祭りが「荒神神楽」。

その荒神神楽に特徴的なものに、舞台の天井から吊るされる「天蓋」という紙でつくった飾りがある。その天蓋からは長く垂れ下がったヒモが伸びており、周囲の人々はそれを引っ張って天蓋をユラユラと揺らす。

その妖しく揺らめく天蓋が神懸かりのための「装置」となり、歌と太鼓で踊り狂っていた人々のうちの誰かが神懸かりをして、いろいろなことを口走り出す。その言葉はみな「神のお告げ」として大切に受け止められる。



たとえば伊勢神楽において、そうした神懸かりを導く天蓋のことを「マドコオフスマ」というそうだが、天皇家でも同様「マドコオフスマ」と呼ばれるものが用いられる祭祀がある。

それは「大嘗祭」である。大嘗祭というのは、毎年11月に行われる「新嘗祭」のうち、天皇が新たに即位して最初に行われるものをいう。すなわち大嘗祭は「即位儀礼」、天照大御神から脈々と受け継がれている祖先神の魂を、新しく天皇になった人物に継承するという儀式である。

折口信夫による考察は『大嘗祭の本義』にまとめられいるが、それによると、天皇は大嘗祭で新穀(その年の収穫)を神に捧げた後、マドコオフスマと呼ばれる「布団のような織物」に包まれるのだそうである。



ここで重要なのは、天皇の身体は卵の殻のような「魂の容れ物」にすぎない、と折口は言う。

折口は戦前、天皇が神格化される風潮の中を「天皇は神ではない」と言い切っている。折口いわく、天皇を現す「ミコト」という言葉は神の「御言」であり、天皇は神の言葉を伝えるに過ぎない。天皇もまた、神懸かりを受ける土台なのだ、と。

それは日本の信仰の古層に垣間見えるそれであり、古くは秦河勝が乗ってきたという卵のようなものであるのだという。



また、神は招いて終わりでは済まされない。それをふたたび送り帰す必要もある。

それが「直会(なおらえ)」というものであり、招いた神とともに食事をすることでその魂をもてなし、そして快く送り返すという意味がある。天皇家の行う大嘗祭にも直会は行われ、我々が行うお盆にもその風習は残っている。






■神懸かり宗教



日本に神は天照大御神(あまてらす)ばかりではない。天地に満ちるあらゆる森羅万象が神となりうる。ゆえに、神懸かりも千差万別、それぞれの神がそれぞれの宗教を生んでも何ら不思議はない。

事実、明治維新の前後、「神懸かり」を元とした新興宗教が日本のあちこちで産声をあげている。



江戸末期に生まれた「天理教」、これは山伏に神懸かりさせられた「中山みき」を祖とする。

息子が足を悪くして、いつまでたっても良くならないことから、加持祈祷をしてもらおうと彼女は山伏を呼んだ(当時の山伏は、加持祈祷によって病気を治すまじないを行っていた)。ところがその時、山伏が神をつける加持台がいない。やむなく中山みき自らがその役となり神を憑依させた。

すると、取り憑いた神は自らを「天理王命(てんりおうのみこと)」と名乗りだす。そして、みきを「神のやしろ」として受け入れてもらいたい、そうでなければ中山家を滅ぼす、と語った。そんなお告げを受けたみきは夫と相談し、それを受け入れることとした。そしてやっと、憑依した神は落ち着いたという。

こうして天理教の祖となった中山みき。すると彼女に憑いた神は「自分こそが本当の神である」と、その創世神話まで語りだす。天皇家の伝える神話(古事記など)には間違いが多いと言い、自分の語る神話こそが本物であると語るのだった。



また、天理教と同時期に生まれた「金光教」、その祖となる「赤沢文治」もまた神懸かりがその発端となっている。

文治の場合、最初に神懸かりしたのは石鎚講という山伏結社に入っていた弟である。その神の正体を尋ねたところ、「金神という方位を守る道教の神だ」と名乗ったといわれる。



「大本教(現在は大本)」は、天理教と金光教を一つにするような形ではじまる。

祖となった「出口なお」に憑いたのは「艮の金神」。その語るところは、今いる天皇家の神によって封じ込められたというものだった。






■国家神道



こうして芽吹いてきた新興宗教は、時の明治新政府にとっては穏やかならぬものであった。

神懸かりをした者たちは、みな神になれる。とくに大本教は人を神懸かりさせる方法を半ば公開し、それを理論として誰でも共有できるようにした。つまり、誰でもが神になれる道を開いたのだ。

それは困る。誰でも仏になるのとは訳が違う。誰にでも神になられたら、誰もが天皇を名乗れてしまう。事実、神懸かりが広まることによって多くの「新天皇」が日本に登場したのであった。



そこで生まれたのが、明治政府による神道を「国家宗教」とする政策。いわゆる国家神道。全国の神社を国家の管理下に起くため、神官の世襲を禁じて国から派遣するような、いわば官僚体制を敷こうとした。

しかし、それがうまくいかなかったことは懸念されたその通りであった。たとえば出雲大社など古い歴史をもつ神社において、突然国から派遣されてきた官僚のような神官など到底受け入れがたい。その他、山岳信仰などにおいても、国家神道の枠組みはあまりにも小さすぎた。

のちに、そうした宗教は「教派神道」として国に認められることとなる。天理教や金光教なども含め、合計13派がその対象となった。しかし、政府公認となった新宗教は天理教が最後。その後に成立した大本教はその枠からも外れた。

国に認められるのは一長一短。保護を受けるかわりに規制も受け入れなければならない。わりと自由に活動できた大本教はその後、新たに眞光や世界救世教などを生んでいくことになる。






■対



「神懸かり」において特筆すべき宗教構造は「対」という発想である。神懸かりする人とさせる人、その二者が必ず必要とされる。

「神懸かりというのは、神の主つまり神主と、その人に神がからさせる審神者(さにわ)との関係で成り立っている(出口王仁三郎『鎮魂帰神法』)」

神の声を宿らせる教祖と、その言葉を翻訳する審神者(さにわ)。この「対の形」が新たな宗教を安定させる構造となっていた。



そうした対構造は、日本に古くから見られるものである。

たとえば、日本神話における姉神アマテラスと弟神スサノオ。また、邪馬台国の卑弥呼は「神懸かりする巫女王」であり、その言葉を政治的に翻訳したのは彼女の男兄弟たちであったという。沖縄の島々に伝わる信仰の形も同様、女性が神懸かりの言葉を発し、男たちがそれを解釈・実践する。

大本教においては、神懸かった出口なおの言葉を余人にわかるように翻訳したのが出口王仁三郎であった。



古くは祭祀を司った芸能一族が大成させた「能」にも、それは見られる。能の物語は「シテ」と「ワキ」の対で進む。

世阿弥の大成させた「夢幻能」というジャンルにおいて、シテは死者であったり精霊であったり、その存在はこの世のものではなく、それが生きている人間(ワキ)のもとに現れて過去を語りだす。



能と同様、神楽にも出てくる「翁」と「鬼」。翁の裏には鬼がいる。研究者の松岡心平によれば、「能の観世宗家では、翁の面の上に、鬼の面を置いている」とのこと。

鬼のように強烈に荒ぶる神に対して、翁は穏やかな対比をなす。表裏一体とされる両者は、内に外にその役割をもち、鬼は「鬼は外」と外に追いやられながらも、その力は内にも必要とされている。

日本にはそうした思想が根強く、どちらかが絶対悪でどちらかが絶対善という考えは馴染みにくい。そうした対立よりはむしろ、足りない者同士が補い合う形の方にしっくりくるところがある。






■ゼロ



西欧の思想には「自己」にこだわりをみせる哲学がその底流としてあるが、古き日本においては「自己を虚しくする」ということも尊ばれてきた。それは「神懸かり」の思想にもつながる、自らが「外からの力を受け入れる器」となる考え方である。

そうした考えは、神道と仏教、ともに軌を一にするもので、仏教ではそれを「無我」と呼ぶ。こうした思想に刺激を受けた西欧でも、「むしろ自己など存在しないのではないか?」という風が生まれ、「自我を破壊し尽くした時にこそ初めて、そこに新たなものが生まれてくるのではないか」という、ニーチェなどの新しい哲学も生まれることとなる。



三島由紀夫は「オリジナルとコピーの区別がないのが日本文化である」と、著書『文化防衛論』に書いている。

天皇家ですら神の「容れ物」にすぎないという発想がある日本では、「空」もしくは「ゼロ」という概念には憧れにも近いものがある。千数百年の歴史をもつ伊勢神宮も、その社殿は20年に一度すべてが取り壊され新しく建て直される。

折口信夫も、新天皇即位の大嘗祭において、「天皇に神の霊がとりついた瞬間、すべての時間と空間は一度ゼロとなって生まれ変わる」と記す(『大嘗祭の本義』)。

かつて柳田国男が驚いたように、日本の農村の人々は一年間汗水たらして働いた成果を、たった一度の祭りで完全燃焼させることに喜びを感じていた。それもまたゼロへの回帰と呼べるものであろう。



ゼロへの契機となるのは、外からやってくる何か。

日常が非日常とクロスした瞬間に、それは起こる。

そうして生まれ変わった世界は、また一から歩みを始めるのである。皮肉にも再びゼロへと戻らんがために。






■融合的な土壌



西欧の近代思想は、内なる自己と外なる物質の完全な分離をはかることで、世界への把握を深めた。命が宿るのは内なる自己のみ、外側にある物質に命は宿らないと考えた。

だが古い日本人はどうしても、自分が外側の世界と完全に切り離れているとは考えあぐねた。自然の動植物はもちろん、石や山にも魂があるような気がしてならない。自らの内側と外側には見えないつながりがあるような気がして仕方がなかった。



そうした得も言われぬ感覚を端的に言葉にしていたのは密教であろう。その世界観は「何でもあり」。自他をとりわけ分け隔てることなく、すべてのことを等しく受け入れてしまうような世界を説いた。

密教における曼荼羅は、胎蔵界と金剛界が対になってその両義性を表し、大日如来と不動明王は決して善悪が割り切れない関係を示している。密教の教えによれば、ひとつのものが無数になり、無数のものがひとつになるという。



外の世界にさらされ続けた日本列島に生きた人々は、外からの事物が流れ込むほどに、その受け入れる土壌を豊かにしてきた歴史がある。流れ来たものが善と思われようが、悪と思われようが。

その内に置くものと外に置くものは時代によって変われども、いずれその境目は曖昧になっていくのであった。たとえ明治政府が神と仏を明確に分離しようと、われわれはまだその違いを理解しようとしないのである。

そうした日本の融合的な土壌は、原始宗教を研究したフレイザーのいう「呪術の世界」に近いものがある。その前近代的な社会は、森羅万象すべてが見えない力によって繋がり合った世界である。



不思議とフレイザーの言葉には、日本に残る古い社会を蔑まれたというよりも、むしろ褒められているようにも感じてしまう。

そう思う人はもしかすると、ゼロへと戻りたがっているのかもしれない。その心が、新たな力をもとめて…













(了)






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出典:サンガジャパンVol.14(Summer)
「折口信夫を通して見る神仏習合と神懸かりの系譜 安藤礼二」


posted by 四代目 at 09:41| Comment(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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