2013年08月11日

岡倉天心の追った理想、東西の調和融合



「筆を持たない芸術家」

そう言われたのは「岡倉天心(おかくら・てんしん)」。

彼を唯一の師として仰いだ横山大観はこう記す。

「岡倉先生は筆を持たない芸術家でありました。芸術の上にくるもの。芸術家を指導するお方だったのです(横山大観『大観自伝』)」



岡倉天心の父・岡倉覚右衛門は福井藩の下級藩士であったが、武士から貿易商へと身を転じ、天心はその商館のあった横浜に生を受けた。

その横浜の商館「石川屋」では日常的に英語が飛び交っており、子供の頃から英語塾に預けられた天心は、早くから西洋化の風を受けて育った。その一方、寺では「論語」や「孟子」などの漢学をみっちりと叩き込まれていた。



そうして東洋と西洋、両洋の教養を学んだ岡倉天心であるが、のちに「美術は国の精華なり」と、日本の美術こそが「精華(優れた華)」であると天心は考えるようになる。

それは、京都や奈良の寺社仏閣を巡るうち、法隆寺で長年秘仏とされ人目に触れることのなかった「救世観音(ぐぜ・かんのん)」と対面し、激しく心を揺さぶられたからだと云われている。

以後、天心は明治時代に怒涛のごとく押し寄せた西洋化の荒波にもまれながらも、日本独自の美を追求していくことになる。






◎フェノロサと



岡倉天心が美術に深い関心を寄せるようになるのには、「アーネスト・フェノロサ」との出会いがあった。

得意の英語を活かして東京大学で英文学を乱読していたという天心は、お雇い外国人教師として東大にやって来たフェノロサの通訳として彼に随行することとなる。

日本画を見て驚嘆したフェノロサ。天心の通訳を頼りに大学付近の美術商を軒並み訪ね歩く。花鳥画の細密な画法や、山水画の神秘性はフェノロサの心をぐいぐいと引きつけた。とりわけ狩野派の絵画に心酔したフェノロサは、のちに「狩野永探理信」という画名を名乗ることを許されるほどであった。



薬師寺東塔(奈良県)をして「凍れる音楽」と評したともいわれるフェノロサは、日本の古社寺宝の調査にも熱心であった。

岡倉天心が法隆寺夢殿で秘仏「救世観音像」と対面するのは、フェノロサの調査に同行した時のことである(1884年、天心21歳)。

天心はその時の感動を「一生の最快事であった」と記している。法隆寺夢殿が開扉されたのは、じつに千数百年ぶりであったという。



明治19年(1986)、23歳の天心はフェノロサとともに約9ヶ月間、欧米に出張。

それは、フェノロサの協力の下、東京美術学校(現・東京藝術大学)を創設するための下準備でもあった。






◎暗示



明治23年(1890)、岡倉天心は弱冠27歳にして、東京美術学校の2代目校長に就任。

西洋でおびただしい美術品を見てきた体験を元に、日本独自の伝統美の指導に精を出す。



当時の天心の講義には、「歴史を勉強しない者は滅ぶ」というものがあった(天心の教えた「日本美術史」は、我が国初の時代区分された美術史であると高く評価されている)。

ただ、「歴史や伝統に従っているだけでは駄目だ」とも天心は言った。それらを身につけるのを前提にしながら、「一歩前へ出るんだ」と学生たちに教えたのである。



歴史や伝統に学ぶべきものは「日本芸術の真髄」。

その上で、一歩進んで表現すべきは「画家の心」。

そう考えた天心が学生たちに求めたのは「暗示的な表現」であった。



「芸術とは、自然そのものの提示ではなく、自然を通しての暗示である」

著書『絵画における近代の問題』で、天心はそう述べている。

暗示的な表現こそが、日本の芸術の真髄であると天心は見通したのであった。






◎画家の心



明治時代当時、西洋美術に初めて触れた日本人は、その陰影のはっきりとした写真のような表現(写実)に驚き、魅了されていた。

だが天心は、物を直接そのままに描くことを良しとはしなかった。「物より心」、「物を見て、画家は何を思うか」、その「画家の心」を描くことを学生たちに指導した。

たとえば、「明月」という題を出しても、天心は「月を描かないでその雰囲気を出せ」と教えたという。また「笛声」では、笛を吹かずに笛の音の感じを出せと要求していた。



そうした暗示的な表現には、東京美術学校で物議を醸した。

当時の学生であった「菱田春草(ひしだ・しゅんそう)」が卒業する際に描いたという「寡婦と孤児」という作品があるが、これは天心の教える暗示的な表現を素直に示したものであったが、この作品が口論の的となった。



その作品に描かれたのは、悲しい目をした母とその胸で眠る幼子。その親子の前には鎧と刀だけが置かれている。この絵は、夫が虚しく死んだこと、さらには当時多くの戦死者を出した日清戦争を暗示するものであった。

この菱田春草の絵の評価を巡って、教授陣は真っ二つに割れた。「こんなものは絵ではない」と激しく罵る教授がいる一方で、「いや、これこそが絵だ」と激しい口論が巻き起こったのである。

最後の採決を委ねられた天心は、この暗示的な絵を最優秀としたという。



天心の考える「東洋の東洋らしさ」とは、表現するものを全部正確に描くのではなく、あえて省略することによって暗示の表現を強めることにあった。

そして、それが日本の美意識の特質だと天心は訴え、それこそが日本美術を世界に認めさせる力になると信じて疑わなかった。










◎追放



西洋画を踏まえた上で、新たな日本画の表現を模索していた岡倉天心であったが、校長になって8年目の明治31年(1898)、突如、東京美術学校を追放される事件が起こる。

世に言う「美術学校騒動」がそれであり、それは一通の怪文書に端を発した。



「獣欲を発した」とされた岡倉天心、偏った美術教育が有為の青年たちを「魔道に陥らしむ」と糾弾された。

天心と不仲であった福地復一は、天心が人妻と恋に落ちたことを指して「獣欲」と称し、天心を美術学校から追い出してしまったのである。天心36歳の時であった。



福地の横暴に業を煮やした天心支持派は、天心辞職に抗議して天心に殉ずることを決意。菱田春草、横山大観ら17名の有志は、東京美術学校を後にした。

この逆境に遭って、天心は新たな日本画を生み出す覚悟を歌に託す。

「谷中うぐいす 初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい」



天心を信じた弟子らは、この歌を唱和してその絆を深めたといい、横山大観は晩年になってもこの歌を決して忘れようとはしなかったという。

「奇骨俠骨 開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい」










◎屈原



天心が「谷中うぐいす」と詠んだのは、自分に殉じて辞職した者を中心として東京谷中で「日本美術院」を設立したからである(1898年、天心36歳)。

同院の主催する展覧会、通称「院展」。その第一回展覧会でとりわけ話題を呼んだのは横山大観の描いた「屈原」であった。



「屈原」とは、古代中国の憂国の詩人。国王に正しい道を説いたものの受け入れられず、身を投げて死んだ悲劇の人物である。

不穏な雲の湧く中、その吹き荒れる逆風に動ぜず、あえて抗うように屹立する屈原。その射抜くような鋭い眼差しが遥か彼方を見つめる。

横山大観は、この屈原に師である天心の心境を暗示したのである。天心は世間の逆風に動ずるどころか、自らの想いをますます深めていたのであった。



欧米をよく知る天心は、西洋画を横目に意識しながら、新たな日本画を目指して止まなかった。

その天心の求める新しい日本画を横山大観はこう言っている。「新しい手法を試みようとしました。たとえば、空気とか光線とかの表現に一つの味わいを出す。この新奇な試みは当時の鑑賞会に容れられず、『朦朧派(もうろうは)』なる罵倒嘲笑を受けるようになったのです」



具体的に、天心は横山大観ら弟子たちに「日本画の要とされてきた線を使わずに空気を表現するよう」示唆した。

その道には、まったく前例がなかった。天心らの一派は自分で道をつくりながら進むことを選択したのである。

だが悲しいかな、大観が言うようにそれは当時の画壇には受け入れられず、線のない曖昧な表現は「朦朧派(もうろうは)」と揶揄されることになってしまうのである。






◎朦朧体



当時、横山大観の描いた「菜の花」という作品は、朦朧とした靄(もや)が立ち籠める中を蝶が舞っている。幾重にも重なる菜の花は輪郭線を持たず、ぼんやりと濁った色合いでおぼろげに浮かんでいる。

「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれたその絵は、「日本画とも洋画ともいえない怪しげな絵画」「汚い泥絵」と罵られ、激しい非難を浴びた。



大観の求めた表現は、輪郭線を用いずに、微妙な色の段階を無限につくって境目を描き分けていくという手法であった。

そのために、従来の日本画にはなかった、さまざまな色を微妙な割合で混ぜる油絵のような混色が用いられた。色と色とを少しずつ混ぜながら無限に中間色をつくっていったのである。

その結果、その絵のぱっと見は確かに朦朧としていた。だが、その細部に目を凝らせば、じつに緻密な計算に支えられていたのである。



国内に理解を得られなかった天心は、横山大観と菱田春草を伴って一足飛びにアメリカへと渡る。日本では朦朧体と小馬鹿にされた絵画を引っさげて。

当時の様子を、大観はこう記している。「どこへ行くにでも、紋付羽織の純日本風で押し通してきました」と。

我が道を行く天心一行。思えば東京美術学校を創設した時も、天心は奈良時代の官僚のような制服をこしらえ、白馬にまたがったりしていた。学生だった頃の大観いわく、「往来なんか歩いていると、人が奇異な目でジロジロと見回すので、気の小さい者にはできる芸当ではありません。岡倉先生はあれを着て頭には冠を戴き、白馬に乗ったりして洋々と学校に通っていたものです」。






◎ニューヨーク



純日本風の天心一行は、その和服姿がアメリカ市民に面白がられ、ニューヨーク・タイムズ紙では訪米したその日に挿絵付きの記事で大きく報じられている(1904年3月20日)。

そうした天心一行をからかうかのように、アメリカの学生たちがわらわらと寄ってくる。

「ある日、学生が5、6人向こうからやって来て、すれ違いざまにいきなり『Are you Chinese or Japanese?(あんたらは中国人かい?日本人なのかい?)』と聞いてきました。先生は横目で見ながら即座に『Are you yankee or monky?(そういうお前らはヤンキーか?それともモンキーか?)』とやったものですから、向こうは笑って、負けた負けたと言いながら逃げていきました(『大観自伝』)」



英語を母国語のように話せた岡倉天心。アメリカにも有力な知人が多かった。その天心がお膳立てをした大観と春草の展覧会がニューヨークで開かれた。二人が展示した絵は「朦朧体」のそれである。

たとえば、横山大観の「月夜の波図」。すべてがぼんやりと霞む中、黄色い月が明るく空を照らす。水平線もおぼろにして定かでない。

菱田春草の「夜桜」。月の淡い光にうっすらと浮かび上がる満開の桜。その木々の幹は闇に溶け込むかのように薄れていく。



そうした絵画に、天心は「日本ではあり得ないような高値」をつけて展示した。

当時のことを大観はこう振り返る。「安いので3,000ドル、一番高いのは1万2,000ドル。たいへんな値をつけたものです。一点でも売れればという心情でした」

ところが実際は大観らの絵は「一点でも」どころか、すぱすぱと売れていくではないか。

「蓋を開けてみるとまったく意外で、高い方から売れてしまいました。あちらでは高い絵が良いという考えらしいですね。作戦が見事に当たったのです(『大観自伝』)」










◎印象派



当時、西洋では「印象派」と呼ばれる絵画がフランスに起こり、ヨーロッパの絵画界から世界の画壇を席巻するようになっていた。

ヨーロッパ発の印象派は、当時発明された「写真」に対抗するかのようなところがあった。対象物を写実的に描写するだけならば、絵画よりも写真の方がはるかに正確であり、写真の普及とともに画家たちが職にあぶれるようになっていた時代であった。



印象派の描く絵画は、大観らの朦朧体と同様に漠としたところがあった。天心の考え同様、直接モノを描くのではなく、画家の気持ちこそが描くべき対象であったのだ。

つまり、天心らの追い求めていた新しい日本画は、期せずして世界の潮流と軌を一にしていた。世界を横軸で見ると、印象派と朦朧派はほとんど同じようなことを主眼としていたのである。それがニューヨークでの大成功の要因でもあった。



ただ、天心らの独自性は西洋の絵画を真似たわけではないところにあった。あくまでも伝統的な日本美術の土壌から、自分たちの根っこで育ったのであった。

天心はむしろ「模倣」を嫌った。著書『東洋の思想』の中でこう述べている。「模倣は、それが自然の模倣であれ昔の巨匠の模倣であれ、個性の実現にとっては自殺行為である。個性とは、人間と自然との壮大なドラマの中で常に独創的な役割を演ずることを喜びとする」



結果だけ見れば、洋の東西で印象派と朦朧派は同時発生したことになる。だが、それぞれの根はまったく独自の土壌から養分を吸収していたのであった。

天心は「国華」という美術雑誌の刊行も手がけているが、「美術は国の華である」という想いがそこに込められている。自分たちの土壌に咲いてこそ「国の華」と呼べるものであると宣言し、天心はそれを「筆を持たずに」先導したのであった。






◎都落ち



帰国後、アメリカで絵が売れた大観と春草は、そのお金で東京に土地を借りて家を新築した。

だが、その後の試練が2人に家を捨てさせ、東京を遠く離れた茨城県の「五浦(いづら)」に追いやってしまう。



大観はその時のことをこう語る。「口の悪い美術記者が『都落ち』と報じたのも、また、『朦朧派の没落』と嘲笑されたことも仕方のなかったことでしょう。都落ちの原因は何かといえば、経済的な破綻が大きな原因でした。朦朧派に対する非難、攻撃が私たちの絵を売れなくしてしまったのです」

アメリカでの大絶賛から一転、国内では依然として激しい攻撃を受け続けた朦朧派。天心の起こした日本美術院は破綻寸前の状態にまで陥ってしまっていた。



そうして移転(都落ち)した先が、茨城県の五浦(いづら)海岸であった。

天心に従った弟子は横山大観、菱田春草ら4人(ほか下村観山、木村武山)。白装束を着て新たな日本画を模索する彼らは、五浦の画室で修行僧のような生活を余儀なくされる。

大観いわく、「私どもの生活は極度に貧しく、その日その日のものにも事欠く始末で、あの魚の安い五浦に居てその魚すら買うことができませんでした。2人は互いに海に出て、魚を釣っては飯の菜を漁ったものでした」



その極貧のなか、天心は言い続けた。

「空気を描け」






◎新旧両世界



五浦(いづら)のアトリエで釣り糸を垂れながらも、岡倉天心は忙しなく洋の東西を行き来していた。

明治37年(1904)、天心はアメリカ・ボストン美術館の中国・日本美術部に迎え入れられ、館の美術品を集めるために東奔西走。フェノロサとともに日本美術の素晴らしさを世界に知らしめんと尽力していたのであった。



天心の流暢な英語に、彼の芸術論はアメリカ人らを魅了した。セントルイス万国博で行われた天心の講演「絵画における近代的諸問題」は、少しばかりの皮肉も交えた天心の話が大喝采を浴びている(1904年、天心41歳)。

さらに明治39年(1906)、「The Book of Tea(茶の本)」を英文で出版した天心。著書の中でこう述べる。

「西洋人は、日本が平和に穏やかな芸術(the gentle arts of peace)にふけっていた間は、野蛮国とみなしていたものである(regard Japan as barbarous)。しかるに、満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてからは文明国になったと言っている(calls her civilized)」

「もし我々が、文明国たるためには血なまぐさい戦争の名誉に依らなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう(we remain barbarians)」



インドや中国を隈なく見て回った天心は、こうも西洋人らを批判している。

「インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心をば宿命論の結果といって嘲られていた」



当時、日露戦争に勝利したばかりの日本は、辛うじて西欧諸国の認めるところとなっていた。だが、東洋全体の文化を尊ぶ風潮は西洋人たちにはおおよそあり得なかった。

「不幸にして、西洋の態度は東洋を理解するに都合が悪い。キリスト教の宣教師は与えるために行き、受けようとはしない」と天心は記す。

「新旧両世界の誤解によって、すでに非常な禍を被っているのであるから、お互いがよく了解することを助けるために、いささかなりとも貢献するに弁解の必要はない」

「もしロシアがへりくだって日本をよく了解していたら、血なまぐさい戦争の光景は見ないで済んだであろうに。東洋の問題を蔑んで度外視すれば、なんという恐ろしい結果が人類に及ぶことであろう」










◎「落葉」



洋の東西の格差、その害悪を痛感していた天心は、その融合に腐心していた。そして、天心の起こそうとしていた新たな日本画もまた、東西融合を志したものだった。

天心の誇りとしていた日本文化はそうした「調和」の中に育まれてきたものだった。彼はこう記す。「われわれ東洋人は調和を作り上げてきた。あなた方は西洋人は信じられるだろうか、東洋がある点では西洋に優っていることを」

西洋の膨張的な近代文明は、時として自然を敵とするものだった。一方、東洋における自然は、人間すらその一部にすぎないことを常に認識してきた歴史をもつ。ゆえに天心はこう考えた。東洋の思想のあらわれであるその文化・芸術は、世界的な思想にもなり得る、と。



そんな中、天心門下の菱田春草は近代日本画の名画「落葉」を描き上げる。

この名画に、心ない保守派らは「日本画ではない」と相変わらずの批判を浴びせ、洋画家らは「洋画かぶれの絵だ」と酷評した。

だが、そんな世間の風をものともしない天心だけは、その絵を一瞥するや、その独創性をたちまちに見抜き、ただちに春草にこう書き送る。

「情趣巧緻 固(もと)より第一 近頃の名品と感じ申し候」



春草の描いた「落葉」という作品は、天心が切に求めてやまなかった「西洋画と日本画、近代と伝統の融合」を見事に成した傑作だった。この作品において、どこが西洋でどこが日本か、どこが伝統でどこが近代か、もはやハッキリと区別できないほどの融合を果たしていた。

それは決してただ朦朧としていたのではない。みな渾然一体となって活きていたのだ。

天心念願の新たな近代日本画、天心の蒔いたその種がついに、五浦(いづら)の僻地に産声を上げたのだった。






◎悟りの微笑



晩年、天心は五浦に籠るようになる。

菱田春草は先に世を去り、横山大観も東京に居を移していた。

夏になると毎朝のように釣竿を下げて海釣りに出かけたという天心。五浦の岩場にこしらえた六角堂で、海を眺めながら思索にふけっていたという。



ある人に宛てた手紙には、こうある。

「私の過去は、触れることもできない理想、むなしい憧憬を追っての闘争でした。そして今、私はぼろぼろになり疲れ果て、しばしば永い永い眠りだけを欲する状態で放り出されています。安んじて死を待つほか何も残されていません。広大な空虚です」

「暗黒ではなく、驚異的な光に満ちた空虚です」



天心は著書「茶の本」において、茶道の奥義を「不完全なものを崇拝するにある」と述べている。「いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから」として。

「おのれに存する『偉大なるものの小』を感ずることのできない人は、他人に存する『小なるものの偉大』を見逃しがちである」

「東西両大陸が互いに奇警な批評を飛ばすことはやめにして、東西互いに得る利益によって、よし物がわかって来ないとしても、お互いにやわらかい気持ちになろうではないか」



東洋も西洋もそれぞれは「不完全」であり、「互いに長短相補わない道理はない」。

「不思議にも人情は今までのところ茶碗に東西相合している。(中略)茶には酒のような傲慢なところがない。コーヒーのような自覚もなければ、またココアのような気取った無邪気もない」

「茶道は美を見いださんがために美を隠す術であり、現すことをはばかるようなものをほのめかす術である」



天心は、西洋に唯一重んじられていた日本の文化「茶道」を通して、その融合を「暗示」した。

それを理解した茶人チャールズ・ラムは、「ひそかに善を行なって偶然にこれが現れることが何よりの愉快」と茶道の真髄を語っている。



それを天心は「悟りの微笑」といった。

「この道はおのれに向かって、落ち着いてしかし充分に笑う気高い奥義である」

「たぶん今日においてもこの『不完全』を真摯に静観してこそ、東西相会して互いに慰めることができるであろう」

インドベンガルの画家は、天心が画布に置いた二本のマッチで翻然と悟ったという。










◎物と心



道教徒は、「無始」のはじまりにおいて「心」と「物」が決死の闘争をしたと言う。

ついに勝つのは大日輪「黄帝」。敗れた闇と地の邪神「祝融」は死苦のあまりに頭を天に打ちつけて、硬玉の青天を粉砕。星と月はその居場所を失い、天空をあてもまく彷徨うことになる。

それを悲しんだ黄帝は、天の修理者として「女媧(じょか)」を東方の海から探し求め、シナの天を立て直す。

しかしながら、女媧は蒼天にあった二個の小さな隙間を埋めることを忘れてしまう。かくのごとくして「二元論」がはじまることとなる。



この話を引用して、天心は言う。

「すなわち二個の霊は空間を流転してとどまることを知らず、ついに合して始めて完全な宇宙をなす。人はおのおのの希望と平和の天空を新たに建て直さねばならぬ」

「現代の人道の天空は、富と権力を得んと争う莫大な努力によって全く粉砕せられている。東西両洋は、立ち騒ぐ海に投げ入れられた二龍のごとく、人生の宝玉を得ようとすれどもその甲斐もない。この大荒廃を繕うためにに再び女媧を必要とする」

「まあ、茶でも一口すすろうではないか。(中略)はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか」






今からちょうど100年前の大正2年(1913)、岡倉天心は病のすえに永眠。享年50歳。

その死にあたり、こう言い置いた。



私が死んだら、悲しみの鐘を鳴らすな、旗を立てるな。

人里遠い岸辺、つもる松葉の下ふかく、ひっそりと埋めてくれ。

私の挽歌は鴎(かもめ)らにうたわせよ













(了)






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出典:NHK日曜美術館
「筆を持たない芸術家・岡倉天心」
posted by 四代目 at 11:00| Comment(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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