2013年08月04日

「南極の夢」とマッキンリー [植村直己 夢の軌跡より] その4(完)




冒険家の「心の支え」 [植村直己 夢の軌跡より] その3 からの「つづき」






「南極の夢」

南極のことを語る時、植村直己の目は子供のように生き生きしていたという。



彼が初めて南極大陸を目にするのは、北極圏グリーンランドでの冒険を開始する前。その時の感極まった日記にはこう記されている(1972年1月14日)。

「ちょっとのぞいてみるかと起き上がってベッドから下り、窓から顔を出して船先の方をみると、白い起伏のある線が青い空と接している。流氷の水平線ではない。南極大陸だ。氷に覆われた南極大陸だ。生まれて初めてみる南極大陸だ」

植村はアルゼンチン海軍の船に乗り込んで、この白い大陸を初めて目にしたのである。

「俺はやって来た。遂にやってきた。神は私に南極の道を開けてくれたのだ。もう俺の心は宙に浮いたように、顔のしまりがなくなってしまった。ねむいどころではない」






◎成功への確信



「マッキンリー登頂以来、この南極にかけてきたのだ。何一つ疑う心なくして」

北アメリカ大陸の最高峰「マッキンリー」は、植村にとって五大陸最後の最高峰。この山を単独で制したことにより、世界史上初の「五大陸最高峰登頂者」の栄冠にあずかっていた。

それ以来、彼の夢は「雲こえる高み」よりも「果てしなく続く水平線」に向けられていったのであった。



「太陽はまさに今日初めて南極に入らんとする私のために、さんさんと照ってくれているかのように、雲をはらいのけ、空は一面、濃紺の海をつくっている」

その太陽は「水平線の上を転げて、落ちようとも昇ろうともしない」。南極圏においてはこの時期、太陽は沈まないのであった。

到着したその日、さっそくヘリコプターに乗せてもらって上空から氷と雪の世界を一望する。その世界はまるで平らで、氷の山一つない。そこにはヒマラヤの氷河のような危険な匂いは感じられなかった。

「これだったら私は南極大陸横断は出来ると直感で感じとった」と植村は記す。初日に南極大陸の風景を一瞥しただけで。



その計画も具体的に頭に浮かんでいた。

かつてアルゼンチン隊がウィーゼル車で南極点まで到達したことを聞いていた植村は、「自分はウィーゼル車よりずっと軽い犬橇(いぬぞり)でやるのだから、より安全にクレバス帯を通過できるはずだ」と確信する。

また、「旅の後半は背中に風を受けるはずだから、犬橇に帆を上げることによって、橇を曳く犬たちの負担はずっと軽くなるはずだ」とも思い付いた。



南極の氷雪を実際に踏んだ植村は、「見れば見るほど、自分の計画に対する自信が持てた」と記す。

植村の頭の中は、南極大陸が想起させるアイディアがぐるぐると巡り、その胸はせっかちにも膨らみっぱなしであった。






◎軍と戦争



だが、この白い大陸は植村を容易には寄せ付けなかった。

横断成功のテクニックそれ以前に、入陸許可がなかなか下りず、やむなく植村はその矛先を「別の極」である北極に向けざるを得なかったのである。



「自分ではやれる自信を充分もった。というより肌で確かめた。だがしかし、自分ではいくらやれると思ったところで、私を助けてくれる人がいなくてはできないのだ」

具体的には、アルゼンチンとアメリカ両軍の許可・協力が必要であった。植村の南極横断計画は、その出発地がアメリカ軍基地、到達点がアルゼンチン軍基地であったのだ。

その実現に向けた植村の決意は固い。「ここまで南極横断のために進めてきている以上、許可がでないので中止などといわれても引き下がれない」と日記には記されている。



南極一瞥から10年後の1984年、植村はついにアルゼンチン軍の協力を取り付けることに成功する。

そして早速、アルゼンチンのサンマルティン基地に飛んだ。足となる犬と犬橇はグリーンランドから運び込んだ。

ちなみに、アメリカ軍はアルゼンチンよりもずっとガードが固かったため、横断のコースはアルゼンチン軍部の協力だけで実行できるように変更されていた。



その南極の基地で、「いまかいまか」と出発の時を待っていた植村。その「じりじりとした待機」はじつに10ヶ月にも及んでいた。

というのも折り悪く、アルゼンチンとイギリスが戦争(フォークランド紛争)に突入してしまったため、アルゼンチン軍が混乱をきたしていたのである(1984年2月)。






◎夢破れて…



「軍は協力できない」

フォークランド紛争が集結してから半年後、南極で待機していた植村には一方的にそう告げられた。

「よって行動は中止である」



「植村直己は、いいようもなく暗い表情をしていた。断念した彼の横顔は、慰める言葉を失うほど、暗く重かった」

植村の冒険をサポートし続けてきた文藝春秋の湯川豊氏は、当時のことをそう振り返る。

「私は植村の無念はいかばかりかと思うしかなかった。どうすることもできなかった。そして、植村の暗い顔だけが脳裡に焼きついた…」



戦争は半年も前に終わっていた(1982年6月14日、アルゼンチン軍降伏)。だが、その後の政権交代により軍部の人事にも大幅な変更があり、その勢力図が大きく変わってしまっていたのである。植村が頼りにしていた軍幹部も多かれ少なかれ傷ついていた。

夢破れて氷雪あり。

南極大陸に残されたのは「痛ましい植村」の姿ばかり。せっかちに膨らんでいた植村の胸は、もうペシャンコになっていた…。






◎予感



「夢は一つぐらい残しておいてもいいんだ」

植村は妻・公子さんの前で、そう強がった。

のちに公子さんは、その時のことをこう語る。「私はそれを聞いてゾッとしました。心のなかがスーッと冷たくなりましたもの」



その公子さんの言葉に、文藝春秋の湯川氏は「狼狽した」と話す。

「植村は、あの鋭い直感力で、夢が実現しないままこの世を去るのを予感していたのか? そう思った瞬間に言葉が出なくなった…」



南極横断が失敗に終わった翌年の正月、湯川氏のもとに植村からの年賀状が届く。湯川氏はのちにそれを「読み返したくない年賀状」と言うようになる。

「賀正

大変お世話になりました。今年もよろしく。

指導員の訓練行がカナダ国境へ2週間。マイナス48℃を記録。厳しい中にも楽しさあり、元気に頑張っています。一月中旬からアラスカへの極地のマッキンリーの冬に試みます。」

書くことが死ぬほどきらいだと言いながら、毎年の年賀状を欠かさなかったという植村直己。これが湯川氏の受け取った「最後の年賀状」となってしまう…。






◎新たな芽




南極大陸で苛酷な断念を強いられた植村直己は、帰国後、ことさらに軽さを装っていた。

「いやぁ、みなさんの期待に応えることができなくて、すみません。残念です」

とはいえ、「南極の夢」はまだ諦めたわけではなかった。フォークランド紛争は予想外の事故。もう2、3年かけて、もう一度アルゼンチンの支援を得るか、別な国の援助を考えるかして単独横断をやり遂げたい、と植村はハッキリ語っていたという。



と同時に、植村の心のうちには「南極後の夢」のことも夢想されていた。

アメリカからある友人に宛てた手紙には、こう記されている。「3〜4年後を目標に、是非このような学校を北海道の日高山脈の麓あたりに作りたいという新しい夢も芽生えてきた」

植村のいう「このような学校」というのは野外学校のことである。それは「アウトワード・バウンド・スクール」と呼ばれるもので、1984年当時、アメリカで8カ所、世界17カ国に広がりはじめていた本格的なものであった。



植村はこの野外学校に本気で学ぼうとして、南極から帰国後の1983年10月に渡米し、ミネソタの野外学校に入学。この学校を選んだのは、唯一「犬橇のカリキュラムがあったから」だった。

だが、学校側は「植村が何者であるか」を知っていたため、生徒ではなく「無給の犬橇インストラクター」として迎え入れられることになった。



「北海道の人里離れた所に、掘立小屋を一つ建てて、水道もない電気もないという中、季節に合ったサバイバル生活をやったりしたら、結構おもしろい訓練ができるはずです」と、アメリカから帰った植村は話している(『植村直己の冒険学校』)。

実際、北海道の帯広で具体的な話がはじまっていた。植村直己を校長として野外学校を設立しようと帯広動物園の中村園長が動き出していたのである。この帯広動物園は、北極点到達の時の犬を引き取ってくれたという縁があった(ちなみに現在も、北海道にはその子孫犬がたくさんいるとのこと)。






◎意図



植村がアメリカに渡ったのは、野外学校の視察以外にも、確かな目的があった。それはやはり、捨てきれぬ南極への夢である。

アルゼンチンの協力が得られぬのであれば、頼るはアメリカ。その軍部の壁がずっと高く厚いことを重々承知の上で、植村は何とか「交渉の糸口を見つけたい」と語っていた。



だが、アメリカの関係当局への接触は思うにまかせなかった。そしてそのまま、帰国の日だけが迫っていた。

そんな時である。植村が突然、「アメリカからの帰国の途中、ちょっと寄り道して」と、冬季マッキンリーの登山を言い出したのは。



「まぁ、のんびりやってきますよ」

その軽い言葉の裏には、彼の悲壮なる決意も秘められていた。湯川氏はこう語る。「日本に帰国する前、マッキンリー冬季単独登頂を実行したのは、アメリカで自分の存在感を訴えようとする意図が確かにあった」。

公子夫人もさすがに植村の心の底を見抜いていた。

「自分のなかにずっとためて、深くしていったから。冬のマッキンリーの失敗は自分のなかでどうしても許せないから、ぜったいに無理して登頂していたと思う。登らずに帰ってくることはできなかったから…」






◎何が何でも…



「何が何でもマッキンレー、登るぞ。---」

1984年2月6日、体ごと吹き飛ばされそうな猛吹雪に行く手を遮られ、閉じ込められた雪洞の中で植村はそう記している。

「このところ天候はずっと悪天候続き。そろそろ晴れてもよいのに。天候は私に非情なり」



その前日(2月5日)、風速25〜30m、気温マイナス28℃。

雪洞を掘るのに3時間もかかり、雪洞の手前50mに置いておいたザックを取りに戻るのにも「風に飛ばされそうになり、四つ這いになって歩く」。

這ったまま雪洞の場所まで戻るが、「掘った雪洞が見あたらない」。その時、「俺はここで死ぬかもしれない」と日記には記されている。だがようやく見つけた雪洞に飛び込んで、辛うじて助かる。



「夏はここから2日で頂上にいける。冬ははて何日かかるのか」

雪洞の中でもマイナス21℃という極寒。カリブーの冷肉をかじりながら、植村は日記を記す。

「シラフ(寝袋)は凍ってバリバリ。温かいシラフで寝てみたい。ローソクが5センチ弱になってしまって夜が長い。食料はまだ6日分ある」

※植村はさんざん北極圏を旅したにも関わらず、「無類の寒がりだった」と妻・公子さんは言っている。



この日の日記が、植村直己、最期の記録である。

その日の締めくくりは、冒頭に引用した「何が何でもマッキンレー、登るぞ。---」である。

4,200mの雪洞に残されていたこの決意は、切なくも公子夫人の言葉「登らずに帰ってくることはできなかったから…」と呼応している…。






◎遭難



日記は途絶えたが、交信は続いていた。

「明日アタックする」

植村が言った「明日」とは2月12日。彼の43回目の誕生日である。そうした「げん」を担ぐ余裕がまだあった。



「あと2時間ほどで登頂できる」

そう交信してきた植村を、飛行機のパイロットは上空から目撃している(5,200m付近)。だが、その後に天候は急変。飛行機は引き返すことを余儀なくされた。



「えー、きのう(2月12日)、7時10分前にサウス・ピークの頂上に立ちました」

頂上付近のガスで植村の姿は確認できぬものの、2月13日午前11時に交信は成功。だが雑音が多く聞き取りにくい。

「2万、2万、2万フィート(約6,000m)」、雑音に紛れたこの言葉を最後に、植村の声は途絶えた。



懸念される遭難。

パイロットたちは急遽、マッキンリーに飛んだ。

ようやく2月16日に、パイロットらは「植村らしき姿」を確認する。だが、確実か、と問われて「100%確実ではない」と答えている。



居ても立ってもいられなくなったのは、植村の若い後輩たち。

橋本清、松田研一、中西紀夫、高野剛、米山芳樹ら各氏は救援隊を結成。彼ら明治大学・山岳部による第一次救援隊は悪天の中、一路、植村の跡を追う。冬季マッキンリーは凄まじい悪天候に支配されており、一瞬の油断も許されなかった。

決死の彼らは、最後の日記(2月6日)にあった4,900mの雪洞のさらに上、5,200m地点に「新たな雪洞」を発見。



恐ろしく緊張しながら、その雪洞の中をのぞくも、そこに植村の姿はなかった。

あったのは、きちんと整理された装備と食料。その上には吹き込んだ雪が積もっていた。それらの装備は紛れもなく植村のもの。全部で35点。後輩たちはそれをすべて橇にのせ、やむなく下山するしかなかった。



それでも諦めきれぬ。

第二次捜索隊は4月17日に日本を出発。

一行はじつに徹底的にマッキンリー一帯を捜索したが、植村はどこにも見つからなかった…。







※最期に残された映像には、植村直己が4mはあろうかというほど長い「竹竿」を腰の両脇に2本付けて歩く姿が写っている。

それは、かつて世界放浪の手始めに登ったヨーロッパ大陸最高峰のモンブランで学んだ教訓であった。彼はその時、クレバスに落ちるもザックが氷の割れ目に引っかかって九死に一生を得る。それ以来、落ちてもどこかに引っかかるようにと、何本もの竹竿をストッパーとして身体にくくりつけるようになったのだった。






◎日の丸



「冒険とは生きて帰ること」

生前、植村直己はそれを呪文のように唱え続けていたという。

最期となったマッキンリーから妻・公子さんへの手紙にも、何回も何回も繰り返し繰り返し「どんなことがあっても必ず帰って来るから」と書いている。



植村が消息を絶った後、妻・公子さんは悲しみに堪えつつも、記者陣に対して気丈にこう言っていた。

「夫は『生きて帰ることが冒険だ』といつも偉そうにいってたくせに、ちょっとだらしないんじゃないの? と言ってやりたい気持ちです…」

トンカツ屋での初対面のあと電撃結婚した2人であったが、新婚ほどなくして植村は北極圏犬橇1万2,000kmへと旅立ってしまう。そのとき彼女は、植村の後ろ姿を見送りながら「何でもいいから無事に帰ってきてほしい…」と切に祈っていたという。

結婚生活10年間において、植村が旅先から妻・公子さんに送った手紙は280通を超えていた。



長年取材を続けてきた湯川豊氏は、こう語る。

「アラスカに残された彼の手荷物のなかに、マッキンリー下山後に出そうとしていたらしい『何も書かれていない絵ハガキがたくさん残されていた。捜索隊が帰ってきてその話を聞いたときの、胸をつかれるような寂しさをいまでもありありと覚えている」

植村がマッキンリーに旅立つ直前、湯川氏は植村と山で一泊キャンプを張っている。その時、植村は冒険家らしくもなく「イワナのお化けが出そうで…」と夜を怖がっていたという(日中にイワナをさばいていた)。また、公子さんは「猫がガチャンと音をさせても怖がる」と笑っていた。それほどに植村は臆病なところがあり、それゆえに彼の単独行は慎重細心であったという。






植村が消えた後のマッキンリーの頂上には、植村が結わえたであろう「50cm四方の日の丸」が揺れていた。

マッキンリー(標高6,194m)における冬季単独登頂は、世界初の快挙であった。



遺体は現在にいたるまで発見されていない。

最後に消息が確認された1894年2月13日、その日が植村直己の命日とされた。

享年、43歳。













(完)






後記:

没後の1984年4月19日、時の中曽根内閣は植村直己に「国民栄誉賞」を授けた(当時、史上3人目)。

そして、植村直己の「南極後の夢」だった北海道・帯広の野外学校は1985年に開校。いまもなお少年少女たちに「生きる技術」を教え続けている。

野外学校の目標は「ウエムラ・スピリッツ」を学び近づくこと。「厳しい自然の中でどう生き延びるのか」、自分たちの力で生きることを教えるため、手助けはほとんどない。だが、たとえ単独といえども「多くの協力」に支えられていた植村直己の冒険を手本に、「支え合わなければ食事もできない」ということを大切に教えている。

「小鳥のさえずる優しさだったり、吹雪の峻烈さだったり、野外学校の基地に立つと『自然の息づかい』が感得される。私たちは、山の急斜面をあえぎ登り、せせらぎに魚を追うだろう。自然に耳を澄ますことが、私たちのテーマだ(「野外学校の目標」より)」






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出典:ナショナル・ジオグラフィック
「植村直己 夢の軌跡」湯川豊

posted by 四代目 at 04:58| Comment(0) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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