2013年08月02日

冒険家の「心の支え」 [植村直己 夢の軌跡より] その3




垂直から水平へ。原住民に溶け込んで [植村直己 夢の軌跡より] その2 からの「つづき」






下宿近くのトンカツ屋。

植村直己はそこで「野崎公子(のざき・きみこ)」さんと初めて会った(1973年7月)。その頃の植村は、ほぼ一年間におよんだグリーンランド滞在から帰国したばかりだった。



そのトンカツ屋で、公子さんは友人から植村を紹介された。

「公ちゃん、この人さ、このあいだグリーンランドから帰って来たんだってよ」

その時、公子さんは「へぇ」と思っただけだった、と後に語る。「お風呂帰りの艶やかな顔にしては汚かったんですよ。なんだかちびたものを身につけていて」。



割と淡々としていた公子さんに対して、その話の向こう側の植村は「一目惚れでドギマギしていた」という。

以後、トンカツ屋に顔を出すたび、植村は「公ちゃん呼んでください」としょっちゅう頼むようになる。ちなみに、公子さんは江戸時代から続く豆腐屋の娘であった。



初めて会ってから約半年後、植村家の長兄・修さんと次兄は、野崎家に結納をもってきた(1973年2月)。そして、結婚が本決まりとなった。

だが、こともあろうに結納の翌日、植村はネパール(ヒマラヤ)へと旅立った。

「公ちゃん、あとは全部まかせるから」と言い置いて。



ヒマラヤ山中から公子さんに宛てた手紙にはこうある。

「このヒマラヤ山中にも、心はいつも東京にあり、我々の5月の式のことが心配であり、便りせずにいられません。(中略)公ちゃんの希望の日程で式を挙げてもらえば結構です。式その他の件、公ちゃんの判断で総て決めてください。たいへん勝手な言い方で申し訳ございませんが宜しくお願いします」

この少し前、植村はこうも書いている。

「俺のような悪人につかまってしまったと、一生を棒にふってしまったとあきらめて下さい」



結婚式の直前までヒマラヤの遠征偵察隊に行っていた植村。その帰国は一週間遅れることとなり、帰国するや否やバタバタと式を挙げることになる(植村直己、当時33歳)。

そして、新婚生活も半年そこそこに、植村はグリーンランドへと旅立ってしまう。



目指すは「北極点」。

世界初となる「単独行」のはじまりである。






◎使命



「この北極計画は私にとって、是が非でもやらなければならない使命であった」

グリーンランドの旅の許可が下りるのを待つ間、植村は公子さん宛の手紙にそう書いている。そして、こう続く。

「待つ身は行動をとっているものより長くつらいことと思うが、カンベンしてくれ。俺とて、今までの行為と違って今度は自分のためにやるということばかりでなく、バックにいる公子君の為にもどんなことがあろうと、成功して帰らなければならないと、すごい意志のささえとなっている」

以後、植村の妻に対する「一方的気づかい」がグリーンランドから次々に届くことになる。



植村は「自分のためにやるということばかりではない」とここに書いてあるが、それは公子さんの為というばかりではない。

ヒマラヤ登頂を皮切りに、世界で初めて五大陸最高峰を制していた植村直己にとって、その冒険はもはや彼個人の域を超えたものになっていた。

文藝春秋やナショナル・ジオグラフィックなどからも後援を得ていたため、その冒険は「是が非でもやらなければならない使命」となっており、何より世界の人々が冒険家・植村直己の一挙手一投足に熱い視線を注いでいた。そのため彼の冒険は「成功して帰らなければならない」ものともなっていた。



かつて無名であった頃、植村直己の世界放浪や単独行はじつに自由な心で行われていたように思う。

だがその心が大きくなるにつれ、いろいろなところにぶつかり始める。壮大になっていく冒険には、その地を支配する国家の許可も必要となれば、個人では負担しきれないほどの資金も必要となってくる。

そして冒険家の宿命として「初」を追うことを求められる。その冒険は誰も行ったことがない場所を目指さねばならないし、誰もやったことがない方法で成されなければならない。



20世紀に入って世界最高峰は次々と登り尽くされ、世界の「地理上の空白」はもはや北極と南極ぐらいにしか残されていなかった。

その北極と南極ですら、すでに人跡はついている。ただ「単独」でそこにたどり着いた者はまだいなかった。

この点、植村の単独北極点到達という偉業は「世界初」の冒険となるのである。



だが、その冒険はさすがに熾烈を極めた。

植村は「いちばんの心の危機」に襲われるのである。






◎犬らの脱走



「犬橇(いぬぞり)を走らせ手袋をはめ、橇(そり)の上でこの手紙を書いていますので、読みづらいと思いますが御許し下さい」

橇が揺れるほどに踊る文字。その臨場感みなぎる北極圏から手紙からは、植村の息づかいまでが聞こえてきそうだ。

「太陽は昇り始めたとはいえ、1年のうち1番低い気温の時期、マイナス30℃〜40℃(2月)」



出発して間もなく、植村はちょっとした手違いから犬たちに逃げられる。

「暗闇と寒さのなかに取り残され、さすがの彼も氷の上にへたりこんだ。犬橇旅行で犬を失うことは、直接、死の危険につながる(湯川豊)」

いきなり橇(そり)を捨てることを余儀なくされた植村。歩くことを決意し、必要最小限のものだけを背負えるだけザックに詰め込んだ。

そんな時であった。リーダー犬のアンナが5頭の犬を連れて帰って来たのは。








犬は6頭に減ってしまったが、とりあえず命だけは助かった。半分以下の犬で辛うじて町までたどり着いた植村は、フラフラと町をさまよい、缶ビールを6本買ってテントに戻る。

ヤケになって何も考えずにビールを次々と空けた植村。いつの間にかそのまま眠り込んでしまう。



夜中に目を覚ました植村は、過去の回想にとっぷりとふける。

「深い静寂があり、ときおり風の吹き抜ける音だけが聞こえた。私は暖かいコンロの火を見つめながら、過去のことを想い出していた」

過去の単独行においても、そうした回想が彼の「一つの癖」になっていた。テントの中で、時には雪洞の中で。

「それは単独行にのみ許される、楽しい、ときには甘美でさえある時間だった」と植村は記す。そして、そうした時間が植村に「新たな力」をみなぎらせたようである。






◎割れる氷



この時の旅は最終的に1万2,000kmにも及ぶことになる。

順調であれば、犬橇は時速10kmくらいの速度で走る。行動時間は平均すると一日8〜9時間。ときに10時間以上というのも珍しくない。夕方には氷上にテントを張る。

「テントに入るとまず石油コンロに火をつけ、履いていた靴、内靴、毛糸の手袋、マフラー、ヤッケをテント内に渡した紐に吊り下げて乾かす。テントの天井はたちまち一杯になってしまう」

「氷を溶かしたお湯で紅茶を飲み、カンテラの明かりを頼りに地図を見ながら夕食をとる。セイウチの肉には塩をつけるが、肝臓やキビアにはなにもつけない。腹いっぱいに、これ以上は何も入らないというところまでつめ込む。約1キログラムだ」

朝はコーヒーを飲むこともあったようだが、紅茶に「溶けきれないほどの砂糖」を入れて飲むことが多かったようだ。食べるものは「犬たちと一緒」である。





シュラフ(寝袋)を二重にして眠るものの「寒くてたまらない」。

そんな厳寒の中、植村は暗い海に落ちる。グリーンランドのメルビル湾を通過中、薄い新氷帯に橇(そり)を入れてしまい、氷が割れて橇が海中へと沈んでいったのだ。

この危急に植村は、「助けてください! 俺を助けて下さい!」と声に出して神に叫んだ、と著書に記されている。と同時に妻・公子さんの顔が目に浮かんでいた。



幸い、橇はそれ自体の浮力で浮き上がり、犬たちもまた海中から氷の上に這い上がってきた。植村自身は濡れることはなかったものの、橇の上の大切な装備品は皆濡れた。

九死に一生を得た植村は、「俺は元気だよ」と脳裏の公子さんに叫んだという。






◎白熊



ある日の明け方、犬の鳴き声がふと止んだかと思うと、「犬とは違う足音」が聞こえてきた。

「はっ」と目が覚めた瞬間、異様な鼻息の音が不気味に響いてくる。間違いない。白熊だ…!



あろうことか、寝袋のわきに置いていたライフルに弾は込められていない。もし、起き上がって弾を装填すれば、その音で白熊はまっすぐこちらに向かってくるだろう。

それにライフルの手入れも怠っていた。照準も合っていないし、もし油が凍っていれば、たとえ弾を込められたとしても発射できない。犬たちはどうした? 鳴き声もしない。逃げてしまったか…。



なすすべがない…。

足音が近づいてきた。もう枕元のすぐそばだ。

臭いを嗅ぐ鼻息は耳元に聞こえている。そしてなんと、巨大な足がテントの上から植村の頭を押さえつけにかかる。白熊は爪でテントを引っかき始めた…!



絶対に身動きしてはならない。

呼吸の音さえ、気づかれてはならない。



「公ちゃん、俺は死ぬよ…」

植村は観念した。全身の毛穴からは汗が噴き出している。

しかし幸いにも白熊は、テントを揺さぶり裂いただけで、襲っては来なかった。どうやら植村の存在に気づかなかったらしい。白熊はテントの外に置いてあったアザラシの凍肉を食べ、クジラのラードを食べ荒らしているようだった。



すると不意に、あの恐怖の足音が遠ざかって行く。

助かった…!

「状況からすれば、奇蹟的に、といってもよかった」



だがまだ動いてはならない。

植村は十分に静けさを保ったまま、ようやく二重にしたシュラフ(寝袋)のファスナーを慎重に下ろしはじめた。

テントの外に出てみると、白熊の足跡がありありと残っていた。「輪カンジキほどの大きさの、爪の方が広く踵の方が小さい」。食料類はめちゃくちゃにされており、クジラの脂肪を入れていたポリバケツなど、まるで紙屑のようにズタズタに散らされていた。

植村が白熊に遭遇するのは初めてではなかった。だが、このような「不意打ち」は初めてのことだった。



この翌日、味をしめたあの白熊は、ためらうことなくテントに向かってきた。

だが、今度は恐れることはない。再襲来に備え、ライフルの手入れは万全であった。植村は何発か弾丸をブッ放すと、この白熊を仕留めた。

日記にはこうある。「大体、こんな目にあうのも、どこか準備に手抜かりがあったからではないか。心をひきしめて、自分自身を取り戻さなければ」






◎濃い憂鬱



出発して2ヶ月、植村は「気が滅入る…」とつぶやく。

「やっぱりこの旅は自分にとって厳しすぎた。心身ともに疲れ切ってしまったのだ…」

彼の著書には「なぜか濃い憂鬱に襲われた」と語られている。犬たちの脱走や橇を海水に落とすなど、その原因はさまざまに考えられた。



「橇は砂の上を走らせるように滑らず、1日最高50km、ある日は乱氷の中に1日10km進むのがやっとでした」

「気温はマイナス40℃を越し、乱氷に悩まされ、その上、C.B.で手に入れた新しい犬は橇を曳いたことなく、グリーンランド犬とケンカ、凍死したり、疲労死、闘争死で、500kmと走らない内に犬は9頭に減ってしまいました」

ルートを大きく変更して新しく手に入れたコッパーマイン犬は、「犬の数ばかりで、橇を曳くことより、犬同士のトラブルばかり」。



その上、「予定していたカリブーの狩りは2頭とっただけ」。犬橇に乗せられる食糧には限界があるため、現地での狩りや釣りなどで自分や犬の食料を確保しなければならなかった。

「橇の犬の食料は食べ尽くし、犬は元気なく、わが体も調子悪く」

「気温はマイナス40℃〜50℃にも下る寒さにより、一日一食(夕方)しかとれない」

「マイナス50℃という寒さには、もう防寒衣をつけても体全体が寒く、そして痛み、橇にじっと乗ってムチを振れない厳しさです」

「顔の凍傷はC.B.を出て4度目、やけどのようにヒフはただれるが、4〜5日もすると新しく表皮ができ、またそこが新しくやられると、いつも同じところが凍傷になること、くりかえしています」






◎心の支え



無限かと思われる氷雪に、たった一人の単独行。「どうしても1人でやらねければならなかった」冒険。エスキモーたちにさえ「トコナラヤカイ(死にに行くのか)?」とその一人旅を心配された。

その惨憺たる旅のなか、妻・公子さんの存在は「唯一無二の心の支え」となっていた。公子さんは北極圏のさなかにある植村に手紙を書き、また植村も書いた。

「君が俺のことを心配してくれて、思ってくれて、本当に俺は幸せものだと感じている」



時には率直に、「暗闇の中に暗中模さく、俺を助けてくれ」とも植村は書いた。

そして時に心配をかけまいと、気を使った。海に橇ごと落ちた時などは「海水に落ちたけれど、とっさに逃げて助かった」と短く報告するだけだった。



「いちばんの心の危機」を感じていたという北極圏1万2,000kmの冒険旅。その心が細くなっていた時、家で待つ妻の存在は限りなく大きなものとなっていた。

「テントの外は目も開けていられない地吹雪、犬はテントの前で風を背中に向け顔を腹わきにつっこみ、丸くなって死んだように身動き一つしない。(中略)テントが風にブンブンなり、タイコの音のように鳴りひびいて、テントの中で、君の便りを繰り返し読んでいる」






◎怒り



1974年5月に「電光石火のような早業」で結婚した植村直己と妻・公子さん。

その直後、およそ1年半にも及ぶ最初の北極圏単独行1万2,000km(1974年12月〜1976年5月)。1978年には、世界史上初の「北極点単独行」に成功(およそ56日間)。

その後、マッキンリーの雪山に植村が消える1984年まで、その結婚生活はおよそ10年。だが、冒険の合間にあったような2人の生活は、実質的に半分の5〜6年程度。



人当たりの良かったという植村は、滅多なことで怒りを人に向けることはなかったというが、妻・公子さんにばかりは怒りを爆発させることがあったという。

それは「ごくつまらないこと」から始まるのが常だった、と公子さんは語る。冷蔵庫の中に残っていたはずのものがない、といったような。

しかし、植村の怒りは「公子さんに全身を預けるようにして頼りにしていた、その現れ方の一つ」と、幾多の取材をしてきた湯川豊氏は語る。



そのことに関して、公子さんは次のように言っている。

「結婚してだいぶ経ってのことですが、だんだん外に対して怒れるようになったと思います。ある報道関係の人にすごく怒ったことがあって、この人、変わってきたなと思ったことがありました」

だが同時に、公子さんはこうも悲しむ。

「植村も年をとっていったのかもしれません…」






◎背負っていたもの



冒険家・植村直己の内に秘めるエネルギーは、もともとマグマのように膨大であったろう。時にそれは爆発しなければ収まらなかった。

それを公子さんは、こう語る。「自分の中のものを全部出さないと収まりませんでした」

だが、爆発してしまえばあとはケロッとしたもので、怒りを向けてしまった公子さんに真剣に、深刻に謝ったのだという。



それでも、そうした爆発は彼の中のエネルギーのほんの一部だったのかもしれない。というのも、冒険に関する心のストレスは妻の公子さんにも決して見せようとはしなかったのだ。

「自分の冒険の結果については多くを語ろうとはしなかった。ひとりで黙々と背負っているようだった(湯川豊)」



じつは、植村直己「渾身の偉業」となった北極圏単独行ののち、彼の心は相次ぐ冒険の失敗に苛まされる。

1980年、植村が隊長になって試みた冬季エベレスト登山の不成功。そして後に語るが、南極大陸横断の不成功。

「植村は、この二つの行動の結果に、深くこだわっていたと思われる(湯川豊)」



妻・公子さんはこう記す。

「厳冬期のエベレスト、南極のビンソンマシフと失敗が二度続いて、彼の中に穴があいたように感じました」

「その穴の大きさや深さを窺い知ることはできませんでしたが、時折その穴に入り込んでいる彼を見るのは辛いものがあり、失敗は自分自身どうしても許せなかったのでしょう」



そして、公子さんは最期の結果に触れる。

「その果てが厳冬のマッキンリーになり、自爆してしまったと哀しく思うのです」

「堂々めぐりの中から抜けられなかった。ちょっと気持ちをそらせば違う生き方だってできたのにと切なく思うのですが…」













(つづく)

「南極の夢」とマッキンリー [植村直己 夢の軌跡より] その4(完)






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垂直から水平へ。原住民に溶け込んで [植村直己 夢の軌跡より] その2

「南極の夢」とマッキンリー [植村直己 夢の軌跡より] その4(完)



出典:ナショナル・ジオグラフィック
「植村直己 夢の軌跡」
posted by 四代目 at 06:56| Comment(0) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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