2013年07月31日

垂直から水平へ。原住民に溶け込んで [植村直己 夢の軌跡より] その2




世界放浪1,000日 [植村直己・夢の軌跡より] その1 からの続き






世界中を放浪しながら、植村直己は「旅のあと」のことを考えていた。

「この最後の旅が終わった後、オレは日本でどのような生活の道を選ぶのか?」



旅は「わが人生の一つの遊び」に過ぎないと彼は考え、帰国後は「定職に就くこと」を真剣に考えていた。

「どんな仕事であれ、自分に定職をもつことこそ、真の人間としての価値があるように思われる」と、彼は新年を迎えた1月1日(1969)の日記に記している。

そして、こう断言する。「自分のやっている、何かわからない放浪の生活と登山は、自分の職業ではない」と。



だが、その決意虚しく、帰国後の植村の心はやはり「旅の空」から逃れられなかった。

金稼ぎのアルバイトをしながら、こうつぶやく。「無性に懐かしく思い出されるのは、無銭旅行のはずみで敢行したアマゾン河のイカダ下降のことだった」。



そんな時、植村のもとに「世界最高峰エベレストへの誘い」がもたらされる。

そして始まる。放浪者から一転、大冒険家としての一生が。






◎葛藤



結果を先に記すと、1970年5月11日、植村直己は日本人として初めてエベレストの頂上に立つ。

だがここでも、前回ヒマラヤの処女峰ゴジュンバ・カンに登頂した時と同様、「チームか個人か」という葛藤に植村直己29歳の心は大きく揺れ動いた。



悠然とそびえるエベレストの頂きがクッキリと見えた時、植村は思う。

「おれは是が非でも登るぞ。チャンスさえ与えられたら、しがみついて登っていくぞ」

だが、少し冷静にこうも考える。「ここで考えなくてはならないのは、アコンカグアやアマゾン河での単独行動ではないことだ。俺はエベレスト遠征隊の大きな歯車のひとつにすぎないのだ」

実力者ぞろいの遠征隊の中にあって、植村はむしろ下働きのような仕事に酷使される低い立場にあった。



遠征隊は15人。

「いかに自分が頂上に登ろうとしても、他の15人も俺と同様に、心に強くエベレストの頂きに立つ夢と野心を燃やしているのだ」と植村はメンバーらの気持ちを慮る。

そして、こう思う。「こういった人たちと競って、先に頂きに立とうとするのが自分であろうか。いや、そうでありたくない」

だが皮肉にも、この遠征隊において「登頂成功の栄冠」を手にするのは、植村直己と他2名の隊員のみである。そして不幸にも、隊員のひとり成田潔思は山中で体調を崩して死亡する。



かつて、王貞治というホームラン王は、自ら打ったホームランを喜びもせず淡々とベースを一周していたという。というのは、「打たれた投手」のことを思うと露骨には喜べなかったからだそうだ。

そんな心優しきホームラン王と同様、植村直己は仲間たちの心をいつも推し量らざるを得なかった。

だから、自分をヒマラヤに拾ってくれた明大山岳部の先輩、大塚博美氏が登攀隊長から外されたと知った時、「卒倒しそうになり、目の前がクラクラと昏(くら)くなった」のであり、ヒマラヤの頂きにに立った時、植村は途中で急死した成田隊員の写真を胸に携えていたのである。



のちに植村の冒険は、そのほとんどが「単独」となるのだが、それは彼の心が柔らかすぎたからなのかもしれない。

仲間に迷惑をかけまいと、植村は人前で疲れたという態度は一切見せず、高山病の気配があっても平気をよそおっていたという。そして何より、仲間を押しのけるような形での登頂を素直に喜べるような男ではなかった。






◎水平



植村直己の柔らかい眼差しは、ヒマラヤ登山を手助けしてくれた地元のシェルパたちにも向けられていた。

植村はヒマラヤ準備のために、ヒマラヤ山中でシェルパの家族と一冬をともにするのだが、「シェルパ族の話になると、植村の日記の書き方は伸びやかに柔軟になる。同時に、格段の熱がこもる(湯川豊)」。



同居したシェルパ族の家族には5人の子供がいた(1〜10歳)。その子らを見ながら、植村は思う。「丸顔といい、黒い髪といい、細いが切れ長の目といい、きりっとした感じでとても可愛い。日本の子供と似ているが、年齢より幼く見える。走ったら、きっとカモシカのように野を越え谷を越えていくだろう」。

植村はネパール語などほとんどできなかった。だがそんなことは問題にならぬほど、植村のシェルパ族に対する親愛感は深かった。彼らとの生活を心底楽しみ、同じ現地の食事を植村は本気でおいしいと思って食べるのであった。

登山においては「組織のなかの行動」に思い悩まざるを得なかった植村であるが、シェルパ族との生活は「もっとも安らぎに満ちていた」。



植村直己の冒険を振り返る時、「水平」という言葉は大きな意味をもつ。

たとえば登山を「垂直」とすれば、グリーンランド横断は「水平」である。登山隊のチーム編成が「縦型」だとすれば、原住民たちとの交流は「横のつながり」であろう。

西洋の冒険というのが高圧的に自然を征服するようなところがあるのに対して、植村直己の冒険は、水の高きが低きに流れるがごとく、自然とその風土に溶け込むようにして成されていくのである。。



植村の冒険相談役となっていた湯川豊氏は、こう語っている。

「植村直己の冒険の方法の一つは『先住民に徹底的に学ぶ』ということだった。その結果、彼の冒険は際立った表情をもつことになる。それは、自然を征服するのではなく、自然に従うこと、適応することである。順化するという言葉を使ってもよい」






◎敬愛



植村自身は西洋的な自然の征服に反駁しようとしたのではない。ただ、ヒマラヤではシェルパ族に、アラスカではエスキモーたちに心惹かれるうちに、自然とそうなっていったんだと彼は言う。

厳しい自然環境に何百年、何千年と暮らしてきた先住民たちの知恵は底知れぬ。「自然のもたらすものの中にこそ、人間の生き延びる道があった」のであり、「現地の人には、その風土に生きる知恵が自ずとあった」。



「そこで自分が何かやろうと思ったら、少しでも自分をそこに順化させていくのは、当然ですよね」と植村は言う。

たとえば、アマゾンの河下りで「なぜ筏(いかだ)を使ったのか」と問われれば、植村は「金がないから舟なんか買えなかった」と笑う。だが、彼の目はアマゾン河岸の原住民たちが筏をつかって河を自由に往来していた姿を確かに見ていた。

「彼らと同じようにやることができればいいはずだ、という気持ちになってくる」と植村は書いている。筏ばかりでなく、食べ物も現地ペルーの人々を真似て「平然と生き延びた」。青いバナナを煮たり焼いたり、猛魚ピラニアを釣って食ったり。



冒険する場所に人が住んでいる以上、彼らの生き方に学ぶことが最良であると植村は考え、彼らの食事や生活に深い敬意を抱いた。

植村の頭の中には、先住民が「未開な部族」であるという差別意識は毛頭なかった。むしろ自分が頭を下げて教えを請わなければならない目上の相手、その土地に古くから生きる人たち皆がそうした先生たちであった。



ヒマラヤにおいて、「植村は本気でシェルパ族の暮らしぶり、生活態度に感動し、彼らに敬意を抱いている。シェルパ族に言及するときは、つねに敬愛の気持ちが漂っている(湯川豊)」。

植村自身はこう記す。「現地の食べ物を家族と一緒に食べる方が、食事もおいしかった。私はどこへ行ってもその土地のものがおいしく食べられるので、ありがたい(著書『エベレストを越えて』)」






◎養子



植村直己という冒険家が、いかに土地に溶け込んでいたかを物語るエピソードの一つに「養子」の話がある。

それは、のちの北極横断のためにエスキモーに犬橇(いぬぞり)を学んでいた時のこと。村長イヌートソアに「養子にならないか」ともちかけられたのである。

日本で養子といえば大変なことだが、エスキモーの社会ではそれほど特別なことではない。私生児もたくさんいるし、誰が誰の子という感覚は薄い。村長イヌートソアは、植村が極寒の中、犬馬の労もいとわずに飲み水にするための氷塊を浜辺から毎朝運んでくれたことに感じ入っていたのだった。



最初は驚いたものの、養子の話を快諾した植村。その儀式はあっけないほどに簡単だった。

「3人(植村とイヌートソア夫婦)は両手を出し、重ね合わせる。それだけである。終わってお茶を飲み、クジラの生肉をかじった。どこに届け出をする必要もない(湯川豊)」

「私は満足だった。人間同士のあたたかい肌にふれたような気持ちで、私は最高に幸せだった」と植村は著書に記している。



村長イヌートソアという地元きっての教養人に、植村という人間は認められた。それは植村の冒険スタイルに対する絶対的な肯定だった。

というのも、村長イヌートソアは土足でドカドカ上がり込んでくるような白人の横暴に腹が立っていた。

極地の遠征隊のガイドをしていたというイヌートソアは、こう憤る。「白人はわれわれを騙す。わしは遠征隊に何度も加わったことがあるが、たった五頭の犬橇さえまっすぐに走らせることもできないのに、白人は威張ってばかりいるんだ」と。



一方の植村直己は、エスキモーに対してまったく偏見をもっていないばかりか、一緒に暮らすことを喜んでくれていた。

イヌートソアが養子にと思ったほど、植村はその土地と同じ色になっていたのである。






◎南極の夢



植村直己がエスキモーの村に暮らすようになったのは、「犬橇(いぬぞり)」の技術を学ぶためであった。

何のためかといえば、「南極を横断するため」である。この「南極横断」という冒険が植村の悲願であり、結果から先に言ってしまえば「果たされぬ夢」でもあった。



世界最高峰ヒマラヤの登頂を果たした後、植村は世界放浪時代に阻まれた北アメリカ大陸最高峰のマッキンリーにリベンジ。4人以下の登山が禁じられていたマッキンリーに植村はアメリカ隊に紛れて入山し、実働わずか4日間で単独登頂を果たしてしまう。

マッキンリーを制したことにより、植村直己は世界初の「五大陸最高峰」登頂者となった。

1966年7月、ヨーロッパ大陸最高峰モンブラン(標高4,808m)
同年10月、アフリカ大陸最高峰キリマンジャロ(標高5,895m)
1968年2月、南アメリカ大陸最高峰アコンカグア(標高6,960m)
1970年5月、アジア大陸最高峰エベレスト(標高8,848m)
同年8月、北アメリカ大陸最高峰マッキンリー(標高6,194m)

およそ4年間で、植村直己はこの偉業を成し遂げたことになる(達成当時29歳)。



そして次は、と開いた地図が「南極」だった。

日本に帰り、東京の建設現場でアルバイトをしていた植村は、彼が寝泊まりしていたバラック建ての飯場で一枚のたたんだ紙を取り出した。

「南極の地図です」と、クリームパンとアンパンとチョココロネを実に美味そうに平らげたあとで、植村は切り出した。



その南極地図はまるで「白地図」のように、ただの白い広がりでしかなかった。後援を頼まれた文藝春秋の湯川豊氏は、その白さと漠然さに戸惑う。

だが夢見る植村の目には、その白き世界が色鮮やかに、そして詳細に映っていた。



「南極を単独で横断します。距離にして3,000km、走行手段は犬橇(いぬぞり)です」

植村は決然たる口調で、そう宣言する。

「しかし、犬橇の操縦をあなたは出来るのか?」と湯川氏は怪訝に問うた。

植村は自信をもって答える。「これからグリーンランドに入って、エスキモーに習います」と。



この時点で、植村は南極大陸に行ったことすらなかった。ましてや、犬橇となると「ぼんやりした知識」があるだけだった。

それでも植村は「この最初に語った段階から、不思議なほど自信をもっていた」と湯川氏は振り返る。

この一年後、植村は生まれてはじめて南極大陸を一瞥するのだが、その氷雪を目にした時、植村は「確信といっていいほどの自信」を抱く。



「植村の途方もない夢には、何かしら強いリアリティーがあった。それは植村という人間が発しているリアリティーといったほうがいいかもしれない」と湯川氏は語る。

五大陸の最高峰登頂という「垂直の世界」から、氷と雪の「水平の世界」へ。

そして、組織から単独へ。植村の胸はその茫漠たる解放感に踊っていたのかもしれない。






◎生肉



その夢のため、植村はどんな遠大な回り道も惜しまなかった。

1971年、植村は日本列島3,000km、南は鹿児島から北は北海道までひたすら歩く。この時歩いた3,000kmという距離は、ちょうど南極大陸を横断する距離である。この遠大な距離を植村は51日間という短い日数で歩き切った。単純計算で一日60kmペースの徒歩である。



そして1972年9月、次の訓練地であるグリーンランドのシオラパルク村に入る。この村の村長がイヌートソア。先述した通り、植村直己の養父となる人である。

植村はこう語る。「私はもともと金がなかったから、何とかして現地の人に受け入れてもらわなくちゃやっていけないという実際的な事情がありました。食と住で、そして衣も含みますが、エスキモーの人たちに頼らなくちゃなりませんでした」。

「頼る以上、自分の都合とか理屈を抑えて、エスキモーの生活にできるだけ溶け込む。そこには極地の生活の長い歴史が生んだ貴重な知恵があるわけですから」

エスキモーに馴染むために我を抑えるのは、植村にとってはストレスではなく新たな発見のための喜びであった。この点、集団組織の中で自分を抑えることとは根本から意味合いが異なっていた。



知れば知るほど、エスキモーたちの「風土に生きる知恵」、寒気への対策法から極地でのさまざまな「生きる技術」には敬意を抱かざるを得ない。

だが、さすがの植村とてすんなりとエスキモーの生活に馴染めたわけではなかった。とくに「生肉」を食べることは最初、まったく喉と胃が受け付けなかった。



「ジャパニ、肉を食べないか?」

そう言ってエスキモーの男に差し出されたのは「黒い血らしいものに染まった肉塊」。室内の天井にぶら下がっていたものである。植村の後ろには、たくさんの村人たちが興味津々の眼差しを向けている。どうしても、その赤黒い物体を食わずばなるまい。

「私は恐る恐る肉片を口元へ運び、唇に肉片が触れないように前歯でおさえてからナイフで小さく切り込みを入れた。生臭さがプーンと鼻をつく。ところが生肉が舌に触れただけで、私の胃はたちまち拒絶反応を起こした」

胃液が口にまで逆流してきた。それでも植村は「ここが勝負どころ」と、痙攣する胃袋に辛うじて呑み戻す。



あとで、それが「クジラの生肉」であったことがわかった。そして、それは彼らが「マッタ」と呼ぶ大切な食材。日の出の祭りや子供の誕生パーティーなど、特別の日のご馳走であった。

初めてそれを勧められた時の植村は、まるで新人が試されているように感じていたが、じつは全くの逆で大歓迎されていたのであった。

クジラは捨てるところがなくじつに有り難い。その肉をエスキモーはとくに丁寧に保存していたのである。



驚くのは、その後の植村の「驚くべき適応能力」である。なんと、たった数日後である。あれほど痙攣していた胃袋が生肉に喜ぶのは。

「私は自分の身体ながら、その適応能力に感心してしまった」と記し、のちに「夕食にアザラシの生肉、一キロくらいペロリですよ」と植村は笑う。



エスキモーは「肉の焼ける匂い」をきわめて敏感に嫌うため、火を通すとすれば焼くのでなく煮るのであった。植村も同様、肉は生でなければ煮て食べるようになっていた。

また、エスキモー同様、「猫舌」にもなっていた。エスキモーは凍った生肉をナイフでそいで食べるのが常であることから、熱いものは苦手なのであった。






◎ウンコとオヒョー



食は良し。だが、「出すこと」に慣れるのはもっと時間がかかった。

エスキモーの家には部屋が一つしかなく、トイレもそこでする。入口付近に無造作に置かれたバケツ一個が便器である。男も女も人目をはばかることなく、そこで尻をまくり用をたす。厳寒期に外へ出て、吹雪の中で用を足すのはまったく現実的ではない。



さすがの植村も初めて会った人たちの面前で排便できず、身悶える。そして、こう漏らす。

「私はこれまで40カ国ばかりの国々を歩き回ってきたが、これほど風俗習慣の違いを身にしみて感じたことはなかった。習慣に従うという言葉は頭の中でこそ理解できても、いざ実行するとなるとなかなか難しい」



それでも半月もすると、堂々と大便をしていた。みんなと話をしながら。

「娘たちも話しながら尻をまくり小便をするようになって、私との間にはなんのこだわりもなくなっていた」と植村は書き付けている。

「私もはじめは彼らの排泄習慣になじめなかった。だが、『エスキモーと生活を共にする』という以上、食生活を同じにするだけでなく、同じ排泄行為をとることができるという条件も付け加えなければならないと思っている(著書『極北に駆ける』)」



こうして、「食よし、便よし」となった植村であったが、最後まで馴染めぬことが一つだけあった。それは「きわめて自由奔放な性交」であった。男も女も、老いも若きも、また既婚者も未婚者も、エスキモーたちは人目をはばからなかった。

仲間となった植村にエスキモーの女性らは容赦なく押しかける。困り切った植村はこう言って難を逃れていたという。

「私はドクターからオヒョーを使ってはいけないと言われている」

「オヒョー」というのは魚の名だが、ここではエスキモーたちが男性自身を表す隠語である。生真面目な植村にとって、開放的な男女の交わりは人前でウンコをすることよりも難儀なことであった。













(つづく)

冒険家の「心の支え」 [植村直己 夢の軌跡より] その3






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「南極の夢」とマッキンリー [植村直己 夢の軌跡より] その4(完)



出典:ナショナル・ジオグラフィック
「植村直己 夢の軌跡」湯川豊
posted by 四代目 at 13:06| Comment(0) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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