2013年07月29日

世界放浪1,000日 [植村直己・夢の軌跡より] その1



登山家、冒険家、「植村直己(うえむら・なおみ)」

日本人初のエベレスト登頂(1970)
世界初の五大陸最高峰、登頂成功(1970)
世界初の犬ゾリ単独行で北極点到達(1978)
世界初の冬季マッキンリー単独登頂(1984)
日本で国民栄誉賞を受賞(1984)



眩しすぎるほどの輝かしい業績。

だが悲しくも、国民栄誉賞を授かった時、植村直己はおそらくこの世にいなかった。

「おそらく」というのは、冬季マッキンリーの山頂に残した日の丸を最後に、彼はその厳冬の山中で「消息不明」となってしまったからである。



「現在に至るまで遺体は発見されていないため、最後に消息が確認された1984年2月13日が植村の命日とされた。43歳没(Wikipedia)」

植村最期の偉業となった冬季マッキンリー単独登頂。それを成した日は植村43歳の誕生日にして、消息が絶たれるその一日前、2月12日であった。






◎劣等感



「家は但馬(兵庫)の寒村の貧乏農家で、自分は7人兄弟の末っ子。はみ出し者である」と植村は常々語っていたという。

だが、「貧乏農家」と植村は言うものの、農家としての植村家は「経済的には上の部」にあったらしく、貧農というのは植村の謙遜にすぎない。ちなみに「寒村」と植村が言う兵庫県城崎郡日高町上郷(現・豊岡市日高町)は奈良時代から国府が置かれたほど「気候も穏やかで物成りが豊かな盆地」だった。

さらに、植村は「はみ出し者」と自ら言うものの、兄弟らに言わせれば「いい子の末っ子」であり、同級生らに言わせれば「とにかく平凡で、地味で、目立たなかった」。



冒険家・植村直己は当然のように「行動の人」である。ゆえに彼は「書くことは死ぬほど嫌いだ」と口癖のように言っていた。

だが、この言葉もまた額面通りには受け取れない。彼の冒険日記は驚くほど緻密であり、海外にいても年賀状を欠かさない律儀で筆マメな男だった。上下に揺れる犬ゾリの上でも植村は筆を握り、踊るような文字で臨場感みなぎる手紙を残している。



この点、植村直己をつぶさに取材していた湯川豊氏に言わせれば、植村には「自分はインテリではないという不要な劣等感、卑下癖、謙遜ぐせ」があったという。そのため、時に乖離する言葉と行動。その矛盾の中に植村という人間はいた。

常に「行動」が先行しがちな彼は、ときに言葉が追いつけない。湯川氏が初めて植村にインタビューしたとき、その驚きをこう語っている。

「私は編集者という仕事柄、ふつうの口下手には驚かないつもりでいた。しかし植村は、度外れていた。言葉が本当に出てこないのだった。彼は一言、二言話すたびに顔を赤らめ、大汗をかいた。一言いってつっかえ、つっかえたことで顔を赤らめる。当人自身、そのことに困惑して、ウー、ウーと唸った。言葉よりも手ぶり身ぶりが先に立ち、それでも言葉が出ないとなると、本当に身をよじった」



植村が出ない言葉に身をよじるのは、それだけ誠実に自らの体験を言葉にしようとするからでもあった。決して彼の言葉が稚拙からなのではなく、その体験が言葉を超えていたのである。それでも植村はそうした自分に「劣等感」を感じていたのだという。

だが逆に、そうした劣等感が数々の「冒険のバネ」になった、と夫人の公子さんや多くの知人たちが指摘している。






◎ドングリ



面白いことに、高校時代の植村は「山にはまったく興味がなかった」という(のちにヒマラヤにまで登るほどの男が)。

高校卒業後、植村は新日本運輸という運送会社に一度就職している。それは母親がサッサと人事課長に頼みに行って、一人で決めてしまったからだった。

植村はこう語っている。「自分としてはやはり学校へ行きたい。いちおう大学受けて通ったんですよ。関西大学でしたけど。しかしオフクロが半ば強制的に勤め先を決めてしまったんです(笑)」



表面的には「いい子」だった植村だったが、その内にはフツフツと進学への思いを沸き上がらせており、結局一年後、明治大学に入学することになる。

そして、ここで植村はようやく山に目覚める。山岳部へ入部してからというもの登山に没頭するようになるのである。そして、同じ山岳部の小林正尚がアラスカ旅行で見てきたという「氷河の話」に海外への憧憬を抱くようにもなる。



だが、それまで十分な登山経験のなかった植村は明大・山岳部において「劣等生」であった。ついたアダ名は「ドングリ」。コロコロとしょっちゅう転んでいたからだった。

そんな植村を面白がって、先輩らは隊列から遅れる植村の尻をピッケルで容赦なく打ち付けた。植村は当時の屈辱をこう語っている。「あんなに苦しく、恥ずかしい思いをしたことがない」と。

人前で怒りを表すことのなかったという植村は、この苦い経験を噛み締めながら、しばしば一人で山に入るようになる。大学時代、部活の合宿に個人の山行を加えると、年に120〜130日(およそ一年の3分の1)は山に入っていたという。






◎氷河



植村が日本を飛び出すのは、「氷河が一目見たい」、その一心だったと彼はのちに語っている。

その一途な思いが「世界放浪1,000日の旅」へとつながっていくのである。



だが、大学卒業を間近に控えた植村が、実家の家族の前で「卒業後、外国へ行きたい」と切り出すと、両親、とくに母親からは頭ごなしに反対された。

子供の頃から親に逆らえなかった末っ子の植村。小さい頃から家の仕事を手伝わされるのが「いやでいやでしょうがなかった」と言いつつも、真面目に牛の世話などをやっていたという。

だが、この時ばかりは両親の反対に納得いかなかった。マグマのように噴出しつつあった「世界への夢」は、もう抑えきれぬところまで上がってきていたのだ。



それでも、その強すぎる想いを言葉にできなかった植村。思い余って家を飛び出してしまう。

「円山川にかかる上郷橋の欄干につかまって、夜中、長いことシクシク泣いていた」と、長兄の修さんはその時のことを語る。「普段は大人しい末っ子」だったはずの植村だったが、大きすぎる思いが心からはみ出してしまっていたのである。

以後3日3晩、植村は断食を決行する。ハンガー・ストライキだ。これには両親も根を上げた。よって、海外渡航への判断は10歳年上の長兄・修さんに委ねられることになった。



「かわいい末弟があれだけ思い込んでいるんだから、やっぱり聞いてやらにゃあなるまい」

そう決めた修さんは、片道の船賃を工面してやることにした。この時の植村直己はまだ、泣いて断食して駄々をこねた「甘えん坊の末っ子」であった。






◎アメリカ



1964年5月2日、アメリカへ向け横浜港を離れる移民船「あるぜんちな丸」。その甲板上に植村直己の姿はあった。当時の日記にはこうある。

「日本を離れる夢は今や実現した。横浜の桟橋からはなれてゆくたくさんの見送りのテープに実感が初めてわいた。この乗船まで右や左と転びつつ、きわどく今日に至る経過をたどってきたが、今日という日を待ちわびて乗船してみると、意外と気持ちは落ち着いたものだ」



1964年という時代、まだまだ外国へ行くというのは大変なことだった。東京オリンピックが開かれるこの年の前夜、貿易自由化によって海外への観光旅行の道がわずかに開かれた折とはいえ、為替レートは1ドル360円。大学卒業後の若者が気軽に出かけられる旅ではあり得ない。

何しろ、当時の日本のサラリーマンの平均的な月収は2万円程度(約60ドル)。アメリカまでの片道の船賃10万円というのは、5ヶ月分の給料に相当したのである(現在価値にして100〜150万か)。

その大金を工面するため、植村は大学卒業までの朝から晩まで、ご飯とタマネギの味噌汁だけを糧に建築現場で汗を流し続けた。船の切符代を支払った後、植村の手元に残ったのは「110ドル(約4万円)」だったという。



植村の計画としては、まずは経済大国アメリカで一稼ぎした後、満を持してヨーロッパ・アルプスに乗り込み、「念願の氷河」を一目見るというものだった。

ロサンゼルスのホテルでの皿洗い、ブドウもぎの仕事などなど、手持ちの110ドルはわずか数ヶ月の肉体労働で1,000ドル(約36万円)にまで膨らんだ。

ところがある日、労働中の植村は移民局に捕まってしまう。労働許可証(ビザ)を持っていないことがバレたのである。身ぶり手ぶりで弁明に努めた植村は何とか強制送還は免れる。だが、アメリカ滞在はわずか半年に満たぬ間に終わりを迎え、その後、追い立てられるようにしてヨーロッパへ向かうこととなった。






◎フランス



フランスに渡った植村は、ここに「待望の氷河」をヨーロッパ大陸の最高峰「モンブラン」で足下に踏みしめる。

しかし、それからすぐに植村は「死の淵」へと姿を消す。憧れの氷河には、底も見えぬほどに深い亀裂(クレバス)が口を開けて待っていたのであった。

落ちたと気づいた時、クレバス両側の壁に胸とザックが挟まり、両脚がブラブラと宙に浮いていたという植村。九死に一生を得ていた。ちなみにこの際どい体験から以後、植村は何本もの長い竹竿をストッパーとして身体にくくりつけるようになった。落ちてもどこかに引っかかってくれるようにと願いを込めて。



こうして失敗に終わったモンブラン登頂。クレバスから無我夢中で這い出したあとは、足がすくんで一歩も進めなくなってしまったという。

リベンジせずんばなるまい、と植村はフランス滞在を決意。職探しに奔走した結果、冬季オリンピック滑降の金メダリスト、ジャン・ビュアルネ氏の経営するスキー場でパトロール職員として拾われる。



ところが、その就職直後、植村の元に母校の明大・山岳部から「ヒマラヤ遠征」の誘いが舞い込む。

「ヒマラヤへのあこがれ絶ちがたく」

植村はそう言って、拾ってくれたジャン・ビュアルネ氏の了解を取り付け、モンブランへのリベンジをそっちのけ、一路ヒマラヤに飛んだ。






◎初ヒマラヤ



目指すはヒマラヤの処女峰「ゴジュンバ・カン(標高7,646m)」。

ここでいきなり植村はその頂きに立つ。初登頂の名誉を授かるのである。



だが、この成功は植村にとって「複雑な思いを催すもの」だった。ヨーロッパからの飛び入りだった植村は、遠征隊の資金調達にも参加していなかったため、下働きのポーターとしての参加だったのである。

ところが、事故者の続出や第一次登頂隊の失敗などの末、結局、だいぶ席次の低かった植村がいちばんテッペンに立ってしまったのだった。頂上に立つことができたのは、並み居る隊員たちの中で植村とそのシェルパ、ペンバ・テンジンだけだった。



「穴があったら入りたい」

新聞などで自分の名前が大々的に取り上げられるのを見て、植村は居たたまれない気持ちに苛まれていた。

「自分はたまたま頂上に登らせてもらったのに、大きく扱われるのは自分だけで、隊員諸氏に申し訳ない…」

まるで植村は、トンビが油揚げを奪ってしまったように感じていたのである。



登山はチームを組んで行われるのが普通である。第一、第二という具合にキャンプをチームで先に進めながら、最後にアタック・キャンプから頂上を目指す。集団で目的を達成しようとするこの社会的行動のような登山を「極地法」と呼ぶ。

だが植村は、この方法に疑問を抱かざるを得なかった。最後の成功者となるのは実力者とは限らない。時に有力な第一次隊が捨て石となってしまうこともあった。植村の参加した今回のように。

のちに植村は、この極地法の対極にある「単独行」という登山・冒険方法へのこだわりを見せていくことになる。その因は確かにここにもあった。



ちなみに、植村の名である「直己」は、本来「直巳」であったという。生まれ年の干支である巳(へび)にちなんで名付けられたのであった。

だが、町役場の戸籍担当職員の誤字により戸籍名は「直已」として登録されてしまう。

このことに関して植村は、「巳(へび)より己(おのれ)の方が格好良い」と満更でもなく思っていたという。そして「己(おのれ)」という個に対するこだわりは、冒険家・植村直己の体を表すようにもなっていく。






◎矜恃



登頂成功に後ろめたさを拭えなかった植村は、隊長の「一緒に日本に帰れ」という指示に従うことができなかった。遠征隊とは別れ、植村は一人フランスのスキー場へと戻る道を選ぶのである。

その帰途、じつは植村の懐には帰りの船賃すらなかった。明大の遠征隊は植村の交通費を負担するくらいの余裕はあったが、植村はその好意を受けることができなかった。手柄を奪ってしまった遠征隊にすまないと思う気持ち、さらに彼なりの見栄もあったかもしれない。



船賃はカメラと時計を処分してようやく乗船することができたが、マルセイユからアルプスのスキー場まではまったくの無一文。頼りはヒッチハイクのみ。食うや食わずの4日間であったという。

「オレは物乞いなんてしたことありませんよ! 食べ物を恵んでもらうなんて!」

この時の無銭行を振り返る時、植村は顔を紅潮させながら語気を強めたという。普段は穏やかで、内にもっている激しさを滅多なことでは表にあらわさない植村が。

彼には彼なりの高い矜恃があった。「一人でやれることは一人でやろうとし、一人でやった。ごく自然に当たり前のように」。



飲まず食わずでスキー場に戻った植村は、節約に節約を重ねて資金を貯め込み、次なる冒険に備える。

「毎月無休で働いて、一方ではコーヒー、ワインは決してとらず…」

一時、無理がたたって黄疸に倒れるも、大陸最高峰を次々と制していく。ヨーロッパ大陸の最高峰「モンブラン」へのリベンジを果たし、アフリカに足を伸ばしてアフリカ大陸最高峰「キリマンジャロ」を制覇。ともに「単独行」という紛れもない自分自身の足で。



派手な業績とは裏腹な、ストイックな日常生活を送る植村。

「すべてを自分の責任で、一人でやり抜くこと」

その思いは強まるばかり、その矜恃は高まるばかり。世界の荒波にもまれながら、「甘えん坊の末っ子」という顔はその表情を大きく変えていったのであった。






◎アルゼンチン軍



植村がフランスにいたのは約3年間。

お世話になったビュアルネ氏の元を去った植村は、大西洋を渡り南アメリカ大陸の最高峰「アコンカグア」の頂を目指す。

その野望の前に立ち塞がったのはアコンカグアの高峰ではなく、「単独登山の許可」という事務手続きだった。



アコンカグアは軍の管轄下にあったため、軍の許可が必要だったが、単独行を申し出ると「ロコ(馬鹿)」と笑われるばかり。アルゼンチンという国には登山という文化自体が薄かった。さらに植村の見た目も悪かった。軍の司令官は植村の「登山装備が貧弱すぎる」と一蹴。

それに反論するため、手を大きく振りながら必死に弁明に努める植村。しまいにセーターを取り出し、両袖に足を通して見せる。「寒い時はセーターがズボンの代わりになるのだ」と。だが、そのパントマイムのような実演に大勢の軍関係者は大爆笑。

登山許可の交渉も、組織に属していればもっとスムーズだったかもしれない。だが、植村の選んだ道は「一人」。何のバックアップもない。フランス語は話せるようになっていた植村も、アルゼンチンで通じるスペイン語まではわからない。



それでも植村の熱意にほだされたのか、結局、軍の司令官は植村に登山許可を下す。そして手袋や防寒具を貸してやると植村に手渡した。

だが植村はその好意を跳ね除ける。「山登りは自分の足でやる。自分の装備でやるものだ」、そう言って。

普段、人付き合いにおいて穏やかさと笑顔を絶やさなかったという植村だが、アルゼンチン軍との顛末には、心穏やかならぬところがあったらしい。のちにこのアルゼンチン軍は、植村直己「未完の野望」となる南極大陸横断の前でも最大の障壁となることとなる。なんとも因縁深き話である。



アルゼンチン軍に散々バカにされ、猛然といきり立った植村。

20日はかかるというアコンカグアの困難極まる登頂を、「わずか15時間」という信じられないスピードで登頂してみせるのだった。



「オレの山行は主義があって登るのではない。心の勇んだときに登るだけだ」

放浪の旅のさなかにあった26歳の若者は、南米最高峰アコンカグアの山上で気を吐いた。






◎アマゾン河6,000km、筏下り



「無銭旅行のはずみで敢行したアマゾン河のイカダ下降」

あくまで一人の植村は、唯一の相棒となるそのイカダに「アナ・マリア」と命名した。アナ・マリアという女性は「僧衣をまとった穏やかな笑顔が本当に美しい」と植村が日記に記した女性。「一人の男を愛するわけにはいきませんが、あなたの無事を祈っていましょう」と行ってくれた修道女であった。



イカダの上で危機に直面した時、植村は「アナ・マリア、助けてくれ!」と心の中で叫んでいたという。

人に頼ることを嫌った植村にも「心の支え」は必要であった。「誰かに思いを託す」、それは植村の癖だったと、取材を続けた湯川豊氏は言っている。この時の植村はまだ独身。のちに最高の心の支えとなる公子夫人とはまだ出会っていなかった。



アマゾン川の猛烈なスコール(豪雨)に、小さな筏は木の葉のように弄ばれる。さらに川岸の原住民は武器を持って襲いかかる。そんな災難が日常茶飯事だった。

「首からかけている銀色の十字架が動くたびにキラリと光るのが忘れらない」と植村が記す、色白のアナ・マリアの面影。その霊験あらたかであったのか。植村の筏「アナ・マリア号」は60日間、約6,000kmにもおよぶ空前の単独川下りを耐え抜いた。






◎マッキンリー



そこまでして向かった先は、北アメリカ大陸の最高峰「マッキンリー」。アラスカの果てにそびえる名峰である。

だがこの時、植村はまたもや登山許可に阻まれる。マッキンリーは原則4人以下での登山が禁止されていたのである。アメリカのガードの固さはアルゼンチンの比ではない。さすがの植村もこの時ばかりは一時引き下がるを得なかった。



「マッキンリー」

この語は、植村直己の生涯を知る者たちに悲しく響く。植村が初めてマッキンリー山を目にして16年後、彼はこの雪山に姿を消すのである。

この時27歳、植村の直感は自身の運命を予感していただろうか…。



いずれにせよ、「世界放浪1,000日の旅」はここマッキンリーを見上げたところで終わる。

植村直己が日本に帰国するのは、じつに4年5ヶ月ぶりだった。













(つづく)

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冒険家の「心の支え」 [植村直己 夢の軌跡より] その3

「南極の夢」とマッキンリー [植村直己 夢の軌跡より] その4(完)



出典:ナショナル・ジオグラフィック
植村直己「夢の軌跡」湯川豊
posted by 四代目 at 09:55| Comment(0) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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