2013年07月26日

美しくも悲しき山、谷川岳



「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」

川端康成の小説「雪国」は、この名文より始まる。



小説の舞台となったのは「越後湯沢」。

すなわち、ここに言う「国境」というのは、群馬と新潟の県境のことであり、小説の主人公・島村は群馬から新潟という「雪国」に抜けたのである(ちなみに、作中には越後湯沢という地名は一切出てこない)。



そして、その「長いトンネル」というのは、群馬と新潟をつなぐ「清水トンネル」。

このトンネルが開通するのは昭和6年(1931)。その数年後、川端康成はこのトンネルを抜け、越後湯沢の温泉宿(高半旅館)で小説「雪国」を書いたようである。



文字通り「長い」、清水トンネル。全長は10km近く(9,702m)もあり、その貫通工事は難航し、完成まで9年もの歳月を要している。

というのも、トンネルの穴を貫かねばならなかった山体は「谷川岳」という名峰で、「閃緑岩」という硬い岩が行く手を阻んだからである。



さて、今回の話はトンネルではなく、その真上に鎮座する「谷川岳」である。

川端康成の文学のごとき美質をもつこの山は、美しくも悲しい山である。その岩稜の険しさから、登山者の事故が絶えぬのである。

清水トンネルの開通から開始された統計によれば、その死者は現在までに800人を超えている。この数は国内のみならず世界にも突出しており、世界のワースト記録としてギネス認定を受けてしまったほどである。



ゆえに、谷川岳には「人喰い山」とも呼ばれる。

「美」に寄り添うようにある「死」。その深く急峻な谷間には、数々の若き花びらが散ったのだ。

谷川岳に交錯する生と死の世界、その歩みを知る。






◎遅れた初登攀



遠方から望む谷川岳は、「猫の耳」のように見える。それは、谷川岳はその頂部で2つに分かれ、それぞれ「トマの耳」、「オキの耳」と呼ばれる双耳峰となっているからである。

「トマ」とはトバ口や手前を意味し、「オキ」とは沖、奥を指す。その言葉通り、群馬側から見たとき、「トマの耳」が手前(南)、「オキの耳」が奥(北)に見えることになる。

標高はオキの耳が若干高く1,977m、トマの耳が1,963m。峰としては2,000m以下級であり、数字的な脅威はさほど感じられない。ましてや、「猫の耳」などという愛称を聞けば、まさかこの山が「魔の山」と恐れられているとは思えない。



この山の初登攀は大正9年(1920)7月2日。現在「谷川岳の日」となっている、およそ100年前のその日である。

この日、谷川岳の山頂に立ったのは、この山に精通していた「剣持政吉」に導かれた「藤島敏男」と「森喬」。この3人であった。

当時、すでに日本各地の高山はほとんど登り尽くされており、のちに谷川岳と並んで「三大岩場」に数えられることになる槍ヶ岳と穂高岳でさえ、冬の積雪期にも登攀されていた。



ではなぜ、谷川岳の初登攀だけがそれほど遅れたのか?

その理由は、谷川岳が難攻不落だったというよりも、むしろ挑戦する人がいなかったからである。なにより、その交通が不便だったのだ。

川端康成が通ることになる「国境の長いトンネル」こと清水トンネルが開通するまで、東京からこの谷川岳に近づくには、群馬・高崎から軽便や馬車に乗り継ぐか、もしくは新潟側へ大きく回る必要があった。

事実、藤島らによる初登攀は土樽から登っている。すなわち、新潟県側からということだった。






◎大島亮吉



谷川岳の「冬季」における初登攀はそれから7年後、昭和2年(1927)。慶応大学・山岳部の「大島亮吉」による。

大島は山岳部の部報で「近くてよい山なり」と谷川岳を評している。その頃はまだ、清水トンネルは工事中だったのだが…。

大島は谷川岳でもとりわけ「東面岩場」に情熱を注いだ。難所・マチガ沢を初登攀したのも彼である。さらに、三大岩場と称せられる槍ヶ岳・穂高岳の冬季登攀も成し遂げている。



彼は山登りであると同時に、文学者でもあった。

「道のありがたみを知っている者は、道のないところを歩いた者だけだ」

「尾根の悪いところでは、カモシカの歩く路と人間の通る路は一つになる。ひどいヤブの中では、ヒグマの歩いた路と人間の路は一致する」

「落ち葉の上を歩く足音ほど、心に響く音はない」

などなど、名言・名文を多数書き残している。



しかしながら、谷川岳の冬季初登攀の翌年、大島は突然この世を去る。

前穂高の北尾根で墜落死してしまうのである。

享年、いまだ29歳であった。






◎宙づり遺体



登山者たちは山に魅せられ、そして時に命を散らす。

「国境の長いトンネル」の完成は、大島の言葉通りに谷川岳を「近くてよい山」にし、登山者の急増をもたらした。だが同時に、遭難死という危険が背中合わせであったことも痛感させた。なんというジレンマか。



冒頭に述べたとおり、谷川岳で命を落とした人々は800人以上と一つの山としては「異例の多さ」である。ちなみに、ヒマラヤ山脈の8,000m峰14座、すべての死者を合計しても700人に満たない。

ゆえに谷川岳で遭難者がいっこうに減らないことが危惧され、昭和41年(1966)、谷川岳には世界初の登山規制「遭難防止条例」が出されたほどである。



この条例制定のきっかけとなった事件がある。それが「宙づり遺体」事件である。

発生場所は、難所中の難所「一ノ倉沢」。この沢を文筆家・瓜生草造に言わせれば「半円形をなした岩の大伽藍」となる。その地形は複雑で、まるで階段を手前に傾斜させたような逆層になっている。

つまり、ホールドが小さく非常に難しい。岩には草が付いていて、これがまた滑る、と八木原圀明・谷川岳山岳資料館館長は語る。



救助を求める声が聞こえたとの通報を受け、警備隊が一ノ倉沢に急行したところ、正面岩壁上部にザイルで宙吊りになっている2人の登山者を発見した。

だが時すでに遅く、この時点で2人は息絶えていた。それは遠方からの双眼鏡により確認された。






◎銃撃



問題となったのは遺体の収容である。

2人のブラ下がっていた衝立岩の正面岸壁は、当時登頂に成功したのは前年の一例のみという「超級の難所」。この岩壁に接近して遺体を収容することは不可能に思われた。無理を押せば、二次災害の危険が増すばかりであった。



そこで出された苦肉の策。それは2人を宙吊りにしているザイルを銃で撃ち抜き、切断するというものだった。太さわずか12mm、指一本分の細さしかないザイルを、数百メートルの長距離から…!

那須与一であれば一発でそれを成せたかもしれない。だが、自衛隊が消費した弾丸はなんと1,238発。2時間以上も小銃・軽機関銃を射撃し続けた末にようやくザイルの切断に成功した。



当時の新聞(昭和35年)はこう記した。

山肌に銃撃のこだま

1,238発で命中。ザイル切断に成功

谷川岳宙づり死体、絶壁下で数回はずむ



「あまりにも痛々しい遺体収容作業」であった。

遺体となったその2人の登山者は、20歳と23歳の若き男性だった。






◎厳格な教師



谷川岳の登山を難しくしているのは、その厳しい地形もさることながら「不安定な天候」もある。

谷川連峰というのは、太平洋と日本海を隔てる「中央分水嶺」に位置するため、その上空では、乾燥した太平洋側の空気と湿った日本海側の空気がせめぎ合う。その結果、天候の変化が激しいものとなるのである。



昭和31年(1956)、槇有恒らがヒマラヤのマナスル(標高8,163m)の初登頂に成功すると、日本に一気に山ブームが巻き起こる。

清水トンネルのおかげで交通の便も良くなっていた谷川岳も、この一大ブームで大変に賑わうことになる。首都圏からくる登山者たちにとっての群馬側の登山ベース、土合駅は足の踏み場も寝場所もないほどに込み合ったという。

便利になるほど気軽に訪れる者も多くなり、急激な気象の変化により遭難が後を絶たなくもなる。谷川ロープウェイが営業を開始するのは昭和35年(1960)。ますます谷川岳へのアプローチは容易になった。



時代を経るほどに近づく「魔の山」谷川岳。

その美しさは登山者の心を惹きつけてやまない。



「嵐は登山者の厳格な教師だ」と、登山家にして詩人であった大島亮吉は言っていた。

山に行け!

君がその憂鬱のすべてをばルックザックに入れて。

そしてこの青々と大気の流れる、明るい巌の頂きに登り来よ。

しかる時、いまや君の背負うその重き袋は、悦びのつまった軽き袋にかわり、心は風のように軽く、気持ちは蒼空のように晴れ晴れとほがらかになるであろう。













(了)






出典:日本山岳史
「谷川岳 近代登山の歩み」
posted by 四代目 at 22:06| Comment(0) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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